1945年4月20日、首里城焼失 ~ 琉球新報「首里城地下の沖縄戦」(1992年6月24日)
1945年4月20日の米軍総攻撃
この日、米軍はナパーム弾と火炎放射装甲車を導入、
首里と与那原の町を燃やし尽くした。
首里城焼失 ~ 琉球新報「首里城地下の沖縄戦 32軍司令部壕」
沖縄の象徴 跡形もなく ~ 無残な姿にぼう然と
1945年(昭和20年)4月、首里城が燃え上がった。米軍は最後まで貴重な文化財である首里城への攻撃をためらったというが、32軍が首里城地下の壕に潜んでいるため、ついに攻撃の対象になってしまった。
県民にとってはかなり衝撃的なことには違いなかった。が、人によって反応はさまざまだった。人が次々と死んでいく状況の中、「それどころではない」という気持ちも中にはあった。
「4月20日ごろだったと思う」。川崎正剛さん(64)は振り返る。「バリバリと音を立てて燃えていた。夜が明けて行ってみたら燃えかすがくすぶっていた」。
子供のころから首里城を庭のようにして遊んだ川崎さんだったが、「当時は宝物が焼けた―という感覚はなかった。学友が次々銃弾に倒れており、感傷なんてなかった」という。
豊里安陞さん(63)は火勢が収まってから無残な首里城を見た。「大きな柱が何本もくすぶっていたのが印象に残っている。爆撃機が飛んでいる中だったので、自分の命の方が大事。首里城が燃えているな―ぐらいの思いだった」という。
しかし、豊里さんは留魂壕に戻ってからじわじわと心が締めつけられるような感覚に襲われる。「何とも言えない気持ちになり、急に落胆したのを覚えている」―。
諸見守康さん(63)は首里城が燃え上がった時、32軍司令部の壕掘りから戻り留魂壕で眠っていたという。「焼けているぞーとの声で目が覚めた。伝統が焼けるー。何とも言えない気持ちだった。付近の住民も何人か出てきてしばらく立ち尽くしていた。砲撃が始まって離れましたが…」。
これまでにも首里城は3度焼失した。が、城壁が崩れ、草木が焼き尽くされるほど、跡形もなく破壊されたのは初めてのこと。1712年から1715年にかけて3度目の再建がなされ、沖縄の歴史と文化の象徴として県民に親しまれてきた首里城は、戦争という愚かな行為によってもろくも消え去ってしまった。
(32軍司令部壕取材班)1992年6月24日掲載
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