琉球新報『戦禍を掘る』 特殊部隊

琉球新報『戦禍を掘る』 特殊部隊

敵の物資を破壊

 

散乱の死体目撃 ~ 普久原さん 現場を地図で再現

 米軍上陸直前の昭和20年3月末、普久原さんは牧港に行くよう命じられた。隊員は一人ひとり上官に呼ばれ、行く先を告げられる。他の隊員がどこに行くのかは知らされない。ただ、3~5人が1チームとなって動く。ただし行動は別々。会う場所を決め、行動する。持参する武器は手りゅう弾一つ。すべては現地調達だった。

 

 「でも、いざ、戦線に行くと、学んだことは何の役にもたたなかった。もちろん学んだ日数も短いし、隊自体も未完成なもの。その上、場所は海岸線。後方に回りようにも回れない地形でした」。上陸後、米軍におされ、日本軍はジリジリと南下して行った。それとともに、普久原さんも牧港から嘉数―安謝―安里―楚辺―豊見城―与座―と南に下がり、6月には摩文仁に入った。

 

 「途中、各地で編隊を組まされ、時には切り込み隊に組まされそうになったことも」。「特殊部隊」の隊員は行動の際、通常階級章の付いていない軍服を着ていた。唯一、部隊所属の証しとなるものは、いつもポケットに携えていた紙きれ1枚。

 

 それには、山部隊と兵番号が書かれていたほかに、「待命中」と記されていた。命令を帯びて行動中、との意味だった。「ボロボロの紙きれでしたが、役に立ちました」

 

 摩文仁に着くと、疎開で空き家となった民家で何日か過ごした後、海岸線近くの壕近くに移った。現在の沖縄平和祈念堂近くにあたる。

 

 「2階建ての壕で、40人ほどいましたかね、兵も民間人もいました。入ったのは6月10日前後でしょう」。辺りは死体が散乱、手りゅう弾がとびかい、敵軍はもう目の前まで来ていた。

 

 6月20日、ついに捕虜となり、壕近くの広場に集められた。午前10時ごろだった、と言う。そこで普久原さんは、米兵が散乱する死体を分けているのを目撃した。しらばく目をこらし、見ていると、どうやら生きている者と死んでいる者を分けているようだった。

 

 「瞳孔(どうこう)を調べ、一人ひとりチェックしてました。うじのわいているひん死の老人もいましたが、病院に運ぶつもりでしょう、死体から離してました」。戦火の中での行為。米兵のヒューマニティーを見た思いだった、と言う。1時間程して、やってきたトラックに乗せられ具志頭の仮収容所に運ばれたが、今度は動き出したトラックから、大きな穴の中に衣服を着けた民間人らの死体が無数にあったのを見た。

 

 「穴の大きさは長さ30メートル、幅5メートル、深さ2メートルはあったのでは。かなりの大きさでした。恐らくは100体じゃあったのではないかと思います」。穴のそばには、戦車に刃を備えたようなブルドーザーが1台止まっていた。「米兵が分けていた死体はここにうめられたんだな」と直感した。

 

 戦後、その近くを通るたびに、その死体のことが頭をよぎった。新聞にも収骨を報じる記事はなかった。39年間、気がかりだった、と言う。

 

 普久原さんが当時の現場の地図を書いた。実に詳しく、正確さを印象づけた。「一たん見た地形は覚える」と学んだ特殊部隊の隊員をほうふつさせた。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年4月10日掲載

 

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