沖縄県立水産学校 22人の水産通信隊 たった一人の生還

 

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今回の復刻は、沖縄県立水産学校について。

 

生徒48人教師2人のうち、生徒31人教師1人のいのちが奪われた。前回の項で扱ったように、水産学校の上級生十数人は「水産鉄血勤皇隊」として教師と共に北部の国頭へ、そして下級生22人は「水産通信隊」として首里へと送られた。

 

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首里の軍司令部に配属された学徒は、師範鉄血勤皇隊水産通信隊だったが、教師も伴わないで激戦地の首里に送られた22人の水産通信隊の学徒は、ここで証言する中学二年生の瀬底さんをのぞいてみんな死んでいった。

 

14~15歳の少年とは、現代でも平均身長は140~150cmほど。中学二年生~三年生。米軍が記録しているこの「日本兵」は本当は何歳だったのだろうか。

 

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《AIによるカラー処理》Jap prisoners caught stealing food.
食料を盗んで捕まった日本兵捕虜。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

戦禍を掘る・学徒動員 【18】たった一人の生還

 

兄との最後の別れ

軍国教育しみ通る 兄の説得ふり切り入隊

 七つ上の兄は説得をあきらめる気配はなかった。両親の疎開先の金武を出発、集合地の首里に向かう間、さとすように、時には語気を強めて、弟の通信隊入りをあきらめさせようとしていた。「いいか、この戦は勝ち目はない。お前らのような中学生まで狩り出されたらおしまいだ」。当時、県立水産学校2年の瀬底正賢さん(55)=与那原町板良敷~に、師範学校の訓導の兄(正宗)の説得は続いた。出発の時、遠くかすかに聞こえた艦砲の音も、もう間近で激しいさく裂音となっていた。弟は説得に耳を貸す気配は全くなく、むしろ兄のめめしい行為が、一緒に向かう友人らに聞かれはしないかと気遣い、時々振り返って見た。

 

   ◇   ◇

 水産学校通信隊の訓練も年明けとともに始まった。宜野湾の農民道場に仮校舎が設置されたころには、連日の特訓が続いた。

 

 「昼は壕(ごう)掘り、夜は通信訓練だから眠たくて眠たくて…」。作業は戦車壕。幅が5メートル。深さは「サボるため監視の下士官が近くにいるかどうかを肩車で見た」というから3メートルほどはあった。通信訓練の下士官は「軍配下に入った以上、一日も早く通信隊員としての業務を遂行してほしい。軍機を守るためには家族との面会は禁止」と訓示した。

 

 最初は無線の訓練だったが、「学生気分が抜けない貴様らの頭では無線などできない」と決めつけられ、途中から有線に変わった。昼の作業の疲労からこっくりこっくりと居眠りをする者も多かったが、たたき、突いて来る軍刀のサヤが目ざまし代わりだった。

 

 厳しい訓練が終わったのが3月28日だ。「4月1日付の入隊命令だった。そのまま連れて行こうとするのを学校が説得して、家族の許可を得させるため延ばしてもらった」。農民道場前での分散会では山羊汁が振る舞われたように記憶している。

 

   ◇   ◇

 与那原の自宅に帰った瀬底さんだったが、すでに家族は避難したあと。その足で金武まで追いかけて行った。道には避難民があふれていたが、夜が明けることにはすっかり姿を消していた。昼も山道を歩きやっと金武にいた家族を捜し出した。

 

 疎開者であふれる壕の周辺、どの顔もおびえきっていた。瀬底さんは学校のもようなどを話してあと、入隊すると切り出した。驚いた表情に変わった両親は「南の方はもう危険だ。このまま家族と金武にいてくれ」と哀願する。

 

 親との話は平行線だったが説得してくれたのは兄の正宗さんだった。最後に両親は「兄さんと一緒に行くならいいだろう」と折れてきた。兄・正宗さんは、2日の休暇をもらい家族を避難させていた。兄は「行ってもいいが、だれも誘ってはいけない」と弟に注意した。

 

 あらかじめ友人らと出発する手はずは整えており、集合場所に行くと、すでに3人が待っている。引き返して両親にあいさつをする時、兄の目から涙があふれているのを正賢さんは見た。親は幼い弟を抱いたまま「気をつけて」とだけ言い、2人を送り出した。

 

 親を説得してくれた兄だったが、友人らから少し離れると、弟に「親の元に引き返せ」と説得をはじめた。

 

 兄は敗北を予知していた。「師範学校前で、カゴに入れられていた捕虜の米パイロットから、憲兵の目を盗んで話を聞いていた。片言の英語だったはずだが、艦船や飛行機の製造能力などあまりの違いに驚いていた」。その説明でも弟の決意は変わらなかった。「軍国教育が骨の髄までしみ通っていた。兄の偉さを知ったのは戦後」。

 

 石川、泡瀬と進むにつれ砲音も激しくなり、宜野湾にさしかかると初めての戦場の光景に身震いがした。首里までは無我夢中で走り抜け、兄の下宿先に着いたのは夜明け前だった。

 

 弟の説得をあきらめた時、兄は「危うくなったら逃げて来い」と大里の祖母の家を落ち合う場所に指定した。そして親から師範入学の時に贈られた黒いマントを弟に手渡した。

 

 兄とはそれが最後だった。もらったマントは、その後、疲労困ぱいの撤退の際、南風原の壕に置き去りにした。水産学校通信隊員22人のうち、たった一人の生還になるなど、もちろん知るはずもなかった。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年12月12日掲載

 

水産学校下級生22人の通信隊

親の反対押し切る 兄の説得ふり切り入隊

 4月1日未明、水産学校の通信隊員は全員が32軍司令部にそろった。親の許可を得ての入隊のはずだった。しかし、そうではない。戦後、事務処理のため各家庭を訪ね歩いた元職員の親川光繁さんは、親に反対されながらも入隊していった生徒らがいたことを知らされた。親にうそをついて出ていった者も少なくなかった。

 

 上前寛一さん(戦死)もそのうちの一人だった。平安座の自宅で母親は猛烈に反対した。父親は大島から機帆船で帰る途中、機銃掃射で米軍機にやられて亡くなっていた。そのうえ、一人息子が戦場に駆り出されることに母親は何としても賛成することはできなかった。

 

 母親は玄関口で横になり「どうしても行くと言うなら私の上を越えて行け」と叫んだ。母親を踏み越えることなどできない息子は黙って奥へ下がった。しかし、母親の期待通りには行かなかった。息子が裏口から石垣を乗り越え、首里に向けて出発したことを母親は間もなく知らされた。

 

 瀬底正賢さんは初めて入った首里城の地下壕に驚いた。あまりの広さに、「いつこれだけの壕ができたのか」と思った。入口から兵隊に案内されて進んだが奥行きもある。しかも松の木を組みながら、学徒らがまだ掘り続けている。

 

 全員が集合している場所に下士官が来て、整列した生徒たちを前に言う。「本日より陸軍2等兵として通信隊に配属する」

 

 水産学校の制服は、その時から着ることはなかった。初めて着る軍服―ほやほやの“陸軍2等兵”たちだったが、襟にあるはずの「星」はなかった。

 

 情報部の勤務だった。11人ずつの2班に分かれ、昼夜交代制。仕事は情報室に集められた戦闘状況や指令を司令室に報告することと、監視所から敵の状況などを報告することだった。1班は監視所に5人、情報室に6人分けられた。

 

 壕内は薄暗い。昼夜交代で疲れた体を通路の片隅に横たえて回復させた。「牛島(満・司令官)さんや長(勇・参謀長)さんもよく見た。牛島さんは私たちを見ると『学生さんご苦労』と頭をなでたりしてやさしくしてくれた。長さんは狭い通路ですれ違っても『どけっ、どけっ』と怒鳴り散らして歩いていた」

 

 米軍の状況の監視は、首里城正殿の近くでやった。「壕から垂坑道があり、はしごで上り2人で監視所勤務。石垣の間に隠れながら監視して、それを有線で下に報告する」。首里一帯ばかりでなく少し目線を上げれば那覇の町や安謝付近を一望できた。

 

 ぎっしりと海を埋めた米艦船の数や艦砲の状況、米軍機の飛来数、そして地上の戦闘のもようなどを逐一報告する。周囲に至近弾がたびたび落下し、壕と監視所を結ぶ電線が切れる。それをつなぐのが危険な作業だった。チービシに米軍の砲門が据えられると、ますます砲撃は激しくなり、擬装網が吹き飛ばされることも多かった。「そんな時に夜、特攻機が大型艦に体当たりして撃沈させると胸がスカッとして手をたたいて喜んだもんですよ」

 

 瀬底さんは「至近弾はたびたびで、砂煙で息が詰まることもあった。いつ死ぬのかと思うほど危険な監視所勤務だったが、私は薄暗い壕内に閉じ込められるよりは、監視所に出る方が気分が良くまだ楽しみもあった」と言う。

 

 情報室に勤務して1カ月半ほどたった5月17日、水産学校の通信隊から初めて犠牲者が出た。東門智秀、大嶺盛一の2人の1年生だった。戦闘は首里の間近まで迫っていた。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年12月13日掲載

 

一年生2人が至近弾で戦死、必死で摩文仁に運んだ柳行李は将校の私物だった。

「必ず仇を討つ」 戦死の1年生、皆で葬る

 水産学校から最初の犠牲者2人は1年生だった。瀬底正賢さんとは別の班だったが、すぐに壕の中の全員に知れ渡った。食事運搬のため、壕の外にある炊事場に向かう途中、至近弾を受けて即死だった。1人は頭が吹き飛ばされている。瀬底さんらが周囲を捜すと、もの言わぬ後輩は米俵の間にはさまっていた。

 

 「みんな死を覚悟していたから悲しみなどなかった。米軍への憎しみがつのり、『必ず仇(かたき)を討ってやる』としか思わなかった」。2人の遺体は全員が見守って葬られた。生き残った者が家族に手渡すことを誓い、大きな赤木を目標に埋葬した。

 

   ◇   ◇

 戦後間もなく瀬底さんはそこへ行ってみたが、目標にした赤木はなく、周囲も当時と全く異なっている。適当に見当をつけ、何カ所かを掘ってみたが無駄だった。「疲れて休んでいると、ついついウトウトして、夢の中に2人の顔が、はっきりと出て来た。それでもう一度やってみると、埋めたままの姿で遺骨があったので遺族に連絡、手渡すことができた」と言う。

 

   ◇   ◇

 最初の犠牲から10日ほどたった5月27日ごろ、司令部壕の動きがあわただしくなった。参謀たちが活発に動く。瀬底さんは暗号室にいた開南中学生に「何かあるのでは」と聞いてみたが、「秘密です」とだけしか答えなかった。

 

 そのうち下士官が情報部にやって来て命令を伝えた。九九式電話器、重要書類が壕外に持ち出されて火をつけられた。全員に「腹いっぱいメシを食え」と言う。白米が運ばれ、パイン、マグロ、貝などの缶詰が配られた。「初めて見る缶詰もあった。特に缶詰は食えるだけ詰め込めと言われて食べたが、信じられないぐらいのごちそうだった」と瀬底さん。

 

 食事を終えると銃、弾、手りゅう弾と2日分の乾パンが全員に配られた。「そして私のほか何人かが呼ばれて、先発隊として南部に移動することを命令された」。壕の入り口付近に集まった12、3人は、軍服のそでが指先を隠し、ズボンのすそを何回か折り曲げていたから中学生だということは、すぐに分かった。

 

 2人1組みでかつがされた将校の柳行李は「重要書類が入っている」と説明があった。柳行李2個を棒で通してかついだが、軍装の上で30キロほどの重さだったから、棒が肩に食い込んだ。おまけに雨がさらに柳行李を重くした。

 

 ぬかるみに幾度も足をすべらせ転倒した。水かさを増した川には腰までつかりながら柳氷だけは、しっかりと握っていた。先を行く兵隊との距離が開くと、「だらしないやつはたたき切ってやる」と軍刀を振り回しながらの怒鳴り声が響いた。南風原陸軍病院に着いた時には、すっかり疲れ果てていた。

 

 陸軍病院には1日いたが、去る時、軍医が傷病兵に向かい、「歩ける者は南部に下がれ」と言うのを聞いた。そして女学生らは無言のまま歩けそうにない患者の間を走り回り薬品を配っている。自決用の薬品であることは分かったが、軍医に礼を言いながら受け取る兵隊の姿、不気味なほどに静まりかえっていた壕内の光景が瀬底さんの脳裏から今も離れない。

 

 途中、墓の中に1泊して摩文仁に着いた。まだ、そこは戦場でなく、草木も生い茂り、のどかな農村の光景があった。とりあえず主のいない近くの民家で宿泊、行軍の疲れをいやした。水浴もそこではできた。

 

 疲れが取れた瀬底さんは雨中の行軍で苦しめられた柳行李に目をやった。「重要書類がぬれたままではまずい。乾かしておかなければ」と思い、開けて見て思わず吐き捨てた。「馬鹿にしてる!」。柳行李の中に入っているのはげたや肌着、あるいは着物など将校の私物だけだった。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年12月14日掲載

 

 切り込み隊で7人戦死、与論島へのくり船で6人不明、2人が爆死。 

切り込み隊を体験 米軍の反撃に後退の連続

 戦闘が摩文仁の周囲まで押し寄せて来たころ、瀬底正賢さんら水産通信隊は特編中隊編入された。15キロ爆弾を背負って戦車に体当たりしたり、夜、米軍のキャンプに切り込みをする任務は、だぶだぶの軍服の少年たちにも同じように与えられた。

 

 それでも最初のころは兵隊たちだけで切り込みに出掛けて行った。夜、次々に壕を後にした切り込み隊は夜明け前に戻って来る時には3分の1ほどになっている。腕がたれ下がったり、足を引きずった兵たちばかりだった。「そんな兵隊たちを分隊長が壕の前で待ち受けて、『だらしない』と吐き捨てるように言うんですよ。翌晩も再び切り込みを命じられていた」。

 

 6月中旬、瀬底さんも初めての切り込みを体験した。間近で見る米軍に驚いた。明かりはこうこうと輝き、陽気な音楽まで聞こえて来た。昼は薄暗い壕で身を潜め、日が暮れてからコソコソ動き出す日本軍とはあまりに異なっていた。さらに接近―、突然ダダッダダッの機銃掃射だ。鉄線に触れただけで夜襲が分かってしまう。身動きも出来ず、止むのを待つしか術(すべ)はなかった。

 

 切り込みで負傷した兵が、壕の入り口でお経を唱えながら、死んでいったのもそのころだ。「大阪のお坊さんと言っていたが、暗い壕内まで響くお経が物悲しく、また不気味でもあった」。狂った将校も見た。壕右手の丘の上で、さかんにわめいている。左手は骨折したのかだらしなく垂らしていたが右手で軍刀を振り回し、グラマンに向かって叫んでいる。艦砲も激しかったが、不思議とその将校を避けるように撃ち込まれていた。

 

 6月20日、特編中隊の最後の切り込みが行われた。7人ずつ2小隊に編入されていた水産学徒も全員だ。通信隊のうち6人はその前夜、参謀らをくり舟で与論に運ぶ特命を受け出発。そこにはいなかった。瀬底さんもその命を受けていたが、途中足を負傷してはずされた。6人の任務は口外を禁じられていたから知る者もなく、そのまま消息を断った。

 

 壕の前に全員が整列、中隊長の増永大尉の訓示を聞き、水杯が回ると、生きて帰って来ることが屈辱と思えて来た。後輩らには「がんばれよ」とだけしか言えなかった。

 

 「切り込み」という勇ましい言葉通りにやれる状況はなかった。ひんぱんに照明弾が照らされ、砲撃も止まない。1時間で進む距離も数百メートルがやっとだ。探知器をくぐるため、ベルトもはずし地下足袋に替えていたが、確実に捕らえられ、迫撃砲や機関銃が飛んで来た。時間とともに戦死者だけが増えていき、さしたる戦果もないまま夜明け前引き揚げざるを得なかった。

 

 瀬底さんらの小隊では通信隊員7人全員が無事だったが、他の小隊と行動をともにした7人は再び壕に戻ることはなかった。昼中壕内で休んだあと残った兵隊らで再び切り込み隊が編成され、前夜と同じ行動、そしてまた7人は生き残る。

 

 通信隊の7人は司令部壕に移った。「壕口を守備せよ」と垂坑道の真下で待機したが、1日もしないうちに攻撃を受ける。外の監視所の機関銃が鳴り出し、すぐに途絶えた。次に壕内がゆれ、硝煙が立ち込める。数分後、異様なにおい。「ガソリンだ」と思った瞬間、爆発音とともに火の海になり、落盤も激しかった。

 

 金城正俊、当間嗣雄の2人は爆風で即死。血を流して死んでいたのは渡名喜守敏だった。間もなく息絶えた渡嘉敷俊彦は頭を打ち、「生きてもっと(お国のために)尽くしたい」と、うわ言のように繰り返していた。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年12月17日掲載 

 

補足(2)水産通信隊の学徒のうちで、特編中隊第二小隊の学徒兵稲福栄次郎、照屋清永、喜屋武盛徳、当間嗣雄、玉那覇憲知、照屋栄雄、真志喜朝輝、上原栄幸の八人は、総攻撃の際、敵の包囲を突破して摩文仁海岸の壕(現在の健児の塔)に退却したが、追撃してきた米軍に洞窟を攻撃され、火炎放射で周辺が火の海と化し、壕から出ることができないで、師範の学徒兵と共に全員焼死したものと思われる。《山川泰邦.秘録沖縄戦記》

 

補足(3)刳舟で脱出6月21日、重要書類を具志頭海岸から大島の与論島へ運搬するため、水産学校通信隊員の中から根神谷盛輝、宜保幸栄、安谷屋哲雄、玉栄福栄、比嘉武儀の五人が選抜された。そのころ、敵艦艇は沖縄南部近海に集まって盛んに艦砲や榴散弾を撃ち込んでいた。また夜は、陸も海も照明弾で輝き、まるで真昼のようであった。まさに壮観であった。この警戒厳重な海上を脱出するのは、死地におもむくようなものであった。学徒たちは壕の入り口で彼らの壮途を見送り、その成功を祈りながらも、言い知れぬ不安を抱いた。参謀を先頭に悠然と歩いて行く五人の姿は、若い英雄のように見えた。こうして暗黒の大海に乗り出したが、学友の祈りもむなしく、一人も帰らなかった。おそらく敵艦に撃沈され、無念の涙をのんで海の藻くずと消えたのであろう。《山川泰邦.秘録沖縄戦記》

 

摩文仁の司令部壕からの脱出、失明した1人が「自決」

失明の学生、自爆 「足手まといなる」と脱走拒む

 落盤で岩にはさまれ、身動きのできない瀬底正賢さんは大声で助けを求めた。岩を取り除いてくれたのは片腕が切断された兵隊。無言のまま片手で一つずつ取り除き、そのまま去ったという。

 

 「垂坑道で全員生き埋め」の報告は瀬底さんが直接奥にいた司令部の参謀らに報告をした。緊張の報告を終えると牛島満司令官が、「学生さん、ご苦労さんだったね」とやさしく言葉をかけ、「学校は」「名前は」と聞く。「水産鉄血勤皇隊、瀬底正賢2等兵であります」―直立不動の姿勢で、力を込めて答えた。

 

 報告を終えると下士官の手助けで下がったが、そのまま壕入り口の守備を命じられた。しかし、落盤で激しく胸を打ち、まだ意識ももうろうとしている。よろよろと壕入り口に向かっているうちに気を失い倒れてしまった。

 

 どれくらい時間がたったのか分からない。気がつくとのどにつまった血で息苦しい。壕内に人の気配はなかった。死体を踏みながら手さぐりで壕内を歩いた。死体のそばに、にぎり飯が供えられているのを見つけ、口に運んだが受け付けない。瓶に入った水だけを飲み、のどをうるおした。

 

 入り口付近に声がしたので行ってみると、何やら捜し物をしている兵隊がいる。兵隊は瀬底さんに気づいて驚いたが、「ばか、ここで何をしてる。司令部は玉砕したから、早く壕から去れ」と言う。そして、「奥の方にも学生がいるぞ」と教えてくれた。

 

 奥にいたのは水産通信隊の上前寛市、当間嗣冠の2人と、爆風で失明した開南中学生だった。4人で脱出の計画を立てたが、開南中学生は「足手まといになるから3人で行ってくれ」と応じない。「行けるところまで行こう」の瀬底さんの説得も無駄だった。

 

 やむなく3人で脱出したが、最後の1人が壕を出る時、「がんばれよ」と壕の奥の方から声がして、手りゅう弾がさく裂する音が聞こえた。「神州不滅」を信じながら、また若い命が自らの手で断たれた。

 

 下の海岸は人であふれていた。安全な壕など探せない。波打ち際をよく見ると死体が無数に漂っている。瀬底さんらの目は、月の光に照らし出されたそんな死体よりう、その間に浮かんでいる果物、玉ねぎ、ニンジンなどに向けられた。米軍の捨てた残飯だ。手当たりしだいに拾った。死体の衣服も探してみた。

 

 安全な岩場は、すでに敗残兵が入っており、海岸を移動しながら3日ほど暮らした。米須海岸まで来た時、清水のわく絶好の場所を見つけたが、“先客”の兵隊らは3人を見るなり「どこかに行け」と怒鳴り、短剣を抜いて威嚇した。

 

 その時、そばから「学生さん、こっちに来い」と誘ってくれる伍長がいた。3人に食事までくれる。谷島秀敏といった。聞けば、学生を率いて戦闘をしていたと言い、戦友も学生も多く失ったと話していた。

 

 「谷島伍長に今でも感謝するほどありがたかった」。当時、敗残兵らの食糧の奪い合いはすさまじかった。食糧を壕の中に大量に保管している敗残兵2人が、周囲の評判だった。ある日、この壕に手りゅう弾が投げ込まれ、2人は即死。もちろん食糧はなくなっていた。

 

 そのうち瀬底さんら水産通信隊の3人は他のグループと合流、一緒に生活するようになった。民間人の娘3人、夫婦連れと知念という1等兵、それと工業1年生の具志堅と名乗った生徒。米軍と戦う軍隊などもう存在しなかったが、敗北を信じることのできない集団が、海岸沿いに無数に生きていた。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年12月18日掲載

 

自分を背負ってくれた学友が足の傷で死亡、具志堅という工業生も死亡、収容所でけがの治療ができず最後の学友も死亡。

昼は壕、夜食料探し “収穫”たたり、地雷踏む

 昼は壕内に隠れ、夜は食料探し、時には浜辺で語らう瀬底正賢さんらの共同生活が1カ月余たった7月下旬のことだ。海岸を中心に求めていた食料も、そのころには戦闘もなくなったこともあり、かなり遠くまで行っていた。米軍のキャンプからの“戦果”や近くの畑からの“収穫”があり、食料事情もよくなっていた。

 

 その日も6人でイモ畑まで出かけ、袋に詰められるだけの“収穫”を得た。瀬底さんは月に照らされたみんなの顔に白い歯が浮かんでいたことを今でも覚えている。だが、“収穫”が大きなことが不幸につながった。重いので帰りは近道を選んだ。そこは敗残兵が出没するということで地雷が埋められている。

 

 地雷に知識のあるという知念1等兵が先端になった。「次に私、当間、上前、夫婦連れと続いた」。10メートル間隔で進むことにした。慎重にしばらく進んだ瞬間、ものすごい爆発音。瀬底さんがおぼえているのはそこまでだ。

 

 爆風で5メートルほど吹っ飛ばされ意識を失った。知念1等兵は即死、肉片しか残らなかった。夫婦連れの女性の方も死んだ。腹わたがはみ出していたという。

 

 意識不明の瀬底さんを左足に傷を負った学友が30メートル余の断がいを背負って下まで運んでくれた。「当間嗣冠が背負ったが、今見ても1人で上り下りするのも難しい場所を、よく運んでくれたと感謝している」。

 

 その当間さんも、地雷で受けた左足の傷がもとで亡くなる。死ぬ間際は顔が硬直、言葉もでない。体全体がけいれんする。けいれんを全員で押さえることぐらいしかできなかった。「生き残れば遺骨は渡してやるから」と瀬底さんが話しかけた時、目が安心した表情に変わったように思えた。

 

 遺体は米軍の毛布で二重三重に包み、壕内の割れ目に葬った。瀬底さんはすぐに、移動が割と自由だったCP(民警)を志願、遺骨を親元に手渡した。それとともにCPもやめてしまった。

 

 具志堅という工業生も8月上旬ごろ亡くなった。共同生活が始まって間もなく、傷を受けた腹部を三角布で巻き、さ迷っているのを瀬底さんが見つけ、一緒に行動するようになった。

 

 「140センチぐらいと小さく、目がパッチリしてかわいかった。首里の人で言葉もはっきりしており、親せきに議員だったか偉い人がいると話していた」。

 

 小さな工業生は「子どもと思って米軍は撃たない」と昼間から水くみに走った。しかし、3度目の昼間の水くみの時、丘の上の機関銃から狙われた。波打ち際に少年は倒れ、沖へ沖へとさらわれていく死体を目の前に見ながら、だれも壕から出ることはできなかった。瀬底さんは工業学校の戦没者名簿から具志堅という名を探してみたが見つからない。

 

   ◇   ◇

 瀬底さんらが捕虜になったのは終戦からかなりたった10月3日だ。6月下旬の司令部壕の落盤で負傷した上前寛市さんも、かなり弱っていた。瀬底さんも地雷に吹き飛ばされた時、30カ所に大小の傷を負い元気はなかった。

 

 南部の収容所に着いた時、元警察署長だった責任者に「上前君は弱っており、早く医者に見せてもらいたい」とたのんだ。だが、返って来た言葉は「学徒兵でも陸軍2等兵は陸軍2等兵。そんな言い訳は聞けない」と断られ、トラックで屋嘉収容所に運ばれた。2、3日して上前さんは傷口が悪化、死亡した。

 

 「軍部とともに威張り、私たちを戦場へ駆り立てていた警察幹部が、そのころには米軍の下で威張っている。たった1人生き残った学友も彼が奪った。今でも彼に対して怒り、うらみは消えない」― 純心であるがゆえに、戦場での犠牲も大きかった学徒だけに、変わり身の早い大人たちの身勝手さは許せなかった。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年12月19日掲載

 

補足(1)

水産通信隊は軍司令部の先発隊として、某少尉の指揮で首里から重要書類を運搬、摩文仁に来たのが五月中旬だった。通信機は破壊され、機能が完全に失われていたので、六月二十日、通信隊を解散、新たに特編中隊が編成された。第三二軍は六月二十一日午前零時を期して、最後の総攻撃を決行すべく、各壕ごとに学徒隊も加えて、肉薄攻撃隊が編成された。七人の水産通信隊は、特編中隊第一小隊に編入された。午前零時、壕を出発、摩文仁集落の米軍攻撃を敢行したが、手痛い反撃にあって後退し、軍司令部壕入り口の守備についた。午前十時ごろ、壕の上でただならぬ気配が起こった。突然、ダダッと機銃が火をふき、つづいて手榴弾が投げ込まれた。学徒が米兵に手榴弾を投げ返した。やがて爆雷が頭上に落下、すごい轟音が洞窟をゆさぶった。目がくらみ、息がつまった。つづいて火炎攻撃をうけると、たちまち壕内は火炎の地獄と化した。壕の壁や天井の岩が地響きを立ててくずれ落ちた。瀬底は、ガーンと頭に衝撃を受けて、意識が遠くなった。瀬底はやっと意識を取り戻し、入り口からもれるかすかな光で見ると、石と石にはさまれていることがわかった。あごから胸まで血でぬれていた。あたりにはだれもいない。

いっしょにいた六人(金城正俊、当間嗣冠、渡嘉敷俊彦、渡名喜守敏、上間寛市、玉城信市)の学友は、岩に押しつぶされたのか一人も見えない。よく見ると、学友の一人が顔を無残に打ち砕かれて死んでいた。壕の中は森閑として恐ろしく不気味であった。瀬底は必死にもがいた。前にある石にしがみついて、あらん限りの力でひっぱったり押したりして、やっと石の間から抜け出した。立つと足がふらつき、倒れそうになった。岩壁にもたれながら、壕の奥へはいって行った。瀬底は、長参謀長に入り口の状況を報告した。牛島司令官は、手帳に何か書いていたが、瀬底を見て厳然と「入り口を死守せよ」と命令した。瀬底は復唱すると、足を引きずりながら再び壕の入り口に戻った。

司令官を守る壕の入り口は、もはや瀬底一人だけになった。水産通信隊二十二人のうち、生存者は瀬底一人であった。六月二十三日ごろ、牛島軍司令官、長参謀長の自決が周辺の洞窟に伝わり、学徒たちは無念の涙をのんだ。洞窟内では重傷者の自決が続出した。元気な者は、敵中突破を決意して、親しい者同士が組んでつぎつぎに洞窟を飛び出して行った。米軍は艦艇や陸上の部隊から、ラウドスピーカーで、二世特有の日本語で「将兵も住民も洞窟から出て、米軍の保護を受けよ」としきりに呼びかけていた。瀬底は六月二十四日の未明、壕を出て痛む足をひきずりながら、摩文仁海岸を東へ歩いたが、ついに力つきて倒れてしまった。幸いに友軍の下士官に発見され、付近の壕に運ばれて手当てを受け、助かることができた。その後三か月余り、昼は壕に隠れ、夜は壕から出て食物を捜し求め、やっと命をつないでいたが、十月の初め、CIDの宣撫に応じて投降した。《山川泰邦.秘録沖縄戦記》

  

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水産鉄血勤皇隊・水産通信隊 状況4 第三十二軍司令部通信隊への入隊 - YouTube