『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 伊江島

 

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伊江島(PDF形式:763KB)

 

防衛隊

○○盛興(二九歳)

一九四四年(昭9)十月八日、私は、球一六六一八部隊に臨時召集されました。伊江島から私を含めて四人だった。地区司令官青柳中佐の命令で、読谷村の大湾部落の司令部に八日までに出頭することになった。折悪しく、悪天候で海が荒れ、八日に海を渡るには渡ったが、夜更けになったため、その日は兵站部に泊り、翌九日、司令部に着いた。遅れたため、さんざん油をしぼられた。

 

私たち四人を含めて国頭郡出身者が十名同時に召集されており、責任者に宜保中尉があたった。司令官は、私たちに、国頭郡の各町村役場に行き、兵事主任と会い防衛隊員を召集するように命令した。

 

翌十日、名護の岸本旅館に泊っていると朝から空襲が始まった。はじめは、演習だと思っていたが、負傷者が担架でかつがれていくのを見て、本物の空襲だと思った。

 

翌日から、私たちは防衛隊の召集事務にかかった。そして、恩納村以北の国頭郡の各町村から、伊江島の特設工兵隊という名目で、十月二十日ごろまでに約五00人くらいの隊員を召集した。この隊の仕事は、すでに伊江島に配置されていた田村飛行場大隊に協力して飛行場を建設することであった。兵舎は真謝部落にあった。

 

明けて、一九四五年(昭和8)1月のはじめ、台湾に移動した佐藤部隊のあと、つまり、西崎のトモリというところに兵舎を移した。

 

三月下旬以後の連日の空襲のころには、西崎の千人塚に、約十日間ほど居た。そして、アメリカ軍上陸の直前の四月十四日に、千人壕から、現在の西前公民館近くの大きな塚に移動した。十五日は、艦砲射撃が島を包んだ。グシク山を中心にして、ふりそそぐ砲弾は視界をさえぎるほどで、五月の長雨でもこんなには降るまい、と思うほどの量だった。それに加えて、空からの爆撃もあり、身じろぎもできなかった。

 

十五日夜、私たちの隊は、島の北海岸の壕に移動した。ヤーバル毛というところのナバンガマという洞穴だ。

 

翌十六日は、朝から、珍らしく米軍機も飛ばないので不思議に思っていたら、アメリカ軍の上陸の日だった。それを私たちが知ったのはその夜だった。

 

その夜、私たちは、束上のミナトバルにいた前田小隊と協力してアメリカ軍を攻撃するようにという命令を受けた。私は、七、八人のグループで斥候に行った。一列縦隊になって進んで行くと、前方百メートルぐらいのところの松林から銃撃を受けて、一人が倒れた。仕方なく引き返して、ナバンガマの隊に戻った。その日、東飛行場の南端にいた私たちの部隊の一個小隊はアメリカ軍の攻撃で全滅したといわれています。

 

十八日の晩は、総攻撃というので、東の方はアメリカ軍がいっぱいだから西の方からいく組かに分れて迂回していくことになった。ところが、連絡が不十分なため、各小隊ともバラバラになってしまった。ある小隊は、ナーラ付近でアメリカ軍と戦闘して全滅した。

 

結局、すべて失敗して、再びヤーバル毛に帰って来た。10人ぐらいだった。その時、大隊長がこういった。「もうだめだ。本島出身の者は、八重岳の宇土部隊に合流せよ。そのために、筏で渡ろうと泳いで渡ろうと、島を脱出せよ」「伊江島の出身者は、アメリカ軍の戦線を突破して、グシク山の守備隊に合流し、その指揮下に入れ」と。こうして、部隊は解散した。隊長は、アハッテガマという洞穴で、責任をとって、本土出身、本島出身の兵隊数名とともに自決した。

 

その後、私たちは、昼はワジの西側の壕にかくれ、夜になるとアメリカの艦船から流れついた食糧を拾ってきて、それで生命をつないだ。ある夜、私は同じ部落出身者二人とともに、夜中、その塚を出た。目標は自分の部落だった。ところで、途中の海岸には、唯一の水源地ワジがあり、そこには必ずアメリカ兵が居るだろうということで、そこを避けるため一時海岸から産をよじのぼり、ワジの上あたりを這って進んだ。しかし、あまり銃撃がひどいので、また壁下の海岸線に下り、しばらく海岸線を進んだ。しかし、ワジを過ぎたところで海が深くなっており渡れないので、その地点から、再び、そそり立つ絶壁をよじのぼった。

 

断崖の上に出たころ夜が明けはじめた。近くに、素裸の婦人の屍体があった。夜明けが近づくにつれて、私たちは隠れ場所がないことが心配になってきた。途方にくれていると前方から黒い人影が近づいてくる。「誰だ」というと、知人の親父だった。親父のいうのには「いままでヤクスンジの壕にいたがそこが危険になり、家族といっしょに出たが、途中はぐれてしまった」ということだった。

 

私たちも、これまでの経過を話し、「どこかに壊はないだろうか、と聞いた。彼は、「ここの球はせまいが一日ぐらいなんとかなるだろう」といって自分のかくれている塚に私たちを泊めてくれた。彼は、米とタバコを持っていたので、いっしょに生米をかじり、タバコを分けてもらった。

 

夜になったので、それぞれ、自分の家族をさがしに行くことにして親父とそこで別れた。海岸で、筏を組んで本に渡ろうとする同僚たちに会った。北海岸から南の方に向ってくると、いまの波止場のあるところから西側は、アメリカ軍の兵舎のあかりで昼のように明かるかった。三人とも、それぞれの家の塚をたずねてみたが、一人も居なかった。そこで東部のカメオの壕に行って見たが、そこにも居ない。伊江島で生き残っているのは、自分たち三人だけだ、と思い、そう語りあった。ところが、食瓶を探しにアシャギの方へ行って見ると、そこの塚に住民と兵隊がいっしょにひしめいていた。そこで家族の消息を聞いたら、去る十七日の午前十時ごろに、六人全員死んだということだった。

 

ある日の十一時ごろ、この七、八〇人ぐらい入っている環に、アメリカ兵が三人ばかりやって来た。それに向けて、壕の中の一人が発砲した。アメリカ兵は一時退散したが、十分位で帰って来て、なかに、ガス弾を二個投げた。壊内は、煙のうずとなった。しばらく気を失った。気がついてみると外の光がみえた。「どうせ死ぬなら外に出て新鮮な空気を吸って死のう」と思って外へ出た。私のうしろから四人がついて出て来た。アメリカ兵は居なかった。午後一時ごろだった。私のおじの家の嫁に、五人で行った。疲れきっていたのか、他の四人は全部そこで寝てしまった。私は、皆を起したが無駄だった。仕方なく、私は、行李の中から着物や日の丸の旗などをとり出し、そこを出た。そして、アカギン屋の壕の近くの石にかくれていた。またフクギに登ってかくれたりした。

 

四月二十五日ごろ、大根の花の咲いている畑のなかに伏せていたら数人のアメリカ兵に見つかってとり囲まれた。私は、これまでだと思い、手まねをまじえて、「撃て」といいながら、彼らの間を通り抜けて、近くの民家に逃げた。その後もう一度アメリカ兵に見つかったが、それからも逃れた。

 

五月一日、ある壕の中にひそんでいると、知りあいの親父が「いまアメリカ人が助けに来ているから、早く出て来い」と呼び声がした。私は、「あなた気が狂ったのか」と応酬したが、何度も出るようにいわれ、また、軍服を脱いで着物に着替えて出るようにともいわれた。出ないと大変なことになるといわれてとうとう壊を出た。そして、ナーラの収容所に入れられた。

慶良間の渡嘉敷に

伊江島の生き残った住民は、五月二十日、慶良間につれていかれた。渡嘉敷に一、六〇〇人、慶留間に四〇〇人だった。私は、慶留間につれていかれた。この戦争で、私の家族は私を残して全滅した。

 

一兵士として

○○秀吉(二七歳)

 私は、大阪に働きに出て、妻子とともにそこで暮らしているところを、一九四四年(昭9)九月に召集された。沖縄から電報があり、名護に来るよう連絡を受けた。本土在住の県出身者で私と同じように召集を受けた者は、鹿児島に集まった時五〇〇人ほどいた。そのうち、伊江島出身者が七人だった。

 

電報を受けとった翌日大阪を発ったが、当時、アメリカ軍の潜水艦が、近海に出没している状況のため、鹿児島で三日ほど足どめをくい、入隊期日に二十日ほどおくれてしまった。名護についたときには、部隊が編成されており、私は、崎本部小学校にある中隊に配属になった。

 

配属になるとすぐ陣地構築の作業をさせられた。そのころ、十・十空襲を体験した。それまでは、学校に宿営していたが、それを契機に山上の掘立小屋に移った。

 

伊江島に来たのは、十二月一日で、伊江島の守備が、西村隊から井川隊に交替したためであった。私は三中隊に配属されていたが、大隊本部勤務になり、そこで経理を担当させられた。本部はグシク山にあった。日中は経理の仕事をし、夜は塚掘りに従事した。

 

三月二十三日から、連日空襲が続き、それに四月からは艦砲射撃が加わった。昼は外に出られないので、夜、食糧をとりに行ったり水を汲みに行ったりした。

 

四月十六日にアメリカ軍が西崎に上陸して、次第に東方に迫ってきた。激しい攻防戦がくりかえされたが、装備の差はどうしようもなく、おされ一方であった。我が方は、兵一人一人に銃がいきわたらないありさまだった。私も、一度夜襲に参加したが、西前の部落はずれまで行ったがその先は一歩も進めなかった。

 

そのうち、アメリカ軍は、周辺の日本軍陣地をつぶして、グシク山に迫って来た。四月二十日午後四時ごろには本部の壕の前にもアメリカ軍がやってきた。てき弾筒でこれを追い払ったが、おそらく翌日には戦車を先頭にした猛烈な攻撃が来るだろう、そして、我々は壕もろともやられてしまうだろう、との判断で、こちらから最後の総攻撃をすることとなった。

 

二十一日、午前二時、足腰の立つ者全員がこれに参加した。目標は、学校に陣どるアメリカ軍だった。しかし、目的地に達する前にほとんどが死傷した。兵隊の多くは「お母さん」「お母さん」を絶叫しながら死んだ。私は、区事務所の前で砲弾に吹きとばされた。

 

気がついたら、足に軽傷を負っていた。私は近くの壕の中に、一日中かくれていた。幸い見つからずにすんだ。その晩、東部の住民のかくれている壕に行き、傷の手当てを受け、食事をしてそこを出た。東海岸をめざして出たのだが、月明りをたよりにアメリカ軍が射撃してくるので道端に二時間ほどかくれていた。そして、月が沈むのを待って、出発した。途中妻の実家の壕を見つけそこに入りこみ、一夜を明かした。翌日、一日中そこにひそみ、夜になって、東部めざして出発した。ところが、私は、壊をさがせず、途方にくれて、野菜畑に寝ころんでいた。そこで、水を汲んで帰る住民の一人に会い案内を頼んだ。負傷した足を引きずりながら、後を追って、ようやく住民のいる壕に辿りついた。

 

二、三日して、その壕にアメリカ兵がやってきて、私たちは、ナーラの難民収容所につれていかれた。ナーラに収容された人たちは、まだ壕にひそんでいる身内を探しに壕に出かけていくのが多かった。四、五名のグループでいくならわしだった。それらのうち、平良さん、新城幸徳、田港つね、他二人のグループは、ついに帰って来なかった。だいたい朝の九時に収容所を出て、五時に帰ってくることになっていたのだが、永久に帰ってこなかった。私たちは大騒ぎになったが、状況からみて、日本軍の敗残兵に殺されたのは、ほぼまちがいないだろうといわれている。

 

青年義勇隊

○○宗真(十七歳)

青年義勇隊というのは、伊江島の当時十七歳未満の青年で組織され、守備隊の各分隊に配属になったものです。当時、十九歳以上は現役召集、十七歳、十八歳は防衛隊に、十七歳未満は義勇隊にとられた。私は義勇隊にとられた。一九四四年(昭9)の夏からの疎開で島から出ていった私の同年輩の者もいたが、残った者は、軍の命令で義勇隊に入った。一九四五年(昭3)に入ると、もう疎開もできなくなり、波止場には菊池準尉が見張っていて、青年男女が島から出ることを禁止していた。夜になってくり舟で逃げる人もいたけれども。

 

私の部落には、同年輩の青年が三〇人ぐらいいたが、青年学校教師儀間清政氏の奨励で義勇隊に志願した。三月下旬の空襲が始まっていたころのことである。部落単位で編成され、最寄りの中隊に配属になった。各分隊二名ずつだった。

 

身分は軍籍に属し、軍服も支給されたが、階級章には星はなかった。星のない階級章をつけているので、特別視されたらしく、一般の兵隊が、まちがえて私たちに敬礼するという喜劇もあった。しかし、仕事は兵隊と全く同じであった。上陸前は、陣地の穴掘りがほとんどであった。昼は空襲のため、壕内で眠り、夜、穴掘り作業をした。訓練は全くなかった。すでに青年学校で軍事教育を受けてきており、そのまま、実戦に加わったわけだ。

 

空襲が激しくなったある日、私たちの嫁はその入口に直撃を受けて、相当の犠牲者を出した。

 

当時、食損が少かったので、その日、野原に逃げまどう仔牛をとらえて来て、壕内でそれをつぶしてトタン板の上で焼いて食べていた。おそらくその煙が見つかったのだろう。米軍機の集中攻撃を受けた。その一弾が壕の入口に命中した。入口近くに居た五人が即死七人が負傷した。分隊員十五名中無傷は三人だけだった。私も、土砂の中に生き埋めになり、四、五時間後にやっと救出された。幸い、傷は足に軽い打撲傷で、それでも一か月位は足を引きずって歩かねばならなかった。

 

その負傷で、私は、一週間ぐらい中隊本部の医務室に入院させられた。ところが、医務室には毎日毎晩、新しい負傷者が入ってくるので、軽傷の者は順次それぞれの分隊に帰された。そのころ、アメリカ軍が西崎方面に上陸したということを聞かされた。・アメリカ軍の上陸後は、夜襲に参加した。道案内のため、先頭に立った。

 

ある夜、陣地から五、六百メートルのところにあるアメリカ軍の戦車を攻撃した。それを昼のうちに、発見し確認しておいて、夜、三人で爆雷を背負い、手投弾を持って出かけた。月夜だった。戦車のまわりには四0人ぐらいのアメリカ兵が寝ているのが見えた。私たちが七〇メートル近くまで行ったとき、咳ばらいのようなのが聞えたかと思うと、私たちめがけて、銃弾を雨あられのようにあびせてきた。四、五分はうたれっばなしであった。私は、畑のあぜったいに、腹ばいで陣地に帰った。そこには、一緒に行った者のうちの一人が負傷して帰って来ていた。私は無傷だった

 

翌朝、負傷した仲間の血のしたたりの跡をたどって、アメリカ兵が私たちの陣地を探しあて、攻撃をかけてきた。分隊長は即死、別の兵隊が新分隊長になった。私たちは、もうこれが最後だというので、すでに中隊本部から配給されていたアルコールで、盃をかわして、最後のわかれをした。

 

そして、分隊長を先頭に、壕をとび出していくことになった。まず分隊長がとび出すと、壊を一歩出たところで、射殺されてしまった。続く三人も同じことだった。私は五番目だったが、とび出すのをやめて壕に引っこんだ。私を含めて四人が壕内に残ったが、壊の一番奥の方にさがり、ガス弾を避けるため毛布をかぶってかくれていた。入口から三〇メートルぐらいのところだった。当時の軍隊教育のせいで、死の恐怖よりも、他の分隊に合流して戦闘に加わるという意識の方がつよかった。ともかく、残った四人が、午前十時どろから日暮れまで、じっとそのまま壕にひそんでいた。何時間かたって外へ出ると夜だった。午後八時頃だったと思う。

 

他の分隊との合流を考えて、いまの伊江中学のあるところの陣地へ行こうとした。ところが、余りにもアメリカ軍の砲撃がひどくて、とてもいけそうになかった。そこで、海岸沿いに逃げることになり海岸近くの壊に行った。そこで従姉に逢い、食事をもらった。一日をそこで過ごした。翌日、壕の入口にアメリカ兵がやって来た。出て来いと声をかけられたらしいが私たちには聞こえなかった。まもなく、はげしい銃撃を浴びせられた。その時、私は手をはじめ武傷を負い、意識を失った。気がついた時は、伊江島の捕虜収容所の病院で手当をうけていた。三日間ぐらい意識不明だったらしい。

 

私は軍服を着ていたので、他の捕虜といっしょに、ハワイへ連れていくということで、本島まで引っぱられた。中部の砂辺につれていかれて、年少のため兵隊でないということになり、民間人といっしょに越来村に送られた。同じ部落から義勇隊に入った四〇人のうち生残者は七人くらいでした。

 

救護班員

○○保子(十七歳)

私は、救護班員として伊江島の戦闘を体験しました。私と同年竣の島の女子青年は、ほとんど全国昭和二十年の一月に救護班員として従軍させられたのです。どれくらいの人数だったかは、わかりません。各隊に配置されて後、戦闘の始まる以前に家族といっしょに本島へ逃げていった人たちもかなり居ましたが、それでも各分隊に、二、三人は居ましたし、最後の総攻撃に集合を命ぜられた時にも全員で五〇人程度残っていました。

 

救護班員というのは、いわば従軍看護婦ということですが、そうはいっても、私たちが受けた教育はせいぜいほう帯のまき方ぐらいでした。伊江島には野戦病院はおいてなくて、各小隊に軍医が一人ずっ居り、私たちは、衛生兵の指揮のもとに各分隊に配属され、私は井川大隊の大崎中隊に配属になり、ヤマグシク(西江上)の壕に居りました。

 

入隊後、アメリカ軍が上陸するまでは、救設の仕事はほとんどなく兵隊たちと同じく壕堀り作業と炊事の仕事のくりかえしでした。

 

その間、アメリカ軍の空襲と、艦砲射撃が、くりかえし、くりかえし加えられました。そのはげしさは、例えようもありません。同じところに一秒ごとに弾が飛んでくるありさまでした。城山(グシクヤマ)の岩山のふもとは、かつては巨大な松の老木でおおわれていて子どものころは、その木陰でよく遊んだものでしたが、あとで見ると、それが全部吹きとばされて、岩石や赤い土が無惨に露出していました。さいわい、壊が深かったので、被害はありませんでした。

 

アメリカ軍の上陸後、地上での戦図で負傷した兵隊の看護と炊事に明け暮れし、また、射撃の訓練も受けましたが、何しろ、わずか一週間くらいのことですから、多忙だったという実感は残っていません。そのころのことでは、重傷者が「水をくれ」といってわめくのを居たたまれない気持で聞いていたこと、また、重傷者が壌に帰ってくると、上官が、「どうして死ななかったんだ、どうして生きて帰ったんだ」と怒鳴りつけていたこと、また分隊長が重傷者を壕の外に出して自決を命じたこと、など、戦闘のむごたらしさ、日本軍の非人間的行為が強烈な印象として残っています。

 

今の中学校のあるところで、激しい戦闘がありました。アメリカ軍がそこを占領したのを、一時は日本軍がとりかえし、それを、飛行機の爆撃に助けられたアメリカ軍がまた占領するなど、激しい攻防がくりかえされました。そのため、その周辺はおびただしい屍体の山でした。そのころからは、壊から出撃した兵隊は一人も帰って来ませんでした。

 

最後の晩は、兵隊も看護班員も全員壕の前に集合させられ、幾組かに分けて「玉砕」することになりました。私は、手投弾二個を与えられ、飛行場方面攻撃の班に加えられました。月夜でした。この月が沈んだら、その時刻を期して、一斉に攻撃を始める手筈でした。

 

「グシク山を出て、赤顔の池の辺りまで来ると、うっすらと夜が明けかけてきました。すると私たちをめがけて、集中射撃を受けました。私たちは木の茂みにかくれましたが、そこへ空襲と砲撃がおそってきました。ここで殆んどが死にました。私と手をつないでいた二人の友人も、砲弾で吹きとばされて、着物の切れはしが木の枝にかかっている程度でした。生き残ったのは私一人で、不思議なことにかすり傷一つないのです。

 

そのまま、そこにかくれていると、飛行場部隊の中沢という中隊長が、お尻に負傷して道ってこちらへやってきました。二人で、ひそんでいるところへ、近くに砲弾が落ちました。その時、這っている私の背中にどしーんと土の塊が落下しました。私は、てっきり砲弾の破片だと思い、思わず「やられたー」と悲鳴をあげました。中隊長は、私にピストルを向けて、「殺してあげようか」といいました。私は、背中に手をやってみるとそれが土だとわかったのでことわりました。

 

一日中、同じ場所にひそんでいましたが、やがて日がくれると、どこからともなく、島の住民が三人、兵隊二人がそこへ集まってきました。その人たちの家族が北海岸の洞穴に居るというので、そこへ行くことになりました。照明弾があがると伏せ、消えると進みして、夜明けごろ、やっと着きました。洞穴にはたくさん島の人たちがいました。

 

そこへ、アメリカ兵がやって来て住民に出るよう呼びかけ、住民はみんな出ていってしまいました。私は、兵隊二人と壕に残りました。すると、アメリカ兵は、城の上部にさくがん機で穴をあけ、そこから爆弾をうちこんできました。ガスも流しました。しかし別にどうということはなかった。

 

一夜、そこで明かして、翌日、兵隊たちは「あなたはここの住民だから、皆と一緒に行った方がいい」といい残してどこかへ行き、私も、近くの別の洞穴に行きました。そこで親戚の人たちに会いました。食事にもありつけました。

 

この洞穴に十日ほどいました。そこへ、叔母が私を連れに来ました。叔母は、すでにアメリカ軍によってナーラの収容所に収容されており、そこで私の消息を聞いてやってきたのでした。その時、私も洞穴を出ました。

 

それからまもなく慶良間につれていかれました。慶良間の山中にはまだ日本軍がこもっており、私たちの船が着くと、山の上から日本軍の射トンを受け、その時に負傷した人もいます。

 

慶良間に三、四か月ほどいて、それから、母たちのいる久志に行きました。

 

小学生の体験

○○彦興(十三)

一九四四年(昭9)十月十日の空襲のとき、私は国民学校高等科の二年生だった。それ以後、わたしは学校へ行っていない。毎日が、飛行場建設や陣地構築に明けくれたからだ。当時、伊江島の民家には、必ず各戸一名の徴用割当があり、私の家では、私がそれに出たのである。私は、主としてグシク山の陣地掘りの作業に従事させられた。石油ランプを灯した地下の作業で、鼻の穴がまっ黒になるような労働だった。

 

私の家は空襲で焼かれ、また石造の隊舎に移しておいた衣類、食糧が艦砲の直撃弾を受けたので、私は、当時学校から配給のあった学生服一着の着たきり雀で、二月から五月までの三か月間をすごした。

 

三月の末から、伊江島上陸(一九四五年四月十六日)まで、伊江島は連日連夜空襲と艦砲の猛攻撃を受けた。昼は空襲、夜になると艦砲射撃で、首もあげられないほどであった。私の家の納屋には、守備隊の保管米がおいてあり、不足はなかったのだが、猛爆のもとでは火を使うこともできなかった。ある時、近所の内間さんという人が、炊事をしているところへ艦砲弾が飛んで来て、即死するということもおこった。葬式もできず、ただ、土の中に埋めるだけだった。そんな訳で、私たちは、防空壕の中でナマ米を噛って毎日を過したのである。

 

ある朝、あれ程までにすさまじく荒れ狂っていた空要も艦砲もハタと止んだ。私たちはみんなホッとしたが、それがアメリカ軍上陸の日だったのだ。

 

島の西海岸に上陸したアメリカ軍は、その日のうちに、部落近くまで迫ってきていた。ホッとしたのも束の間、ふたたび、同じ生活にひきもどされた。ナマ米を噛るのも飽きてほとんど水を飲んですごした。

 

当時、母と幼い弟たちは今帰仁疎開させられており、家の壕には、父と私の二人だったが、グシク山の守備隊の玉砕後、警備召集にとられていた兄が帰り、それに姉も加わった。私たちは、父が島の北部にかっこうの自然の洞穴を知っているというので、みんなしてそこへ移ることになった。

 

父を先頭に、その指示に従いながら、兄、姉、私に、隣家の父子の七人で、米袋を妬を天秤棒にして担ぎ、一升ビンや鍋に水をいれてさげ、航空燃料のブタノールを五合ぐらい手にさげて、夜七時すぎ暗闇にまぎれて、北海岸めざして部落を出た。ところが、栄途が悪いため全員が夜盲症にかかっており、一寸先も見えず、文字通りめくら滅法、あっちにつまずき、こっちにつまずきで歩くありさまであった。また連日の好天つづきのため、カラカラに乾いた落葉は踏みつけるだけでパリパリ音をたてて気が気ではなかった。家の塚を出ると、道にはおびただしい人馬の屍体がころがっていた。なかには、胴のまん中がふっとんで、胸から上の部分と腰から下の部分が残っている屍体もあった。もはや、死の恐怖などなくなっている自分だったが、さすがにその無惨な屍体には眼をおおいたくなるほどだった。

 

目的地は、ワシの東側のイヌガというところで、部落からはグシクの西側を直進した方が近いのだが、東側から遠まわりして行くことになった。グシクの東あたりで水を汲みに行くらしい守備隊の兵士一分隊に出あった。途中、アメリカ軍の照明弾があがったり、銃繋があったりした。照明弾があがると、道ばたに伏せてかくれ、そ,れがおちて暗くなると目的地へ急いだ。そのため、鍋にいれてあった水はこぼれて一滴も残らなかった。一時間に100メートルぐらいの速度で進んだ。途中には、戦車やトラックの残がいがひっくりかえり、銃砲器が散乱し、屍体がころがっていた。天秤棒をかついだまま倒れている男、母親の屍体と一緒に倒れている幼児の死体など...。しかし、もうその時の私の神経は麻痺しており、「ここにも死んでる」「ここにも.....」という程度であった。

 

こうして、真夜中やっと目的地にたどりついた。七人のうち二人が途中ではぐれてしまい五人だった。岩の割れ目にできた自然の洞穴をみつけてそこにかくれることにした。父と私が銛を持って交替で見張りに立った。二日目の夜、私が見張りに立っていると、岩の割れ目の下の方に民間人らしいのを見つけ、近づいてみると、途中ではぐれた私の兄だった。

 

兄は、アメリカ軍の紙詰、たばこ、ビスケットなどの野戦食瓶を持っていた。アメリカ軍の陣地あとから拾ってきたのだった。私たちは、最初毒が入っているのではないかと疑ったが、兄がすでに食べてみたというので、線を使って用心深く音を立てないように詰をあけ、セロハン紙につつまれていたビスケットといっしょにたべた。

 

ところで、アメリカ軍の陣地は、私たちのかくれ住む洞穴からものの二、三百メートルのところにあり、また、ある日、兄がワシに水を汲みに行ったところ、水汲み場にアメリカの哨兵がいるのを目撃したりしたので、ここでは危険だというので、この洞穴を出て、東側のイヌガウリクチという断崖の降り口、たいへん危険でこわい降り口だが、そこから海岸に降りた。ちょうどひき潮で、リーフの上を歩いたが、海面は重油やタールにおおわれ、それが身体や衣服にこびりついた。確詰なども散乱していた。それを拾って、イッテヤーガマという自然洞窟に行った。そこには、私の近所の人たちがさきに入っていて賑やかなものだった。そこで約一か月くらいすごした。その間、太陽を見たことがなかった。

 

食植は、海岸に漂着したアメリカ軍の詰や乾燥ポテト、人参、玉ねぎなどが豊富にあった。ただし、持久に備えて、一日一食をふきの葉に盛ってたべた。飲み水はなく、海水を飲んだ。ある日、大雨が降ったので、飯盒のふたと一斗羅で溜い水を汲んできたら、まっ赤な泥水で、底に一センチもの泥が沈演していた。それとも知らず、汲んで来た夜はみんなおいしく飲んだのだった。一か月たったある夜、一人の日本兵が、私たちの洞穴にやって来た。不時着した少年飛行兵で、若い少尉だった。飢えていたらしく、私たちの大事な食糧をガツガツ食い、二日くらい滞在して、本島へ泳いで渡ると告げて出ていった。その後も、敗残兵が洞穴に入りこんで同居するようになった。

 

そのようなある朝、洞穴の上で耳なれない話し声が聞こえ、まるなくアメリカ兵が数名洞穴に入って来た。私たちは、更に奥深くかくれたが、散乱する鉄帽や銃を見たアメリカ兵は、衣類や毛布、食橿などを焼き、ビンを割るなどの乱暴をはじめた。壕内は、煙とガスが立ちこめてきた。このままでは殺されるというので、父、兄、私、それに玉城さんという人は、とび出す用意をしていた。まず玉城さん、ついで兄がとび出したが、入口で銃を構えていたアメリカ兵の銃撃で二人は負傷して捕虜になり、父は入口で両手をあげて無働で捕虜になった。私は、中の小さなくぼみにうずくまったままだった。そのままの姿勢で、衰弱のため睡魔におそわれたが、時々アメリカ軍の手投弾のさく裂する音で眼をさましたりしていた。

 

そのうち、午後の三時頃、壊の外で「ゲンコウ」と私の名を呼ぶ声がしたが、側にいる兵隊が、「あの声はアメリカ兵だから行くな」といって手を引っぱって止めたので、そのままうずくまっていた。そうすると、今度は、はっきりと父の声で、「おまえたちが出て来ないのなら、私は行くぞ」といった。それを聞いた私は反射的に出口にかけ出した。先刻、私の名前を呼んでいたのも、実は父だったのだ。外にとび出すと一人のアメリカ兵が、まさに壌内めがけてガス弾を投げようとしているところであった。私がとび出したので、中にいた残りの人たちも、ゾロゾロと出て来た。その中に、阿波根さんという軍服を着た防衛隊員がいた。足に負傷していた彼は、私の父の背を借りて出て来たが、それを見たアメリカ兵は、父に阿波根さんを下ろすように命じ、地面におろすや否や射殺した。私がアメリカ人の顔を見たのはこの時が初めてであった。

 

太陽がまぶしく目が痛い程であった。私たちは、アメリカ軍のトラックに乗せられ、西のナーラ浜につくられた収容所につれていかれた。収容所に、たくさんの住民が生き残って収容され、それらの人たちが私たちと巡って健康に日焼けしているのが私にはにわかには信じられなかった。その日が、何日だったか確かでないが、その時聞いた話では、あと二日で上陸の日から一か月になるということだった。ナーラで二、三日すごしたあと、慶良間に連行された。

 

渡嘉敷島では、山中に赤松隊がたてこもっており、アメリカ軍との間にしばしば小ぜりあいがあった。渡嘉敷島の住民も山中に避難したままで、私たちはその民家に分宿させられたが、家の軒先を弾がかすめてとぶありさまであった。

 

そのころ、伊江島の戦闘は完全に終っており、その平和になったところから、なぜ、まだ戦脇のつづいているところに伊江島住民を連行したのか、私は不思議でならない。おそらくは、渡嘉敷住民を下山させるための囮ではなかったかと思うがどうだろうか。

 

小学生の体験

○○嘉吉(十三歳)

一九四四年(昭9)、当時私は、伊江風民学校高等科二年生だったが、その一学期、校舎に陸軍の食糧が搬入されたので、授業はほとんどできなくなった。週に三日は、国有林の木麻黄の下で授業を受けたが実になるようなものではなかった。そして、残る三日は、飛行場建設のための勤労奉仕に従事させられました。「私は、勤労奉仕の日には、兄の名儀で馬車をひいて行って、それで工事に従事した。馬車で仕事をしたら一日円の日当がもらえ、人夫は一人一日八〇鐵、学校の引率で行った学童、生徒らは無報酬の勤労奉仕であった。仕事の大部分は、馬車やモッコでの土運びだった。作業開始も、終りも、昼食もみなラッパの合図で行なった。

 

その年の十・十空襲の日は、出校日だった。その日は、朝から何千機という飛行機が、伊江島の上空をとびまわっていた。最初、替備隊の隊長に聞いたら、演習に来たのだ、といわれた。それで、しばらく立って見ていたら、すぐ近くに機銃弾がとんで来て石をはじいたので、これは実弾だ、ほんものの空襲だ、ととっさに判断して家の防空壕にかけこんだ。

 

この空襲以後、私は学校へは行かなかった。というのは、空襲の四日後、長兄が召集で首里の部隊に配属され、つづいて次兄も海軍にとられたので、家のもろもろの労働の負担が全部私の肩にかかってきたからだ。

 

一九四五年(昭)の一月中旬、戦争がしだいに激しくなってきたので、私の一家四人(父、母、私、妹)は、伊江島を出て、本部町の親戚の家に疎開した。そこでは、食神が全くなく、他の家から芋を分けてもらったりして食生活をつないでいた。しかし、それではどうにもならないので、まもなく今帰仁村兼次の山中に移り、そこで、わずかばかりの畑をゆずってもらって耕作したり、炭焼きなどをしながら食いつないだ。そのころ、私は勉強が好きだったので、自分の教科書を大事に持ち歩いた。どんな財産よりも貴重に思えた。結局は捨てなければならなくなるのだが・・・。

 

三月二十三日、いよいよ上陸につながる連日の空襲が始まった。私たちはそれを上陸空襲と呼んでいる。この頃、兼次のクスノキ山の壕の中で生活していた。本部から今帰仁へ、そして今帰仁の山中の環から環へと移動している間に食種は次第になくなり、他方、空製もひどくなり、まもなくこれに艦砲射撃が加わった。そんな頃、本部町伊野波に日本軍の保管米があり、民間人でも持ち出せる者は持ち出して食べてもよい、ということを聞いた。それで、私は、父に連れられ近所の人々と一緒に、クスノキ山から伊野波まで、片道六キロの山道を急いだ。時間のなかを、アメリカ軍の照明弾の光をたよりに、砲弾の下をくぐりながら走り抜けた。途中三〇人くらい艦砲射撃で殺された人々が、道にころがっていた。帰りは、六キロの道を重い米をかついで走るのだから大変だった。最初は、欲ばって、できるかぎり沢山の米をかついだのだが、道々、少しずつ捨てては走ったりしてきたものだから、持ち帰ったのはごく僅かだった。この米に、杉の葉やよもぎの入れて雑炊にしたり、おかゆにして、それを一日二食ずつ食べた。

 

四月の十日頃、名護方面からやってきたアメリカ軍が、本部半島をとりまき、私たちのかくれていた今帰仁の山も一夜にしてアメリカ軍でいっぱいになった。そこで、私たちは再び、本部町のおうどにひっこした。自然の洞窟を見つけ、そこに住みついたが、食種は底をついた。附近の畑から芋を無断で掘ってきたりしてそれで飢えをしのいだ。

 

そこに一週間ばかり滞在しただろうか。いくさには追われるし、食糧はなし、というわけで、私たちは伊江島へ帰ろうと話しあっていた。島に帰れば、食概には不自由しないし、それに、伊江島は小島だからアメリカ軍は上陸しないのではないかと思ったからだ。ところが、まもなく伊江島にもアメリカ軍が上陸したため、帰れなくなってしまった。

 

そのうち、アメリカ軍に捕まり、その指示で、今帰仁村の兼次部落に移住した。伊江島から持ち出してきた衣類などの家財は、何回もの移動のたびに捨ててきたので、そのころは全くの着のみ着のままになっていた。

 

今帰仁に着いて三日目の朝、部落の大通りに集められ、アメリカ軍によって久志村大浦崎に連行された。大浦崎の何にもない野原で、数世帯に一つのテントがあてがわれただけで、そこに住むよう指示された。水もなく、米の配給はあったが、鍋も食器もなく、アメリカ軍の壊捨て場から語の空き鱷を拾ってきてそれを使った。その上、マラリアが流行した。沢山の人が死んだ。食糧も十分でなく、アメリカ兵にクギブ、ミー。ギブ、ミーんと物乞いをするありさまであった。

 

私たちは、久志から今帰仁まで片道二〇キロの道を歩いて食植さがしに出向いた。往きに二日、探すのに1日、帰りに二日、計六日がかりだった。米、麦、みそなどが主だった。最初は欲ばってたくさん担いだが、重いので、途中で少しずつ捨てて減らしていった。また、名護の東江原あたりに来ると敗残兵にねらわれて、食糧を分けたりしてますます少くなった。家に持ち帰るのはごくわずかなので、また出かけるのだった。

 

三回目の旅のときだった。みそと塩をさがしての帰り道だった。仲間の老人が引いていた山羊が死んだので、山中でそれを料理して食べている間に、荷物を全部敗残兵に盗まれてしまった。

 

しばらくすると、名護から先の方が通行止めになったので、名護にあるアメリカ軍倉庫に物資を盗みに行った。

 

その名護の物資がなくなると、今度は、久志から、恩納、読谷、嘉手納を経て、遠く牧港まで、盗みに行った。歩いて十日もかかった。

 

集団自決

内間吉成(十三歳)

私は、当時、国民学校高等科二年生だったが、青年義勇隊に入った。青年義勇隊は、高等科卒業が入ることが原則となっていたが、私はいわば例外だったのである。

 

高等科二年の中ごろ兄が召集で本部半島マブ山の野砲隊に配属されてしまい、父はすでになく、家に男手が足りなくなったため、学校をやめざるをえなくなった。そして、それまで兄がやっていたことの代りをつとめることになった。つまり、兄に代って馬車を曳いて飛行場建設工事に従事したのである。

 

そのうち、しだいに空襲が激しくなり、建設工事もできなくなった。そのころ、私は、吉岡隊(三分隊)の隊長と知りあい、義勇隊員という資格で、その隊に入隊した。軍服も小銃も支給された。小銃の手入れや、食事の運搬の仕事が日課であった。飯盒を数個かついで、部落内からグシクの陣地まで運んだ。そして、暇々に、戦車にたいして急造爆雷を投げる訓練を受けた。

 

空襲が激しくなった四月上旬、アメリカの飛行機から、住民は海岸に避難するよう、呼びかけのビラが大量にまかれた。しかし、確もそれを見向きもしなかった。

 

アメリカ軍の上陸がまじかに迫ったころ、私は、グシク山の陣地に居た。そこへ夜中に母がやってきて、家は、父もなく兄は兵隊にとられて男手がなく、この子一人だけが頼りなので、是非帰してくれと、分隊長に頼みこんだ。私は壕内で寝ているところを隊長に起こされ、ここは危険だから帰るようにいわれた。はじめ私は残るといったが、私が行かないと母たちも陣地に残るというのでとうとう隊長の説得に応じて母とともに陣地を出た。そして母とともに北海岸のタバクガマという自然洞穴に行った。

 

その洞窟には、知念三太さん一家をはじめ四、五世帯が入っていた。私の家族は、母、姉、姉の子供二人(二歳と三歳)、それに私の五人だった。

 

正確な日付はおぼえていないが、上陸後二、三日たっていたと思う。いよいよもうだめだというので、ダイナマイトで集団自決をはかった。夕方の五時頃だったと思う。それぞれ死ぬ準備をして、ダイナマイトを囲み、それに火をつけた。轟音とともにそれは爆発した。どれくらいの時間がたっただろうか。三〇、四〇分じゃなかったかと思う。

 

意識がしだいにもどってきた。気がついて、自分の身体をみると大した怪我らしいものはなく、姉の二人の子どもも目をパチクリして生きている。母も気を失っただけで元気、姉も元気だった。隣のダイナマイトは爆発したが、私たちのそれは爆発しなかったのだ。隣のダイナマイトを囲んでいた知念家の人たちのうち2人が即死した。一人の青年は肋骨が露出する程の重傷にうめきながら、父親に鋸で刺し殺してくれと頼んでいた。父親は眼がつぶれ、母親は即死で、その抱いた子は無事だった。

 

私たちは、知念家の人々と別れてこの洞穴を出た。夕方だった。そのまま死ぬつもりで、畑の中に一家で坐っていた。爆弾でも艦砲でも来い、という気持だった。

 

日が春れて、私たちは畑の近くの小さな自然壊へ行った。二日ぐらいたつと、叔母がその洞穴にやって来た。叔母たちは、私たちの近くの壕に居たところ、爆雷で集団自決をはかり大勢の人が死んだが、叔母を含めて二、三人が奇跡的に生き残ったということだった。耳をやられ、顔中血だらけになって放心状態で私たちのところへやって来たのだった。翌日には、嘉数さんという知り合いの兵隊が、私たちの隣にやってきた。

 

私たちの爆のとなりの塚には大城さんの一門五〇人ほどが入っていた。この二つの洞穴は、大人一人やっと通れるぐらいの穴でつながっていた。私たちは、大城さんらに、「お宅が自決するときには合図して一緒に死なせてくれ」と頼んでおいた。

 

ところが、ある朝、となりの洞窟は、突然催涙弾を投げこまれたので、私たちに合図するまもなく、隣だけで爆雷で自決してしまった。生き残ったのは三人だった。隣で自爆した直後、外で、伊江島方言で「生きている人はみんな出てこい。心配ないから...」という声がした。外へ出てみると、島の人だけでなくアメリカ兵銃をかまえて立っているのでびっくりして、壊にひっこもった。アメリカ兵の笑い声がして、また、島の人の呼ぶ声がした。方言で、「軍服を着ている人はそれを脱いでほかの服に着がえて出てこい」ともいっていた。あとで知ったことだが、軍服を着ている者は、その場で射殺されたということだ。私は、嘉数さんの軍服を大急ぎではがしたり、ちぎったりして脱がせ、兄の着物を着せた。そして、嘉数さんは、炊き釜を持って出た。私たちは、嘉数さんを、病気のため兵隊免除になった兄だということにして、行動を共にすることにした。

 

私たちは、いったん西海岸のナーラの収容所に入れられたのち、まもなく慶良間に移された。慶良間の無人島に一泊させられ、次の日、海上トラックで渡嘉敷に運ばれた。渡嘉敷ではまだ戦闘がつづいていた。私たちが、アメリカ軍の海上トラックから陸に上ると、日本軍の迫撃砲やてき弾筒のたまが飛んできた。命からがら上陸した。私たちは、空家になった渡嘉敷の民家に分宿させられたが、そこにも、夜になると、山にこもる日本兵がやってきて、食糧をねだりに来たりしていた。私たちは、煙草やキャラメルをやったりした。慶良間に来て一週間ぐらいたったころ、私たちの泊っている家の近くで、小さな戦闘があった。その翌日の昼ごろ、私が仕事から帰ってみると家族がいない。日本軍に協力したということでアメリカ軍に処罰されていたのだ。

 

同じ棟に、知念さん家族と一緒だったのだが、私が朝仕事に出たあと、アメリカ軍がやってきて、知念さんの手を調べて、硫黄がついていることから、日本軍の協力者だと断定され、古座間味にあった刑務所に送られ、一週間とじこめられた。そして女子どもは、学校の運動場に一日中日干しにされた。そんなことがあって、日本軍と接触できないようにということで、山ぎわとは反対の海岸側の家に移された。「私の仕事は、馬の飼育係であった。戦闘のため伊江島の野原に放たれていた馬を慶良間に運んであったが、それを送う仕事は私たち十四、五歳の少年にあてがわれたのだった。

 

まもなく、終戦になり、慶良間の人たちも山から下りてきた。そのころ、私は、アメリカ軍の隊長のハウス・ボーイをやっていた。隊長の私的な小使いだった。

 

ある朝、出勤すると、隊長は私に離入りビールを井戸の中に沈めて冷やしておくように命じた。その夕刻五時ごろ、赤松隊長、警察官ら七、八人が山から降りてきて、アメリカ軍隊長を訪れた。隊長は、私の冷やしたビールで赤松らを接待し、何やら話していた。赤松らは、その夜、再び山にもどっていった。そして、翌朝、赤松隊長に率いられた兵士の一隊が下山してきた。彼らは、小学校の校庭に集められ、そこで武装解除を受けた。彼らは、座間味で一泊した後、どこかへ連れ去られた。

 

慶良間には、山にこもっている日本軍が部落に下りてくるのを防ぐため、アメリカ軍が、地雷代りに手投弾を針金に吊してセットしてあり、それは、アメリカ軍が慶良間から引き上げてのちもーアメリカ軍は私たちを慶良間に放置したまま引き揚げたーそのままだった。そのため、多くの人々がそれにふれて死んだ。

 

子どもの体験

○○晃(七歳)

アメリカ軍が上陸した日、私たちの家族は上陸地点に近い西崎の自分の壕にかくれていました。

 

その日の夕方、一団のアメリカ兵がやってくる気配がしたかと思うと、外から壕内に向かって、「イシティチョーン、イシティチョーン」と呼ぶ声がしました。多分「出て来い」という意味の方言を間違えて言ったのだと思います。私たちが、ジッと息をひそめていますと、火焔放射器で火を放ったのでしょう。壕の入口を偽装してあった木の葉がパチパチと燃える音がして、壊内いっぱいに煙が吹き込んできました。余りの息苦しさに、小さな子どもたちが、大声で泣きわめきました。アメリカ兵はまもなく立ち去ったようです。

 

多分、子どもの泣き声で、戦闘員でないことを確めたからではないでしょうか。とすれば、泣き声で助かったようなものです。

 

自宅の壕が危険だというので、日が暮れてから、私たちはトモリというところにある東江一門の墓に移りました。しかし、その墓の中は、大勢の人でいっぱいで、その体温で息づまるような、また蒸せかえるような熱気があふれていました。そこで、私たちは、そこを出て、タバコガという洞窟で、防衛隊にとられていた父と束の間の再会をしました。父は軍籍にある身ですから、間もなく別れましたが、それが、父との最後になりました。父は、伊江島で戦死したのです。

 

次の晩は、チネーヤマの陣地あとに移動しました。この陣地は、自然洞窟に加工したものでしたが、すでに軍隊は移動したあとでした。しかし、壕内には、毛布や爆薬などがおいてあり、時々兵隊がそれをとりにやって来ました。

 

その晩は、壕に居た村の人びとみんなで豚をころし、盛大なご馳走をたべました。いわば、〝最後の晩餐んということだったのでしょう。その後、私たち子どもはそれが爆薬とも知らず、積み重ねた木箱の上で遊びたわむれていました。その間に大人たちは、全員で集団自決をする相談をしているようでした。しかし、話し合ううちに、「集団自決に失敗し、たとえば、大人が死んで、子どもたちだけが半殺しのまま生き残るようなことがあったらどうするか」という不安が出され、「それでは、全力をつくして生きよう」という結論に到達したようでした。そこへ、翌日の昼ごろ、金城さんという人が、白旗をかかげて、私たちの壕にやって来て、投降をすすめました。アメリカ軍は民間人には危害を加えない、ということでした。私たちは、長い竹竿に白い布をゆわえて、それを先頭に行列をつくって壕を出ました。そして、島の南西部のナーラの収容所に入れられました。上陸後四日目のことでした。

 

収容所に着くと、男や子どもは―多分D・D・Tだと思うのですがードラム鱷の消毒液の中につけられ、また女は白い粉を吹きつけられたあと、テントの中に収容されました。ナーラの収容所に居る間に、日本の特攻機がやってきたことを記憶しています。

 

しばらくして、私たちは全員、渡嘉敷島にL・S・Tで運ばれました。渡嘉敷の人びとはまだ山にかくれたままでしたから、民家は空家になっており、そこに私たちは分宿させられました。部落のはずれにはアメリカ軍が針金を張りまわしてそれに手投弾をぶらさげて、地雷がわりに使っていました。それは、山にたてこもる日本軍ーつまり赤松隊ですがーの侵入を防ぐためだったのでしょうが、とても危険で、伊江島の人の中にも、ソテツやハブキをとりに行って、それにふれて死んだ人が少くありません。

 

渡嘉敷で一番困ったのは、食糧でした。伊江島から持っていったのはハッタイコだけでしたので、それを水でこねて食べたり、ソテツはもちろん、雑草でも食べられるものはなんでも食べました。例えばツハブキも食べつくしてしまい、あざみの茎のトゲを除いて蒸して食べたり、ザーギナといういやな臭のする灌木の葉をたべたりしました。ソテツの中毒症もひんぱんに起りました。とくに、子どもたちは無知ですから、飢えの余り、未処理のものをつまみ食いして、中毒しました。私も危く死ぬところでした。

 

その間、アメリカ軍は、山にかくれている渡嘉敷島の人々や日本軍に、しばしば投降を呼びかけていました。それに応じて、最初、二、三人の朝鮮人が下山して来ました。また、アメリカ軍の命令で伊江島の人が四人だったと思いますが、投降勧告に行き、赤松隊に殺される事件がおこりました。

 

赤松隊が、下山した時のこともおぼえています。赤松大尉は、山にかくれていた敗残兵には見えない程太っていました

 

私たちは、渡嘉敷で冬を越して、翌年村の人たちといっしょに本部町字健堅のミジハイというところの段々畑に移動して来ました。そこでは、オイルで揚げたテンプラを食べたり、多分、荷役中のアメリカ艦船から落ちたものだと思いますが、海岸に漂着した食糧を拾って食べたりしました。この頃、アメリカ軍の物資集積所から、物を盗みとる「戦果」も流行しました。

 

しばらくして、同じ本部町の塩川に集団で移りました。そこでは砂地に芋を植えたり、またアダン葉むしろを作って生計を立てたりしました。原料のアダン葉を買うために、当時小学校の一年生か二年生の足で、遠く今帰仁村の湧川や古宇利島まで行ったものです。当時は、また、マラリアがしょうけつをきわめていました。翌年(一九四七年)、やっと伊江島に帰ることが許されました。

 

一住民として

○○金-(二三歳)

私は、一九四三年(昭8)の徴兵検査で、第一乙種ということになり、そのまま兵役免除になっていた。戦争がはげしくなるにつれて、予備役も乙種も召集されるようになったが、私は、農会に勤務し、農家から軍隊の食糧を調達する仕事に従事していたため、その際も召集を免除された。「私の仕事は、各字の区事務所に野菜、芋などを集め、部隊の経理部に売ることだった。

 

一九四五年(昭3)の二月、三月になると、戦争がしだいにけわしくなり、島の住民を今帰仁疎開させるようになった。他方、空襲のため食糧の調達も困難になった。そこで、私は、村役場の指示で、疎開者の引率にまわされた。そこで、私は、住民を本部経由で今帰仁まで、何回か引率し、今帰仁村の諸志、仲宗根その他の部落に配置した。その仕事がひと通り済んだので、島に帰ることにした。若い者は、島に帰ることになっていたからだ。そこで、島に最短距離にある備瀬に来たところで前里村長に会った。私は、ちょうど、伊江島に身内の者を「徴用」でとられた人たちが、肉身を迎えるためにサバニを仕立てて出ようとしている人々にたのんで、乗せてもらい伊江島に帰って来た。着いたところは浜崎だった。そのころは、島の民家はほとんど、空襲で焼けてしまっていた。昼間は、空襲と艦砲で、壕に一日中かくれていなければならなかった。私の家(東江上)はグシク陣地の近くだったため、砲弾のさくれつ音がひどくこたえた。そのため、東の方の、ヒトツギシという洞窟に避難した。昼は洞穴にひそみ、夜、部落に食糧をとりに出た。道路は、昼間の砲爆撃のため、福木が倒れ、馬の死骸がころがって歩くのに難渋した。悪臭もひどかった。

 

ヒトツギシの壕に移って二、三日たった日、空襲がハタと止んだような気がした。艦砲の音も止んだ。朝、壊を出て見ると、正面にタッチューが見える。その頂上に白い肌が立っていた。それはアメリカ軍が占領したことを示すものであったらしい。私は、全身から力が抜けていくのを感じた。

 

私たちの壕の中には、私たち夫婦に、父、妻の叔父の家族などが住んでいた。ノミがおびただしく発生したので、日中は壕内にひそんでノミ取りに余念がなかった。そんなある日、アメリカ兵が、私たちの壕の上までやって来た。壕の奥には、真上の地上に、人一人ぐらい通れるぐらいのタテ穴が開いていた。父たちは、そこで日光に当りながらノミを取っていた。そこを黒人兵にのぞかれ、仰天した。いよいよ来た、というので、私はカヤバサミを分解してそれを竿の先にゆわえ、アメリカ兵が、タテ穴から降りて来たら、刺殺するつもりで身構えていた。ところが、降りてくるどころか、彼らは、壊内に手投弾を投げこんだのだ。私は、その爆風で吹きとばされ、顔面に負傷し、眼がみえなくなってしまった。

 

こうして、二、三日たった日、壕の外で隣の壕にいた西江さんの呼ぶ声がした。父たちがとび出したところ、すでに四、五日前にアメリカ軍に収容された西江さんが、私たちを連れ出しに来たのであった。私たちは、壕を出て、ナーラの収容所に行った。収容所ではD・D・Tの乳剤で消影され、顔面の火傷の手当を受けた。このころから眼が見えるようになっていた。私はしばらく休装した後、ほかの人々とともにアメリカ世の指示する作業に従事させられた。仕事は、馬の死骸の片づけ、食糧集めなどだった。

 

「まもなく五月の初めごろ、全住民慶良間に移された。私は、渡嘉数に行きました。そこに一年いましたが、その一年食糧難で大変長く感じられました。十坪ぐらいの民家に四、五世帯すしづめにつめこまれた。最初は、日本軍の残した食糧―たとえば玄米などーを支給していた。またアメリカ軍は、伊江島から、農耕に必要な馬や、動などを慶良間に運んだ。しまいには食糧が不足すると、その馬も殺して我々の胃袋に入れるようにはなったが...。

 

慶良間では、アメリカ軍の指示で、仮の村長が任命され、警察官や班長なども任命された。私は、農業班の班長代理に任命された。仕事は、慶良間の人たち―まだ山にこもったままだったーが植えつけた芋や米を収穫して配給したり、新たに苗代づくり、植付けなどをした。食糧は極度に不足していた。それで、赤松隊が下山した後のある日、彼らのたてこもっていた陣地に、彼らの残した食糧をとりに行ったこともあった。もっとも、それは、部落の入口で警官に全部没収されてしまったが...。

 

渡嘉敷の人々が下山して来た後のことだが、地元の青年と伊江島の青年とで青年団を組織したりした。

 

食糧不足のため、つわぶき、あざみ、海草など何でも食べた。そてつの実をとるために山のふもとあたりをかけまわったが、その際、アメリカ軍がセットした爆雷にふれて危く死ぬか負傷しそうになったこともあった。また、手投弾を使って魚をとったこともあった。漁につかう手投弾は、アメリカ軍が地雷がわりにセットしたものをはずしてとってくるのだったが、その時にも手もとが狂って危く命をおとすところだった。つはぶきをとりに行って、それにふれて爆死した人もずい分いた。餓死した年寄も四、五人はいた。

 

渡嘉敷で一年過ごした後、本部町浜崎に移住して、そこで一年率した。ここでの生活も苦しく、瀬底島の農家で手伝いをして生活の植を得たり、あだん葉でむしろを織って食糧と交換したりして命をつないだ。

 

そして一九四七年(昭空)、伊江島に帰ることを許された。帰って来ても、部落内には入れず、まず島の東部のコンセットに収容された。

 

子どもたちをかかえて 

○○悦

もう、ずいぶん昔のことですし、自分が生き抜くことと子どもたちを戦争から守り、育てることに精一杯だったので、年月日などは確にはおぼえていません。

 

一九四三年(昭8)七月ごろ、伊江島に日本軍が駐屯し、民正家に分宿するようになりました。私の家にも、二十四、五人の兵隊が宿泊しました。そして飛行場建設の工事がはじまったのです。村民は、各戸割りあてで作業にかりだされ、兵隊や微用人夫と一緒に作業に従事させられました。私の家からも、長男(国民学校高等科生)が馬車をひいて参加しました。飛行場の滑走路に敷きつめる土や石を積んで、一日に何回も往復するのです。それは、大変な労働だったようです。息子は、気のやさしい子でしたから、いつも馬がかわいそうだ、といってなげいていました。また、戦争がはげしくなるにつれて、民家の石垣をくずして、その石をアメリカ軍の戦車の障害物にするというので、道路に積むこともおこなわれました。伊江島は、戦前は、きれいな石垣が各家にあったのですが、それは、こうしてこわされたのです。一九四四年(昭2)八月の末頃、夫が防衛隊にとられました。そのとき、末の子(五女)は、生後十八日でした。夫は、伊江島に配属されました。そして、四月二十日、日本軍の総攻撃に参加して戦死したことを、戦後になって知りました。

 

十月十日の空襲では、飛行場がかなりの被害を受けた様ですが、民間住宅地域はたいしたことはありませんでした。しかし、戦争の恐ろしさをはじめて味わいました。そのころは、軍隊の陣地や環はまだできあがっていませんでしたから、兵隊も私の家の壊にいっしはにかくれたのですが、憶病にも兵隊がまっ先に逃げかくれするのには呆れました。

 

そのころからだったでしょうか、島は危険だとさとり、本島への疎開を考えはじめました。そこで、家に分宿している兵隊たちに相談して見ました。ところが、兵隊たちは、絶対に大丈夫だ、疎開の必要はない、というのです。兵隊たちは、口々に、絶対に負けることはない、といって私たちを安心させようとしました。そして、また、負けてはならない、といい、負けたらどんなに惨めなことになるか、と自分たちの中国大陸での体験を引きあいに出して話していました。その内容は、今でも口にしたくないのですが、とにかく、この兵隊たちは中国の人たちにたいして、ずい分とひどいことをしてきたのですね。それをとくとくと話しながら、負けたらこうなるのだ、だから、もし、万が一負けるようなことにでもなれば、婦女子を殺して、自分たちも死ぬのだ、などといっているのです。そのとき、私は、兵隊たちの中国での体験談にたいして、もう止してくれ、それが人間のすることか、そんな話は聞きたくない、といってやりました。

 

昭和二十年の年も明けて、だんだん情勢がひっぱくしてくると、再疎開ということを考えましたが、すでに一月には長女(当時十七歳)が救護班にとられて守備隊に配属になっており、長男(当時高等科二年生)も島に強制的に残されることとなっていましたのでこの子たちを残して疎開する気にもなれず、他方、一人で十二歳の次男をかしらとする六人の子どもを連れて逃げる苦労を思うと、もう、夫をはじめみんな一緒にこの島で死ぬんだとあきらめておりました。

 

ところが、あれほど強がりを言っていた兵隊たちまでが、「もうだめだ、早く逃げなさい」と熱心にすすめるので、上陸の十日ほど前に本島へ疎開しました。その伊江島脱出がまた大変でした。すでに、村の連絡船は軍の管理下におかれていましたが、その一隻に乗るために大勢の人が先を争って、まるで戦争のような騒ぎでした。幸い、知人の援助でどうにか乗ることができましたが、それこそ、着のみ着のままでした。島からの食梱などの持ち出しは禁止されておりましたので、「疎開先へ行ったら配給の食楓は十分ある」という兵隊の言葉を信じて、弁当だけを持って行きました。

 

落ち着いたところが、今帰仁村字兼次のクスノキ山という山の中です。ここにはさきに伊江島から疎開した人たちが来ていました。着く早々にはじめたのが、壕堀りです。次男と二人でつるはしをふるい、土を運ぶ仕事に没頭しました。その間にも、空襲が何回かあり、私たちのかくれている山が焼夷弾で焼かれたため、せっかく掘りかけた壊を捨てて別の山に行き、そこでまた最初から、掘りなおすという生活のくりかえしでした。「そんなある日の夜、本部のマンナヘ米をとりに行きました。島からの疎開者たちと一緒にです。ちょうど、本部に、アメリカ軍の艦砲射撃がおこなわれていましたが、暗い五里の山道を、照明弾のあかりをたよりに、砲弾の下をくぐりながら、重い米俵をかついできました。それは、かついでいるときは夢中で感じませんでしたが、翌日には、とても一人で動かせないほどの重さでした。

 

そうこうするうちに、何時のことだったか忘れましたが、ある日のこと、山にかくれているところを、アメリカ軍に捕われ、今帰仁村今泊につれていかれ、しばらくはそこに居ました。

 

その後、アメリカ軍によって久志に移動させられ、終戦をそこで迎えました。

 

その間の生活の苦しみは、たとえようもありませんでしたが、何よりも気がかりなのは伊江島に残った長男と長女のことでした。夫のことはあきらめていましたが、子どもたちのことを思うと夜も眠れないくらいでした。しかし、その子どもたちも、伊江島で生きのび、慶良間から久志にやって来てともに再会を喜びあいました。

 

アハシャ壕の集団自決

○○茂-(十四歳)

当時、母と弟と妹が一緒で、弟は十二、三歳で妹が十歳でした。父は昭和十三年の支那事変で亡くなりました。最初自分たちは、子供もいるし自分の希望で、おばあさんも自分から疎開するのはいやだといっていましたので伊江島に残りました。その後からは疎開船はなくなっていました。かいでこぐクリ舟はありましたけど、その時からはもう舟の往き来も危くなっていました。備瀬と本部との間にはもう米軍の船がきていましたので逃げるところもなく自分たちで自然にできたガマ(洞窟)に隠れました。ガマに隠れたのは艦砲の始まる前からで、米軍が上陸すると危い、照明弾のあがる時はもうあぶないと覚悟はしていました。

 

ガマの中には約百二十人ぐらいの人がいて東江上や東江前の人たちと防衛隊もいました。一番多いのは東江上の人たちでした。壕は昔、石グウ(粉)を掘る所だったらしく、大きくて中が広いし、奥行きもあるので隠れ場所にはもってこいと思ったわけです。地ばんは深くて、上から々落盤々するばあいにスコップやクワなどでうしろへやっても人間にとっていい所です。

 

壕へ食糧を運んだのは艦砲前の事態になってからでした。自分のおっかあは食物をこさえていましたが、今腕上陸するというので、緊急に、自分が兄弟で一番上でしたので、自分とふたりで食糧を棒でかついで運びました。ヒャークいくらづめといって、カメや袋に伊江島の黒砂糖をつめて奥の方に置いてありました。水は米軍の上陸前までは、私ひとりで家からガマにかついできて置いてあるカメやおけに入れて使っていました。上陸してからは、水もなくなっていましたので海岸の岩に溜っている潮まじりの水をくんできて、どはんをたいたり、飲んだりしていました。壕の中では家族ごとに、親戚連中は共同で炊きました。

 

艦砲が始まると、波止場や防衛隊の飛行練習場から、防衛隊の人たちが、米軍に追われて逃げてきて、壕の中にはいってきました。この人たちは、二、三人の本土の兵隊たちで、銃をもっていて、まだ若く、当時、二十三、四、五歳ぐらいでした。すると、壕の中にいらっしゃった当銘というャブーみたいな薬屋のおじいが、「君たちは戦争をするといって、民間の壕の中に入ってくるじゃないか。軍隊だから、出て行きなさい」といって入れませんでした。

 

その後、弾が飛んできて、見たら防衛隊を追いかけて、米兵が目の前まできていました。壕の中から、戦車砲もはっきりと見えました。ガスをまかれて、真黒くして、ワーッといってきました。壕の半分はパラパラと石が落ちてきました。米軍がきたら合図するように入口で衛兵に立っていた伊江島の青年のふたりは、その時の戦車砲の破片でやられました。「他の人びとは、捕虜にとられたら、体を一寸切りにされるといって、自分から爆雷で吹っ飛んだんです。自分は、このくらいの爆雷では死にきれないと思い、奥の方へ下がっていました。皆、壕の中心により集まって、家族ごとに並んで......。自分らのばあいでしたら、妹をおばあさんがだっこするようにして、自分はこうして、弟はここで......。おばあは、いざ、という時になると、兄弟のところがいいといって、兄弟の方に向いて、自分たちとは姿勢を別にしていました。それから、防衛隊の人が爆雷の信管をパーンと押しました。すると、壕の上の壁がくずれて、石などがバラバラ落ちてきて、皆、もう死んだと思いました。気がつくと、自分は生きていました。おばあさんなんかもどこにいるかさえも、全然見えませんでした。他の方も、首から下は埋まっていてわからなくなった人もいました。その時の爆発で、自分は頭と腰、おばあも落ちてきた石で足の骨をやられて、動けませんでした。妹は、だっこしていると、上から落ちてきたものが、ももにドンと落ちてきて、足の骨が折れて、ユラーユラー、していました。その時に生き残ったのが、二十人ぐらいです。

 

当時は、捕虜にされたら、命を一寸切りにされると聞かされていましたので、もう、自決するのはあたりまえだと思っていました。

 

自決した日の翌日、伊江島の人の通訳で、アメリカーが、「出てこい、出てこい」したので、皆はけがをしていますし、わたしは歩けませんので、這って出たら皆捕虜にとられました。それは、米軍が上陸してから、三、四日後でした。その時は、ごはんも食べていないので、泣くにも泣けませんでした。ひもじいし、足の折れている子どもに、水をくれてやろうとしても、水もないし、とうとう、水を欲しがって、子どもは血をはきました。

 

壕から出たのは、昼間ごろで、波止場からずうと西江の方を通って、その西側にある捕虜収容所に、歩けないので、ジープにみんな乗せられて、連れていかれました。収容所についた時は、すでに、親戚連中や他の人もぜんぶ、捕虜にとられていて、収容所は満員でした。

 

壕から出た時は、妹は足がュラーユラーしているので、アメリカーが包帯をして、座間味島にある野戦病院に、おばあの付添いで、三か月間入院しました。当時、まだ小さかったので、今では完全になおって傷もありません。自分らは慶良間へ捕虜として、連れていかれたわけです。

 

約二十人の人が、集団自決で生き残ったけれども、前に話したおじさん、あの方の家族は、爆雷が爆発した時にやられたが、防衛隊員であったその方は、自分より年上のおねえさん達二人と、おかあさんたちと、四、五人残って、自分たちが壊を出たその日に、手榴弾で自決しました。全員、即死ですよ。家族を追いたい気もあったんでしょうが、何しろ支那事変帰りでしたから。この人が、言っていたんですよ。「あんたがたは出ても、ぼくらは出ない」って。せっかく生きていたのに。そのままでむかえに行っていたら、生きていられたのに...。

 

当時は、まだ小さいし、自決で生き残っても、慶良間の渡嘉敷島で行なわれたような、あんなむごたらしいことはしませんでした。しかし、もし自分が、二十歳にもなっていて、軍隊教育でも受けていたら、やりよったかもしれません。捕虜にとられたら命を一寸切りにされると聞かされていましたので、自決するのは、あたりまえだと思っていました。

 

捕虜になってきた時には、村は全部焼けて、木も墓も石垣も、米軍のブルドーザーで打ちこわされていました。そして米軍は、海岸づたいに道路を勝手につくりました。まだ、収容所にいる時分、自分らは、よくアメリカーの掃除や、道端に死んでいる沖縄の人たちを、穴を掘って埋める作業などやらされました。

 

城山の海岸では、米軍と撃ち合いがありました。本当の陣地は、独立混成部隊がこの道路をまっすぐ行った、あっち側にあって、城山の下には、陣地はありませんでしたけれど、上陸するおそれがあるといわれていました。それで、警戒して、銃をもっている防衛隊が立っていました。最初、兵隊も民間人も、一緒にまじえてかくれていると、米軍側から撃ってきて、防術隊のもっている二、三ちょうの銃で撃ちかえしました。また反対側から火焔放射器でやられました。こっち側の武器といえば、防衛隊のもっている、小銃二、三ちょうと、爆雷と手榴弾が五個ぐらいでした。

 

伊江島にいては危いので、阿旦の木をハンマーで倒して、サバニのこわれたもので、イカダをつくって、海をわたって逃げた人もいます。元気のいい人で、防衛隊の方にも、そうして助かったのが二、三人います。

 

また、わたしの家族では、おばあが、壕の中でなくなりましたので、生き残っているのは四人で、他にはバルのおばあ一人と、カニマイの者と、防衛隊の生き残りの人がひとり、辺土名にもいます。収容所で、特攻機の破片でやられているが、助かった人など合わせて、約二十人ぐらいの人が生き残っていました。自決した人たちの遺骨は、最初背年たちが集めていました。だけど、頭などはバラバラで、アメリカーの連れてきた犬が野良犬になっていて、犬がくわえてるっていったりしていました。おばあの過骨が壕にあることは知っていましたので、いつもお祈りはしていました。遺骨をひろったのは去年で、今では、「芳魂の塔」にまつってあります。

 

 

 

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