『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 3

 

 

日本軍は沖縄に15の飛行場を建設した。そのうち三カ所の飛行場が宮古島にあった。

10. 海軍 宮古島飛行場 (平良飛行場)

11. 陸軍宮古島中飛行場 (野原飛行場)

12. 陸軍宮古島西飛行場 (洲鎌飛行場)

 

沖縄戦では10代半ばからの学徒が戦場に動員され、その半数以上が犠牲となった。少年兵の中には11歳の少年もいたことが米軍の記録に残っている。

学校には専属将校が配属され、教師は一心に皇民化教育をおこなったが、そもそも、その最初の段階で、学校が組織的に軍事化され、教師は競って「皇民化」された。

戦争の時代、日本の教育現場では何が起こっていたのか。

 

1937年12月に内閣直属の諮問機関として教育審議会が設置された。教育審議会は義務教育、中等教育、高等専門教育、師範教育、社会教育などの制度、教育内容・方法におよぶ全面的な改革策を審議し、1941年10月までの間に7つの答申と4つの建議を行った。根本理念は「皇国ノ道ニ則ル国民の錬成」であった。師範学校の改革に関しては、1938年12月8日に「国民学校師範学校及幼稚園ニ関スル件」の答申がまとめられた。

 

… 改正 (1943年) 師範教育令第1条は「師範学校皇国ノ道ニ則リテ国民学校教員タルベキ者ノ錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」と定めた。1886年師範学校令以来、3気質と言われた「順良親愛威重」という語はなくなった。すでに1941年制定の国民学校第1条は「国民学校皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」としていた。師範学校の目的は、「皇国民錬成」のための国民学校の教員を養成することとなったのである。

高橋寛人「昭和戦前戦中期における師範学校の教職カリキュラム」(2007年)

 

コンコーダンス用の書きおこしを公開しています。誤字などがありますので、必ず原典をお確かめください。《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

 

皇国の道

「皇国の道」に生きた教師

下地村(現上野村) 仲 元太郎(三十五歳)

皇国の道の研究と実践

研究訓導という名で三重県に出向したのは昭和十六年四月でし た。この月からこれまでの小学校が国民学校にかわり、ぼくらは皇 国民で、いわゆる”皇国の道”とはどいうものであるか、そのころ はもう「国体の・・・」とか「臣民の道」とかいう本も出ていました。 そういったものをすっかり空で言えるほどに読みましたね。このときの研究訓導は村一男さんと私の二人で、彼は愛知県に行きまし た。私は三重県でもっぱら皇国の道とはどういうものであるか、学 校の教師としてどうあらねばならないか ー きたえられました。勿論 向うの教師たちも同じようにやっていました。 最初の夏休みは家族のいる宮古に帰りましたが、 二年の昭和十七年の夏休みには帰らずに、五十鈴川に行ってみそぎをされました。

 

三重県では、皇国の道とはどういうものであるかという研究が、 それはもう盛んなものでした。 あらゆる教科にわたってですね。す べての教科で皇国の道に則りというふうな言葉があるために、じゃ、一体皇国の道とは何を言うか、算数にも皇国の道というのがあるの だろうか、そういったような研究をするわけです。 結局算数なら算 数理科なら理科を当時の教科書にもとづいて一生懸命研究するの が、皇国の道であるーそういうふうな発表をみんなやっていくわけ です。 私は修身の研究を大々的にやりました。 これまでの私たちの教育というのはあまりに個人の悲しみを追うというふうなものであ ったが、人間を追うということは国家的な人間であるということ、 国家をはずした人間というのはない。 具体的な人間とは自分の属す る国があって、その国が危殆にひんした場合、国家とともに運命をともにするのが人間の生き方だ、そういうふうな発表をしました。名張町を中心に阿山郡と名賀郡の二つのにまたがる教師ばかりの研究発表会でした。 名張町は皇国の道に則っての研究の実ににさかんなところでした。少年団訓練が猛烈になってくるし、毎朝の早朝訓練 というのもありました。これらが終って子どもたちは帰宅し食事を すませてからまた登校していました。

 

昭和十六年十月ごろ、 戦争突入へ の準備だったと思いますが、皇后陛下伊勢神宮にお参りすることになりました。 校長からいい会だからお前も奉迎するようにと言われて生徒の代表をつれて行き ました。 宇治山田のあたりで、迎えるわけですが、向うの人た ちは勿体ない有難たいといってみな泣いているわけです。 ところが ぼくは涙もでない。ぼくは沖縄にうまれたからそういう意識が低いんだ、恥ずかしいと思い、劣等感にとらわれたものでした。 翌日の新聞は、陛下を迎えるのに蛙の声さえ一瞬止っていたとか、 木のも一瞬なりを静めたとか書いてあるんですよ。 私はそれを読んで、それほどのことだったのか、ぼくはほんとうに一生懸命やらなければ日本人として彼らに伍して日本人の顔はできないんだと思 いましたねそれでますます努力して彼らに追いつこうという気持になりましたね。 また、彼らほどにそういう気持がないとみられているのではないかと思って、 研究会などすべて引きうけて一生懸命やりました。

 

昭和十七年には四日市国民学校に転任したが、そこでもまた軍人援護教育研究会というのがあって、それもやりました。その学校出身の英霊の室を学校にこしらえてお祭りをする。そしてそこで英霊の業績をれいれいしく話しをして聞かせたり、英霊室での作法を教えたり、そんなことを私がやったわけです。それから出征軍人の家に高等科の生徒をつれて行って稲刈りをしたり除草をしたり、常にさかんでした。授業は午前中でうちきって、その部落の生徒を部落ごとに割りあててさせるわけです。私は高等科一年生をうけもっていたが、高二の受けもちの加賀美悟先生も非常に軍人援護には熱心なんで、のちに三重県の指導主事になるほどの方でした。

 

避難訓練防空壕掘り

二か年の研究訓導生活を終えて昭和十八年四月官古に帰りました。神戸から船に乗ろうとしたが、敵の潜水艦の出没がはげしいのでいつ出るかわからない、またいつ出るとも言ってくれない。 私は、 いつ出ますかと聞いて叱られました。お前らがそんなことを言うからもう行けないんだと。ただいつもそこにおれとだけ言うのです。毎日波止場に立っておれと。私は神戸の旅館に十日ばかり滞在しました。そうして、きようは出ませんかと聞くだけでも叱られるので、ただ毎朝早く波止場に黙って立っていました。そしたら耳うちしてくれたわけです。誰れにも言わないでなかで待っていなさいと。大阪商船でしたが、いさ出港しても真直ぐ行かないで、途中あっちこっちに立ちより宮古に着くまでにはおよそ一か月くらいかかりました。

 

再び新里国民学校に帰えり、 一学期間は毎日毎日生徒と一緒に防空壕掘りです。それと避難訓練をしました。そのほかは学校のあいているところを耕して芋を植えたりの増産活動です。新里国民学校でも軍人援護の研究会をやりました。ここではもっとも熱心だったのは砂川玄康さんです。当時教頭は与那覇金一郎、次席が保栄茂( 皆川)玄認、その次ぎが砂川さん、 つぎがほくというかたち。実にさかんな研究会で、軍人援護の研究会といっても実際には士気鼓舞の研究会でしたから、教師たちはみな各部落にわりあてられ直接行って指導するのです。

 

昭和十九年八月、家族は台湾に疎開させました。子どもはそのころ三人いましたが、新里校で教員していた家内が長女(小一)長男 (五歳) 二男(一歳)をつれて台湾に疎開台北とキ]ルンとの間にある板橋国民 校に行きました。十一月ごろからはもう空襲のために授業はできなかったように思います。部落のあちこちに分散して授業をしたが、二十年春の卒業式は十人ぐらいの生徒で、金栄先生と二人で送りだしました。

 

虫ケラのように死んでいく教え子
 わたしは防術隊に召集され、数えの十六歳~十八歳の少年たちの隊長をつとめました。少年たちは「肉攻隊」とよばれ、敵は宮国方面から上陸するだろうからというので、新兵器だという十キロ爆薬をかついで戦車に投げて死ぬんだー 毎日そういう訓練をさせられました。ほふく前進とタコツボ壕に入って投げる練習です。毎日が死の恐怖でした。わずかばかりの芋と馬肉しか支給されないため、毎日何か食べたい気持がつのりながら、 一方ではきよう死ぬかあす死ぬかの恐布にさいなまれていました。

 

訓練を指揮していた下士官が敵の機銃掃射をうけてのどを貫通、血を吐きながら死んでいく。人間の断末嘱の叫びは実にこわいものでした。敵の爆撃で粉々になって四散する人たちの肉片を集める。非常にキナくさいものです。内臓が地にたたきつけられて土まみれになっている、木の枝にぶらさがっている片腕、それらを一つひとつ拾い集める。なかには死にきれずに舌を出しながら血を吐きうめいている兵隊もいました。こんな死に方をするより、いっそばっと一思いに死んだ方がましだ、如何に苦痛なくして死ぬか、こんなことも毎日考えていました。

 

ひもじさも大変なもので、芋ヅルをむしって食べたり、ある時はキャベツの葉が落ちているのを天佑だと拾い、生のまま食べたり。ひもじさと死の恐怖のなかでは、 「天皇陛下万才!」などと言って死ぬなどとは考えられるものではないですね。まったく人間が虫ケラのように死んでいきました。

 

教え子の多くは今度の戦争で戦死しましたが、宮古では敵の機銃掃射でやられた教え子が麻酔もなしに手術をうける場面もあって、非常に残念でつらい思いをしました。新里校の西側に窪地があって、軍の手術はほとんどそこでやっていました。敵の空襲のあったあとは多くの負傷者がここに運びこまれて手術をうけていました。機銃掃射で骨が砕けているとか、爆弾の破片が入っているとかでした。しかし手術はしても麻酔は何もないのです。そのままでやっていました。手術をうけた私の教え子は高等科の一年生でした。家が中飛行場の近くで、飛行場を襲撃した敵の機銃にやられ、麻酔なしの手術をうけて悲鳴をあげながら死んでいきました。非常に残念でたまらない気持でした。

 

終戦についてはよくわからなかったけれども、ある日軍隊全体がシーンと静まりかえっている、まるで死んだように。何かあるなと感じていましたところ、ある将校が「もう家に帰って、食糧でもつくりなさい」という。これで敗戦を知りました。それからしばらくして将校は、復員するまで軍も食糧をつくるので畑を提供しろと部落の人に言えというので、部落内を案内したが、隣りのおじさんから「自分らも大変なめにあっているのに、畑まで軍にとられたらどうするのか」とさんざん叱られました。ある日私が畑を耕していると、軍曹がきて「そこを自分らにやれ」という。 「何でいい畑ばかりとろうとするのか、嫌だ」と言ったら、怒って大隊本部につれて行くと、大変な剣幕でした。あのときはこわかったですね。実にしやくでもありました。お前らがこういう調子だから戦争に負けたんじゃないか、お前らには人間らしい気持がみられない。ただ猛々しいだけで威張りちらしているじゃないか:・。おもしろくなかったですね。ほくらは戦争に負けて残念だと思っていましたからね。

 

しかしある一面、負けたときいてホットとした気持もありました。戦争がもっとつづいておればどうなったかわからないし、それにもし勝っておればまったく世の中は軍の思うがままになっていたでしよう。軍政が日本の政治の常道になっていたかもしれませんからね。上野にいる兵隊たちは昭和二一年一月ごろ復員しました。隊長がよく家に遊びに来ていたので、そのことはよくおばえています。 「自分らはもう行きます。しかしこれは決して日本が敗れたからじゃない。ただ日本の歴史がそういうふうにー日本の歴史には幕府があったが、 アメリカも一つの暮府であって、いっかまた天皇によって取りはらわれ元の日本が出てくるんだから、それを信じて子どもらをうんときたえてくれ。」どの将校も私にそんなことを言っていました。

 

妻子をつれに台湾へ

終戦の年の十一月ごろ、栄丸遭難のはなしが聞こえてきました。台湾に疎開した妻や子がそれに乗っていたらどうしようと思うと、気が気じゃないわけです。 ほくは気がくるったようになって無意識のうちに海岸を歩きまわったりしていました。何しろ宮古には自分一人いて、妻子はみな台湾に疎開させたのですから。 みんな死んでしまったのじゃないかと思うともう居ても立ってもおれなく。池間に渡って台湾に出る船はないかと聞いたらないと言う。仕方なしに平良へもどってきたら、ちょうど真栄城徳松さんが船を出そうとしているところでした。すぐお願いして乗せてもらいましたが満員でした。船はスオウからキールンに着きました。そこで栄丸遭難の生残り山内朝二さんに会って当時のもようを聞きました。池村一男さんは一たん乗ってからおりたということでした。宮古に帰る船を待つ人たちはみんな大変なところにいました。戦災にあったがらんどうの倉庫のようなところにみんないましたが、便所もそのなかです。あれだけたくさんの人がほんとうにみじめなものでした。

 

さいわい妻子は下地シゲ産婆のやっかいになっていて、池村さんたちのようなみじめな思いはしないですんだようです。台湾ではもう日本のお金は使えず、平良恵盛さんが交換してきてくれました。恵盛さんだけは服装もばりっとしてうらやましかったですね。 一週間くらいして宮古に帰りましたが、どこの船に乗ったのか、船賃がいくらだったのかおほえていないですね。

 

戦争中、教師をしていた私は、あのころ戦争はいけないものだとは考えたことはありませんでした。戦争をやってはいけないというよりも、むしろ日本かそういう方針ならばほくらは運命をともにしなければならない、そんなふうに思っていたようにおほえています。

 

自分らが国家の政策を推進していかなければ日本はいけないんだというふうに。国家権力の末端である師範学校を出ていたのですから、当時としてはそう思うしかなかったように思います。

 

2、 学童疎開

或る校長 - 学童疎開

平良町東仲 砂川 (45歳)

昭和十八年当時平良第二小学校、今の北小学校の校長をしていました。戦争が次第に激しくなって次の時代をになう小学生を安全な場所に移すよう文部省から疎開命令がでました。私の家族も年取った母と私が残ることになり、妻と子ども三が宮崎県に疎開した。

 

子供たちを親元から離すという事は父兄にとっては大変な事であり、文部省の方針に従って父兄の説得が出来る校長は手腕力量のある校長と云う事になっていた。
毎日家庭訪間をした。父兄との話し合いの中で、間題になったのが、引率教師として誰が行くのかと云う事です。その時希望を申出たのがs教師でした。所が父兄の方からs氏の引率ではやらないといい出し、大半の父兄からM教師ならやっても良いといって来た。困ってしまい、引率希望のs氏に辞退してもらい希望していないm氏を説きふせる事になりました。出来るだけ夫婦、でなければ女性教師を寮母役としてつける事になっており、独身の氏にはいろいろ私的な事情もあったがやっとで説きふせて、結婚式をあげ、明日発っという晩に、酒一升くみかわしくみかわして、翌日は子供たちをつれて出発した。当時、恋愛などしようものなら、クビになっていたし、今思うと、彼等夫婦の結婚は結婚費用の一銭もかけず、ただ握手と一升の酒で、せきたてられる様に宮崎へ発つ事になったのです。そして僕は国の方針に従った 〃優秀な校長〃と思いこんでいました。平二小学枚のほか下地小学、平一小学の三校の生徒達が、出発しました。昭和十九年八月十八日の事です。平良第一学校の東半分はすでに兵舎として接収されていましたし、疎開で空家になった民家や、お嶽の森の中で疎開しない生徒達の分散授業が行なわれていました。間もなく次第に増えて来る兵隊で、校舎は全部とられてしまった。

 

天皇の写真を御真影と云っていたが、家の庭に防空壕を掘って、十月十日の空襲以来、それをしよって壕の中に移すのが校長の最大の任務となった。相次ぐ空襲で、 ほとんど壕の中においておくのが毎日の様に続き、湿気で、 シミでもつけたらそれだけで、進退うかがいを出すはめになる時代だったし、それこそ気を使うのです。壕の人口から見ていると、西の空を飛ぶ飛行機はまるで山羊がうんこでもする様に、パラパラと爆弾を落すのが見えるのです。近くにある漲水港を目標に落としているのだと思っていましたが、港だけではなく、宮古人者をも目標にして、そうとう爆撃していました。今思えば神国思想を打ち破るためだったと思うが、どう見てもあんな大きな鳥居があるし、軍事目標にはならんとおもうがめちゃめちゃに破壊されていた。そのうちに海岸ぞいの民家がやられ始め、北側にはニャーツの海軍兵舎があるし、平二校の校舎は兵舎だし危険区域になってしまった。わが家の庭先東南部にも不発弾が落ちた。道行く兵隊をつれて来て見せると五百キロ爆弾だと云っていたが、時限爆弾かも知れないという事で、隣近所を含めて皆待避しました。所が何日経っても爆発しないし、近くに兵站部隊があって、その兵隊にトマトをやり、不発を運び出すようたのんだ。南隣りの空地にあったたこつほに人れて目じるしの旗を立ててありましたが、あれが爆発しておこうものなら、家どころか壕のすぐそばだったし私の命も、御真影ごと、どうなっていたものやら、今でも運よく命びろいしたものだと思っています。

 

町の中が無差別爆撃される様になり、近くの池間さん宅に不思議な爆弾が落ちました。 そこに建っていた家がなくなっているのです。大掃除したあとの様に瓦のかけらも見あたらないのです。爆弾の穴は見あたらず、よく見ると、そこに人間の首や手足のなくなった胴体だけが、ほこりまみれになってころがっているのです。疎開して空家になった家を借りて、多良間の人が一人住んでいたとの事だったが、多分その人だったと思われる。恐ろしくなって気分が悪くなり、目をおう様にして帰って来た。

 

北小学校舎は全壊し、運動場は大型爆撃で井戸の様な深い穴がいくつもあけられ、すっかり地形が変ってしまっていた。

 

次第に激しくなる空襲で、穴だらけになった飛行場の弾痕の穴をうめるのに、飛行場周辺の石では間に合わなくなり、町中の民家の石垣をくずしてもって行くのです。夜、トラックで乗り込んで来て、私の家の石竡もくずし始めました。西側の道路との隔ての所ですが、そこは便所があるのです。そこをくずされると道から丸見えになり用たすにも大変困るのです。そこをとると困るんだがと云ったら、 「軍のやる事に文句があるか名前は何んというか」と云うのです。 「取るなとは云っておらん、とるなら南の方をとれと云っている」と云うと、懐中電燈で私の顔を照らし、 「日本が興きるか亡びるかの時に君は反戦思想を持っている!」とどなって「出てこい!」と広うのです。出て行ったらやられるに決っているし、出て行かなかった。名前だけを言ったら手帳をとり出して名前を書くのです。何かあるとスパイ嫌凝をかける時代で、内心こわくなりながらも意地になっていた。よく見ると僕の息子くらいの下士官だったが、間違った事は云っておらんと思いながらも、あとで何かあるのではないかと心配した。結局、くずして持って行った。あとで石を集めて来て、積み直した。あの当時、校長は自いシャツを着けていただけで、 スパイ嫌凝をかけられ、大変困っていた。

 

そのうち、軍の命令で野原越の司令部近くに宮古全島の学校の御真影を移す事になった。男子教員は二人ずつ交代でその護術をしろという囈になりました。夜もそこで泊って番をするのですが、その頃からもう戦争は負けるのだと捨て鉢気分もあり、夜は抜け出して部落に行き、密造酒など飲みに行った。

 

長男は第七高等学校の半ばで長崎の造船所に学徒動員されているし、次男は家を出る時、いつもは、 「行って参ります」という子が「行きます!」とだけ云い残して予科練に行ってしまった。生きて会う日もないのではないかと、人の子に「聖戦遂行」のため征くべしと教育した手前、自分の子供にだけ内緒に、これははじめからおかしな戦争だから征くなと云うわけにも行かず、息子たちも征ってしまった今、じめじめした穴の中で写真の不寝番をしている空虚な気持はやりきれない思いでした。あの頃は酒も煙草もほとんどなくなって工業用アルコールを飲んで失明するものが出たり、死者が山オこりしました。煙草は カ煙が出るもので喫えそうなものを、例えば松の葉や、野イチゴの葉、ヨモギの葉、あとは、 トマトの葉などを喫っていた。

 

戦争が終って昭和二十年8月31日、野原越の御真影を焼く事になったが、日本軍の高級将校たちが立会って、ガソリンをふりかけ、年長の校長が火をつける事になった。手がふるえて、とても出来そうにないと涙を流しているのです。代りに、私が火をつけました。すべてが「終った」と云う感じでした。

 

所が「終って」いなかったのです。世の中が百八十度転回したというのか、今まで"優秀な" 校長であったはずの私の家に、 「疎開させた子供たちはどうしてくれる」ーと毎日の様に子供の父兄たちが、 「いっ帰してくれるのか」とおしかけて来たのです。宮古島は玉砕して全滅するはずであったし、こうして連日の空襲にさらされはしたものの生き残った人たちは吾が子の安否を気づかって、抗議して来るのです。音信は不通、行くに船もない状態では返事のしょうがないのです。羽があれば飛んで行って見て来るのだが、と思案にくれているうちに、台湾から砂糖を積んだ五十トンくらいのヤミ船が入港し、近日中に本土に向け出港するという情報が入りました。その船主に頼みこんで乗船する事になりました。与儀達敏任命町長に会い、何かの時に役に立つからと、 「疎開児童の調査員を命ず」と云う辞令を書いてもらい。海賊だったという噂のある、別名ミンナガニクという人の船に乗りました。

 

航海中、 アメリカの飛行機が低空で旋回して来ましたが、五日後、無事に枕崎港に着きました。汽車の乗車券を手に入れるのに、三日三晩も立って順番を待っと聞かされ、思案にくれているうち、こんな時のためにと用意しておいた辞令を、そこの町長に見せ、駅長を紹介してもらいまし 。 ミンナガニク (本名奥平浦三) の砂糖の稀少価値のきき目もあったのか、乗車券の手配をしてくれました。途中、家族の疎開先をたずねその無事をたしかめ、宮崎県の小林小学校をたずねました。校長が来ると云う事で、集団疎開した子供たちが、二百名くらい校門の所まで出迎えてくれましたが、顔色は、思っていたよりも良く、ただ服装が見すばらしいのが目につく。ポロ毛布ならあると云う事で、その晩、子供たちと一緒に寝る事にした。

 

引率の夫婦にきくと、児童の一人が腸チプスにかかり、人の子をあずかって来て、死なしてしまうのではないかと徹夜の看病をしていたこと、下地小学校から来た児童が望郷の想いがつのって宿舎を出て行き、駅前でぼーっと座っているところを、学校中が大騒ぎになり、探して連れもとしたこと、とうとう平一小学から来た子の一人は行方不明になっている事など聞かされました。翌日、そこの校長に会い、世話になっている御礼の挨拶に行きました。好きこのんで御世話になっているのではない。わが国の命令で、その政策に従っただけだから、帰るまでは世話して呉れる様頼んで、私の家族のものは一緒にヤミ船で帰るというのを、今、家族の者が先に帰ったら、児童たちの父兄が何というか、ますますつらい立場に立たされる事が明らかではないかと説得して、ひと足先きに帰りました。疎開地での子供たちの無事を知らせ、父兄たちも、安心した様でした。あれから二か月たって昭和二十一年二月、集団疎開児童達は帰って来ました。

 

児童たちに会いに宮崎をたずねた時、宮古は無事だったと云えば、この子たらに異郷で苦労させた事の意味がなくなるし、宮古は大変だったと云えば、皆が心配するだらうし、最初の言葉をどう云うべきか、苦慮したものです。はからずも疎開児童の父兄の一人が銃撃をうけて、死亡した事を話してしまい、それを聞いた子が、 一晩中泣いていた事を思い出し宮古に帰りつくまで伏せておくべきだったと思うと、今でも心が痛むのです。あの時、行方不明になった子の父兄は、自分で宿舎を出て行ったのだから、あの混乱の中では致し方ないと云っていましたが、今でも島に帰っていません。

 

飢えと寒さにふるえて

平良町下里 下 地 明 増(二十七歳)

出発前夜にあわただしい結婚式

その当時、疎開児童が平二校からも行くことになっていることは知っていました。ほかにどこが行くかはわかりませんでした。だれが引率するかということもまだ決っておらず、あとで聞いた話しでは私の前にほかの人にもいろいろ話はあったようです。校長によばれて疎開児童を引率していかないかと言われたとき、私は独身だし、家庭的なかかわりもないし、当然行かなければならないだろうと覚悟はしていました。また、 ことわる理由もなかったし、行ってもいいいという気持もありました。しかし兄の了解はとっておきたいと考えて、応召して官崎県細島にいる兄に電報をうちました。

 

私としては、どうせ行かなけれはならないだろうというよりも、ほかに適任者はいないのなら引き受けねばならないだろうという気持もあった半面、行くことが何だか卑怯なような気もしました。 一般の人びとは島に残り最後まで島を守るんだという気構えでいるのに、若いものが、如何に校務で学童を引率していくとはいえ、何となく戦争から逃避するような、そんな疑問もあったのです。あわせて兄は軍人であるし、あとで叱られても困るという、兄弟としての気持もありました。

 

兄からの返事は「自虎隊を組織して島を守れ」ということでした。私は、やつばりそうだ、 こういう大事なときに島を離れることは卑怯なことだ、最後まで島、守ろう、こう決心して、校長にはなしたところ、校長はこんこんと私をさとされる。学童疎開は国の方針である、軍の命令である、決して卑怯なことではない、沖縄が、あるいは宮古がどうなるかわからんが若い世代の子どもを疎開させて教育をつづけねばならない、 これは次して避難ではなく安全な場所で教育をつづけ次の世代に備える、次の世代を守ることなのだと言われました。ここではもう教育はできないから希望者はみんな疎開して教育をつづけ、次の日本を背負う国民を育てるのだと言われました。

 

こうまで言われてことわることはできない。またもう一度兄に相談することもできない、自分で判断するほかはないと考え、承諾しました。疎開児童は初等科三年生男子一人をふくめて高等科まで男女二十人だったとおばえています。出発は昭和十九年八月十八日でした。

 

行くと決ってからがまた大変でした。年をとった父が、これでもう生涯あえないかもしれないから最後の孝行だと思って結婚してくれという。さあだれにしようか、その晩のうちに父と二人で申し込みに行って、承諾をうけたのが出発の前々夜でした。さっそく翌日、式はあげないが親戚どうし内輸だけのお祝いをということになりましたが、私はもうそれどころじゃない。疎開児童の名簿つくり、それから役場や警察へ行っての手つずき、学校の仕事の整理もあるしで、ようやく終ったのがタ方の七時ごろ。学校は送別会をやるから一心亭へ来てくれという。父兄の方は郵便局官舎で学童疎開のための連絡をかねた送別会をやると言ってきました。

 

七時ごろ事務的な仕事をすませたあと、職員会の送別をうけ、九時ごろからは父兄会の方へ顔を出すことにしました。ところが会場の郵便局官舎へ行く途中に私の家はあります。今晩家では私のための簡単な結婚祝いがある、しかし一たん立ち寄ればもう動けなくなるだろう、何しろ花婿なのだから。私はスフのシャッとズボンを着けていたが、通りすがりに石垣ごしにのぞいてみました。 モンペ姿の花嫁が親戚を接待しているのをみて安心。九時からの父兄会に出席して帰ったのが十一時ごろだったと思います。四、 五人の人を残すのみで、ほとんどの人は帰ったあとでした。

 

それからが大変です。翌日は朝六時に宮古支庁の庭に集合となっていたから、寝るどころではない。大急ぎで荷造りをはじめました。午前の二時ごろまでかかってようやく終りました。しかし六時集合となれば四時には起きなければならない。 ニ時間だけでも寝ようと私は寝ました。花嫁はとうとう一睡もせずに、四時にとび起きた私と一緒にまた出発準備をはじめました。六時に集合して、それから乗船しました。八月十八日の朝でした。

 

当時家内は平一校に勤務していたが、さいわい平一校の学童疎開と一緒に行くことになっていました。本船までハシケで行ったが超満員です。平ニ校の生徒だけは掌握していたが、平一校の方はずつと反対側で話をする機会も全然ない。本船にうつってから、学童のほか一般の疎開者も乗り何隻か船団をくんで出発したが、その日には出なかったと思います。那覇港には夜入ったが、沖泊りのまま一泊しました。そのとき官古から出張したまま船がなくて那覇に滞在していた当銘由金視学が激励に来てくれました。那覇で船団をくみかえて翌朝出発したと思います。それからあとはほとんど夜間を利用して、どこかわからんが島づたいにあっちこっちに寄港して、鹿児島港に着いたのは宮古を出てから六日めだったと思います。

 

途中では、船底で寝るのは危険だからと、毛布と浮袋をもって甲板で寝ました。浮袋はちゃんと着けたまま、魚雷や機雷があるかもしれないから、最悪の場合を想定していろいろな注意をしました。何かの衝撃があったからといって勝手に飛びこんじゃいかんと、早まって飛びこんだらもうおしまいだから、どんな事態が起きても私の言うことを聞いてくれと固く約束していました。実際ある晩ものすごい衝撃があって、私もてつきり魚雷だと思ったが、子どもたちにはそこを動いたらいかんと注意して船員に連絡をとってみました。船団をくんで真っ暗やみのなかを灯火管制で行くものだから、船と船が接触したものでした。

 

六日めに開聞岳がみえた時はほんとにホッとしたものです。安心してみんなに浮袋を解かせ、船員におねがいして児童は全員甲板でホースから水浴させてもらいました。

数時間後には鹿児島に上陸、城山の中腹の鶴鳴館という旅館に入りました。何十という広い座敷を開放して荷物を並べ、班ごとにかこんでやすみました。平一校、下地校もみんな宮古を出るときから一緒。三日ぐらい泊ったと思う。家内は引率というより寮母ということだったとおぼえています。

 

寒ざをしのき、自給自足はかる

それから宮崎へ行きました。行く先が小林だというのは鹿児島でわかったと思います。小林ではつぎはぎだらけではあったが婦人会が布団をつくって待っていてくれました。宿舎は青年学校で、平一校と平一一校は一つの教室、下地校は人数が多いので別に一教室。引率の教員のうち、ほくら夫婦は教室の片すみに小さな衝立をたてて住み、平一校(高里好助教諭)と下地校(川満恵位教諭)は家族が一般疎開となっているから近くに別に家を借りて通勤みたいにして通ったり、子どもたちと泊ったりしていました。私は若いから常直のようにしていたが、青年学校の校長がいろい心配してくれて、あとで二つある宿直室のうち一つをあけてくれました。おかげで私たちも落ちつけるようになるし、児童の部屋も広くなるし、ずいぶんたすかりました。

 

青年学校は町から三〇〇メートルくらい郊外にあって、そこから町にある小林国民学校に通いました。子どもたちは官古にいたときと同じ学年に入り、引率の教員はそのまま教員として配置されました。

 

そのうち初めての冬がやって来ました。非常に寒いけれども、子どもたちは着がえを買うこともできない。個人差はあるが小遣銭はみんな家から持ってきていました。全部私が通帳みたいにあずかり、子どもたちにもそれぞれ手帳を持たして、いくら使ったとちゃんとメモするようにしていました。しかし衣類を買うほどの余裕はない。また国からの支給も食糧費ぐらいのもので衣料まではでない。敷布団もない。畳は敷いてあるけれども零下五度まで下るんだから、大変です。霜焼けはするし、子どもたちはびつこをひきながらの登校でした。低学年のなかには泣きだすのもいて上級生がおんぶして登校する。靴もないから、わらぞうりを買ってきて間にあわせたる。あんまり寒いから子供たちはいろいろくふうをする。男の子たちは夜ははだかになって毛布にもぐる。「はだかになると寒いじゃないか」と言うと、くつついて寝るからお互いの体温でかえってあったまるとかと言ったりしてね。それに着物はシラミがわいて夜は眠れないんだね。仕切りはない。ただ区分されているだけで、そばには女生徒もいるけれど平気だね。夜中便所に立つ時も裸でとんでいく。子どもらはほんとに元気がありました。

 

食糧は生徒と一緒に買いだしにいく。費用は国の補助がありました。配給は主食だけで、野菜などはない。学校から帰った上級生をつれて、青年学枚のリヤカーを借りて、およそ一キロ以上はなれた農家に買いにいく。ときには二キロもさきまで農家をたずね歩いて買ったものです。近所に沖縄からの一般疎開者がいて、宮古の人もいたので、おねがいして炊事をやってもらいました。

 

子どもたちはみんな小林国民学校に入り、私は四年生を受けもったが私の組には疎開の子はいませんでした。職員会も一緒で、給与も同じ。異和感はなく、むしろ親切でした。登校の場合は私が指揮をとって歩調をそろえて集団登校でした。ほかの子どもたちは集団登校はしていなかったようです。

 

何しろ員数が三校で百人近いから野菜もつずかない。はじめは何とかやっていたが経費も苦しくなる。経費の範囲内でとなるとどうしても子どもたちはひもじい思いをする。買い出しも遠くなるほどにきつい。子どもたちはやせていく。それでとうとう人数の多い下地校は自主的に宿舎をさがして分離していきました。これで少しはやりやすくなったけれどまだ苦しい。そのうち今度は平一校が近くの国民学校の方にうつっていきました。そこの学校にはすでに中頭郡の仲西校など一一校が入っていたがそこに合流していきました。結局青年学校に最後まで残ったのは平一一校だけ。それから一人で運営するようになりました。

 

ちょうどそのころから、これは長期にわたりそうだと考えるようになりました。いろいろくふうしなければいかんと考え、食糧不足をおぎなうためにもサツマ芋をつくることにしました。畑は近くの農家で出征兵士がいて女手だけで荒れるにまかせてある二、三キロ離れたところにあるところを提供してくれました。二反くらい。農具についてもあっちこっち農家を歩いて使い古しを貸してくれるようにいうけど、農家にはそんな余分はない。とうとう青年学校の校長に実情をはなして援助を訴えました。よく理解してくれて農具もモッコも使いなさいと言ってくれました。それから毎週土曜には子どもと一緒に畑に通いました。徒歩で、軍歌をうたいながら、よく〃白虎隊の歌〃をうたわせました。非常にきついけれども子どもたちはたのしそうでした。

 

いつばい茂っていた雑草は引きぬいて緑肥につかい、苗はあちこちからもらって来て植えました。カつくころになると、飯ごうを持って出かけ、間掘りをして炊いて食べる。帰りはみんなで歌をうたいながら帰るのです。収穫のときは、食べるだけではもったいないと、水あめ向上におねがいして交換してもらったりして糖分の補給をしました。

麦は子どもたちがかねて落穂拾いで集めたものが一斗くらいあったのを使いました。麦踏みもやって、十センチくらいのびたころ、昭和一一十一年一月でしたが官崎県庁から帰還の指示がきました。そこでこれまで小作料もとらずただで畑を貸してくれた農家の奥さんに、借り賃もあげられないのでこれだけに成長している麦を収穫してくださいと言ったら、向こうもよろこんでくれた。

 

野菜の自給も考えた。しかし野菜は芋とちがって遠くではつくれないから町長におねがいして、青年学校から町にいたる、およそ三百メートルくらいのあいだで、本道からはなれた一間半くらいの農道の脇三尺くらいのところで野菜つくりをみとめてもらいました。町長ははじめ取りあわなかったが、し、ろいろわれわれの苦しい事情や計画を聞いて納得してくれました。ホーレン草などもつくって、食べきれんというわけじゃないが一般疎開の人たちにわけてよろこばれたりしました。

 

肉類の不足は馬肉を買っておぎなったりしたが、日曜日などみんなで川にいって魚釣りをして補給しました。小指くらいの小さな魚たったが、みんなでくふうして生活をしました。

 

四十日間赤痢とたたかう

下地校や平一校が出たあと赤痢が発生しました。青年学校の一部を野戦病院みたいに一時軍が使用したことがありました。それが引で渡り廊下をへだてて一番便所に近い廓下を仕切って畳二枚を敷き、そこに二人を隔離しました。何しろ集団生活ですから万一みんなに蔓延したらどうなるか、非常な緊張状態がつづきました。まず第一にニ人の生命を守る、第ニに蔓延させない、 この二点にしぼってがんばりました。 みているまえでどんどんくだす。衣類も毎日汚れる。毎日洗濯しなければならない。家内は炊事をしているから病人の世話をさせるわけにいゝ よい。家内にはオカュだけをつくってもらって、洗濯は一切ばくがやるからといって、がんばりました。

 

洗濯は毎日校舎のうしろに穴を掘ってやり、汚水も消毒水もそこに捨てました。さいわい火山灰だから掘りやすい。水は近くの小川から汲んできました。洗 がすんだら、誰にもわからんように穴をうめる。毎晩穴を掘って洗濯しては理める、これを四十日間つづけました。 それにチリ紙が間にあわない。これについては職員会で泣いて訴えました。生徒の家から古新聞、古雑誌、とにかく何でもいいから集めてくれといいましてね。みんな同情してくれてどんどん集まりました。それが一日に何冊もなくなっていく。食べものも制限するから二人の子どもは骨と皮みたいにやせこけていきました。開業医には薬はない。それで近くにいた軍に実臂を訴えたら、軍医を一人っけてくれました。 それからは毎日軍医がきて注射をしたり湯タンポをしてくれたりいろいろやってくれました。

 

子どもはただやせていくばかりでなく、睾丸も足も水ぶくれして、 これは非常に危険だと思いました。父兄に知らせることもできないし、勿論通信の方法もありませんでした。およそ四十日間、ばくはこの二人を死なしてしまったら、ばくも生きてはおれない、死んでおわびしなきゃいかん、こんな悲参な気持のあけくれでした。 かかるのも一緒だっが、さいわい二人ともほとんど同じ状態でなおってくれて、生命拾いをしました」。二人ともまじめな子で、ほんとによく我慢して注意を守ってくれました。あとのはなしだが、庭のいちじくの木に実がなっているのが寝ているところからよくみえる。ほしくてほしくてたまらなかったそうだが、我慢をしたということでした。

 

食べものを貰って行方不明に

一人の男の子が行方不明になりました。ひもじいものだからあちこち食物をもらって歩く。疎開の子だとすぐわかるものだからみんな同情してくれるわけです。くせがついてしまってあちこら歩くようになる。盗みはしない。もらうだけです。そのうち行方不明になってしまいました。

 

一度は 、疎開の子らしいのが来ていたとの電話があったから、上級生をつれて行ってつれ帰ったこともあります。またときには一晩帰ってこない。 二晩めぐらいだったか、どこをさがしてもみつからない。生きておればいいがと気が気じゃない。

 

そうしているうちに四キロも離れた学校の宿直の先生から電話がかかってきました。疎開の子らしいのが寒そうにふるえてうろうろしていると。懐中電灯もないから家内と二人ランプをもって行ってみたら、本人は宿直室でぐうぐう寝ている。この野郎と思ったり、ホッとしたりでね。

 

情報入らす自活の道を考える

小林はあまり空襲はうけなかったが、駅はよく機銃掃射されました。またB29はしよっちゅう上空を通り、都城が爆撃される音はよく聞こえてきました。それで裏山に生徒と一緒に防空壕を掘って、空襲警報がかかると全部そこに入りました。

 

沖縄の情報はあまり入りませんでした。十・十空襲についてはほとんど全滅状態だということはわかっていましたが、沖縄戦のころは確かな情報は入らない。せいぜいラジオ放送ていどで、敵が上陸して激戦がつづいているということぐらいです。

子どもたちの動揺ははげしかったが、宮古には上陸していないということで幾分安心はしていました。しかし一般の民衆は、沖縄の次ぎは宮崎、鹿児島あたりだろうといって危機感にあふれ、非常に緊張していましたね。疎開してから終戦までの一か年間は何の連絡もなく、まったくの孤立無援でした。

 

そこで私は覚悟を決めました。そのうち疎開集団も解散になり、国の援助や補助もなくなるだろう。いつまでも青年学校のお世話になっているわけにもいかない。子どもたちはどんどん成長していく。げんに六年生だった子は小林中学校に四人、女学校に一人進学していました。学費は子どもの小遣い銭からだしていたが、最悪の場合を想定して、自活の道を講じなければならない。 いろいろ計画をたてました。国有林を借りて開墾していくことも考えました。戦争が長引いて帰れないということもあるが、国自体がどうなるかわからんのだから。戦争が終った段階でも沖細の状況は全然わかりませんでした。大分あとになって密航できた人や、校長がたずねてきてようやく宮古のことがわかってきました。

 

敗戦そのものは〃玉音〃放送で知りました。 みんな一緒に青年学校の庭で聞きました。国民学校に行ってみたら、 みんな動揺混乱状態です。その日ではなかったと思うが、鮫島という男の先生は自分の持っていた図書をストープに燃やしながら泣いていました。

 

昭和二十一年一月、帰選の指示が出ました。だれもむかえには来ませんでした。鹿児島に集結しろという指示で山形屋高島屋の前に集ったが、平一校、下地校それに仲西校も一緒だったと思います。 一面焼野が原でコンクリートの骨だけが残っている焼跡にみんなムシロを敷いてごろごろしていた。われわれもそこに四、 五日いたと思います。鹿児島を発って沖細の久場崎に着き、それから宮古に帰ってきました。 二十人全員ぶじにつれて帰りました。

 

3. 学徒動員

宮中鉄血勤皇隊 (多良間出身)

多良間村字塩川 垣 花 義 夫(十四歳)

鉄血勤呈隊に召集される

昭和十八年四月、多良間国民学校から宮古中学に入学しました。そのころ軍事訓練はあ「たが、 十九年には鉄血勤皇隊に編成され、ザラツキの通信隊に配置されました。

 

二年生だけで百人近くはいたように思います。教科の勉強はなく、無線と有線の二班に分けられて、歩兵操典や戦陣訓なんかを教えられました。通信といってもかたちばかりで、有線の方は送話器をかつぎ直接線をひいてやりました。至って近距離で連絡できるかどうかの訓練。無線はモ1ルスと手旗信号をやりました。指導には宮中の教官もあたったが、教官も軍の指揮下に入っていたように思います。兵隊と一緒に通信隊の兵舎に住みこんでいました。生徒は学校にいたときのように平良から通うものもいたが、久松から歩いてくるのもいました。なかにはザラツキの兵舎(壕)に起居するのもいました。確か石垣小太郎さんのうしろの嶺の下あたりにトンネルを掘ってありました。松の丸太で天井を支え、床板をはっていました。われわれが行ってからもさらに掘り、広げたので相当数の人が入っていました。

 

起床は兵隊と一緒で、起床ラッパで起こされました。生徒は、島尻勝太郎先生など宮中の教官によって整列させられ、そのあとで部隊に連絡をとる。そこへ指揮官がやってきてその日の日程を説明する。ほとんど作業と通信訓練。無線組は午前中モールス訓練をうけると、午後はザラツキ周辺から、西城校の西側近くまで防空壕掘り。四人で一つぐらいずつタコツボ壕を掘ったと思います。

 

学校が事実上ザラツキに移ってしまったために、宮中の寄宿舎ではまかなえなくなり、出身地別に民家をかりて寮住いするのも出てきました。多良間寮は東仲の高田という人の家でした。

 

多良間寮にいるころ、朝八時か九時ごろであったか、羽を真四角に切った見なれない四機編隊がいきなり飛んできました。見なれた友軍機とはちがう。おかしいなと思っているうちに急降下してバリバリバリとやっている。ははあ、演習をやっているんだなと思っていたらサイレンが鳴りはじめました。敵機の初空襲です。それまでにはすでに演習と思って屋根にのばるもの、福木にのほるものありで、手をふったりしていたのです。私もタオルを持って〃友軍機がんばれ!〃と叫びました。空砲だと思っていたら、機銃弾があたりにプスツ、プスッとぶきみな音をたてて飛んでくる。低空してくる翼には星マークがみえる。大変だ、敵機だと思ってからサイレンは隝りだしたのです。防空壕に二時間ばかりいて、敵機が遠ざかったのを見すまして出てきたら、薬きようがそこらじゅう散っていました。ここでは危いということで寮生全員といっても十名いたかな、炊事のおばさんをつれてスサカガー(白明井)に避難することにしました。みんなで手をとりあって石垣をとび、畑をこえて竜舌蘭の茂みをはうようにして避難したが、去ったはすの敵機が引き返してきてまた機銃掃射する。百メートルそこらの距離なのに、 一時間半あまりもかかってやっとスサカガーにたどりついたものです。いつもは毎朝登校まえに二回も水汲みに通っているところなのに、 一時間半もかかりました。空襲警報が解除されて出てきたら、あたりはもうタ暮れ、太陽が西に沈みかけるころでした。平良の中心部はあちこち燃えており、それから何日も燃えつずけていました。三、四日は燃えていたように思います。

 

それから一週間ほどして多良間寮を引きはらい、、サラツキに近い城辺町の長中に引越しました。長中では一か月二十五円の下宿料をはらいました。まだ平良から通う生徒もいたから、空襲がはげしくて平良に帰れないときは一緒にザラツキの防空壕にとまることもあ私たちはザラツキでは二等兵ということだったが、べつに星はなくて軍服や靴も支給されませんでした。給与もなくて毎日訓練と壕掘りばかりしていました。ひまなときには銅線の外皮をはずして銅線をぬきとり、鎖をつくったりしてあき缶やナイフをつるすものにしたりするのが、楽しみといえばたのしみでした。兵隊が直接生徒を設ることはなかったが、上官に たれた兵隊が気ばらしに気合を入れたりすることはありました。 「気をつけ」 「まわれ右」とか言ってやられたが、たたくことはなかった。しかし教官が殴られることはありました。生徒を許可なく帰したといって、翌日生徒の前で教官が指揮刀で殴ったり、編上靴で蹴とばしたり、大変なもんでした。指揮官といっても少尉か中尉。生徒の場合集団で殴られることはなかったが、個人的にはビンタをはられたのもいました。

 

通っている生徒は弁当を持参していたが、ある期間昼食だけはだしてくれたことがありました。玄米に汁は芋ヅル。軍馬が倒れると馬肉が出たりしました。食事ははじめバケツにとってきて飯ごうに分けて食べたが、数か月の間に一人分だった飯ごう飯が二人、 三 &、四人で分けて食べるようになっていきました。、汁は飯ごうの蓋一杯。

 

戦争がはけしくなって家からの送金もとまり、下宿料もはらえなくなりました。ザラッキの部隊から帰えると馬の草刈りをしたり福北の海岸近くの田ンほで草とりをしたり、下男奉公のようなかっこうになってしまいました。戦後になって二か月分くらい下宿料をはらいに行っています。

 

「非国民」と言われても逃け帰える

戦争中は二回多良間に逃げ帰りました。一回目は昭和十九年の暮れ、十・十空襲でたラマもやられているという話が聞こえてきたので、我が家はどうなっているか見に行きました。ちょうど桟橋をうろうろしていたら多良間行きの船が出ました。粟国造船所の船で軍が徴用して乗組員はみんな兵隊でした。何でも多良間の応召兵を乗せに行くんだと言っていたが、このときは別にとがめられることもなく行き、 一週間ほどいて帰ってきました。

 

二回めは年あけて五月ごろ、艦砲射撃のあった直後でした。艦隊は南からきたのだから台湾も八重山もやられ、多良間もやられているんじゃないかという噂が聞こえてきました。また兵隊たちが近々に敵の上陸があるかもしれないとはなしているのも聞きました。敵が上陸すればこんな小さな宮古島多良間島はもうひとたまりもない。生きている間にもう一度親兄弟に会っておきたい、そんな気持もありました。

 

島袋常夫さんは一足さきに多良間へ逃げ帰っていました。私たち七人ばかり一緒に昼過ぎ部隊から逃げて平良へ向いました。知念長助さんは四十度近い熱でうなっていたのに小さな風呂敷包み一つもって逃げました。近く多良間行きの船が出ると聞いていたので平良で待機して飛び乗る計画でした。平良であちこち隠れてまわったのに、六人は追っかけてきた与儀達敏先生や譜久村寛仁先生につかまってしまいました。 「お前らは非国民だ、逃げたら許さん」と言われてつれもどされました。ほく一人逃げおおせたけれども船は夜しか出ない。ようやく飛び乗って隠れていても空襲で延期。ときには出港してこれで帰れると思っていると伊良部の沖で空襲にぶつかり伊良部の港で一夜あかして翌朝はむなしく平良へ帰ってくる。こんなことも数回はありました。延期のたびに日中は平良のまちをあちこち隠れてまわり、出港ときいては夕方第二桟橋に行って飛びのる。長間を逃げてからおよそ一か月、二十回くらいも出なおしただろうか。多くは親戚の家を転々としてしていた。その間にも与儀先生や譜久村先生は馬に乗ってさがしまわっていた。ある時はせつかくとび乗ったのに兵隊にみつけられておろされたこともありました。 ロープをはずして岸をはなれた瞬間に飛びのり、機関室に隠れるのです。そのころは伊良部や多良間通いの定期船はみな軍に徴用されていました。 このとき乗ったのも軍に徴用された粟国造船所の船で、乗組員はすべて兵隊、 一般の人は乗せなかった。機関長も兵隊で、出港してからは別に文句は言いませんでした。そればかりかその機関長は「多良間で葉たばこを手に入れてくれるなら、かくまってやろう」という。 「兵隊さんが満足するまであげる」といって、機関室に隠してもらった。それからは機関長が前もってみつからないように機関室にかくまってくれたのでぶじ多良間に渡ることができました。

 

機関長は多良間におりると同時に、さあ約東をはたせ、という。一緒に私の家までついてきた。親父にわけをはなして葉たばこを二斤くらいあげた。あのころ何処でもたばこがなくて、イチゴの葉や松葉を吸っていたが、多良間はもともと専売制から除外されていて、村内だけで消費する条件で葉たばこを栽培していたので、不自由はなかったようです。 この兵隊は軍曹でカワイという名でした。 戦後私が平良へもどっていると、復員前にわざわざ下宿さきに訪ねてきて軍刀や背のう、手袋などをお礼だといってくれました。

 

進駐軍相手に物々交換

終戦は多良間で聞きました。だれにきかされたのかはっきりしません。たぶん平良からきた人に聞いたと思うが、だいぶ経過してからだと思います。戦争は終っていたのにほくらは飛行機の爆音をきくたびに逃げまわっていたのか、というはなしがあったことをおぼえています。

 

それから一か月ほどして平良へ帰ってきました。進駐軍による軍政はまだしかれておらす、軍もいるにはいたが、進駐軍のLSTが時々桟橋にきてジープが市内をまわったりしていました。宮中には平良に帰ると同時に復学しました。逃げた当時は復学させないというはなしが聞こえていたが、戦論に敗けたので許すのだといって文句なしに人れてくれました。

 

復員が始ったころ、進駐車は、日本の兵隊の時計などをとりあげるそうだとのうわさが広まっていました。そのせいかどうか、兵隊は時計でも何でもくれたり売ったりしたものです。ぼくもそうとう一個百円で時計を買し  アメリカたばこと交換しました。百円の時計がたばこ一ボールにばけ、二五〇~三〇〇円で売れました。五〇円で手ばなす兵隊もいたから、おもしろいようにもうかりました。アメリカ兵は時計のほか日本刀、 日の丸、帽子、日本兵のもちものなら何でも交換したがっていました。国へのみやげにしたかったのもちろん兵隊のすべてが時計を手ばなしたがっていたわけではない。なかには復員にさいして桟橋に向っている兵隊に「兵隊さん、時計を買いますよ」といった中学生が、 「何をいっているか、このチャンコロども」といって足蹴にされる場面を何どかみています。〃チャンコロ〃ということばはザラッキの部隊にいるときに驫わよく耳にしました。多良間でも父の家に寄宿していた兵隊がやはり〃チャンコロ〃といって父と激論をしたことがありました。〃チャンコロ〃よばわりが、中国人という意味で使ったかどうかはわかりませんが、沖縄県人を馬鹿にした、差別感にもとづくものであったことは間違いないと思います。

 

学徒動員

平良町東仲 池間 ○○(十八歳)

とても単調な生活だったし、もう大分なりますので、 これといってお話しする記 に残る話もありませんが、想い出されるままにお話しておきましよう。

 

疎開に行けなかったこと

姉が、集団疎開学童と一緒に九州の方に出かけることになったとき(十九年の八月)、私も同行することにしていましたが、都合があって、とりやめになりました。

 

そのうちにまた、今度は台湾の方へ疎開しうとしました。ところが、これもだめになってしまいました。その頃は、どんどん疎開する人が増えてきていて、そのためでしようか、今まで奨励していたのをやめてしまったのです。

 

受持ちの先生の処へ頼みに行ったのですが、学校はもう証明を発行しなくなっていました。証明をもっていかないと、疎開先に行っ 校に人れてもらえない。そういうことで、断念させられてしまいました。

 

これはあとになってわかったことですが、証明をもらわないで、学校はもうやめる積りで台湾に行った方々が、非常戦下だというので、証明なしで編人させてもらったそうですね。

 

従軍看護婦の見習
昭和十九年には、私は沖縄県宮古高等女学校の四年生でした。 五十六人の同学年生のいく分かは疎開し、残った者は、三年生と一しょに、陸軍病院の方に配属されました。

 

十人程の班に分かれて、分宿して、病院に通いました。 いくらカの給金をもらいましたのを家貿にしたとおほえています。私たちの班は、病院のある鏡原小学校から、丘一つ北にいった盛加の部落で、そこの民家に宿泊しました。病院での勤務は大体八時から五時まで。勤務が終ったあとは、それは普通の女学校の寄宿舎生活といったものでしたでしよう。

 

二十年の三月になると卒業ということでしよう。卒業の時も、院でした。別に集まって式をするという状況ではありません。受持ちの先生が、本人をたずねてきて、ザラ紙にすった卒業証書を手渡してくれました。

 

卒業したからといって、別に変ったことはありませんでした。はげしくなった空襲の中で、あいかわらず、従軍看護婦の見習いとしての日常が続きました。

 

外科、内科、薬務科と分れてそれぞれ勤務しましたが、内科の方に行「た私などは、別に白衣を着せられるのでもなく、女学校の制服のセーラー服で過ごしていました。陸軍病院の方たちはわりと親切にしてくれましたので、苦労しているという気持ちは別にありません。看護さんの手伝いで、静脈注射などをしていました。

 

病人の中には、高熱のために、神経をいためたのでしよう、大声でわめく人もでていました。そんな人は、別の病 に移されました私たちは手当をもらっていましたが、一部は貯金させられました。軍の手伝いをすることは当り前のことだと考えていましたし、金の必要も感じていませんでした。

 

食事の方は、軍から支給されて、全く同じものでした。私の方は、父母が疎開しないでいましたので、勤務がひけたあと、ときどき町の中のうちの方に行きました。たのしいときといえば、そのときだけでした。 アプラ味噌やカツオブシ、それにユニク(麦粉)をうちから補給しました。このような保存食がありましたし、女の子ですから、特にひもじい思いをした記憶はありません。

 

うちにかえることはたのしみでしたが、宿舎にもどるときに空襲にあうこともありました。石垣のよこなどにかくれて難をさけました。側にパラバラとふってくるのは、だいたい、うちがらの薬きょ,っでした。

 

美恵子さんの難

垣花美恵子さんと本村マサさんは、私の同級生で、同じ鏡原の病院に勤務していましたが、別の班に属していました。 二人の班は、病院のすぐ近くでしたが、水の便のよくない処でした。

 

その日は、 二人は、班の水くみ当番でした。私たちの宿舎のある盛加部落の井戸水をくみに行き、 舎にかえってきたときでした。その時刻には、私たちはもう勤務についていましたが、いつものように朝の空襲がやってきました。突然、大きな爆裂音がしました。方向が、彼女たちの宿舎の方でしたので、みんなでかけつけました。

 

ちょうど水をくんできて宿舎に入るときだったようです。二人とも百メートルほどもとばされていました。ガラククと石ころの中てみつかりました。

 

美恵子さんの方は、意識ははっきりしていて、 マサさんの身を案じていました。マサさんは頭を強くうったのでしよう、意識不明のままでした。見た瞬間、これはこときれたな、と思いました。病院の人が、壕の中の病室の方にかつぎこみました。

 

マサさんは数日後意識は回復して、今は幸福な生活を送っています。 一方の美恵子さんは脊ずいをやられたんですね。ささえるとすわることはできましたが、不幸にも、下半身不ずいで、その後、数年、亡くなるまで病床におりました。

 

美恵子さんたちは、軍属としてはみなされていません。終戦後結成された傷い軍人会に入っていましたが、役所は軍属として認めていません

 

このようなことはありましたが、普通の場合、陸軍病院は安全な方でした。それでも、その後も、病院に爆弾がおち、看護兵がやられるということもありました。重症の方々は、 もって、防空壕の中の病室にうっしてありました。

 

病人たちはほんとにみじめな姿でした。病気の上に、大量にしらみが発生して、それでもがき苦しんでいました。

 

私たちの場合、そういうと変にきこえるでしようが、たいへん落着いていたように思います。敵が上陸してくるという話をきいても、心の動揺はありませんでした。それにひきかえ、兵たいたちは大分、動揺の色を示していました。

 

終戦のときの特別放送を、運動場に集められてきかされました。でもラジオはガーガーするだけで、うしろの方に並んだ私たちの方には、何が何だかわかりません。でも、前の方からのささやきが伝わってきて、敗戦を知りました。泣けて、泣けて、きました。

 

中学生の戦争体験

平良町下里 池 間 俊 夫(十四歳)

宮古中学の騒動

昭和十八年四月、県立宮古中等学校に入学しました。制服はカーキー色、ゲートルを巻き、帽子も戦闘帽です。兵隊の卵みたいな服装でした。上級生達は時代が軍国主義一色にぬりつぶされる前の、本来宮古中学校の制服であった「霜降り」色の制服の頃を知っている世代がいました。


五年生グループで、当時は本屋には売っていない部厚い本をひろげて、軍縮会議について論じあっていたのがいました。学校帰りによく立ちよった平良竜造さんの家がたまり場になっていて、大きな活字で国際連盟に於ける各国代表の発言などの内容があった事を覚えています。


富国強兵策のため、軍備はどんどん拡張されるものであり、これは至ってあたりまえの事と学校の講義にも聞いていたが、軍縮を論じ合うとは、これは変ったグループだと思っていました。


当時、宮古中学に神田幸雄と云う配属将校がいました。六師団長の任命といって校長より権威がある様子でした。巾の広い革のベルトをしめ、その下には腹巻きをのぞかせて、胸を張り過ぎて腹をつき出した様な最大限のそっくり返りかたで歩いていました。
職員室の掃除当番の時、神田中尉のいつもさげているサーベルが立てかけてあったので抜いて見ようとしたが力いっぱい引いても抜けなかった。生徒をひっぱたくためにサーベルのがあっちこちひっこんでいるのです。入学早々、教練の時間に私も頭にコブが出来るまでそのサーベルでたたかれた事があるし、高学年の生徒は両手に持った二ふりのサーベルでめちゃくちゃになぐられたりしていました。


一般教課の授業が減らされ、軍事教課の時間が増えて行きました。下級生は木銃、上級生は本物の小銃を使って戦闘演習をしました。夜間の外出禁止、集会をもつだけで頂ければ退学、軽くても説諭処分は受けると云う重苦しい中学生の生活が強制されていた。運動会も一般体育よりも戦闘演習が大きな行事の一つだったし、兵隊の恰好した中学生たちに藁人形を銃剣で突かし、運動場が小さな戦場を思わせる様な硝煙の臭いが立ちこめていました。十一期卒の生徒たちは、運動会の終了後、慰労会をカママ嶺でもったというだけで、それが処分問題になり、不満を爆発させた生徒たちがストライキを起こして学校を包囲し、抗議する巾で、抜刀した配属将校が、白刃をふりまわして生徒を追いかけまわすという事件が起きています。

 

十二期の生徒たちの中には、サーベルでなぐりつけるだけではなく、木銃で突き倒して気絶させるなど、神川中尉の人を人とも思わぬやり方に、銃器庫の錠前をこわして、中にあった三八式歩兵銃や刀剣類を盗み出し、彼への報復が計画されるという事件が起きました。昭和十八年八月の事です。事が表沙汰になるのをおそれながらも、学校当局は、とうとう警察へ通報したのです。

 

反抗しそうな生徒たちが呼び出され、その中の或る生徒は二十五日間も留置されて取調べを受けています。

 

全校生徒に緘口令が出て、その事件にふれる事がタブーになっているうちに、何名かの生徒たちが、学校から姿を消して行きました。

 

退学処分になった生徒の中には、中学四年生終了の成績証明だけでは就職にも支障をきたし、沖仲仕をして肩にコブが出来るまで働いたり、トバシ(灯油代りに細く割った樹脂を含んだ松木)を売ったりしていた人がいたが、その後台湾に渡って行った。

 

下地勇の場合、退学させられた後、改名していましたが、神経衰弱が昂じて発狂し、六尺棒をふりまわして道を歩いていました。その後、座敷牢の中にとじこめられ、戦後間もなく二十代の若さでなくなりました。

 

昭和十九年四月、二年生になって一般教課の授業はほとんどななりました。軍事教練のない日は農業の時間が主となり、五月になると、海軍飛行場の作業に動員され、続いて下地の陸軍飛行場作りにかり出されました。そこにあったはずの農家はすでにこわされて撤去させられていたし、屋敷あとの石垣をくずす作業から始まり、モッコで低地にある指定された畑へ、石選びをしました。

 

昭和十九年六月、宮古島に日本軍混成旅団の進駐が始まり、宮古神社の下の坂道に、戦車がずらりと並びました。船団から陸揚げされてくる戦車に乾いた泥がへばりつき、いかにも戦塵にまみれて来たという感じです。いよいよ宮古も戦場になるという予感を覚えました。

 

学校は校舎と海軍に接収され、毎日、飛行場の石運び作業の日が続いているうち、五人程指名して、作業を止めて勉強しろと云われました。一高から東大へと夢見ていましたが、幼年学校 (註・陸軍幼年学校) を受験しろと云うのです。

 

七月になって、神田中尉が熊本県へ転勤する事になり、私を含め三人の生徒を連れて行くと、熊本で幼年学校を受験させると云い出しました。

 

その頃、疎開児童を乗せた船が魚雷を受けて沈没したと云う噂が、町中に囁かれる様になりました。家族と別れて一人で熊本へ行くのは止めたと思い、八月になり、急拠台湾へ家族ごと疎開する事になりました。

 

台湾の台中、第二中学校に転校し、そこでは、まともな普通学課の授業を二年生の三学期まで受ける事が出来ました。

 

昭和二十年四月。上級生は学徒動員を受けて学校からいなくなり、三年生の私たちが最上級生となりましたが、間もなく私たちにも学徒勤労隊として動員令が来ました。クラスを半分に分け、半数の者は陸軍歩兵二等兵として入隊し、残り半数は飛行場作業に動員されました。私は台中軍司令部の高射砲陣地に配置されましたが、しばらくすると、全員が飛行場作業にまわされました。

 

初めのうちは空襲があっても、午前中は整地作業をする事が出来たのですが、そのうち、作業開始後、三十分もたたないうち、空襲を受ける様になりました。逃げられるだけ滑走路から逃げてニキロぐらい走り続けた頃、さっきまで作業をしていた場所に爆弾が落ちるのです。もう、日中は作業が出来なくなり、夕方、空襲が止んでから作業を始める事になったのですが、過労と栄養失調からクラス五十名のうち、三十名がマラリアに思り、親もとへ帰されました。人数が減った分だけ食事の量は増えました。そして、その分だけ、作業の分量も増えたのです。台湾の暑さと、作業の疲れでへとへとになり、いっそマラリアにでもかかった方が良い、と考えているうちに作業の途中、急にぞくぞくと寒気がしたのです。これはマラリアだ。やっと家族の所へ帰れると思ったが、その日の夕方、作業隊解散の命令が出ました。その日のうちに馬車に荷物を積み、飛行場を引揚げる事になった。発熱にうめきながら学校までたどりつきました。台中の家族の疎開地までは遠いし学校から四キロ程の所に伯父の家族が疎開して来ている事を知っていました。ふらふらしなが近道を通ってそこにたどりつき、水でじゃあじゃあ頭を冷して倒れる様に寝込んでしまいました。保里から母が迎えに来て、親もとで病気を養う生活が続きました。

 

二十年8月1日。入隊のための召集令状が来ました。十五歳の時です。マラリアの熱はまだ続き、やせ細って歩行にも目まいがする状態です。八月一日に入隊しませんでした。十日後、保里の憲兵隊から出頭命令が来ました。父に支えられるようにして憲兵隊まで行きました。兵役拒否だとどなりつけるので、高熱で動けない状態にあった事を説明すると、通ってでも入隊すべきだと云うのです。兵役拒否は斬っても良い事になっていると、日本刀を抜き二人庭先きに並べと云うのです。ソ連が昨日参戦し、日本人は天皇のため戦って死ぬべきだのに何事かと云うのです。ピカピカ光る日本刀を目の前につきつけられ、ほんとに殺されると思ったが、「高い熱があるのに、入隊したら、隊で病気を悪くするだけで、隊に面倒をかける事になるではないか」と反問したのです。にらみつけていた憲兵が乃をおさめました。改めて召集令状を出す。その時は絶対に行けといわれ、二時間ばかり、父と二人でさんざんにしぼられ、おどされました。それから二日後、八月二十日に入隊せよと改めて召集令状が来ました。だが、八月十五日には敗戦、弱った体で入隊せずにすみました。

 

九月になって、疎開地 (台湾) を引揚げる事になった。宮古島は空襲を受けて全滅状態だと云われていた。台湾は長い日本の植民地統治の不満があって日本人が襲撃されているという話が伝わっていた。治安が乱れ、家族八人、宮古まで無事帰れるという保障もない。乗船キップ代を残して父は有り金はたいて、米と煙草の葉を買って来ました。小学生だった弟たちのリュックにも米を少しずつ分け入れ、若し家族が途中でばらばらに別れる事があっても、それを喰って生きのびられる様にした。

 

中国の蒋介石軍が上陸して来て三日目でした。夜、宮古行きの船が出港するという報らせがありました。乗船キップを買いに行きました。その帰り途、暗い橋の上で、行く手をさえぎり何やら分らない言葉でどなるのです。

 

よく見ると大男が銃剣をつきつけている。渡るな”と云っているらしい。戻る道には悔しかないしそこをはなれてしばらくたたずんでいると、台湾人が来ました。その人と一緒なら、その人の子供と思って通すだろうと走りよって一緒に歩き出すとその人も追い返される。心細くなって、河沿いの道を上流の方へ歩きました。二つめの橋も歩哨がたっています。橋と橋の間隔はだいぶあるし、どこか泳いで渡れる所があるはずと考へながらテクテク歩き続けました。三つ目の橋に歩哨がいない。見とがめられぬうちにそこをサッと渡り、今来た道の対岸を逆もどりして夜ふけてから家族の所へ戻りました。キップを買うために道を歩く事自体が戒厳令状態の港近辺では大変だったのです。

 

夜中に、乗せられるだけの人をぎっしり乗船させて、三十屯程度の木造船は音を殺して基隆港を出しました。台風が接近して来たと西表島の船浮港に避難し、四日間足止めされ、ようやくそとを出すると、又、台風が近ずくといって石垣に一週間とじこめられました。船から食事は出ません。米は持ち合せのもので間にあったのですが、おかずになるのが、何一つないのです。弟が釣針をもっていました。竹の切れはしを探して来ましたが餌がない。ミミズを探すのに苦心しました。父がマラリアを再発して、仮宿舎にしていた港近くの校舎に寝込んでいたのです。五センチくらいの魚が三匹釣れました。それを焼いて食べさせました。畑だったと思われる所いもづるがある。掘り出すと子供の指くらいのすじばかりのいもが出て来ました。残り少ない米にまぜて喰いつなぎました。

 

台湾を出て二週間目に宮古に辿りつきました。から見る平良市は海岸近くの家並が、ほとんど焼け落ち、殺伐とした風景に変っていた。かろうじて空襲から焼け残った持ち家の貸屋には見なれない人が住んでいました。ロケット弾で屋根に大きな穴がポッカリとあいていました。その家を半分あけてもらい、ようやく落着く事ができました。

 

父は宮古に帰ってからもすしづめの船の中では横になって寝る事もできず長い船旅の疲れが加わったせいか、マラリアを悪化させて寝込んでしまいました。母と手巻きの巻タバコを作り、十本ずつ糸で束ね、鏡原あたりにまだ帰還しないで残っている日本軍兵隊の兵舎まで行き売り歩きました。本屋など全くなく、読む本が一冊もなかったその頃、そこの兵隊が「レ・ミゼラブル」という本を一冊呉れました。表の方は二十ページ程なくなっていたが、むさぼる様に読みました。昭和二十年十月の事です。

 

四畳半二間に家族八人が住むには狭すぎて、兵隊にこわされて家はあとかたもなくなった料亭の屋敷跡の一角に小屋を立てる事になりました。製材所から板の切れはしをもらって来て、壁と床を作りました。隙間だらけでしたが、そこが私の勉強部屋となりました。海岸に放置された特攻隊用舟艇の舵取り紐の滑車をはずして来て、木箱にとりつけ、小さな手押し車を作りました。そこら中散乱した瓦礫の山を片ずけるのに役立ちました。

 

女学校

宮古高女狩俣ウメ(十七歳)

ソバ嶺の子どもの死

こちらからたずねたずねていって、兵隊にとられた兄と面会することは自由でした。一度か二度でしたか、ひもじいといって、夜半にうちへ来たこともあったが、向うから外に出ることは普通にはできないことでした。

兄がソバ嶺にいた頃、面会に行ったことがあります。途中で私は、小学五、六年生位の子ども二人が死んでいくのをみました。

不発弾がおちているのをいたずらして、それが爆発したとのことでした。息だけをしていました。

 

空襲下の通学

空襲がはじまってから、授業をうけた記憶は全くありません。学校では、訓練か、防火訓練です。海軍飛行場が出来たので、道も遠まわりして通学しました。弁当をもって。サイレンや、無電塔の赤旗が、空襲警報の合図でした。うちへひっかえしました。

 

飛行機がきたので友軍かと思っていると、グラマンです。そうわかってから空襲警報が発令されるということもありました。ひっかえしてうちへ向う途中、第二波が東の方からやってきて、飛行場めがけて機銃掃射です。近くの原番屋にかくれて難をまぬがれたこともあります。

 

通学はそれこそ生命がけでしたが家の方は安全でした。空襲は、太陽の方向からきて、私たちの部落(地盛)の上空で両方に分かれて、二つの飛行場を襲うのが普通でした。爆弾をおとすのは真上で見えるのですが、たまには斜めに飛行場の方へとんでいきます。

 

艦砲射撃のときも、南の神に黒い船がみえてうってくるのを見ました。何でも防空壕に運べといそいでいると、たまには頭の上を音をたててとんでいきました。

 

うちはほんとに安全だな、と思いました。衛生的にも恵まれていました。軍作業にはいきませんでした。


戦後の心配

戦争中、私のうちには、よく兵隊が出入りしました。たいがいきまった兵隊で、それはもう「ものくう」主義でした。

兵隊がにわとりをもってきて、これをたいてくれということもありました。うちでは山羊を屠ってごちそうもしてあげました。中には、罐詰をぬすんできてくれる人もいるにはいました。しかし、恩義もない軍曹もいました。

 

部落の隣りにいたのは年をとった人ばかりの部隊でした。よく留守家族の話をし、子どもが何名いるんだと話していました。

 

終戦のときは残念でしたが、よかったという気もしました。それより、これからどうなるかという心配の方が大きくなりました。

 

心配の一つに、しだいに兵隊たちの気が荒れていくのがありました。兵隊たちはやることがないのですから、どんなことをしだすかわからないということでした。


兵舎の払い下げも始まり、復興をする頃でしたね、とてもこわい目にあったのは。
伍長と兵長の二人でした。近くの「オジイ」部隊ではなく、若い人でした。畑からの帰りをねらっていたのです。陽のある時間でした。素面です。まちかまえていたのです。


そのとき、私は夢中で叫びました。
「私は学生です。学生です」と。


その声に相手は気をゆるめたのでしよう。あやうい処で難をのがれ、私はうちへかけてみました。うちの近くだったから助かったのだと思います。

畑の行きかえりは、こわくてたまりませんでした。

 

五、離島におけるもう一つの戦争

大神島

常駐する軍隊はいなかったが、耕地面積の狭小から来る食糧事情は宮古本島よりもきびしく調理の仕方をあやまれば死につながる様な蘇鉄さえも不足して来る。
医療事情はきびしく民間療法に頼るだけで機銃弾による負傷者を浜辺に横たえ、海水で傷口を洗ってやる事が唯一の治療法となる。軍事施設はなくともせまい鳥故に攻撃集中度は高く六十%の民家が焼失している。空襲による死亡者四名は当時の人口比から三十名に一人の死者ということになる。(友利恵勇)

 

島内の蘇鉄もなくなって

大神島 久貝吉一(二五歳)

昭和十八年、体が弱かった私は徴兵検査で丙種とかで一度は不合格になったのですが、それでも戦争が激しくなると、召集令状が来ました。佐世保の海軍に入隊したのですが、そこで肋膜炎を思い除隊命令が出て、島に帰って来て病気を養っていました。


昭和十九年十月十日、大神の西の海を通って平良の港に軍の輸送船団が入港して行った。午前七時半ごろ、平良の飛行場や港の沖合と思われる所を米軍機が低空して行く。飛行場あたりから煙がまい上がる様子を見た。船が燃え出したらしく天をつくような黒い煙が大神島からも手にとる様に見えた。空襲とはそんなものかと、めずらしくもあり、木の上に登って見ていた。九機の飛行機が、タカが舞う様にぐるぐる輪を描きながら池間島、狩俣部落、島尻部落の上空に近ずきました。そのうちの一機が編隊からはなれ大神島の方向へ近ずいて来た。大神島は小さな島だし、陣地もないしここだけは安全だと思っていたのにここをもやるつもりだと、あわてて木からすべり落ちる様におりた。あっと云う間に飛行機は真近かにせまり、近くの石垣に身をかくすひまもない。近くにいた、ウプバー屋の久貝金三(当時十七歳)がうめきながらたおれた。飛行機が耳をつんざく様な音を残して島の上を通りすぎた。耳と眼をおおいその場に伏せ、気がつくと、背から血を吹き出した金さんがもがいているのです。あわてて背の傷口から吹き出る血をとめようとしたが止らない。間もなく、ぐったりして死んでしまった。部落中が大さわぎとなり、浜辺に、魚網を干してあったから、陣地の擬装と間違えたのだと云う事になり、その日から、網を干してはならないと云う事になった。浜のくりには、カヤの葉をかぶせて、上空から見えない様にしたが、一度攻撃目標にされたせいか、沖縄本島への通路にあたるせいか、町を攻撃した飛行機は大神島も空襲した。結局、三十戸のうち、十二戸の家を残して、全部焼けてしまいました。当時数少なかった瓦ぶきの家で新築して三年しかならない辺土名さんの家も焼けてしまった。そこの長男の金次郎は小学五年生でしたが弾の破片が背中にあたり泣きわめく子を夜になるのを待って、クリ舟を出し、狩俣に軍医がいるとの事で、そこへ運び破片を抜きとってもらった。

 

根間屋のおばあさんは、孫の子守りをしている所を、いきなり飛んで来た空襲機におどろいて逃げまどい、男の子と女の子は機銃弾で即死、おばあさんは卵で大けがをしたのです。パイヤーのおじいはロケット弾で死んでしまいました。狩俣の軍医の所は負傷した人やマラリア患者でいっぱいだとの事で、とても手がまわらないとのさりとて、町の医者の所まで、けがした人々を運ぶにも往復の海上は空襲をさけて夜運ぶにしても、宮古本島に渡ってから、どうやって医者の所まで負傷者を運ぶのか、乗りものはないし夜があけたら途中の道はあぶないとの事で、結局、医者に診せる事も出来ず次々に死んで行きました。

 

空襲でけがした人もみじめでしたが、マラリアに思った人も大変です。家を焼かれて、学校東側のカミカギ穴やナカスダ穴、その他岩かげ等に生活しているせいか、湿気とヤブ蚊にやられ、マラリアに思る人々がふえて行くのです。発熱と共にものすごいふるえを出すのです。ふとんらしいふとんもないまま、チョチンガー(米俵の麻袋)をかぶせ、アダン葉むしろをもかぶせるのですがふるえが止らず苦しみ通しでした。

 

戦争が激しくなる前は、大神島内にもイモは豊作していたしそれを分け合って食糧にしていました。相次ぐ空襲で、甘藷の植付けも出来なくなりました。残り少ない甘藷を掘りに行って、伊佐松臓さん(当時五十五歳)はロケット弾でふきとばされました。島の裏側の畑で甘藷掘りしていたのです。初めの低空飛行して来た時は、くわをほうり出して岩かげにかくれた様子です。飛行機が通りすぎたので、安心して又掘り出したらしく旋回して来た飛行機に気付かなかったのです。喰うものがなくなっていたせいもあって一生懸命掘っていたのでしよう。狭い段々畑にロケット弾を二発も撃ちこまれ、畑から数十メートル離れた所に吹きとばされてたおれていました。島中の人で探したのですが股の所に弾の破片がつきささり死んでいました。

 

まわり四キロばかりの小さい島の事とて、飛行機がいつどこからとんで来るのか、それを警報する事も出来ないまま、海面すれすれに飛んで来て特に島の裏側から襲われると逃げるすきも与えない状態で、畑作業は危険なものとなったのです。甘藷の植付が出来なくなれば、もう喰う物がありません。島中に生えている蘇鉄は所有者がきまってしまいました。それも次第に欠乏して来ました。ウプ島(宮古本島)には大神島対岸の島尻方面から、南静園あたりにかけ蘇鉄が野生しているとの事でした。夜、くり舟をといでウプ島にたどりつき、カヤの生い茂げる中に分け入ってそれを切りたおし、夜が明けぬうちに浜まで運び続けました。調理の方法をまちがえれば中毒死する事もわかっていながらその蘇鉄さえも、小さな離島では不足していたのです。

 

大神島ウヤガン祭もとだえて

大神島伊佐時蔵(三十九歳)

宮古本島に日本軍が来た頃、大神島へも兵隊が何回か来ましたが、陣地を作るにも島が小さすぎるせいか常駐する部隊はいませんでした。

 

漁撈班を作れという軍の命令で、佐良浜の青年三人と大神島から狩俣栄吉さんが加わって四人で魚をとっていました。兵隊が島に来て、自分たちは海には行かず、浜で待ちかまえていて、とって来魚はみなもって行くのです。たまにくり舟に乗って、一緒に沖に行く事もあったのですが、兵隊たちは自分たちでもぐろうとはしなかったそうです。舟の上で漁をするのを見ているだけで、とった魚を、ごまかさないかと監視の役目をしていた様です。

 

島にいる男性には若いものは召集されていなくなり当時四十代の私にも防衛隊入隊の軍命令が来ました。大神島から十六名行きました。狩俣部落の西側にあった部隊で、蒋介石に似たわら人形を銃剣で突く訓練を受けました。

 

大神島が空襲されているのを狩俣見台の岩にいて見ました。島の裏側から土煙がもうもうと立ち昇り、丁度その時は畑で甘藷掘りしていた伊佐さんが吹きとばされて死んでいたのです。帰島許可をもらって、くり舟をこぎ、大神にたどりつくと西の浜で人が五、六名がやがやさわいでいた。島内で戦争による犠牲者が出た事を知りました。相次ぐ空襲の中で、島内で待機する様命令が出ました。

 

空襲が日を追って激しくなってからも、大神島は海にかこまれていて、海の魚で生きて行かなければなりません。飛行機の来ない空襲のあい間を見て、海におりるのです。いつ飛行機が来るかあぶないから、遠い沖合には行けないのです。島の近く、東北部せいぜい一キロくらいまでが漁場になります。そこに海面から突き出たきの子状の岩があります。空襲が来たらその下にかくれる事ができるのです。

 

二十年の一月頃でしたが、朝の空襲飛行機が去るのを見とどけて、魚とりに行きました昼の定期便が来るには間があると思っていたら、予想しているいつもの時間より早く空襲機がとんで来たのです。くり舟をこいで島にたどりつくには間に合わないし、その岩かげに飛行機の来る方向から身をかくしていました。島の東北部海岸に直経十メートルばかりの巨岩があり、その岩の下を掘って防空壕にしていました。家を焼かれた人々が住んでいましたが、その岩をめがけて急降下して行くのです。岩は海から見ても周辺に散在する大小の岩で人影は見えないのに、その岩にロケット弾を撃ちおとして行くのです。四散する岩の破片が海中に落ちて行くのが見えるのです。島の半数の人はその岩影にかくれているはずです。飛行機が去るのを見とどけて、大急ぎでくり舟をこぎ帰り、浜にあがるなり大声で呼びながら、岩にかけより岩かげの穴をのぞきました。大さわぎしながらも皆無事でした。岩の真上に弾は落ちていたのです。攻撃される直前に、逃げおくれた子供があとから入って来たとのことで、その子を発見した飛行機はまともに岩に向けてロケット弾を命中させた様子でした。海面から盛り上がる様に小高くそびえた大神島では、少しでも動くものがあれば飛行機からはすぐ発見できたのでしょう。岩が厚かったおかげてその子を含め、島の半数の人々は命びろいをしたのです。


空襲下の漁撈は沖にいる時も命がけですが漁を終えて帰って来てもくり舟は擬装しておくのです。カヤを刈りとってそれで覆かくしておくのです。風が出て、カヤが吹きとんでいたら舟をこわされるし、生活手段を失なう事になるのです。

 

西のパマサキ浜にくり舟をつないであったのでカヤの葉が枯れていたし、それを換えに行きました。新らたにカヤを刈りそれを舟にかぶせている時でした。爆音がきこえたかと思うと大きな飛行機が南の方から飛んで来るのです。あわてて岩かげにかけより身をかくしました。それと同時に爆弾が落され九十メートルばかり離れた海中にものすごい水煙が立ち上がりました。そこの部分の海は海底が砂地になっていて、砂の混った水煙りであたりが見えなくなってしまいました。もう少し近かったら、くり舟ごとこっぱみじんにやられる所で、飛行機が遠のくのを見定めて、逃げ帰りました。部落ではマツ(伊佐さんの別名)が西の浜でやられた"とさわいでいましたが飛行機からくりをかくしに行ってあやうく命を落とす所だったのです。

 

戦争が始まる前までは島の歴史始まって以来の長い伝統として続いていたウヤガム祭も、命あっての事だから、とだえてしまいました。最近、ウプバリ屋の次男、久貝金三氏を葬った所で洗骨の風習に従って洗骨していたら、左の背の骨に機銃弾がさびて突きささったまま、葬られていた。負傷したまま、弾を抜きとる手当を受ける事もなく死んで行ったたのです。

 

下地ビキは機銃弾で負傷し、戸板にのせて海岸ばたの岩かげに寝かせたままの生活をしていました、傷口を潮水で洗うだけが唯一の治療法でしたが、避難している影のそばに又爆弾が落ちあやうく死ぬ所でした。

 

下地ビキは機銃弾で負傷し、戸板にのせて海岸ばたの岩かげに寝かせたままの生活をしていました、傷口を潮水で洗うだけが唯一の治療法でしたが、避難している影のそばに又爆弾が落ちあやうく死ぬ所でした。


池間島

大神島とほぼ同じ条件下で、日本軍隊の常駐はなかったが、島の北西部に位置する当時の宮古島唯一の灯台とその付属建物は、十九年十月十日に始まる空襲以来の攻撃目標となる。灯台をはずれた爆弾が民家に落ち、灯台の建物は文字通り蜂の巣の様な状態となりその一部は今も現存している。
漁船の停泊港としての池間も空襲にさらされ、近在する池間小学校舎が廃墟同然になる猛爆下で三人の死者その他、負傷者、発狂する人が出る。(友利恵勇)

 

医療及び食糧問題をめぐって - 池間島

池間島前泊マツ(十四歳)

 

昭和十八年十月頃までは、戦争が勝つようにと島の大主神社に毎月八日に武運長久を祈りに学校の先生に引率されていました。十六年十二月八日に太平洋戦争が始って、宮古本島から神主が来たりして必勝祈願をしました。


小学校高等科一年生の頃です。皆モンペを着用していました。体育の時間は、空襲にそなえて、消火訓練と云って、バケツで送水作業をしました。水の少ない島だから、浜辺の海水を一列に並ばせ運動場まで送水しました。学習時間がほとんどなくなり毎日、その訓練をさせるから、とうとう手の皮がすりむけてしまいました。

 

十九年の十月十日に宮古に来た空襲の時は池間島は無事でした。初めは日本軍の飛行機だと思っていましたが、絶対に日本は勝つべきだと教えられていましたし、日本軍の輸送船もたくさん平良の港に入港して行くのが、池間島からもよく見る事が出来たし、そう簡単にアメリカの飛行機が来るわけはないと、おとなも云っていたのです。

 

そのうち飛行場あたりと思われる所に黒煙があがり、漲水港に停泊している船をめがけて、飛行機が無気味な音を立て急降下してバラバラと弾を撃っているのです。これは本物の空襲だとさわぎ出し、あわててガマ(自然洞窟)の中へ逃げました。その日の午後になって再び来た空襲で、港の船は黒い煙を出し燃えながら沈んで行きました。間もなくあの船は広川丸といって米を満載していたという事が伝わりました。米は配給制だったし、もったいないと云って、大人たちは、夜、沈船の米を引き揚げて来ましたが、沈められて数日たっているし、ものすごく、くさい臭いを出していました。私たちは”ウンコマイ”と呼んでいました。家々では庭先に、海水でふやけた悪臭を発する米を干す風景があちこちに見られました。西の浜に、空襲でやられた船の人が死体となって流れつきそれから間もなくして、池間島のみず浜のリーフの上に日本の飛行機が落ちたというのでそれを見に行きました。三人の飛行士が浮袋をふくらませて
泳いで来ました。神風特攻隊とか云っていましたが、その三人の飛行兵が、浜辺で泣いていました。

 

食糧事情がだんだんと悪くなり、沈船から引き揚げた、くさい米や、疎開した人たちの残して行った畑の作物をたべる様になりました。くさい米のたくわえの切れた人々は、蘇鉄の幹を食べる様にな栄養失調でやせとけた人が目立って来ました。次第に空襲が激しくなり、池島も連日の空襲にさらされました。

 

特に池間の北西にある燈台をめがけて宮古島へ飛んで来る飛行機は必ず池間島を襲うのです。爆弾がそれて、部落西側の民家に落ちたり、島の人々は、もう、部落の中には住めなくなり島の周辺にあ自然の中に住むようになりました。

 

東部にある、バリナウァブ、マウナウマガスシ、北部のトイナスアブなどに入り、それで部落中の人がいっぱいになると、今度はウプ主が墓をあけてそこの骨をのけ、失礼します”と云ってその中に住み込む様になったのです。今にして思えば、とても出来る事ではないのですが、人の骨を枕にして寝ていたのですから、おそろしい事です。
ただでさえ湿気の多い穴ぐらの中は、雨が降ると、ジトジトと湿って来る。水浴さえ連日の空襲ではできません。ノミとシラミは湧く様に出て来る。それをとるのが毎日の日課になっていました。それに加えて、ブトに喰われるとそこは化膿するのです。
逃げおくれて、負傷する人が出はじめました。内間のおばあ、利のおじさん、勝連のおばさん達は太ももを機銃弾でやられたり、腕をやられたり、離島で、医者にも連れて行けず、たとえ連れて行くにしても海を渡る事は危険との上もないし、連れて行った所で町の中に人は住んでいないと云うし、医者も居ようはずがないと云ってとうとう、そこが化膿し、くされてしまいました。

 

家も私の知っているだけで四軒燃えているのですが、送水訓練の時の様にバケツで運んで、消すと云うわけには行かないのです。飛行機は、確実に火の手が上るまでは機銃掃射をして燃えさかるのを見とどけるまでは去らないのですから。

 

池間の港につないであった漁船の重宝丸やその他の中型漁船のほとんどは、爆撃され、浜辺のくり舟にいたるまで、焼かれてしまいました。

 

軍の命令で、空襲下でも魚とりをさせられていた男の人たちが、機銃弾を受けてくり舟をこわされ、泳いで帰って来たと、もぐって遠く離れた浅瀬にたどりつき、そこの岩かげがあったから命が助かったと、話していましたが、私たちもおいつめられてやがてそうなるのではないかと、おそろしい思いでその話を聞きました。

 

燈台守で伊江島の人がいましたが、その人も召集されていなくなり、台長の土井長作という人が、燈台を離れて奥さんと一緒に島の人たちと壕の中に住んでいました。
灯台のそばにあったコンクリート作りの宿舎は機銃掃射されて蜂の巣のようになり、今でも残っています。食糧不足が深刻化して昼間は飛行機が飛んで来るし、夜月のあかりでいも植え作業をしました。

 

間もなく八月十五日が来て、終戦となりましたが、それからあとが、益々食糧が不足したのです。わずかばかりとれた小魚をアマダ(金網)にのせて焼きそれを平良の町まで運んで金に換え、その金でいもを買いに、宮古本島は島尻、大浦あたりまで行くのです。どこも食糧は不足しているから簡単には売ってくれません。足を棒にして歩きまわり、どうしても家にもって帰らねば喰うものがないから、わずかでも分けて呉れと頼み込みました。一軒だけ分けてくれる家があると聞いてそこをたずねました。忙しいからいもは掘れないと、もし、自分達で掘るなら分けてくれると云うので、夕暮れもせまる中を二枚分くらいを分けてもらい、有難く、そして心細い想いでいも掘りをしました。

 

今、子供たちに話して聞かせても“まさか”と云う。わからないのです。

 

指導員

池間島山里勝助(二十七歳)

昭和十八年当時、青年学校で軍隊の経験者と云う事で、指導員をしていました。月給四十五円でした。それで、イモ三十斤買うとも給料はないのです。生徒達の家から、いもを少しずつもって来てもらい、それで生活を支えるのです。父兄たちの間から"ムーガー教員"(いもの皮の教員)と云う言葉が囁かれ始めたのは、その頃です。

 

小学校を卒業して、満十五歳以上、徴兵検査前の二十歳までの青年を軍事教練しました。当時、三百名くらいの在籍だったと思います。

 

洲鎌飛行場建設

銃剣術や、腹ばいになって手と足で歩くほふく前進の訓練や、列行進の練習などを池間小学校の校庭で教えました。

 

十九年五月になって飛行場を宮古本島に作る事になり年長者を三十名ずつの四班に分け、下地陸軍飛行場 (現在の下地飛行場ではなく、陸軍宮古島西飛行場 (洲鎌飛行場) のことと思われる) へ引率して来いと云う動員令が、軍命令で出ました。

 

くり舟を漕いで、狩俣へ渡りつき、そこから下地まで歩いて着くには四時間はかかります。その頃は、空襲はなく道路は安全でしたが死にものぐるいで歩かないと、作業開始の時間に間に合わないのです。午前四時頃から起きました。

 

これでは時間の浪費が大きすぎ体も続かんという事で、下地に分散民宿しました。飛行場の周りに作業要員のためのバラック建ての宿舎が出来上りそこで寝泊りして毎日滑走路の整地をしました。五か月後に十月十日の空襲が始まりましたが作業要員を交替させるため、池間まで帰らねばなりません。道路を歩いていると、いきなり爆音が聞こえて来ます。そこがアダンバのヤブの中であろうと、そのとげに刺されようとかまっておれません。道路わきの茂みの中へ逃げてみました。息を殺して、じっと飛行機の去るのを待ちましたが、そこにむらがる蚊に刺され放だいになり、マラリアを発病する者が出て来ました。池間にはもともとマラリアなどはなかったのですが。

 

燈台下の浜で、軍の舟艇が空襲を受けて沈んだと云う知らせがあり、その救助作業ををしました。四人のケガした兵隊の手当をして、狩俣の浜まで運んだのですが、小さなくり舟の上でいつ来るか分らない空襲機を思うと気が気でなりません。やっとの思いで、狩僕の浜まで運ぶと、待っていた軍用トラックで運んで行きましたが、"ありがとう"、"御苦労”の一言も云わずに、運び去りました。狩俣に軍医がいる事は分っていましたが、民間人が、ケガしたり病気になった場合は大変です。そこの軍医が診てくれるかどうかが問題で、簡単には受けつけてくれないと云う事で草の葉などをすりつぶして民間治療法に頼っていました。


間もなく、私はマスパリの防衛隊に、召集されました。食糧をとって来いと云う事で、島まで帰る事になりました。夜道を歩いて浜までたどりつき、くり舟を出したのですが、上空で飛行機の音がして、暗いから見えないだろうと安心していたらいきなり真昼の様な明るさになり、機銃掃射をうけました。照明弾を投下して射撃するのです。弾にさえあたらなければ泳ぐ事は出来るのだからと、くり舟の中でじっとうずくまっていましたが、近くの水面にはじける弾の音がピシッピシッときこえるのです。今日はもう命の終りだと、覚悟した。夫の私が宮古にいるならと疎開命令を拒否して、池間島に残った家内は、小さい子供四人をかかえて、避難生活が大変です。家内は午前二時か三時に起き、一日分の食事の用意をして、むずかる子供達を起こして、東北の浜にあるミスパリまで歩かねばなりません。持てるだけの荷物をもって二歳になったばかりのヨチョチ歩きの長男をせきたてて夜が明けぬうちにまで着いていないとあぶないのです。

 

連日の空襲で学校も廃墟の様になりそのショックで校長は精神異状を来たしました。沖縄本島出身の人でしたが宮古があぶないという事で、沖縄本島へ引揚げさせた子供たちの安否を気づかってか、北の方向に向かって手を合わせ毎日すわり込んでいるのです。学校はメチャメチャにこわされているのに、そこを離れないと頑張っているのです。戦争が終ったあとも人の来訪があると押入れの中にかくれて会わない。極度の恐怖症にとりつかれていました。昭和二十年の末ごろ、奥さんにともなわれ、本島へ引き揚げて行きました。

 

食糧難

池間島 長嶺ミヤ(三十三歳)

トラック島からの引揚げ

昭和十八年 (1943年) 四月頃、トラック島より池間島引揚げて来ました。夫は日本軍に魚を供給する様命令されて、十七年間に築いた財産である中型漁船の二隻、鰹節製造工場、倉庫、従業員住宅、私たち家族の二階建の家屋と共にトラック島に残されました。

 

妊娠七か月の体に、二歳の長男と一歳半の二児をつれて、魚雷攻さて、曲がり曲って航海するために船は四十日もかかって横浜港に着きました。

 

潜水艦が電波探知機を使って発見するから、船から、塵一つでも落してはならないと厳しく命令されていたしこの様子では、無事日本までたどりつけるかどうかあやぶまれていました。どうせ海の上で死ぬのだと覚悟しながらも、小さい子供たちには浮袋をつけさせました。横浜港に着いてからは汽車の中でも、同じ目じるしの鉢巻をしめさせられ、トラック島や、航海中の様子など話してはならぬと申し渡され、スパイがこの中にもいるかも知れぬと、物も云わさぬ状態で監視の人をつけて、神戸まで送られました。
池間に帰ってからお産をしましたが、過労と栄養失調で、あばら骨が数えられる状態で、乳も出ません。


間もなく池間も空襲を受ける様になり、島の西海岸にあるカナバタツといわれている自然洞窟に避難しました。島の前里地区の人々が三十名ばかり一緒でしたが、ヤブ蚊が群がり、子供たちも良く寝ない。うちわでそれを追いながら、寝かせつけようとつとめるのですが私もしたまま睡眠時間は三時間くらいしかとれません。そのうちとうとう上の男の子が発熱してしまいました。初めは微熱でしたが、薬らしい薬もないままから出して良い空気を吸わせて日光でもさせたいのですが、続けざまに来る空襲のためにそれさえも出来ませんでした。壕の中に身動きのとれない状態で、とうとう悪化させてしまいました。

 

子供の泣き声を出したら、飛行機が聴くと云われ、たまたまはじける様な機銃弾の音におびえた子供たちが泣き出すと、それ見た事かと、子供たちのために皆死なすつもりかと云われるのです。夫さえ一緒におれば、こんな肩身のせまい思いをせずにすむものをと思いながらも、どうしようもありません。そのうち男手のある家は食物も違って来ます。空襲のあい間を見ては魚などもとって来る、ウンコ米と云われていた、くさい米でもとって来れるのです。苦労すると人からも見捨てられるものでしょうか、私たちは着物を食いものに換えて何とか食いつないでいましたが、食糧のゆとりがある家は、私たちを見るに見かねてか壕から出て行きました。同じ境遇の人たちだけが残り、食糧確保の出来る人たちは別の壕を求めて去って行ったのです。

 

喉からさえおとせば、おなかは分らないと蘇鉄の枠を食べ、雑草を食いつなぎ、一分間でも、一日でも生きながらえねば、この子供たちもろともたれると思いながらも、乳児と病気の子供をかかえていては身動きがとれないのです。水だけ飲んで過す日が続きました。粗末な食べものが、水に混るのですからとうとう胃をこわし、ひどい下痢におそわれました。水だけが、音をたてて、体の中はげしい勢いで通り過ぎるのです。体の色が黒ずんでしまいました。思いあまって、壕の近くの畑にあったラッキョーを盗って来ました。それを知られて、おこられ、つらい思いをしました。

 

あの時の病気をこじらせて、その後も長男は病気がちとなり、十三歳の頃はとうとう脊髄カリエスに移行してしまいました。

 

戦争が終って昭和二十年の末ごろ夫はトラック島から帰って来ましたが、自分さえおれば、戦争さえなければこんな事にはならなかったと、半生をかたむけたすべての財産を失ない、身体障害者となった子供を育てるのにいろいろ仕事もやって見ましたが、うまく行きません。イカ釣りに出かけたまま、とうとう不帰の人となりました。経済大国だといいながら、日本国は私たちの失なったものをどうしてくれるのだろう。

 

もしも、再び徴兵検査をするなら、私の子や孫には、そんな事はさせないと、斬るなら斬って捨てなさいと、徴兵に行くくらいなら白旗を立てて座っていなさいと、これを遺言にするつもりでいます。私たちと前後して、トラック島から引き上げる時、別の船に乗っていた宜保さん一家は魚雷攻撃を受けて船は撃沈され、小さなボートで一週間も漂流を続けて、十名のうち六名まで死亡して、姉はボートの中で死亡、生き残った者は、おしっこを手にためて飲み、生きのびている所を救われたとの事ですが、身よりもなく、一人で住んでいます。

 

来間島

山砲隊を中心とした警備隊二十名が常駐し、それに加えて部落の青壮年者三十六名が防衛隊として召集される。中飛行場あたりで効力を発した現地開発の地対空豊式砲からヒントを得たと思われる野戦用投射器の試作実験が進められ、その試射が山砲隊員ではなく、防衛隊員の手で行なわされる。それは暴発事故となり二人の人を無惨な死に追いやる。

陣地妨害という理由で島民住居の強制退去をせまり、蛋白資源として家畜類が徴発され、耕作地とり上げが行なわれた。模擬電波探知機を鳥の北岸に築いたため、そこへの攻撃が多くの流れ弾を民家に落とし、五世帯が焼失している。(友利恵勇)

 

来間島の出来事

来間島奥平文子(二十三歳)

昭和十九年十月、来間小学校に就職しました。十月十日の初空襲の折、対岸の下地の飛行場あたりをくり返し爆撃を加えていましたが、来間島には陣地はなくその日は、島は爆撃されなかった。空襲のあった翌日、来間島守備隊として、百二十名程の兵隊が、校舎を接収して常駐し、校舎の中での授業を行なう事は出来なくなりました。

 

父が間もなく病死し、七十歳の祖母と、五十歳の母をかかえて、畑仕事も私がしなければならなくなり、学校を退職したのです。

 

初めのうちはいももたくさん植つけてあったし、主食に困る事はなかったのですが、今度は祖母が病床についてしまって、日に日に弱って行くのです。栄養をつけてあげようにも、魚や肉を買う金がなく、空襲機が飛んで来る前に朝六時頃起きて、浜辺や崖の下をカニを探し歩いて、一匹でも捕えたら、それはもううれしい。カニがとれない時はアーサ(ひとえ草)をとって来ておつゆを作り、医者に診せる事は出来なくとも、これで少しは命をのばす事が出来ると毎日夜明けの涙を歩きました。

 

植付けたいもが残り少なくなり、主食にも事欠く状態が考えられました。平良の町で、北部あたりにトーモロコシを持っている家があるという話をきき、大事にとっておいたカボチャの大きなのを二個かついで交換しに行きました。

 

いつとんで来るか分らん飛行機におびえながら、海を渡って平良まで行くのは命がけです。一升程分けてくれたそのトーモロコシを手の皮がむけるまでひいて、蘇鉄の幹の戦い所をむしりとり、それを粉にしてまぜ、うすいおかゆを作って節約しながら食いつなぎました。野菜などは全くなくなり、いもづるの葉や、春ののげしを食べました。

島に来た守備隊は北岸一帯に陣地の構築を始めました。作業中の兵隊が上空から発見されたらしく、激しい空襲が始まったのです。ウツボという少尉が腕に負傷し、アダンバの下に逃げこんだ伊良きく(当時二十歳)は右足に貫通銃創をうけ不具 (ママ) の体となりました。今、沖縄本島に住んでいますが義足をはめています。

 

空襲が来たら、何かの下にかくれろと教えられていたから、私は縁側で、机の下に隣家の女の子とかくれた。急降下して来る飛行機の不気味な音と共に目に見えて前の空屋敷の土を弾が掘り返して行くし、家の東側の大きな桑の木を貫いて行くし、石垣に当って破裂して赤い火花を散らし石を砕いた。おそろしくなって早く止まないかと、その女の子とふるえていた。


二十年六月。夕方、畑でわずかばかり残っているいも掘りをして、刈りとったいもずるを引きずって畑の溝におろし、暑かったので相思樹の木陰に休んでそこを出ようとしたとたん、飛行機の爆音がしたかと思うと、爆発音と共に体ごと吹きとばされ、ひっくり返った。何事かと不安になって急いで部落へ帰ると、学校北隣りの国仲昌行宅と、奥平滑光宅にロケット弾がうちこまれている。あれだけ離れていたのに、体ごと吹きとばす力があるとは、信じ難い様なおそろしさを感じた。私だけでなく、ほかに畑にいて爆風でとばされた人がいたと、あとで聞いた。


兵舎になっていた学校近辺に六発のロケット弾がうちこまれていた。艦砲射撃を受けた日、軍艦の群れが部落の東部の海を通って行った。宮国東部あたりにずらりと並び、上空で飛行機が一機飛んでいるのが見えた。「あれは友軍だ。心配するな、演習をしている」と守備隊の兵隊は云う。

 

そのうち、今まで何回も受けた空襲の時の音とは違う爆発音と激しい地響きで家はゆれ出し、ただならぬ事と思っているうち、来間島出身の防衛隊の人たちが、「友軍ではない、敵のカンポーだ!穴に行け!」と教えてくれた。家の戸じまりもせず、あわてて逃げた。二、三枚の衣類と預金のあるらしい家はその通帳を大事にもって自然洞穴の中に二、三軒ずつ、上陸におびえながらひそんでいた。

 

山砲隊の地対空豊式砲実験

七月二十六日。いもを喰べつくしたあと、わずかばかり植えてあったコーリヤンを収穫し、その幹を切り倒し、薪にするため束ねて頭にのせて帰って来た。家の近くまで来ると普段と様子が違っている。西側の道から吾が家の前まで兵隊が包囲して、通しそうもない。頭上の薪を道ばたに落して、部落の外側を通って、伯父の家に行った。暑かったからその屋敷の東にまわり、ひと休みしようとこしかけたその瞬間、ものすごい音で何かが爆発した。生徒のもつカバンくらいの鉄のかけらが目の前に落下して来た。飛行機も飛んでいないし、不思議に思って道路にとび出ると、部落中の人がワーワーさわいでいる。何事かと思って家の方へかけて行くと、さっきの兵隊たちがそこら一帯をとりかこんで入れてくれない。吾が家が目の前にあるが家にもはいれない。ふと家の東方を見たら、そこの大きなヤラブの木に肉片が骨ごとくっついてぶら下っている。一体、誰がどうしたのかと、兵隊をつかまえて聞いたら、この島の人が吹きとばされたと云う。ひと晩中そこを兵隊は包囲している。その夜のうちに話が広まって行った。

 

三メートル四方の穴を掘って砲を据え、交替でこれを演習させることだったらしい。最初に兵隊が簡単に説明しただけで、実際にはやって見せずに出て来たらしい。三人穴に入っていた来間出身の防衛隊員のうち一人は顔色があざめ、ぶるぶるふるえながら穴を出て来た。中にいた二人がそこでやられたらしいと噂が広まって、実は、豊式砲とか云うものを作ったので、それを実験すると云って南の方に向けて撃ち出したが、それが穴の中で爆発したらしい。最初は守備隊の兵隊にやらせずに、来間出身の防衛隊員にやらせた。これが事件の真相だったのです。

 

あの頃、兵隊と云ったら、ほんとにこわくて、皆が尊敬しているものですから、一言の文句も云えなかったのです。軍隊というものは信じていたし。

 

その事件のあった場所は現在の公民館の南、字来間二十四番地の南の空地です。山砲隊の実験で死んだ人の名は、砂川芳江さんと、高原秀雄さんです。年が若かったせいか、ガタガタふるえて穴から出て来て命びろいした人は来間栄一さんです。

 

夫の死

来間島砂川ヤマ(三十六歳)

山砲隊の地対空豊式砲実験

「バーン」と地響きのするものすごい音をきいた時、私は子供たちと家にいた。驚いて末の子のテルを抱きあげ、家からとび出した。長女が人の群っている方へかけて行ったが、泣いて帰って来る。

 

「兵隊が砂川と云っている」「砂川と云ったら泣くのか!」「お父だと云っている」......気が動転して爆発音のした方へかけて行ったが、兵隊は近づけようとしない。ガジュマルの枝をつぎつぎになぎ倒し、それでおおいかくし見せようとさえしない。明日葬式をすると云い私の夫の死を知らされた。

 

機銃の弾が味噌がめを割ってしまって、これが戦争だと思っていたら、大切な夫が、あとかたもなく、遺体の影さえ残さず、無残に四散していたのです。

 

その日から四人の小さい子供と夫の両親をかかえての私の生活が始まった。次男は父のおもかげは知らん。二歳だったテルは死んでしまって、チフサガーアブ(洞窟)に岩のしずくに打たれながらの、夜も昼もない生活が始まった。

 

葬式だけは部隊がやってくれたが、骨やら肉やら集めて火葬して箱に入れて渡したので、それをムト(先祖の墓)におさめたが、大工の使うハンマーで、豊式なんとかを試運転するといって自分たちはかくれて、薬莢の先に木をとりつけて南の方へとばそうと、それをたたかせたと聞いているのに、隊長は詫びにも来ない。セキド中尉、ウツボ少尉は、顔さえ出さない。遺骨箱を渡しただけ夫が死んで九日目には空襲がなくなり二十日目に戦争は終った。

 

山砲隊

新城影昌(二十五歳)

来間島に山砲隊が一コ小隊、歩兵隊が一コ中隊、工兵隊は陣地設営のため一時駐屯していた。その兵隊のために漁労班として魚とりをさせられた。石坂という軍曹を班長につけて久松から徴用されて来た人と四人で網を使って追い込み漁をして一日平均五十斤くらい水揚げがありました。軍曹がついているから自分たちでとった魚を喰う事も出来んのです。東の海で漁をしたのですが、飛行機の来襲があると海中にとびこんでくり舟をはなれ、海にもぐり、息を殺して通りすぎるのを待つのです。今、海面に浮上すると舟ごとやられると思うとほんとに必死の思いでした。


その日は、やはり漁に出ていて、豊式砲の爆発事件の事は知りませんでしたが、ハンマーで信管をたたいて発射させる原始的なものであった様です。

 

島の北岸の断崖の上に擬電(模擬電波探知機)を構築して、そこへ爆弾を投下させて敵にむだ弾を使わせるつもりが、三、四百メートル離れた民家や畑に落ちるのが多くて、家畜類が数多く死んだ。機銃掃射で家が焼かれ、前里タマ、砂川玄徳、仲宗根良吉、国仲昌孝、福原武一の家などが全焼し、池間正紀の家は北側の壁を焼かれた。陣地妨害といって人の住んでいる民家を立ちのかせ、来間興仁、来間栄一、長閒盛央、大宜味春市、大嶺文男、砂川輝夫の家は立ちのきさせられ、畑の番小屋や、陣地から離れた親戚の家に身をよせていた。

 

島の北岸にあった山砲陣地から、上陸して来る敵を撃つのにじゃまになるといって強制立のきを命じたのです。

 

空襲

来閻島川輝夫(九歳)

強制立ち退き

来間六五番地の家を立ちのかされて、親戚の家に家族四人身をよせる事になりました。父は召集兵として八重山へ行ってしまい、当時の食糧事情の事もあって母は食いざかりの子供三人を抱えて大部気を使っていた。

 

陣地内立入禁止になって近ずく事もできなかった吾が家へ戦争が終って帰って見ると、サミガー兵隊たち(疹癬だらけの兵隊たち)は、のみとしらみだらけの家にしてしまって壁という壁は一枚残らずはがして、すぐには住めないありさま。北の陣地からの見通しを良くするためとはいっていたが、物干場に使っていた。

 

空襲で部落内に大型爆弾は落ちなかったが、ロケット弾や機銃掃射で人が二人負傷したほか、機関銃の弾が馬の鼻を貫通したり、足を折ったり家畜は数多く死んだ。それに加えて兵隊が舟艇で牛を毎日のように運んで行くのを見た。小さい牛は山中にかくして軍の徴発から救った。

 

人の被害と乱伐された造林の損害は、最近になって政府が調査したが、家屋と家畜の損害は調べていない。何らかの方法で補償してもらいたいものだ。

 

防衛隊

17歳 - 信管を叩くよう命じられ

来間島来間栄一(十七歳)

昭和十九年、満十七歳で、防衛隊員として動員されました。当時は二十歳で徴兵検査を受けた徴兵適令期の男性は現役兵として召集されて島にはおらず、島に残った十七歳以上四十歳までの男性三十六名が島に駐屯して来た日本軍守備隊に編入されたのです。女子青年は看護隊員として動員され接収された校舎で応急手当法や担架の担ぎ方の訓練を受けたほか、一週間交替でクリマガーの東側にある大きな岩影で玄米つきの作業をしていました。


民間の所有している畑に立札を立てて立入禁止にし、兵隊が麦を蒔き、昨日まで自分の畑だった土地が自分で耕作できないのです。それでも国のためと云って文句を云わさない状態でした。


来間に来た山砲隊が、宮古本島豊部隊で対空砲として作ったいわゆる式砲からヒントを得て野戦砲の試作をして、その実験試射をしたのは昭和二十年7月23日です。そのための三人一組の班を四つ編成しました。午前十時頃、第一斑、奥平清光、保良春栄、大明昭の班が学校南西のアバサバリ近くの穴から撃ったのですが、発射された弾は目標をそれてはるかに飛びこえ、西バリに落下したのです。その着弾地点から十五メートル離れた地点には、家を強制立ちのきさせられた私の家族が畑のそばに仮小屋を作って住んでいました。姉のキクが部落内にしかない井戸まで行って頭に水桶をのせて運ぶ不便な生活を八か月間も強いられていました。もう少し弾がそれたら一家全滅する所でした。


この豊式とか云う砲はどこへ弾が落ちるか分らん危険なものだとその時から感じていました。午後三時頃、第二班、高原秀雄、砂川芳江それに私、来間栄一の番が来ました。
直経五メートル、深さ一メートル五十センチ程の穴を掘り、そこに砲を据えました。砲身の長さ五十センチ、直経十五センチくらいの鉄円筒の先にふた又になった鉄筋の足を熔接しただけの簡単な構造です。その中にブリキの薬莢に黄色と青色と黒色の紙に包んだ三種類の火薬を装して砲身に挿入する段になったのですが、これがすらりと入ってくれないです。これはいよいよ不思議な砲だと思いました。ねじむ様に押してもうとすると、砲を支える鉄筋の足の部分が穴の底が岩盤になっていてその支柱の部分をうめこむ事も出来ず、ぐらぐら動いて安定性がないのです。これはますます危険だと思うと、午前中の事もあってこわくなって来ました。私が釘打ちに使うゲンノウで砲身の基底部に三センチくらい立ち上っている信管をたたく役目ですが、手が堅くなって、力が抜けてしまうのです。発射用意完了の相図をして何秒かたちました。目標を定める係だった高原秀雄が、穴の外にいましたが、私の顔色を見たのか「お前は上れ」と云い穴へ下りて来て、私のにぎっているゲンノウをとりました。年若く最年少者だった私は云われるままに穴から外へはい上って出ました。

 

ウツボ少尉が「何故出て来る」とどなっていましたが、そばを離れろと云うし西側の民家奥平清吉の家に兵隊たちは集まって見ていましたので、その家までかけて行き、そこへ着くと同時に、「撃て!」と云うツボ少尉の合図の声がしたかと思うと、耳をつんざく様な爆発音がして、穴のあたりがこっぱみじんに吹きとんで見えなくなったのです。まい上る黒煙と土煙の中にまっさきにかけよりました。人も砲も影も形もなく、キナ臭い火薬の臭気と血のにおいがあたり一面に立ちこめ私はそこへ座りこんでしまいました。ついさっきまで一緒だった秀雄兄、芳江姉が肉片になってそこら中散乱してしまったのです。


その爆発事件以後、第四班まで予定されていた試射演習は中止されました。
もっと残酷に思ったのは、その二日後の夜です。死んだ高原秀雄さんの裏の道を、兵隊たちが、何事もなかった様に、大声を張り上げて歌を歌って行くのです。軍歌でした。兵隊たちは島に来た当初から耳にたこができるくらい「お前たちの島を守りに来た」と云っていました。

 

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