書かされた「遺書」~ 沖縄県立第一中学校、一中鉄血勤皇隊の埋められた遺書
戦禍を掘る 第2部・学徒動員
(1)今一度、顔見たく… 果たせず散った17歳
沖縄戦が終わって2年近くたった昭和22年5月ごろ、豊見城村保栄茂の森の中から多くの遺書や遺髪が掘り出された。戦争中、鉄血勤皇隊として軍と行動をともにした県立一中の生徒たちが、戦火の迫ってくる状況で家族あてに残したもので、ざっと100通。校名入りの封筒に一つひとつ納められていたが、シミがいっぱい付いてボロボロに朽ちかけていた。
◇ ◇
御父様
自分は生きているうちは何一つ孝養を尽くしませんで、死ぬに当たりこれ一つだけが残念です。自分も皇国の兵として立派に散ります。父上様においても体を大切になさいまして、小生の分まで御奉公して下さいませ。御母上様
御母様お元気ですか。保も立派に散ります。興直も立派な軍人にして下さいまで。順子も御国の婦人として恥ずかしくない様に御教育下さい。御姉様も元気でっや下さい。家族一同様へ
皇国のため敵兵から郷土沖縄を守るために散ることは、日本男子としての本望であります。死ぬまで頑張ります。御安心下さいませ。しかしながら今一度、顔を見たかった。長嶺 保より
◇ ◇
この遺書を書いた長嶺君は昭和20年当時、5年生。鉄血勤皇隊として第5砲兵団司令部(通称・球9700部隊)測地隊に入隊、首里で戦死した。17歳だった。遺書は掘り起こされたあと、残念ながら引き取り手がいなかったという。
文面は勇ましく、当時の軍国主義の徹底ぶりがうかがえるが、最後にひと言だけ「もう一度会いたい」という切ない思いを書き加えてある。多感期の若者の率直な気持ちだったろう。
しかし、当時は周りに将校らの厳しい目があり、女々しい気持ちや弱気な言葉はタブーとされていた時代だった。他の生徒たちの多くは最後まで「何も思い残すことはありません」と“立派”な文章をつづってあった。
「今ではとても信じられない文面でしょうが、あのころはそんな時代でしたし、そんな教育を受けていましたからね」
戦後、中心になってこれらの遺書を掘り起こした安村秀利さん(63)=那覇市古島=は、戦時中の風潮を振り返りながら苦笑した。そして、自らの手で掘り当てた時のいきさつを語り始めた。一つひとつのシーンを確信するように―。
◇ ◇
秀利さんは戦後、従軍していた中国大陸から出身地の久米島に復員してきた。しばらくして沖縄本島の糸満に移り住んだが、当時は秀利さんのほかに同じ久米島出身の人たちが何人か糸満に滞在していた。
その中に、戦死した弟の遺品を捜し歩く2人の男性がいた。秀利さんの異母兄弟に当たる仲道誠考さんと、久米島の小学校で同級生だった島袋完春さん(故人)。この2人の弟たちはいずれも県立一中の学生だったそうで、鉄血勤皇隊として駆り出され、戦死したという。
「完春の弟・完敏は遺骨だけ親元に届いていたそうですが、誠考の弟・誠順に関しては遺骨すら不明だとの話でした」
秀利さんが「一中生の遺書がどこかに埋まっている」とのうわさ話を耳にしたのはそんな時だった。うわさでは、一中職員で書記をしていた仲原広和さんが戦時中、生徒たちの遺書を集めて大事に持ち歩いていたとか。
「仲原さんは父と同期。顔も知っている」とビックリした秀利さん。「これは何としてでも仲原さんに会って埋蔵場所を聞き出し、同郷の者たちのために遺品を掘り起こしてやらねば…」と心に決めたという。
(「戦禍を掘る」取材班)1985年1月30日掲載
(2)戦死覚悟の遺書残す 撤退の途中、岩下に埋める
昭和22年3月ごろ、糸満に住んでいた安村秀利さんは、戦時中に県立一中生が書き残したといわれる遺書の行方を求めて、沖縄本島・中部の石川に仲原広和さんを訪ねた。
仲原さんはこれらの遺書をまとめて1カ所に埋めた人で、戦時中は一中の職員として書記をしていた。秀利さんの父・仁秀さんとは同じ久米島具志川村西銘の出身で同期生。そのため、秀利さん自身も仲原さんの顔は幼いころから見知っていたという。
石川の仲原さんを訪ねたのは戦後間もないころで、町を出るのに証明書を必要とした時代。秀利さんは糸満の警察署で理由を詳しく説明して証明書発行の手続きを済ませ、石川へ急いだ。
仲原さん宅に着くと、玄関先から奥の座敷へ通された。秀利さんはその時の模様を振り返る。
「仲原さんはそこで火鉢にあたっていました。盛んに咳(せき)込んでいて体はいくぶん前かがみの格好。あいさつを済ませたあと早速、遺書の件について話を切り出しました。仲原さんは戦争の時に爆風でのどから肺までやられてしまったらしく、会話が不自由そうでした」
秀利さんは、同郷(久米島)の者が弟たちのい遺品を捜し求めており、自分が手を貸そうと考えている、などと事情を説明。仲原さんに「同級生から聞いたうわさでは先生が一中生の遺書を持ち歩いていたとのこと。どこかに埋めてあるとも聞きました。さしつかえなければ掘り起こしてみたいのですが…」と相談を持ち掛けた。
「そうか。それじゃあ、ざひそうしてくれ」。仲原さんは秀利さんの願いを快く聞き入れ、かえって恐縮した。「遺書のことは長いこと気になっていた。せめて私が元気だったら、掘り起こして遺族に伝えてやるのにと…。君が南部に住んでいるというのなら幸いだ。ぜひとも掘り出してくれんか」
仲原さんは身の回りから紙と鉛筆を探し、遺書を埋めた現場の略図を書き始めた。埋めた時のいきさつは大まか次のようなものであった。
◇ ◇
昭和20年春、鉄血勤皇隊として学徒動員された県立一中の職員と生徒たちは「戦死」を覚悟した。そして一人ひとり家族あてに遺書をしたためた。
その遺書を入れるために茶封筒が手渡された。封筒の裏には前校長名のゴム印が押されていて、生徒たちは表に自分の本籍地、現住所、部隊名、氏名を書き入れた。
髪の毛やつめも一緒に封筒の中にしまい込んだ。当時の生徒たちは全員丸刈りで、刈り取った頭髪は言わば粉末状。このため女性のように髪の毛を束ねて結ぶことができず、紙に包んでそのまま遺書と同じ封筒に入れることになった。
勤皇隊本部に提出されたこれらの遺書、遺髪を一括して保管していたのが、事務職だった仲原さん。
激しい戦闘が繰り広げられる中、勤皇隊は首里から南風原を経て豊見城の保栄茂(通称・ビン)まで撤退。その間、仲原さんは遺書の入った封筒を肌身離さず持ち歩いたという。
保栄茂の森で鉄血勤皇隊は、先に砲兵隊が使用していた壕に布陣していたが、やがて「さらに南へ下るよう」命令が下された。情報によると、米軍は南明治橋を渡っている最中だとのこと。
仲原さんは「もうこれ以上、遺書などを持ち歩いては行動できない」と判断。遺書の入った封筒をはじめ、卒業証書、手提げ金庫などを二つの壷に分けて入れ、目印として選んだ岩の下を掘って埋めた。そして6月初め、保栄茂を後にした。
◇ ◇
埋めた場所の略図を書きながら仲原さんは話した。「岩の下に掘った穴は、頭を突っ込むと腰まで入るほど深かったですよ」
(「戦禍を掘る」取材班)1985年2月3日掲載
(3)ようやく現場を確認 卒業証書見つけ大粒の涙
県立一中生らの遺書を戦火の中で埋めた仲原広和さんは、略図を書きながら埋めた場所を説明した。
「ここに大きな松の木があって、そこには岩があった。その岩の下の方を掘り起こせば二つのつぼが出てくるはずだ。つぼには遺書と遺髪の入った封筒のほか、卒業証書、事務関係の重要な書類も入っている。あぶら紙でつぼの口を封してあるから大丈夫だろう」
仲原さんの説明を聞きながら安村秀利さんは「遺書は仲原さんが命がけで埋めたものだ。発掘作業は慎重に進めなければ…」と思った。作業は一人では無理。いったん南部に戻り、まずは場所の確認をしたい。
秀利さんは、「埋めた場所が分かりしだい連絡しますので、その時は大変ご苦労ですが長男の広俊さんの力もお借りしたいのですが」と仲原さんに話し、ひとまず石川の仲原さん宅を引きあげることにした。
そして数日後―。秀利さんは一人で現場の豊見城村保栄茂の森へ足を運んだ。ところが、そこでア然とする。一帯は爆撃で草木がすっかり焼けてしまっていて、まるではげ山。「これでは地図が役に立たない」。目印として教えられた大きな松がまずない。岩はあったが、数が多すぎてどの岩だったのか、とても判断できない状態だった。「一帯を片っ端から掘り起こしてみるしかないな」―。
5月に入ったある日の早朝、秀利さんは、弟たちの遺品を捜していた島袋完春さんと仲道誠考さんに協力を求め、再び現場にやってきた。夏を思わせるような日差しの強い日だったが、長そでの作業服を着込み、かまや熊手、なた、もりなどを手にしていた。
秀利さんはその日のことを語る。
「人手は3人。保栄茂の御嶽のある一帯を3等分して一斉に持ってきた道具を使って掘り始めました。ところが掘っても掘っても仲原さんが埋めたというつぼは出てこない。暑くて、お昼を過ぎるころには汗がしたたり落ちてきたのを覚えています」
そして夕方―。作業に取りかかったのが朝の8時ごろだから既に8時間以上。太陽は西に傾きかけていた。もう何十メートル掘っただろうか。「これだけ掘っても出てこないからきょうはもう切り上げよう。また改めて後日来ることにしよう」
2人の仲間とこう話しながら帰る支度を始めようとした秀利さんは、ふと、一つの岩が目に付いた。「岩の下の方の土がほかの場所と違う。その周辺だけかたつむりが一匹もいないではないか。これは以前に掘り起こされたことがあるからだ」。そう思うと、飛び上がりたくなるような衝動にかられたという。
「帰ろうとしていた矢先だけに幸運でした。急いでその少し盛り上がったような土の部分にもりを突っ込んでみました。これまでの土と違って確かに掘りやすい。絶対に何か埋めてあると思って土をかき出していくうちにつぼらしきものの頭のところがポッカリ。近くにいる仲間の2人を慌てて呼び集めました。そして、まずは携えてきた黒い線香をたき、手を合わせたのです。土の中に眠っている一中生の霊に事情を説明し、掘り起こしたいとお願いしました」
1メートル以上も掘った土の中から出てきたのは、1斗入りのつぼが二つと手提げ金庫が1個。つぼの一つは仲原さんが言っていた通りあぶら紙で厳重に封じられていたが、もう一つは封が破れて浸水していた。
封をされていた方の壷を開くと、遺書の入った封筒、卒業証書がほぼ完全な状態で出てきた。秀利さんはその時の感動のシーンが今でも頭に焼き付いているという。
「戦死した島袋完敏さんの卒業証書がその中にあり、完春さんは弟の真っさらな証書を抱きしめ『これは自分が持って帰ろうね』と言って大粒の涙をこぼしていました」
(「戦禍を掘る」取材班)1985年2月5日掲載
(4)壷の中にあった遺書 一部は回収、埋め直す
豊見城村保栄茂の森―。大きな露出石灰岩の入り組んだ湿気の多い岩陰で、安村秀利さんら3人はついに一中生たちの残した遺書を掘り起こすことができた。
遺書は封筒に入れて二つの壷(つぼ)に分けてあった。この封筒のほか、卒業証書や事務関係の重要な資料の入った手提げ金庫も出てきたという。
オレンジ色の油紙で壷の口をしっかりと封してあった一つの壷は、詰めてあった遺書などがほぼ、埋めた時のままで保存されていた。
しかし、もう一つの壷は油紙が破れていて中に入れてあったものは水分を含んでボロボロの状態。封筒は湿気でくっついてしまっていて、戦時中に生徒たちが書いた封筒のあて名などもインクがにじんで判読不能なものが多かった。秀利さんはその時の模様を語る。
「3分の2以上はベタベタになっていてどうしようもなかったですね。手提げ金庫なんかは金属部分が完全に腐食してしまっていて、中にあった紙幣はドロドロでした。苦労して掘り当てた喜びと、全員の遺書がちゃんと残っていない残念さで複雑な気持ちでしたね」
この日の予定は場所の確認だけだったので、掘り起こした遺書はもう一度埋め直すことになした。壷を穴に戻し、周辺からチリを集めてきて上からかぶせ、偽装工作。線香ももう一度たき直してから糸満に引き揚げた。ただその時、作業を手伝ってくれた島袋完春さんが見つけ出した弟の遺書を「どうしてもいま持って帰りたい」と懇願。「母親に死んだ完敏の卒業証書を見せるんだと言って聞かず、ワーワー泣いてしまったのでその日に持ち帰ることを許しました」と、秀利さんは振り返る。
そして数日後―。秀利さんは石川の仲原広和さんに知人を通じて「仲原さんが埋めたという場所に遺書は確かにあった」と報告。せんだって訪問した際に約束した仲原さんの長男・広俊さんに作業の協力を依頼した。
さらに秀利さんは、広俊さんのほかに自分のいとこに当たる安村仁俊さん(県立一中出身)にも協力を頼み、3人で改めて保栄茂の森に出かけた。
3人の手で遺書は再び掘り返された。朽ちてしまったものはどうするか迷ったが、「封筒の文字が全く読めないものは持ち帰ってもどうしようもない」というのが結論だった。
結局、油紙で封をしてあった壷からは、湿気で判読困難な一部を除いて遺書(遺髪入り)と卒業証書をほとんど回収。水の入った壷の方からは3分の1ほど拾い上げた。残りの遺書はその壷に残していくことになった。手提げ金庫の方も腐食がひどく、そのまま廃棄した。
拾い集めた遺書などは、広俊さんが担いできたリュックに詰めて石川へ。中身をすべて取り出した方の壷は秀利さんが糸満に持ち帰った。
この壷は、当時、久米島から糸満に出てきていた仲道誠順さんの母親が久米島に持っていった。誠順さんは沖縄戦の時に県立一中の4年生。球部隊の野戦重砲隊に配属され、三和村(現糸満市)の真壁で戦死した。誠順さんの遺骨は家族の元へ届かなかったそうで、母親は「この壷を息子のみ霊だと思って暮らします」と涙を浮かべていたという。
「残念でならないのは遺書を全部持ち帰らなかったことです。たとえボロボロになっていようとも…」と秀利さんは今さらながら悔やんでいる。
(「戦禍を掘る」取材班)1985年2月6日掲載
(5)養秀会館に一部保管 樹皮に記された辞世の句
安村秀利さんたちが豊見城村保栄茂の森から掘り起こした遺書、遺髪の入った封筒はその後どうなったであろうか。秀利さんと一緒に発掘作業を手伝った仲原広俊さん(遺書類を埋めた元県立一中職員・広和さんの長男)がまとめてリュックに詰め、父親のもとに持ち帰ったという。
広和さん、広俊さん親子は既に亡くなっており、広俊さんの弟で現在、北谷高校校長の仲原繁さん(57)=那覇市国場=に当時の話を聞いた。
繁さんは県立一中の5年生だった昭和19年に熊本県八代に疎開。その後中国・満州に渡って就職、終戦後に沖縄へ引き揚げてきた。
「中国から戻ってきたのは23年ごろだったでしょうか。その時、石川の実家には既に掘り起こされた遺書が大切に保管されていました。父は間もなく亡くなり、あとで母から聞いた話によれば、これらの遺書は一中生が書き残したもので、兄の広俊が掘ってきたとのことでした。ちょうどそころ、石川高校の校長先生をしていた野崎さんという人がうちに訪ねてきたことがあったそうで、家族のだれかが遺書をそっくり渡したという話です」
野崎さんというのは、戦前、県立一中の教頭をしていた野崎真宣さんのことだ。
「遺書発掘」を報じた昭和24年11月30日付の新聞は次のように書いている。
「最近、豊見城村保栄茂の壕から元県立一中校長・藤野憲夫氏ほか職員生徒約百名の遺書、遺髪が掘り出された。遺書を埋めた父親の遺言で仲原兄弟が掘り当てたもので、野崎石川高校長を経て、首里外語分校長・外間政章氏(元一中教諭)のもとに届けられ、丁重に保管されている」
この報道と繁さんの話に基づき、遺書の“移動”を確かめようと野崎さんの娘・陽子さん(北谷高校教諭)に問い合わせてみた。
「父は亡くなりました。母に尋ねてみましたが、遺書の件については全く覚えていないそうです」と陽子さんの返事。結局、遺書が野崎さんの手に渡ったいきさつについては分からずじまいだった。
一方、外間政章さん(86)=那覇市首里桃原在=も記憶が定かでなかった。「野崎さんから遺書をもらったというのは覚えがない。仲原さんらが掘り起こし、自分が預かったとしか記憶にない」という。
40年近い歳月が関係者の記憶を薄くし、当事者の多くが亡くなってしまったのが事実確認を困難にしてしまった。
また、新聞報道にある「父親の遺言で仲原兄弟が掘り当てる」という記述は、遺書を中心になって掘り起こした安村秀利さんの証言といくぶん食い違う。仲原繁さん自身も「発掘作業にかかわったのは兄だけで自分は現場に行っていない」と話している。
いずれにしても掘り起こされた遺書が、仲原さん宅から何らかのルートを通って外間さんの手もとに届いたのは事実。100通にもおよぶ遺書の中から遺族の分かっているものはそれぞれ届けられたが、遺族の分からないものや遺族の好意で提供してもらった一部の遺書が現在、那覇市の首里高校裏にある養秀会館で保管されている。
先日、その養秀会館を訪ねた。首里高教諭の喜村朝貞さんの案内で、一中関係の資料が詰まった資料室に通された。
喜村さんは戸棚からいくつかのケースを取り出し、中に入れてある遺書を見せてくれた。朽ち果ててボロボロの封筒から遺髪がこぼれている。「当時の男子学生は五分刈りでしたからね。女性の長い髪を残すのとは違いますよ」と話しながら、喜村さんはその中の一つのケースを指した。
一中生だった山内昌栄君の辞世の句が刻まれた木の皮が入っている。出陣に先立ち父母面会のため家に帰ったが、家にはだれもおらず、庭の木に句を刻んだものだという。山内君は、東風平で戦死した。
(「戦禍を掘る」取材班)1985年2月7日掲載
学徒の遺書を後世に残すための修復作業
その後、30年の月日がたった。現在、水に浸かって痛んでいたという遺書も、専門家に委託され修復されているという。
壺の中の一中学徒の遺書
沖縄戦に学徒動員された21校(沖縄県)の中、学徒の遺書は一中のみである。戦況が厳しくなった最中、教官が学徒に遺書を書かせ、2つの壺に詰め激戦の中、保栄茂の壕を経て地中に埋められ、戦後、地中より取り出した壺の中に納められていた遺書である。壺の1つは水が入り判読できない遺書がほとんどで、もう一方の壺は、辛うじて判読でき、包まれた遺髪・爪とともに一中学徒隊資料室に展示されている。
一中学徒の遺書は貴重な戦争遺産
遺書は、大志を抱いていた学徒の「御国のため」という建前と「家族に会いたい」という本音の揺らぐ心情が読み取れ、将来を絶たれる無念さが伝わる。 このような学徒の遺書は、二度と悲惨な戦争を繰り返さないために後世に受け継いでいかなければならない貴重な戦争遺産である。 養秀同窓会平和部会では、70余年を経てきた学徒の遺書を後世に残すため修復(専門に依頼)に取り組んでいます。
▼水の入った壷の遺書と遺髪・爪
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