1945年4月中旬 - 薬草園の悲劇
1945年4月15日、米海兵隊は沖縄島上陸の2週間後には本部 (もとぶ) 半島を包囲し、八重岳にこもる宇土部隊に迫る。多野岳へ後退するには、その包囲を抜け、南側の名護市と北側の羽地の平地を避けて山側の尾根を東に突破しなければならない。
しかしそこに待ち構えていたのが、米軍だった。
1945年4月17日『馬乗り攻撃と火炎放射器』 - 〜シリーズ沖縄戦〜
上原さんは名護市にあった第3 高等女学校の女学生で組織された看護学徒隊(なごらん学徒隊)に動員され、沖縄本島北部・本部半島の八重岳の陣地の日本軍部隊に従軍した。絵は部隊に解散命令が出た後の4 月17 日、八重岳から多野岳に行く途中の山中で砲撃を受けた様子。右上に倒れているのが上原さん自身。腹から血が噴き出しているのは日本兵。左下で頭を抱えているのは同級生、その上に足がちぎれた日本兵、さらに端には逃げる同級生の姿がある。 上原さんは砲撃で飛び散った破片が右足の甲を貫通、歩けなくなった。砲撃に続く激しい銃撃に、そばにいた日本兵のように自分も死ぬのだと思ったが、同級生2 人に抱えられ、避難することができた。本島南部に比べ、北部での激しい戦闘はあまり知られていないので、知って欲しいとの思いから応募したという。
その後、羽地の薬草園付近で米軍の攻撃を受け、一隊は散り散りとなった
沖縄県立第三中学校・三中通信隊暗号班 ~ 敵前に置きざりにされた宇土部隊の学徒たち - Battle of Okinawa
八重岳など本部半島にいた将兵たちは転進命令を受け、17日ごろから多野岳方面に脱出を図ったが、途中の薬草園付近で多くの犠牲を出した。(93-94頁)
宇土部隊の夜間移動は、何度も米軍と遭遇し、その度に蜘蛛の子を散らすように“散っては集まる”という状態での移動だった。(218頁)
宇土隊長の体たらくに、護郷隊の村上隊長も愛想をつかす。
1945年4月21日『郷土沖縄を救え / 郷土は自分で護れ』 - 〜シリーズ沖縄戦〜
宇土大佐は22の部隊をさっさと大隊長に押し付けて、自分は本部の部隊だけで行動していた。しかも複数の女性を伴っているという動きの悪さもあり、なかなか多野岳にたどり着かない。
沖縄「武田薬草園」とは
その薬草園は現在、住宅地になっているが、ネオパークオキナワの北側のあたり。
武田薬草園は、あの武田製薬の薬草園。
武田が沖縄で薬草園を開設するにあたって、津島顕によって台湾の嘉義薬草園からコカの苗が導入され、また種子も台湾から取り寄せて栽培が始まったものだった。東京ドーム10個分と呼ばれる広大な敷地を有した。
同薬草園は、製薬大手の武田薬品工業が1929年3月に開設。戦後に内原区となった地域の約45万平方メートルに局所麻酔薬の原料となるコカを栽培していた。大宜味や今帰仁、本部などからも労働者が集まり、地域が活気づいたという。沖縄戦で栽培は停止され、米軍が接収。戦後、武田から農家に払い下げられた。
多くの住民や、県立第三中学校(三中)の生徒らが動員されたが、その植物が何なのかは一切知らされないままだった。
戦争の足音が聞こえ始めると、コ力から作られる麻酔薬は、負傷兵の手術に欠かせない軍需物資になりました。製薬会社には、軍人の姿が目立つようになりました。そして太平洋戦争が始まると、コカ畑は増産を求められ、出荷量は、戦前の30倍以上にふくれあがりました。
第二次世界大戦期の日本におけるコカ葉の生産地は、台湾、沖縄本島、硫黄島であった。… その一方で、第二次世界大戦中、日本軍政下にあったジャワにおいてコカ増産五ヶ年計画が立案され、コカ増産、コカ樹栽培地拡張が計画されていた。さらにジャワのコカ葉は、計画以上の実績を伴って主に日本陸軍内部で交易されていたのであった。
熊野直樹「コカと日独関係 : 第二次世界大戦期を中心に」(2017)
補給なき陸軍病院
しかし、沖縄戦下の野戦病院は麻酔も4月早々に底をつき、学徒たちは麻酔もない壮絶な切断手術の看護要員を務めることになる。
沖縄で生産されていたはずの大量の「医療用コカ」は、いったいどこにいったのだろうか。
補給なき陸軍病院、軍は信じられないことに医療備品ですら沖縄に依存し徴発した*1。
1945年4月28日 『米軍の部隊交替』 - 補給なき陸軍病院
沖縄陸軍病院の衛生材料科に配属されていた男性の証言:
沖縄陸軍病院は、熊本病院から部隊長以下一部が来まして、開南中学校に本部が設置され、部隊受け入れ準備をいたしました。… 衛生材料は、手持ちを使いました。本隊は熊本から来る時に持って来なければならないものを、何も持たずに手ブラで来ました。そこで (沖縄の) 民間の薬局や薬店などからの徴発が唯一のものでした。
… 陸軍病院開設後は、軍や病院の上官から「買い占めろ、買い占めろ」とせき立てられまして、軍と民間医療との板ばさみで、精神的に苦労が多くて困りました。10・10空襲の数日前に陸軍病院の器材が陸揚げされ、空襲の中を南風原まで運んでからは、医薬品、衛生材料の方は大分楽になりました。
《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 357、359頁》
麻酔なしの手足の切断手術。兵士は、身体、両手、両足、様々な切断手術を強いられていたというのに、麻酔はなかった。想像を絶する恐ろしさだ。
麻酔等はすぐに底をつき手術は麻酔無しで行われた。
昭和20年4月、牧野さんは那覇市と南風原町の境にあるナゲーラ壕の野戦病院で負傷兵の手術を手伝っていた。暗闇の手術室で、油を含ませ火をつけた布をかざして軍医や衛生兵の手もとを照らしていた。戦闘が激しくなると負傷兵は途切れることなく運び込まれてきた。手術では腕や足を切断し、無造作にバケツの中に投げ込んでいった。痛みを和らげる麻酔薬は無く、兵士たちは衛生兵に体を押さえられ叫び声を上げていた。「この世のものとは思えないほどの大きな声だった」。看護師たちもまた悲鳴を上げていた。牧野さんは恐怖のあまり幾度となく失神しそうになった。 牧野さん『あの光景は地獄そのもので、戦争は愚かとしか言いようがない。次の世代には二度と誤った道を歩んでほしくない』
いったい、沖縄「武田薬草園」で学徒まで動員して大量栽培していたはずのコカはどこに行ったのだろうか。
菊の御門の「覚醒剤チョコ」!?
ヒロポン等につきましては、特別に製造許可をいたしました当時は、戰争中でありましたので、非常に疲労をいたしますのに対して、急激にこれを回復せしめるという必要がございましたものですから、さような意味で特別な目的のために許したわけでございます。
コカは軍が管理し麻酔用だけではない使用がなされていたといわれている。長時間にわたる夜間の死の飛行を余儀なくされる特攻隊員に、戦意向上と覚醒のため、菊のご紋が刻印された「覚醒剤チョコ」が与えられていたという話もある。
「(先生からは)『軍隊へ兵隊さんに贈るんだ』と言われましたね。上級生は『特攻隊員が死ぬ前に食べていくんだよ』と言われましたね。だから大事なチョコレートだって」… チョコレートは長さ15cmほどの円柱で、天皇の象徴である菊の紋章が入っていたといいます。ただ、この学校で覚醒剤チョコが作られていたという記録は残っていませんでした。
特攻隊の『覚醒剤チョコ』最後の食事だったのか...記録には残されず「食べた瞬間にカーッときました」食料工場の女性や軍医の証言 | 特集MBSニュース
実際に注射を命じられた医師もいた。
僕は初めはヒロポンとは知らなかったわけですよ。黒いケースに10本アンプルが入っていて、説明書にはただ『筋肉内注射しろ』と。『出発前にやれ』という命令だけでよくわからなかった。
特攻隊の『覚醒剤チョコ』最後の食事だったのか...記録には残されず「食べた瞬間にカーッときました」食料工場の女性や軍医の証言 | 特集MBSニュース
日本軍は特攻隊の戦意向上、体力増強のため、軍は様々な「正体不明」の薬品・薬物の利用を行っていたといわれるが、敗戦時の公文書の大量焼却によって多くの記録が失われ、コカインの使用に関する公的記録は見つかっていない。
「本土決戦」のための日本軍「医療用麻薬ストック」
沖縄戦では早々に麻酔なき手術が行われていた一方、
実は、日本軍は本土に大量の麻薬ストックを有していた。本土決戦に供えるためだ。
しかし、「本土決戦」はないまま、戦後、GHQ は、この大量の「日本軍用医薬品麻薬在庫」( Japanese military medicinal narcotic stocks) を処分することなく、市場に「棚卸」した。
【訳】司令部が決定した数量の特定の日本軍用医薬品麻薬在庫が、米軍によって承認された医薬品卸売業者の管理下に放出される。
389: CUSTODY AND DISTRIBUTION OF JAPANESE MILITARY MEDICINAL N... - SCAPIN-DB
本来は、「負傷兵の手術に欠かせない軍需物資」だったはずの麻薬は、日本軍と GHQのずさんすぎる管理のもと、戦後日本社会に流出、「ヒロポン」蔓延をまねいた一因ともいわれている。
傷ついた兵士を守るための麻酔ではなく、特攻や本土決戦のための「疲労回復」や「覚醒」を優先して保管された麻薬ストック・・・
病院が撤退する際、多くの身動きできない傷病兵が集団死させられた。砲弾の降るなか、両足を切断された兵士たちが、殺されたり、両腕だけで泥道に体を引きずり南下する無残な姿を、多くの住民が証言している。
「捨て石」の地に送り込まれ、「捨て石」にされた、ひとりひとりの若者たちの心を思うと胸が張りさけんばかりだ。
医療すら、「人」ではなく「お国」のため。
そんな腐りきった日本の政治の在りかたから、この国は本当に変わることができているのだろうか。
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*1:第32軍は医薬備品の補給も滞るなか、さらに1944年12月11日の沖縄軽便鉄道弾薬爆発事故で大量の医薬備品を失っている。第32軍は大本営にこの大失態を報告していなかったとまで言われている。沖縄軽便鉄道弾薬爆発事故 ~ 琉球新報「戦禍を掘る・戦場の火」 - Battle of Okinawa