チビチリガマ - 封印してきた戦争体験 -「家族全員全滅のところが何か所かありますよ」

f:id:neverforget1945:20180319222928p:plain

 

夏の陽ざしの中で

けれどサトウキビ畑は、風が通りぬけるだけ。

 

youtu.be 

4月1日、

この日、読谷から米軍が上陸した。

 

neverforget1945.hatenablog.com

 

 

そして

4月2日の朝がきた。

 

チビチリガマの「集団自決」である。

 

大湾 千代さん

|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

f:id:neverforget1945:20180312011522p:plain

 

出来事の背景 写真3か月間に及んだ地上戦で20万人を超す死者を出した「沖縄戦」。そのうち9万4千人は、沖縄の住民だったとされています。

 

大湾千代さんは、米軍の上陸地点となった沖縄本島中部・読谷村に住んでいました。当時、読谷村には住民総動員で作られた陸軍の北飛行場がありました。大湾さんは、およそ140人の地元住民とともに洞窟、「チビチリガマ」に潜んでいましたが、米軍につかまれば残酷な方法で殺されると言われていたことから集団死が発生しました。家族の手によって殺されるという悲劇で、幼い子供を中心に83人が命を落としました。

 

大湾さんはかろうじて集団死を逃れることができましたが、防衛隊に参加させられた47歳の父と兄そして、姉を沖縄戦で失いました。

 

戦後、読谷村の大部分は米軍に土地を奪われ、村の面積の95%が米軍施設となり、生きるために八重山に開拓民として移り住んだ人もいました。また、村内では、不発弾処理がひんぱんに行われた上に、演習による死亡事故が起こり、人々を苦しめました。いまも、村土の半分が米軍施設という状況が続き、生まれ育った土地に住むことのできない人々が少なくありません。

 

大湾さんは、戦争の記憶と家族を失ったこと、チビチリガマで多くの人が亡くなったことにいまも苦しんでいます。また、飛び交う米軍機を見たり、その轟音を聞いたりすると、昭和19年10月の「十・十空襲」を思い出すと言います。

 

読谷村の戦跡めぐり

チビチリガマ

⑧ シムクガマ

f:id:neverforget1945:20180312052708p:plain

 

そして

あれから72年目の昨年2017年9月、

沖縄に衝撃を与える事件があった。

 

ospreyfuanclub.hatenablog.com 

またこの事件に乗じてネトウヨ番組「チャンネル桜」の県外ネトウヨは、チビチリガマが、「オーラルヒストリーだからー」とか、「ずいぶん後になって住民がいいだした話だー」とか、「その時、軍による命令があり住民はいなかったはずだー」とか、あきれるほどのネトウヨ脳を電波で垂れ流していた。「オーラルヒストリー」の学問的重要性と価値を知りもしないで、またぞろチビチリガマはなかった、などといいだすのである。

 

 

 

なぜ日本に米軍基地を作りたいがために

貧しい知識でもって沖縄の歴史を否定するのか。

これら拝米ネトウヨ団体「チャンネル桜」の映像シリーズを残念に思う。

 

なぜ住民はチビチリガマを語ることができなかったのか、

彼らネトウヨには想像もできないのであろう。

 

 

 

チビチリガマの生存者である大湾さんの話を聞いてみよう。

 

大湾 千代さん

NHK 戦争証言アーカイブス

1. 集団自決

Q:4月1日にアメリカ軍が上陸してきましたけれども。そのとき千代さんはどこにいましたか。

 

チビチリガマ(洞窟)にいました、4月。4月…私はもう最後でした、チビチリガマに。他の人たちはもう、チビチリガマとか、波平(地区)はシムクガマといって2つありますけど、大きな洞窟が、で、私たちはもう最後、死ぬつもりで出なかったですから、もう最後にこのチビチリガマから死に切れずに出たんです。

 

Q:死にきれないっていうのはどういうことですか。

 

弟が、3つ下の弟がいますけどね、これがもう、私は持ってる食糧全部食べて死ぬつもり、着替えて、もう家族輪になって死のうと言ってやっているのを、3つ下の弟が、「お父さんもお兄さんも帰ってきたらどうするか、私が死んだら兄さんたちはどうするか、誰もいないとどうするか、出よう」と言って、この一言で「そうだね」、と言って、そして母が、もう男はいないから母が先頭になって皆この、腰のひもを捕まえて、一人一人出てきたんですよ。もうそのころは火を焚(た)いて窒息死ですよ。あの、看護婦してる人が2人いましたけどね、部落の人が、で、この人たちはもう注射なんか持っていましたから、先に死んで、この家族は、他の家族の人たちはもう死に切れないで、そこで布団とか衣類なんか全部焚(た)いて、その煙が中に入っていたんですよ、ガマの、洞窟の中に入って行って、その、窒息死です。で、私も一週間くらいは黒いつばが出ましたよ。窒息。で、私たちは死に切れないで、この、弟のその一言で一人一人皆やってきたら、皆こっちも真っ暗だからあっちこっちにあの、痛めて、血も出ていましたよ。

 

そして、あのころ、姉の子供が2歳でしたかね、まだ赤ちゃん抱いてましたから、姉もちょっと体弱いから、母が、母はまた気丈な人でしたから、母が抱っこして上に出てきたら、アメリカさんがいっぱいいて、どうも、アメリカさんは非常に親切でしたよ、あのころ。どうもしない、出てこい出てこいして、上まで出て行ったらチョコレートあげようとしたけど、私はもう毒が入ってるから食べるなよと言って、食べなかったですが、アメリカさんはまた自分たちで食べてみて大丈夫大丈夫と言って食べたんですけどね、そしてトラックに乗せられて、あの、とうや(都屋)の収容所と言いますかね、そこに行かれて、その途中、もう私は海に捨てられに行くんだともう覚悟してましたけど、アメリカさん非常に親切で、あの、皆がいるところに連れていかれて、これが捕虜です。チビチリガマの、死に切れないで出てきた人も60名くらいいますよ。死んだ人も半分半分くらいは死んでます、向こうで。

 

あの、チビチリガマで。2つ、波平という部落は非常に、村でいちばん大きな部落ですけど、あの、ガマが2つあるんです。シムクガマというのとチビチリガマというのと。して、シムクガマはいっぱいして入れないで、私たちはあの、年寄り、80歳くらいなるおばあさんがいましたから、このおばあさんを担いで、あの、私と2つ上の兄と2人で、モッコ(運ぶ道具)にかついで避難なんかしたんですね。で、それであの、山原(やんばる・本島北部)なんかにも行けないで、チビチリ行こうとしたんだがもう行けないで、チビチリガマに戻ってきたんです。

 

Q:千代さんね、半分ぐらいは生き残ったって言ったんですけれど。半分ぐらいは何で死んだんですか。

 

半分、もう、自決です、本当に。もう戦争、皆戦ってますよ。あの、大人たちは。もう、竹やり持って、死ぬつもりで、皆出来る人は出なさいよーして、あれは誰か、命令があったのかわかりませんけどね、皆竹やりを持って突撃して行ったらバラバラバラバラーとやられたんです。出ると。出ると同時に。そしてもう、出られないでどんどんどんどん追い込められて、もう年寄りと子供たちは逃げきれなくて追い詰められたんですよ。そして死に切れないで、年寄りもたくさん出ていましたね、死に切れない年寄りたちが。

 

Q:そのとき怖かったですか。

 

ああもう、死ぬと思ってましたから、怖かったとかそういうことを考える…もう海に投げられるしか考えてませんでしたからね、トラックに乗せられて、出てきたらそんなに怖かったかな・・・。とにかくもう、戦争は大変でした。戦争は。もう、父も、父なんかもう最後の防衛隊ですよ。47歳で、馬と馬車を持って、最後の防衛隊。そして弾薬輸送、はこばー(運搬係)だったそうです父なんかは。兄なんかはもう、普通の召集、兵隊で行ったんですけどね。身内2人あっちに、礎(平和の礎・糸満市摩文仁にある沖縄戦の犠牲者の名を刻んだ石碑)にいます。もう二度と、本当に二度と戦争はもう、やりたくないですね。本当に。もう、でも、体験者はもう私たちが最後じゃないですかね。もう皆いなくなって、私が6年生とか、高等1年生ですからね。私がいちばんもう、2、3歳ぐらい上までいますかね、そんなですね。60何名かはチビチリガマから出ています。

 

Q:同じ60何名(チビチリガマの死者は83人と言われてる)の人がガマで亡くなったんですか。

 

亡くなって、私は足、踏んで出てきていますよ。もう、息も絶えて、あの、たくさん煙を飲んだ人たちはもう息もできなくなってうなってました。それを今度は足で踏んで、ずっと奥に奥に逃げて行きましたから、足で踏んで、一人ずつ腰のひもを捕まえて、あの、倒れてる人を足で踏んで出てきました。

 

Q:その感触は覚えていますか。

 

覚えてますよ。もう、集まって、家族集まって輪になって、食糧も全部食べて、「死のうねー」と言ってやりましたからね。これはもう、はっきり覚えてます。

 

かわいそうでした、本当に。私もやがて、やがてでしたよ。一週間くらいたんがでて、黒いたんが出て、あのときは忘れられませんね。だから生き残りの人たちもこの、亡くなった人たちに対して、すまないという気持ちで皆結束して、これはもうあの人たちに対して済まないから言わないでおこうねと言って、皆口を閉ざしてなかなか言わなかったですよ。生き残りの人たち。だけども、そういう先輩の方々も皆亡くなっていますからね。あんまり分からないはずです。私の年代がもういちばん若い。年が上で。もう、あのころ、勉強もあまりしないで、もう、あの、何運んだかね、木の皮削りに行ったり、あんなでしたからね、沖縄は。学校も勉強もしないで、だからできないようになったかなーと思いますよ。

 

2. なぜ「自決」は起こったのか 

Q:何でね、家族でガマで逃げて、みんなで生き残ればいいじゃないですか。何でみんな注射を打ったりとかするんですか。

 

いえもう、戦争はだめだといって、もう、あれですよ、友軍からも、兵隊からも言われて、上の人たち、区長とかね、ああいう人たちたくさん死んでいますよ、皆。もう、アメリカに捕らえられるよりは自決した方がいいと言って。もう大変でしたよ。女まで、うちの母なんかも皆竹やり持って出ましたよ。戦いに。これも軍の命令だったのかなと今考えると思いますけど、私はあのころ子供だからあまり分かりませんけれども、軍の命令だったのかな、と、色々、慰霊の日が近づくとそういう話題が出てくるから。

 

Q:注射で看護士さんが打ったってね、それはどういう様子だったんですか。

 

もう、死んでいました。2家族は。2家族は死んで息もなかったですね。残りの煙飲んだ人たちがもう、ぐったりして、やっているだけでしたね。あの2家族はもう、もう死んでいました、私たちが出るころからは。注射していましたよ、私たちは非常にうらやましくてね、ああ私たちもあんなして注射できる人がいたらねと思いましたよ。早く自決して死にたいという気持ちで。

 

Q:何で早く死にたいと。

 

もう、戦争も負けてダメになってるからといって、アメリカさんに殺されるよりは、自分で死んだ方がいいということで。皆そういう気持ちじゃなかったかね。若い人たちは奥に奥に逃げて、80歳、いちばんあれが忘れられませんね、入口で自分たちは逃げてもあの年よりはこう、柳行李(やなぎこうり)といって、衣類をおさめる、あの、柳行李というのがあったの、これに、あの、乗せて、この年寄りたちは「あいえーなーあいえーなー」(悼む言葉)して自分の家族がいなくなったもんだから、もう自分たちだけ残されてると言って泣いてました。もうあの様子がいまだに、かわいそうでかわいそうで忘れられませんね。そしてアメリカさんが上まで連れて行ったら、あれは、1か月くらいもう、この年寄りはいましたかね、亡くなりましたけど、家族は皆死んで、ガマの中で死んで家族は、今もう、あれですよ、全滅してますよ、この家族。全滅のところがたくさんありますよ、波平は。家族全員。海岸に出ていたとか、大和(本土)に行っていたとかいう人たちは帰ってきて後継いでいますけどね。その、沖縄に居た人、そのまま残っていた人たちは家族全員全滅のところが何か所かありますよ。とにかくもうチビチリガマと言って有名、最近はしかしその会長なんかもなくなって、もう、慰霊祭なんかもやってないでしょうね、前は慰霊祭やっていきましたけどね。

 

3. 封印してきた戦争体験 

(米兵を)見たことなくて最初は非常に怖かったですよ。まず目がね、「ひーじゃーみー(やぎの目)」と言って、こっちの言葉で、山羊(やぎ)は「ひーじゃー」というんですよ、「ひーじゃーみー」と言ったですよ、だからもう、顔、それになに服と言いますか、あの、何服というかね、戦闘用の着物、迷彩服、あれをつけているし、銃を持っているしね、もう、見たら怖かったですよ、初めて見るから、目ん玉がまず山羊の眼みたいにしてるから怖かったです。だから「ひーじゃーみー」「ひーじゃーみー」してましたね。

 

Q:体格とか肌の色なんかはどうですか。

 

肌なんかは見えない、もう、鉄かぶとかぶってるし、迷彩服つけているし、とにかくもう顔だけしか見えないから「ひーじゃーみー」とか、顔の色も変わるから、背が高くて見たこともない人たちだから怖かったです、初めは。だけどだんだんね、そう言ったら悪いけどこれは反するかもしれないけど、優しかったですよ。だんだん優しく、優しいです、かえってね、そう言ったら悪いけど、日本軍がね、日本軍に食糧盗まれましたよ。あの、捕虜にされて金武に行ったときにね、都屋から金武に行ったときに、もう私は最後に、金武にも最後に行ったから、もう、母屋は皆先の人たちが入って、私は牛小屋に入れられたんです。で、牛小屋にいるもんだから夜になったら日本軍が山から下りてきて食糧出せ出せしてとられましたよ。捕虜なって行っても。日本軍が山から下りてきて夜になるとこれが、鍵もないでしょ、牛小屋だから、これが怖かったですね。だから日本軍にやられた人もいますよ。本当はあの、話の通りに、日本軍は怖かったです。やっぱり日本軍も戦闘服をつけて山に逃げてたはずですから。降りてきて食糧もらいに来ましたよ。もう、くれないとまた、色々やるから、そんなこともありました。

 

Q:チビチリガマの怖かった話というか。生き残った話って誰かに話したりとかずっとしてきましたか

 

あんまりはやらないですね。あんまり。

 

Q:生き残りの人って何でそんなに他の人に話さないんですか。

 

なにかな、私も口止めされていましたからね、あんまり話しするなと言って。もう、軍が怖かったんじゃないかね。こんな話をしたりすると、あんまりやるなと言われてましたよ、直後は。落ち着いたから話す、皆話すようになりましたけどね。最初は怖かったです、話すのも。

 

自分たちは死に切れないで出てきて、あの人たちはもう、はじめに死のうと言ってやったもんだから、あの人たちは死んで私たちは生きているということで申し訳ないという、ある。あの、何年くらいかね、慰霊祭も何もやりませんでしたよ。もう、皆、口止めされて。だから、どこでしたか、自決があったのは、読谷のチビチリガマではなくて、どこの島でした、座間味(慶良間諸島)、あっちなんかもう、すぐあれでしょ、こっちはすぐじゃなかったですね。「言うな」と言って。元々この波平と言う部落はこんなにやる (しゃべる) 人たちではないんですよ、波平と言う部落は。それもあったかもしれません。最初に結束したもんだから、あんまり話さなかったです。死のうというのに死に切れなかった、出てきて、もう、済まないなあと言って、最初はそればっかり言ってました、皆んな。

 

Q:千代さん自身も死んだ人に申し訳ないと。

 

そう思いましたね、最初は。

 

Q:どう思った。

 

あの、あの人たちかわいそうだね、ただね、何もしないでただ死んでしまってね、かわいそうだったね、皆誘ってやればね、出て来よったのにね、これ非常に後悔しましたよ。だからその気持ちが残っていたんでしょう皆、済まないという気持ちが。

 

4. よみがえる戦争の記憶 

つらかったですよ。今でも思い出すとね、涙出ますよ。だから慰霊の日、テレビでしょっちゅう慰霊の日のことが出るから、座っていて涙出ます、今でも。ああー、思い出して、あんなことがあったね、こんなことがあったね、兄のことや父のこと、父も47歳、47歳最後の防衛隊ですよ、そして弾薬はこばー(運搬係)だったと言って、馬車と馬を持って最後、もう、47歳とて大変ですよ。男という男皆駆り出されていましたから。

 

Q:どうやって亡くなったんですか。

 

だからあの、弾薬、防衛隊で、最後の防衛隊で召集されたんです。

 

Q:何で亡くなったんですか。死んだんですか。

 

死んだんでしょう、何もないです。死亡公報は来たかな、兄もどこで死んだかもわかりませんよ。兄なんかはあの、津堅(島)で、津堅というところで、捕虜来ていたと言って、あの、連絡ありましたけどね、兄なんかは山原の羽地(現・名護市)で教員してたもんだからそこから兵隊行って、津堅であの、夜は、あの。受験生教えに来てたそうですよ。ね、その、教わった人たちがあの、うーとーとー(供養)しにきていたんです、戦後。そして最後はあの、南風原(本島南部)のね、野戦病院、そこに目をやられて最後に来ていたと、生きた人から聞いたと言って、こんな話をしていましたけど、兄なんかは南風原の壕で亡くなったんだろうなーと。父なんかは全然どこで死んだかもわかりません。そういう人がたくさん、いっぱいいますよ。馬と馬車もって最後に防衛隊で、47歳まで、もう、これ考えるとね、日本の政府は大変だったねーと思いますよ。若い人と、若い人もかわいそうではあるけど。

 

Q:骨は見つかったんですか。

 

ううん、葬式もしてませんよ。葬式も何もしないですよ、そのまま。だけどあの、公報は来たんでしょうね、遺族年金とかこういうのはもらってますから、来たんでしょう、公報なんかは。私も60年近く、嫁いできてますから、もう、すっかり忘れて、父と兄のことも忘れていますけど、二度と本当に戦争はやりたくないですね。だからあの、オスプレイ、本当に、本当に本当にあれは県民挙げてやらんといけないと、もう、本当に憤ってます、あれは。二度とあんなこと、戦争なんかやりたくない、沖縄の県民は皆そう思ってるんじゃないですかね。

 

まあ、本当にもう、なんとも言えない。本当に馬鹿にしてるねとしか思えませんね。あの、特にまた、最近オスプレイ配備、もう本当にもう、行きたいけど、集会とかこんなのも本当に行きたいけど足があれだし、心から憤りを感じます、本当に。なんで沖縄にだけ。皆そう思ってるんじゃないですかね。あんな経験をしてるから、沖縄の人は。あんな惨めなね、地上戦、経験してるから、なんでまた、また沖縄にと。皆に分けあってね、本土にも分けあって、外国に出来なければ、こう、できないのかな、と、もう、日本政府に私はがっかりしてます。

 

Q:ああやって飛んでいる軍用機を見ると、何か思い出しますか。

 

十・十空襲思い出します。十・十空襲と言ってね、あの、あれは、何年かね、(昭和19年)10月10日に空襲があったんですよ。波平だから、あのころは又、空襲という経験もないし、飛行場が非常に色々工事なんかもやって、あっちはなんだったかな、この飛行場は、飛行機はいなかったはずだが、あの、ここ以上に軍もいましたからね、そして朝7時頃起きて学校準備してたら黒い煙が出て、何かねーと言って、どこか火事かねと言って見て、それがボーンと爆発したわけよ。あれが、十・十空襲だということがわかって、あれから皆びっくりして、家の後ろの庭、あの、後ろのところに壕を掘って、きたらすぐ入れるように、あれも、絶対忘れませんね。空襲。初めての空襲。十・十空襲と言ってます。

 

また学校行くとき、あの、4年生5年生のころね、団体登校をしよったですよ。そしたら高等2年生が、「敵来襲ふせー」と言って、すぐ、溝にこんなしたり、させられてこれが忘れられません。

 

だからもう、絶対にどんなことがあっても戦争をしてはいけないと、戦争は反対、特に最近もう、オスプレイ、今でさえも普天間、嘉手納の飛行場あんなだのに、これにさらに沖縄に持ってくるというのね、絶対に絶対に反対です。座っていて涙が出ますよ。「慰霊の日」(6月23日)前になると、色々なことを思い出してね。明日は慰霊の日ですが、うちは姉がひめゆり塔にいるんですよ。あの、師範学校でなんだったかね、兵隊の、何したといいますか、ひめゆりに名前もちゃんと刻まれて、家族毎年行ってます。車何台か出して。だから明日はまた朝から行って、部落でもあるから、部落の慰霊祭にも行ってます、帰ってから。だからこの、慰霊の日の前になると涙が出ます、本当に。こんなにしてたら。また兄のこともね、生きていたら丁度、丁度兄なんかはいたら校長になっていたはずね、あるいは90何歳になってるねと、こういうことを思い出します。同級生は皆校長になって退職したんですよ。うちの兄は今、校長なっていたはずね、90何歳なってるねと、こんなこと絶対忘れません。いやですね、戦争は。

 

 

 

 

ospreyfuanclub.hatenablog.com