百名収容所 孤児院

 

 

孤児ジーマグワー屋敷に孤児たちが集められているという話を聞き、泉へ洗濯に行きながら覗いてみた。皆、まる裸で、頭から身体中白い粉がかけられていた。聞くところによるとノミ、シラミ退治のためとか。子供達の顔は生気はなく痩せ細り、顔にとまっているハエさえも追っぱらうことも出来ぬ程衰弱していた。親とはぐれ、飲まず食わず恐ろしい戦火の中をさまよい続けた子供たちの身の上を思うと想像を絶する。何とか助けてあげたい、勇気づけてあげたいと思った所で無力な自分にただ涙するだけ。息もたえだえの五歳くらいの子にヒザ枕をし、時々目を開いて兄の顔を見る三歳くらいの兄弟の姿は胸をえぐられる思いがした。幸い私の屋敷に大里出身の瑞慶覧さんという方がいて班長さんをしていたので、米の配給の残りを奥さんのカメさんが私の所へ持って来て、二人でおにぎりを作って持って行った。二、三歳の子にはちぎって口の中に入れてやっても噛む力もなく口からからこぼれ落ちる有様。あの時の愛しさ、悔しさ、悲しさをどう表現していいかわからない。ちゃんと食べれたのは三五人ぐらいのうち一○人はいたろうか。米軍の管理下で時々米兵が見回りに来るので急いで立ち去ったが、その夜は子供たち光景が瞼から離れず夜が明けるまでまんじりともしなかった。毎日のように米兵によって孤児たちが集められて来るが、二、三歳の幼児のほとんどが生きのびることは出来なかったようである。

終戦となり、生き残った孤児たちのため、立派なコンセット造りの家も建ち、院長さんのもと、世話役のおばさんたちもいて落ちついた暮らしが始まった。三、四年経ったろうか、孤児院は首里へ移動した。

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