戦争は教育から手をつける ~ 軍事教練 - 教育機関からはじまる軍人教育 (琉球新報・戦禍を掘る「ある教練教師の沖縄戦」)

 

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1925年の陸軍現役将校学校配属令の公布により、中学校以上の教育機関で実施された軍事教練。だが、戦局が悪化するに連れて厳しさを増した。

陸軍省は1928年、青年訓練修了者検定規程を公布し、軍事教練を成績に加えた。武器の使用法や行軍などが国語や数学と同様の正科目になり、及落を配属将校が判断。在校生は軍人勅諭を暗記し、実技訓練にいそしんだ。

「兵隊になって国に奉公」 軍事教練、1928年に科目化 学びの場に浸透【心縛「共謀罪」と沖縄戦・6】 | 沖縄タイムス

  

琉球新報『戦禍を掘る』ある教練教師の沖縄戦

軍人勅諭など暗唱、学校は軍事予備訓練の場に

 翁長自敬さん(67)=那覇市楚辺=が、教練教師として県立二中に赴任したのは19年4月。昭和5年からの5年間を学んだ母校だったが、時代は大きく変わっていた。「夏は白、冬は黒」の母校の制服も、いつしかスフのカーキーになっていた。しかし、それさえも翁長さんが気がつかないほど世の中は国防色一色に染められていた。

 

 「私たちの二中時代は、まだ大正デモクラシーの名残りもあり、平和で自由な生活を満喫できた。軍事教練などもほかと同様の単なる一科目にすぎないもの」。しかし、19年は大きく異なった。「学生は『御国のために尽くす』という意識があり、目の色も変わっていた。戦争が目前にあるという緊迫感もあり、自分の運命というものも感じとっていた」。

 

 何年も前からかっ歩した軍国主義の時代は、生徒らに将来の通を、ちゅうちょなく軍人に選択させるまでになっていた。だから「軍事教練合格証」の重みは、翁長さんらの時代よりはるかに増している。

 

 「合格証も甲、乙の2種類があり、入隊後に“威力”を見せた。甲なら2年後には将校になれたが、乙なら軍曹か伍長まで」と言う。甲、乙は配属将校が判定、連隊区司令部に報告され、兵籍名簿に記載された。

 

   ◇   ◇

学校教練は明治19年の諸学校令が成立した時から始まる。そのころは、兵式体操という名で体操科の一部に取り入れられているにすぎなかった。

 

 しかし、大正6年になると、臨時教員会議が「兵式体操振興に関する建議」を出し、これに基づき大正14年、陸軍現役将校配属令を公布、教練教授要目が制定された。翌年には青年訓練令も公布、実業補修学校にまで及んでいく。

 

 それは軍靴の高鳴りが学園にまで及んでいくことを意味した。忠君愛国の思想を養成、学校は軍事予備訓練の場所へと移っていく。翁長さんが教練教師となった19年は、その絶頂の時期に入っていた。

 

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 学校には翁長さんを含め教練教師が4人、その上に配属将校がいた。翁長さんは「軍事教練は歩兵としての教育が主体だったから、砲兵出身の私は員数外だったはず。それを知っていて連隊区司令部も学校も頼んだのはそれだけ人間がひっ迫している状態だった」と言う。

 

 「配属将校が師範とかけもちだった。師範が“主力”と思っていたのか不在が多く、私が教練教師の指導的立場にあった」

 

 授業は銃を持ち、隊列行進などをする術科と、歩兵操典や軍人勅諭などの学科があった。「軍人勅諭などは読み上げるだけでも30分はかかったが、最低、その暗唱はできるようにしないと合格できなかった」

 

 生徒らは陣地構築に駆り出される日が続いたが、教練を受ける態度は真剣だった。動員作業で兵隊らと日常的に接触、軍隊というものも知っている。「入隊するまで兵隊は殴られるものとは知らなかった私らのころとは、状況に天地の差があった」と言う。

 

 指揮能力があるかどうかが重視されたから、部隊訓練の時は、生徒らの資質を見る教師の目が光った。50人ほどの1学級を3グループにした分隊の指揮訓練、さらに1学級を小隊にした指揮訓練、1学年をまとめた中隊指揮の訓練まで。「いかに思い通りに団体を適切に動かすか。上級生は野外訓練もあり、周囲の地形を即座に判断、それに応じて行動できるかがポイントだった」。

 

 体の小さな少年たちまで銃を手にした集団が、校外で号令をかけ、指示のもと行動する光景―それが異様に映る時代ではなかった。むしろ少年らの多くが、それを誇らしく思う時代になっていた。

(「戦禍を掘る」取材班)1985年1月15日掲載

 

士気維持のための突撃、ふびんな戦死者

 生徒らが連日、勤労奉仕に動員されるのを見て、教練教師の翁長自敬さんは、戦争が沖縄の間近まで迫っていることを察知した。4年半の軍隊生活中、ミンダナオ島やボルネオの上陸作戦に参加、中国では敵に包囲され孤立、支援の部隊が玉砕したこともあった。

 

 そんな体験があるから「南方への出撃基地としての整備ではない」とかぎとっていたかもしれない。それを決定的にしたのは、19年7月の第9師団(武部隊)の沖縄配備だ。「満州にいた現役ばかりのパリパリの部隊。それに“旗”(連隊旗=軍旗)を持っている精鋭師団だったから、ただごとではないと思った」。武部隊はやがて台湾配置になるが、沖縄に戦争が迫っているという翁長さんの考え方は変わらなかった。

 

   ◇   ◇

 19年4月に赴任したばかりの翁長さんだが、わすかの間務めただけで離れなければならなくなる。「その年の夏休みに、将来は教科に取り入れようと、教練教師を対象にグライダー訓練があった。そこで操縦ミスで10メートルほどの高さから急直下で落ち、グライダーは胴体が折れ、私は人事不省のまま担架で県病院にかつぎ込まれた」

 

 1カ月余の重傷だったが、9月に入ると自宅静養中の翁長さんに連隊区司令部から呼び出しが来る。「もう歩けるのではないか」と言い、在郷軍人会の仕事をするように促された。二中の山城篤男校長は「完治までは学校の責任。ゆっくり静養を」と言っていたが、連隊区司令部にそんな余裕はなかった。わずか5カ月の教練教師で、再び除隊後にいた元の職場への逆戻りだった。

 

 そこでの仕事は、毎朝、各町内を回って在郷軍人の早朝訓練。道路で竹やりや銃剣術を指導した。「簡閲点呼というのがあり、退役軍人や未召集者を2、3週間ずつ、毎朝2、3時間訓練した。これが軍務に耐えうる心身を保持しているかを点検していくことが目的だった」。銃後にいるももの常に前線への“補給”要員としての網の目がかぶせられていた。

 

 20年1月末ごろと翁長さんは記憶する。一高女に翁長さんを隊長とした南部地区防衛隊が結成された。“青紙”と呼ばれた防衛召集で約1000人の防衛隊員が南部各地から集められた。

 

 「青紙は赤紙と違って、医者や警官など地域、職場で必要な人と認められれば解除はできたが、それでも強制力は同じ。みんなに軍服を着せ、各部隊からの要請に応じて派遣した」。陣地構築、壕掘り、弾薬運搬が主な仕事だった。毎日、32軍司令部から送られて来る必要人数や作業内容の書かれた名簿に基づき、1000人もの防衛隊員が割りふりされていった。

 

 翁長さんは3月には、ここを離れ、羽地の防衛隊に派遣される。「武部隊の穴埋めということだったが、100人ぐらいの防衛隊員で軍隊経験者は3分の1。武器も旧式の38式歩兵銃が20丁足らずに、軽機関銃が1丁、てき弾筒が2個。残る武器は竹やりだけだった」。そんな状態で沖縄戦に突入した。

 

 米軍のキャンプに2度切り込みをしたことがある。「戦にならないことは分かっていても、士気を高めるためには必要だった。夜明け前、ワァッと突撃したら、向こうから機関銃が来て、すぐに退却」。戦死者が1人だけ出た。

 

 捕虜になったのは11月になってからだ。翁長さんら将校には1部屋が与えられたが、収容所の中に1人だけ、金網に囲まれ生活している将校がいた。第3遊撃隊長 (註・護郷隊)村上治夫大尉だった。「彼は『敵の飯は食わない』と自分で飯を炊き、ふろにも入らず暮らしていた。『戦死者の遺骨を全部拾い、慰霊祭をやるまでは帰らない』と復員も応じなかった。立派な軍人だった」と言う。

 

   ◇   ◇

 翁長さんが二中の学生らが学徒動員されたことを知ったのは、終戦から数日もたってからのことだ。「あの少年たちが戦闘をやったとは、とても信じられない」と、軍隊での自身の体験と重ねて半信半疑だ。それは今でも変わらない。

(「戦禍を掘る」取材班)1985年1月16日掲載

 

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