沖縄戦証言 伊平屋島・伊是名島

 沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

製作途中

の飛行士から聞いたんですが、彼らは鹿屋から飛び立って、屋那覇島の後(南)の軍艦をめがけて飛んでいったんですが、敵の戦闘機にはさみうちになって、追われ追われて、機銃もうちつくしてしまって、もうどうしようもないから、ここの浜崎という海岸につっこんできたわけです。海岸につっこんで車輪を上にしてひっくりかえっているところを部落の人にみつけられて、自分では出られないから、「友軍だ、助けてくれ」と言って、それで部落の人たちが飛行機を持ち上げて助けてあげたわけです。少しやけどをしていたが大したことはなかったです。これは一人乗りの戦闘機でしたよ。この飛行士はこの部落で養生して元気になったんですが、もう軍には帰れないからと言って、民家の農作業なんか手伝って住みついて、方言も覚えておったようですよ。島には本島から逃げてきた兵隊も何名かおりました。

 

ときどき、本島の敗残兵がクリ舟を盗んでこちらに渡ってきたんですよ。与論や沖永良部に連絡をやりに行くんだと言って、後でわかったんですが、これはウソを言っていたわけです。彼らの言うことを信じて、村の婦人会などがめんどうをみていましたが、そのうち各個人の家に入れて、畑仕事など加勢させて、一年ぐらいこの部落におりました。昔からこの島は、伊平屋スーテー(やりくり)と言われるぐらいに、自分らは食べなくても旅人には何でも持たせてやる性質があったわけです。この島の人たちは昔から旅先で苦労している者が多いですから、他所の人を親切にもてなす習慣があったわけです。

 

戦争が敗けたとわかってから、この敗残兵は与論に逃げていますよ。ここから与論までは十三里あるんですが、与論まで渡れば、あとは永良部、徳之島、奄美と逃げていけるわけです。そのころの舟はみんなでこぐ舟ですよ。夜に、諸見から舟を出したわけですが姉人会が食糧を持たしてやったり、村じゅうでめんどをみて送り出しました。

 

伊是名が空襲を受けたのは四月が最後です。四月末からは、本島の方から日本に向ってアメリカの爆撃機飛んでいくのが見えました。嘉手納から飛び立った飛行機は、ちょうどここの上空で編隊を組んでから、何十機と日本に向っていくのが手にとるように見えるわけですよ。そういう状況を私らは山の上の塚からながめていたんです。

 

伊平屋に米軍が上陸したときも、この島からよく見えましたよ。国頭のさきからずっと南の方まで大小の軍艦が四〇〇隻ぐらいですか、四列、五列に並んで、ずっといっぱいですよ。この島の人も我喜屋の裏のタームトゥというところに壕を掘ってかくれていたようですが、アメリカが上陸してその夜のうちにクリ府で逃げてきて、この連中から聞いたわけですが、島の巾が小さいものですから撃ってくる艦砲は向う側の海に落ちてしまったそうです。前泊の後にある虎頭岩にどんどんうってくるわけですが、向うは前がすぐ海ですから、上陸地点の浜にも弾はどんどん落ちてきて、それで上陸してくるアメリカ兵が倒されたそうです。戦後になっても上陸用舟艇が十五、六隻こわれたのが捨ててありましたよ。

 

島にアメリカ兵がはじめてやってきたのは八月十五日もずっと過ぎて、その年の十月ごろになっていたと思います。ここに敗残兵がいると見込んで、夜のよなかに内花の方に上陸してきて、水陸両用戦車でこの部落にもやってきました。武装しているもんだから私らはびっくりしたんですよ。部落の人全部を今の売店の東側の広っぱに集めて、宣撫班が、日本はもう降伏して安全だから安心して働きなさい、と言って、それで私らも混乱しないで言う通りにしたわけです。この部隊の悪い兵隊連中はこの夜と次の日昼じゅう部落じゅうを荒しまわって歩いていました。被害といっては別になかったですが、女たちに悪いことをしたという噂は聞いていましたが、それはそのまま泣き寝入りになったんでしょうね。

 

伊是名では戦争はなかったよ、と一口ではそうでしょう。今ではなおそう言うでしょう。しかし、やっぱり戦争の苦労というのは口では言えないほどいろいろありましたよ。

 

日本兵の住民殺害

伊是名村字内花喜名政和(十三歳)

この記録は被害者喜名政昭(当時四二歳)氏の遺族の証言を中心に匿名希望の三名の証営も補足して整理したものである。

喜名政昭は私の義兄にあたりますが喜納主といって伊是名の人はよく知っている人でした。もともとは本部備瀬崎の新里の人で、そこには家もあって妻子もいたそうです。政昭はバクロー(家畜商)をやって牛や豚を買いに伊是名、伊平屋を歩きまわっていましたから、その父親も一緒に、内花に住んでいたわけです。父親というのは私の父になるわけですが、内花に土地を買い私の母を後妻にもらっていましたから、親子内花に住んでいたわけです。子の政昭も、ここで二号さんをもらって子供が二人もできていました。仲田の○○(三九歳)さんというのが二号さんで、本人は政昭に本妻がいるのを知らなかったわけです。政昭さんは牛馬を買いに島々を渡り歩いていましたから、本部へ行ったり伊是名へ来たり、また伊平屋や野甫などにも渡ったりしていました。そのため自分でサバニ(クリ舟)ももっていました。こうして、戦争中もわりと自由に歩きまわっていたので、そのためスパイという嫌疑をかけられて敗残兵に殺されたわけです。

 

敗残兵というのは、本島の明治山から逃げて、サバニで伊是名に渡ってきた連中で、伊是名(部落)とか諸見とかに泊りこんでいました。諸見の校長先生の家に七、八名、源三家にも何名か居りました。この連中の言い分では、伊平屋に上陸しているアメリカ軍をやっつけるために待機するんだということでしたから、戦時中のことで軍に協力しないわけにはいかないし、島の人たちは戦争の模様は何も知りませんでしたから、沖縄戦が終ったのも知らずに敗残兵を大事にもてなしていたわけです。彼らの言うことを信用して、正規の部隊だと思っていたわけです。各部落の大きな家の一番座に殴泊りして、米も各家から持ち寄って、毎日ごちそうしていました。この敗残兵の隊長格は平山大尉という人で平山隊長と呼んでいました。これが喜名政昭に直接手をくだした人です。

 

敗残兵のほかに、特務機関の西村という者がいました。学校の先生をやりながら青年団を組織して、斬込みとかゲリラ戦の訓練をやっていました。また、各部落に防衛隊をつくっていましたが、防衛隊もこの西村とか平山とかの命令には従わないわけにはいきませんでした。この西村はここの女と結婚して子供もできていましたが、本人は最後にクリ舟で与論島に逃げていきました。その後のことはわかっていません。

 

○○巡査というのがいて、これは伊計島の出身ですが駐在できていたわけです。この巡査がまたこわい存在で、空襲中でも壕をまわって歩きよったですが、いつも住民の動きに目を光らせていたわけです。○○巡査はいつも敗残兵とびったりくっついて、住民に直接命令するのはこの男でした。

 

この敗残兵の集団がこの島で罪もない人をだいぶ殺しています。飛行機がおとされて捕虜になったアメリカ兵を三名も殺害しています。このときは、西村は英語がしゃべれるので、彼が直接ピストルで殺したようです。

 

このほかに、奄美大島から買ってこられた漁師の傭い子が三名いたが、この子供たちもスパイをやるおそれがあるといって、少なくとも二人 (ブログ註・三名) は殺されています。一人は殺されることを知って、具志川島に潮の流れの早いところを泳いで行って、かくれていたそうですが、後から追っかけていって日本刀で首を斬り落したそうです。これはオーサカーというあだ名で十七、八ぐらいの青年でした。ほかに伊是名(部落)の西の浜で殺された十五、六歳の少年もいます。

 

喜名政昭が殺されたいきさつはこうです。殺されたのは旧の六月二十五日(新暦八月二日)ですからそのときは伊平屋にはアメリカが上陸しておって、沖縄戦も終っていたわけです。だが、この島にはアメリカは来ないし、敗残兵ががんばっているもんだから戦争が終っていることは知らないわけです。政昭はサバニで伊平屋にも野甫にも行ったりきたりしているから向うの様子はわかるわけです。アメリカ兵が、戦争は終ったよ、というのを聞いて、それを伊是名の兵隊たちに言っても信じてくれないわけです。そのころから、喜名主はアメリカのスパイだといううわさが立っていたんですね。

 

政昭は伊平屋に渡るとき日の丸の旗を持っていって、それをいろいろな品物と交換してくるわけです。アメリカ兵はそれを喜ぶから何でもかえてくれるわけです。ゴザさんとの間にできた子供が二人おりましたが、子供たちにアメリカ製の作業服を着せたり、また、日の丸と弾薬と交換して、その火薬で魚をとったりしていました。本人は戦争はもう終ったと思っているから平気だったんでしょうが、敗残兵から見ると、自分たちのことがバレると危いと思ったわけでしょうね。とにかく、喜納主はスパイだといううわさが流れたわけです。

 

殺されたときの模様はこうです。そのとき、政之は伊平屋に貸した金があるからそれを取り立てにひとりでサバニを漕いで向うへ渡っていました。内花の家には父親が病気で寝ていました。そのときに、兵隊たちは政之を殺す段取りをしていたわけです。こちらから三、四回伊平屋に手紙を持たせて、父親が重病だからすぐ来いとさそいだしたわけです。生良巡査が内花にやってきて、内花の防衛隊は全員集合させて浜の方で見張りをやらされたわけです。

 

私(政和)は、この様子を見て、何とか兄貴にこれを知らせようと、浜のアダン葉の中にかくれて見張っていたわけです。兄貴に伊平屋にひっ返せと知らせようと思ってですね。ところが、かくれているところを生良巡査にみつかってしまって、諸見にひっぱっていかれて、さんざんなぐられて半殺しにされて、「おまえもぐるだから殺してやる」と、今にも殺されるところだったんですが、ちょうど敗残兵のなかに玉城トッコウという瀬底島出身の人がいて、同じ本部の人だからときどき家にも遊びに来ていたんですが、この人が私を助けてくれたわけです。だから、私は兄貴が殺される現場は見てないわけですが、内花の防衛隊の人はみんな目の前で殺されるのを見ています。

 

内花のSさん(当時三二歳)の話はこうです。防衛隊は浜に出る道の側に全員集合して遠くから見ていたわけですが、宮名主の舟がやってきて、浅瀬のところに降りたところで、平山隊長が二人の部下をつれて近づいていって何か言ったかと思うとビンタをバンバン張ってたそうです。政昭は、とにかくちょっとだけでも父親に会わせてくれと言ったそうですが、「そんなことがあるか」とどなりつけたそうです。政昭がよろよろしながら浜の方へ逃げようとすると後から、平山隊長がピストルを抜いて撃ったわけです。それで倒れたんですが、まだ死なないので今度は前からも一発うちこんで、それで死んでしまったそうです。口から血を流して、とても見られたざまではなかったそうです。

 

政昭が死んだもんだから、後の始末は防衛隊に責任を負わせて、兵隊たちは引揚げていったそうです。防衛隊は死体をかついでクリ舟に乗せて、今の東洋牧場のある河原まで運んでいって、そこに穴を掘って埋めたそうです。遺骨は後でうちの家族が掘りに行ったらちゃんとそこにありました。敗残兵たちは人を殺すとそこの河原に埋めるようにしていたようです。具志川島で殺された大島の子供もここに運んで埋めたそうですが、ずっと後になって傭い主の爺さんが遺骨をさがしに行くというので私も一緒に行ったんですが、これはとうとうみつかりませんでした。

 

殺されたのは夕方のころですが、その日の夜中に、生良巡査が仲田のゴザさんの家に踏みこんでいって、スパイの子供は生かしておけないと言って、数え十七になる長男と三ツになる妹を外にひきずり出して殺そうとしたそうです。ゴザさんは、「殺すなら私も一緒に殺せ」と、ほんとに死ぬ覚悟で、裸になって子供たちをかばったものだから、とうとう殺されずにすみました。

 

やがて、伊是名出身の帰還兵たちが島に帰ってきて、この連中がただの敗残兵だということがわかったわけです。「こいつらに飯を食わせるぐらいなら豚に食わした方がいい。こいつらはころして(いたみつけること)しまえ」と怒ったんです。そこで、敗残兵たちも立場が悪くなって、ほんとに戦争が終ったかどうか、与論までクリ舟で行って聞いてみたら、ほんとに戦争が終っていることがわかったわけです。そのときは、もう降伏したずっと後だったわけです。それで、平山も西村もほかの敗残兵たちもクリ舟に乗って与論に逃げていったわけです。まだ生きているかもしれませんが、戦後この連中は一度も島に来たことがありません。あれだけ親切にもてなしてやったのに手紙一通よこしてはきません。

 

私の父は、政昭が殺された話を防衛隊の人たちから聞いて、そのショックのためか、100日後には自分も後を追うように死んでしまいました。 

 

敗残兵による米兵捕虜殺害

伊是名国民学校教員(当時)西銘○○

あれは二十年の五月か六月ごろでしたか、南部はまだ戦っていて、戦争のさなかです。本部の嘉津宇岳から流れてきた敗残兵や、友軍の飛行機で墜落したのが救助されて、その搭乗員の人たち、また特務の西村軍曹(本名馬場)、そういう人たちが七、八名ぐらいこの島にいたはずです。菊池中尉とか平山大尉とか、そのグループにはいっていたわけです。

 

馬場(西村)軍曹はそのときゲリラ戦を指導する特務教員ですがね、青年学校の訓練教師として配置されていたわけですが、村の幹部たちさえそんな事情はわからんわけです。馬場軍曹は、青年学校の上級生を各字から何名ずっか集めて、雷管とか、手榴弾の投げ方とか教えていたわけです。彼の言い分は、アメリカが上陸してきたら今ある建物を利用するであろうから、昼間は山の中に隠れていて、夜はこっそりぬけだして、そういった建物の床の下に潜伏して爆破すると、そういう訓練をしたわけです。私の義兄は船長でしたが、馬場軍曹はそんな任務で来ているんだと話したら、あの船長、全然相手にしないですよ、笑ってですね。

 

この兵隊たちがアメリカの捕院を射殺したわけです。そのころ伊江島アメリカに占領されて飛行場に使っていたわけで、日本軍の飛行機(特攻機)がくるのを防ぐために警戒飛行やっているうちに、高射砲にうたれて伊是名城跡の西側の浜に墜落したわけです。その航空将校は落下傘で海に降りて、黄色いひとり乗りゴムボートにのって浜に漂着してきました。校長住宅の東側の方に診療所があります。そこに一応監禁したんです。あのときは空襲がひんぱんでアメリカの飛行機がとびまわっていましたが、それから二、三日たったでしょうか、日本兵はその捕虜のために最後の晩さん会みたいなことをやって、翌日は小雨のなかをそのアメリカ捕虜をひっぱってまえに漂着した同じ場所へつれていきました。そこにはゴムボートがありますから、そこから送ってやると騙したわけです。こちらから見送りにいった人たちにも櫂を持たせて、これはそのように偽装したわけです。送る船は向う側の浜にあるから、それをもってくるあいだゴムボートに空気をいれなさいといって、相手がゴムボートに息を吹きこんでいるときに、銃で後から射殺したわけです。撃ったのは、菊池中尉とか馬場さん(軍曹)とか、他に四、五名の敗残兵たちです。

 

そのあとも奥間(国頭村)あたりから漂着した米兵がいましたが二人は前と同様の運命に逢って、最後の二人は伊平屋に送っています。そのときはすでにアメリカは伊平屋に上陸していたわけです。

 

アメリカがこの島にきたのは沖縄戦が終ってから、伊平屋の方から水陸両用戦車四、五台できたです。伊平屋に墜落した日本兵も元気でこの島の兵隊と合流したわけです。この人たちはこちらから内地に送りかえしていますよ。この送りだしの後で、私は兼本正順というペルー帰りの人に逢ったんです。この人は船乗りですが、他に兵事主任の城間久栄さんとかが伊平屋渡(海の難所)のまんなかで船もろとも捕虜になってしまったんです。この人がアメリカの警備艇パイロットをして伊平屋にいるわけですよ。この薮本さんが私に、「そちらに西村という軍曹が教員をしているだろう。これをすぐやめさせないと困ったことになるよ」といったんです。私はよくわからないから、「なぜそんなことをおっしゃいますか」ときくと、実はアメリカの情報機関からおって調査に来るはずだから、来るまえにやめさせた方がいいと言うわけです。私はすぐ兼本さんと一緒に学校へ行って西銘校長に話したんです。ちょうどその日は二十一年の一月になっていますが、学校が開校されて記念運動会をやる準備をしていた頃です。西村軍曹は小学校二、三年生の担任で運動会のけいこをやっているところだったですが、すぐ連絡をとって彼はやめることにして、運動会までは見ているんですが、四、五日後にはもうアメリカの情報部が来たわけですよ。こちらは前もって事情がわかっているから時間をかせぎながらすぐ西村軍曹とか敗残兵たちを集めて漁師を頼んで与論島に渡したんです。それから時間をかせぐために講堂に村民を集めて米軍の大歓迎をやったわけです。

 

次の日アメリカは事情を察してすぐ追跡をやったわけです。兵隊たちは永良部島でつかまったそうです。馬場軍曹、菊池中尉、平山大尉とその奥さんもみな一緒に捕まったそうです。

 

それからしばらくして、また情報部がやってきて一騒ぎおこりました。今度はあの捕虜射殺のことで来たわけです。仲田部落の人たちを二階に集めてひとりひとり尋問するわけです。私たち教員も知っているだろうと呼ばれて、私の同僚の戦後きた若い先生がこういういきさつだったそうだと答えたものだから、では現場に案内しろということになって、他に現場を見たという青年も一緒にジープにのせられたものだから、今度はアメリカに殺されるんだと、家族の人たちが大騒ぎをしていました。

 

射殺したアメリカ捕虜は伊是名城の西側に埋めてありました。その場所を掘りかえすと遺骨が三体ありました。情報部はその遺骨と認識票など持ち帰っていきました。この捕虜殺害事件がどうなったか、永良部で捕まった日本兵がどうなったかは何もわかりません。

 

無防備の島の戦争

伊是名村伊是名東江○○(四九歳)

戦時体制私は当時村会議員をやっておりました。議員は各字(部落)から一名ずつ出るのが慣例だったですから、私はこの伊是名部落の責任者でもあったわけです。

あるとき私は駐在に呼びだされて長いこと膝まづきさせられましたが、何のために呼ばれたのか、相手の巡査はただ黙っているだけですよ。当時は島には部隊がいないから、戦闘訓練はこの生良巡査、食癌の増産とか供出のことは県から派遣されてきた山川技手が権限をもっています。村長とか議員といっても軍とか県の方針はこの二人に指示してもらわないといかんです。この巡査はなかなかきびしい巡査でした。

私は「何かご用ですか」と言ったらすぐ膝まずきさせられて、「要求は何ですか」ときいても何も答えないです。「煙草をすってもいいですか」ときくと「ならん」といってどなるわけです。

巡査は私を罰するようにただ黙って膝まずきさせているわけですが、私はうすうす察しがついていました。私はついこのまえ那覇に行ってきたんですよ。それで私の方から「私は那網に行ってきたが何もしゃべってはおらんですよ。私を糾すなら克明に調べてごらんなさい。いったい、どんなわけで私をこんな目にあわすのですか」と言っても向うは口を開かんのですよ。それでもう「あんたの好きなようにどうにでもしなさい。私はもう帰るから」とさっさと立って帰ってきたんですよ。

実は当時島には無線があって本島の様子ははいってくるんですが彼らがとめてしまって村民には何も知らさんわけです。那制あたりでは各家庭に防空壕など知って戦争に備えているのに、この島は食幅増産が大目標だと言って、壕堀りやると畑仕事ができないからと言ってやらさんわけです。この島で防空壕を掘ったのは十・十空襲でやられてあと、隣組で家の屋敷内に大急ぎで掘ったわけです。

増産した米は全部供出してモミは分散して蓄えてありました。牛も豚も供出して自分のものといってはないですよ。少しずつは自分用のものを隠しはしておいたですがね。配給でもらえるのは玄米でほんの少しだけでした。家のなかまであっちこっちさがしてみんなもっていくから何ものこらんわけです。うちに小さい子供が五名い

ましたが毎日芋ばかり食べさせて、それでも足りなくて、交ダッチー(米と麦を混ぜて炊いたもの)をつくってやるんですが上の子などは全然食べなくて困ったですよ。昭和十八年ごろからはそういう状態になっていました。

戦争がたけなわになってからは供出米はモミのまま十か所ぐらいに個人の家に分散してありましたが、壊など掘ってないもんだから、これが空襲で半分ぐらいは焼かれてしまいました。この米は船がなくなって本島に出せなくてここに替えてあったわけです。十・十空襲で定期船がやられて、その後はクリフなんかで行き通いはしていましたがね。それからは米は自由になったわけですが農業組合長なんかがこれをおさえて村民には不自由を与えていたわけです。村では駐在とか農業組合長とか県の技手なんかが結んで島のことを指導していたわけです。巡査とか技手は上からの命令があるからこれが言うことは村長も聞かんといかんわけです。こういう戦時中の指導者たちが供出の食根をおさえて民間にはやらないで自分たちは腹いっぱい食べていたわけです。戦時体制ですから巡査なんかの権限は強くて彼が言うことは聞かないと大変だったですよ。私は字の貴任がありますからなんべんもケンカしましたよ。農耕一切のことは山川技手が指導していましたが年寄り速中はこの新らしい農耕法に批判的で私は板ばさみにあって苦労したものです。

空襲がしばしばくるようになってから村でも戦時体制を強化して防空壕や避難小屋をつくるようになりましたが、いっぽうでは村の防衛隊、警防団をつくって、二十歳から四十歳までの男は全部編入されて、訓練は竹槍を持って訓練したり、前の屋那瀬島まで渡って防

空壕(陣地)を掘ったり、空襲の合い間はバケツリレーで火を消すとか、部落一円で訓練をやっていました。敵が上陸したら竹槍で闘うという訓練でした。訓練は相当きびしかったですよ。

徴用

十・十空襲後はわれわれも軍に協力しなければならないことになり、私も津嘉山に徴用で行きました。金良、長堂の軍司令部の第二壕の作業です。二十年一月の初めごろです。すぐその後に、一月の二十三日の空襲にあったわけです。行くときはまだ船の往き来はそんなに危険ではなくて、村で漁船を雇船して100名ぐらい一緒に行ったんですが、二十三日の空襲で島のことが心配になって、婆さんのこと牛のことを考えると落ついていられないですよ。男たちはほとんど徴用に出ていますから島は女子供だけです。

陣地構築隊の隊長は伊藤中尉だったですが、私は隊長のところへ行って「伊藤さん、われわれは二週間の契約できたのにもう二十日にもなる。早く帰してください。われわれも空襲でこんなにやられたしこれは大変だ。子供らもどうなっているかわからんし、あんたが帰さんと船を割られてどうなるかわからない。われわれは独断でも帰らなければなりませんよ」と営ったら、隊長はみんなを集めて、「伊是名の労務隊が協力してくれないと困る。われわれも満州からまた沖縄へやられて、くにには親もおり子もおる。国に対するど奉公はぜひともやってもらわんといかん」と言ったんです。私は「ぼくはもういやだ。あんたたちとの契約は終って一週間もよけいに協力しているんだから、ぼくはこれからは自由行動をとるから」と

言って、さっさと夜具をかついで浦添までは行ったわけですよ。浦添には従兄がいたからそこへ行って食べ物をもらおうと思ったわけです。あの頃は島から徴用に行くとき膝をつぶして各戸に二斤ずっ配給して、それで油味噌をつくってブリキ罐に詰めてもっていって、軍から支給される芋なり飯なりにつけて食べていたもんです。それも不足がちになったので食い物には不自由していたわけです。軍から出る手当はせいぜい煙草代ぐらいのものでした。

浦添まで行ってそこから船で帰ろうと思ったんですが人もいないし船はもうないので考えなおしてみようとまた津嘉山にひっ返してきました。浦添から那覇へおりて、那覇から明治橋を渡って嘉数を通って金良、長堂についたわけです。帰ってくると軍では「ぜひ協力してくれ」とせがまれて百名(玉城村)までひっぱっていこうとするんですよ。われわれは「いや、協力はわれわれはやりますが契約期間を過ぎてまではできない」といって断わったんですよ。

その夜ちょうど諸見部落(伊是名村)の連中が山羊をつぶしているのでごちそうに呼ばれていると、そこへ軍から提灯をもって使いがきて「東江さん、明日軍の方で○○方面につれていくので朝六時までに津嘉山駅へ集合しなさい」と営ってきたわけですよ。その夜はもう喜びがいっぱいで誰も寝ないで準備しましたよ。

朝暗いうちに歩きだして泥んこのなかをころんだりしながらとにかく六時には全員集合して軍用トラックに乗せられて津嘉山壕を後にしたわけです。

話は前後しますが、司令部壕は津嘉山から金良、長堂、真玉橋まで伸びていたようです。奥行きが深く、一〇〇メートルぐらい行く