「戦場の道」
キビ畑に1柱の遺骨 ~ 糸満市新垣 38年前、戦死した県人か
「そう、去年の9月か10月ごろでしたか、60歳代の婦人がこのあたりの草をかきわけながら、確かにこの辺でウチの者は亡くなったって言っていたね。しばらく捜していたが、間もなく帰られてねぇ」
糸満市新垣のサトウキビ畑で、最近、肉親の形見を求める婦人のことが話題に上っている。婦人が畑を去った後、今年の8月上旬に1柱の遺骨がみつかり、場所もこの婦人が38年前の記憶をたどって立ち尽くしてた小高い丘近くだったためだ。
遺骨の発見者は同市新垣、新垣区長、大城秀雄さん(48)。8月12日ごろ、サトウキビ夏植えの準備でトラクターを操作中、岩石を撤去しているうちにあぜに散らばっていた骨をみつけ、一時、作業の手を止めた。両腕と頭骨の一部、アゴなど十数個。
「表面にあったものだけなので、丁寧に掘ればもっと骨はあるかもしれない。集めたものだけではちょっと特定は無理だろうが、肉親などが発掘に立ち会えば何か手がかりが出ないものかと思って…」と大城さん。遺骨を1カ所に集めたほかは、そのまま現場保存。
ある老婦人が訪問
遺骨の身寄りを捜す大城さんの耳に「そういえば去年、この付近に道を尋ねる婦人がいた」という情報が飛び込んできた。発見現場近くのハウスで菊栽培をしている同市新垣、大城政勝さん(46)が、その婦人に直接会っていたことも分かった。
1年前、政勝さんが会った老婦人は連れもなく1人であぜ道に立っていた。60~70歳。なまりのある方言だった。
老婦人は「このあたりに真栄里に通じる道があったはずだが」と政勝さんに尋ねた。「そこのあぜがそうです」と答えると、その婦人は「ああ、そうだ、ここの通りだ。ここを通って真栄里に行ってね。この付近でウチの者を亡くしたんだ」とため息、しばらくあたりのススキやカヤの茂るあぜを踏み分けていたという。何もみつからなかったが、あぜ道だけは38年前の記憶とはっきり重なったようで、「ここだ、ここだ」と何度も確認の言葉をもらしていた。
「名前? 忙しかったもので聞いていません。真栄里へ知念か玉城あたりから嫁にきたような話しぶりだった」と政勝さん。
「早く遺族現れて」
発見者の大城さんは、政勝さんの話からさっそく、同市真栄里まで足を延ばした。この9月、市の区長会でも話題にした。しかし結果は思わしくなかった。「知念、玉城から嫁に来た者は真栄里にはいないといわれてねぇ」大城さんは途方に暮れている。
「もうしばらくこのまま保存、遺族を捜してみます。それでもだめなら援護課に連絡して引き取ってもらおうと考えているんですが」
遺族との再会を待つ遺骨発見現場は、新垣区のソージガー(天然泉)から県道45号をまたぎ県道7号へ抜ける旧道沿い。ススキやカヤなどが生い茂り、あぜ道としてやっと命脈を保つ旧道は、かつて沖縄戦避難民が逃げまどった戦場の道でもある。路傍の遺骨がせめて肉親の温かい手のぬくもりで迎えられてほしい―大城さんら新垣住民の願いだ。
(「戦禍を掘る」取材班)1983年9月23日掲載
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