『沖縄県史』9-10巻 戦争証言 名城

 

以下、沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に簡易な文字起こしで公開しています。文字化け誤字などがありますので、正しくは上記のリンクからご覧ください。 

旧真壁村 名城(PDF形式:535KB)PDFを別ウィンドウで開きます

 

っての入口にいた人びとは、無惨な大量殺戮が行なわれたようである。

 

また新垣タツさんの記録にウンザー壕というが語られるが、壕の中に川が流れていたり池があったり、珍らしい横穴が何百メートルかしらないが、地下を通っているらしい。
新垣タツさんの記録は、僅か四百字詰十六枚そこらの短いものであるが、注目に値する重大な問題も含んでいる。九人家族から数え年十七歳と十六歳の孤児二人だけが戦争から生き残っている。戦争のために、父母と五人の兄弟を僅か、一、二か月の間に失い、孤児として成人するということも人の心にとまることではないだろうか。

 

新垣力メ (四十一歳) 主婦

アバサーガマを追われて

艦砲が始まった時には自分の部落の後の壕に入りました。アバサーガマといいます。家がなくなったのは、艦砲がはじまってから、しばらくは経っていましたが何日ということはわかりませんが、大体十日くらい後だと思います。

 

とにかくおうちが無くなったものだから、自分のうちでは御飯炊きもできなかったので、アバサーガマの近くに姉さんの家がありましたから、艦砲が止んだ時には、姉さんのうちへ通って、ご飯炊きして、激しくなったら壕の中に入って、そうしている中に、春子という自分の娘が亡くなったので姉さんの家から葬式しました。あの子はずっと病気していたので、姉さんのうちで亡くなりました。自分はこの子も抱えて、二人の子供を抱えて、壕と姉さんの家とを行ったり来たりしていました。

 

妹とおばあさんに、壕で子供たちを見せて、たまには妹とわたしと二人、畑に行って芋を取って来たりして食べ物を持って行ったりしましたが、わたしが炊事をして壕へ行って、また姉さんの家へ帰って行ったら姉さんが艦砲にやられていました。艦砲は家のそばに落ちていたのですが、破片が飛んで来て姉さんはお腹をやられて、腸なんかも出ていました。その時は大雨が降っていましたが、妹が畑に芋掘りに行っていましたので、自分は被りものを被って(傘をさしたのではなく、浴衣みたいなのを頭から被ったのだと推察される)畑までさがしに行ったら、畑には、いないで、自分の壊されたおうちに鍬や鎌を置いて、いませんでしたが、雨がやんだので、また行って見たらほかの壕にいたといって帰って来ていました。あの時は自分の兄さんも元気でありましたからね。それで姉さんを、少し傾斜した畑の真中に蘇鉄がありましたが、それを利用して葬りました。

 

その時三人の兄弟は、この戦争は大変な戦争だが、三名の中、誰か一人は生き残るだろうから、生き残る人が姉さんの跡片づけはやるようにしようね、といって、姉さんを埋めてから上って来ました。


それからこのアバサーガマにも入れないようになったもんだから、自分らの部落の前の道のそばに穴があるので、あっちへ夜から行って、あんまり暗いもんだから何か入ってはいないだろうかと兄さんに様子見ていらっしゃいといい、誰れも入っていないよといったもんだから、夜からあっちへ移動しました。

 

註、伊敷実さん説明。アバサーガマというところは、艦砲が激しくなったので警防団が利用したり、また前線から来た兵隊が利用したりして一般民は入れないようにしたので、別の壕に移動したのです。そのためにあちこちに別れて行ったわけです。

 

カメさん そうして部落の前の壕にしばらく住んでいましたら、自分たちののそばのふたところに爆弾が落ちました。その時は、避難民が大勢来ていましたが、壕はいっぱいになって、そとにいた人もいました。男の人たちはさがしに行っておりませんでしたが、妻子は残されておりましたので死んだ人もおるし、怪我した人もおりました。子供は生きておるが、母親は破片に腹をやられて死んで、それでお母さんのおっぱいにすがって泣いている子供たちもおりましてね。男の人は帰って来ると、子供に「お前もお母さんといっしょになっていたらよかったのに」という人もおりました。自分の兄さんもいっしょでありましたが、兄さんは掌と頭と二ところを破片にやられて、私も頭の右がわを爆風にやられたので、ちょっと耳も聞こえなくなりました。

 

あの時は三歳になる娘をかかえて、この壕から出ました。そうして人の屋敷の大きな木の下に、昼は暮して、それから時間が経ってから人に目立たない奥の屋敷の大きな木の下に、二、三時間くらいいて、また自分のうちに戻って来て、今度は、三男西川門という家の屋敷に壕がありますので、そこに入りました。


その壕にいる時、大人の人たちが、「あなたがたの子供、あんまりこんなに泣くから、あなたがたの子供のために、の人みんなが大変になる」というたもんだから、自分たちはこの戦でどうにもならないだろうと思いながら、三つになる乳飲み児と子供二人をつれて、おばあさんと妹と二人を残して壕を出ました。わたしは自分が生んだ子でありますし、またお父さん(夫)から、乳呑み子はどこまでもあなたといっしょだよ、と言われていましたから、この壕の東に空き屋敷がありました。その空き屋敷の後の方に大きな蜜柑の木がありました。それでこの蜜柑の木の下につれて行って昼中は遊ばしました。


そうしたら、あの焼夷弾を落す飛行機がこっちへ来てから、それを落したので火事が出はじめて、向こうまでバラバラ、パラパラ、家一つも残さないような火事が出ておりました。この火事が出たとき、飛行機は上から飛んでいましたよ。わたしはこの飛行機を見ながら、この子供等二人をつれて、いま壕へ入ると壕を見つけられるからと思って、蜜柑の木の下に坐っていました。


そうしていましたら、カミーシル小(屋号)のおじいさんがおうちから、わたしの名を呼んで、「おい、カメ子よ、クシンナカリ(屋号)は火事出ているよ」といわれたから、「おじいさん、あれは大変だよ、飛行機が飛んでいるから今壕に入ったら大変だよ」といって、おじいさんを自分のいるところに待たして、飛行機が飛ばなくなってから、このおじいさんも壕に入りました。

轟の壕で

それからわたしもこっちではいつまでも子供たちを遊ばされないと思って、壕に自分たちも入りましたが、子供たちがあまり苦しそうであったので、また壕から出ました。そうして、子供一人は負んぶして、ひとりは抱っこして、自分の部落の前に甘蔗畑がありましたから、この小さい子供たち二人をつれて、三つに四つですから、一人は負んぶして、一人は抱っこして、甘藤畑から甘蔗を折って来て、またこの空屋敷の蜜柑の木の下に来て、甘蔗の皮を剥いてやって、遊ばすのですが、また夕方なったら洞窟の中に入って、それを繰り返していました。この壕は水はない。食べ物が無くなったら後は水を飲んでも生きられるからと思って、トドロキの壕へ行きました。木のある葉をさがして行かねばいけないと思ってあの壕に入ったんですよ。


そうしてトドロキの壕に入ったら、あっちへ自分はお米を持って行っていたが、兵隊に取られたか、誰に取られたかわからなかったが、持っていた食べ物をほとんど取られてしまって、豆とハッタイ粉だけが残っておりました。ハッタイ粉は砂糖と交ぜて、一斗罐に持っておりましたので、豆は炊いて食べることができませんでしたので、ハッタイ粉を水に溶かして食べておりました。


そしておる時に、友軍の兵隊が「三歳以下の子供を連れている人は出なさい」といいましたので、わたしは、四歳になる子は姉さんのうちで亡くなりましたが、三歳になる子はつれておりましたので、出ました。そうしたら、友軍の兵隊は、「年が若ければ子供はいくらでも産むことができるから、三歳以下の子供は自分自分で始末をしなさいそうしないなら、こっちが斬り殺して捨てるから」といいました。

 

そう言われましたので、自分の産んだ子を斬り捨てさせるわけにはいかないからと思って、自分はこの子をつれて、壕から上に出左がわに壕がありますよ。壕といっても大きな岩の下のへこんだところですが、こっちに入っておったら、あまりグラマンが激しく飛んでいました。ここは、兵隊も避難民もいっぱいしていましたので、飛行機はそれを目がけていますから、爆弾を一つ二つ落したらこっちにいる人は全滅するよりほかはないと思いました。それで、こっちにいても死ぬんだし、同じ死ぬなら、もう斬られて死んでもいいから楽に入らないといけないと思って、命がけに壌の奥へ行ったら、下には兵隊さんが入れないように守って塞いでいるもんだから、自分たちはいま入らないと、あのグラマンがあんなに飛んでいるのだし、爆弾をいま落したら死ぬよりほかないと思って、斬られてもいいからと、押し落して、下の方に、力いっぱい自分は命がけになっているもんだから、押し落したら、ぐっと下にさがって道が開いた。それで上につづいていた人たちも、みんなこの壕に入るようになりました。

 

そして入ってしばらくはこっちで暮しておりましたが、そこから出されて、ウッカーの東がわのウンジャーというところ、糸洲の裏ウンザーという壕に入って、あっちに入って夜は自分の畑に芋掘りに来て、照明弾なんかが上った場合は、畑に伏せてから、その明りがなくなって芋を掘って、旅のいっぱいずつ持って、それは自分部落の姉さんの家に置いて、煮てから壕には芋を持って行ったりして、しばらくは、ウンザーの蝶に住んでいました。

マヤーガマ

そうしたらわたしたちのお父さん(夫のこと)は防衛隊で宇江城におりましたから、防衛隊の家族は大隊本部の前につれて来なさい、こっちが保護して上げるからと命令があったということで、みんなつれに来ておりましたよ。そうして、最初は宇江城のマヤーガマというところに、マヤーガマというところは、下は広いが天井は木造の家の造作のように薄いもので、この上に艦砲でも爆弾でも一発でも落ちたら、この壕の大勢の人が全滅するがねと思っていますが、その中にはまた、何といいますか背嚢みたような肩に掛けて持つもの、急造爆雷というものですか、あれも沢山積んでありましたよ。この壕の中には。その壕にわたしたちは避難していましたがね。でもまた宇江城のお家にご飯炊きに行って、この三歳になる子供を負んぶしていてご飯を炊いていると、門のところに艦砲が落ちたので、これは三つ四つ落ちるというが、このままにしていてはいかないがと思って、自分は炊事場に子供を負んぶしたまま匐ってしばらく様子を見ていてから、こっちから逃げ出した。自分たちの壕へ行く途中に橋がありましたよ。その下に入って避難していて、艦砲がすっかり止んでからマヤー壕に戻りました。


しばらくこのマヤー壕に避難しておりましたが、夫が来て、そこはいからみんな大隊本部のちに来なさい、といったもんだから、あっちへ行きました。そうしたらあっちはいっぱいしていました。わたしたちのお父さんは、怪我していてね、手も貫通されて、顔も頭も、怪我していました。そこでしばらくいましたが、こっちも激しくなって、また浦添の方からの兵隊さんが大勢来るというので、兵隊といっしょにいると却って危いと思って、またトドロキの壕へ行きましたよ。そうして行ったら、自分たちは、いっしょになっておったよね(同席の伊敷実さんへ呼びかける)。トドロキの壕へ来たのは二回目になっていたんですが、わたしたちが来ない前に、アメリカーはもうこっちに来ていたんですね。アメリカーがの口に最初は爆雷を入れてそこにいた大勢の兵隊たちがやられたそうです。その後でドラム罐にガソリンを詰めて、あの時にトクミイジ(屋号)のウシーお母さんたちは焼け死にしましたね。ドラムいくつと言ったかな。

 

そうして前の方の部隊はやけどしていたもんだから、こっちではあぶない、奥の方に下ろうといって、奥というより中の方にね(そういう時は、実さんに訊くように)、あっちにしばらくは避難して、もうこっちでもよくないからといって今度は奥の方に、水をこれくらい(足のくるぶし)ついて、その時からはいっしょでしたね(また実さんへ呼びかける、実さんも、あの時からいっしょだったという)、上から垂れた石をつかまえて、奥の方へ行った。あっちでは長らく避難しておって、夜も昼もわかりません。水は自分たち最初、桶があったね(実さんに確める)。それに上から落ちる水を溜めて飲んだり、またご飯炊いて食べたりして、またそれで間に合わなかったら、上から流れて来る水なんかも飲み、飯を炊くには、豚脂のある人はそれで炊くし、水の上に浮いている板を割って…

 

実さんが代って説明。包丁でその板を薄く削って、それに豚脂を塗って、ですよ。これも脂がある間は燃えるが、あとは無くなると燃えないですから、煙が立つわけですね。それが、みんながいっしょになった場合には煙がいっぱい立ちこめて、蝋燭がつかなくなるわけですよ。明りも近べんしか見えないですよ。窒息するんですね、それでご飯も炊くな、自分の前が見える程度の火をともせというようなことになったですよ。それからもうご飯も炊けずに、今度は、あの大豆ですよ、豆ですよ、これを火の中に入れて、脂がジイジイ沸ぎるのに焼いて、それを食べていたわけですよ。

 

そんなにして、しばらく避難していましたら、もう自分は元気がなくなって夜も昼も眠れないようになっておりました。衰弱しておったのでしょう。水に漬かり通しではありません。水の中を出はいりしているのですけれど、上からはずっと水が落ちつづけていますし、しょっちゅう濡れたものばかり着けておりました。筵を一枚持っておりましたが、これも濡れて、そのままですよ。そうしていたら、子供も、顔が見えないもんだから、ずっと首筋から脊骨へ手で、脊骨がどれくらいとんがっておるかねえ、子供はどれくらい痩せておるかねえ、とさわって見たりしました。わたしはもうおっぱいも出なくなっているもんですからねえ。絶えずこの子のことが心配になっておりましたよ。

 

この子は食べるものはありませんでした。ミルクも盗まれて、大きなミルク、これも闇(統制の目をのがれての秘密売買)で買ってありましたが、二個、これも盗まれてしまって、味噌汁やお粥を炊いて食べさせるようにしましたが、この子は、まだおっぱいばか飲んでいましたので、食べ物はあまり食べませんでした。子供はほとんど自分の背中に負ぶっていましたので、顔も見られないので手でどれくらい痩せているかねえ、と顔も絶えずさわっていましたが、わたしもあとでは元気が無くなり、その時はこの子供を自分のそばに寝かしていましたが、そうしましたら、わたしは気を失ったようになりました。気がついたら、そばにくっついて寝かしてあった子供がいません。下に落ちて行ったのがわからなかったのです。秋子といいましたが、手さぐりであちこちさがしてもおりませんので、お父さんに、「秋子は、わたしのそばに寝かしてあったがいなくなったよ」といいましたが、わたしも元気がなくなっていますからねえ。そうしたら、お父さんが、「ああ、いないのかい」といってさがし、そして上から流れている水際まで落ちて行っておりましたので、わたくしのお父さん(夫のこと)が行って下からつれて来ましたが、この子はそれから二、三日経ってから亡くなりました。泣く声もなくなっておりました。しかしおっぱいを含ますと吸いおったんですよ。

 

実さん発言。乳呑み児は、元気を失って、泣き声もなくなって、それから、いつの間にか亡くなりましたよ。

 

カメさん そうしましたら自分の夫が、「どうだもう特攻隊しよう」というんです。そとに出ることを特攻隊といっていました。それでわたしは、「お父さん、あなたがはじめに死んだら、もうわたしもおしまいですよ、出てはいけない」といいました。

 

「特攻隊というても、あっちの様子を見に行くのだから、出られるようであったら、あなたがたをつれに来る」といいましたが、わたしは、「あなたが死んだらわたしもおしまいですよ、それならいっしょに死んだ方がいい」と同じことをいいました。

 

そういっておりましたが、いつの間にか、みんなが、「こんなにしていて暗いところで死ぬよりは、自分たちもほかに出て、お日さんを見て死んだ方がいいから、もう出よう」といって、これから出ることにきまって、行きました。真中あたり途中に、あの兵隊たちがいたね(実さんへ呼びかける)、友軍の兵隊たちが看護婦もいっしょに、女もよ。

 

実さん そうです五、六名くらい。途中まで出て行ってからここで止められたんです。みんなで相談して出るようにはなっていたんですが、夜の十二時に来いということを昼の十二時と間違えて、後ろの方にも戻れないし、時間もわからないし、それであしたの夜の十二時にしか出ることはできないから、帰りなさい、というので、じゃあもとのところへ帰るくらいなら、この水の中に漬かっていて一夜を明かしていいからというので帰らないで、水に漬かっていたわけですよ。

 

カメさんその時、友軍の兵隊たちが言うたんですよ。「あのね、あなたがた出たら、若い男はね、松の木に手をくくりつけて釣るし上げたり、それからきんたま取ったり、また若い女慰安所につれて行かれるよ」といったもんだから、わたしは慰安所というのをわからなかったので慰安所というのは何かと言ったら、「慰安所をわからないか、アメリカーのオモチャになるさ」といったもんだから、それでは大変だなと思って、でもこっちで死ぬよりは、「日の光」を見て死んだ方がいいと思って、あれ沖縄の娘たちだったね(実さんへ)、若い女たち看護婦と若い兵隊さんたちが五、六名くらいおったので、あれたちのところにちょっと休んだ。あの時は子供は死んでいましたよ。この死んだ子供を一日半ぐらい抱っこして水の中に漬って来たもんだから、もう今日出るという時からは、いい匂いはしなかったんですよ、自分の子供ですけれど。しかしこの子供はずっと自分の体の熱で温めておるもんですから、固くはならなかったんですよ。生きた人のように柔かかったんですよ。

 

それから上の水のない方へ抱っこして来たが、こっちに埋めたら、この壕は大雨になると流されるというから、どんなにしてでも自分たちのこの子はこっちから出して、自分の畑に埋めようね、自分の畑のところに艦砲の穴があるのを以前に見ていたから、そこに埋めようね、と話し合って、壕の中には埋めませんでした。

 

実さん 一日おいて壕を出る時は夜明けですよ。その壕は入口は広かったのですが、出る時は米軍に爆破されていて出るところは人間が一人匐って出るくらいに狭くなっているんですよ。そこから一人ひとり手を引っ張って出して・・・。(ここで新垣さんと実さんが、いっしょに出た時の屋号を一軒いっけん数え上げる)。

 

カメさん 一しょに出たのははっきりわかるのは十所帯くらいでした。名城のほかの人はいません。自分たちはずっと後でありましたよ。そうして自分たちが出る時には兵隊は、砂糖甘蔗を折って来て食べながら穴の中に帰って来ましたが、「もう、夜明けですよ、静かに出なさいよ」、と言って穴の中に入って行きました。出る時には、出口に来たら月の光りで明るくなったね(実さんへ)月が出ていたね、二十七、八日の月でしたね。新の何月何日ということはわからなかったが、兎に角月が出て、夜明けでありました。それで暗い中に、自分のお父さんと二人で、子供を自分の畑に埋めて来ました。月の出ている様子から見て、旧の二十七、八日の月でないかね、と思ったんですからね。

 

実さん お父さんやお母さん、病人たちは、元気のある若いものが土を上げて、その上におるようにするのです。水は真中から流れているんですが、みんなが上にいたら土がすべって、上にはいられなくなるわけですよ。それで元気のある者が水の中で土にもたれて寝たり、十二時間くらい水の中で眠りましたよ。岸に腕をかけて、腋まで水に漬って眠りました。やはり眠ることができますよ。水の流れている真中は首まで漬かるくらいでしたよ。ちょっと越して行ったら、坐って休めるくらいの場所もあったですよ。

 

カメさん 真中におった時ですが。大きな鰻はいないかね、と考えることもあった。出ない前、自分たちは出るといってウッカーからアナ川に渡られるからということで、捜しに行かしたし、また天井に穴をあけてこっちから出ようといってガンガンあけようとしたんだが、穴は上からあけられるが下からはあけられない、下かあけるといって大変苦しみましたよ。


実さん 出口から出たら兵隊が全滅させられるから、君たちはここから穴をあけて出て行け、と兵隊に言われたので、一応やって見んといかんといって、穴をあけようとやったわけですよ。下から穴をあけるということは大変ですよ、石が上から落ちて来て。

 

カメさん 高い石があるからその上にあがって行ってから、天井あけて出ようとしたら、石だからあとは水の流れているところまで行って、しまいには、岩と岩の下から水ばかり流れているところへ行っていた。

 

われわれがこの壕を出ている間にガソリンで焼かれた時は、こののいっぱいだったそうですよ。避難民から、兵隊から、部落の人避難民はずっと中頭へんからの人たちで、こっちいっぱいでしたよ。

 

実さん 首里あたりからも壕を追われて来た人たちが、いっぱいで、相当死んだそうですよ。


カメさん 自分の隣りに坐っていた人が、この戦は北から来てるから、今度は北の方、山原へ逃げて行こう、と話していましたよ。あの時はこの壕はいっぱいしていましたよ(第一回目の話で爆雷とガソリンはその直後に打ち込まれたらしい)。

 

これは部落の前の壕にいた時ですが、兵隊が来て、民間の人が食物持っておるからわたしたち兵隊は食はないでは戦することができない、食物をよこしなさい、といいましたので、わたしは食べ物は命だから、何であなたがわたしたちの食べ物を取るか、この戦は生きるか死ぬか、二つに一つだからあなたが殺すのであれば殺してもいいよ、絶対食べ物ははなさないよといって頑張っておったら、自分の兄さんは、兵隊のいうことをきかなかったら首を斬られるよ、というので、わたしは斬られてもいいから、この食べ物を取られたら、自分の家族、兄弟みんな亡くなるからね、絶対やらないと頑張ってやりませんでしたよ。


ここでトドロキの壕の内部についてみんなで話し合う。このは名城の背後に口が開いているが、そこから、東の方、伊敷部落の方へ通じ、もっとあちこちに壕がわかれているらしい。壕の中に大きな池のようになっているところもあったり、地表に近く、上にいる人の声が聞こえるところもあり、新垣カメさんや伊敷実さんたちがいた奥は、トドロキの口から三百メートルくらい伊敷の方向へ行ってだろうとのことであった。


わたくしたちは、子供を埋めて来てから、小川というところで浴びて髪洗ったり、着物を洗ったりして、濡れた着物をきて、食べ物もないから、水のあるところをさがして行こうね、といっていまのビーチ(名城ビーチ)のあるところへ行くつもりであった。その時鍋一つと釜一つは持っておりましたから、妹と隣の子と二人に、夜が明けたら、水汲みには行かれないから、こっちから釜のいっぱいは水を汲んで来なさいといいつけて、自分等の部落の井戸に水を汲みにやったら、何か浮いているらしいね、と覗いて見たら、へんなものがあるようなので黍で突いて見たら死人が浮いていたそうです。それで水を汲まないで戻って来ていましたから、こっちから前に進んで行きました。そうしたら友軍兵隊が何か食べているところへ行き合いました。そこからちょっと南の方に歩いたら浜辺に出ました。そうしたら火を燃やした臭いがするし、またアメリカーの匂もするので、何かアメリカーが利用しているのでないかなあ、と思ったそうです。もう月は明るくなって、あちこちに砂をもり上げてあるんですね。何かこれは隠されてないかと思って掘って見たら、全部罐詰を埋めてあったそうです。これは罐詰だといって、みんな持っているが、わたくしは、元気がなくて、食べたくもない、取て持ちたくもなかったから、取らなかったですよ。


そうしてこれを持って、今のビーチのところへ行って見たら、また妹とほかの女の子に、夜の明けない中に、あなたがた二人行って昼中飲む水を汲んで来なさいといいつけました。そうしてわたしは、藪になった木の下に入っているからね、といって入っていました。そうしたら後から来た人たちは壕がないから、わたしたちはどこに入るかね、とみんな困っていましたよ。わたしも自分たちのお父さんが、後になって来なかったからね。自分のお父さんはどうしたのかな、と心配していると、そこへ水汲みに行った妹ともう一人の子と二人が帰って来て、「姉さん、向こうから兵隊が二人来るが、友軍の兵隊か、アメリカの兵隊かしれないが、二人鉄砲持っているから、姉さん早くここから出なさい」といい、わたしは、「あなたが二人は見られているから、わたしはこっちに入っておると言うなよ」といってこっちに入っておりましたよ。そうしたら妹が、「姉さん、あなたこっちに隠れておったら射たれるよ、早く出てから姉さん手をあげなさい」というから、あの時からわたしは馬鹿みたいになって、手を上げることもわからない。それでわたくしは「いいよ、わたしは手を上げなくていいよ」といいました。ですけれど、あの時お父さん(夫)の顔が見えなかったから、「わたしのお父さんはどこへ行ったか」と言ったら、「あなたのお父さんは、北に向かって自分ひとり走って行くよ」とみんながいたので、わたしは妹へ「早く呼び返しなさい、死ぬならいっしょに死ぬから自分ひとり生きようとしてなぜ逃げるか、こっちに来なさいといって呼びなさい、死ぬなら家族全体いっしょに死ぬ方がいいから、早く来なさいといって呼びなさい」といって呼ばしたら、お父さんも来ておったんですよ。もうあの時からは夜が明けて、あっちこっちからみんな人が集まって来て、兵隊は鉄砲持ってわれわれに輪をつくらして坐らしてね。最初は男の方、この方は中頭の人であったが、この人から体操させられたんですよ。体操させたから、わたしは、この人から殺して二番目はうちのお父さんかもしれない、うちのお父さんも大きいから、あの方は一番大きいから、あの方から殺して、二番目はうちのお父さんだなと思っていたら、殺しはしない。あのおじさんひとりを体操させて、こっちから浜辺へつれて行きました。

 

そうして浜辺のちょっと、上の上につれられて行ったら、あっちに戦車があったんですよ、一台。南と西に向かって戦車があって、この戦車の北がわに一列並びで坐らされたからね。「ああ、やっぱりこの戦車に轢き殺させるためにこっちに坐らすんだね」と思っていたが、しかし兵隊さんがお菓子を出してから一人ひとりにやったんですよね。わたしたちは、毒くれて死なす考えだから、食べるなよ、といってみんな食べなかったので、アメリカの兵隊は、それをあけて食べて見せたんですよ。それで「やっぱり食べ物ではあるんだね」と思ったんですよ。そうしてわたしはまた石鹸を渡されたので、「これは珍らしいね、見ては石鹸のようだが、こんな食べ物があるかね」と思って匂いをかごうとしたら、この兵隊が手を招いて、「ノウノウノウ」と石鹸であって顔を洗う真似をしておったんですよ。それで石鹸だねと思いました。

 

そうして一時はこっちで休んでから、またつれられて東がわに行って坐らせた。あっちこっちから人を集めて、友軍の兵隊、本土出身の兵隊なんかも集めて、来たら、鉢巻きしてふんどし一本はつけて、軍服はすべて捨てて。そうして、アメリカーが、ユージャパニーといったら、ジャパニーでない、オキナワというたら、まだ一人のお母さんが沖縄の方言で、「ドーリン、ノチダケータシキテ、クインソーレ」(何卒、命だけは助けて下さい)と、手を合していっていました。

 

こっちで人を集めたアメリカーは、今度はどこへつれて行くのかねえと思ったら、今度は自分等の部落の前からつれて行って、そこに井戸があるが、その井戸から水を汲んで、みんなかわるがわる飲ましていました。自分は元気がなくなって、みんなといっしょについて歩けませんでした。

 

それから、また糸洲の前のアカサーというところへつれて行かれたんですよ。行く途中に自分の兄さんたちの家があります。ビーチに行くところの東がわに、こっちの前に甘蔗みたようなデーク(幹竹と似て節があり中は空で、葉の生え方は甘礁にも似ている)。がありますので、自分一人は、この中に隠れようかと思いついて、隠れるつもりでしたが、あんまり水が欲しいので、兄さんのうちに行って、ゴミの入った汚い水をお皿で汲んで飲んだら、自分一人生きるよりは死なされるならいっしょに死んだ方がいいと思って行ったら、さっき話した井戸でアメリカの兵隊が鉄砲に紐をつけて水を汲んでみんなに飲ましていたわけですよ。わたくしも水を飲んで、それからまた上って行って小波蔵の前をずっと通って、アカサーというところにつれられて行って、こっちに収容されてから、自分はもう元気がなくなっているもんだから、みんなと別れてひとりで坐っておりましたよ。

 

ここで男の人には、君は防衛隊であったか兵隊であったかと聞きおったそうです。こっちでしばらくは休みましたが、また喜屋武の学校の下の松林につれられて行きました。歩いてですよ。

 

こっちでも生き残った避難民を収容しました。そうしたら、避難民を乗せて行く車が来ていましたよ。こっちで罐詰なんか渡されてねえ、食べてから、伊良波の方へ行く準備ができていましたよ。

 

それで車に乗せられて、伊良波に行く途中で、自分の家のそばを通りましたので、自分の家は道のそばでよ。家も家畜小屋も何もかも無くなっているが、こっちで車の上で手を合せて、両手の掌を合して、拝むこと)「自分たちはどこにつれられて行くか知らんから、おじいさん、おばあさんたちで、わたくしたちの身を護って下さい」と祈ってからつれられて行ったわけですよ。


伊良波へ行って、あっちで浴びたりなんかしました。そこで自分のお父さんたちは別々にされてしまったんですよ。しかしわたしは、お父さんが別べつに別れさせられたとは思わなかったんですよ。トドロキの壕の口を出ない前、一斗罐の中に、お金やら、それから、お金貸した証文、貯金証書なんか入れてあったのを、友軍の兵隊が来るのをアメリカーと考え違いして、それを捨てて無くしたもんだから、「お父さんは、やっぱり無くしたものを取りに行ったんだねえ」と思って、屋嘉に連れられて行ったのは知らなかったんですよ。それで、それを取りに行くというので途中で殺されはしなかったかねえ、と心配しておったんですが、中頭の方へ行ったら、屋嘉から来た人が、「あなたのお父さんは屋嘉にいるよ」といって知らされてわかりました。

 

註、三月十二日(一九七一)。名嘉所長は、本巻の口絵の撮影を、琉球政府行政府の広報課へ協力かたを要請したところ、広報課長富川盛秀さんは快諾を与え、その上、同道して頂くことになった。


撮影は喜屋武岬、喜屋武部落の二か所であったが、わたくしは、その帰途で、みんなと別れて、原稿制作中の名城部落の新垣カメさんへ、不明のことをただすつもりで、喜屋武へ向こう途中、連絡を取っておくことにした。今日は昼弁当持ちで畑仕事に出かけていられるが、場所は伊敷部落前の古井戸の前、ということであった。


撮影は、二か所、広報課のカメラマン平良幸七さんの熱心な技両発揮でやや時間を取りすぎた。それにもかかわらず、富川課長も平良さんも、伊敷の新垣カメさんの畑へ同道するとのことで、わたくしは恐縮したが甘えることになった。
名城部落の北の旧糸満町よりのバス道から東へ垂直に入る緩い坂を車は走って、右へ湾曲した道を上りつめると、伊敷部落前の平野が開けている。

 

部落へ入って人家もいく軒か通り越し、さらに進んでも古井戸はわかりそうにない。訊いたら、部落の本道から入る農道に沿うて、こんもりとした濃緑の森があった。部落本道から相当にはなれているが、そこが古井戸だという。

 

伊敷部落前面の平野は広びろと見わたされるが、予期に反して甘蔗は目につかない、ほとんどが野菜づくりと見た。車を農道に乗り入れて、井戸の森も行きすごした。広い平野には人影が全くないようであったが、それゆえに、農道から可なり遠くに二人の畑仕事の人が目についた。新垣さんにちがいないとの直感で、名嘉所長と二人は走って行った。そうしたら、富川課長と平良さんもわれわれについて来られた。

 

新垣さんは、潮来笠のように広い鍔のやや傾めに下った帽子の下から手拭で頰も包んで人参畑にしゃがんで、仕事をしていられたが、新垣さんが「わたしのお父さん」と絶えずくりかえして言っていられた主人は、一息入れているらしく畑に腰を下していられた。

 

わたくしは一見して新垣カメさんがわかって、二十八年前、「お父さんが死んでは、わたしは生きてはいられません、死ぬのも生きるのもいっしょですよ」と言っていた、あの時点で常に正しい人間性と情熱を持ちつづけていた四十一歳の新垣カメさんがわたしの頭に浮んだ。そうして今見る顔にもその輝きが光って見えた。

 

ちょっと思いつかない様子であったが、わたくしが、「お母さん、間もなくご本ができますよ」といったので、じきにわかって、挨拶を交わした。わたしはかねて準備してあったメモで、一つひとつ訊ねて、不明の点を明らかにした。広報課長富川さんとカメラマン平良さんも熱心にわたしの疑問解明に関心を寄せていられたようで、みまもっていられた。


二人の女児を戦争中失ったので、終戦になった時はご夫婦二人だけになった。いっしょであった主人のお母さん(おばあさん)は、中途から、長兄の家族といっしょになって、戦火を無事に切りぬけ、戦後も元気であった。長男は九州へ学童疎開させてあったので、現在は、南部の高校で、郷土子弟を教育する地位にある。

 

わたくしには、戦争で避難していた二十八年前のこのご夫婦の姿を目のあたり見るように、思い浮べながら、挨拶を述べたら、「またいつでも御出で下さい」と素朴な心を現された。先き頃の天気とは異り、快晴の沖縄の春の日であった。

 

伊敷 実 (十四歳) 小学校高等科二年

新垣さん方といっしょにトドロキ壕を出てからわたしたちは、ばらばらになって別れましたが、トドロキから流れるカド川というところがありますよ。ここで避難民が味噌を捨ててあったわけですよ。ご飯とか砂糖とかはもう食べても苦くなっていたが、ここで水を飲もうとした時、この味噌を水に溶かして飲んだんですが、あれが一番おいしかったですな。まだ子供でしたが、それはいつまでも忘れられません。

 

これから自分の畑へ行くのですが、その時は稲がよくできていたんですよ。自分等の畑へ行けば、その稲も取って食べられるからといって、下りて行ったんですが、もう日が昇る時刻に近づいていたので逃げることができないで、自分の家の甘蔗畑がありましたから、これに隠れておりましたが何といいますかね、先発隊みたいなアメリカーが、三十名くらい来ました。わたくしは隠れて見られないつもりですが、この甘蔗は焼かれていますから、頭隠して尻を出しているようなもんですよなあ。このアメリカーたちは探知機みたようなもので地雷を探していたのではなかったですかなあ。見らん振りして通って行ったんですが、電波探知機を担いで行ったもんだから、ちょっと行ったかなと思ったら、後の六名が、三十発入ている短かいカーピン銃を持って来て、すぐ後からパラパラ、パラパラ、ですよ。それでここで母はやられたんですがね。それから、どうするかと迷っている時に父が手を上げたもんですから....しかしこのアメリカーたちは撃つのは撃ったが、わたしたちが手を上げたらそのまますぐ行くわけですよ。そうして摑えに来るのは、カービン銃をうしろにして肩に引っかけてですよ。それから車に乗せられて行ったんです。

 

新垣キク (二十三歳) 家事

わたくしは国頭へ疎開しました。大宜味村の田港へ・・・家族四人でありました。こっちにずっといたのではありません。

 

アメリカさんが上陸して艦砲射撃というんですか。艦砲射撃で、もうこっちにはいられないから島尻に戻ろうか、どうしようかと迷っていたところに、家族を疎開させているおじさんたちが二人いらっしゃっているんですよ。このおじさんたちが、「島尻はどうもないから、島尻へ突破しようか」という話でありましたから、じゃ、女子供だけではどうしようもないから、わたしたちも男の力をかりて、ついて行こうということになった。途中の何とかいう部落に着きましたら、友軍の兵隊が、四、五十人来ました。その兵隊さんたちの話は、「戦争はもう長くて後一週間だから隠れて、辛抱しておりなさい」、ということでありましたので、そうですかといって、この久志村の何とかいう部落に避難しまして、十四、五日はいましたでしょうね。こっちの芋など取って、もうこれが無くなったもんですから、もうこっちにはおられないということになりまして、今度はまた金武村の惣慶に下りて来て、また惣慶のものを全部食べて、またこっちもないからということになりまして、名護へ芋取りに行きました。片道七里の道を往復して、芋を取って家族を養っていたわけですよ。


また名護の方も取って無いからどうしようかということになりまして、今度は羽地に戻って来て、羽地村の湧川(今帰仁村の誤り)という部落に避難していたわけであります。そうして避難しています時に、アメリカの兵隊さんに囲まれましてねえ。それで前まえから、女はアメリカの兵隊さんに掴まえられたら強姦されるとか何とか聞かされていましたのに、わたくしはもう摑まえられていたわけですよ。その時はおばさんたち三人とわたしと四人の家族がいっしょでありましたが、四人のうちでわたしが若かったんですから、アメリカ兵に掴まえられていますが、その時わたしは、自分の子供を負んぶしていましたので、お母さんを引っ張って行くなら、泣きなさいよ、といったんですよ。一人は妹で、一人は姉だったんです。おばさん引っ張られたら大変だよ。大きく泣きなさいよ、といいつけてあるのに、この子供たちも、恐がって泣かないのですよ。それで自分の負んぶしている子供をつねって泣かしました。子供を泣かしたから妹と姪も涙は出さないでわあわあ泣きました。それからわたしは、おばさんたちにも、おばさんたちは、わたし一人だけを引張り出させる考えですかと、怒ったわけですよ。そうしたらおばさんたちも、大声を出して、助けて下さいと叫びました。

田井等収容所

今になってわかりますが、憲兵といいますか、MP、あれの車の音が聞こえたので、このわたしを摑まえていた兵隊たちは、わたしをゆるして逃げて行きました。それでわたしはその晩は、人の家の床下に隠れて夜を明かしまた。わたしはそれから、こんなにしては暮らすことはできないから、自分一人でも、自分の家族だけでも捕虜になって行くからという決心がついたわけですよ。それで、おばさんたちも、あなたが行くなら全部いっしょに行くということで、今度は羽地の田井等とい部落に捕虜なって行きました。
捕虜なって、一度うちに行ってから、お母さんたちが、宜野座村(旧金武)の古知屋にいましたから、そこへ行っていしょになりまして、島尻へ帰りました。

 

わたくしたちは、最後の疎開で、大宜味へ行った時も着のみ着のままだったのです。
湧川でアメリカ兵に囲まれた時、三人だったんです。それでMPの車音でこの三人のアメリカの兵隊が逃げたもんですから、わたしはすぐに民家の床下に隠れたんですよ。

 

新垣タツ(十七歳)家事

わたくしの実家は、小波蔵に近い名城のはしになっています。お父さんは、ここに山田部隊(当時県民は隊の大小を問わず部隊といっていた)といって部隊がありましたが、この山田曹長さんと、とてもいい、お友達になってですね、何か軍隊の様子や、大和魂ということなど、山田曹長さんのお話をよく聞いていました。その時は、うちには牛もいればほかの家畜も飼っていましたので、牛も山田曹長さんに、部隊でつかって下さいといって上げるというような、よくこの山田曹長さんがうちにいらっしゃっていたんです。それで敵が近づくまでは、わたくしはお母さん、お父さんといっしょでありましたが、敵が近づいて上陸しましたから、お父さんはこうしていては、どうしても家族全部が助かるということは考えられないからといわれました。今度の戦争は、お父さんには、勝つという見込みがなかったかもしりませんがね、みんながいっしょに歩いたら、全滅ということになるかもしれないから、お父さんと親しい、警防団長で区長代理をしていて、軍とも手を取っていられるおじさんに預けようという話が出たんですよ。軍と手を取っているの安全地帯に戦争を避けられるとお父さんは考えたんだと思います。新垣清喜というおじさんです。


それで、その時からしばらくごたごたしまして、「何で、死ぬなちいっしょがよくないんですか」とよく話しましたけれども、お父さんは、「この戦争でみんながいっしょにいて、爆撃されて死んだら駄目だから、二人はわけて、あなたたちが死んだ時は、うちらが葬ってやる、また、うちらが死んだ時は三郎(タツさんのすぐの弟、年子で当時数え年十六歳)と二人で葬り方もさせるというお父さんの願いだから、それをきき届けてくれ」というたんですよ。自分はその時まだ子供ですから、「こんなに家族が別べつになるより、いっしょに死んだ方がいい」とうちはよく話したんですけれど、「こういう戦争の立場に当って、あんたたち親のいうことがきけないなら、もうあんたたちは今から子でもない、親でもないという、あのおじさんと行かないなら縁を切るから、あなたたち自分のいいようにしなさい」とよく話された。

 

あの時は月の出ている夜でありましたが、自分らのうちの後で、家族とも話し合いました。お母さんは、いっしょに連れて行こうという気持もあるようでありましたが、お父さんの言われたように、もう今度の戦争はこの調子では絶対みんなは助かると思われないから、あなたたち二人は行きなさい、といわれて泣く泣く別れてウッカーという壕へ行きまして、清喜おじさんに預けられました。

 

別れる時に、もしアメリカの兵隊さんに捕虜取られるくらいなら、耳も落して、鼻も落して、また女はいたずらするという話だから、こんなにされるよりは、これを飲みなさいといって、お父さんに劇薬を渡されたんですよ。同じ戦争のことだから、もしも捕虜取られるくらいならこれを飲んで死んでくれといって劇薬を渡されたんです。だけれどうちらはまだ子供ですから、何回もアメリカの兵隊さんが、壕の中に懐中電灯を持って照らして、出て来い、出て来い、と何度も来ましたけれども、その時も、この薬を飲もうという意志はなかったんですよ。死ぬということは恐いですからね。その時は兄嫁もいっしょでしたよ。

 

この時自分の弟の三郎は、出て来い、出て来いといってアメリカ兵隊さんが入って来た時ですね。うちは足にできものができていて動きができなかったので、一枚の着物で頭から被って隠れておったんです。その時三郎は捕虜取られるといって、出ているんですよね。友軍の兵隊さんと、アメリカの兵隊さんとの合間にですね。それで、わたしは、「あなたはこの際捕虜取られたら、二人はばらばらになって、どうしたらいいかわからなくなるから、どうにかして逃げてくれませんか、うちは歩くことができないから、もし出て行って、お父さんがおっしゃったように、女はいたずらして男は耳を落す鼻を切るなどということがあったら、この際大変だ、わたしは動くことができない、どこへも歩くこともできないからね。どうにかして逃げないとうちらだって二人バラバラになるよ、とちょっと話したんですよ、手真似も交じえて。それで三郎も逃がれて入って来ました。

 

それから、この壕の奥の方へずっと入って行きました。その時、川みたいなところを渡って奥の方へ行きましたからね。池みたい水溜りがありまして、こっちから来る水の流れが激しいもんですから、岩をつかまえて、背中には荷物なんかを背負って一歩、一歩ずつ、渡って行ったんですよ、奥の方へ。清喜おじさんもいっしょです。またその時は兵隊さんもいっしょでした。そうして渡って行ってからは、うちらが食糧や薪も取ることはできませんので、兵隊さんの世話になりました。ずっと奥の方にはまた水の溜った池があって、その一方のふちは通ることのできる壕になっていまして、ちょっと上って行くと、そこに水の溜らないところがありましたので、ずっとそこにおりました。
そこにおりますと、兵隊さんが、「空襲も激しくなくて、とてもシーンとしているみたいだよ」という話がありましたので、またこの奥の方から前の方に移って来ましてですね、川を渡って来て、こっちで長い間暮しておりました。十月の出る時までです。

 

食糧は、前住んでいたところへ移ってからは友軍の兵隊さんといっしょに夜行って、アメリカの罐詰なんかを取って来ました。友軍の兵隊さんは、トラックのいっぱいくらいの人数でした。民間の入は、わたしたちに波平のイク姉さんも、またわたしのいとこの栄吉さんたち。栄吉さんたちは、清喜おじさんに三名預けられて三名、うちらは二人預けられて二人と、また清喜おじさんたちの家族、おばさんたちは先きに捕虜取られまして、清喜おじさんと、清光君と三名でした。それから空襲も弾の音もありませんでしたので、波平のかたも四、五名見えまして、捕虜なって行く時はトラックの半分くらいの人数でありました。


捕虜になりましたのは、伊敷喜清兄さんというかたが、先発隊になって、いらっしゃっているわけですよ。葉の入口の方に、竹を二本切って、それに手紙をはさんでですね、もう戦さは終って、みん捕虜に取られているから、またあなたがたのお父さんお母さんがたもみんな元気だから出て来なさい、ということ。また清喜おじさんにも、もう戦は敗けて玉砕になってみんな穴から出て働いておりますから出て来なさい、という手紙がありましたが、兵隊さんたちが、「これはデマかもしれないから、絶対これに迷ってはいけない、この手紙がいう通り信じて行ったら、すぐ捕虜に取られるから絶対行ってはいけない」というんです。それで、二、三回そういうことの繰り返しですよねえ。

 

伊敷喜清兄さんは、捕虜に早く取られたんです。別に学校の先生などではありませんでしたが、名城のかたですから、アメリカの兵隊さんについていっしょに歩かれて、このは人間がいる、この壕はいないと、大体見当がついていられてだったと思います。二、三回はそのままほったらかしてありましたが、四回目くらいの時ですがね。「一応何時頃かには出て来て見なさい、いっしょに話し合って見るから、その時にお互に話し合ってしか実状はわからないから」とあったので、清喜おじさんと兵隊さんが一人、じゃまず出て見ようなあということになって、うちらは出ないで、お二人だけで話し合いに行かれたわけですよ。

 

それでこの喜清兄さんが、「どこどこから捕虜取られて、みんな中頭や山原へ行っておるけれども百名あたりにしか島尻には人はいない、百名も人がいっぱいしているが、住民はみんな働いているんですよ、もう壊に住んでいる方はいないですよ」という話がありましたので、それでおじさんも、星野という代表として行かれた兵隊さんも納得されまして、二日目でしたかね、出ました。車二台でしたから、民間は民間、兵隊は兵隊で、うちらは百名へ捕虜取られまして、兵隊さんたちは屋嘉へ行ったんですが、兵隊は二十名くらいでした。民間は十名あまりですね。うちら二人とみゆきさんたちが三名と、おじさんのお宅が何名かおりまして、十月の何日でしたか、月夜でしたがね、満月ではないですねえ、食糧取りに行く時に兵隊さんが、眠ってから行こうねえ、電波という線が張られているから、これを足で蹴飛ばしたら大変なことになるので、ゆっくりゆっくりして行こうといって、大変落ちついていました。甘蔗も食べてから壕の中に入りましたから、その時、朝の月夜でなかったかねと思うんですけれど。洗濯物をいつでも出して干していましたので、それを見当てられて、先発隊もいらっしゃっただろうと話しましたけれども。

 

お父さんたちは、壕で別れてからですね。それからは、あんまり出られないんですよ。その前までは、あまり激しくもないから、うちとウッカー間とを芋かついで行ったり、薪かついで行ったりしましたけれども、お父さんたちと別れて、その時からはもうお父さんたちとも絶対あえないわけですよねえ、壕の中に入ったきり、あんまり激しいもんですから、出られないで。


父母一行の動行

それでお父さんたちは、うちの叔父さんのお嫁さん、わたしからはおばさんになりますが、このおばさんの弟さん、わたくしとは血のつながりはありませんが、この三所帯がいっしょうに、今のビーチのあちらがわ、ビーチは手前になっているんですけれど、そこにいまして、暮していたらしいんですよ。六月ですか、玉砕になったのは。うちらと別れてから間もなく玉砕になっているのでないかと思いますけれども、はっきり月日はわかりません、その頃ではないかと思います。みんなが捕虜取られて行くのを見たそうです。それは、うちの叔父さんの嫁さんであるおばさんの妹おばさんが話していましたけれど、その方の主人がですね、この方が、「早く、もう大変ですよ、すぐアメリカに捕虜取られますよ、早く手榴弾を撃ちなさいよ、といった」ということです。それで、この方がそう言ったのでうちのお父さんも、手榴弾を取って投げたのかもしれませんね。

 

わたしは姉さん(いとこ姉さん、叔父さんの長女)によく訊くんですよ。「あなたたち、うちのお父さんが手榴弾を投げた時に、どうしたの」といったら、「みんなうつ伏せにしていなさいというたち、子供も親もみんなうつ伏せになっていたら、バンと大きい音を立てたのしかわからなかった」という話をやるんです。


その時に、うちの兄弟、文子、茂子、エイスケ三名は即死だったらしいですよ。文子はうちのすぐ妹、次女で数え年の十四歳で六年(小学校)を卒え、シゲ子は四女で三年生を終了して、エイスケは戦争がないと、八歳ですから小学校へ上っていたわけです。

 

お母さんは手首から切られてあんまり出血したもんですから、おっかさんが、ちょっと水を飲ましてくれよと子供にお母さんが叫けんだものらしいですよ。そうしたらいとこの姉さんが絶対お水やらないでよ、というたらしいんですが、お母さんがとても苦しそうで、何かお水を上げたら楽になりそうだのにという気持ちもあったかもしりませんけれど、着物の懐に隠して水をお母さんに上げたそうです。そうしたらそのまま、その場で、すらっと消えるように亡くなられたらしいんです。その時、手榴弾を早く撃ちなさいといったおじさんも即死したそうです。

 

そうして、富子と、また叔父さんの嫁さんですよね、それにうちのいとこの姉さん、たけ姉さん、きく姉さんの二人も助かっているわけです。もうこれだけは助かったから子供たちのところへ行こうねと話していたらしいんですよ。

 

それで夜になってから、うちらのところへ来る途中でおばさんもやられてですね。何か合図の弾だったらしいんですが、三発撃たれて後で、うちの富子、妹が額の真中を小銃でやられてしまったんです。三女で十二歳、四年を終えて、戦争がなければ五年生だったわけです。

 

お姉さんの話しでも、その時にさえもお父さんたちが、手を上げて出ていたら、こういうことはなかったはずだけれど、というんです。お父さんは、負けぎらいなものだから、いつも大和魂ということが、心の中に残っていますので、とことんまでも負けないで、この合図の弾の時も隠れようとしたからこっちは甘蔗畑の方ですよね、それでおばさんと、うちの三女とがやられて、こっちで二人とも葬られておったんですよ。

 

いとこ姉さんたち二人は手榴弾の時にもいたんですが、生き残ったんですよ。富子とおばさんはお父さんと二人のいとこ姉さんの三名で葬ったそうです。手榴弾で亡くなった人たちも、ちゃんとわかるように葬ってありました。

 

お父さんはどこで亡くなったかわかりませんよ。途中でおばさんと、うちの富子が亡くなったもんですから、おばさんが生きていたら、どうにか頼りになって行こうとは思ったでしょうけれども、おばさんも亡くなって、子供たちばかりだから、自分は妻子は死なして、歩くことはできない。みんな捕虜に取られて行くから、あなたたちもいいように捕虜に取られて行きなさい、うちは足の向くままに行くからね、あなた(叔父さんの長女のたけ姉さん)は、この子たち(キク姉さんと七歳になるたけ姉さんの従兄弟)をつれて捕虜取られていいようにしなさいね、といってそれから別れて、上の方へあがって行かれたそうですが、どこで亡くなったかわかりません。

 

いとこの姉さんはタケ姉さんで、三女のキク姉さん二人は兄弟でやはりわたしのいとこです。次女はわたしたちといっしょに清喜おじさんに預けられていたわけです。
榴弾で亡くなったおばさんの弟さんのスミ子という、あの時七歳の子はタケ姉さんキク姉さんといっしょに助かりました。

 

タケ姉さんに、お父さんは、富子とおばさんを葬った場所を、こっちはどこの畑で目じるしはこれこれだから、よく覚えて置きなさいよ、といわれたそうです。富子とおばさんとが撃たれた時は、伏せたそうです。それで、アメリカ兵がいなくなってから葬ったんだそうです。

 

お父さんが清喜おじさんに預ける時、捕虜取られるくらいなら、手榴弾であなたが死ぬ時にこの子供たちも薬を飲ましてでも死なすか、手榴弾で死なすかしてくれといったということもききました。この薬は山田曹長さんという方から貰ったと思います。その薬はずっと持っていましたが、捕虜になる時に捨てました。

 

お母さんたちの遺骨は、葬った時のまま、ちゃんとありました。それから、うちの子とおばさんの遺骨も葬った時のままに、奇にありました。富子は、前にお話ししましたように、額の真ん中に小銃弾が当って、その弾はそとへは出ないで、頭の中でくるくる廻ったのだと思いました。頭蓋骨の中は、ガラガラになっておりましたのに、その小銃弾が入って残っておりました。それで、妹はどんなにか苦しんで死んだんだろうと思いました。


おばさんの遺骨は、どの骨も完全でありましたから、どこをやられたのかわかりません。夜になってやられましたので、タケ姉さんたちも驚いてもいますから、自分のお母さんだが、よくしらべなかったのではないかと思います。

 

こう書いてあるのを読むと、新垣タツさんが淡たんと話したように思われるが、父母弟妹のことを話す時は、絶えず息を呑み、眼を潤ましながらの話であった。新垣タツさんの記録は、名城の部落座談会でも、その後での追加録音でも、いつも最後になって録音を逸したので、わたくしたち(名嘉所長)は、本月(七一年三月十八日、お訪ねして、録音した。畑仕事中をおつれして来ての録音だった。

 

 

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