玉砕せよ ~沖縄戦~ 具志頭でのできごと

神戸新聞 シリーズ 戦争と人間より

 

第4部 玉砕せよ~沖縄戦

 4月28日を、沖縄の人は「屈辱の日」と呼ぶ。1952(昭和27)年のこの日、講和条約発効で主権を回復した日本の中で、沖縄は奄美、小笠原とともに米軍の統治下に置かれた。そして差別と屈辱の日々が始まる。沖縄は戦争中、国内最大の地上戦が繰り広げられ、民間人を合わせ20万人を超える命が犠牲となった場所でもある。洲本市の元陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は沖縄戦を戦い、所属部隊が壊滅する中で奇跡的に生還した。シリーズ「戦争と人間」第4部は片山さんの証言を届ける。名護から大里、識名(しきな)から具志頭(ぐしちゃん)へ。戦地を駆け回った片山さんは、69年前の激戦を振り返って言った。「肉弾戦でしたわ」(上田勇紀)

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沖縄への船中下った厳命

「お前らは玉砕要員だ」

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過酷な沖縄戦の体験を語る片山省さん=洲本市上物部(撮影・峰大二郎)

 

 4月28日を、沖縄の人は「屈辱の日」と呼ぶ。1952(昭和27)年のこの日、講和条約発効で主権を回復した日本の中で、沖縄は奄美、小笠原とともに米軍の統治下に置かれた。そして差別と屈辱の日々が始まる。沖縄は戦争中、国内最大の地上戦が繰り広げられ、民間人を合わせ20万人を超える命が犠牲となった場所でもある。洲本市の元陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は沖縄戦を戦い、所属部隊が壊滅する中で奇跡的に生還した。シリーズ「戦争と人間」第4部は片山さんの証言を届ける。名護から大里、識名(しきな)から具志頭(ぐしちゃん)へ。戦地を駆け回った片山さんは、69年前の激戦を振り返って言った。「肉弾戦でしたわ」(上田勇紀)

 

      ◇      ◇

 21歳だった。徴兵され、洲本から満州渡って9カ月が過ぎていた。44年9月。通信手だった片山さんは動員令で鹿児島に送られ、さらに行き先を告げられないまま船に乗せられた。

 「あちこちから集められた通信手ばかり、四、五百人はおったかな。夏服と九九式の銃をもらったから、これは南方だなと思った」

 

 冬服と三八式銃は中国大陸、夏服と九九式銃はフィリピンなどの南方と決まっていた。所属部隊は「球12974」といった。防衛省防衛研究所によると、正式名称は「独立有線127中隊」。電話線などを使って命令を伝える「有線通信手」の集団とみられる。ただ小規模だったため、行動記録は残っていない。

 

 片山さんが沖縄行きを知ったのは船の中だった。隊長が告げた。「お前らは玉砕(ぎょくさい)要員だ」

 「玉砕せよ。そう言うても、沖縄は日本の国やないかい。日本の国で玉砕なんてあるんか、と思うたね」

 

 沖縄まで3日ほどかかった。その間、米軍の空襲や魚雷による奇襲に備える必要があった。大砲の砲手を任された片山さんは、甲板で配置に就き、がくぜんとする。

 「大砲と違うんですわ。木やねん。立派な大砲を据えとるように見せてね。シートめくったら丸太ん棒ですわ。僕も、誰もおらんのは変やから、おるだけのこと。敵の目をごまかすため、こんな手をやるんかと思いましたわ」

日本軍は擬砲を大量に作った。

米国海兵隊 Marines look at dummy Japanese tank as dead Jap lies in foreground. / 偽装戦車に見入る海兵隊員。手前は日本人の死体 1945年 6月16日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

飛行場には手の込んだ藁の飛行機が置かれた。しかしこの程度では、米軍の鋭い写真解析班の眼を欺くことはできない。まったく労力に見合わない徒労である。

 

米国海軍: Dummy Japanese planes made of straw found on Kadena airfield, Okinawa, Ryukyu Islands. / 【和訳】 嘉手納飛行場で発見された擬装用のわら製飛行機。1945年 4月16日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 「船は那覇に着きました。暑いですよ。外国へ行ったような感じでね。赤い屋根とか石垣があって。ハブも出るし。でも沖縄県って書いてあるから、まだ日本や。那覇で船団でも組むんかと思たら、上陸してどんどん北へ行進していった」

 この年の7月、日本の委任統治領だったサイパンが陥落。沖縄は、米軍が次に侵攻すると予想される地域の一つだった。米軍の上陸まで、あと7カ月。「玉砕せよ」。命令の意味も分からないまま、片山さんは沖縄の土を踏みしめた。

 

空襲、見渡す限り穴だらけ

十・十空襲で変わり果てた名護の町

 1944(昭和19)年10月、洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)の所属部隊は、沖縄本島北部の名護に着いた。そして陸軍第32軍「独立混成第44旅団」司令部の指揮下に入る。

 

    ◇    ◇

 「兵としての訓練はたった1日だけ。木材の伐採を命じられ、50人ほどで毎日、山に入りました。自然壕(ごう)の補強に使う木ですわな。夜は部隊があった中学校の校舎に戻り、交代で不寝番でした」

 10月10日のことだった。突然、空襲警報が響き渡った。

 「グラマン(米軍戦闘機)がひっきりなしに来る。数なんて分からんかったです。『ドーン』とでも言うんかなあ。1発や2発やないから、口で表現しようもない。みな山の上へ上がってね。ただ見とるだけです。何もできん。とにかくね、見渡す限り穴だらけやな」

 この日の空襲は、後に「10・10空襲」と呼ばれる。片山さんにとって、初めて体験する空襲だった。「沖縄方面陸軍作戦」(旧防衛庁防衛研修所戦史室編)によると、朝から夕にかけて計5回、のべ1030機の米軍機が来襲。陸海軍218人、民間人330人が死亡。家屋1万1451棟が全焼・全壊した。

 「きれいな街、という印象だった名護の街は変わり果ててしまって。民家なんかつぶれてね。住民はもう家を建てるのを諦めて、それきり壕に入って生活しよったわね」

 年が明けると、片山さんの耳にも「アメリカの上陸が近い」という情報が入ってきた。所属部隊は首里に近い大里へと南下。米軍が本島南部から上陸した場合に備えての移動だったという。

 「そのころ、那覇商業の生徒が部隊に入ってきた。軍事教練も受けとらんのに、戦闘に参加するんやから。当たり前やけど、道案内くらいにしか役に立たんかった」

 記録では、45年3月、那覇商業(当時の那覇市立商工学校)の生徒が第44旅団に陸軍2等兵として入隊し、情報班に組み込まれている。ほかの学校でも、男子生徒は「鉄血勤皇隊」と命名されて陸軍部隊に、女子生徒は陸軍病院野戦病院に送り込まれた。その数は約2千人に上る。

 3月24日、米軍艦隊が艦砲射撃を開始。「鉄の暴風」と表現される本格攻撃の始まりである。4月1日には、陸上部隊が本島中部の読谷(よみたん)から北谷(ちゃたん)の海岸に上陸した。

 「玉砕命令の意味が分かったのは、それからでした」(上田勇紀)
2014/4/29 

 

弾の中 命令袋抱え走った

最低5、6人走れば誰かがつくと

 1945(昭和20)年4月1日、米軍が沖縄本島中部の西海岸に上陸した。洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は南部の大里にいた。

 「米軍が上陸したのはすぐ分かりました。『今、アメリカが上陸した』と伝令が来たからね」

 片山さんは部隊とともに識名(しきな)へ移動。通信手として識名と、陸軍第32軍司令部があった首里の間を往復する。

 「何度走ったか分からんです。識名で上官から命令をもらい、文書が入った命令袋を渡される。それを首里まで届けるのが仕事。どんな文書かは読んだことがない」

 通信手として教育を受けた満州では、電話線をつないで電話機を設置する「有線」の訓練を受けた。しかし、絶え間ない艦砲射撃で線はすぐに切れてしまう。一方、「無線」による通信は敵に解読される恐れがあり、あまり使われなかったという。

 「結局は人間が走るほかしょうがない。それもね、最低5、6人が同じ文書を持って走るの。途中でやられても、誰かは着くやろう、ということでね」

 米軍は圧倒的な戦力で本島を南下した。戦車を投入し、大砲で攻撃。その後、歩兵部隊が突き進む。海からの艦砲射撃もやむことがない。追い込まれた日本軍は、鹿児島の知覧(ちらん)基地などから特攻作戦を開始した。

 「特攻隊は毎晩のように来て、肉眼でも見えました。でも米軍艦隊はそれこそ、海が黒くなるくらい来とる。そこからどんどん撃ってくる。ひっきりなしに撃ってくる」

 鹿児島県の知覧特攻平和会館によると、本格的な特攻出撃は4月6日に始まった。250キロ爆弾を装着した戦闘機で、艦船などに体当たりする。作戦による死者は1036人。その9割が、艦船に当たる前に撃ち落とされたとされる。

 米軍の南下に伴って、片山さんの任務も危険が増していく。

 「どこで、いつアメリカ兵と出くわすか分からん。とにかく弾の落ちるところを避けて通るしかない。戦況の悪化は分かってたわね、口では言わんけど。日本軍は日に何十人と死んでいく。減ったら減ったままですよ。アメリカ軍は10人やられたら、その倍、3倍と補充してきた」

上田勇紀)
2014/4/3

 

隊長がたばこをくれてね

300人以上いた部隊はこの時、数十人に

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片山省さんは戦後、具志頭を再訪し、かつての陣地跡を捜した=洲本市上物部(撮影・峰大二郎)

 

 1945(昭和20)年4月、洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は通信手として、沖縄本島南部の識名(しきな)から、陸軍第32軍司令部のあった首里への伝令を続けた。

 「そらもう、危ないいうようなもんじゃないですよ。通信手は歩兵より命を落とす率が高かったかもしれん。弾の中を走り回るんやから。当たらんほうが不思議なくらいよね」

 「朝起きたら点呼とって、伝令に出て。夜の点呼になると、朝いた人数がおらんわけです。返事がなかったら『やられた』と。誰がおらんいうのは、いちいち調べない」

 

 片山さんも弾の破片が当たり、左足のすねに傷を負った。歩けないほどの傷であれば、負傷兵として戦線を離脱することになるが、かすり傷だったため任務を続けた。

 「食事時間なんて全然ないです。2、3日全然食べんこともありました。水だけです。野原を走るときに、サトウキビの根っこを剣で掘り返して、かじるんですが、それすらなかった時も多かったからね」

 

 5月末、米軍が首里を占領。第32軍は牛島満司令官以下、司令部ごと最南部の摩文仁(まぶに)へ移動した。片山さんの部隊も識名から具志頭(ぐしちゃん)へと後退した。「沖縄方面陸軍作戦」(旧防衛庁防衛研修所戦史室編)に、6月10日の具志頭周辺の戦況報告がある。「守兵ハ飲料水、食糧及弾薬ノ欠乏ニ苦シミツツ岩石地帯ノ不完全ナル急造蛸壺(たこつぼ)ニ拠リ熾烈(しれつ)ナル砲爆撃下善戦敢闘ヲ続ケ…」

 

 編成時に300人以上いた部隊はこの時、数十人になっていた。片山さんがいた「1班」には、フクダという初年兵、地元で召集された学生たち2人を合わせ、4人しか残っていなかった。

 「6月17日だったと思います。隊長が兵を集めて、『総斬り込みを行う』と告げましてね。斬り込みは手りゅう弾や爆雷を手に、敵の陣地に奇襲攻撃をかける『決死の手段』やった」

 

 片山さんは死を覚悟した。だが、決行直前になって「1班は残れ」と指示された。

 「隊長がたばこを1本くれてね。そんな時にたばこなんて夢にも思わんかった。これまで一度もなかったことやから、へえと思て」

 1班には、とんでもない任務が待っていた。

上田勇紀)
2014/5/1

 

負傷兵小屋に手りゅう弾

命じられた、負傷兵の小屋の「後始末」

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「後始末」について語る片山省さん=洲本市上物部(撮影・峰大二郎)

 1945(昭和20)年6月、沖縄本島南部の具志頭(ぐしちゃん)。決死の総斬り込みに向かう直前、洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は隊長に呼び止められる。たばこを1本。そして特別な任務を命じられた。「全部、後始末しろ」

 命令を言い渡した隊長は数十人の部隊を引き連れ、陣地を出て行った。残されたのは1班の4人。片山さんとフクダという初年兵、現地で召集された学生と防衛隊の隊員。階級は片山さんが一番上だった。

 すぐに「後始末」の意味を理解した。

 「集落の外れに、負傷兵を集めた小屋があったんです。僕はそこへ行って、手りゅう弾を投げ込みました。小屋の中に何人おったか、生きとったか死んどったか、なんも分からんです。とにかくアメリカに捕まって、情報を流されたらあかん。そういうことです」

 「迷いはなかったですな。隊長に言われた命令をこなさなあかん。何も残したらあかんと。それだけを考えていました」

 米軍の激しい砲撃のさなかで、手りゅう弾の爆発音は聞こえなかった。陣地に戻ると、フクダが無線機などを壊して回っていた。陣地の入り口に、腰を撃ち抜かれて動けなくなった兵が1人いた。

 「同じ部隊で、東北出身のイナムラという男でした。『静かなところへ連れていってくれ』。イナムラは僕を見て、そう頼んできた。静かなところ言うても、そんなとこないから、仕方なく山の陰にしゃがみ込んだ」

 「イナムラの腰から手りゅう弾を外して、地面にぽん、と置きました。『これ、置いとくで』と言うと、『うん』と。最期は見てません。自決したはずです」

 「けがをしたら治療はないんです。誰も助けてくれへん。ついて来れるならついて来い、ついて来れへんかったら、そこでおしまい。それが沖縄戦でした

 山の上に米兵が見えた。声が聞こえるほどの近さだ。斬り込みは失敗に終わったのだろうか。指揮を仰いでいた独立混成第44旅団司令部が摩文仁(まぶに)にいると聞いていた。「行こう」。片山さんは、フクダら3人を引き連れて、歩きだそうとした。

 ところが、フクダが首を横に振った。「ここに残る」。フクダはそう言って聞かなかった。

上田勇紀)
2014/5/2

 

僕はひとりぼっちになった

南下する日本軍、見捨てられる住民

戦後、摩文仁に建てられた「平和の礎(いしじ)」。花が絶えることはない=沖縄県糸満市摩文仁(撮影・峰大二郎)

 具志頭(ぐしちゃん)の陣地の「後始末」を終えた洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は、フクダという初年兵と現地召集の学生たちを連れ、沖縄本島最南部の摩文仁(まぶに)へ向かおうとした。背後から米軍が迫っていた。

 

1945(昭和20)年6月17日ごろのことだ。

 だがフクダは「ここに残る」と言った。片山さんは無理に連れて行こうとはしなかった。

 「軍事教練を受けた満州時代から一緒で、同年代の男でした。フクダは日本の負けを感じていたんやと思うんです。自決しかないと思たんやろう。僕はそのとき、まだ諦めてなかったから、フクダを残し、学生らを連れて南へと急ぎました」

 

 「のどが渇くと、砲撃でできた水たまりで泥水をすくって飲みました。摩文仁に着いたのは、確か昼ごろです。もう建物も集落も何もない、野原みたいになっていてね。左手は断崖で、海が広がってましたわ」

 どこを捜しても、指揮を仰ぐつもりの独立混成第44旅団司令部が見つからない。「沖縄方面陸軍作戦」(旧防衛庁防衛研修所戦史室編)の記録では6月18日、第44旅団司令部をはじめとする残存部隊が確かに摩文仁周辺に集まっていた。しかし戦力はほぼ尽きていた。

 

 「出会うのは住民ばかり。『兵隊さん、連れて行って、連れて行って』と何度も頼まれた。子ども連れとか、お年寄りとかね。兵隊がおったら安心するんかね。でも足手まといになるから、全部断りました。兵隊には兵隊の仕事があるから。住民がその後どうなったかは、分からんです」

 

 「沖縄県の歴史」(安里進氏らの共著)によると、戦闘を逃れた多数の民間人が南部一帯に殺到し、自然壕(ごう)や墓地に身を置いていた。そこへ南下してきた日本軍の残存兵が合流し、住民を強制的に追い出したり、食料を強奪したりする事態が頻発した。

 「両手を挙げてアメリカに助けを求める住民も多かった。僕は一緒にいた学生ら2人に降伏を勧めたんや。『あんたらは兵隊と違うんやから、行ったらどうや』。そしたら、『はい、行きます』いうて。そこで別れました。とうとう、僕はひとりぼっちになってしまった」(上田勇紀)
2014/5/3


アメリカの捕虜になった

摩文仁の絶壁で捕虜になる

収容所に集められた日本人捕虜を監視する米軍兵=1945年6月20日、沖縄県(県公文書館提供)

 洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は沖縄本島最南部の摩文仁(まぶに)で、海を望む絶壁に座り込んだ。背後に米軍、眼前に海。片山さんが沖縄へ向かう船の中で「玉砕命令」を受けてから9カ月が過ぎていた。

 「摩文仁で2、3日、じっと考えました。捕虜になるか戦うか。兵隊にしたら、一番情けないことは捕虜になること。それでも、自決は考えらんかった。負傷していたら別やろうけど。自決するくらいならアメリカ兵に向かっていくわね。どうすべきかいな、どうすべきかいな…」

 

 1945(昭和20)年6月23日、陸軍第32軍の牛島満司令官が摩文仁で自決した(22日との説もある)。すでに海軍の部隊は壊滅しており、沖縄での日本軍の組織的戦闘は終わりを告げた。

 ただ、牛島司令官は死に先立って「既に部隊間の通信連絡杜絶(とぜつ)せんとし軍司令官の指揮は至難となれり(中略)最後迄(まで)敢闘し悠久(ゆうきゅう)の大義に生(い)くべし」との命令を下していた。このため、断続的な戦闘は続いた。

 「沖縄本島の北へ逃れれば、アメリカは少ないはずや。そこから本土へ向かう手段はないやろか。でも、海を何十キロも泳がれへん。それで思いついたんは、いったん捕虜になってから逃げたろうと」

 

 「捕虜になったら殺されるかもしれん。一番の心配はそれやったですよ。でも、心配してても前に進まない。やられようと助けられようと、向こう次第やと覚悟を決めた。アメリカに無抵抗で近づいていきました」

 

 多くの戦友が命を落とし、ひとりぼっちになった片山さんは摩文仁で米軍に投降した。

 「すぐにアメリカに手りゅう弾を没収され、トラックに乗せられました。荷台は日本兵で満杯でした。そして、屋嘉(やか)の収容所に着きました」

 「全員まとめて柵の中に放り込まれて、夕食にアメリカの携帯弁当を渡されました。缶詰、ビスケット、あめ、チョコレートね。そういうのが一つになっているの。たばこも3本付いていた。『ああ、こんなにいろんなものが入っとんのか』って思ったわね」

 片山さんの長い収容所生活が始まった。

上田勇紀)
2014/5/4

 

兵隊に行くのが当たり前

ずっと勝ってると思ってた

 

淡路実業学校時代の片山省さん(前列右から2人目)。ユニホーム姿で野球を楽しんだ=1937年ごろ、淡路市

 

 沖縄戦の話をいったん置いて、洲本市出身の元陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)の生い立ちをたどりたい。

 片山さんは1923(大正12)年3月、小学校教諭の父京一、母花子のもとに生まれた。8人きょうだいのうち、姉2人に続く長男である。幼いころから野球が大好きで、仲間と打ち込んだ。洲本第三尋常小学校(現・洲本第三小学校)に入学し、1度腸チフスを患ったものの健康に育ち、淡路実業学校(現・淡路高校)に進んで寄宿舎に入った。

 

 「いつのころからやったかな。それまで野球するときにはストライク、ボールと言うてたのが、急に『いい球』『悪い球』と言え、と。アウトは『あんたおしまい』『駄目』とかね。敵性語廃止でね。そういう指導があった。とにかく、日本語ではっきり言えと」

 実業学校卒業後、40年4月に尼崎市の製鋼会社に就職した。翌年12月、日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まる。

 

 「会社の先輩もたくさん軍隊に取られていった。召集令状が来たら、『行ってきます』とあいさつして出て行く。召集されんかったら人間として扱われん。国に奉公せんような人間は、一番カスという雰囲気やった」

 「兵隊行くのが当たり前やったからね。嫌とかいう気持ちはなかった。そこから逃れることは、100パーセントないと思うてたね」

 

 43年夏、二十歳になった片山さんも洲本市の公民館で徴兵検査を受ける。そして、最も評価が高い「甲種合格」とされた。

 「検査は友だちと一緒に『行こか』いう感じで受けに行った。身長体重や病気があるかないかとか、いろいろ調べられて、最後に甲種合格のはんこを押された」

 

 「これで当たり前やなと思った。戦場へ行けたら、うれしいくらいの気持ちやったですわ。ラジオでも新聞でも、日本が負けてるとは言わん。ずっと勝ってると思ってたからね」

 この年、米軍の攻撃により日本軍は、ソロモン諸島ガダルカナル島から撤退。太平洋上の島々で戦闘が激しさを増していた。

 「はよう戦場へ行こうや、と。覚悟はできてました」

上田勇紀)
2014/5/5


父は「元気で行ってこい」

淡路島から満州

 洲本市の片山省(しょう)さん(91)は1944(昭和19)年1月、徴兵検査に合格して陸軍に召集され、古里の淡路島を離れた。

 「何も特別なことはなかったね。前日の夜に何を食べたのかも覚えてない。送別会もなかった。ただ、家族や親類が集まってくれてね」

 「おやじは『元気で行ってこい』とだけ、言った気がする。自分だけやなくて、大勢が一緒に行きよった。洲本の船着き場では、あちこちで『万歳、万歳』の声がした。音楽隊もいて、にぎやかやったね」

 

 船で神戸まで行き、旧国鉄に乗り換えて広島の宇品(うじな)に向かう。到着したのは1月10日だった。

 「同い年くらいの若者が大勢集まって、軍服とか帽子とかを全部そこで受け取った。そこから捕鯨船に乗り込んだんです」

 

 船は釜山(プサン)に着いた。そこで予防接種を受けて軍用列車に乗った。部隊はほとんどが兵庫県の出身者だった。

 「同級生とか顔見知りもおりましたから、ちょっと話をしたりしたね。満州までは5日ほどかかった。覚えとるのは、今の北朝鮮に入ったくらいのところでね、リンゴがいっぱいなっとるの。真っ赤なリンゴ。列車の窓から見えた。なぜかそればっかり、記憶があるわね」

 

 軍用列車が北へ進むにつれ、気温が下がっていくのが分かった。ソ連との国境近くに到着したときは、氷点下30度に近かったという。雪は降っておらず、あたりはしんとして、凍り付いたようだった。

 「ほらもう、淡路とは全然違うですね。でも、もう覚悟してるから。満州は寒いと。そこに軍用トラックが迎えに来た。30台ぐらいあったかなあ。イロハニホと5隊あるうち、僕はイ隊に入りました」

 

 トラックを降りると、広大な敷地に平屋の兵舎がずらりと並んでいた。初年兵は1棟につき25人ずつ入れられた。体を伸ばすのがやっとの寝台に、わらを詰めた布団が置いてあった。

 「3日間はお客さん扱いでした。何もせずに食べさせてくれるの。4日目からやね、軍人精神の注入が始まったのは」

上田勇紀)
2014/5/6

 

初年兵は毎晩どつかれた

軍隊内の暴力

満州で初年兵教育を受けていたころの片山省さん(前列右)=1944年

 1944(昭和19)年1月、洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は満州に到着した。4日目から厳しい初年兵教育が始まる。

 

 「起床、食事、就寝。全部ラッパで動くの。それぞれに曲が決まっていてね。みな勝手に歌詞を付けて覚えてました」

 「起床ラッパは『起きろ 起きろ みな起きろ 起きないと班長さんに怒られる』。食事ラッパは『兵隊さんのおかずは梅干しにらっきょ たまにはくじらのライスカレー』。就寝ラッパは『新兵さんはかわいそうだね~ また寝て泣くのかよ~』というふうに。今でもすぐに曲と歌詞が出てくるわね」

 

 入ったばかりの初年兵には、1年先輩の2年兵が教育係としてついた。起床や食事で遅れはないか。反抗的な態度はないか。常に監視役として目を光らせていた。

 「就寝前に毎晩どつかれた。殴られんことには眠らしてくれない。軍隊のしきたりやね。一日訓練を終えて、良くても悪くても殴られる。理由は『態度が悪かった』とかいろいろや。必ず5、6発はくるわな。やっぱり軍隊やなあと思った」

 

 「食事でもね、みそ汁を飯にぶっかけて、急いで食べる。とにかく人より遅れたらあかんですよ。古い兵隊は一口ずつゆっくり食べるけど。僕らは何もかも競争ですよ」

 訓練は銃を担ぎ、隊列を組んで歩く「練兵」が主だった。足をそろえ、広い練兵場を何時間も行進した。

 

 「満州に来て半年たった7月に試験がありました。今までやってきたことを全部やらされてね。それで有線通信手に任命されました。そこからは通信手専門の訓練。赤白の旗を使う手旗信号やモールス信号を覚えてね。あとは、走って電話線をつなぐ訓練が主でした」

 

 間もなく、部隊に動員令が掛かる。約600人がフィリピンの戦地へ向かった。残された片山さんらは沖縄へ。「玉砕命令」を受け、地上戦にまみれることになる。苦しかった満州での初年兵時代が、平穏だったと思えるほどに。

 時計の針を進め、沖縄戦の話に戻りたい。45年6月、激戦を生き抜き、沖縄本島最南部の摩文仁(まぶに)で米軍に投降した片山さんは、屋嘉(やか)の捕虜収容所にいた。(上田勇紀)
2014/5/8

 

脱走「死んでもともとや」

負傷兵の「後始末」を命じた隊長と再会

 1945(昭和20)年6月末。沖縄本島の屋嘉(やか)の捕虜収容所に、洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)の姿があった。7月に入り中部西海岸の収容所に移される。広い敷地に数多くのテントが張られ、その中で眠った。

 毎日、新たに捕虜になった日本兵がトラックで送り込まれてくる。知り合いはいないか。片山さんは柵にへばりついて、見知った顔を捜すのが日課となった。

 「そしたら、隊長を見つけたんですよ。具志頭(ぐしちゃん)の陣地で、斬り込み前にたばこをくれた隊長を。僕に『後始末』を指示した人やね。もうびっくりしたですよ。向こうも『片山、生きとったか』って言うてね」

 隊長は、熊本県出身の前田という中尉だった。片山さんが収容所で、同じ部隊の人と会った最初で最後の出来事となる。

 「ほかの兵隊がどうなったかは聞きませんでした。でも、生きていれば出会っているはずや。まさか隊長だけ生きてるなんてなあ。斬り込みの途中で負傷して、アメリカの治療を受けたらしい」

 隊長ら将校は別の場所に移され、話す機会はほとんどなくなった。そして8月15日。終戦は米軍の空砲で知った。

 「僕らは最初、日本軍の特攻隊がやって来たと勘違いしました。アメリカ軍が祝砲を上げてたんですな。それで、負けたと知りました」

 戦後も捕虜生活は続いた。野菜の栽培やごみ捨てなどの作業をこなす日々。捕虜になって1年になるころ、片山さんは意を決して脱走を図る。

 

 「ずっと捕虜になった負い目があったです。だから逃亡を狙った。日本軍なら、捕虜が逃げて捕まったら銃殺ですよ。アメリカやったらどうするやろか。それをじっと考えたね。けど、そんなことでは逃げられへん。死んでもともとや。外に作業に行ったとき、監視兵が昼食に行っておらんかったんですよ。そこで逃げたんです」

 山の中をさまよい歩いていると、嘉手納(かでな)の飛行場に出た。すぐに米軍の車両に取り囲まれた。逃亡から2日もたっていなかった。

 「2週間、水だけ。昼間は立ったままで、夜になってやっと座らされた。それが罰でした」(上田勇紀)
2014/5/9

 

家族にも話さなかった

繰り返した収容所での脱走 -「いつか命はない」

片山さんは屋嘉捕虜収容所から読谷の楚辺捕虜収容所に送られる。

摩文仁で捕まって、結果は屋嘉に連れて行かれた。北部に逃げるのも、屋嘉からやったら歩いても知れてはる、地理はわからんけど。その捕虜にも抵抗があったんよね、はっきり言ってね。具志頭の掘っ建て小屋にいたとき、とにかく捕まったらいかんからやってこい(手りゅう弾投げて殺してこい)と。捕虜になったらいかんと、そのために殺してきておるでしょう(編集者注 上官の命令で負傷した友軍兵たちを殺した)。そのやってきた人間が現在捕虜になって生きとると。その当時摩文仁へ行ってやね、よもやこんな捕虜になってこんなことになるとは夢にも思わんかったからね。これは「いつかは命はない」と。 

読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所 体験記

隊長命令で負傷兵の「後始末」をさせられたことは、一生消し去ることのできない心のトラウマとなった。

 1946(昭和21)年。洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は、沖縄本島捕虜収容所で脱走を繰り返した

 「結局、全部で7回逃げました。本土に逃げて淡路に帰るつもりでした。捕虜として帰るより、野戦から帰ってきたと思われたかった。自分ぐらいでしょう、それだけ逃げたのは」

 

 片山さんが復員し、古里の土を踏んだのは48年1月だった。沖縄県平和祈念資料館によると、47年2月までに日本兵の本土送還は終わったことになっている。しかし、片山さんはさらに長く収容所にいたと記憶する。

 「僕が一番遅かったです。みんな先に帰っていました。逃亡を繰り返したために、最後までおらされた。洲本の実家に帰ったときには、家族はみなびっくりしよったです。一度『生きとる』と、はがきを送ったことがあっただけやったから」

 

 「それでも戦闘状態から家に帰ると、すぐには落ち着かんもんです。毎日ただ、ぼーっとしとった」

 戦後、中学校教諭やタクシー運転手をして生計を立てた。小学校教諭だった恵伊子(えいこ)さんと結婚し、2人の子どもに恵まれた。

 「家族にもあまり自分の体験は話しませんでした。話したら、ばかにされるんちゃうかと。それに、えらい目をしたんは僕だけやない。淡路におっても、みんなえらい目をしとるんやから。それは一緒やから。あんまり、話はせんかったです」

 

 唯一、心置きなく沖縄戦について語れるのは戦友会の集まりだった。あの日々を生き抜いた仲間となら、夜通しでも話し込んだ。戦友会の仲間には、沖縄本島南部の具志頭(ぐしちゃん)で、負傷兵がいる小屋に手りゅう弾を投げ込んだことも打ち明けた。

 「仲間から『なんで日本兵日本兵を殺すんや』と責められたこともあったけどねえ。あのときは仕方なかった。そう言い訳するしかなかった」

 

 その戦友会も、かつては毎年、会合の案内が来ていたのに、近年は音信が絶えた。

 「もう、つぶれたのかな。いつも会を呼び掛ける役員が亡くなって、それきりです」

上田勇紀)
2014/5/10

 

もう一度、沖縄へ行きたい 

歩行器をついて、自宅前を歩く片山省さん。部隊でただ一人、今を生きる=洲本市上物部(撮影・峰大二郎)

 

 洲本市の元陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は9年前に妻に先立たれ、1人暮らす。おととし自宅前で転んでから、歩行器を使うようになった。

 「毎年、慰霊の日の6月23日には沖縄へ行ってました。それが、こけてからは行けてない。リハビリをして、生きているうちにもう一度、行ってきたいと思うんや」

 戦後、沖縄を30回以上訪れた。観光地には行かず、所属部隊の最期の地となった本島南部・具志頭(ぐしちゃん)や、自身が米軍に投降した摩文仁(まぶに)を巡った。

 

 「斬り込みで仲間が死んだことはよう忘れません。沖縄へ行くたび、手を合わせてきました」

 

 沖縄で日本軍は、住民を守らずに壕(ごう)などから追い立てた。現地で兵を召集し学徒動員を強いた。20万人を超す犠牲者のうち、約半数は民間人だった。沖縄の住民について語るとき、片山さんは長い間、沈黙した。そしてゆっくりと口を開いた。

 「沖縄の人は、本土の人をものすごい愛してたいうんかなあ。自分のことを『僕』いうのを、女の人までまねしてた。本土の言葉がきれいと思ってね。兵隊をかわいがってくれて、そうとうお世話になった。そらもう、間違いない」

 「沖縄戦が正しかったとは思わん。あれは、本土決戦ができるようになるまでの準備やった。それまで頑張れと。準備ができたら、もう負けていい。そんなんでしたからね」

 

 あれから69年たった。戦争はずっと心にある。

 「沖縄戦の場面が、今でも頭に出てきます。もう、こべりついてしもとるんや」

 

 片山さんは折に触れ、所属部隊の隊長のことを口にした。負傷兵の後始末を命じ、後に収容所で再会した、前田中尉である。

 

 「戦後だいぶたってから、中尉と会ったんですよ。熊本に旅行に行ったときに、この辺りやったなあと。こんなことはもう最後かもしれん、会いたいと思って、タクシーで突然、自宅を訪ねました」

 「収容所で会って以来やったけど、すぐに分かってくれました。向こうは驚いて声も出んかった。こっちも『お世話になりました』言うたくらいで。ごちそうになって。沖縄戦の話はもう、せんかったです」

 中尉は7、8年前に亡くなったという。中尉の妻からはがきで知らされた。部隊の記憶を刻む元兵士は、片山さんただ一人になった。(上田勇紀)

=おわり=

 

隊長命令で負傷兵の「後始末」をさせられたことは、片山さんの一生消し去ることのできない心のトラウマとなった。彼は何度も捕虜収容所から脱走し、楚辺捕虜収容所の札付きとなった。日本軍は、捕虜になることを許さず、撤退時に傷病兵を「後始末」しながら撤退した。手術のための麻酔はないのに、捕虜にさせないための、青酸カリ、手榴弾は十分にあった。

 

沖縄戦から生還して、自分が命じた、あるいは命じられた「後始末」について証言した人は少ない。片山さんはその苦しみと重さに向きあって証言されてきた。戦後日本に必要だったのは、こうした深い苦しみの証言を、積極的に聞き出し、記録することだったはずである。

 

放置してくれてさえいれば、ジュネーヴ条約にのっとって敵の米軍に保護され、米軍の野戦病院に送られて手術や治療を受け、生きて帰ることができたはずの多くの傷病兵たちは、こうやって、「友軍」によって「後始末」されて死んでいった。こうして「友軍」によって奪われた日本兵の命は、誰かが証言しないことには、報われないのではないか。

 

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