首里司令部壕、未完のまま沖縄戦突入 (琉球新報 1992年6月19日)
1992年 琉球新報・首里城地下の沖縄戦「築城開始」
築城開始 南風原放棄、首里へ
未完のまま沖縄戦突入
「野ウサギだって自分のすみかを知られないようにするでしょう。軍司令部壕入り口をあんな風にコンクリートの立派な建物にするはずないですよ」
当時、沖縄師範学校教官だった宮城幸吉さん(81)は、バスガイドが観光客に司令部壕入り口と説明している円鑑池の近くのコンクリート施設を指さした。
「壕の第1坑道口はあそこにあったんです」と、さし示したのは園比屋武御獄下の斜面。雑草が生い茂って入り口はすっかり埋没している。そこにはコンクリートで補強されない穴がぽっかり開いていて、地下三十数メートルの本坑道に通じていたという。
証言通りに、2023年、第1坑道口が園比屋武御獄の下4mのところで特定される
「天の巌戸戦闘司令所」と名付けられた第32軍司令部壕は、1944年(昭和19)年12月9日に本格着工。第2野戦築城隊が担当した。翌45年1月初旬から沖縄師範学校の生徒も陣地構築に動員された。
兵力と火力装備などあらゆる点で劣る第32軍は、米軍の海と空からの猛攻をしのぐために琉球石灰岩を利用した洞くつ陣地建設を最重視していた。このため44年7月ごろから南風原町津嘉山に司令部壕を構築していた。
しかし、精鋭の第9師団(武部隊)が台湾に移動することになったため、作戦計画の変更と各兵団の再配備を余儀なくされた。司令部も首里に移動することになり、せっかく造った南風原の壕を放棄、新たに首里城地下に司令部壕を構築することになった。
壕掘りが始まったころ、米軍は硫黄島攻撃を開始した。野戦築城隊の兵士たちは「次は沖縄だ」とうわさするようになった。だが、専ら人力に頼る掘削作業は、なかなかはかどらない、硬い岩盤に当たるつるはしの動きも鈍る。学生の作業を監督していた宮城さんは、現場を巡視する牛島軍司令官の姿を見て「司令部も気が気でなかっただろう」と思った。
45年3月23日、米軍の激しい空襲が始まった。上陸は近い。軍司令部は地上から壕内へ移動した。24時間態勢で壕掘り作業を続けたにもかかわらず、この時までに第1から第3坑道口と金城町側の坑道口を結ぶ本坑道は貫通していなかった。たて坑も完成していない。司令部壕は未完のまま沖縄戦に突入した。
(32軍壕取材班)
1992年6月19日掲載
2024年 沖縄タイムス「「成果だ」トロッコのレール初確認」
沖縄県の第32軍司令部壕の調査 「第5坑口」近く、引き続き調査へ
2024年4月24日
沖縄県が実施した第32軍司令部壕の調査結果が23日公表された。壕の中枢部付近の構造は沖縄戦中の米軍の調査でしか分かっていなかったが、ボーリング調査で初めて第1坑道の存在と位置を確認した。県の担当者は壕の保存・公開に向けた「成果だ」と強調。首里城南にある「第5坑口」付近では、壕を構築するのに使ったとみられるトロッコのレールも初確認した。(社会部・當銘悠、吉田伸)
県は首里城の木曳門(こびきもん)付近の3地点で、ボーリング調査を実施。直径9センチの棒状の掘削機を使って坑道があると推定される地点まで掘り進め、土砂の状態を確認した。2地点の地下約30メートルで、坑道の床面とみられる地層の境目を複数確認。坑道内部が崩れ、土砂で埋まっていることも分かった。
残り1地点では坑道の床面は確認できなかったが、坑道の崩落面とみられる地層を確認できたことから、土砂で埋まっていると判断した。
戦後に扉が設置された「第5坑口」については、戦時中に実際にあった出入り口の位置を確認するため周辺で試掘調査を実施。約1・5メートル~2メートルの地中に、トロッコのレールを確認した。壕の外側に、幅60センチでカーブ状の赤くさびたレールが長さ約2・5メートルにわたって発見された。
調査を踏まえると、当時の「第5坑口」の位置と、現在、扉が設置されている位置はそれほど変わらないと考えられ、県は「第5坑口の本来の位置をおおむね絞り込めた」と説明。位置をさらに特定するためには、扉やその前に敷かれたコンクリート床面の撤去が必要だとした。
試掘した第1坑口と第5坑口は埋め戻して遺構を保護している。本年度はレールがどのくらい延びているかなど、引き続き調査したいとしている。
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