第32軍司令部壕 ~ 牛島満司令官と長勇参謀長

 

琉球新報首里城地下の沖縄戦 32軍司令部壕

32軍首脳

人間味あふれる司令官 ~ 人柄懐かしむ声多い

 「あの人は先生になるべきだった」。那覇市立商業学校の鉄血勤皇隊員として第32軍通信隊に配属された国吉真一さん(61)が戦後、牛島満司令官夫人に会った時に夫人はしみじみとこう語ったという。32軍関係者の話でも、日本帝国軍人のイメージからは程遠い、人間味あふれる牛島の顔が浮かび上がってくる。

 

 牛島は1887年(明治20年)7月31日生まれ。陸軍中尉の父と同じ島津藩士の流れをくむ母の間に生まれた。1908年(同41年)陸軍士官学校歩兵科を2番で卒業、16年(大正5年)に陸軍大学を卒業した。1937年(昭和12年)3月、歩兵第36旅団長に就任し中国各地を転戦した。

 

 41年(同16年)からは陸軍士官学校長を務め、同44年(同19年)8月8日、第32軍司令官として沖縄に赴任した。

 

 第32軍司令部壕の壕掘り作業に駆り出された諸見守康さん(63)は、作業中に司令官をよく見かけたという。「穏やかな人で、敬礼すると『学生さん、ご苦労』と言っていた。靴がすり切れたので、はだしで作業をしていたら、『靴はどうした』と聞いて、早速新しい靴を持ってこられた」。暗い戦争の話の中で諸見さんの表情がこの時ばかりは和らいだ。

 

 司令部の獣医部で32軍幹部の馬の世話をしていた玉城正清さん(75)、安慶名亀作さん(74)、新垣正達さん(72)、仲村渠幸吉さん(69)は口をそろえて「牛島閣下はいい人だった」と振り返る。

 

 獣医部のメンバーは、首里坂下のきゅう舎から、指定された時間に馬を、幹部の所に連れていかねばならなかった。ある日、新垣さんは牛島司令官の時に遅れてしまい、指定場所に行ったら、すでに司令官が来て待っていた。「どうもすいません。遅れました」。怒鳴られるのを覚悟して緊張する新垣さんに、牛島司令官は「私の方が早く来すぎたから」と、怒るどころかにこやかにこたえたという。

 

 牛島司令官は中国転戦の際、南京大虐殺にも加わった悪いイメージがある一方、接した人たちからはその人柄を懐かしむ声が聞こえてくる。

 

(第32軍司令部壕取材班)1992年7月17日掲載

 

けんかっ早い長参謀長 ~ 達筆、歌人の一面も

 「静」の牛島満司令官に対し、長勇参謀長は「動」。豪放な性格は、沖縄の人たちにはあまり好かれなかった。さ細なことで暴力を振るわれた人も多い。

 

 第32軍獣医部の新垣正達さん(72)、仲村渠幸吉さん(69)は苦々しげに振り返る。「馬に乗るときに足を置くあぶみの長さが参謀長に合わなかった。そしたら『きさま、営倉だ』とかんかんに怒った。ぶん殴られたり、足げにされた者もいた」。

 

 第32軍の参謀で、長参謀長の気性や立ち振る舞いを知る1人は「けんかっ早い人だった。ドンパチをやりたがり、持久戦を主張した八原高級参謀と衝突した。短気でじっとしているのが苦手。2回の総攻撃では自分の意見が通るように若い参謀に根回ししていた」と語る。

 

 長参謀長はそんな性格が災いし、司令部内でも浮いた存在だった。先の参謀は語る。「図上演習をしているとき、『戦闘が始まったら各師団をきりきり舞いさせてやる』との参謀長の言葉に、24師団長が激怒した。『われわれは司令官の命令を聞くのであって、お前の命令を聞くのではない』と。参謀長なのに司令官的な発言が多く、作戦上はマイナスだった」。

 

 獣医部だった安慶名亀作さん(74)は「32軍壕には最初、海軍も来ていたが、大田実少将は長参謀長と性格が合わずにまた帰って行った」という。

 

 長参謀長の性格を物語るエピソードは多い。壕掘りに従事していた諸見守康さん(63)は「ほとんど酒を飲んで酔っぱらっていた。衛兵の銃を奪って米軍機めがけて撃つまねをしていた」と言い、32軍が作戦会議に使った沖縄ホテルで当時、支配人をしていた宮里定三さん(80)は「長さんはいつも赤ふんどしをした変わった人だった。戦争についても『心配するな。仁丹くらいの秘密兵器があるから大丈夫だ』と言っていた」。女性をはべらせていたのもよく知られた話だ。

 

 数々の蛮勇を持つ参謀長だが、意外な面もあった。「筆が立ち、歌人でもあった。牛島司令官の辞世の句も参謀長が詠んだのでは…」と振り返る人もいる。

 

 長参謀長は最後まで豪傑なところを見せ、摩文仁で自決する際には「閣下は極楽、私は地獄。行き先が違ってご案内できませんな」と言って周りを笑わせたという。

 

(第32軍司令部壕取材班)1992年7月18日掲載

 

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