一枚の写真が物語ること ~ 米軍に「パンチョ」と呼ばれた教師について

資料コード:0000112250 (1945年4月3日)「捕虜になるより銃殺」

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《AIによるカラー処理》【原文】 An Okinawan teacher about 42 years old and a farm boy, 14, are brought in for questioning. The old man wanted to be shot rather than be taken. The boy did not object.
【和訳】 42歳くらいの教師と農業に従事する14歳の少年が尋問のために連れてこられた。教師は捕虜になるより銃殺を望み、少年は反論しなかった
撮影日: 1945年 4月 3日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

 

ここに米軍が記録した一枚の写真がある。

 

撮影日は4月3日。場所は不明である。教師が14歳の「農家の少年」と共に米軍の捕虜となったが、教師は捕虜になるより銃殺されることを望み、少年もそれに従ったとある。

 

捕虜になるより銃殺してくれ、「生きて虜囚の辱めを受けず」は、こうして教育現場の教師にまで徹底されていた。

 

 

教師と14歳の少年、という組み合わせであれば、教師は引率、14歳の少年は学徒兵だった可能性もある。この少年の服装も当時の農家の「着物」ではなく、学徒のそれである。しかし、教師はこの少年を米軍の尋問から守るために、「農場の少年」(a farm boy) と伝えたのであろう。

 

14歳の生徒であっても、勤皇隊や通信隊とみなされれば、他の日本兵と同様「捕虜」として収容され、さらに過酷な状況でハワイの収容所に移される場合もある。しかし、普通に「子ども」としてみなされれば、親元に帰ることができた。

 

例えば、沖縄県立第一中学の通信隊として電信第36連隊第6中隊へ配属された二人の例では、米軍にとらえられ、学生という兵士の一言で「子ども」として親元にかえされた井口さん、かたや宮平さんは11月まで部隊と共に洞窟に身を潜め続け、その後も「捕虜」として屋嘉捕虜収容所に収容された。

 

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「通信隊」として戦場に駆り出された少年。日本兵のたった一言が彼の戦後を救いました。慰霊碑に手を合わせるのは65年前、わずか14歳や15歳で戦場に動員された宮平盛彦さんと井口恭市さん。同じ部隊に所属した2人でしたが、戦後の状況は全く違っていました。終戦を知らず11月の半ばまで南部を逃げ回っていた宮平さん。一方で、8月下旬には既に家族とともに、名護で暮らし始めていた井口さん。それはある日本兵のお陰でした。

 

井口さん「ある日本兵がこの人たちは学生だよって英語で言うのね。デイアースクールボーイズって」『彼らは学生だ』壕から出て捕虜になった時、そばにいた日本兵が井口さんをかばってアメリカ兵に伝えたこの一言。そのおかげで、まだ少年だった井口さんは兵隊と一緒に収容所に連れていかれることなく、家族とも早くに再会することができたのです。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月24日(金)

 

日本軍は14歳の子どもも兵士として利用し、米軍も、どうみても子どもにしか見えない者も、学徒兵であれば、「日本兵」(Jap) として記録し、また捕虜収容所に収容した。

 

沖縄では、当たり前に14歳の「子ども」でさえ、「子ども」であることを許されなかった。

 

 同じ状況で記録されたもう一枚の写真。14歳の少年は茫然と立ち尽くしている。

 

資料コード:0000112251 (1945年4月3日)「捕虜になるより銃殺」

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《AIによるカラー処理》【原文】 An Okinawan teacher about 42, and a farm boy, 14, are brought in for questioning. The old man wanted to be shot rather than be taken. The boy didn't object.
【和訳】 42歳くらいの教師と農業に従事する14歳の少年が尋問のために連れてこられた。教師は捕虜になるより銃殺を望み、少年はこれに反論しなかった
撮影地:
撮影日: 1945年 4月 3日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

この二人について、撮影日以上の詳しい説明はないが、

 

実直な教師が、とっさに少年を「農家の少年」(a farm boy) といった、その言葉は、遠からずこの少年についての情報を暗示しているのかもしれない。

 

つまりこの14歳の少年は、農業を志す学校の学徒、かつて嘉手納にあった県立農林学校の生徒であった可能性だ。

 

1945年3月26日、日本軍は中飛行場 (現・米空軍嘉手納基地) 強化のため、第19航空地区司令部 特設第1連隊に県立農林学校の学徒の投入を決定した。

 

特設第1連隊という名称ながら、その基幹は飛行場の建設・維持管理、飛行支援を担当する部隊であり、編成されたのは米軍上陸直前の3月20日であった。装備および平素の戦闘訓練等は不十分であり、上陸米軍約4個師団と直接交戦するには極めて脆弱な戦闘力しか保持していなかった。 

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特設第1連隊の編成 (青柳時香中佐)
連隊本部(第19航空地区司令部)  約45名

第1大隊 (黒澤巌少佐)
第56飛行場大隊      約370名
第503特設警備工兵隊   約800名
* 第1大隊は4月2日喜名東側海軍洞窟付近でほぼ全滅した

第2大隊 (野崎眞一大尉)
第44飛行場大隊      約390名
第504特設警備工兵隊   約800名(2日夜戦線離脱)
要塞建築勤務第6中隊 約300名
誠第一整備隊
学生隊           約170名(2日夜解散)⇦ ここ

独立歩兵第12大隊第2中隊  米軍上陸後特設第1連隊の指揮下に編入
特設警備第224中隊 米軍上陸後特設第1連隊の指揮下に編入

http://www.okinawa-senshi.com/1-tokusetu.htm

 

農林隊の約150人の生徒は・・・

 

なぜ学徒隊が4月2日に解散となったのか、そこにはある信じがたい理由があった。

 

農林学徒隊の約150名は引率の教師と共に北部へと向かうが、第504特設警備工兵隊と要塞建築勤務第6中隊計1,100名が勝手に戦線離脱し北部へ、戦場には学徒隊が取り残されるという信じがたい状況が発生したのだ。

 

まだ沖縄戦上陸して間もない 4月2日でこれでは、さすがに軍部でも大問題となった。

 

neverforget1945.hatenablog.com

 

最前線に学徒隊だけを置いておく訳にはいかないと野崎大隊長は判断し、金武で農林学徒隊の解散命令が出される。

 

4月2日
倉敷陣地に布陣していた夕刻、特設警備第504工兵隊と要建隊の老兵の計約1100名が無断で戦線を離脱する。陣地には残された生徒隊だけが残るという状況なったため、大隊長は「学生隊を米軍の矢面に立たせる訳にはいかない。ここは飛行場大隊だけで守備し米軍の北部進攻を玉砕をもって阻止する。学生隊は国頭に待避して解散せよ」と命じた。


 2日夜半、軍命令「特設第1連隊は国頭支隊長の指揮下に入り、遊撃戦を実施せよ」が偶然伝えられた。当初命令通り北進の方針を採用しかけたが、夜明けまで時間がないことと日中の行動は状況が許さないことなどを考慮し、3日は倉敷陣地にて米軍の攻撃に耐えて夜間に北進を図ることに決定した。 

沖縄戦史・特設第1連隊の戦闘

 

※この時だけではない。沖縄戦の証言記録を読んでいくと、日本軍は、学徒隊を前線に投入しながら、何度も学徒隊を戦場に置いてきぼりにした。

 

本来は飛行場の建設と管理、飛行支援を担当する部隊であり、米軍の上陸に対応できる構成でもなかったため、第一大隊はほぼ全滅、ま第二大隊については将校の行動について疑問がもたれ、最終的に裁判にまで発展したという。米軍の嘉手納正面の上陸に際し、この編成の数で対応できるわけもなく、明らかにめちゃくちゃな指揮であり、敗走するしかなかった。

 

前線に放置されることになった農林学校の学徒たちは、2日には解散し北部で待機することを命じられる。

 

しかし南部や八重山出身の学徒には帰る場所もない。解散後も、解散後の学徒が北部の攻撃隊に身を寄せ合うように集まり、ゲリラ戦のなかで死んでいったのも、その理由だった。

 

名前が分かったことで、内福地で死亡した学徒の出身地、年齢も分かった。当初3年生で構成された「攻撃隊」だが、最後は1、2年生も参加しており、ほとんどが本島南部や宮古八重山出身だった。瀬名波さんは「解散後、帰る場所がなくなり、攻撃隊と一緒に行動したのだろう」と推測する。

県立農林学校学徒、戦死10人名前判明 

 

農林鉄血勤皇隊の肉迫攻撃隊20人の学生は・・・

 

その同じ頃、農林学校の配属将校だった尚謙少尉は、百人以上いた農林学徒隊のなかから上級の3年生20人を選抜し、攻撃隊を構成。北部へと向かう。

 

4月4日の朝、尚謙少尉に率いられた農林勤皇隊20名は本部の伊豆味国民学校宇土部隊、佐藤隊に合流。

 

ところが、そこでも米軍の攻撃が激しくなると、日本軍が破棄する缶詰すら分けてもらえず、あげくにまた置いてきぼりとなる。危険な装備品や陣地移動、通信や斥候に少年兵を使いながらも、少年兵を軽んじ、いざとなると置き去りにしていた実態が浮き彫りとなる。

 

日本軍は行方知れずになっていたのである。大城さんは言う。「あとで知ったことですが、日本軍は既に真部山から八重岳方面に退却していたのです。結局、農林生たちのことは見捨てたというわけです。死んでもここを守れ、と言われた言葉を信じてその気になっていたのに…。手投げ弾を与えられ、米軍を目いっぱい引き付けてから投げるんだよと教えられたばかりで、裏切られた気持ちでした」

 

「八重岳には自分たちを見捨てていった日本軍の部隊がいましてね。食糧がたくさんありました。生徒たちはもう目を輝かせて缶詰などにありつこうとしたら、軍隊は分けてくれない。退却する日になって缶詰は捨て去られることになったんですが、それでも食べることは許されない。どうせ捨てるものなのに何でくれないのかなあ、とつくづく非情に思いましたよ」

【Archive 2-13】農林鉄血勤皇隊 見捨てられた学徒隊 - 日本軍は先に退却、食べ物さえ日本軍にうばわれた - Battle of Okinawa

 

この尚少尉の農林勤皇隊の生徒たちについては、こちらから。

 

battle-of-okinawa.hatenablog.com

 

さて、われわれは再び、4月3日に記録された「捕らえられた教師と生徒」の写真に戻ろう。

 

撮影地はわからないが、4月3日の記録であるからには、嘉手納の中飛行場で前日まで日本軍の指揮下にあった学徒隊の教師と生徒である可能性は高い。農林学徒隊の解散後に捕虜となって捕らえられた引率の教師と生徒という可能性が推測できる。

 

捕虜として捕まるより、教え子も含めて銃殺されるほうを望んだという教師は、その後、どうなったのだろうか。

 

その教師は幾度か米軍の記録写真に登場する。以下は、捕虜となって米軍の収容所に連れてこられてから四日後の写真である。

 

資料コード:0000112252 (1945年4月7日)「タンガリーをもらって」

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《AIによるカラー処理》【原文】 ”Pancho” a native Okinawan school teacher, (left) [sic] is pleased with his new Marine dungrees. Beside him is M. P. Corp. John S. Rachunok, 27, husband of Orelle Rachunok of 2527 Webster St., Alexandria, La.
【和訳】 海兵隊員にダンガリーをもらってご機嫌の地元の教師「パンチョ」(右)。隣はラチュノック伍長
撮影地:
撮影日: 1945年 4月 7日

 

教師として多少の英語の心得があったらしいこの教師は、さっそく「パンチョ」というあだ名で米軍に愛され、活躍していた。

 

米兵が彼を「パンチョ」と呼んだ、その意味は、米軍によって彼は日本語で「班長」と呼ばれるポジションに任命され、人々からそう呼ばれるようになったということだろう。海兵隊の頑丈なデニム生地の軍服は今も人気だが、そのダンガリーを海兵隊にもらい、上機嫌で写真に写る姿。

 

米軍の収容所において、「メイヤー」や「班長」は、食料配給や待遇面でかなり優遇された権限を持っていた。

 

資料コード:0000112252 (1945年4月7日)「ダンガリーをもらって」

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【原文】 ”Pancho” a native Okinawan school teacher is pleased with his new Marine dungarees.
【和訳】 海兵隊員にダンガリーをもらってご機嫌の地元の教師「パンチョ」
撮影日: 1945年 4月 7日

 

捕虜となった人々のまとめ役となり、人々に米軍の指示を伝える教師「パンチョ」。パンチョ先生は海兵隊からもらった軍服を着て、「捕虜たちを忙しく働かせた」(keeps the rest of the prisoners busy) とある。

 

四日間で、あまりにも早い変身である。

 

資料コード:0000112253 (1945年4月7日)「パンチョに指示を伝える」

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【原文】 M. P. 1st Lt. James W. Brayshay, 20, gives instructions to an Okinawan school teacher whom he nicknamed ”Pancho”. Pancho, a trustee keeps the rest of the prisoners busy. Lt. Brayshay's parents Mr. And Mrs. James E. Brayshay, live at 208 E. Magnolia Ave., San Antonio, Texas.
【和訳】 「パンチョ」というあだ名の教師に指示を出すブレイシェイ中尉。まとめ役であるパンチョが(他の人々に指示を伝え)みんなを働かせる
撮影地:
撮影日: 1945年 4月 7日

 

資料コード:0000112253 (1945年4月7日)「パンチョに指示を伝える」

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《AIによるカラー処理》【原文】 1st Lt. James W. Brayshay, 20, gives instructions to an Okinawan school teacher whom he nicknamed ”Pancho”. Pancho, a trustee keeps the rest of the prisoners busy. Lt. Brayshay's parents Mr. And Mrs. James E. Brayshay live at 208 E. Magnolia Ave., San Antonio, Texas.
【和訳】 「パンチョ」というあだ名の教師に指示を出すブレイシェイ中尉。まとめ役であるパンチョが(他の人々に指示を伝え)みんなを働かせる
撮影地:
撮影日: 1945年 4月 7日

 

当初、捕虜となるよりは銃殺することを望んだ、という一人の教師は、こうして、わずか三日でまたたくまに新しい体制に順応して、その場所を見つけた。

 

しかし、勤皇隊として動員され、北部の遊撃戦にさし向けられた学徒兵たちは、それから何か月もやんばるでまだ地獄の戦争をさまよっていた。

 

例えば、県立水産学校通信隊でたった一人生き残った学徒が銃創だらけで捕虜となったのは10月3日だった。パンチョ先生が捕虜になった4月3日から、実に半年がたっていた。

 

 南部の収容所に着いた時、元警察署長だった責任者に「上前君は弱っており、早く医者に見せてもらいたい」とたのんだ。だが、返って来た言葉は「学徒兵でも陸軍2等兵は陸軍2等兵。そんな言い訳は聞けない」と断られ、トラックで屋嘉収容所に運ばれた。2、3日して上前さんは傷口が悪化、死亡した。

 

 「軍部とともに威張り、私たちを戦場へ駆り立てていた警察幹部が、そのころには米軍の下で威張っている。たった1人生き残った学友も彼が奪った。今でも彼に対して怒り、うらみは消えない」―純心であるがゆえに、戦場での犠牲も大きかった学徒だけに、変わり身の早い大人たちの身勝手さは許せなかった。

【Archive 2-6】沖縄県立水産学校 22人の水産通信隊 たった一人の生還 - Battle of Okinawa

 

いつの世も変わらず、子どもたちは純粋である。だからこそ「愛国教育」でマインドをセットされ、純粋に言われたことを疑うこともない。最後まで純粋に信じてなく戦う。

 

そのうえ、肝心な局面では、一人前扱いされず、食料まで正規兵に奪われるが、学徒兵は子どもなので大人たちに文句をいうすべを持たない。

 

沖縄戦を見ていくことは、政府と軍がが学校と教育に介入し、いかに子どもたちを戦争のために「消費」していたか、その過程を見ていくことでもある。

 

おそらくは、学徒隊の引率の教師だったかもしれないパンチョ先生。その笑顔の裏にどんな苦悩があったのか、今の我々には知るすべはない。

 

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再びおびやかされる「教育の独立性」。砦は崩れたのか。とかく立身出世に賢しい大人は変わり身が速い。妥協を知り、目の前の危機にうまく立ち回る。使えるものは軍でも要領よく利用すればいいと考える。しかし、本当に利用されているのは教育現場の方である。

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ospreyfuanclub.hatenablog.com