5. 沖縄県立農林学校

 

5. 沖縄県立農林学校

沿革

1902年、国頭郡各間切島組合立国頭農学校として設立

1911年、県に移管され沖縄県立農学校に

1916年、北谷村嘉手納(現嘉手納町)に移転後、二中ストライキ事件

1919年4月、二中が那覇市楚辺(現那覇高校)へ移転

1923年、林科を設置して沖縄県立農林学校へ

1941年、兵員確保のために修業年限短縮による繰り上げ卒業が始まる

1942年、三中と共に与儀練兵場駐屯の中隊と対抗演習を行う

1944年6月下旬、校地が中飛行場設営隊の安田隊に接収、8月には校舎に第二十四師団の本部が置かれ、学校は「国本道場」に移転。

 

農林学校報国隊

出征軍人留守宅家族の援農支援をはじめ嘉手納製糖工場や普天間農事試験場などの勤労奉仕作業に動員される。

1944年からは、中飛行場と北飛行場の滑走路建設、採石、座喜味城跡での高射砲陣地建設、楚辺の戦車壕、平安山の海軍砲台、浜川砂辺のタコ壺壕掘り、疎開者の荷役作業

 

農兵隊

食糧増産のための労働に励みました。その小隊の指導教官には農林学校3年生12名が試験採用されました。農兵隊は沖縄戦が始まる直前まで活動していましたが、米軍上陸後は四分五裂の状態で自然解散となりました。10月10日の大空襲後は北部への避難民が増加し、農林学校が疎開者の荷物の中継倉庫に使われたため、生徒たちはそのに駆り出されました

 

繰り上げ入隊

1945年3月1日、徴兵検査の繰り上げ適用で合格した大正15年生まれの生徒(3年生の半数)が現地部隊に入隊。

 

1945年3月 鉄血勤皇隊農林隊の編成

3月中旬、入隊への親の承諾を得るための帰省

25日、空爆により学校が炎上、焼失

26日、農林学校配属将校の尚謙少尉*1と教練教師の比嘉浩伍長が「特設第1連隊」の青柳連隊長に呼び出され、鉄血勤皇隊農林隊編成の命令を受け、全学生との約3分の1の170名が動員される。

27日、青柳隊の指揮下で軍服や軍靴などが支給、武器の支給はなし、苛烈化する爆撃のなか、中飛行場の糧秣を数キロ先の倉敷の山中まで運搬中、14名の生徒が戦死。

28日、以前慰安所として使用されていた農林壕近くの小屋が砲撃され、3名死亡、十数名の生徒が負傷。農林隊も倉敷へ移転。

 

 

分断された24名、南部で戦死

3月31日夜から越来村安慶田へ糧秣運搬にでた学生が、4月1日に上陸した米軍に阻まれ、そのまま南部に、そのうちの24名が戦死している。彼らは農林鉄血勤皇隊の戦死者には含まれず、在校生としての戦死とされた。

 

「肉迫攻撃隊」20名

米軍が上陸した4月1日の夜、配属将校の尚謙少尉が学徒を選の抜し20名「肉迫攻撃隊」を編成。青柳隊へ合流するべく、米軍が占領している中飛行場に向かうが、陣地はすでにもぬけの殻となっており、明け方、美里村池原まで退却、本部半島の宇土部隊に合流するため、石川、金武、久志、名護をぬけて、4月4日に本部半島の伊豆味に到着。

 

農林隊本隊150名

「農林隊本隊」150名は、4月1日に、美里(現沖縄市)石川を通り、4月4日に金武観音堂の壕に到着。大勢の学徒の食糧確保が問題となり、安里源秀教頭や比嘉教練教師ら引率教師が解散を決定。比嘉教諭は、沖縄戦直前に連隊区司令部の吉田喜徳大佐から「心身ともに鍛練された唐手の達人のチャンミーグヮアー*2 が拳を握って敵機をにらんでも、どうにもならないんだよ。米兵は住民を抹殺するようなことはしないから、生徒の将来をよく考えるようにしなさい」と言われていた。その後、護郷隊の将校が「鉄血勤皇隊を解散させたのはけしからん」と安里教頭や比嘉教諭の命を狙っているといううわさも流れた。解散命令を受けた後、多くの生徒はそれぞれ家族の元へ帰ったが、中には名護岳の遊撃隊に入隊した者もいた。

 

独立混成第44旅団第2歩兵隊 (通称宇土部隊) へ

4月4日、尚少尉と「肉迫攻撃隊」は伊豆味の尚家所有の桃原農園で休憩、その間、尚少尉が宇土部隊と交渉し、同部隊の佐藤隊に入隊することに。

4月5日、伊豆味国民学校で九九式歩兵銃、手榴弾、10kg急造爆雷などが配られた。

4月7日、真部山に移動、5-6名ごとに分散し各部隊に配置。尚少尉は本部付き。

4月16日、米軍が本部半島を包囲し八重岳を占領する中、農林生に真部山防衛の命令が下されたが、八重岳の部隊は多野岳方面に撤退し始め、学徒だけが敵中に取り残される。戦闘で2名の農林生が戦死。撤退を開始し、八重岳を経て多野岳

4月23日、多野岳へ到着、重傷の名の生徒が置き去りになるのを松川寛一が「こんな重傷者を捨てていったら飢え死にするじゃないか」と反対し、残る。重傷の学徒二名は生き残るが、松川は戦死。倉敷で別れた農林生の一部と合流し、約24名となり、再び尚少尉の指揮下で行動を共にする。多野岳では農林生5名の戦死者。

24日、宇土支隊長はさらに北部へ撤退命令し東村慶佐次の山中に到着。農林生らは、尚少尉配下と宇土部隊配下の二つに分かれ、多野岳から有銘へ。有銘で米軍との銃撃戦に巻き込まれ、2名が銃撃された。

27日、有銘から平良、川田を通って、福地 (現在は福地ダムの中に水没) に到着。

28日、福地で再び米軍と宇土部隊との銃撃戦に巻き込まれ、尚少尉以下、我部操、安次嶺幸寿、大城喜孝、仲里甚章、平良恵春、平田清、新本幸吉、狩俣栄、仲村禎信の計9名の生徒が戦死。その後、隊長の死をうけて宇土部隊長より自由行動の命令、3名ずつに分かれ行動。屋比久末晴ら3名は、1週間ほど山中をさ迷った後、青柳隊と一時的に合流、またさらに南下し有銘で二中の配属将校・高山中尉一行の配下に。高山中尉の下で食糧探しの日々を過ごすなか、高山中尉に尚少尉の遺骨を取ってくるよう命じられ、再び内福地に戻り尚少尉の遺髪や鎖骨の一部を持ち帰った。屋比久らはその後、高山隊と別れ、再び山中をさ迷った後、米軍に収容された。

 

証言

「召集後、中飛行場の糧秣運搬作業に従事」大城仁光

下宿屋の防空壕で避難していると、3月26日の夕方近くになって召集の伝達を受け、すぐ避難へ赴いた。壕は空襲前に農林生徒が自ら掘ったもので屋良の後方、比謝川沿い近くにあった。既に壕にも学校長を始め、職員や生徒が集まっていた。農林学校の配属将校・尚謙少尉を隊長に、教諭4名を小隊長とする170名の鉄血勤皇隊として編成され、陸軍の被服、軍靴、背囊*、水筒、戦闘帽、二等兵の階級章を支給された。その晩から糧秣運搬作業に狩り出され、比謝川沿いに集積されている軍物資を中飛行場の北側道路に運んだ。トラックが受領のため集結しており、兵隊に混じって民間人も作業に従事していた。
(『沖縄県立農林学校同窓会誌第3号』p321)

 

「日本軍に裏切られた」大城堅輝

4月16日ごろ、米軍はいよいよ本部半島の真部山まで侵攻してきた。昼過ぎに宇土部隊の佐藤隊は前線防衛の命令を受け、素早く戦闘態勢。間もなく、想像を絶する激しい攻防戦が展開された。佐藤隊に付いて真部山まで来た農林生の一人、大城堅輝さんは自らの体験を思い出す。
「空から米軍機のものすごい空襲。海の方からは艦砲の弾が次々とこちらに打ち込まれてくる。何百メートルか先には米兵らが近づいているはずだが、姿が見えない。このままじっとしていたら敵が見えるまでにこっちがまいってしまい、死んでしまうと思いました」(中略)
「ある時、山の中腹のタコ壷に隠れていた私たち農林生たちは上の方で機関銃の音を聞いたのです。味方の機関銃かもしれない。仲間の一人が確かめてくることになり、じゃああんたが帰ってくるまで待っておこうね、とみんなで言ったのです。そうしている間も弾がどんどん落ちてきました」
様子を見に行った農林生の話では、味方かと思ったら敵の機関銃だった。「命からがら逃げてきた」という。日本軍は行方知れずになっていたのである。大城さんは言う。「あとで知ったことですが、日本軍は既に真部山から八重岳方面に退却していたのです。結局、農林生たちのことは見捨てたというわけです。死んでもここを守れ、と言われた言葉を信じてその気になっていたのに・・。手投げ弾を与えられ、米軍を目いっぱい引き付けてから投げるんだよと教えられたばかりで、裏切られた気持ちでした」
(琉球新報1984.11.14~1985.4.18「戦禍を掘る-第2部学徒動員63」)


「この二人はここに捨てていこう」赤嶺猛

八重岳では二人の農林生が重傷を負っており、退却に当たってこの二人を担架に乗せて担いでいくことになった。部隊のあとについて出発したものの、途中、今帰仁の呉我山に差し掛かったところで先を急ぐ部隊についていけなくなってしまった。「担いできた連中で、もうこの二人はここに捨てていこうという相談をしました。かわいそうだけど、しょうがない。近くには避難民もいるからかえってここに残っていた方が安全かもしれないよ、などといい加減なことを二人に言ったんです」と、赤嶺さんは仲間を置き去りにした苦い思い出を話す。
農林生たちが出した結論に、担架を担いだ一人、松川寛一君が反対した。「こんな病人を捨てていったら飢え死にするじゃないか。僕が彼ら二人と一緒に残るよ」結局、松川君の言い出しを幸いとばかりに農林生たちは立ち去るふん切りをつけた。そして、「敵の状況はどうなっているか見て来ようね」と都合のいい言葉を残し、出発した。(中略)残された三人はその後どうなったか。「重傷だった伊是名君と与那覇君の二人は無事でしたが、面倒を見るため残った松川君がやがて戦死したようです。」
(琉球新報1984.11.14~1985.4.18「戦禍を掘る-第2部・学徒動員64)

 

「学生ばかりに戦争させて」大城仁光

(4月28日)午前10時頃、山の裏手から敵トンボ飛行機がエンジン音を消して部隊の頭上に現れた。内福地辺りを低空で数回施回して姿を消した。部隊は各隊ごとに分散して海岸を離れた。農林隊は川岸より200メートル程奥の山手傾斜に待機した。(中略)なす術もなく固くなっていると、敵兵が川沿いの炭焼き小屋に向けて銃を発射した。銃声の音で我にかえり、敵兵の反対方向に走り出した。後方から直ぐ弾が、頭上、右耳、右足スレスレにビューンビューンと音をたてて流れていった。50メートル程先に断崖があった。下は川が流れていた。断崖に爪をたて川に降り走って行くと、別の部隊の待機場所であった。兵隊たちは銃を私に向け伏せていた。久手堅君もそこに来ていた。狙撃兵の上等兵が待機場所を離れて行った。木の枝で擬装した兵隊が立哨していた。敵の口笛が近くにせまってきた。私は小さい岩陰をさがしもぐり込んでうつ伏した。敵は撃ち込んできた。弾は伏せている頭上を飛び、周囲の地面や木にポンポン当たる。頭をもたげる隙がない。最後だと観念した。(中略)銃声が止み夕方になったので、転進の命令が出された。私と久手堅君は自分の隊へ向かった。(中略)軍刀を持っている下士官と兵隊三名が小屋の前にいた。下士官が、「お前の戦友は、皆戦死したよ。」声を落して話した。「向かいの山には重機関銃隊がいたのになー。学生ばかりに戦争させて」と一人でつぶやいていたが、くやしさに耐えられなかったのか、下士官は声を出して男泣きに泣いた。
(『沖縄県立農林学校同窓会誌第3号』p325)

 

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*1:最後の琉球国王の孫

*2:空手の達人で知られる喜屋武朝徳(1870~1945)