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《『南城市の沖縄戦 証言編 (第2版) 』南城市 (2021年) 》
生死を分けた沖縄戦
新垣源勇
『南城市の沖縄戦 証言編 (第2版) 』南城市 (2021年)
ガマ洞窟を探しまわる父母
昭和二十年三月二十三日、米軍の空襲が始まった。当時源蔵の家族は十九年の十・十空襲で那覇市若狭町の家を焼失、妻ヨシの実家豊見城村渡橋名に移住していた。三男源勇は玉城村垣花で新婚生活をしていたが防衛隊に召集されて港川の部隊に入っていたので久手堅の二六家には孫一とマエヌの二人だけだった。
空襲後数日は屋敷内の壕に避難していたが、とうとう上原に壕を探して坂を登っていった。炊事用具を頭に乗せ食糧を担いでの歩くぐらいなんでもなかった。父が六十一歳、母が五十七歳だった。探しあてた壕は佐敷村と知念村の境界にあるイリゾーガマという大きな自然洞窟だった。中には山里ナカントの親戚の方が居られて食事等いろいろ助けてもらった。甥の源亀さんの家族もいっしょになった。源亀さんの妻のお産もあって母が助けてあげた。生れた女の子は勝子と命名された。五月下旬この壕を出て、久手堅の
家へ下りて行った。家は焼けて離れ(アサギグワー)だけ残っていた。カンザーガマの横の土手に隊長の壕があったのでそこを利用するつもりで貴重品はそこへ入れてあった。
五月二十八日雨が降り続いていた日、三男源勇が豊見城で負傷して帰ってきていっしょになった。五月三十日米軍知念半島に侵入してきたというので、垣花からヨシも久手堅に逃げて来た。それからまた久手堅にも米軍の侵入があり私たち四人と親戚の老人(ミーヤシキ・タカーハーメー)二人、六人で屋取(永吉家)へおりていって人骨の入っているお墓を開けて入った。墓から分散、キビ畑に入ってこれからどこへ行くか、唯とぼとぼと歩いていると知念の浜屋に来ていた。そこには憲兵も変装して二人来ていた。浜屋から上の知念への道路から知念へ戸板を頭にのせて捕虜になった住民がゾロゾロと米兵につれられて行くのが見られた。その夜は海の近くの岩の下で久手堅の若い女たち(下殿内の松吉さんの妹、当間の松助さんの妹)といっしょだった。当間の松助さんと二人で部落の様子を見に坂を登ったが足がぐらついて何べんも転んだ。明日には部落に帰って捕虜になろうと相談した。夜が明けその朝は大雨で川は水がいっぱいしていた。川をまたいで渡るのも苦労する位疲れていた。カンチヤ新垣の前の岩の下に濡れた毛布を敷いて休んでいると、字事務所前でアメリカ兵が住民を呼び集めていた。このとき始めてアメリカ兵の眼の青いのに気が付いた。二六の門の前に集められた住民十五人ぐらいがアメリカ兵につれられてワンジンの坂を下って安座真のウエータキの広場へ集められ、ここから佐敷村屋比久の避難民収容所へトラックで運ばれた。久手堅から来た人たちもいて父母もすでに来ていて安心した。
シュガーローフ - 安里八幡宮の壕
安里八幡のシュガーローフの激戦地で戦死した三女キミの遺骨をさがして
昭和十九年沖縄女子師範学校を卒業して久高国民学校に奉職していたが、昭和二十年二月上旬全島民の立退き命令が下りから久手堅の家へ帰って来た。三月下旬知念国民学校に駐屯していた独立混成第15聯隊井上大隊へ救護班要員として入隊した。医務室勤務していたが三月二十三日から佐敷村手登根上原のフナクブ洞窟に入った。わたしもフナクブの入口で呼び出し面会したが、父母のことは話さなかった。これが妹との最後の別れであった。井上大隊も四月二十八日那覇市壺屋へ移動して「5月16日」の全沖縄戦中最も熾烈な戦闘のあったと書かれている「シュガーローフ」「ホース・シュー」と呼んでいる安里八幡宮の高地で、馬乗り攻撃で壕の中を火炎放射でやられてた。終戦直後この壕をつきとめて、壕の中へ入ってみてわかった。
「泥と炎の沖縄戦」E・B・ストレッジ、訳外間正四郎、戦死者公報に五月三十日となっている。この安里八幡の壕の中に入っていた女子救護要員の方々は新里初子、新里千代、新垣キミ、漢那八重子の四人であった。終戦後、那覇市壺屋だけが入居を許可されていたが、漢那八重子さんの兄宮城久八巡査新里初子の父喜平。新垣キミの兄源勇三人でこの安里八幡の入口もそのま空いていた壕の中へ入ってみた。入口から五メートル位入ると脚を折り曲げ軍服に包まれたミイラになっている黒い遺体が数十人とおもわれる、黒焦げである。入口に女の衛生用バンドらしいものも落ちていた。臭気が強く奥に入ることはできなかった。遺骨は持ち帰ることはできなかった。
糧秣運搬の防衛隊員 - 駆りだされる住民
源蔵の戦死場所と遺骨収集
兄源蔵は豊見城渡橋名の壕から軍の糧秣運搬の防衛隊にかり出された。義弟の当銘武夫と瀬長徳栄の三人と組んで南部に糧秣を担いで移動しているとき、高嶺村、与座の高嶺国民学校の門前の道路で艦砲の破片が胸にあたって「ウン」と言っただけで倒れた。三人あわてて、道の側のイモ畑に浅く掘った穴に遺体を埋め、すぐに帰って妻ヨシに状況を話した。不意のしらせに気を失わんばかりだった。五月三十日の夜のことである。其後埋葬した場所に小さい板に名前を書きこんだ札を立てておいた。
終戦になり住民も自分の村に入った頃、家族で現地へ遺骨収集に行ったが、その畑はすでに大きな道路になってしまっていた。立札の割れはみつかった。とうとう源蔵の遺骨をお墓に収めることもできなかった。
二中鉄血勤皇隊
県立第二中学校は真和志村楚辺にあったが、昭和十九年十月十日の那覇大空襲で全焼してしまった。多くの者は九州各県に疎開して残った生徒は陣地構築に動員されていた。「長女の量子は宮崎に疎開させたが長男はなぜ疎開させなかったか、死人に口なし」。二、三年生の「特設防衛通信隊の試験合格者は昭和二〇年一月から暗号、無線、有線に分れて教育され、三月二十六日入隊式があり、第六十二師団司令部通信隊無線班に配属された。首里赤田の壕で一般兵とともに無線機による送受信、手廻し発電などの勤務のかたわら陣地構築糧秣受領などに従事していたが五月下旬首里の各陣地が占領されたので軍司令部は津嘉山を経て摩文仁へ転進するようになり無線中隊も六月上旬喜屋武村山城のまで辿りついた。師団司令部が喜屋武に下がったときにはすでに混乱状態になっていて壕を出て敵に突っ込んで戦死した。この記事は佐敷興勇氏の「沖縄戦と少年通信兵」金城和彦氏の「愛と鮮血の記録」を参考にしました。
1. 原文では昭和二十一年となっているが、ご家族に確認をとり事務局で修正を加えた。
屋比久の民間人収容所へ
終戦の頃 久手堅から屋比久へ
久手堅の部落にアメリカ兵が入ってきたのが六月上旬だっただろう。毎日のドシャ降りの雨もようやくあがり、溝はまだ泥水がとうとうと流れていたし、道はぬかっていた頃である。屋敷の裏山の岩の下にほりぬいてあった日本兵の壕には、私の卒業アルバムや家族の写真それに兄や姉の二中や一高女の成績表も混った、勿論私の二中時代の成績表もあった。戸棚の中の大切な品物がみんな壕の中にもちこまれていた。そこに米兵が部落に入りこむまで入っていたが、雨のドシャ降りの最後の日に花の妻の母がむこうはもう米兵が入ったということで久手堅まで逃げてきた。一晩あけて翌日の朝になるとやっぱしまた米兵におわれるしまつになったのである。
その朝は雨がはれ上がったくっきりとみどりがこくなっ台上から米兵の隊列が現れ旧海等兵舎の方向から部落に入った。一部は台上から私たちの走り廻るのをみて、寺山の中に連砲をブッ放したていどであった。
いよいよ部落の路地まで入りこんできた。私は旧字の事務所前に二人の米兵が立っているのをみたとたんに新里前の後の溝をとびこえて妻と二人で海岸へ坂を走りおりていった。そのとき私の兵たいのときからもってきた受嚢をそのの中へ落としてしまった。坂を走りおりてしばらくキビ畑の中で息をころして待っていた。このま、喜屋武方面へいくとかと話あったが、どうにかおちついたので海岸の濱屋へ出ていった。そこには知念の字民が集っていた。久三さん、武助さん文作君もそこにいたし皆竹やりをもっていた。
見知らぬ三十才ぐらいの母の背に一才の誕生頃の男の子髪はすっかり雨に濡れて目をパチパチさせておわれていた。その母が手榴弾を私に出して殺してくれとせがんだが、ことわった。その集りも知念の県道からうちおろす米兵の銃撃に散りぢりになり松助さんたちとその晩は岩の下でぬれた毛布にくるまってその夜をあかした。
その夜松助さんは私の家の年期奉公をして畑仕事一切をきりまわしていたこともあり、いわば私の兄みたいな親しい間柄であった。彼といっしょに行動しようということで、私の妻、彼の姪五人ぐらいの知りあった若者たちだけのグループだった。まず部落にのぼっていって字民が残っているかどうか確かめようということだった。川シルという田んぼへ通う坂を登りつめるとソージ井があり、字の中へ入ったが、字内はすっかり「もぬけのから」だった。彼の家へいってみたが皆どこかへ移ったらしい。しかたなくまた坂を下りていった。その坂をおりるとき、草の根にひっかかって、足がもつれて何回となく転落しそうになった。多分体の状態が正常でない証こであった。
アメリカ兵が入った日から部落の人たちは捕虜になり佐敷村の屋比久へ収容されはじめているということだった。父と母も離れてしまって母は叔父一家といっしょになってすでに屋比久へいっていたが、父は私たちをさがして冨貴利屋取の永吉盛誠さんの家で合流した。昼はソージ家の墓をあけて入ったがそこには棺が入っていてまだ洗骨してなかった。棺の片すみにすわって、アメリカのトンボ飛行機をさけていた。その墓の中から久高沖へ特攻機が飛来して煙を吐いて落ちていくのもみられた。その夜は永吉さんの家へ父のいとこにあたる新屋敷のオバーさん、父の義兄の妻ナおばあさんもいっしょにゆっくり一夜を明かした。いよいよ今日こそ私たちも捕虜になって佐敷の屋比久へいって久手堅の字の者といっしょになろうと決め、朝からすぐ物をまとめ、服装もわざと古ぼけたかすりの着物にかえた。そしてオーダーをかついで役場前の道路に出て待っているとアメリカ兵が来て私たちの集団をワンデンの坂を下って安座真のウェータキの大ビローの樹の下へつれていった。そこには数十人の村民がいて、屋比久へつれていく車を待っていた。ここで卵と肉の缶づめのたべ物が与えられ皆よろこんで食べた。その傍の畑の中では米兵が数十人で昼食の準備をしていて、畑からとりたての野菜も入れ炊いているところだった。
ここから佐敷の屋比久までピックアップ型のトラックで安座真入口の「ウェータキ」に集められた避難民は運ばれた。ようやく家族と親せきの者たちが焼け残された屋比久の家に五~六日居たことになる。屋比久から自分の家に帰ってみるとすでに屋取の人達が入っていたのでそこをあけてもらって焼け残った離れにどうやら父母私たち夫婦と伯母がはいることになった。
これから父が久手堅の区長として避難民八〇〇名余の世話をして糧秣の支給を受けることになり、食糧の倉庫としても使われることになった。
7月19日、敗残兵に襲われる
昭和二十年七月十九日敗残兵に襲われる (源勇の記録)
久手堅に避難民が収容されて数日後、米軍が一斉に部落に入ってきて住民の検査を始めた。男子は全部事務所前の広場に集められて兵隊でなかったかどうかの尋問が行われた。私はその通訳をさせられたが、適当に兵隊でなかったこと弁護してやった。見知らぬ人が多いのでそうせざるをえなかった。その中には兼城青年学校の指導員であり、防衛隊に入って負傷した永吉さんもはいっていて、家族の者に担架で運び出されたが、どうにか体よく弁明して引っぱられるのをまぬがれた。
その後友軍の兵隊らしき者があちこちの家にまぎれこみ住民からかくまわれ食事の世話になったのが多かった。
斎場御嶽の「ナーワンダ」の大岩の頂上に兵隊がいるのが望遠鏡でのぞかれた。この望遠鏡は日本軍大城原の砲兵隊の陣地から掘り出してきたもので倍率が大きく彼等のようすがよくみえた。彼等は海上挺進隊の一部で、女もはいっており防衛隊もつれていた。昼は頂上の蘇鉄の中に身を潜め、夜になると縄梯子をおろしておりて糧食集めに部落に入ってきた。その敗残兵に狙われたのが私の家であった。その当時避難民へ配給のための米がいっぱい積んであった。それを盗みに入ったある夜、警鐘のドラのカネをうってしまったのである。家族の者が彼等の銃で撃たれ、私は右脚の骨折の貫通銃創を受けてしまったのである。右脚のふくらはぎの上部を撃ち貫かれたが痛さはあまり感ぜられなかった。ただ棒で叩かれたような感じだった。銃声で附近のテント小屋の避難民たちは起き上って様子をきいていただろう。しかし誰一人来るものはいなかった。相手は兵器を持っ敗残兵である。恐れおののいていたから動こうとしない。しばらく床下に潜りこんでいると敗残兵はもう引き上げた様子だった。褌を脱し止血をした。血餅が手にぬるぬるといている感じだった。裏の山のガジマルの木の根っこまで腹ばってたどりついた。でも貧血なんかわからなかった意識もハッキリしていたので大丈夫だとおもった。朝がきて明るくなるまでの時間の経過はおぼえていない。すぐ夜が明けたとおもった。
明るくなって叔父がきて私を家の裏山から運んで出してくれた。部落の人たちも乗ってきた。父は門の前の溝にとびこんだ時手榴弾を投げつけられたが、その破片は溝に飛び散ったが身にあたらず命びろいをした。でも身中に溝にとびこんだときのスリ傷だらけだった。
妻は右腕を射貫かれ骨折までしていた。伯母も胸に傷があった。
救急車でコザの米陸軍病院へ
私たち夫婦に両親伯母の五人がアンブランスで玉城村の百名のテントの仮収容所へ運ばれていった。そのとき米兵の看護人が肉厚の白い大きいコーヒー碗にあついコーヒーを入れてのませてくれた。足は副木を当てたま繃帯されたがどす黒く血がへばりついて固くなっていた。翌朝私たち夫婦と伯母が重症だったのでアンブランスでゴヤ十字路附近の民家に設営された米陸軍病院へ移されてここで十一月まで五ヶ月間この病院に入院生活を送ることになった。
病院といってもゴヤの部落の中で残存家屋を使った越来村の役場附近の畑の中に兵隊のテントが張られたりして大野戦病院だった。
私たちがいる間、南部戦線からたくさんの負傷者が送りこまれてきた。壕から直接かつぎこまれた病人もいたが、その人たちはあくる日は埋葬のため運び出されていった。アメーバ赤痢のおじさんが運ばれて私のベッドのそばに一晩いたが、夜中看護婦たちがヒソヒソ話をして注射をしていたようだが、翌朝は動かなくなりとうとう死んでいた。そしてその人がもってきた行季はあけられ看護婦たちが持ち出していった。
となりのテントには二、三才位の子どもたちがひろわれてきて収容されていたが、やせこけた体で裸にされ寝台にねて、泣いていた。三〇名位いた、この子どもたちも次々埋葬のため運び出されていった。大きな台風があり私たちはぶきの民家にテントが立つまでそこのウラ座にいた。
その台風のときズブ濡れの米兵が夜中から入りこんできたのでびっくりした。十七才位の少女が高熱におかされて入院していたが米兵におかされるのをすぐ枕元のテントでみていた。看護婦もアレヨアレヨとさわぎ立てたがとうとうどうすることもできなかった。
彼女は二、三日後に高熱のためとうとう帰らぬ人となった。私たち目撃者はあれから夜も安心してねられなかった。また黒人におそわれたある島の中年婦人は骨折で入院していたが顔も傷だらけだった。
時々ヨボヨボの四十五、六才ぐらいのおばさんが、よくわたしたちのテントに入ってきたが米兵はスキニーといっていた。辻あがりの女のようだった。炊事班長はもと海軍あがりのおじさんでその家族は瓦ぶきの家に入っていてゆったりとくらしていた。
食糧は豊かでソーセージと豆ごはんばかりのことが多かったので母のつくるカンダ葉の汁はたいへんおいしかった。八月十五日も入院中で妻も看護婦たちも玉音放送ききにいった。雨のしょぼ降る日だった。みんな泣いていた。そして方々に花火の散るような銃砲弾の火花がいっぱいまわりの空をうめつくした。日本軍の反撃だと疑う人もいた。
戦争もとうとう終りうすら寒い秋のけはいのする頃私たちは退院になりアンブランスで百名の避難収容地まで送られてきた。
沖縄出身兵の孤独
この回想から推察できうるのは、沖縄出身兵は日本の軍隊の中でも待遇が差別的で、精神的にも乗り越えなければならないハードルが高かったことがわかる。沖縄出身兵の自殺者や病没者の墓が大村市の駐屯地にあったという。
大村聯隊の思い出
テレビでときどきあの蒸気機関車の汽笛が「ボーッ」と鳴ったのをきくと、ついあの大村の練兵場から見た汽車を頭に描いている。
黒い煙をたなびかせ白い蒸気を吐きつ、諫早方向へ通っていくあの汽車に多くの思い出がのっている。入隊したのが昭和十三年十二月十日、もう北九州の田んぼには脱殺された藁束があちこちに積まれていた。九州の北辺長崎県東彼杵郡大村町に着いたのが前日の夜だった。喜志屋旅館のおかみさんたちが円灯ちんをつけて駅に迎えにきてくれた。それからおりて人員の點呼があり、列をつくって杭出津の松木をくぐって旅館についた。一階の物置の中にたくさんのトランクや鞄がゴロゴロしていたがこれは入営するときここに預けたもので満期のときにまたもっていくということだったが、この主も戦死したり転属したりしてそのま放置されてこのように物置いっぱいになったんだと、おかみさんは説明してくれた。
喜志屋旅館はもっぱら沖縄出身者専用みたいになっていて、私も弟が面会にきて外泊を許可されたときはここに一泊して弟を満州の就職先へ送った。ちょうど営門のすぐ直前で窓を開けると直下に正門の歩哨が立哨しているのがみえた。日曜日の外出時も沖縄兵はここで休んでいたようである。
練兵場の北側は鉄道線路がありすぐ横に踏切があったが、この踏切に初年兵の単隊生活が余りにもきびしいのを苦にしてここで投身自殺をとげたことを沖縄兵の二年兵から聞かされた。
あの汽車のことを私たちは満期箱といっていた。いつの日になったらあの汽車に乗って沖縄に帰れるのかと汽車が走ってくるとそう思い続けて練兵場の芝生の上からみていた。沖縄兵の自殺者と病没者は多かったようだった。それもそのはず、言葉の面からもいくらかのハンディがあり日常の習慣もいくらかちがっていたので彼等から馬鹿にされたのは事実であった。そして日曜日も面会人とてさらになく精神的苦痛にたえかねた人たちはつい線路に走りつっこんだかもしらない。
私たち沖縄兵には正月になっても外泊もない家へ帰ることもできなかった。その上彼等の代りに正月の衛兵勤務につけられていた。
でも元旦は酒とタイの魚が炊事からきた。すっかり出払っひっそりとした酒保の片すみでその酒を持ちより、淋しそうに飲んでいるグループは沖縄兵ばかりだった。
炊事場の機関庫のボイラー炊きは一番きつい勤務だったが、なぜか沖縄兵はそこによく勤めさせられていて、二年兵もみんな沖縄兵だった。そこへいけば暗い部屋だったが誰はばかることなく方言で話せる沖縄兵の集会所みたいだった。炊事からマグロの刺身やある朝の献立てに準備された豆腐をもらってきて御馳走してもらったのもここだった。でも勤務は初年兵の体にはよくなかったのだろう。私たちの仲間の初年兵で病死一号を出したのもここだった。
粟国村出身だったか熱発して入院して二、三日で死亡した。その火葬場への立会いも初年兵代表として私が夜からつれられていった。
火葬場は競技場の横にあった。このようにして聯隊でなくなった多くの人たちが忠霊塔の墓場に数十基あった。明治何年から昭和までなぜ沖縄兵だけの墓がここにあったのか。
変貌する西海岸 - 海軍基地
7月20日に米軍の病院に百名病院から運ばれてきた。百名からコザまで私たち家族三人だけアムブランス(患者輸送車)で運ばれたが途中窓越にみた道の周辺はすっかり変りつつあったことに驚いた。知名二区今の海野から与那原までの海岸地帯がすっかり港湾施設をつくっていた。岩コンプレッサーで破砕する騒音、岩石の煙が周囲に立
ちこめ、この白いゴミの中を私たちのアムブランスは通り抜けていった。海には破砕された石で突堤がつくられ佐敷の仲伊保海岸まで数ヶ所の突堤ができていた。与那原海岸は円い穴のあいた鉄板カリバートが砂の上に一面に敷きつめられてあって、軍需物資が一杯おろされていた。西原から泡瀬までの海岸平地は飛行場となり数条の滑走路が構築されていた。
コザの軍病院で
P服とは pow 捕虜の服。基地建設に使役される捕虜たちが車からレーションをなげる。
七月から十二月までこのコザの病院で暮らすことになったが、その間に終戦の八月十五日があり南部の激戦地から親のない病気の子どもたちが入ってきたが翌朝はみな担架で溝の中にほうりこまれて埋葬された。下痢患者、熱病患者も入ってきたが皆二、三日で寝台は空になっていた。
病院の近くの十字路に午后五時出ると軍作業の車がとおっていたが、ほおかむりをしたP服の作業人が満載され車からレーションを投げてくれたので毎日それを待っていた。1原文では十二日となっているが、ご家族に確認し事務局で修正を加えた。
日本兵によって襲撃を受けた妻ヨシの証言は以下から。
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