カン・インチャンさん証言 阿嘉島 ~ 銃殺された朝鮮人軍夫

 

カン・インチャンさん証言「銃殺された朝鮮人軍夫」

 

太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」。
昭和20年3月に始まり、6月下旬に組織的な戦闘が終結するまでに、日米合わせて20万人以上の死者を出した。


この沖縄戦では、日本の植民地だった朝鮮半島から動員された多くの人々が犠牲になっている。その数は、1万人にもなると言われるが今もその実態はわからない。

 

沖縄戦で、初めて米軍が上陸した慶良間諸島阿嘉島にも、朝鮮半島からやってきた“朝鮮人軍夫”と呼ばれた人々がいた。

 

おもに、キョンサン北道から連れてこられた若者で、

 

那覇港での荷役作業に従事した後、阿嘉島に配備されていた特攻隊・陸軍海上挺身隊のために荷揚げ作業や舟艇の揚げ降ろしに当たらされた。

 

「内鮮一体」の掛け声の下、彼らは「創氏改名」で日本名になって日本軍のために働きながら、作業は過酷なうえに食べるものは兵士よりも粗末、といった差別的な扱いに苦しんだ。貧しい食事で過酷な仕事に従事させられた朝鮮人軍夫の中には、脱走を図るものが出たほか、住民の農作物を盗んだものもいた。稲を盗んだ軍夫が軍によって銃殺刑に処せられるという事件も起こった。

 

キョンサン北道から、軍夫として徴用された人々のうちおよそ半数が亡くなったと言われているが、その正確な数は今もわかっていない。

「銃殺された朝鮮人軍夫」|戦争|NHKアーカイブス

 

証言者プロフィール
カン・インチャンさん

1920年    キョンサン北道に生まれる
1944年    徴用され沖縄へ 特設水上勤務隊の軍夫として働く
1945年    阿嘉島に移動 米軍上陸、その後捕虜になる
1946年    帰国 以後農業に従事

 

キョンサン北道から慶良間諸島

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沖縄県史 各論編6 沖縄戦』(平成29年3月刊行、平成30年6月2刷)p. 607.

 

阿嘉島の日本軍

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[1] 徴用

畑で仕事をしていると巡査と役場の職員が来て「警察署に来い」と言われました。着替える暇もなくそのままの格好で行きました。警察に行くと、警務主任が「諸君、恐れるな。ヨンヤン郡(キョンサン(慶尚)北道東北部)から170~180人がテグ(大邱)の飛行場の工事をするだけだから。2、3か月で帰れる」と言いました。警務主任はそういうこと言いました。そこで言われたのは、「明日から飛行場の工事をしにテグに移動する」ということでした。だから、「諸君は恐れずに早くしなさい」と言うんですよ。それから解散しました。他の人たちは家に帰らずそこに泊まりましたが、わたしは家に帰って翌朝、戻りました。翌朝8時に支度をして警察に行きました。あの170人くらいの人が、当時はガソリンがなかったので、木炭車、木炭車って分かりますか。

 

Q:はい、知っています。

 

11台の木炭車が、わたしたちを乗せてアンドンに向かいました。9時に出発しましたが、アンドンまで4時間くらいがかかりました。今は車でアンドンまで1時間で行けますが、当時は木炭車で4時間もかかりました。そこで、お昼を食べましたが、そのとき10人くらいが逃げていなくなりました。逃げたんですよ。やりたくないから。それから、暗くなると160名は列車に乗って、当時は、列車も木炭で走っていました。

 

Q:逃げた人たちはどうなりましたか。

 

逃げていなくなったんですよ。逃げた。それから160名が列車、それもガソリンではなくて木炭で走っていた。夜間列車でテグに行きました。着くころは、あたりがすっかり暗くなって、時間が結構かかったもので。警務主任の話は、すべて真っ赤なうそでした。悪いやつですよ。だまされて行ったわけですが、服を脱いで軍服を着せられました。冬物の。夏なのに冬物の軍服を着せられました。それが6月18日ですから、すごく暑いでしょう。中にも、人が着てた服を着たり、冬物の軍服を着こんな風に着ました。夜遅い食事をしましたが、麦と米を混ぜたご飯が出されました。しかし、それがのどを通らなかったです。

 

Q:食べられなかったんですか。

 

食べられなかった。ろくなおかずもなくて。眠ることもできず、夜を明かしました。それから、翌日9時ごろから訓練が開始しました。その訓練には3200名。

 

Q:3200名がテグでですか。

 

テグの訓練場で訓練をしましたが、年を取った人もいて、わたしは当時23歳でしたが、30歳や29歳の人もいました。そんな田舎で農業ばかりやってた人がすぐ訓練についていけると思いますか。小学校も出てなくて農業ばかりやっていた人たちが訓練についていけるはずがないでしょう。暑いし、冬物の服を着てました。

 

Q:その人たちは日本語が分かりましたか。

 

できないですよ。教育を受けてないから、日本語が分からなかったです。当時、警察署や郡の役所に用事があっても、日本語が分からない人は行けなかったんです。皆警務主任にだまされて、戦場だとか沖縄だとか言われていたらいきたくありませんでした。テグの飛行場の工事現場で働くと言ううそにだまされて行きましたが、それはうそで、テグでは5日間訓練をしました。その後、夜間列車でプサン(釜山)に移動し、日本行きの連絡船に乗りました。当時、プサンで連絡船に乗ると日本まで8時間かかりました。日本の門司に着いて、そこで、5日間滞在しました。5日後、大徳丸、すごく大きい船でしたが、それに兵糧米と3200名の軍人を乗せて、それから、日本の軍人も乗っていたから、相当大きい船でしょうね。

 

[2] 沖縄へ

沖縄に向かいました。最初は鹿児島に行って、海には潜水艦が待ち伏せしているし、米軍の飛行機も上空を偵察していたので、昼間ではなく、夜、移動しました。昼間は奥に隠れて、夜、移動しました。沖縄まで行くのに8日間かかりました。8日後、沖縄に上陸して1日休んで、3日後から船仕事を始めました。大きな船を停めて、兵糧米や爆弾などを載せて、停泊しましたが、沖縄の船着場では小さな小船に荷物を載せて、陸揚げをしていました。船が着くと夜も1600名が働いて、1週間おきに昼夜交代をして働いていました。陸揚げすると、車で山の下の防空壕(ごう)まで運んだりしました。


翌年の1月でした。1944年、45年1月初めに(阿嘉島へ)行きました。山で木を集めてきて、防空壕に船を隠していましたが、それは石窟でした。土窟じゃなくて。爆雷を積んだ船を穴を掘って隠しました。その下にタイルを敷いて、あるときは4本ずつ丸太を並べて、船の出し入れをしたり、ロープを左右4本ずつつないでその船をロープで引っ張って出撃させる訓練もしました。それが戦争の準備。

 

Q:どんな準備をしましたか。

 

それが準備ですよ。船を海に出したり、それが戦争の準備ですよ。敵の大きな船が現れたら、船に乗って爆弾を仕掛け、その大きな船を爆破させる、そういう訓練をしていました。

 

[3] 米軍上陸

3月14日、15日、2日間に渡って米軍の空襲を受けました。4島に対して空襲をして、ご飯を食べることもできず、乾パンでを済ませたり、外に出られないので小便を缶に出して捨てたり、それだけ激しい空襲でした。爆弾を投げ込んだり、空からは機銃掃射するわ、だから外に出られないですよ。それから、3月26日の夜明け、分隊長から「各自荷物をまとめて背負え」と命令がありました。それで毛布など、荷物をまとめて背負って外に出ました。


夜明けに荷物を背負って山に逃げました。山の中腹から海を見ると米軍の軍艦でいっぱいでした。自分たちはここで死ぬのではと思いました。米軍は7時半から砲撃を開始しました。海から砲撃して、8時半ごろになると米軍が上陸し始めました。山の上にいた日本軍は1発も撃つことはできなかったです。米軍が迫ってくるのに、日本軍は1発も撃つことができなかった。山には我々軍属や日本軍がいたけど、砲弾を1発も発射することができなかった。米軍の射撃にはとてもかないませんでした。上空に飛行機が飛んでいる中、米軍が上陸しました。そのとき、麓の方に民間人が住んでいましたが、彼らはその民間人には指一本も触れることはなかったです。日本軍だけを相手にしていました。このくらいの山で、小さな山でした。でも、日本軍は手も足もでなくて、手りゅう弾も支給されましたが、あれがあるからといっても何にもならないでしょう。2日間ご飯を食べることもできず、乾パンも食べることもできなかった。逃げてやっと命を取り留めましたが、上の山では兵士や結構多くの人が死んでしまいました。終わってから行ってみると、何体もの死体が転がっていました。

 

[4] 処刑

日本兵は食事を取るのに、わたしたちにはなにもくれませんでした。あまりにも空腹で、民間人の作った稲や芋をこっそり食べました。少しだけならよかったけど、兵士、軍夫の人数が多かったんです。稲をほとんど盗まれるから、住民が通報したらしいです。それで、ポケットの中の稲が(軍人に)見つかった人がいました。13人が見つかって、手を縛られ銃殺されることになったのです。当時は、山菜を入れたご飯を朝と夜しか与えられなかったです。それじゃとても足りないでしょう。それで稲を盗んで食べたりしました。銃殺を執行する場所に向かう途中、パク・ボムジンは逃げて、12人が銃殺されました。彼らを埋葬しに3人が行きました。わたしもそのうちの1人で、銃殺隊員は2人でした。谷で銃殺が執行されましたが、わたしたちは穴を掘りました。それも深くは掘れなくて、適当に掘って埋葬しました。

 

Q:では、12名を処刑場に連れて行くときにみんなの体をひもで繋いで歩かせましたか。

 

手首を縛って。パク・ボムジンはそのひもが緩んで逃げることができました。パク・ボムジンも去年亡くなりましたが、故郷に帰ってきて。

 

Q:では、カンさんはその12人と一緒に移動しましたか。それともあとから現場に行って、埋葬しましたか。

 

銃殺をして、それからすぐ葬りました。

 

Q:では、カンさんもその銃殺の様子を全部見ていたんですね。

 

そうです。一緒に行きましたから。死刑囚も銃殺隊員も一緒で、我々3人、みな一緒に現場に行って、彼らに指示された通りにしました。「ここを掘れ」と言われたらそこを掘るし、銃殺はただ死ぬのではなく、すごくもがいてから倒れるんです。それを気絶させて、本人も悔しかっただろうし、我々もつらかった。見ているわたしたちも、言葉が出ないほどつらかったです。人間としてやることじゃないから。さんざん働かせて、稲を盗んで食べたからと言って処刑するのはあまりにも酷ですよ。

 

捕虜になったときわたしが強く彼らに抗議しました。小隊長や分隊長に抗議したら、分隊長は「悪かった」と言いました。「自分は知らなかった。」上の人に言われた通りに彼らを処刑したわけで、分隊長もよく分からなかったというのです。

 

 

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