佐敷町・宮本壕
山城さん一家全滅 ~ 悲しさ誘う運命の分かれ道
ススキや木の葉をかきわけるように進んでいく区長の山城光則さん(51)=佐敷町津波古=と証言者の上原東吉さん(53)=同。その後ろから足元を確かめながら坂を登っていった所が山城カマドさん=当時33歳=一家の眠っている宮本壕だった。地元の人たちが通称イーヌモー(上の森)と呼んでいる高台にある壕は、国道331号のバックナー三差路から百名に向かう県道沿いに建っている普天間内科医院のちょうど裏辺りになる。現在は、深々とした草木に覆われて壕跡さえはっきりと分からないが、壕辺りから見下ろす眺めは絶景。眼下に波穏やかな中城湾が広がっている。
「宮本壕が艦砲の直撃を受けて埋没したのは沖縄戦が始まって間もないころ。4月の15日前後だった。宮本壕の北側、約20メートルほど離れた大岩の下をくり抜いた穴に避難していた私や父、祖父らも、激しく落ちてくる土砂をかぶりながら、これで終わりかな―と思って震えてました」と上原さんが話す傍らで、山城区長は「津波古は軍の勧告を受け、米軍が上陸する前から女、子供、年寄りは山原に疎開していた。残っていたのは若者や、疎開しようにもできなかった人たちだけ。5、6歳を頭に3人の女の子、それにおばあさんを抱えていたカマドさんの一家もそうだったんでしょう。哀れといえば哀れ。掘り出してやりたいが、個人の力ではどうすることもできない」と国の発掘を期待する。
当時、馬天港は海軍が使用。港わきの保管庫に魚雷などを搬入する際、既存の桟橋は小さすぎるとして、新しい桟橋の工事が昭和18、9年ごろから始められた。山城区長の話では「幾つもの請負業者が入って、たくさんの人が働いていた」という。カマドさん一家5人が埋まっている壕は、そうした業者のひとつ、宮本組が昭和19年の10・10空襲後に造った。入り口が二つあるU字型をした壕で、高さは2・5メートルほどもあったという。この壕を宮本組では食料倉庫として使っていたが、米軍上陸前後の4月1日までには、宮本組はどこかに移動。後に残された壕は区民の避難場所に利用された。
しかし、平和な時には素晴らしい景観の見られるこの高台も戦時ともなれば、目立つだけに安全な場所ではない。事実。入り口が海に面していたのが災いしたのだろう。米軍の格好の標的となってしまった。上原さんもこう証言する。「なにしろ、海から見上げたら、入り口がポッカリと口をあけているのが見えたのだから」と。
当時、米軍の海上からの攻撃法は朝出動、日暮れ前に引き揚げるという戦法。それを定期便みたいに繰り返していた。「だから、まだ家を焼かれてなかった人は家と避難場所を往復するのが日課。焼き出された人も、時間がくると、じっと壕内に潜んでいたものです」と上原さん。この日の午前10時ごろから米軍の攻撃は始まり、猛烈な勢いで射ってきた。この攻撃で宮本壕は文字通りの直撃を受け、アッという間に、二つの入り口とも埋まってしまった。これが、「カマルーおばさん、カマルーおばさん」と言って上原さんもよく行き来していた宮本壕の最期、カマドさん一家の最期だった。
(「戦禍を掘る」取材班)1983年9月27日掲載