『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 4

 

七、島ぐるみ戦争遂行に狩りたてられる

伊良部の概況

伊良部村は平良町の西方六キロたらずの海をへだてた伊良部・下地の二つの島からなる人口一万そこらの村である。両島の間はわずかに十余メートルていどの水路をはさんで近接しており、一つの島といってもいいほど。しかし南に位置する下地島無人に近く、村民のすべては伊良部島七字に居住している。字の位置は島の北部に池間添前里添の両字が小さな坂道をはさんで並び、佐良浜と総称する。なりわいは主として漁業である。およそ数キロへだてた南部の五か字は西から佐和田、長浜、国仲、仲地、伊良部と珠数状につづき、対岸の下地島にそれぞれ橋がかかっている。村民のなりわいは主として農業。北と南の人口はほぼひとしく村を二分したかたちになっている。村役場は南の中心地国仲字に位置し、国民学校は佐良浜と国仰におかれている。

 

このわずかに三八平方キロの小さな伊良部村全域に軍が展開したのは昭和十九年九月中旬。警察の指導で各戸ごとに防空壕を掘り、台湾への強制疎開がすすめられた直後のことである。独立混成第五十九旅団(碧部隊)およそ三六〇〇人、山砲隊二〇〇人。大本営の作戦命令で満洲」から移ってきた部隊は伊良部国民学校を接収して旅団司令部をおき、周辺部落に野営をはじめるとともに、背後の森林、原野一帯に巨大な陣地構築をはじめた。また山砲隊は、米軍の上陸地点として平良町大浦方面を想定、そこへ向け牧山附近に山砲陣地のトンネル掘りを始める。伊良部村への軍用資材はすべて対岸の平良から佐良浜の船着場に陸上げされた。船着場から軍用自動車の通る本道までの数百メートルにおよぶ狭く石ころだらけの部落内の急坂での運搬作業は、ほとんど佐良浜の女子青年があたった。

 

弾薬箱から食糧、資材等を坂の上で待機するトラックまで、婦人が頭上にのせて運びあげたのである。舗装されない急坂で弾薬箱を頭にのせて運ぶことは、如何に日ごろ足腰をきたえた漁村の婦人とはいえ、矢張り命のほそる思いがしたことは改めて言うまでもない。


教室を軍にとられた国民学校は各字で民家を借りたり自然壕をいかして何とか学習の場を確保した。しかし高等科の生徒は青年学校や一般村民と同じように郡内(宮古島)三つの飛行場建設作業に狩りだされ、また低学年をふくめた児童生徒のすべてが軍馬の草刈り、油脂燃料用のヤラブの実採取等に動員された。米軍の空襲がはげしくなってもこの作業はつづけられた。空襲をさけて未明に起き草を刈り軍の要求にこたえたのである。昭和二十年に入ってからは初等科五年以上の児童および高等科生はさらに、米軍の上陸にそなえて海岸の防るい作業にかりたてられた。とても学習をつづけられる状況ではなかった。

 

海空の補給路を断たれた軍は、食糧確保のため北の佐良浜では漁撈班を組織して魚介類を、南の五字では部落会長を通してサツマ芋、芋ヅル、野菜、味噌、醤油、塩にいたるまで供出を強制した。牛や豚、馬は全村にわたって強制的に買いあげている。連日の空襲下、防空演習、竹ヤリ訓練、陣地構築、防るい作業等にかりだされ、そのあいまに手がける農作業では、民間の食糧事情も日を追って窮迫していくのは当然のことであった。それでも軍は、供出の遅れや低下等が食糧事情の悪化からきたものとはみなかったようだ。あろうことか軍への非協力としてとらえ、部落役員を旅団本部によんで威圧し、かわって村民の信望あつい教師を部落会長に直接任命したりして、食糧の供出を強制しつづけたのである。軍は「教育もだいじだが、戦力を増強するためには兵隊に食べさせなければならない。このままでは敵がくるまえに兵隊は死んでしまう」と言い、部落会長を押しつけられた教師は「兵隊がみんな死んで、村民だけが生き残っても仕方がない。死なばもろとも」だと、字内に班組織をもうけて供出の無理強いをすることになるのである。このために深夜、家に石を投げられるという、村民の怒りうらみをかう破目になったりする。

 

碧部隊の主力は米軍の宮古島奇襲上陸の公算が濃くなったことから昭和二十年六月はじめに平良町添道方面に移動、宮古島北地区の防衛任務についた。しかしそれ以後も食糧不足を補うためにバッタ、アダンの実、野草採取等が児童生徒に強制されている。

 

伊良部村も他の町村と同様に昭和十九年秋から二十年夏にかけて連日のように米軍の空襲にさらされた。北も南も部落の中心地は爆撃をうけ、あるいは焼夷弾で多くの民家が焼けた。しかしなぜか伊良部在の軍はまったくと言っていいほど反撃をしていない。あれほど一般兵士はもとより村民をかりたてて陣地をつくり、海岸線に防るいを築き、あるいはなけなしの食糧まで強制供出させた軍がかんじんの戦闘において、米軍機を迎撃しなかったと村民の証言は一致して指摘している。一説には、迎撃することで味方の陣地の所在を知られることをおそれたのだろうという。彼我の装備の差があまりにはなはだしく、迎え撃つ状況ではなかったのだろうか。

 

戦後、軍の復員にさいして伊良部村の人たちは、国民学校はもとより村をあげて合同演芸会を催して労をねぎらい、送りだしているのである。一年前、盛大な歓迎演芸会をもようしたように。
(仲宗根将二)

 

部会長

伊良部村字佐和田大川恵良(三十七歳)

率先して家族を台湾へ疎開させる

伊良部村では昭和十九年七月ごろであったと思うが、警察の指導で防空壕を掘りました。伊良部国民学校は校舎にそって掘りました。あわせて校舎を擬装するために高等科の生徒がない、すべての建物にかけるとともにアダンの木を切ってきて全面的に擬装しました。敵に知られないようにということなので、窓もみんなおおわれてしまい、昼でも暗く授業もさしつかえるほどでした。そのつぎに来たのは疎開の命令です。強制疎開で、役場がいくら勧誘しても希望者がいないので、教員の家族から率先してやることが話しあわれ、ぼくと島尻実昌さんが率先して送りだすことにしました。そうすると親戚や近所の人も希望するようになり、南の五か字からは百世帯あまり台湾に疎開したと思います。うちの家内たちが出発したのは九月二~三日ごろだった。妊娠八か月の家内と女学校一年の長女をかしらに長男、二男、三男の五人。一升ビンに入れた飲み水や砂糖キビなども持っていたが、空きビンやキビがらを海に捨てたら敵の潜水艦にねらわれるからといって、それはもうきびしいものでした。

 

学校は旅団本部にとられる

九月の中ごろだったと思います。「満洲」から一個旅団の軍が入ってきました。混成旅団で四〇○○人くらいいたと思います。それ山砲隊一個大隊二〇〇人ていどが長山を中心に入ってきました。敵が上陸してくるのは宮古島の大浦湾あたりと想定して、牧山にトンネルを掘り、砲身の大きさだけ、大浦湾に向けて砲台がきずかれました。およそ八〇〇メートルのトンネル掘りに村民も毎日のように狩りだされたのです。何しろ岩盤で、トラバーチンだから大変でした。兵隊は夏休みの終りごろから少しずつ入っていたと思います。九~十月に混成旅団が入り、学校も接収されました。本部はのちに国仲部落の北方俗称ゥルカの自然を中心に芽ぶきの家をつくってうつり旅団長もそこにいました。空襲がはげしくなってからは学校や部落内にいた軍はみんなウルカ一帯の森にうつり、さらに部落の東側の御嶽のあたりに軍用の防空壕掘りがはじまりました。そのとき軍は校舎の床をはずし根太をとり雨戸をはぎとって防空壕に使いました。壕は大人が立って歩けるほど大きなものでしたね。

 

御真影を奉護」

学校は軍が接収したあとは使えなくなったために、校区を三つにわけて授業をつづけることにしました。このころ校長(本永透)は台湾に疎開した家族を見舞いに行って帰えってこず、東(伊良部・仙地)は私が主任になり、中央(仲)は御真影を奉護するために教頭の下地恵義さん。西(佐和田・長浜)は島尻実永さんが主任になって分担しました。東区では、伊良部部落の石粉をとった大きな横穴を避難壕にして、その西側の広場を体育の時間に利用したものです。初等科の一年生から高等科までを一か所に集めて強勉しました。防空壕に黒板をもちこんでの授業でしたが、体育は広場でやるので空襲警報を知らせるサイレンがなると急いで防空壕にかけこんでいました。

 

そのうち”御真影は野原越の壕にうつされ、交替で宿直警護にあたりました。学校ごとに割りあてがあって、伊良部校は隣校の佐良浜校とくんでそれぞれ二人ずつだったように思います。十一月ごろから通ったと思うが、ぼくは三回ぐらいやった記憶があります。敵機の攻撃をさけて、昼は平良(現とみや会館の下)と伊良部の往来はまったくなかったが、夜はひっきりなしに軍の舟艇が通っていたように思います。それに便乗させてもらいました。真ツ暗やみのなかを平良のかすかな明りをたよりにすすむのです。宮古本島内の学校は朝から夕方、夕方から朝までというふうに交替していたが、ぼくらは離島でしょっちゅうこれないので、夜行って翌日の夕方交替して夜帰える、一昼夜の当番でした。食事は近くの部落のフサンミや花切あたりからサツマ芋や餅を売りにきてくれたので大いにたすかったものです。洞窟のなかには小さなお宮をつくって、そこに宮古じゅうの学校の御真影”を安置してありました。その前の方に小さな広場があって石粉をきれいに敷きつめ、そこにむしろを敷いて寝ました。とても寒いものだから、一晩中タキ火をたいていました。

 

軍命で部落会長になり供出、作業を指示

はじめのころ兵隊たちは伊良部の人を野蛮人ぐらいにみていたようです。子どもは普通語もできないと非常に馬鹿にしていました。ぼくらのような教師は本土から来たものだと思っていたようです。これではいかんというので学芸会を催して認識をあらたにさせたこともあります。

あるとき旅団本部をたずねたところ、伊良部の部落会長が着剣した副官につるしあげられていました。師範学校を出た岩手県出身の副官であったが、なぜ軍に供出しないかと言って、それはひどいものでした。軍は食糧の補給ができないものだから、部落に何でも強制して供出させていた。サツマ芋、野菜、味噌、芋ヅル、あとは馬まで供出させて食べていました。しかし、そのうち空襲ははげしくなって畑仕事も思うにまかせない。民間もあるものを食べるしかない。はじめのうちこそ軍も「勝つんだから・・・」と言っていたが、そろそろ敵の上陸のうわささえ流れてくる。このさきどうなるかわからない。そんな状況だから軍への供出もはかばかしくいかない。そこ部会長を旅団本部に呼びつけてつるしあげたのだと思います。あとはぼくと島尻実永さんの二人が旅団長によばれ、「教育も大事だが、戦力を増強するためには兵隊に食べさせなければならない。このままでは敵がくるまえに兵隊は死んでしまう。すまないが部落会長をやって軍に協力してくれ」と、旅団長からじきじきに頼まれました。このころまだ学校は講堂の一部だけは残っていて御真影も安置されており、旅団本部もそこにありました。ぼくら二人は考えた。兵隊がみんな死んで、村民だけが生き残っても仕方がない、死なばもろともだ、と。それでぼくが佐和田、実永さんが長浜の部会長になって軍への供出を督励することになりました。ぼくは引きうけた以上、何とかやらなきゃいかんと思って、佐和田部落に三つの分会があるので分会に一人ずつ分会長をおき、その下に班長を何名かおいて食糧の供出に力を入れることにしました。軍も民もみんな一緒に生きていかなければならないんだからといって何でも出してもらいました。サツマ芋、芋ヅルはじめ、味噌も各戸に一斤、二斤と割りあてて出させました。しかし味噌も底をついてしまい、今度は軍は製塩所に圧力をかけてきました。塩だけは朝早く潮水をまきちらして昼太陽にほし、夕方塩分の濃くなった砂を集めてさらに水で流して炊くわけだから、夜でもできる。それも強制して供出させました。非協力的だといって、佐和田の仲地さん親子が軍に殴られたこともあります。


軍への協力は大人だけではない。国民学校の児童生徒もみな協力させられたのです。食糧をおぎなうための野草とり、山砲隊の馬の飼料まで刈りとりさせられました。これは軍から直接学校に、どこそこに集めておけと命令がくる。昼はあぶないから未明、夕方に生徒を引率して草を刈り指定の場所においておくと兵隊がとっていく。しかし空襲はますますはげしくなり未明にもしょっちゅう敵機が襲ってくるようになると、もう草刈りどころではない。万一子どもに犠牲でも出たらもう取り返しがつかないといって、あとにはことわったこともあります。


運命で防空掘りもしました。佐和田は長いを四つ掘ったが、敵が上陸して最後だという場合は村民残らず旅団本部を中心に集結しなきゃならんというので仲よりのところに掘りました。しかし一方では敵は佐和田の浜から上陸するといって、各所に散在する大岩の一つひとつに誰れだれがひそんで、敵戦車がきたら手榴弾をもって突っこむということも決めてありました。


部落会長になって一番苦労したのは、下地島の海岸線に戦車よけの石垣の防塁を築いたことです。何でも南大東島で同じことをやってきたとかいう大佐か中佐の提唱ではじめられたようで、伊良部村の七つの字に地域を削りあててきました。佐和田部落は下地島の西からずっと白鳥までがわりあてられ、仕方がないから部落に相談しさらに分会ごとにわりあてて作業に動員しました。石垣を高さ八尺、下の巾が一間半、三角錐みたいなかたちでおよそ二キロメルにわたって石垣を築くことになりました。それで畑のまわりの石垣はじめあちこちから石を集めてきて積みあげました。昭和二十年四月ごろではなかったろうか。もっとも空襲のはげしいころでした。ある日のこと、ぼくは佐和田のフツ浜というところで作業しているとき空襲です。ちょうど伊良部の島の西側を飛んでいたからこちらは大丈夫だなと思っていたら、急に方向転換して機銃掃射をはじめたのです。みんな隠れろと叫んで近くにあるタコツボに避難したが、さいわい作業隊には負傷者はでませんでした。しかし部落には焼夷弾を落していったために佐和川、長浜、国仲、伊良部、仲地のすべての部落が燃えあがって、作業中止。作業は始まって二週間以上は経過していたように思います。毎日各戸から一人、二百数十人の男女が手弁当でやってきて、ニキロのうち五〇〇メートルまで来ていました。佐和田の附近はさいわい石の多いところで他の部落の分よりわりあい早くすすんでいたように思います。

 

そのときの空襲で四十八軒が焼けたようにおぼえています。ぼくの本家では茅ぶきの方に火がつきました。さいわい兵隊がいて茅をみなはずして大事にいたらなかった。母は防空壕に入っていたが、防空壕にも七発の機銃があたっていました。学校は焼けないかわりに真中に爆弾が落ちて、北側の校舎は真二つに切れてしまいました。学校では三人死んだが、東区では防空壕に直撃弾をうけ子ども二人をふくむ一家が全滅しました。馬などもあちこちで弾にあたって死んでいます。ぼくの家にはさいわい誰れもいなかったが、機銃が十四発もあたっていました。

 

昭和二十年の五月に入ると大雨がつづき、学校の北隣りの民家の片隅に防空壕を掘って避難しておいた沿革史はじめ学籍など学校の重要書類がみな水浸しになってしまいました。それで朝早くから職員みんなで運動場に干している最中に艦砲射撃が始まったのです。ぼくは部会長もしているから急いで佐和田部落にとび、さあ艦砲射撃のつぎは敵の上陸が始まるから退避の準備をやれ、軍の命令が来たら司令部近くの防空壕に入れとふれ歩きました。帰りに旅団本部に寄ったらイギリスの軍艦だということでした。腹痛を起していて国仲の民家で外便所をかり用をたしていたら、友軍機が五十余機ごうごうと飛んで行く。あのときはほんとに頼もしかった。翌日学校へ行ったら黒板に敵軍艦一七隻を撃沈したと書いてありました。大本営発表として台湾沖でたたかった友軍機は五七機全滅したが、我が方も相当やられていることだし大戦果だと信じていました。しかしかんじんの伊良部にいる軍は敵機がどんなに攻めてきても反撃しようとしない。B29が低空していても全然うたない。伊良部の旅団はまったく病だったな。こちらの陣地が敵にわかっては困るからなのか、あるいは敵の上陸作戦に備えて弾薬を節約していたのか、理由はよくわからないが、兵隊は旅団長の命令がないからだと言っていました。そのころB29は毎日のように飛んできました。

 

朝は十時ごろ、昼は三~四時ごろ、操縦士の顔がみえるほどに低空しているのにうたない。一機でも落せばそれだけ敵の戦力は弱まるのにと思うけど駄目でした。宮古本島でははじめのころは撃ってはいたが、あとでは陣地がやられるといってやめたという話を聞いたことがあります。


村民をスパイ扱い

卒業式は三月にやりました。もう学校は使えないから伊良部部落の浜の近くで仲兼久という人の大きな蚕室でやりました。戦争で養蚕ができず空屋になっていたのを利用したのです。その翌日進級祝いとかいって職員数人がある父兄の家によばれました。その席へ仲地部落の西側にあった衛生本部の軍医が酔って入ってきて、いきなり女教師を強姦しようとしました。まっ昼間、みんなの見ている前でした。ぼくが止めに入ったら、ぼくにまでくってかかってきました。昼の三時ごろだったと思います。「自分は軍医大尉だ」と名乗ってはいました。敵の上陸も近いのでやけくそになっていたのかもしれんが、けしからん男でした。


また、そのころは伊良部の白鳥とか、佐良浜のあたりでよく信号弾があがるといって、村内にスパイがいると軍は言っていました。午前三時ごろ、みんなたたき起こされ、佐和田長浜は長浜森の広場に集結せよとの命令がきました。伊良部や仲地、国仲も同様の命令が出ていました。午前六時までに集まれと。そして、村民のなかにスパイがいるという。「信号弾があがるたびに翌日は間違いなく伊良部島が空襲されている。スパイがこの島に軍がいることを敵に知らせているから空襲されるのだ」と、中隊長で大尉がものすごい剣幕でいうのです。敵の空襲までが村民のせいみたいに言うのには腹が立ったものです。


ぼくの家は家族もいなかったので四部屋あるうち二部屋を兵隊に貸していました。田中という大尉を隊長に中尉、下士官二人、兵卒二人の六人がいました。それで時々夜になると離れかしらないがよく石を投げられました。塩の供出を協力的でないといって仲地さん親子がめちゃくちゃに殴られたりしたから、仕返しに石を投げたと思います。離れが投げるのかつかまらなかったが、部落の人であることだけは間違いないと思います。

 

村民もあとは焼けくそになっていたようです。敵が沖縄に上陸するし、つぎはここだということで。それに食糧はないし、どんなに軍が強制しても自分が食べるのもようやくの状態だったのですから。

 

学校の授業の方は三月ごろまでは何とか三か所でやりました。しかし四月からはむつかしくなり、あとは部落ごとに、隣組で二十名ていどずつでやるようになりましたが、これもほんのわずかな間で、やめてしまいました。このころには野原越の御真影”当番も伊良部からはやめていたように思います。も民も栄養失調でどうにもならない状況下で敗戦をむかえました。

 

敗戦をきいたのは八月十五日の夜八時ごろだったと思います。田中大尉らが兵卒をのぞく四人で酒をのんで終戦のはなしをしていたのです。そのうち隣室にいたぼくをもさそい「終戦詔勅が出ました」というはなしをしました。かれらは終戦になったことをよろこんでいるようにみえましたね。

 

九月下旬に佐良浜の漁船で、台湾に疎開した妻子をむかえに行きました。およそ一か月かかってつれて帰ったが、つくづく同じ苦労するなら疎開などさせずともよかったのにと思いました。

 

食糧供給の軍命伝達係

伊良部村字国仲粟国良教(三十四歳)

軍用肉供出の伝達係になる

軍用肉供出の伝達係になる

伊良部に軍が入ってしばらくしたら計理部の曹長が呼んでいるというので本部(旅団本部)に行ったら、牛の発係をやれと言われました。あのころ伊良部には牛や馬を扱う博労が二~三人はいました。私はそのころは農業のかたわら家で小さな雑貨商をしていたが、博労の知識は全然ない。それなのにそこには博労も一人きているのに、その人には命じないで私にやれというのです。それで「私は畜産の面には何にもわからないから、この人が専門だからこの人を任命したらよい」と言いました。その博労の人が軍に牛を入れていると聞いていたせいもあってそう言ったのですが、曹長剣を立てて「軍に反対するか」と、まるで脅迫でした。それで私は軍に反対することはできない、「軍に反対できなければ命令通りやれ」と剣をもってしているのに、ことわることはできないと思って、何にもわからんのにどんなことをするのかと聞いてみました。そうしたら、「どこどこに牛や豚がいるということは役場に名があるから、ただ指示にしたがって何月何日に牛を軍に出せ」と命令さえすればいいという。自分で牛や豚をさがしてまわるんでなければやってもいいと言って引きうけることにしました。微発係というより、いわば命令をつたえる係です。

 

買いあげ値段については軍が直接交渉しているようで、私は値段の交渉や支払いについては何も関係しないで、ただきょうはあんたの牛を軍に出す日だから持ってきなさいと言って来ました。私がこんな係をさせられたのは、日ごろ私を可愛がってくれていた役場の岸本という人の推せんだということがわかったが、軍は博労にもうけさせるよりは軍の命令を忠実に守ってくれる一般の人間に協力させようと考えたのだと思います。

 

役場から大きな固い紙に書いた牛の持主の名簿がわたされていて、軍の指示通り、大体一週間に一回ぐらい村内を命令して歩いたのです。持っていくところは国仲橋の入口のところで、持ち主がそとまでつれてきました。つぶすのは私が毎日四人の人夫を頼んでつぶさせました。つぶしとしてはお金を払わず、牛の骨をあげました。

 

私が命令して歩くときからつぶすまでの間、兵隊一人が見張りのようにしてついていました。そのうち牛がいなくなったので、今度は豚を出すように命令して歩きました。この方は牛より間があって大体月に二回くらい、全体で二十頭くらいつぶしたように思います。豚は国仲橋でなく、直接部隊へ運ばして、そこでつぶしました。


牛も豚も繁殖用だったためにどこの家でも手離すのを内心いやがっていました。軍命だから仕方なく出したのです。牛は主として北部(佐良浜)、豚は南部(五か字)から出していました。また、軍命とはいえ直接命令を伝えているのは私だから、ずいぶんうらまれていたのではないかと思います。豚は終戦までつづいたようにおぼえています。

 

野菜等の運搬係もかねる

私は馬と馬車をもっていたので、牛の微発に行かないときは毎日馬車をもって部隊にいといわれ、仕方がないからふだんは馬車を引いて部隊にい係もしました。運搬は各部落が軍の命令で供出するサツマ芋や野菜類を受領して歩くのです。部落ごとに集めてあるのでこれを運ぶのです。そのころ軍は国仲森(現在の伊良部中学校後方)のところの美里を中心に横穴式の防空壕を掘ってあっそこへ選びました。発係に任命されたときはまだ軍の本部は国民学校にあって、そこには一回か二回はとび、十日かそこらで本部は美里の防空壕にうつったと思います。芋や野菜の受領も牛の場合と同じで、私はただはこぶだけでした。お金は全然扱わなかった。しかしいつも命令に行くにも受領に行くにも上等兵か伍長が一必ずついていたので、計理はあるいはその人がやっていたのかもしれません。ただついているだけで何ひとつ運びかせいや積みかせいをするわけではありませんでした。野菜は時期もので何でも運びました。大根、白菜、芋ヅル、とにかく集めてあるものは片っぱしから軍に運んだのです。

 

部落の人たちは自分たちも食べものに困っているのに軍の命令だといって出していたが、半年くらいしたらもう部落から何も運ぶものはなくなっていました。供出をしないというより出するものがなかったのです。ちょうど空襲がはげしくなったころだから、昭和二十年の三~四月ごろまでだったかもしれません。時には真夜中に部落から部隊まで飲料水をはとんだりしました。あっちこっちの部隊にはこんだが、国仲と佐良浜のちょうど真中あたりにコロコ嶺というところにいる部隊にもはこびました。水運搬はいつも夜中の十二時過ぎからで、部落の井戸からドラム罐三本にくんで馬車に積んではとびました。水はこびのたびに空襲があって少しも前に進まず、二~三キロの道のりを二時間がかりではこんだりしたものです。

 

時には佐良浜の船着場の納屋からザラメをはとんだが、このときも夜中だけでした。軍は食糧はないないと言いながらザラメだけはたくさんありました。しかし民間には配給してくれませんでした。ザラメはこびのときは野菜受領のときと同じで、たいてい伊藤とい上等兵がつきそっていました。いつも一緒なので仲よくなって、そんなにうるさいことは言いませんでした。しかし水運搬のときだけは命令だけしてついてこないために、真夜中いつも一人で難儀しました。

 

軍に使われてすっかりなれたころ、家の附近がアメリカの空襲で焼けました。軍にはいつもあさの十時前に行っていたが、この日も馬車に馬をかけて出発しようとしたとき突然敵の空襲がありました。いきなり機銃が落ちはじめたのでびっくりしても馬もほうりだして石垣の下に逃げ隠れしました。ちょうどわたしの家の西の道からそのさきの四辻まで十軒くらい焼けました。一軒の家が燃えはじめてあとはまたたく間にみんな燃えてしまいました。このときの空襲では国仲だけでなく、南の五か字全部が部落の中心に焼夷弾が落ちて燃えてしまいました。

 

下地島での竹槍訓練

お礼に松の丸太と荷車もらう

空襲のはじまったころ国仲部落はじめ五つの部落の男の人はみんな下地島に動員されて竹ヤリ訓練をうけました。よっぽどの年よりでない限り男はみんな狩りだされ、下地島の山の中で訓練をうけたが、国仲の指揮をしていたのは曹長でした。みんな弁当持参で通いました。そこでは竹ヤリ訓練のほか防空演習のようなこともしていました。竹ヤリは米軍が上陸してきたとき体当りして殺すために訓練するのだと言っていました。

 

私は軍に使われていたためか、この日一日だけで翌日からは訓練に行かずにすんだが、ほかの人たちは何か月も弁当をもって通っていました。

 

ところがちょうど私が訓練に行った日にも伊良部には大空襲があって、あっちこっち家が焼けました。空襲のあいまをぬって村役場の助役が訓練しているところに来て、「君の馬も弾にあたって死んでしまったよ」と教えてくれました。訓練を終って家に帰ってみると、死んだ馬は軍がもって行ってしまい骨だけを返してきました。お金もいくらかもらったように思うがいくらだったかおぼえていません。それに軍は死んだ馬のかわりだといって二歳馬をくれました。私の馬は十何歳の年より馬だったから、このときはもうかったなと思いました。

 

何もはこぶものがないときは部隊で炊事の兵隊の手伝いをしたりして毎日軍の仕事をしました。手当はちゃんとはらってくれました。毎月二百円で、いい給料でした。

 

軍の防空壕掘りは美里嶺で二日ぐらいやりました。それ以後は軍に使われるようになって何もしていません。竹ヤリ訓練も一日だけだし、部落の人たちにくらべてとくをしたと思います。各部落に割りあてて下地島に戦車壕を掘らしたことがありましたが、このときは部落の人は男も女もみんな動員されました。動員が悪いといって部落会長が軍に殴られたりしました。掘りは兵隊もやってはいましたが、しかし多くは部落の人がやりました。何か月も弁当持参で毎日通っていたのです。部落ごとに兵隊のための防空壕を掘らしたりしていました。戦車なんかは敵が上陸しにくいようにといって掘ったけれども、これはみんな民間の人がやったのです。

 

伊良部にいた兵隊のなかにはひどいことをするのもいました。とくに下の人より上に立つ人が悪かった。コナシという副官なんかは灯火管制の夜に魚をとってこい、カニをとってこいと言って部落の人をいじめていました。この人はよく部落の人を殴るといって相当評判も悪かったです。


いつ終戦になったかよくわかりませんでした。これで家に帰えれるといって兵隊が騒いでいたり、またあまり仕事もないのでいつのまにか軍にも通わなくなって、それが終戦であったように思います。ある日、軍に通うようになってから一度も行ったこともない平良へ何かの用で行って帰ってきたら、戦争に敗けてもういらなくなったから、これまで軍に協力してくれたお礼だといって、兵舎に使っていた松の丸太を二~三十本くれました。これで馬小屋をつくりました。松の木のほかに小さな軍用の引き車も一台もらいました。

 

戦後はそれを荷馬車がわりに使った。たぶんその翌日かに兵隊たちは帰っていったと思います。しだいしだいに少くなっていきましたから。

 

戦時下の差別に生きる

伊良部村字池間添儀保正吉(十九歳)

差別される沖縄の人

差別される沖縄の人

良浜には昭和十九年の四~五月ごろ旅団がきていました。碧部隊といって旅団長は多賀朝四郎といいます。軍がきてから終戦まで戦車壕を掘らされたりで、部落の人は毎日作業に狩りだされました。作業はあさ八時ごろから夕方の五時ごろまで軍隊の指揮のもとにやったが、食事は家に帰って食べ、ただ働きでした。そのため各家の畑仕事はみんな夜になってからやっていました。

 

空襲のもっともひどかったのは昭和二十年の四~六月ごろでした。私の隣家のあるおじいさんは作業に出るために朝早くツルハシの柄をすげているときに空襲があって、柄をすげようとしてあげた手に機銃が貫通するし、奥さんは股の根っ子をやられました。二人とも私が止血をして佐良浜国民学校にあった軍病院にはこんで手当をしてもらいました。一時なおったように思っていましたが、その後破傷風をおこして死んでしまいました。戦車掘りの作業中に空で死んだ婦人もいます。

 

また佐良浜の婦人たちは砲弾はこびもさせられました。佐良浜の船着場までトラックが入らないものだから、トラックの通る部落の上方の平坦なところまでリレー式にはこぶのです。急な坂でせまい道を婦人たちは弾丸を一箱ずつ頭にのせてはこびました。食糧もそんなふうにしてはこんでいます。佐良浜の婦人たちは兵隊よりも強かったですね。弾丸は全部といっていいほどに婦人がはこんだと思います。

 

軍は民間の人たちを漁撈班に組織して魚とりもさせていました。漁撈班のとってくる魚はもちろんのこと、一般の漁夫のとってきたものまでとりあげる。私の祖父も季節になると毎晩イカ釣りに出たが、船着場に帰ってくると兵隊が待ちかまえていて全部とりあげてしまうのです。七十歳にもなる年よりたちが自家用の食糧としてとってくるものまでみんなまきあげてしまう。冬の一月~三月ごろのよるの十一時、十二時の寒いさなか老人たちが苦労してとってくる獲物をみんなまきあげてしまう。しょっちゅうそんなめにあうものだからあとはみんなも知恵をはたらかせるようになります。その夜の収穫のうちのいくらかは綱にしばって海にたらしておき、残ったものだけをこれで全部ですといってさしだすと、兵隊はそっくりうけとって帰って行く。そのあとで海から引きあげて家へ持って帰える、こんなふうに知恵をはたらかして家族の食べる分を確保していたのです。


それから佐良浜では軍の糧まつ庫からカンヅメを盗んだというので子どもたちが一日中桟橋のさきで罰されたことがあります。真冬に、吹きさらしの桟橋のさきで罰されることほどつらいことはない。桟橋のさきは部落中から見渡せるようになっており、みせしめのためだろうが、小学校の四~五年生が十人くらい一日中すわらされていました。桟橋の根っ子の船着場のところに衛兵所みたいなところがあって、飯田少尉というのが部下と一緒に子どもたちを監視していました。子どもたちは寒いものだからお互いに丸くなってくっつきあって前の子の背をこすって寒さをしのいでいました。

 

良浜に来ている兵隊のなかには、自分らは沖縄を守りに来ているのだから君らは当然何でも言うことを聞くべきだと平気で言うのもいました。まるで戦争を引き起こしたのが沖縄の人間のせいでもあるかのように言って。おまけに自分らをば東京の人、東京の人といって、沖縄を馬鹿にしていました。自分こそ実際にはどこの馬の骨かわからんくせに、実に伊良部の人を馬鹿にしてね。東京の人がどれほど偉いか知らんが、他府県から来た兵隊のなかにも程度の低いのはたくさんいたのですから。そのころのぼくは十九歳だし若くもあったせいか、よしこの野郎ども、ぼくも兵隊に行ったら君らを許さんと、思ったものです。私は昭和二十年三月に召集され、豊五六五六部隊に入隊、トラック隊に入って陣地構築、もっぱらタコツボ掘りばかりさせられました。

 

宮古島西飛行場 (洲鎌飛行場) 建設

こき使われた青年学校生

私は昭和十八年十二月に嘉手納の農林学校を卒業して翌十九年一月佐良浜国民学校に就職、同年五月には伊良部青年学校に転勤しました。青年学校は開校したばかりで村役場に事務所をおき、忠魂碑のところに校舎を建てることになっていました。建築資材はすでに購入してあって村役場の東の入江にうめてありました。ところが戦争ははげしくなるしでいつまでも建てられない。毎日作業と教練ばかりつづいていました。教練の指導には池間方清伍長や砂辺四郎さんらがあたっていました。

 

六月から七月ごろ軍命で、下地村皆愛の陸軍飛行場工事のために生徒四~五十人をつれて行きました。十日間という約束で行ったのに、二十日になり、さらに三十日に延長させられました。兵舎にとまり食事は軍が出してくれたが、何しろ十日間の約束で行っているものだから着がえはないし、一か月間大変な思いをさせられたものです。私は十九歳だったが、生徒のなかには同年も、年上もいて、作業中に徴兵検査で帰っていくものもいました。予定が一方的につぎつぎとのばされるものだから、青年のなかには逃げ帰えるのも出たりしました。しかしその分残っているものにしわよせがくる、それで逃げないように監督もしなければならない。逃げた青年たちをさがすために平良まで歩いて日に三往復したこともあります。作業は滑走路つくりで、エンピで掘ったり地均したり、モッコをかついだり、毎日毎日同じことのくり返しでした。

 

食事は玄米と芋ヅルで、まったく少く空腹つづき。それに飲料水も少く、その少い水も飲んだらマラリアにかかりはしないかと気が気じゃない。食事は一応一日三回はあったが、何しろ小さな碗にいっぱいていどで、内容よりも量をふやせといってしょっちゅう要求しました。粗食で少い上に作業はきついものだから何かと私は作業班長の兵隊と衝突ばかりしていました。そのせいか兵隊たちは私に休め休めというのです。しかし生徒たちが、先生が休んだら自分たちがますますこき使われるから出てくれという。そんなわけで一か月もの間、私にはろくに休む間さえなかった。逃げた生徒をつれもどしに平良へ出たりたまに休んだりすると、兵隊たちは生徒を殴ったり休止の時間をみじかくしたりでこき使う。それに他府県出身の兵隊に思うように言いかえすことができない。いわば言葉の抵抗みたいなものがあって、つらかったようです。

 

予定の十日間が過ぎて、さあきようははれて家に帰えれると思ったら、十日延長される、その小口も終えてさああすこそはと思ったら、一夜明ければまた十日間延長されるでとうとう一か月間も労働奉仕をさせられました。このため三度めの十日が過ぎると、生徒たちはあすまで待ったら大変だ、今夜のうちに帰えろうという。ところが何しろ一か月も家に帰らずただ働きしたので誰もお金を持っていない。そこで私は一足さきに平良の桟橋まで行って共栄丸と交渉、佐良浜に着いてから払う約束で乗せてもらうことにしました。佐良浜に着いたのは夜も九時をまわったころでした。そこで点呼をって解散したが、南部の伊良部から来た生徒たちはそれからまたクワなどの作業用具をかついで数キロの道を帰って行くのです。とにかく一夜あけてさらに十日ものばされるよりは何が何でも夜のうちに部隊をはなれることだというのが、生徒たちみんなの気持でした。

 

何かというと軍はすぐ青年学校の生徒を使いたがっていました。とくに女生徒などは炊事要員としてやたらに狩りだされます。いつでも突にきて、どこどこの字にいる部隊に何人と、勝手に場所も数も決めてつれにくる。ひどいものでした。だからといって学校はいつでも応じていたわけではない。与那綢春吉校長は学校のつごうを検討した上で応じたりことわったりしていました。鈴木という兵隊が狩りだしにきたときなど、校長は生徒のことはすべて校長の権限だ、軍といえども事前に何の連絡もなくいきなり生徒を使うことは許さないといってはねつけたりしていました。

 

中隊長と愛人

「愛人」をかこう上官というのは、沖縄戦でよく証言されているが、これも中国での戦争から連続し続いてきたことなのか、十五年の戦争を通して検証するべきだろう。

兵は働き、中隊長は妾をかこう

私が入隊したところは瓦原の青年会場で、そのうしろの小高い丘にもいました。入隊した当初はお風呂に入っても背中を流してくれたりした古参兵も、一週間もすれば殴ったり蹴っとばしたりでつらいものでした。宮古出身の新兵は家が近いから、あまりたたくと逃げ帰えるからいじめないようにとなっていたそうだが、やっぱりいじめられました。私はそれほどではなかったが、ほかの人たちはて軍人勅諭など棒暗記しているのにちょっとつまるとたたかれ、そのためにさらに度忘れしてたたかれるというぐあいでした。玄米一ぱいくらいの食事で夜の十時までタコツボ掘りや演習をする。このためみんな栄養失調になって手がふるえ、あの小さなエンピが持てないありさまでした。

 

私は銃剣術がよくできたからあまりこき使われず飯あげなどをさせられました。幹部候補生になってからは、書類など仲間のものをみんな引きうけて書き、かわりにこっそり家に帰しては食べものをもってきてもらったりしたものです。またマラリアで寝ている兵隊は、古年兵がほかの部隊の罐詰を盗んできてこっそり埋めているのをみては仲間に教えてくれるので、衛兵のときにそれをとって食べるなど、宮古出身の兵隊たちはお互いにたすけあったものです。

 

一番しゃくにさわったのは私の中隊長が女をつれていたことです。女は女学校の教員だとのことでしたが宮古の人だということでした。兵舎の近くに中隊長専用の茅ぶきがあって、そこに中隊長の女とその母親と妹というのが一緒に住んでいました。平良のまちの上流家庭のような生活をしていました。私たちは泥まみれになって作業をしているのに、あれたちは昼間からレコードをかけてたのしんでいる。それに輸送部隊でしたから食べものなどもぜいたくしていました。同じ宮古の人が隊長のメカケになってぜいたくする、これでいいのかなと思い非常にしゃくにさわったものです。

 

終戦

夏の暑いさなか、どういうものか中隊全員水泳してこいといわれて布干堂で泳いだことがあります。あんまりめずらしいことなのでみんな不思議だと言っていたが、夕方隊に帰えると儀式用の軍装をして集まれという。民間人が近づかないように厳重な警戒をして部隊長が終戦になったことを発表しました。負けたとは言わなかったですね。帰休といったような、当分戦さは中止する、こちらは台湾軍と手をとって米軍に対することになるかもしれないといったようなことをはなしていました。

 

翌日からは銃についている菊の紋章をはがして、銃は束にして床下に入れました。八月の末か九月の初めごろ除隊して帰えりました。帰休除隊を命ずとなっていたが、初年兵や幹部候補生は本土防衛のために行くそうだ、というデマが飛んだりしていました。私は幹部候補生になっていたから、とても心配しました。しかし別によばれることもなく、九月からはまた、学校の教員になりました。

 

漁撈班でいじめられる

伊良部村字池間添仲間重雄(四五歳)

フィリピンでの米軍の捕虜収容所で

フィリピンで捕虜になる

フィリピンには昭和十五年一月にわたりました。日本水産に漁業指導員として雇われ、長崎から渡りました。長崎や静岡など方々から来た指導員や漁師、工場で働く人など、五十人単位で編成されていました。フイリピンでは領海での漁業はフイリピン人をそえなければ認めないので、日本水産が四割の株をもって合弁会社をつくり、日本から、こうして漁業指導員をおくりこんでいました。私は、漁業指導員でしたが、佐良浜からは十五~六人の漁師を一緒につれて行きました。はじめダバオに半年くらいいて、その後ミンダナオ島の一番西の端のザンボアンガーに移りました。ここはスペイン統治下の首府で、ことばはスペイン語ばかりでした。昭和十六年十二月八日の宣戦布告はここで聞きましたが、間もなくしたらアメリカ軍が来て、ぼくらの会社を保護し、ぼくらはアメリカの兵舎にあずけられた。会社の職員は五十名くらいいたが、このほかあちこちにい日本人およそ八百人が捕虜にされました。そのとき持っていたお金もみんなとりあげられました。股にかくしていた人もみんなはずしてとりあげられ、お金を持っている人は一人もいなくなりました。

 

ピケツというところのアメリカの兵舎にうつされたのは昭和十七年の正月でしたが、それから八日めには日本軍の爆撃がありました。日本軍はいつも一日と八日に爆撃していました。そのころはよく「八日がくるよー」と言っていたものです。日本軍が爆撃をはじめると、ぼくらは日本人だからアメリカは殺すそうだという話が出て騒いでいました。ぼくらは二階の金網のなかに入れられていたが、下から機銃を撃ってくるのです。だからたくさんの人が尻の方から撃たれて死んでいました。ぼくの隣りでは若いお母さんが五~六歳位いの子どもを股の下に隠していましたが、さいわい子どもにはあたらなかったけど、お母さんは首筋をうたれました。また、津堅から来た若者は尻からやられてもまだ息があって、自分に一回鉄砲をうたしてくれと泣いて頼んでいたがとうとう死んでしまいました。沖縄の人で死んだのはこの人一人ですが、何しろ八百人もいる捕虜のことでたくさん殺されています。

 

あるときぼくは、どうせみんな殺されるのならやってみようと決心して、戦闘帽のあごひもをかけ、「この壁くらいみんなで押せば倒れるから、ぼくがさきに飛びだして守の兵隊の銃を奪いとれば十人や二十人くらい殺せるから、やろう」と提案しました。しかし捕虜のなかには兵隊もいて、少尉級の人も何名かいましたが、「そうしちゃいかん、ここには女と子どもがおるからおとなしくしなくちゃいかん」と言われて、思い止どまったこともあります。

 

それからまた、全員マライマレイという遠い所の軍隊に移されました。そこには十五日くらいいたが、あんまり日本の飛行機の爆撃があって危険なのでまた移動することになりました。通訳は小山といって、日本から真珠取りに木曜島に行っている漁師の子だそうだが、日本語はあまり上手ではないが、とにかく通訳をしていました。その小山が言うには、日本軍の飛行機は人がたくさん乗っている車をみつけたら撃ってくる、撃たれたら味方にあたって死ぬだからそれまでの命だと思えと言われたりしました。十五日くいして元いたピケツに帰ったら、日本の飛行機が、日本人が千人くらいもいたのにいなくなったといってさがしていることがわかりました。ところがせっかく飛行機がさがしに来ているのになかなか外に出してもらえないのです。出ようとすると米軍が鉄を向けるから出られないのです。これじゃいかんとぼくは思いきってしめ、はきものもないから杉下駄をはいて外に出ました。犠牲になってもいいと思っていましたが、どうしたことかは鉄砲をうたず、飛行してきてわかったというような合図をしているようでした。その夜じゅう飛行機はずっと上空をとび、ぼくらを守ってくれているような気がしたが、少尉に率いられた日本の兵隊が三十人くらいきてくれました。みんな福岡の人だと言っていました。収容所の米軍は、多くはフィリピン人で五十人くらいいたが、日本がきたらみんな逃げていきました。アメリカ人の一番い人は少将だといっていたが、その人は日本軍がきたら自分らが君らみたいなめにあわされると言っていました。

 

しかし福岡の兵隊たちは一里くらいさきまで偵察するのでぼくらかまっておれないと言うのです。それは大変だ、ぼくらのなかには百人くらいからだのよわっている人もいるのにというと、いや後から大隊がくるから大丈夫だと言って行ってしまいました。あとから四、五〇人くらいの大隊が来て部落の真ん中まで退却して野営することになりました。ぼくらはお医者さんの家らしいところにとまったが、翌朝起きてみると、二人のフィリピン人が兵隊に捕えられていました。兄弟が負傷したので、薬をさがしにきたと言っていたが、タガールを使っているのは兵隊だといってヤシの木にしばり、手拭いで目隠しして一人は、一人は銃殺、一人はパイプで殴り殺しました。ぼくはそのときはじめて人を殺すのをみました。また相当偉そうな人もつかまえられてきたが、これは四~五名の人が手足を押さえつけて殺していました。

ぼくらは兵隊にたすけられるまで六か月くらい、山の中へ行ったり、あっちこっちの収容所を行ったり来たりしたが、一日に十里くらいは歩かされていました。それは日本軍から逃げるために米軍がやったことで、栄養で気になる人もいました。

 

飛行場建設と漁労班

船とりに帰えり飛行場に従事

軍にたすけだされてからは、ぼくは飛行機の倉庫で現地人を使って通訳をしていたが、軍の命令で船をとりに沖縄へ帰ることになりました。米軍の潜水艦に船はつぎつぎにやられており、海のモクズになるから何にもならんと言って、とりに行くことを拒んでがんばったが、坂本という大佐が、君でなければこの仕事はまっとうできないと言って叱りつけているから仕方なしに帰ってきました。小さい船をたよりにやっと宮古にたどりついたのは昭和十八年のころでした。

 

良浜に帰えると、伊良部村長の友利克がちょうどいいところに適任者がきたと飛行場工事の監督にさせられました。各字から割り当てで百人くらい徴用したが、飛行場工事につれて行って働かす人がいないというので、浜に着くと同時にまるで待ちかまえていたようにして、その人たちをつれて平良へ行き飛行場工事にあたりました。飛行場工事は三か月でした。しかし百人の男たちはみんな家庭もちだし、三か月もをあけてしまったら、生活に困ってしまうのは明らかです。それでは軍には内緒でみんなで相談して、日を決めて三日くらいずつ伊良部村に帰って働いてこいと言ってしました。四~五名ずつ交替して帰しました。兵隊は官給品ですむからいいけど、ぼくらは一銭の手間もないのだからね、こうするほかはなかったわけです。手間は一か月三十円といっていたが、実際には農業会に貯金してあるといって一銭も手さないのだから、ないのと同じだったのです。ぼくはマラリアにはかかるし、二人の子どもが那覇の学校に通っているので送金をしなくてはならないし、家にも送金しなければならないといって、本部づきの少尉と大喧嘩になったこともあります。

 

飛行場では滑走路をならしたり、弾をつくったり、タコツボを掘ったりしていました。三か月というのははじめから決っていたのではなくて、勝手に帰ってきました。何しろ家の暮らしもたてなければならなかったですからね。

 

軍令で漁労班つくる

作業をやめてってくると、今度は池間添の常会長をさせられました。もう船とりにも行けないし、乗っていく船もなかったですからね。常会長になってからというものは毎日軍の命令で作業に狩りだすことでした。伊良部村一円がそうだったと思うけど、佐良浜の人は山方面やヤラブザキ方で戦車壕を掘ったり、戦車を止める障害物を築いたりしました。松林の松を全部真中あたりから切って根っこの部分を残すとかして戦車の進行を止める障害物を造ったりしました。佐良浜には旅団がいて、多賀少将という司令官がいたが、作業には各戸からかならず一人ずつ狩りだされました。しかし人間の家ですから、病人もおれば看護しなければならない人もいるわけです。それでどうしても作業に出られない家も出てきます。そうすると容赦はなくたたいていました。とにかく軍のやりはひどいものでしたよ。

 

またぼくらは碧部隊の漁労班もさせられたが、毎日サバニで軍用の魚とりに行きました。何ぱいのサバニがいて漁労班が何組あったかは知らないが、ぼくらの班は七名でした。毎日漁に出たが、代替一日平均の水揚げはわかっており、少し多めにとれた時は自分の庭のことも考えて持ち帰ったりしました。ところが闇に流しているものがいるといってたたかれたりするのもいました。しかし実際には寮から帰るのを船着き場で待ちかまえている兵隊が横取りするものだから、指示をうけた部隊に持っていけない場合が多かったです。そのためになぜちゃんと持ってこないかといってたたかれたり、罰されたりした班もあると聞いたことがあります。大抵奪われたことがじょうずに言えないものだから、闇に流したんだろうとかいって叩かれているんですね。

 

なかには漁労班でない一般の人でも、せっかく漁に行っても途中で奪われてしまうから漁にも行けないというはなしはずいぶん聞きましたよ。

 

良浜の空襲もひどかったです。とくに平良=佐良浜間の運搬船をめがけてよく機銃を撃ってきていました。船着場の近くはみな焼けてしまいました。時限爆弾もずいぶん落ちました。西原雅一さんの庭にも時限爆弾が落ちて、何時間後であったか突然爆発して間借りしていた本永玄太郎さんは爆風で大きな岩かげに吹っとばされたし、仲地まさ子さんは片足をもぎとられて死んでしまいました。本永さんはそれがもとで戦後も長いこと大変な恐怖症にかかっていましたよ。

 

敗戦については八月十五日よりあとになって聞いたように思います。漁撈班で旅とりに行くといったら戦争は敗けたらしいよというはなしが出て、ぼくは「戦争は敗けたそうだから魚とりには行かん」と言ったら、兵隊が、「これまでやっておった仕事はつづけてやらんといかんじゃないか」と言われたものです。たぶん戦争に敗けたことをすぐ民間の人たちに知らせなかったのは、命令を聞かなくなっては困ると思ったからじゃないですか。

 

 

七、多良間島

多良間島

当時多良間国民学校長 藤村市政

初空襲

昭和二十年一月九日。米軍多良間ヲ初空襲。不幸ニシテ三年下地節子ハ即死、四年佐和田朝功負傷ス。(多良間小学校沿革史、以下多小史と略称、による)

 

多良間の水納島の宮国岩松のメモによると、水納島では、昭和十七年頃には軍事訓練が行なわれていました。五つの世帯を一つの班にし、七つの班がつくられ、七名の班長が常会をもち、その常会の話し合いによって、軍事訓練として、竹ヤリでの訓練や、消火訓練をするようになりました。

 

昭和十九年の九月には、アカトンボという練習機九機が、台湾へ移送中水納島に不時着しました。これは特別攻撃に使われるようになったものであります。

 

多良間(多良間島水納島)に直接敵の攻撃のあったのは、昭和二十年になってからであります。それは、十・十空襲から三か月もおくれての一月九日にあったもので、グラマン機四機によるものでした。

 

その日は、郵便局を通じて、平良の方から午前中に空襲警報が伝えられました。連絡をうけた国民学校では、さっそく、児童たちを帰宅させ、部落(塩川と仲筋)中をまわって、警戒をよびかけました。

 

午後一時ちょうどだったと思われる頃でした。グラマンが南の方からやってきました。私は職員室の窓からみていましたが、学校の東の道路あたりから、島の部落の中央付近を、北東の方へ、機銃掃射をしながら、轟音をたてて、飛んでいきました。このグラマン四機は、続いて、水納の島をおそいました。

 

多良間島では、子守をしていた一人の少女(初等科四年生)が銃弾をうけて即死し、同じ部屋にいた少女(高等科二年生)が腹部を撃たれました。飛行機の音をきいて、奥座敷に逃げこもうとした処を機銃弾に当たったものです。腹をうたれた少女の方は、防空壕の処までかけていき、大声でわめきました。人々は医者を呼べとさわぎましたが、そこでこと切れてしまいました。

 

五九歳になる羽地カメという女の人は足に機銃弾をうけて大けがをしましたが、四、五日うちに、破傷風で死にました。

 

多良間島では、この三人の死者の外、五人が負傷しました。垣花カマド(当時五九歳)は足に負傷、五年後に死亡。山城常教(当時五三歳、船長)は指にけが、佐和田朝功(初等科生)片うで切断。下地朝栄(当時三八歳)軽傷、花城ヒデ(当時二〇歳)頭にけが。水納島の方でもひなん壕で、四人の女子が殺されました。

 

(注)多良間国民学校学事月報によると、昭和二十年一月の分に、初一女一減、初四女一減とあります。初一女の方は水納分校の分です。

 

御真影を守る - 校長の役目と処罰

裕仁天皇とその皇后の写真(当時これを御真影といいました)は、昭和三年の十月二一日に多良間小学校にもってこられました。昭和六年には一たん奉還され、新しいのを迎えることになります。昭和六年の暴風で、校舎が倒壊したことから、八月十五日平良第二小学校の奉安室にうつされ、昭和七年十二月三一日に再び多良間小学校に迎えられました。

 

昭和九年当時、平良恵清校長は、御真影のことで、責を負わされました。御真影にしみをつかせた管理不充分の責めです。宮古支庁にいた県視学(平良彦一)から始末書をとられました。校長にとって、御真影は自分の生命以上に大切にしなければならないものでありました。平良校長が去って、しばらく校長不在の空白のあと、私が赴任しましたが、それはもう御真影を守るためにあるようなものでした。

 

昭和十九年の秋になると、警戒警報がかかるようになりました。島には自然洞穴の古くからの井戸が二つありますが、そのうち学校に近い方が天川です。その天川を御真影の場所にしました。警警報がなると、御真影をだいて、暗い井戸に入ります。そして、夜になると、もってかえるという生活でした。

 

昭和十九年の暮に、御真影宮古本島にうつすよう命令が下りました。校長である私は、橋正丸という三〇トンほどの船でいきました。島から宮古本島につくまで、船長部屋でひざまづきをして、護持していきました。

 

初空襲のとき、職員室から空襲を目撃できたのは、御真影から解放されていたからです。

 

空襲下の生活

 

昭和二十年三月空襲次第にはげしく村内から郊外へ疎開する者多シ。修了式挙行。(多小史)

 

警戒警報や空襲警報はすべて郵便局の無電を通じて島にもたらされました。警報は簪防団が部落民に直接にしらせる役割を負いました。

 

旧藩時代に船の往来の見張りに使われた石づくりのやぐらの一つ八重山遠見台の上で、青年達は対空監視に当りました。その台のかたわらにかやぶきの詰所をつくり、交替で監視に当ったものです。村民は一月九日の初空襲で、大きな衝撃をうけました。その住家を棄てて、それぞれの耕作地にうつり、大きな岩の下などを掘ってそこを生活の場にしました。ときどき見廻りに部落の中に帰ってみるのですが、いつ撃たれるかわからない集落の中は、手はつけられず、草だけがぼうぼうと生い茂りました。

 

南方へ行く途中、その乗船をやられて上陸してきた暁部隊(船舶工兵)もいることはいたが、ときに芝居をして見せる位で、戦争については何もしませんでした。村民の中に混って避難をするのが、せいいっぱいに見えました。とりたてて村民に害を与えるのでもないのです。初めはもってきた食糧の米などがあったのですが、配給は途絶えてしまい、結局は、分散して村民と家族同然、その食糧を得てくらしていました。

 

昭和二十年四月一日沖縄島に米軍上陸以来空襲はげしく警報発令中ニツキ児童の招集不可能になれり。月明の夜を利用して疎開地に於て区域別に招集し、戦争時中の心得、最悪の場合に処する態度等を話し、児童をして安心して生活出来るよう取計る外良き方法がなかった。

 

四月五日敵機四機来襲。機銃掃射をなす記念館に数発命中。

四月七日敵機数回にわたり来襲。被害を認めず。

四月一四日敵艦載機及ボーイングB24来襲。爆弾投下。学校北の高江洲良包氏宅外九軒全焼・・・・・・学校が目標トナツテヰル様デシタ。

四月一六日非常持出箱(重要書類)ヲ嶺間神社ニ移転ス。四月二〇日敵機四機来。学校を目標トシテ爆弾投下被害あ数回来襲セルモ被害ナシ。

六月一九日ロケット砲弾二十余発投下相当被害アリ。八月一口敵一機爆弾投下記念館運動場の立木、塀等被害大ナリ。(多小史)

 

駐在の巡査は平良出身でした。自分で芋をつくっていましたし、麦、あわ、まめなどもつくっていました。

 

教員の給料も昭和十九年の十月頃からは不渡りになりました。結局自活しなければなりません。沖縄本島からきていた四人の新卒の先生方は出征していましたので、職員十五人には他の出身者はいませんでした。

 

畑の耕作などは、晩はたらいていました。監視がよく連絡してくれたので、空襲の合間をみて、昼、耕作することもできました。

 

空襲は連続的ではないのですが、いつくるかわからんので、みな避難を続けていたわけですが、幸い、サツマイモがよくできて助かりました。避難小屋では、山羊や馬のごちそうもしました。

 

教員たちは、朝はフダヤーに集合して話し合いをし、児童がくるわけではないので、それで出勤という形式をとっていました。学校は昭和七年に鉄筋コンクリートで建てられた校舎ができていましたが、機銃にやられ、雨もりはひどく授業ができない位に破損しました。青年会場や、肥料、米、購買品などの物資のあった産業組合も爆撃にあって、もえました。渡口カマド(五五歳)も戦死し、子ども一人も傷を負い、破傷風で死にました。

 

村の外れに青年学校がありましたので、ここだけは安全だと思って、本を入れたたんすなど大切なものを避難させてありましたが、機銃でやられてしまいました。かやぶきの建て物でしたので機銃をうけてもえてしまったものです。

 

正体不明の教員 - 離島残置工作員

正体不明の教員

私は国民学校の校長ですが、青年学校の校長をも兼ねていました。

この学校に中島という教員が、県から任命されたといってやってきました。辞令がきたわけでもなく、何の連絡もありませんから、校長である私にも何もわかるわけがありません。

戦争たけなわですから、生徒を集めるわけでもありませんから、生徒を教えるということもありません。正体不明のまま結局ずるずと過ぎていきました。

学校にはきていました。そしていつも一人で行動していました。何か、住民の行動を監視している。そう島の人々は感じました。スパイではないかなと、人々はいっていました。

 

その男が将校だったということはわかりました。終戦後、平良の将校集会所で、将校の服装をしたのを見かけました。それまで、島では国民服をつけて歩きまわっていましたがね。陸軍中野学校出身だということでした。

 

終戦直後の飢饉

戦後のききん

終戦直後ききんがやってきました。それで海からひきあげたくされた古米をもってきて、庭にほして食べたものです。それでも足りません。それでソテツを食い出しました。ソテツ中で、犠牲者もでました。泉川家で三人、宮城家でも四人が死にました。

 

バイラスでサツマイモが全滅してしまいました。それで、平良かタピオカの苗木をとりよせて植えたものですが、タピオカでも、何人も中毒する者がでました。

 

配給というものが行われるようになったのですが、戦後三年目、当時の村長が配給の不正でひっかかり、それで後任に是非でてくれというので、私は校長をやめて村長になりましたが、最初にやった仕事といえば、芋かすの買い出しでしたね。澱粉をとった残りのサツマイモのかすを、議員二人をつれて八重山までいって買ってきて、村民に配ったものでした。

 

家主を軍刀で脅やかす

多良間村字塩川渡久山サダ(二十一歳)

特攻艇の兵士、家主を軍刀で脅かす

多良間には特攻隊が来ていました。私のうちと向いの青木さんの家に十人くらいいました。このうち二人は将校でした。原田とか山口とかいう名前の兵隊がいました。多良間を守るためにきたのではなくて、特攻隊の訓練のために来ていたと思います。いつも北の海へ行って訓練をしていたようです。何か小さなボートのような船をいくつかもってきていて、それをみがいたり、発射訓練か何かをやっていました。艦砲射撃があるからといって一度平良へ行っていたが、しばらくして帰ってきたことがあります。「艦砲射撃があるので自分たちは構えていたが、べつにそれらしいこともないのでまた多良間にきてみなさんに会うことができた」と言っていたことをおぼえています。

 

確か私の家には六畳間に兵隊ばかり八人いて、青木さんの方には将校をふくめて四人いたように思います。部屋をかりるだけで、食事は自分たちでつくっていました。家にいた山口という兵隊が父(垣花常範・当時四十八歳)を馬鹿にしたようなことを言って、争いになったことがありました。争いの原因ははっきりしないが、父が「いくら兵隊だからといって、あまり横暴なことをすると、島の人たちも黙ってはいない」と言うと、山口という北海道出身の兵隊が「チャンコロが何を言うか」と言って刀で斬りつけようとしました。それで父もすっかり怒ってしまい、「この家を出ていけ」といったような出方でした。そこへ青木にいた将校がきて、「銃後の国民の協力なくして戦争ができるか」と言い、山口を叱りつけてようやくおさまったようにおぼえています。

 

特攻隊の人たちは終戦になるまえに平良にうつっていきました。三か月ぐらいしかいなかったように思います。

 

(注1)渡久山サダの弟垣花義夫は、「二十歳前後の青年たちで、人間魚雷の訓練をしている」と聞いたと証言している。

 

教員やめ食糧の自給

多良間村字塩川野原雄吉(三十一歳)

 

教員やめて農林技手へ

多良間国民学校で教員をしていたら義兄の青木雅英(県議)から教員をやめて食糧増産のために農林技手をやらんかとすすめられました。青木のはなしでは、どうも役場としての農業指導がまだたりない。教育も必要だが、いまはこういう戦時下だから、食糧増産がだいじだから思いきってとびこんで、みんなを救うようにしてくれとのことでした。確かに戦争がはげしくていくと多良間のような小島は海上輸送が途絶えたら大変なことになる、それにもともと農林学校を出ていることだしと思って引きうけることにしました。沖縄県農林技手ということで多良間村駐在でした。

 

部下職員は一人もおらず、村役場の技手と相談していろんなことをやりました。これまでの作物はもとより小麦、大豆、それに大根や人参、カンラン等の野菜をもつくるよう指導しました。

 

村民ははじめ私が教員までやめたことに非常にびっくりしていました。それでもみんな関心をよせてくれて一生懸命に増産にはげんでくれました。私はよくみんなにこう言ったものです。「学校の教育も必要だが、こうした戦時下ではお互いに増産をやらんと、こんな小さな離島ではもう別から食糧がくるとは考えられんから、農業の改良に大いにつくそう」自給自足の重要性を強調しました。

 

おもに主食になるものをつくったが、小麦などは供出させられたように思う。県からの指示もあったように思うけど、おもに自分の計画ですすめました。いま何を必要としているかといった点を考えてやりました。昭和十九年の終りごろまでやったと思います。その間、青年学校の軍事教練をしたりしていました。

 

意味のわからぬ伊良部防衛へ
昭和二十年に入って、空襲が始まるようになってから村民のなかで召集に該当する連中を四十人ぐらいつれて、班長として平良へわたりました。野原越あたりで一か月くらい作業をさせられて、それからまた十五、六人をつれて伊良部へ渡りました。みんな正規の軍人ではない。兵隊の経験のないものばかりで、防衛隊といったようなものだったと思います。私だけが兵隊あがりで予備伍長。小田准尉というのが訓練にあたっていました。


伊良部では村役場の何か広い畳の間に全員とまって、おもに防空訓練をしました。別にどこかへ通うということもなく、また地元との接触もなく自分たちで防空訓練をしていました。敵の上陸に備えてこうしようとか、空襲の場合はこうするんだとか、そういったことをしていました。勿論伊良部には軍の指示で行ったのだが、やりっぱなしで指示はこない。なぜ伊良部へやらされたのか、わからんのでお互いにおかしなめにあうものだとはなしたりしていました。何しろ年令もまぜこぜでね。私は三十歳でしたが、二十五、六歳もおれば三十五、六歳もいる。しかも兵隊の経験がないばかりか、私以外は青年学校の経験しかないのだから不思議でした。


結局命令があろうとなかろうと、勝つためには何でもやるという気概だけがあったように思います。しかし軍の指示もないが、民間とのかかわりあいもない。役場もあまり関心をよせていなかったように思います。食糧は米の配給はあったが全般的に非常に粗食でたりない。それで民家に行ってサツマ芋や必要なものを買っておぎなっていました。炊事も自分たちでしました。軍からはわずかばかりの食糧だけで、手当もなく被服の配給もなかった。


終戦については直接誰からも知らされなかった。二、三日あとだったと思います。何処からともなく自然にわかってきました。これだけ根こそぎ狩りだしても負けたのか、と思う反面、こんな役にたたないものまで狩りださなければならないところまできていたのだから負けるのは仕方がないなとも思いました。終戦については軍から聞かされなかったかわりに、誰からの指示、命令もまたず船が出たのをさいわいみんな一緒に平良へ渡りました。平良には四、五日いたが武装解除のはなしは聞きませんでした。また滞在中アメリカ兵にも会わなかった。まだ来ていなかったと思います。とにかく一日も早く家に帰えりたくて船が出たのをさいわい多良間へ帰ってきました。

 

薬品もない戦時下の医療

平良町字西里宮国泰誠(三十歳)

 

薬品不足でみすみす見殺しに

多良間村診療所の医師として赴任したのは昭和十九年三月。戦時中のことだから薬品も軍にとられて、民間の医者はもうとぼしくてね、破傷風の血清なんかはまったくありませんでした。さいわい療所には硫酸マグネシウムの粉末がたくさんあったので、それを蒸溜水に溶かして注射しましたが、よく効きましたね。
これは直接戦争には関係ないが、ある婦人が製糖車に指を噛まれて、そこから破傷風菌が入ってしまったのです。血清がないからどうしようもないと一度はことわりましたが、主人が「先生何とかしてください」と床にひざまずいて手を合わして頼むのです。いろいろ考えたすえ、赴任のとき嵩原(恵典)先生にもらった治療の本をみたら、たった一行「硫酸マグネシウム破傷風に卓効することがある」と書いてあった。ほかにうつ手はないし思いきってやってみました。看護婦もいないから自分で蒸溜水をつくってそれに溶かして注射したんだ。そしたら驚きましたね、水も飲めないほど口もこわばっていたのがちゃんとなおりましたよ。

 

それ以後は機銃掃射がもとで破傷風をおこした人はみなこの方法でたすけました。昭和二十年の一月ごろから多良間も空襲がはげしくなってきましたが、軍医予備員として召集され野原越で四週間の訓練をうけて三月初めごろに帰ってきたら、機銃にあたって死んだ人もおれば、片腕をおとしたものなど負傷者が五、六人出ていました。そのうちの一人のおばあさんが破傷風をおこしていました。さいわい製糖車でやられた婦人のときに硫酸マグネシウムでなおした経験があるから、さっそくその治療をほどこしてうまいぐあいになおったものです。

 

これは終戦直後のことですが、爆弾の粉末をとりだして漁業をやっている一家がいました。父親が火薬を一升ビンに入れて裏に隠してあったらしい。ところがそのことを知らないそこの青年が夜遊びから帰ってきてたばこの吸いがらをポンと捨てたつもりが火薬に引火、大爆発を起こして全焼しました。母親と娘一人、孫三人が死んで、娘一人とその青年が火傷しました。青年は背中をすっかり火になめられているから数日後には死んでしまいました。娘さんの方はせっかく助かったのに用水池で洗濯したりするものだから、そこで傷口から破傷風菌が入ってしまった。この人も硫酸マグネシウムでなおりました。

 

血清もない、蒸溜水もない、薬品も不足の状態でしたから助かるはずのマラリアなども救えなかったですね。戦争中多良間からも西表の木炭焼きにたくさんの人が強制的に徴用されていました。向うで悪性マラリアで死んだのもいるし、帰ってから発病するのもいました。ところがマラリアに効くバグノンはほんのわずかしかない。みんなにやれば中途半端で、誰もたすかる見込みはない。医者としては困った問題だけれども、少い薬だからどうにもならないのです。結局池城という家内の親戚すじの一人だけに少いながらも注射をしてようやく助けました。

 

マラリアに感染したものは西表からは戦後になってから帰るものもいましたが、キニーネ剤がなくてどうにもならなかったですね。みすみす薬があればたすかるはずの命を見殺しにせざるをえなかったものです。

 

医者を集めて弾丸運びや壕掘り

軍医予備員の召集をうけ弾薬運び

戦争もだんだん日本本土に近づいてくると医者もいつでも軍に呼んで使えるようにしなければいけなかったんでしょうか。昭和二十年二月には”軍医予備員”という名で召集されました。宮古では嵩原典、西原雅一、上里忠勝先生などが老齢ということではずされて、福嶺紀仁、下地恵俊、友利正雄、中村圭介、奥平恵寛、それにぼくの六人です。それからどうしたことか八重山からも大浜信賢さんが召集されていました。これらの七人が上等兵として山中部落の部隊に入れられました。本部は野原の青年会場にあって、そこへ行って連隊長にあいさつをしました。そのとき連隊旗をおがましてくれたが、なかみのない房ばかりのものでしたよ。ぼくらの入った中隊は山中部落の原野に茅ぶきの長屋をつくっていてそこに入ったわけですが、軍医予備員とは名ばかりで、普通の兵隊と一緒に兵としての訓練を二週間うけました。

 

そのころマリアナ基地に集結していた敵機動部隊がどこへ行ったかわからないという情報が入っていました。たぶん沖縄に向ったんじゃないか、それで宮古にも艦砲射撃があるかもしれないというのです。二月十一日の紀元節はそこですまして、二日ぐらいしたら、敵の艦砲射撃が一、二日つづいてあとは上陸を敢行するということで、甲戦備といったかな、ぼくらも戦闘配置につかされました。側嶺部落の、油糖からは東北の方に下地青年学校があって、そこの南の山に幕舎をつくって入りました。そこに行ってから、野原越の壕に入れてある弾丸かつぎを命ぜられました。ところがわれわれの中隊からはぼくら軍医予備員の七人だけがやらされるのです。こいつらはあと何日もせずして陸軍病院に行くんだから、こいつらを使えということだったんだな、夕飯をすますとすぐに「軍医予備員集れ!」と号令がかかる。弾丸はこびの使役に使うために医者だけ七人トラックに乗せられてどこへともなくつれて行かれました。真ツ噌やみのなか、おまけに雨はびしょびしょ降る。仕事をしながらもいま何処にいるかさえわからない。夜が明けてから気がついてみると、野原岳の北、ようするに野原越なんだな。

 

トラックが壕のところまで入らないから、壕からトラックまで、あのソーメン箱のようなものにつめこまれた弾丸をかつぐ。重いやつを一個ずつかついで、徹夜でトラックに積みこむ。兵隊はいろんなところから集って来ているけど、ぼくらの中隊だけが医者。それに夜中のことではあるし、雨は降る、寒い、おなかはすく、というぐあいでみんなだらだらしているわけだ。どこのだれかわからんが指揮官らしいのが「集れ!」という。「これで戦争ができるか。もう少し気合をこめて仕事をやれ」。再びみんな黙々として始める。もうくたくたですからね、あいかわらずだらだらだったな。

 

夜が明けたのでわれわれの番は一応終って自分の部隊に帰ることになりました。われわれをつれて帰る指揮官みたいなのが桜井という特務曹長。山中部落を通りながら、福嶺先生は長年平良のまちで


開業しているから部落の有志をよくわかるわけです。津嘉山という町会議員の家に行こうじゃないかと言いだして、みんなあんまりひもじいものだから一緒に立ちよって、芋を食べたり黒砂糖をなめたりしたが、そのときはほんとに生きた心地がしたな。さすがに桜井特務長もこれには反対しないで、自分も一緒にごちそうになっていましたよ。
それから側嶺の幕舎に帰ったんだが、徹夜で仕事をして来たんだから、昼ぐらい少しは休ませてくれると思ったが、そうもいかないんだな。ほかの兵隊たちはみんな何処かへ行っておらず、ぼくらは今度は側の畑の近くでタコツボ掘りをやらされる。このときも近くの農家の人たちが、何しろ顔見知りの医者ばかりいるものだからお茶をもってきたり油味噌をもってきたりしてサービスしてくれる。そうするとそこらにいるヤマトの兵隊たちもみなってきて、一緒にごちそうになるわけです。

 

昨夜は徹夜で弾丸運びをした、きようはきようでタコツボ掘りをしたんだから、今晩ぐらいゆっくり休ませてくれるんだろうなと思っていたら、また「軍医予備員は集れ!」とくる。ところが大浜信先生はほんとかどうかわからんが「ジが痛みだした」と言って休む。それから下地恵俊、友利正雄先生は、「だれか水を汲んでこい」と言ったら、「わたしが行ってきます」と、二人行ってしまう。幕舎は部落から少し離れているから、飲み水はいつも石油缶をかつい部落にもらいに行っていました。また、部落に行けば何か食べものにありつけるしね。誰もが水汲みを希望していましたよ。何しあのころの部隊の食事ときたら塩汁に芋ヅルがちょっと浮いているていどのものだったからね。夜になると畑へ行って大根をぬき、ニンニクをとる、そういうのは普通のこと。だから二人が「わたし「ちが行きます」と喜んで水汲みに行っても何の不思議もないわけです。

 

しかし三人もぬけてしまっているのに「軍医予備員は集れ!」と言われても四人しかいない。昨夜ぼくらがトラックに積んだ弾丸が大隊ごとに分けられており、そのなかからぼくらの中隊分をこれからとりに行くと言うんだ。行きは馬車であったかトラックであったかはっきりしないけど、とにかく約一か月も雨が降っていて大変な道でした。山の中に格納されているのを荷馬車二台に積んでね。福先生と奥平先生は前の馬車に、中村先生とわたしはうしろの馬車に積みました。帰りは乗りたければ乗れと言われて、夜のことだし、道も悪いから歩くのは大変だし乗ろうかということになって中村先生とわたしはうしろの馬車に乗った。福嶺先生と奥平先生は馬車が出る前に歩くと言って軍歌をうたいながらさきに歩いて行く。前の馬車には桜井指揮官が乗っていました。

 

ところが、きちんと積まれていない上に紙をちょっとかけてあるだけだから、馬車がぐらりとゆれると弾丸箱ごとぼくらもずり落ちそうになる。落して下敷になろうものなら大変だ、もうまったくひやひやのしどうしでした。しかも近道をするといって本道を通らず畑の道に入ったんだな。しかし夜は暗く、デコボコが見えないというより、どこが道だかわからないというありさま。とうとう前の馬車がどんと落ちてしまって、馬は膝を折って坐ってしまう。箱も落ちる。桜井指揮官はどこか打ったらしく大声でわめている。ぼくらの方は何ともなかったけれども、落ちた弾丸箱をまた積むわけです。

 

こうして幕舎のある林までどうやら運びこんだが、それからまた夜の明けるまえに一個一個かついで林の中を運搬しなければならない。そこら一帯はタコツボがいっぱい掘られている。弾丸箱をかつぎながら、もしもそれに落ちたらそれこそ足でも折るんじゃないか、ひやひやしながら運んだものでした。こんなひどいめにあうぐらいなら死んだ方がいいとさえ思ったりしたものです。

 

二週間の日程を終って、雨の日でしたがまた野原の連隊長にあいさつをして、習日から鏡原の陸軍病院へ行きました。鏡原国民学校がそっくり陸軍病院になっていて、門のあたりに茅ぶきの小屋ができていてそれが陸軍病院の事務所、薬局、倉庫みたいになってました。そのあいだあいだにちょっとした木造の掘立小屋があって、そのうちの一つがわれわれ軍医予備員の宿舎にあてられた。そこで七人が寝起きしたわけです。今度は作業は全然ない。ただ講義のあるときにちょっと行って聞いて、あとはまたすることもなく宿舎でぶらぶら。ひまだから上着をとってシラミつぶしをする。朝全部とって、もう大丈夫と思っても、また午後になると必ずいる。天気のいい日には病院の兵隊なんかは庭に出て芝生に上着を広げ、日なたぼっこをしながらシラミをつぶすのが多かった。あとで福敬先生に聞いた話しだが、自分のからだを自分で始末することのできない兵隊は、手術台の上にのせられてもシラミがうようよしていたそうです。

 

陸軍病院では別に変ったことはなかったですね。ただ軍医としての教育だけだから。死者はたくさんみました。必ずしも爆撃で死んだものだけでなく、むしろ栄養失調とか、あるいはマラリア死んだのが多かったようです。

 

軍医予備員には、あとから山内典さんも加わった。訓練は二週間、二週間のしめて四週間で、二月いっぱいに終りました。福嶺、友利、下地の三先生は、ひきつづき終戦後もなお十二月までいたようです。おかげで戦時下の平良の町には二、三人の医者しかおらず、病人は放置されていたともいえます。確かに疎開したり、田舎に引込んだりで人は少なかっただろうが、いずれにしろ交通機関はないし、空襲ははげしいし、医者にかかれる状況ではなかったでしようね。

 

わたしが再召集を免がれたのは、多良間に一人しかいない医者だからだと、あとになって軍少佐の山田という人が原先生にはなしていたと聞きました。多良間診療所にいたおかげで生命びろいはするし、十二月まで引っぱられずにすんだのかもしれない。

 

多良間島のソテツ地獄

食糧不足でソテツ中毒死も

三月の初めに多良間に帰ったら、連日の空襲をさけて村の人びとは部落を捨て、畑の番小屋に疎開していました。それまで診療所は部落の中の国民学校と村役場の中間にあったが、とてもここでは仕事ができないので向うの人たちがいろいろ考えてくれて、北の部落はずれからおよそ百メートルさきの山の中の運城御嶽へ移ることにした。拝殿では診療はできないので、庭の方にちょっとしたおろし木麻黄などりあわせの材料でつくって、診療をはじめました。

 

近くには墓地が多かったが、駐在巡査や郵便局長らが防空壕をつくって住んでいました。

 

しかし村の人びとが疎開している畑の一帯は、ちょうど部落をはさんでわたしのところとは反対側。往診するにも、患者がくるにも空襲をさけて逃げたはずの部落を通らなければならない。往診の場合には大抵向うから馬を持ってきてくれたのでそれを利用したけれども、途中で空襲にあうと馬を放りだして岩蔭にかくれたりして...べつにこちらをねらってはいないのかもしれんが、やはり敵機がくるとねらわれているような気がして、向うからくるとこちらの岩蔭へ、こちらからくると向うの岩へとかくれながら、島のすみからすみまで歩いて往診をしていました。

 

食糧不足も大変なものでした。何しろ運搬船が定期に来なくなってね。昭和十九年にもソテツを食べた家族六名が、きようは三名、あしたは二人、あさって一人...と死ぬ。三日もつづけて葬式を出す。大変なものでした。ソテツ中毒というのは医学の本にもない。このときはじめて私はソテツの中毒死をみました。

 

診療所から一五〇メートルくらい離れた家で、長男夫婦が枕を並べて寝ている。治療して帰り着かないうちに今度は「別のものが...」と呼びにくる。行ったらもう意識不明。その日のうちに長男夫婦と別のものとが死に、一緒に葬式に出たおばあさんがその夜死ぬ。一番あとに末の弟一人が残ったがこれも三日めに死んでしまった。ソテツを食べたものみんなが死んでしまいました。

 

サツマ芋はみんなつくっていました。たくさんとれるときは水納に送りだすほどだが、少いときには自分らが食べるものもない。何しろ土地はやせているということだし、ちょっとでも干ばつがくるともう駄目なんだな。だからどこの家でもふだんから芋カスをつくったり切干しをしたり、家ごとに庭にアダン菓ムシロを広げてやっている。切干しなんかおいしいものではない。そのままではとても食べられない。しかしソテツを食べるよりはまだましだからね。粟を買いに出たり、食糧の買い出しに相当歩いた。それでも村でたった一人の医者だから、ほかの一般の村民よりはいい方だったんじゃないかと思います。

 

空襲があんまり激しいものだから、少しでも広い所がいいだろうと、家族は昭和二十年の三月に入れかわるようにして平良へやりました。それからは小使いさんと二人きりで、夜は一人で寝るのだから、いつ敵が上陸してくるかわからないので、枕元にモヒを用意してました。量を多くすれば眠るが如く死ねるので、敵の手にかかるよりは自分で死のうと思っていました。おそらく一人でも敵が上陸したと聞いたら私は真先きに死んでいただろうと今でも思います。

 

運城御嶽の診療所の裏山にのぼって水平線をみると、夜中でも宮古の方の空が真っ赤にみえる。たぶん平良のまちが空襲で燃えているんだなと思うと...。家内は平良に行って間もなく三番めの子を防空壕で生んだらしいんだが、空襲で避難するときあわてていたのか逆さに抱いて死なしてしまいました。それからさらに添道に疎開したが、どちらにいても同じだということで、六月にはまた多良間に帰ってきました。自分一人ならば死のうとどうしようとかまわないが、妻や子に戦争の被害がおよんでくるとなると、勝っても負けても戦争は避けられるだけ避けたいと思います。

 

三日後に終戦を知る

軍隊関係では、十名ていどの特攻隊らしいもののほかには供出物資を運びに来たのが七、八名いました。船長は山口県大島の人で岡村と言っていました。南方行きの船に乗ってきたが漲水で敵機にやられてしまい、宮古の部隊に編入されて毎日タコツボ掘りをさせられたらしいです。そうしているうちに久松あたりの漁船を徴用し多良間の供出物資を積みに来たということでした。指揮者が北海道室蘭の人で、日根という伍長。こいつが非常に横暴な奴で、たばこの供出もみな日根がさせていました。いつも威張りちらして岡村船長や船員とも折りあいが悪かったようです。岡村さんたちは診療所にもよく出入りして食事を一緒にしたりしていたが、宮古には帰りたがらなかったですね。

 

「きようは天気がいいから出ます」と言いながら、なかなか船をださない。潮かげんがどうとか言ってね、何とか口実をつくっては帰らず、終戦までいましたよ。

 

終戦を知ったのは三日ぐらい後だ。往診の帰り部落のなかを通っていると、顔見知りの仲松という青年が、「先生、終戦になったらしいですよ」と言うのです。ちょうど宮古支庁にいた上地源七君らが出張か何かでその日多良間に来て話したらしい。仲松君が上地君に直接聞いたのかどうかははっきりしないが、とにかく上地君たちが三日めにもたらし、仲松君からぼくは聞いたわけです。「終戦」と聞いたときは日本が勝ったと思いました。しばらくしてから敗戦とわかってがっかりしたものです。

 

物資徴発に宮古から来た将校のなかには、日本は誘導作戦をして本土決戦をするんだ、だんだん敵をおびきよせて本土の水うちぎわでやっつけるんだ、あるいは「満洲」まで引揚げても「満洲」に上陸させてやっつけるんだと言っていました。それに日本もちょいちよい戦果をあげていることも聞かされているし、こんなに空襲でやられていても、終戦とだけ聞けば日本が勝ったんだと思うのは当時としては自然じゃなかったですか。案外、アメリカは国内がもろかったんだなあと思ったりしたものです。

 

日本が負けたということでほんとにがっかりしました。そのあとに来たのは、われわれは大丈夫だろうかということでした。何しろ軍は、「日本が戦争に負けたら日本人の男はすべて去勢して、日本人の種子は抹殺するんだ、生き残ってそんなめにあうより、死を覚悟してやれ...」。戦意昂揚のためかもしらんが、こんなことを言っていたのだから。