海軍第11砲台 (ウカマジーの海軍砲台) と女子挺身隊

 

海軍第11砲台 (平安山海軍砲台)

 

4月1日、米軍が渡具知海岸から上陸した時、面前に据え置かれたのが、特設第一連隊賀谷支隊

 

北飛行場と中飛行場を放棄し持久戦に入らざるをえなかった第32軍は、住民をかきあつめた「烏合の衆」の防衛隊員を主にして数だけそろえ、上陸する米軍の前面に置き、航空作戦を重視する大本営に建前を作った。

 

沖縄守備隊第32軍は、戦力温存のため主戦力は退却させ、米軍の面前には地元民を召集して直前に編成した特設第一連隊をとり置いて、全滅するにまかせた。

百戦錬磨の強豪部隊賀谷支隊は、遅滞作戦として上陸軍と戦いながら後退する一方、配属された海軍第11砲台は全滅、また特設警備第224中隊も取り残され壊滅、四散した。

 

賀谷支隊
  独立歩兵第12大隊    - (本隊 1233名) 

配属部隊

  特設警備第224中隊    - (不明)  

  海軍第11砲台     - (約30名) 

『沖縄方面陸軍作戦』277頁

 

女子挺身隊とは

今回扱うのは、賀谷支隊の遅滞作戦に配属され、約30名が全滅したという海軍第11砲台に、20名の女性たちが地元から召集され、そのほとんどが犠牲となったという海軍女子挺身隊についてである。

 

女子挺身隊 - Wikipedia

 

海軍第11砲台 (ウカマジーの海軍砲台) 

北谷の平安山にあったという海軍第11砲台 (ウカマジーの海軍砲台) の遺構は、現在米軍嘉手納基地のゴルフ場内にあり、入ることはできない。

 

北谷町『ウカマジーの海軍砲台』pdf

 

現在の嘉手納空軍基地第1ゲートを入り南側のゴルフ場に緑の残る小高い岩山がある。砲座、陣地壕、観測所などが保存されているようだが、米軍基地内にあるため訪れることはできない。

 

3月末、上陸前のはげしい空爆のなか、ここで地元の女性たちを71人も動員して砲弾運びや炊事などの雑務に使役、中飛行場から主要部隊が退却した後も、女性たち20人が動員されていた。

 

4月1日の米軍上陸に、海軍第11砲台は2発の砲弾を発射するも返り討ち攻撃にあい、30人ほどの兵士のうち、ほとんどが亡くなったと記される。

 

八原高級参謀の回想:

アメリカ軍の上陸海岸に、直接配備してあった楚辺、平安山の海軍2砲台と、独立歩兵第12大隊の1中隊(1小隊欠)は、怒濤の如きアメリカ上陸軍に対しては、浜の真砂の一粒に過ぎぬ存在であった。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 173頁》

 

しかも女子挺身隊として動員された女性たちについては公刊戦史に記録されてはいない。

 

北谷町の戦跡案内には次のように記されている。

 

8月以降、第62師団(石部隊)独立歩兵第15大隊が移駐してきた。翌年、名所であった北谷トンネルも軍事車両の通行に差し障るとして破壊されてしまった。海岸沿いには丸太を組んだ戦車止めや戦車穴が掘られ、米軍の上陸に備えた。ウカマジーの丘には海軍第11砲台が設置されていた。海軍は、1945年1月頃、沖縄本島に15.5cm砲9基を設置した。ウカマジーの海軍砲台は、この時に整備されたものと思われる。また、丘の頂上部には、砲の観測所と思われるコンクリート製の構造物がある。海軍砲台には、喜友名小屋取から14名の女子青年が3月24日・25日頃、海軍女子挺身隊として徴用された。また、下勢頭からも女子青年団57名が、砲弾運びに動員された。海軍砲台からは2発の砲弾発射があったが、かえって標的となり、40名近い兵士の内4から5名のみが生き残った。女子挺身隊として徴用されていた女子青年団などもウカマジーの壕などに避難していたが、逃避行の中で銃撃され、最後には軍から支給されていた手摺弾を爆発させて「自決」した者も含め、19名が戦死した。

北谷町北谷町の戦跡・記念碑』(平成23年) pp. 12-13.

 

2日に平安山海軍砲台と桑江の連隊砲が全滅し、北谷村の陸軍・海軍女子挺進隊は前線から退避しようとするも米軍に遭遇し、20人のうち17名が戦死する。生き残った二人も、片腕や片足を失っている。

 

中部西海岸付近に配備していた賀谷支隊をはじめ各隊は兵力の不足から沖縄戦突入直前から多くの少年少女を含む民間人を恣意的に徴用し、義勇隊・女子挺身隊・女子炊事班・女子救護班という名で、地雷敷設・弾薬運搬・戦闘部隊への食事運搬負傷者の運搬など、後方業務を越えた戦線業務に従事させていた。平安山の「海軍十一砲台」には喜友名小ヤードゥイから14名の女子青年が3月24,5日頃徴用され、海軍女子挺身隊として編成され、軍服も支給されて救護に当たった。また、越来村山内に布陣した「機関銃中隊」には3月27・8日の夜山内の集団壕に避難していた平安山ヌ上、下勢頭(シチャーシドゥ)の女子青年6名が、兵隊同様に俸給も出すし、死んだら靖国神社に祀るといわれ女子挺身隊に編成され、戦車破壊用の急造爆雷や弾薬運搬・炊事に従事させられた。20名のうち海軍挺身隊2名、陸軍挺身隊1名の3名だけが負傷しながらも生き残った。戦後、遺族の手で集骨された遺骨を納めた『護国女子挺身隊之碑』が建立された。遺骨はその後に「国立戦没者墓苑」に移された。

1私の見た戦前・戦後の北谷 北谷町公式ホームページ

 

各部隊は地元から女性たちを挺身隊として召集、20人の女性たちは弾薬運搬や炊事など様々な雑務を命じられていたようである。後の4月6日頃に賀谷支隊第三中隊の壕が崩落した際も20名の女子挺身隊が共に生き埋めになっている。

 

独立歩兵第12大隊の兵士の証言 (北海道出身)

夜になると、女子挺身隊がニギリめしを運んでくれた。炊事したところから一㌔あまりの道を往復するうちに、彼女たちも、戦死してゆき、運んでくるニギリめしは、一日一日と数が減っていった。

鈴木手記② 声をのみ棒立ち ゴウの中に積み重なった人間の頭 | ああ沖縄 <月形から沖縄まで3000km>

 

話をウカマジーの海軍砲台にもどそう。19歳で女子挺身隊に「召集」された女性はこのように証言している。

 

喜友名豊子 (下勢頭、挺身隊当時19歳)

銃撃と自決の修羅場

あっちにも、こっちにも兵隊はたくさん死んでいたけどウチたち挺身隊はみんな無事だった。もう夜の12時ごろになっていたんではないかと思います。… あっちこっち離れないでちょっとずっ前進してようやく米兵の包囲からぬけだすことができた。しかし、この畑の中では大変なことが起こっていた。はるこー(比嘉春子・挺身隊)の話では米兵の機銃で死んだものも居たが、自分の持っている手摺弾で自決したものも居たと言っていた。はるこーは「みんなは弾にあたってはいないよ、手摺弾を渡さなければ半分以上は助かったはずねー」とわたしに言いよった。はるこーは片腕が無いもんだから、「あんたは何でやられたのと聞いたら「そばの人が手摺弾をパンまかしたから、その破片にあたった」と言いよった。…

20名から17名死亡

ウチたちは山内の中隊本部めざして、用心しいしいゆっくり前進していたが、とうとう喜友名キヨ(挺身隊)が射たれてしまってね。場所は下勢頭の部落のはずれだった。朝の4時か5時ごろだったと思う。ウチたちは仕方なく後もどりして山の中に入り、屋良飛行場の近くまで行ったら夜もシラジラ明けようとしていた。「何か変だ」とJ思ってよく見ると、近くにシルーとクルーのアメリカーが木の葉みたいな偽装服を着て立っていた。アキサミヨ一、マブヤー落とすぐらいびっくりして、一目散に山の中に逃げ込んだら、後ろからパラパラーされて。ウチたちは瑞慶山(屋号)という家の壕に避難して、日が暮れるのを待つことにした。兵隊1人にウチたち挺身隊3名、合計4名が息をひそめてじっとしていた、左の足がしびれたのでその足を伸ばした直後だったと思う。突然、壕の入口のおおいがとられ、手摺弾を投げ込まれてしまって。兵隊は即死、しずこー(新城静子・挺身隊)は「水が欲しいよ、水が欲しいよ」と半日ぐらい苦しんで亡くなった。千代もその時亡くなった。結局、海軍、陸軍あわせて20名の挺身隊員のうち17名が亡くなったことになる。ウチは左足をやられてしまって、破傷風にかかり切断されてしまい、現在では10センチしか残っていません。

 

上陸地点に小島のようにとり残された砲台のわずか30名~40名の兵士のための飯炊きや看護要員として、住民の避難壕から20名の女性たちが臨時召集され、そして17が死亡、少なくとも2名が重傷を負い手足を失う。

 

女性たちは、「捨て石」の「捨て石」にされたといっても過言ではない。

 

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