Battle of Okinawa

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郷土部隊「永岡隊」と15歳の少女 ~ 翁長安子さん「なぜ戦争が起きたのか、歴史を学ぶことを疎かにしては平和な社会はつくれない」

 

長安子さん

県立第一高等女学校 (一高女) 、15歳で郷土部隊「永岡隊」に従軍。

脳裏に焼き付く“地獄の戦場” 沖縄戦の体験者が伝える事実【沖縄発】|FNNプライムオンライン

 

沖縄県知事翁長雄志を支えた女性たち。

翁長雄志元知事のおば、翁長安子さん、県民葬で。

泣きっぱなしの3時間だった。翁長雄志さんの親戚で、沖縄戦体験者の翁長安子さん(88)は県民葬で、あふれる涙を何度も拭った。幼少期からかわいがってきた翁長さんの死を「自分の子を失ったようだ」と悼む。閉式後は憔悴した様子で「雄志は命の尊さを本当によく分かっていた。平和のため、県民を見守っていてほしい」と声を振り絞った。

沖縄戦中、県立第一高等女学校の生徒だった安子さんは看護要員として戦場に動員された。戦闘が激しくなってからは本島南部に撤退し、糸満市で米軍に捕らえられた。終戦後は遺骨収集に励んだ。翁長 (註・雄志) さんの父・助静さんは、当時の真和志村長らと共に遺骨を集め糸満市米須に「魂魄の塔」を建てた。翁長さんは選挙告示日の早朝に魂魄の塔を訪れ、手を合わせるのが恒例だった。「雄志は私の体験もよく知っているし、祖父や叔母を沖縄戦で亡くしている。平和への思いは強かった」と振り返る。

「平和の尊さ知っていた」親戚・安子さん 翁長雄志さんの死悼む - 琉球新報

 

特設警備第223中隊 「永岡隊」

長安子さんは15歳で部隊に入る。特設警備 第223中隊 通称「永岡隊」は、地元の住民で構成された「郷土部隊」。隊長の永岡敬淳首里の安国寺 (臨済宗妙心寺派) の住職で、県立第一中学校の教師でもあった。

IMAGINEおきなわ#65 戦争体験者の道のりを辿るフィールドワーク – QAB NEWS Headline

 

永岡隊は、日本軍が南部へ撤退する際、郷土部隊として首里に残り守備するよう命じられる。このように日本軍は、退却時にしばしば地元住民などで構成された特設部隊を砦のように前線におき、本隊を安全に撤退させた。軍は地元を守るのではない。地元住民に軍を守らせるのである。(特設警備第224中隊の場合も参照のこと。)

32軍が南部撤退を始めた日が27日です。 その晩、自然の雨と弾の雨が降る中を、糸数先生が32軍の命令を伝えに来ました。永岡隊は郷土部隊だから最後まで (首里に) 残れという命令が出ました。子どもながらに「ひどいなあ」と思いました。32軍が撤退した後は、首里を守る部隊は、私が知る限り壕の中にいる30名くらいしかいません。私の担任の糸数先生は、私を見つけると頭をなでて何もおっしゃいませんでした。胸が詰まって何も言えなかったと思います。頭と肩をたたいて、雨の中を出ていかれました。「先生どこに行かれるの」と聞いたら、「うん」と何も言わずに行かれました。それが先生との今生の別れでした。この崖下の所で、出ていかれる先生を見送りました。

《翁長安子さん講話 - 永岡隊での活動 -(2019年)pdf

 

特設警備隊は、基本的には沿岸警備や軍事施設の建設、維持管理などのために軍が地元から防衛召集した臨時部隊であるため、武器などもほとんど持ち合わせない。このような地元民の部隊を遅滞作戦に使った。

首里戦線における永岡隊

そのような情景を見た後、4月16日になると首里戦線が厳しくなったので、移動命令が出ました。永岡隊もナチジナームイ (註・万歳嶺跡、那覇市松川444) という小高い丘へ移動しました。その場所は、現在のホテル (註・ノボテル沖縄那覇) があるところです。そこには、永岡隊第1小隊の擲弾筒 (てきだんとう) の部隊がいました。擲弾筒といってもあまり遠くへは飛ばないようですが、それでも残された数少ない武器で、他は小銃と手榴弾などでした。そのような武器しか、当時の日本軍にはありませんでした。12〜13名の兵隊がいる陣地に、ご飯とお水を運ぶのが私の役目でした。食べ物を運んでいる時に、それを抱えたまま溝の中に飛び込み、米軍機の機銃掃射を避けたこともありました。次第に、敵弾が飛んでくる時間帯が分かってきました。早朝や夕方以降は弾が飛んでこないので、なるべく銃撃されない時間に飯運びをするようにしました。


その後、戦況が悪化すると、永岡隊は夜襲攻撃 (註・斬り込みといわれる自爆攻撃) を行いました。手榴弾を束にして抱え、夜間に米兵が寝込んでいる所を襲いました。そのような攻撃で5~6名が出撃し、生きて帰ってくるのは1〜2名でした。昨日まで一緒に会話をしていた兵隊たちが、1~2名しか帰らないこともありました。永岡隊の小隊(第1、第2、第3)で生き延びた人たちは、首里城近くの安国寺に集まるように永岡隊長が指令を出しました。それで私たちも、5月18日の晩には隊長と一緒に安国寺にある壕へ移動しました。


5月27日永岡隊は郷土部隊なので最後まで残るよう指令を受けました。その頃には戦うどころではなく、ただ壕の中に潜んでいるだけで米軍が進攻してくるのを待つしかありませんでした。その状態のまま日が暮れました。翌5月29日の朝、私たちが隠れていた壕に戦車砲が撃ち込まれました。次第に戦車が近づいて来て、火炎放射器の攻撃を受けました。その後、追い打ちをかけるように黄燐弾が投げ込まれました。私は煙で窒息しそうになり、意識を失いかけました。その時、自分の周りで妙な音がしていることに気付きました。それは、米軍が壕に穴を開けようとしている音でした。その時、隊長の声が聞こえ、「馬乗り(攻撃)されたな」と隊長は仰いました。その後は、物凄い音を立てて岩が崩れてきました。崩れ落ちてきた岩を壕の中にあった棚が支えてくれたので、私たちは岩の直撃を受けずに生き延びることができました。

沖縄県平和祈念資料館「翁長安子」さん証言

Google マップ: チナジームイ、安国寺、首里城

 

5月29日頃 - 安国寺壕の最期

血の海のなか、遺体のなかに身を隠し生き残る。

馬乗り攻撃を受けたあと、何時間経ったか分かりませんが、壕の中の煙やガスが収まった頃に残った生存者で脱出することになりました。隊長は、私に「安子、こっちに来なさい。このベルトを掴みなさい」と言って、自分の大きな日本刀をベルトから外して置きました。私は「はい」と答え、隊長のベルトを掴んで歩き出しました。照明弾の明かりの下で壕の裏に出てみると、身震いするほどの悲惨な情景が広がっていました。壕の壁には吹き飛ばされた頭などがはり付き、手足もぶら下がっていました。足元を見ると、遺体の内臓が飛び出て一面が血の海になっていました。雨も降っていたので、地面に溜まったものが血なのか水なのかも分かりませんでした。岩に見えていたものさえも、実際は遺体でした。私はその遺体に足を置いてしまったので、身体ごと転倒し掴んでいた隊長のベルトから手が放れて、崖下に落ちてしまいました。

沖縄県平和祈念資料館「翁長安子」さん証言

この崖の上に隠れていた壕はありました。逃げようとした翁長さんは、この高さから転げ落ち、しばらくの間 気を失っていたといいます。

脳裏に焼き付く“地獄の戦場” 沖縄戦の体験者が伝える事実【沖縄発】|FNN

しばらく気を失った後、目を覚ますと、私は遺体の中にいました。右や左を見ても遺体だらけで、足元にも乗っている状況でした。私は、ここで死ぬのは嫌だと思いました。その場から這い出して、 照明弾の明かりで照らされた明るい場所に向かいました。そこに米兵が近づいてきたので、仕方なく遺体の中に割り込んで、私も死んだふりをしました。

沖縄県平和祈念資料館「翁長安子」さん証言

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Marines move through the ruins of Shuri with the ruins of Christian Church in the background.【訳】後方に破壊された教会の見える首里の廃墟を進む海兵隊員。(1945年5月29日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

そのようにして生き残ったのは、隊長、当番兵、衛生兵、女性 6 名でした。

《翁長安子さん講話 - 永岡隊での活動 -(2019年)pdf

 

たったひとりの南下 - 日本兵にスパイと疑われ

壕から脱出の後に気を失い、遺体の中で目を覚ました安子さんは、南部にいる「永岡隊」に合流するため、たった一人ぼっちで南へと向かう。

そこから死体の様子が変わるんです。民間の人の死体も混ざっています。金城町の石畳の死体はみんな軍人です。照明弾の明かりで見えるんです。川を渡ってくると避難民の死体があります。

《翁長安子さん講話 - 永岡隊での活動 -(2019年)pdf

日本兵は15歳の小さな少女すらスパイだと詰問する。

南への移動途中、一日橋の近くまでたどり着くと、さとうきび畑の中から2人の日本兵が飛び出して来て、いきなり私を捕まえました。そして、「立て」と言って私を立たせようとしました。その兵隊に「どこから来たのか言え」と言われたので、「首里から来ました」と私は答えました。兵隊たちに「首里は米軍に占領されているはずだ。お前はスパイだな」と言われ、再び「どこから来たか言え」と詰問されました。私は、「安国寺の永岡隊という部隊にいて、そこで馬乗り攻撃を受けました。私だけ皆からはぐれて、ここまで1人で来ました」と答えました。さらに兵隊たちは「隊長名を言え」と言うので、「永岡大尉です」と私は答えました。そして、兵隊たちは「大尉」と聞いた途端に、「大尉は4時間前にここを通った」と私に道を教えてくれました。

沖縄県平和祈念資料館「翁長安子」さん証言

 

轟の壕とマヤーガマ - 6月22日の投降

6月初旬、轟の壕に到着する。

永岡隊を追って南部糸満

その後、津嘉山集落から南へ向かい、永岡隊を追って何日も歩き続けました。途中、隊長の一行が糸満の轟の壕にたどり着いていることが分かりました。私が轟の壕にたどり着いたのは、6月4日か5日でした。壕の奥に行くと、沖縄県警や首里署、県庁職員の皆さんがいました。壕の中には、軍隊や住民も大勢避難していました。永岡隊にはケガ人もいましたが、40名程が首里戦線から生き延びていました。しかし、球部隊から、生存している永岡隊は国吉・真栄里の戦線の応援に出るよう指令が来ました。そのため、永岡隊から約20名が国吉・真栄里の戦線に行き、そのほとんどが帰らぬ人となりました。

沖縄県平和祈念資料館「翁長安子」さん証言

県立一中の先生でもあり、安国寺の住職で、また一中の教師でもあった永岡隊長に投降をすすめられる。

その後は糸満「マヤーガマ」という壕に移動し、6月22日まで過ごしました。そこには食べ物も、何もありませんでした。そこは、周辺の山城と上里の地域住民約200人が避難していた壕を、日本軍が住民を追い出して使っていたそうです。鍾乳洞から落ちる雫を住民たちが使っていた食器類に溜めて、その水をみんなで一口ずつ分け合って飲みました。水だけではダメだからと、衛生兵が工夫して塩分も摂れるようにしました。鍾乳洞の壁には岩塩を含む「石のアンダ」というものがあり、それを割って小さな石ころを口の中に含んでいると、唾液が出て脳が死滅しないということでした。そのようにしながら、私たちは命を繋いでいました。

永岡隊との別れ

6月22日になると、艦砲射撃の音や爆弾の音も全然しませんでした。海の方からは、米軍の放送が聞こえてきました。「住民の皆さん、無抵抗の者は殺さないから手を上げて出てください」というような放送が、明け方の暗いうちからずっと聞こえていました。永岡隊長は外がまだ暗いうちから私たちのところに来て、「最後の命令で、今日は総攻撃があるから女性と子どもは降伏させるようにという指令が来ているので、あなた方もそれに従ってくれ」と仰いました。隊長は皆に「ご苦労さんでした。長い間、ご苦労さん」と仰って、隊員1人ひとりに薄暗い中でも手探りで握手をしていました。そして、隊長は私たちに「君たちは若いんだ。生きてくれ」「生きて、こんな戦があったことを語ってくれ。死ぬな」と仰いました。

沖縄県平和祈念資料館「翁長安子」さん証言

 

収容所生活と強制移住

石川収容所に収容される。

収容所で家族と再会

その後、私たちは壕から出て捕虜になりました。そして、石川の収容所で生活をしている時には、本当にたくさんの方々にお世話になりました。米軍には、高熱を出して倒れた時に軍病院で世話になりました。そこでは、髪を切られてシラミも全部取れたし、ずっと着たままでシラミだらけの着物も着替えさせられ、人間らしい姿になれたことはありがたいなと思いました。米軍は占領した地域ですぐに学校を始めていました。私たちが島尻の戦場の中にいる時に、石川では既に学校が始まっていました。

北部の瀬高収容所で両親と再会する。

ある日、満州にいて特攻隊に行ったはずの親戚の兄さんが、米軍のジーに乗って石川収容所にやってきました。その兄さんが乗った特攻機伊江島沖で墜落して、波打ち際に打ち上げられたところを住民に救助され、壕の中で傷の手当てを受けたそうです。その兄さんは、もとは満州鉄道で働いていたので英語が達者でした。英語も日本語も上手だったので、配給所への配達の時に重宝がられ米軍のQMの食料配給所に勤めていたのです。兄さんは、「明日、鉛筆と紙を持ってくるから、それに家族の名前を書きなさい。11ヶ所の収容所で、兄さんが捜してあげるから」と私に言ってくれました。私は、言われた通りに家族の名前を書きました。2~3日後、兄さんが受け取りに来て、その後1ヵ月待たずに母からの返事が届きました。

その頃、母と妹の2人は食べ物も住む場所もないために、避難先から山を越えて大川を渡り、久志村の瀬嵩に移り住んでいました。それが分かると、親戚の兄さんが米兵に頼んで私をトラックに乗せ、区外での面会証明書をもらって食料配達の車で瀬嵩に行きました。その時は米兵に対する恐怖心よりも、親に会いたい気持ちが強かったです。瀬嵩の配給所で荷物を下ろす作業をしていた米兵が、私たち親子が抱き合って泣くのを見て、もらい泣きしていました。言葉は通じないけれど一緒に泣いているので、親子が再会できた喜びはどこの国の人でも同じだと思いました。その米兵は収容所に戻った時に、ガムやいろんな物をたくさん袋に入れてそれを私に渡し、トラックから降ろしてくれました。このようにして、私は家族と再会することができました。

 

米軍の那覇占領と真和志村の強制移住 - 糸満「魂魄の塔」

那覇の米軍占領は長く続き、住民は南部の糸満への移住を強いられる。

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1947年5月1日、特別行政区「みなと村」の設置 ~ 那覇の占領と軍の都合 - Battle of Okinawa

真和志村の糸満への強制移住は1942年1月から。その地で、当時の真和志村長 (金城和信) や翁長雄志さんの父・翁長助静さんらが中心となって遺骨を集め糸満市米須に「魂魄の塔」を建てた。

収容所から糸満の米須へ

1月25日に、真和志村民は南部へ移動することになりました。現在、魂魄(こんぱく)の塔がある米須付近にトラックが停車しました。ふと 足元や周囲を見渡すと、そこには遺骨が散乱していました。私は、「こんな場所に人を集めてどうするつもりなのだろうか。どのようにして生活をするのだろうか」と思いましたが、それでもその時は、割り当てられたテント小屋に行かなければなりませんでした。テント小屋は、1つに6世帯が暮らさなければならない状態でした。

 

その翌日、真和志村民は広場に集められました。そこでは新しい村長からお話がありました。「私が村長になった金城和信です。真和志村にはまだ米軍が駐屯しているので、入ることができません。それで、私たちはここに来ているのです。皆さんもご存じのように、周囲にはたくさんの亡くなった方のお骨があります。これを踏み倒すようなことをしては、人間は生きていけません。まずは、このお骨を集めることから始めましょう。もし、家族に大人が2人いれば1人は食料集め、1人は遺骨を集めるというように進めていこうと、私は考えています」と村長は仰いました。

ウンチケーサビラ(ご案内しますからご心配なく) – 戦世からのあゆみ

戦後、真和志村民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀ったのがこの魂魄の塔である。

総務省|一般戦災死没者の追悼|魂魄の塔

 

通うだけで危険な学校

学校生活が始まる

私たち学生に対しては、糸満高校への編入学の手続きが米須に移動してきて1週間目にありました。戦争前の女学校や中学校の生徒は、糸満高校編入学することになりました。遺骨収集作業は収集隊が行い、私たち学生は糸満高校に通いました。当時、そこからは通う生徒は約40名で、女生徒も12名ほどいました。

米軍のバックナー中将が戦死した場所が通学路近くの真栄里だったので、そこにはあらゆる人種の兵士達が大勢訪れていました。兵士たちは 非番の日などに、中将の慰霊碑を拝みに来ていました。糸満高校に通い始めて1週間目くらいのある日に、慰霊碑の参拝に来た米兵たちの群衆に学校帰りの時間に出くわしてしまいました。女生徒2人が米兵5名ほどに追いかけられて、もう少しで捕まえられそうになりました。その時に、男生徒が兵士たちに畑の石を取って投げつけました。その石が米兵の頭に当たったようで、兵士たちは逃げて行きました。その隙に男生徒が女生徒の手を引いて連れ帰り、難を逃れました。その出来事を親たちに報告すると、「戦争でも生き延び助かった命なのに、学問のために命を落とすようなことがあってはいけない」という事になり、女生徒の通学はさせられないとして、男生徒だけが通うことになりました。

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若い世代に伝えたい事

痛みに向きあう。

ある時、私は、ミニトマトがたくさん実り草が繁茂している場所を見つけました。その茂みをかき分けてみると、頭の骨が3つ見つかりました。そのうち母親のお骨は、大きく背中を曲げて座っていたようでした。幼い子どもたちを抱きかかえていたようにも見えました。このお骨を拾った時に、「なぜ、こんな幼い子どもたちが殺されなければいけなかったのか。母親はこの子どもたち2人を前に、どんな思いで亡くなったのだろうか」とそのように思いました。私も女性ですから、悲しみや怒りのあまり手が震えて、すぐには遺骨を拾えませんでした。

ウンチケーサビラ(ご案内しますからご心配なく) – 戦世からのあゆみ

歴史を学ぶことの大切さ。

若い世代に伝えたい事

若い人たちに伝えたいことは、私から戦争体験を聞くことも大事ですが、その前にしっかりと歴史を勉強してほしいと思います。

なぜ戦争が起きたのか、歴史を学ぶことを疎かにしては平和な社会はつくれないと思います。

ウンチケーサビラ(ご案内しますからご心配なく) – 戦世からのあゆみ

 

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