国によるサンダタ壕の遺骨収集で、多くの遺骨が見つかる中、身元確認に集まる住民=1983年2月、伊江村西江上(知念正行さん撮影)
「ここを知る人がいなくなるのも、やがてさ」 惨劇の壕は土の下 軍民で掘削「自決」の地 | 沖縄タイムス
「ここが壕だったなんて分かる人がいなくなるのも、やがてさ」。伊江村の山城和子さん(82)は自宅近くに広がる牧草地と畑を見詰めながら複雑な表情を浮かべ「皆、思い出したくないけど」とつぶやいた。
伊江村西江上の東側、城山の麓近くにあったサンダタ壕。沖縄戦時、日本軍と住民が十数メートル地下に造ったが、今は痕跡もない。
この壕で1945年4月20日、動員された島民も日本兵と共に最後の総攻撃命令を受けた。多くの住民らが「集団自決(強制集団死)」に追い込まれた。
親戚一家全滅
当時7歳の和子さんは今帰仁村に疎開して助かったが、3歳から17歳前後までのいとこ6人含む親戚一家は、サンダタ壕で全滅。83年の遺骨収集で64柱が見つかったが、どれが身内かも分からなかった。「みんな自爆。兵隊に手りゅう弾を持たされたって。聞きたくも、考えたくもなかった」
「沖縄戦の縮図」ともいわれる伊江島の地上戦。米軍上陸の4月16日から軍民入り乱れた6日間の戦いで住民約1500人が犠牲になった。17~25歳前後の未婚女性で編成された女子救護班や、炊事などを担った婦人協力隊まで捨て身の斬り込みに参加させられた。
県史などによると、女子救護班は約140人で生存者は9人。その一人でサンダタ壕にいた当時17歳の山城竹さん(92)も手りゅう弾二つを手渡された。「怖くて見えない所にすぐ捨てた。爆雷を背負うのも教えられたが、行けなかった」
当時17歳で救護班だった内間初枝さん(92)は一緒だった母親に止められ、斬り込みに出なかった。「戦の話になると、何とも言われんね…」と目を伏せる。 斬り込みに出た日本兵と住民は、ほぼ全滅。サンダタ壕の悲劇は、2人が壕に残って間もなくだった。
渡された手りゅう弾1945年4月21日、当時17歳だった山城竹さん(92)は、伊江村のサンダタ壕内で突然の光と衝撃に襲われた。気が付くと、周りはけが人と遺体だらけ。自身の左下半身には、無数の破片が食い込んでいた。
「誰がやったか分からんけど、手りゅう弾じゃないかね。ばんみかして明るくなりよったから」。当時国民学校5年か6年だった妹正子さんは即死。父松助さんは数日後に亡くなった。
手りゅう弾が数回、連鎖的に爆発。十数メートル地下に掘られた横穴状の壕内は70~80人ほどいたとされるが、「死体でいっぱい」に。腐乱臭が立ち込める中、数日間過ごした。
父たちと離れていた竹さんも大けがを負ったが、手当てしようにも、どうにもできない。肉親を失ったと分かっても「頭がいっぱいで何も考えられなかった」。
遺体そのまま
当時17歳だった内間初枝さん(92)は小さな横穴にいて助かった。壕では「米軍に捕まったら股裂きにして殺され、女性は辱められる」などと兵隊から聞かされた。「捕まるより自決しなさい」と各家庭に手りゅう弾が渡されていた。
救護班だけど何もできない。周りの遺体は片付けることもできず、そのまま。腐乱し、白い煙が立ち込める壕内に約2週間いた。 「もう何とも言えん。あの時、あのことを考えると…。こんなにしてまで生きたんだねって思うさ」。初枝さんはそう言って話を止め、遠くを見詰めた。
髪を切り男装
村教育委員会「伊江島の戦中・戦後体験記録」などによると、2人が動員された女子救護班は、伊江島守備隊と村の主導で45年2月下旬に編成が決まった。
教えられたのは包帯の巻き方ぐらい。米軍上陸までは壕掘りや竹やり訓練がほとんど。長い髪を切り、男装する女性もいた。
竹さんも、長かった三つ編みを切り落とした。竹やりを持ち歩き、爆雷の背負い方も教えられた。手りゅう弾を手渡された日本兵からは「救護班だから、兵隊と同じ。敵が来たら投げなさい」と言われていた。
手りゅう弾は捨てて壕に残ったが、父と妹を失い、戦後も左下半身に残った手りゅう弾の破片に苦しんだ。「大変だよ。(あの時代に)生きていないと分からないさ」
初枝さんも同じことを言い「食べる物も何もない。生きるのもようやくだった。今の子どもたちや孫たちにあんな思いはさせられん」と静かに語った。
竹さんは取材中、こんな歌を何度も口ずさんでいた。「長い黒髪切り落とし~、爆雷背負いて敵の中、桜の花咲く、伊江島へ~」。悲しみと寂しさが募る静かなメロディーだった。 ◇
◇ 沖縄戦から75年。今では消えてしまった壕などの戦跡を通して、各地に刻まれた戦の記憶をたどる。(社会部・新垣玲央)
山を臨むサンダタ壕があった場所を説明する山城和子さん(手前)。遺骨収集後に埋められ、今は牧草地や畑が広がる=4日、伊江村西江上