県立宮古中学校の学徒兵

 

 

 

宮古中学校の生徒たちは、1943年には主に海軍飛行場の設営作業に当たり、44年からは陸軍に中飛行場、西飛行場の設営に動員されるようになった。中飛行場の設営作業では、作業中に土砂が崩れ落ちて4名の生徒が生き埋めとなる事故が起きたりもした。

9月には、同校の校舎が海軍警備隊にの兵舎として接収された。そのため授業もほとんど行われなくなり、生徒たちは毎日のように飛行場の滑走路作りや掩体壕堀に動員されるようになった。

…1945(昭和20)年になると宮古全島は決戦態勢に入り、中等学校生入り鉄血勤皇隊を編制して同島駐留部隊の指揮下に入り、…宮古中学校の1年生から3年生までの生徒が、鉄血勤皇宮古中隊として編制されて、同師団通信隊に入隊させられた。全員二等兵であったが、とくに軍服も軍靴も武器も支給されなかった。

…隊員たちは、「無線班」と「有線班」に分けられ、軍人と起居を共にして通信業務に従事するようになった。隊員たちの業務は、電話線を敷設しての通信訓練、モールス信号・手旗信号のほか、壕堀り、敵上陸に際して爆雷を抱いての対敵戦車への突入訓練なども行われた。
しかし、…宮古島には英国軍によって激烈な空襲があったが、敵の上陸はなかったため、沖縄本島のような戦闘訓練を実践する必要はなかった。

…6月下旬には防衛隊として更竹に召集され、対敵戦車攻撃用の壕堀りや手榴弾投げの訓練などをしていた。しかし、約1か月後には生徒たちは元の部署に戻され、安全が確保されたとのことである。』(208-210頁)

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 208-210頁より》 

生徒の体験談 ①:

昭和18年4月、県立宮古中学校に入学しました。制服はカーキ色、ゲートルを巻き、帽子も戦闘帽です。……

当時、宮古中学校に神田某という配属将校がいました。6師団長の任命といって校長より権威がある様子でした。巾の広い革のベルトをしめ、その下には腹巻きをのぞかせて、胸を張りすぎて腹を突き出したような最大限のそっくり返りかたで歩いていました。…入学早々、教練の時間に私も頭にコブが出来るまでそのサーベルでたたかれたことがあるし、高学年の生徒は両手に持った二振りのサーベルでめちゃくちゃになぐられたりしています。

一般教練の授業が減らされ、軍事教練の時間が増えていきました。下級生は木銃、上級生は本物の小銃を使って戦闘演習をしました。夜間の外出禁止、集会をもつだけで重ければ退学、軽くても説論処分は受けるという重苦しい中学生の生活が強制されていた。運動会も一般体育よりも戦闘演習が大きな行事の一つだったし、兵隊の格好をした中学生たちに藁人形を銃剣で突かせ、運動場は小さな戦場を思わせるような硝煙の臭いが立ちこめていました。……

昭和19年4月、2年生になって一般教科の授業はほとんどなくなりました。軍事教練のない日は農業の時間が主となり、5月になると、海軍飛行場の作業に動員され、続いて下地の陸軍飛行場作りにかり出されました。

昭和19年6月、宮古島に日本軍混成旅団の進駐が始まり、宮古神社の下の坂道に、戦車がずらりと並びました。…沖縄県教育委員会沖縄県史』10 沖縄戦記録2より…)』(212-213頁)

生徒の体験談 ②:

昭和19年11月から3年生全員、師団本部の通信隊によって宮古高等女学校のスタンドの東側の松林でモールス信号の勉強をさせられました。
昭和20年2月頃、師団司令部が、女学校から野原岳の麓の戦闘司令所に移ると師団通信隊も更竹のウイヌンミに移動しました。

宮古中学校に在籍する3年生から1年生まで全員が鉄血勤皇隊として、豊部隊の師団通信隊に編制されました。

…召集されて甘藷の葉を食べながら夜間演習をするのも嫌でしたが、すべて自費で奉仕させられた上に二等兵扱いされるのはなお嫌でした。
通信隊の検閲があったある日、午後4時になっても昼食の知らせがないので許可も受けないまま食事をはじめました。しばらくすると野口上等兵が弁当を持って集まるように叫びました。

皆各自の弁当箱を持って集まると、「誰が食事をするように命じたか」と怒鳴り集まった4年生全員が弁当箱を持ったまま罰されました。
自分の親がつくり持たした弁当であり、自分勝手に食べてよい筈の弁当だと思うのにこれすらゆるされないのです。こんな馬鹿なことがあるかと方言でブツブツいいながら弁当を持って立っていました。

今度は「弁当箱を置いて集まれ」と命令されます。弁当箱を置いて集まると、2人ずつ向かい合わせて教訓を受けました。

「誰が先に戦死するかわからないが、遺骨を集めるのは戦友だ、その戦友の顔を叩くのが如何にきついか・・・」のあと向き合った友達のビンタをはらされるのです。弱くたたくと模範を示してやるといって野口上等兵がたたくので、みな仕方なく強くたたいたものでした。(平良市史編さん委員会『平良市史』第4巻資料編2より)』(211-212頁)

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 208-210、211-212、212-213頁より》