津嘉山軍司令部壕

 

琉球新報首里城地下の沖縄戦 32軍司令部壕

幻の司令部壕

津嘉山に2キロほぼ完成 ~ 南部住民を動員し構築

 首里の第32軍司令部壕とともに歴史の中に埋もれ、忘れ去られようとしている壕がある。津嘉山軍司令部壕。南風原町津嘉山の高津嘉山の地下を、北西に貫いて構築されたこの壕は、実は、首里の司令部壕が造られる前の、第32軍司令部の根拠地となるべき壕だった。

 

 第32軍が津嘉山壕を放棄し首里に新たな壕を構築することを決めたのは1944年(昭和19年)12月。津嘉山壕は司令部壕としては規模が小さかったことや、首里の方が戦場の展望がきくというのが司令部壕移動の理由だった。

 

 32軍経理部築城班、第2築城隊が津嘉山壕構築に着手したのが44年夏ごろ。これには南部住民の多くが駆り出された。ランプ、ろうそくの明かりの下、スコップとつるはしの手掘り作業。固い岩盤を崩すのにダイナマイトも使用したという。

 

 10・10空襲の後、32軍の部隊が続々と津嘉山に駐屯した。壕周辺の民家の3割は兵隊の宿舎に利用され、津嘉山は軍民雑居の状態になった。また、空襲で焼き出された日本銀行那覇支店も津嘉山に移り業務を続けた。学校も軍が使用したため、子供たちは野原にいすを並べ、黒板も無いまま先生の話を聞くだけの授業となった。

 

 ススキの穂が野原に広がる11月ごろには、総延長2000メートルの津嘉山壕の大部分が完成していた。津嘉山の子供たちにとって、突然現れた司令部壕は格好の遊び場になった。

 

 津嘉山壕南側の入り口からほど近い民家に住んでいた大城由安さん(60)も、津嘉山壕で遊んだ1人。「ススキの穂を束ね、ろうそく代わりに火をともし、2、30人の同級生を連ねて中に入ったこともある。迷子になるくらい大きくて複雑な壕だった。まるで迷路ですよ」と振り返る。

 

 その後、32軍司令部は首里に移されることになり、軍経理部など一部が津嘉山壕に配備されることになる。日銀の金庫も3月末に壕内に移される。そのころには遊び場だった壕は子供はもちろん、付近住民もむやみに近づくことはできなくなった。

 

(第32軍司令部壕取材班)1992年7月29日掲載

 

発狂する傷病兵 ~ 南部へ撤退直前は阿鼻叫喚の軍医部

 津嘉山司令部壕には、事務要員としてひめゆり学徒隊に配属された沖縄県立第一高等女学校の学生15人が勤務していた。その15人は3人の教師が引率した。

 

 1945年(昭和20年)3月下旬、ひめゆり学徒隊南風原陸軍病院に配属され、しばらくして一日橋、識名などにあった分室に配置された。津嘉山壕の軍医部はその一つだった。

 

 新崎昌子さん(64)は15人の1人。3月28日に初めて津嘉山壕に入りその規模に驚いた。発電機もあり、壕内は電球がこうこうと光っていた。「南風原の壕に比べて、なんて上等な壕だろうと思った。司令部壕として掘られていましたから」

 

 学徒隊の任務は水くみ、食糧運搬など雑役が主。4月中旬に傷病兵が壕に運ばれるようになると、その看護任務も負わされるようになった。

 

 同じ学徒隊の宮城喜久子さん(63)にとって一番怖かったのが水くみ作業。「砲弾の中、鉄カブトをかぶり、一斗樽(たる)を担いで津嘉山の部落を通った。弾がきたら、慌てて地面に伏せる。大雨の時期なので体中泥だらけになった」と語る。

 

 5月になり、津嘉山壕軍医部にも大勢の重傷者が運ばれるようになり、学徒隊は激務に追われた。そのころには発電機が破壊され壕内での活動はろうそくとランプの明かりが頼りとなった。

 

 「軍医部へは怖くて1人で行けなかった。はしごで登り降りするところもあり、暗い中、30分もかけて南側入り口の詰め所から北側の軍医部にたどり着いた」と新崎さんは振り返る。

 

 重傷患者のほとんどは壕内で息を引き取った。中には脳障害を起こし発狂する兵もいた。わずか16歳の宮城さんは兵士たちの断末魔に何度も接した。

 

 「発狂して柱に縛られた兵やいくら包帯を巻いてもそれを自分で外し、裸になる兵もいた。『兵隊になってもけがはするなよ。惨めだよ』と言葉を残し、死んでいく兵もいた」

 

 首里から撤退した32軍司令部が津嘉山に立ち寄った後、津嘉山壕の各部隊は5月31日以降、南部へ撤退する。学徒隊は恐怖に震えながら、雨の中、壕を出た。

 

(第32軍司令部壕取材班)1992年7月30日掲載

 

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