沖縄では、子どもたちが戦場に送りだされた。
中学の学徒兵だけじゃない。国民学校や、役場から呼び出しがかかって、よびだされ、十代半ばで兵隊にとられた。
護郷隊、それはスパイやゲリラ戦を展開するために、子どもたちを集めて鍛える秘密部隊だった。
戦場には、沖縄の10代半ばの少年たちも送り込まれた。ゲリラ戦に投入された少年兵の部隊「護郷隊」。16歳で召集された玉那覇さんは、狭い機関銃壕(ごう)を同世代の少年5人で守っていて、米軍の襲撃で2人の仲間を失った。
証言者プロフィール
1928年 沖縄県国頭郡東村に生まれる 有銘国民学校で学ぶ
1944年 第2護郷隊第3中隊に配属される
1945年 名護市田井等の収容所で終戦を迎える 戦後は建設業や漁業を営む
沖縄では10代半ばの少年たちが戦場に送り込まれた。少年ゲリラ部隊「護郷隊」。軍は最も危険な任務に子どもたちを利用した。
— 🍀にものつぶやき🐦 (@RhukyuCerberus) 2020年3月17日
玉那覇 有義さん|NHK 戦争証言アーカイブス https://t.co/iA8NBbPT7j
召集前の暮らし
僕らのばーはね、戦争の世の中であって、先生たちが勉強を教えない。戦争の話だけして、職員室に行って。だから農業の先生がいて、芋作って、切り干し作って兵隊に送ると言ってね、勉強は絶対させない。
Q:戦争の話をするんですか?
戦争の話、生徒のときからね、みんな戦争の訓練。生徒のばーから。
Q:戦争の訓練?
はい、それで、「一つ軍艦つぶした」言うてね、発表が来たら、ちょうちん行列いうてね、みんなちょうちん作って、部落全部回ってね、歌して。あんなしよった。
Q:おうちのほうは、お父さんお母さんというのは、どんなことをされていたんですか?
山、まき(薪)切ってね、那覇あたりに、割って、あれして、昔の船で運びよった。与那原に。
Q:お父さんたちが船を持っていたんですか?
いやいや。
Q:じゃあ山で木を…
山からあれして、船の……が買いに来よった。芋も作ってね、農業もしてね、親たちは。ごはんはあまりない。みんな芋。非常に貧しい。だから親が「勉強しなさい」という世の中でない。誰も言わん。
Q:優しかったですか、お母さん。
優しかった。僕は、きょうだい6名にね、男僕1人。……2人だが、非常にかわいがって、叱られることがない。わがままだったですよ、僕。(母が)叱らんからね。「勉強しなさい」言わなかった。行って、だいたい半日で学校終わるわけよ。そうしたばーは、うちはヤギもいるし、豚もいるし、これ、草刈って、毎日。こんな生活。
“少年”から“兵士”へ
(有銘国民学校を)卒業してから、伊江島飛行場に、青年隊、婦人会いうて、あったから、皆召集されてね、飛行場造りに。1か月、1か月、また帰って、また1か月。ちょうど10月、空襲があった、伊江島で。10月空襲終わったらね、すぐ護郷隊に令状が来たわけ。
ただ「召集が来てるから」言うて。召集というのも分からんぐらいの時代だからね。来て、(名護国民学校に)行ったらもう、軍服も、鉄砲も、何もかも準備されてるわけ。それでみんな教育だけ教えられてね。規則だけね。
Q:名護小学校に着いて、いろんなものが置いてあると。
置いてある。名前、自分の名前ね。ちゃんと置かれているわけ。銃も全部準備されているわけ。毎日銃の掃除。中をね、掃除するのがあるわけ。僕は、てき弾筒を撃ったわけ。てき弾筒いうたらね、そのぐらいのあれで、そのぐらいの長さ。弾が3キロ。これもう撃つばーに、耳がもう大変。こっちに綿入れてね、撃ちよった。
Q:ベッドの所に置いてあったんですか、そのいろんな服とか、銃とか。
そう。学校あるさね。みんな学校の、いっぱい。準備して、名前を書いて。
Q:全部ひとまとめになっているわけですか。
はい。
Q:そのときに初めて、軍隊に来たんだなっていうふうに。
そうそう。
Q:それを見て、どういうふうに思いました、その軍服とか銃とかが置いてあるのを。
これねえ、ちょっと……、おもしろい気持ちだね。ああ。何も、今の人のような、戦争の怖さが分からんから。非常におもしろい。
訓練と制裁の日々
死ぬということはね、死んだら神宮(靖国神社)に送るからと言ってね、喜ぶ気持ち、の教育されていた。
絶対怖くない。みんな死ぬということは分かっている。教えられている。また、死ぬということを、怖くない。この時代の若さだからね。若いばーはそうだったんだなと、今考えるけど。いつ死んでもいいという気持ち。今は怖いけど、全然怖い気持ちない。こんな教育されてるから。
♪「鍛えし腕(かいな)に銃(つつ)とりて 墳墓の地をば守るべし その名の我ら護郷隊」
これ。これ、だから護郷隊行った人に、分かる人がいないと言ったら、おかしいわけよ。
Q:みんなそれを習っているわけですか?
僕は、なんで、あんまり漢字も分からんでね、この、規則書いて、あっち貼るわけ。一晩で取る。「覚えただし」言うて。僕はみんな読みきれん。読む人がいるわけ、1人2人、大きい声出して。僕は聞いておって、早く覚えると。
覚えないと、コロされる(殴られる)から。
Q:覚えないとどうなるんですか、ちょっと 間違えたりすると。
コロす。ぶん殴る。「分かりません」言うたら、もう大変なほどぶん殴られる。「忘れました」言うたらね、いっぺんで済むけど。
「1人が悪い」って、「誰がやったか」言うてね、誰も発表せんから、みんな前列後列で、交代打ち方始め。それで、前列後列で打つ。弱い人は「こっち来い、模範示そう」言うて、体の大きい分隊長が殴るわけよ。大変よ、だから。
Q:そういうの、自分が殴られそうになったり殴られたり、あるいはほかの人が殴られたりするのを見ていると、有義さんどんな気持ちになりました?
これは、何という気持ち、もう考えきれなかったな。厳しい、あとからもう、大変だなと… あとから、殴られるのが怖かったね。戦争するのは怖くなかった。殴られるのが怖かった。
Q:そんなにひどく殴られてたんですか?
ああ、大変よ。分隊長と上等兵だから。同じシマ(ふるさとの村落)の人よ。ぶん殴るわけよ。またあんまり殴らん分隊長もいるから、「僕が模範示そう」と、人のあれまでね、やる人がいた。
Q:名護小学校で受けたときというのは、実際にはどんな訓練をしたんですか?
訓練は、戦争するあれでね、やったり。「伏せ」とかして、「進め」とかしてね、やるさね。水があっても、こっちにやらんといかん。田んぼでも。横道あるからといって、こっちにあれしたらもう、コロされる。
Q:そうなんですか。
はい、そんな厳しさがある。それでまた、山よね、上陸したらみんな分からんといかんということで、みんな山おった。調べてね。一晩中泊まって、また帰ったりして、しよった。
「一人十殺」
「十名殺したら、死んでもいい」と。「十名殺したら、日本勝つから、十名一人に殺しきれなければ、日本負ける」と言いよった。上の隊長が。それで、「いつかはね、戦争負けたばーは、恩納山で僕らが殺されて、この血の流れでね、川になるでしょう」と言った。「十名殺したら死んでもいい」と言った。
Q:アメリカ軍が上陸してきたというときにはもう恩納岳にいたんですよね。
そうそう。恩納岳から、上陸しているから言うて、石川岳まで行ったわけ。
Q:アメリカ軍がいよいよ上陸してきたぞと聞いたときは、どんなふうに思いましたか?
だから、一応、上陸やっているから、見てみようということで、行ったんだから。
Q:怖くなかったですか、いよいよ敵が。
いやいや、怖くない。もう頭も、何考えていいかな、というぐらいのやり方ね。みんな。
夜行ったわけ。それで朝になったらね、アメリカの兵隊が、いるわけ、いっぱい。それで、部隊長が、「一人十殺。突撃ね」言うわけ。それで、突撃するバカはいないよ。行かんばー、鉄砲で殺されるのに。
この木の葉がまたじゃらじゃら落ちるぐらい、弾来るわけ。それから艦砲も来るわけ。それで、艦砲が止まったら、あっちは進んで、こっちもう来てるわけ。こんなやりかたしよった。だいたい畳1つに1発、戦車砲がね、来よった。僕ら壕(ごう)を作って入っているけど、壕の上にも落ちるけど、大丈夫だった。上にしか破裂しない。下には力がない。だから僕ら生きてるわけ。この壕から少し出してね、てき弾筒を出して撃つわけ。
Q:ああ、そうなんですか。
うん、そんでこっちに上陸したから、もうみんな、手りゅう弾もなんもかんも投げて、みんなもう、「ダメ、逃げる」言うてね、逃げたわけ。僕はてき弾筒を捨てて、逃げた。鉄砲だけ持って。
Q:捨てて逃げたんですか?
捨てた、もう。
Q:大丈夫なんですか、それで?
だから、隊長がね、「取ってきなさい」言いおった。取りにも行かれんの。あっちはみんな、いっぺんで上陸して、下にまた、僕らが逃げるところに弾撃つんだから。木があるからね、あんまり当たらんわけよ。死ぬ人もいたね。まっすぐ歩いて逃げる人は。だから、(死体を)踏んだりしてね。自然と、内地の人はね、上陸した時期、自決する人がいたね。もう負けるということが分かっていると僕は思うわけ。それで、負けたら、悪い殺され方させるというて、死んだと思うわけ。もうあっちこっちでね、内地の人は。石川岳に行ったば-は、僕もね、……。別の護郷隊は出ないで、兵隊が。「あんたも来なさい」「イヤ僕おしっこしてきよる」……、逃げた。こんなんして自分で死ぬことは、やらなかった、僕らは。
Q:自分で死ぬのはやらないんですか。
できなかった。しかし中間に、石川岳から来るまでに、5名川に並んで、兵隊が、内地の人が死んでいるわけ。また1人はそばに、小さい山に、こうしてね、切腹して死んでる。これは、それはもう、分かるさね。たくさん……が。こんな人だった。これ……の人であるわけよ。殺されると分かっているから、こんなんする、切腹するわけ。
“子ども”を利用した作戦
Q:アメリカ軍が上がってきたときというのは、その上官は有義さんにどんなことを命令したんですか、最初は?
僕は斥候(偵察)行かされたわけよ。アメリカ(兵)が、金武にね、テントを張ってたくさんいるから。「着物つけて、行ってきなさい」言うて。子どもみたいような感じで、僕は(アメリカ軍の)兵隊にくっついて、タバコもらったり缶詰もらったりね、したわけ。
Q:着替えたほうがいいんですか。
着替えないと殺される。すぐ殺される。着替えないと。軍服つけたらすぐ殺される。
Q:アメリカ兵に?
はい。
Q:逆に着物を着てたら…
ああ。一般の子どもと思って。だから、これ分かっているから。
Q:斥候のときには必ずそういう格好で。
そうそう必ず、はだしで。はだしよ。
Q:それは1人で?
僕1人。
Q:そういう命令を受けた時というのは、どういう気持ちですか?
子どもみたいな感じで、僕らは兵隊と感じてないと思ってね、行くわけよ。
Q:怖くないですか、それ言われて。
怖い気持ちは、まだ考えられなかったな。アメリカ(兵)が、僕によくしよった、また。行ったらよ、一緒に話して、「ベイビーベイビ-」言うて、僕にね。子どもの扱いして。あんなんしよった。タバコもらったりね。
Q:山から下りて行って、アメリカ兵はたくさんいたんですか、そこは。
ああ。テントがあるから、このテントに4名ずつ寝ているわけ。あっちこっちに。
Q:そんなに敵兵がたくさんいる中に、有義さん1人で入って行ったら、どんな気持ちなんですか、そのときはやっぱり。
いやあ、着物つけてるから大丈夫と思ってね。また分からなかったらしい、アメリカも。子ども言うて。後からはね、分かったらしいな。子どもまで兵隊にいるということをね。後からアメリカに聞いたら、分かったらしい。
Q:そのときはまだ分からなかったんですね。
分からなかったらしい。
Q:アメリカ兵は優しかったですか?
非常に優しい。もう、悪いことは絶対、手をあげたら絶対殺さん。日本だったらみんな殺すさね。これ考えたら、アメリカは進んでいるなあと考えるね。世の中。
Q:アメリカの人と話しながら敵の基地の中を観察したわけですね
そうそう。だからアメリカはこんな優しいがあるわけ。
Q:命令とはいえ、昼間会って、タバコをくれたり缶詰をくれたりした兵隊の所にてき弾筒を打ち込むのって、つらくなかったですか?
いやこれは、命令だからね、やるわけよ。150メートルぐらい離れて、山に、目標、竹立てて。この目標は、「こっちに目標、あんたがやりなさい」言うてね、機関銃は。てき弾筒も。それで弾薬隊は、ドラム缶ね、1000ぐらい、……るわけよ。これをね、爆発させたわけ。いっぺんでは爆発しない、1つずつ。ポン言うてね、昼のようになって。1つずつあれして、朝までやっておった。だから昼のようになるから、弾撃ちやすいわけよ、僕らは。持っているだけの弾を撃って、逃げたわけ。僕は60発撃ったんだがね。
伝えられなかった幼なじみの死
Q:(幼なじみの)伊佐常正さんはそんなに体弱かった。
弱かった。
Q:同じてき弾筒部隊にいても、大変だったでしょうね、ずっとついて行くのが。
そうですね。ぼくは、何でてき弾筒をさせたかと、これも分からん。人の体で見るはずよ。鉄砲もてき弾筒も持つわけよ。6キロぐらいあるからね、銃も。てき弾筒は6キロぐらいあるわけ。弾はまた3発。1つに3キロだから、三三が九、こっち(腰)に付けるわけ。残りもこの人がまた持つわけよね、そのぐらい。
Q:伊佐常正さんは体はでかかったんですか。
いや、小さかった。
Q:常正さんはバンバン撃つ間に……
撃つばーに出て、やられたわけ。
Q:常正さんはずっとけがをしたままずっと一緒にいて。
はい。もう、こんな人、大変。
Q:それで、常正さんはその後どうなったんですか? 助かったんですか?
常正ね? だから、タニュー岳(多野岳)までは僕が連れてきた、一緒に。分隊みんな一緒に連れてくるわけよ。だから向こうから僕、斥候行かされた。
僕が斥候行ったばに、「お母さん所行って、砂糖持ってきてくれね」と言いよった、僕に。あの夜死んだだし。
Q:「常正さんが死んだよ」というふうに聞いたときって、どう思ったんですか?
これは、絶対言いきれん。向こうの親にね。死んだよということを、戦死したこと、絶対言いきれん。別々に別れて、分からんとしかできん。誰でもこう言った、きっと。戦死したというあれは、絶対言えない。言いきれん。
なぜ沖縄で
護郷隊で亡くなって、うちがもうつぶれた人、たくさんいるわけ。後する人がいない。だからたくさんうちあったけど、みんな僕らの所、うちなくなってるよ。これ、後する人がいないさね。
戦死しなければ、ちょうど僕のように、妻、子もたくさん産んでいたかなあと。今考えるね、たまに。たまに考える。この、部落のうちが少なくなるからね、それを考えたばーは、これも考えられるわけ。前はたくさんいたわけよ、うちも。今は那覇から来ても、シマにね、たくさんいるわけよ。こっちの地元の人は、あんまりいない。みんな那覇から来て。知らん人が非常に多い。
Q:有義さんはそれだけ、逆から言うと、たくさん子どもも孫もできて。
そうそう、これ考えたらね。ああ、死んだ人、あんた、かわいそうだなと考えるね。
Q:護郷隊って、ふるさとを守る部隊で、戦って、一生懸命戦ってね、それで最終的にふるさとが自分たちで守れたと思います?
それは思わない。守りきれん。何で守りきれん言うたら、こんな大砲もない、沖縄に上陸したら、もう、どこの島でも負けですよ。勝つところはない。上陸させたら。
いちばん考えるのはね、なんで日本は、沖縄にね、兵隊もあれして、戦争させたかと。こんなんしたら、もう、負けることも分かるんだが、なんでこんな、降参やればいいのに、ということをね、考えるね。沖縄にも、日本の兵隊も…来てね、戦争させて。またそれも考えるね。
僕らがやったことをね、後に残して、若い人たちにね、分かってほしいと、これは考える。そうでなければ、できない。
Q:やっぱ、分かってほしいですか?
そうそう。分からんことには、戦争、簡単にやるからね。戦争していかんなあということは、みんなに分からさんといかん。
こんなして、苦労してきたんだ、僕ら。誰が僕らを召集したか。終わってから、ありがとう、と言う人もいない。戦死してただけで……あれがあって、生きた人には何もない。これが言いたいよ、僕は。ありがとうだったねえ、というね、国から、ひと言もらいたいね。日当もないで。そういうことにおいては、うちの人を苦労させるからね、僕らが兵隊に行ったら。みんな苦労して。だからこれが言いたいわけよ。(数え年の)17よ、17の歳。
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