『沖縄県史 第10巻 各論編9 沖縄戦記録』宮古島篇 (1)

 

 

《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》 

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宮古島

 昭和19(1944)年12月までに3万人の陸海軍人が宮古島ひしめいた。急激な人口増加に加えて、平坦な地形を持つ農耕地は飛行場用地として接収され、甘藷、野菜などの植え付け面積は大きく削られた。「10・10空襲」のころから海上輸送は困難になり、軍部は残された農地を軍要員自給用農地としてさらに接収した。当初は現金による契約など一見合法的な動きがあったが、自分の所有する畑に、ある日突然"軍用農地"の看板が立てられ、入れなくなるという事態も起きた。いつ飛来するか分からない空襲に備えて、炊事のための焚煙は夜間だけに制限され、燈火管制下の平良町は夜ともなれば文字通り暗黒の町となった。

 戦況が悪化するにつれ、宮古島では食糧不足が深刻化し、慢性の栄養失調は郡民の体力衰弱となり、マラリアの蔓延を来す。物資不足の中で衣類は米穀用麻袋がその材料となる。予告なき襲撃の前に脱衣して水浴することも人々の生活から失われ、空襲におびえるなかでシラミとの闘いも始まる。昼間の作業は死につながるようになり、月明かりなどで植え付けていた甘藷も照明弾投下の夜間空襲が始まるなかで食糧自給の道も閉ざされてくる。備蓄した非常食が底をつき、掘り残されて土中で芽を出した"草のいも"を掘り、処理を誤ると中毒死につながる蘇鉄 (ソテツ) 採りが始まる。生と死が隣り合わせる「もう一つの戦争」宮古島は巻き込まれていった。

総務省|一般戦災死没者の追悼|宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県)

 

日本軍は沖縄に15の飛行場を建設した。そのうち三カ所の飛行場が宮古島あった。

10. 海軍 宮古島飛行場 (平良飛行場)

11. 陸軍宮古島中飛行場 (野原飛行場)

12. 陸軍宮古島西飛行場 (洲鎌飛行場)

 

一、軍部と民間指導層の動き

戦時下の経済業務

宮古支庁経済課長(当時)東風平〇〇

青木切るべし

米の配給は最後までやりました。馬や豚のある人もいましたし、住民の食生活は軍隊よりよかったと思います。砂糖をうんと配給しましたから、酒をつくる方もおりました。

 

非戦闘員は全部疎開させる予定でしたが、残ったんですね。残されたものは自活班と位置づけられました。輸送船の関係で、運びきれずに残ったわけですが、自活班ということで、軍に奉仕する立場ですから、農家の畑はみんな軍備品の幹や野菜を作っていたという形ですね。

 

たとえば、鮮魚組合は供出跳長の指示で解烈を供出して軍の経理部に納めますし、経理部は供出班長を通じて鮮魚の供出を命じてきました。

 

軍の主力がまいります前に、親展の文書が、県の経済部長から宮古支庁長あてにまいりましたね。かやたばやわら綱を何万準備しておくようにということがあって、最初に工作隊がやってまいりました。それからあとに主力の上陸はありましたね。有無をいわさない時代ですね。国家総動員法が実施されて、勅令で物の配給や価格も統制されていましたね。生産から配給まで統制されていましたが、県知事がそれをやり、宮古では支庁長がやるという次第ですね。

 

ところが支庁長の納戸染吉さんが病気で、そのために、実際の仕事は私にまかされたわけです。私は当時宮古支庁の経済課長でしたが、納戸支庁長は私に、「民側に立ってやってくれ」と頼まれました。

 

軍が宮古に上陸してきてから、そのやることなすことは大変なものでした。私は支庁長の命に従って、従来の線でおし進めたんですが、軍側は、「頭をきりかえ、経済業務はすべて自分らにうつせとせまりました。そのとき私は、はっきりいいました。

 

それはできません。戒厳令は出ていないじゃありませんか。私は、軍命令ではなく、地方長官の命で動かなければなりません。」と。

 

「よろしい、わかった。」と答えましたが、しだいにひどすぎることが現われてまいりました。

 

そこで、私はある夜ひそかに会合をもち、軍に対する強硬派の青木雅英県会議員、新城長保宮市察署長と三人で、「あくまで民側に立って、お互い覚悟をきめて三人でやろう。」と誓い合いました。

 

先ず最初に、「青木切るべし」の声が軍側で起こりました。供出成積が不良だ、それは、「青木のしわざだ。青木がそそのかしたのだ。」というのです。「特にこの声は経理部で起こりました。早速情報を青木県識に伝えました。そのうち、軍内部でほうはいとこの声が起るようになったので、そのことを伝えると、県議は、共同戦線でやったが、現在のままではいかんから、策を変えようということになりました。

 

今の平良市下里在の公設市場の東側の民家の二階にあった県農業会支所がありましたが、そこで部隊長以上と、三人で、定期的に会合して話し合おう、軍民協力して立ち上がる体制をつくろう、と軍に提案しました。師団長も、それはいい考えだと応じ、費用は全部軍がもちましょうということで、親睦機明の三日会がもたれることになりました。

 

青木県識と、櫛淵師団長との二人の仲は、それ以後親しくなりました。師団長の長男の戦死が伝わったときは、二人は抱き合って泣いていました。

 

このように親しくなったのですが、私どもは、それでも基本はくずしません。協力すべきは協力するが、あくまで軍のやり方で行き過ぎがあると、批判していくという線でいきました。

 

「青木切るべし」の次には、「新城署長切るべし」の声がおこりました。

 

三日会では仲良くしていったんですが、新城署長は、何か問題が起こると、軍の横暴をつきました。あっちこっちで、軍のやり方はまちがっている、といいました。それが耳に聞こえ、「新城署長切るべし」の声が起こったわけです。それで、署長は、首里署長に転勤していきました。

 

青木県議は軍に信用されていましたから、飛行機を利用することができました。当時、宮古からは三人の県議がでていましたが、一人は本土にいました。それが戦前の最後の県会となったのですが、沖縄県会があるというので、青木県識はすぐ飛行機を利用して那覇に向いました。もう一人の県議は経済課長の私を通じて、飛行機の利用を申し出ましたが、車は問題にしませんでした。

 

青木県議からの便りがありました。それが最後の手紙になったのですが、衣料品を船に積んだということでした。「これが、私の後のおみやげになると思う。大事に保管して、配給してくれ」ということがかかれ、那覇にあったものをかきあつめて送ったということが書かれていました。

 

その衣料品が積みこまれたという坂丸と大延丸が入港する朝、私は港の見える郵便局の丘に立っていました。ところが、グラマンがきて、じぐざぐコースでにげる両船をおそい炎上させてしまいました。午後三時頃までただぼうぜんと、それをながめていました。

 

青木も新城古島を去り、残るは私一人となりました。一人でも、軍に強く当たっていかねばならないと、決意をかためていました。

 

ここは外地ではなく、本土です。

平良に二つの砂糖倉庫がありました。がそれを軍に引き渡すよう要求してきました。私は、それをこばみました。国には行政機関があるんだから、それがある限り、私はどこまでもその決定に従うだけだと答えました。

 

しかし、その二つの砂糖倉庫が空襲で燃えてしまいました。師団長に呼び出され、お前が軍にさからうから、大量の砂糖が燃えてしまったではないか、こうなっても、お前はいうことをきかないのか、と迫りました。

 

「しかたがありません」と答えると、「お前のやったことは利敵行為だ」といいます。「燃えたのは、不可抗力です。県知事がいなくなっても、内務大臣がいる。私はその決定にどこまでも従います。」と主張しました。

 

「お前は理くつばかりこねている。それは何の為か。」と師団長は申します。私はそれに対し、「勝ち抜くためです。ここは外地ではなく、本土です。その点で、今までの戦争とはちがう筈です。戦争に勝ち抜くために軍に協力はするが、民の生活を守るのは行政官の仕事です。」というてやった。さすがに師団長は、「よくわかった。」というてくれました。

 

しばらくして、もう一度よばれたとき、もっと考えてみようと、策を考えました。民の生活を軍が保するならば、あんたのいうこともきいてあげよう、ということにしました。

 

三日会のあった頃、「軍民協力要綱」というものが、三名打ち合わせて作ったのですが、それを実際に行なうことになりました。食糧は軍が全部管理して配給してくれることになりました。経済課長は、月に一回、軍の将校や兵の食事を視察しました。

 

十九年の中頃、先島定期船の客船も沈められましたが、軍は食糧確保のため、西表島の船浮に穴を掘って中継地を作ってありました。百屯ほどの船で台湾から、夜間を利用して、そこに運んできて集積していました。それを更に、宮古の方に運んでいこうというわけです。その基地には山崎少将が司令としていました。私も、その中継地を視察しましたが、そこには、朝鮮の人や台湾の人が働いていました。穴揃りが終って、七、八十人ほどいた朝鮮の方は、宮古にやってきて、平良市内の第二小学校にいましたが、西表にいた頃は、マラリアではらがふくれていて、見ていて気の毒でした。あつかわれ方はひどく、ちよっとなまけると足でバツとけられるというものでした。

 

この船浮中継地に集積されております食想の中には、民への割り当ての分もあります。しかし、民には、既に輸送船がありません。輸送は軍に頼らねばなりません。軍優先だということで、民の分を運んでもらえなければ、民は日干しにならねばなりません。私の強がりにも限界がありました。それで、民の生活を果が保障してもらうという条件で、管理権をゆずったという次第です。

 

考えてみると、現在どの程度まできているか、軍のおもわくも考えないで、民のためと、ねばったと思います。「切ってやる」という処まできていたんですね。

 

戦後わかったことですが、納見という師団長は、宮古支庁経済課つまり私のやり方に、ひどく怒っていたんですね。明知という前の宮古支庁長に二十年二月に出された納見中将の手紙がそれをかいてあるんですね。

 

その手紙は、納戸支庁長が、軍のままにならないので、同じ広島県出身であり、台湾在任中親交のあった明知さんに、納戸さんの後任にきてくれという請の手紙だったんですね。納戸さんは、第三十二軍の長参謀長と同じ福岡県人だったんですがね。要するに、意のままにならない民の抵抗に薬をにやしていた証拠ですよ。

 

これは、十九年の初め頃の話ですが、軍に対する抵抗を始めるもとになる話です。

 

当時、燃料は血の一滴といわれていましてね、漁船の場合、漁期は近いが、燃料がたりない、という頃でした。ここで、朗報がやってきたんです。

 

南方視察からの帰りに、那覇に立ち寄った東条首相が、島田知事や経済部長に語ったということです。燃料をもってきてくれることはできないが、自分らでとりにいくならいくらでもかまわないということでした。

 

このことを伝えると、宮古水産業者は、ぜひやろうということになり、平良の町長に了解してもらって、大野山林の松木で船を改装し、九隻の漁船が南方に行きました。四月の九日に出発し、危険な海を往復して、およそ二か月後の六月十一日に、石油を満載して帰りました。

 

ところがです。折角苦労してもってきた燃料を、桟橋の近くにいた暁部隊がとり上げてしまいました。船をもです。民は泣きねいりしなければなりませんでした。

 

軍の方も民のやることには不満だったんですね。食糧営団宮古支所では、所長は台湾に食糧を求めにいったんですが、帰ってきません。それでも、そこで、終戦まで、配給は続けられました。一か月に一度、AからDまでの級差と年令別で決められた基準で、民には配給が行なわれました。軍はきりつめて民に出していましたね。

 

私は、添道の親類の疎開先で食事はさせてもらい、配給に通いました。添道に宮古支庁がうつった、というのはまちがいですね。街の東にある東川根の民家に書類を疎開させてありましたね。支庁長は病弱だし、総務課長は城辺の方に疎開していました。支庁の仕事というのは、経済課の仕事だけでしたからね。妻子を台湾に疎開させてありましたから、とびまわれたわけですね。「終戦の直後にストリート大尉が最初に島にきました。その次に正式にきたのが、チェスという少佐ですね。ウッド少将の物資係の証明書をもってきましたね。兵隊の身につけているのは、ふんどし一本だけが私物で、あとは官の物だという姿勢でした。

 

日本軍の方がつくってあった軍資材の民への配給計画をみて、チェスはけしからんといい、やりかえとなりましたね。今の博愛医院の所での米軍と日本側との話し合いでしたが、両軍ともいい合いをしていましたね。「日本軍が引き揚げるとき、アメリカが、桟橋で時計をとりあげる風景もありましたよ。そのようなことで、おくれて台湾にまいりました。妻はマラリアで台湾の地でなくなりました。子どもたちをつれに行ったわけです。それで、疎開民引き揚げの栄丸遭難の現場を目撃することになったんですね。ハゲタカがやってきて、浜にうちあげられた遺体の上を舞っている姿は悲惨でした。

 

この遭難のとき、疎開民のために、米、醤油などの食瓶を放出してくれた経理の佐藤少尉のことは今でも忘れられません。

 

軍とのトラブル

平良町西原部落(当時兵事係)仲間〇〇(三八歳)

私は兵事主任ではありませんでした。在郷軍人指導主任ということで、昭和十七年十一月から、平良町の兵事課につとめていました。

 

軍隊は上等兵で終っていたんですが、沖縄速隊区司令官からの電報で、伍長に昇任したんです。長いこと、在郷軍人としてがんばったというわけですね。兵事主任の松川さんも伍長でした。

 

在郷軍人の訓練というのは十日に一回の割で行なっていたんですね。各班の班長を通じて報告を受けていたので、在郷軍人の一人一人について、誰それはどこで何をしている、ということなど、みんな暗記していました。

 

役所のある所は広場だったでしょう。あそこで訓練しましたが、戦争がいよいよとなったら、平良町全部の海岸線の防空壕掘りをしたんですよ。

 

豊部隊命令で八七〇名の動員令がやってきたとき、およそ半数にあたる四〇〇名ほどについて、つっかえしたことがありました。

 

兵事主任の松川英市さんは、これら四〇〇名については、兵事課に関係ないからということだったんです。

 

憲兵が、役場にきて名線を調べていたんですが、それによって、動員令をかけてきたんですね。その半分も、つきかえしたわけですから、軍は平良町のこの挙に対し疑いをもったようです。

 

細竹の連隊(歩兵第三○連隊)に公隊の訓練召集をかけて点検をやりましたね。町の兵事課を通さないで、町内会長や部落会長を通じて十七歳以上の名判を提出させ、それによって召集したんです。

 

午前中は竹槍訓練をしたわけですが、午後二時頃、津田副官が突如命令を下し、町内会長、部落会長、兵事関係の者を禁足しました。

 

「命令。別命あるまでここから出ることを禁ず。」といいました。そして、自分はさっさと帰っていったんですね。それと代って、准尉や画長などがやってきて、「兵事課はきなさい」というのです。

 

松川主任と私、下地さんに宮川政次郎さんの四人が前に出ていきました。質問が、兵事主任にとんできました。「何番地の某は、きようの召集に応じてきている。それなのに兵事課の名簿にはない。」「兵事課の名簿はいい加減じゃないか。」ときました。それに対して、松川主任は答えます。

 

「第二国民兵までが兵事課の名簿にはありますよ。徴兵検査で丁種やぼ程だったものはない。東は丁種だったんです。」ところが、むこうはききません。「某は立派な体をしているではないか。」と反撃します。「あんたは徴兵検査の頃の某をご存知ですか。今は立派な体になっているんだが、徴兵検査の判定は丁積です。」兵事主任は一歩もゆずりません。こんどは、手をかえてきます。「某は兵事課の名称にあるが、いないではないか。」「某は今、どこそこにいる。」

 

一々やる。その一つ一つに兵事主任は答えて勝った。そうしていると、役場から電話がかかって、兵事主任はすぐかえれ、ということで、松川さんは帰された。

 

かわって下地さんが応対する番になる。ところが当の下地さんが「弘雅さん、あんたがやってくれ」という頼みをするので、私が代って坐った。

 

最初の攻撃は安谷屋という兄弟についてであった。「兵事課の名簿には、安谷屋何と安谷屋某の二人があるが、これはまちがいで、一人の人間を二か所にかいてある。」とでてきた。

 

私はそれに対し、「いや、これは兄弟だ」といいはった。町内会長も、事実をいってくれて、私が勝った。

 

そういうことでは勝目はないとみたのでしょう。とうとう本命の問題を出してきました。「それではきくが、豊部隊長命の動員令をあれだけ返したのは何故か。」と。「兵事に関係のないものをつっかえしただけです。」と答えると、いつの間にかやってきていた少尉が、刀をガンと音をたてて立て、「貴様らは、満四十五歳までの男子は、全て兵役に服する義務があるということを知らんのか。」と、どなりました。

 

そのとき、今でも不思議に思う位、すらすらと、私の口をついてでた言葉を、いってやりました。「皆さんは、充員召集令状規定第三十五条から、第三十九条まで読んできなさい。特にないものは出せないんです。」

 

第一線の (読み取り不明) は司令官が現地召集をやる場合の規定なんですが、これを口に出すと、かんたんに、相手はだまってしまいました。「追いうちをかけるように、「兵事課に籍のないものを召集するというんなら、戸籍課がくわしいでしょうから、向うにまわせばいいでしょう。」といってやりました。

 

沖縄の離島だからどんなことをしているか解らない。そういう不信感があったんですね。しかし、このトラブルで、兵事課がうそをついていないことが判然して、それから、軍の兵事課に対する信頼の度は増しましたがね。

 

それ以来、この種のトラブルは起こりませんでした。これは昭和二十年、空襲がはげしくなったときの話です。

 

碧部隊というのは伊良部にいたんですね。ひどいことをやっているということは伊良部からの報告でわかっていました。

 

それが、二十年の六月に「そのり」に移動して集結しました。そして、この辺(西原)の人々を伊良部扱いにしようとしたんですね。だが、そうはさせませんでした。この辺の人は元気があるでしょう。

 

元気があるといえば、西辺の校長をしていた天久先生ですね。碧部隊のくる前ですが。その天久校長はスパイだと、軍がいうていたんですね。その根拠というのはこうですよ。

 

軍が学校にやってきたとき、何の前ぶれもなかったんですね。そして、勝手に校内に入って勝手に坐っていたんですね。学校長として、軍の勝手にすべきかと、しかりつけたわけです。

 

それからあと、こんどは、兵隊が部落内に入り、ある処女のうちに入ったんですね。それを、部落(西原)の青年たちがきき、そのうちを包囲したんです。そして、口々に叫びました。お前らは女たらしにここまできたか。戦陣訓を読んでるか、と。

 

その兵隊はにげだしましたが、青年たちは兵隊たちが駐屯している国民学校にいき、学校の周りに立って待っていました。

 

その姿に気づいた、ナヅカ曹長が、怒って、「軍を監視するのか、承知しないぞ」と叫びました。

 

校長在では学校敷地内の部落に一番近い所にあったが、この騒ぎに、住宅からでてきた天久先生は、事情をきいて、「それは君の部下が悪いではないか。」とたしなめたわけです。夜半の事です。

 

天久先生は、白は清純だというお考えから、御真影を運ぶとき白い風呂敷で包んだそうですね。処が、その事も、軍がスパイよばわりする因だったんだそうですよ。白は不吉だということで。

 

このようなトラブル等があったため、練成隊の隊長は考えたんですね。木村大尉という隊長は、軍民は一体ということで、自分の事務所が、部落内の浜川家にあったので、そこへ部落の有志を集め、軍の材料(飲食物)を出して懇談会を催しました。

 

これを機会に、この練成隊と部落民は仲よくなり、翌月は、民の方で軍の幹部を招くという次第となりました。

 

この練成隊というのは病み上がりの兵の部隊でしたが、引揚げるまで仲よかったのです。

 

ところが、碧部隊の方はそうではなかった。軍がきたとき、最初にやったことは、真昼間、部落に入りこんで、雨戸などをひきはがしたことでした。

 

有無をいわさず雨戸をひきはがすのをみておばさんたちは木村隊長に報告しました。木村隊長は練成隊にいって下士官を動員し、部落の出入り口で、略奪を阻止しました。雨戸を三十数枚も取り返したんですね。

 

そういうわけで、同じ軍ですが、練成隊には信頼が集まったんですが、碧部隊は、その部隊長が引屯していた部落の一部を除いては、最後まで人気は悪かったんですよ。

 

碧部隊というのは旅団(独立混成第五十九旅団)でしょう。それが、急に移動を命ぜられて急にきたわけですから困ったでしょう。兵舎も衛兵所も作りたい。食糧も得たい、というわけですから。

 

ここ西原はそれまで山上隊の管轄でして、野菜なども、ヤマガミ隊に供出していました。それが続けられる上に、碧が割りこんできて、無理に押しつけてくることになると、いくらおとなしい部落の幹部も、それを受付けるわけにはいかない。そういうことで衝突もたえなかったわけです。

三名ぐらいは部落民になぐられたわけですね。そういうことで、碧部隊は最後まで人気は悪かったんですね。

 

仲間〇〇日誌

平良町の西原部落の有志であり、兵事係でもあった仲間さんは、空爆下のメモをもっております。けい紙に香きこまれたそのメモを原文のまま、文戒録しました。

メモは二つの級からできています。文中◇◇印で分かれております。◇◇から後半の部分は、ヤマスwという野草の実の汁で書かれています。インクがなかったということです。

備忘錄昭和十九年九月十四日台湾疎開ノ為〇〇戸人員九十六名(男女)出発、他町内会、部落会ノ疎開者ト共ニ出発ス。幹部ノ疎開ニ関シ関心無之為曖昧者が多ク随ツテ疎開者少ナシ情況〇〇ノ為延期シ十六日出発ス十月十日●七時三十分初メテ空吸引受ク、敵グラマンキ十数機主トシテ輸送船団ニ襲撃セリ(一隻撃沈、数隻大破炎上)昭和二十年一月三日|敵ノグラマンキ四機来襲シ内一機宮国海岸ニ墜落漁民ニ捕虜サル一月八日午前八時五十分米機B&一キ来襲セルモ偵察シ東方ニ遁走ス一月九日午前八時頃敵十二機来襲ス海軍飛行場ニ爆弾投下セリ一月二十一日午前九時ヨリ十二時十五分迄米グラマン機延二十機来襲十九時ヨリ夜ヲ利用シテ初夜間空襲海軍飛行場附近ニ爆弾投下シテ遁走ス一月二十二日午前九時ョリ十六時三十分迄三回ニ渡り延機数二〇キ米グラマンキ来襲セリ

二月六日。九、三〇分B&一キ来襲セリ二月二十三日一0時頃池間島灯台附近「爆弾投下及機銃掃射ヲナス三月一日●七、三〇分頃二機来襲、一六時、凡ソ四十機来襲シ輸送船二隻爆沈サル三月二十四日午前七時三十分ョリ敵艦城キ終日来襲セリ四月一日早朝ョリ五回ニ亘り来襲セリ四月三日始メテノ大空襲、空爆ヲ蒙ル、町内ハ元ョリ、当部落内ニモ東支部四五二番地ノアキ屋敷二時限爆弾落下西支部五四番地高良蒲氏の南アキ屋敷ニ投下サレシモ人畜ニ被害ナシ(十五時三十分)長崎宗次郎、長崎金三邸宅ニ相当ノ(半倒壊)ノ被害アリ二五〇軒爆弾ナリシモ部落民ハバク弾の威力を始メテ味ハエリ而一九時三十分頃時限爆弾破裂シタルモ被害全クナシ延機数二〇〇キ内外ナリ四月八日終日大空襲延三〇〇キ内外ニシテ敵ノ空製猛烈化シテ来タ野原正雄、花城太郎、二軒エイ光弾ニ依ツテ焼却シタ尚同日兵隊一名機銃ニ依リ貫通銃創ニ依リ死亡ス(盛島金二郎宅)四月九日十二時頃ョリ平良町内ヲ爆撃シ更二焼夷弾ヲ以テ悲惨極マル大火

災ヲ生ゼシメ全町ノ約半分ノ被害ヲ蒙レリ、此ノ日黒煙蒙々ト天ニ沖シ人心恐々タリ四月十二日久方振リニ敵機ノ来襲ナク民心称々落付ケリ四月十三日十五時三十分頃広瀬尾岬近海ニ於テ漁撈中禁南善(五十九才)ケット弾及銃爆撃ヲ受ケ死亡ス五月十三日機銃掃射ニ依リ大浜マツ茅葺焼失ス尚外ニ前泊衆盤宅ハ消シ止メ大事ニ至ラズ三〇〇仲間金角(孫娘)二人負傷ヲナス五月十五日十八時頃三五〇番地禁南助(五十六才)自宅ニ於テ機銃掃射ヲ受ヶ即死更二三九六番地真萬屋加根ハ右腕ヲ狙撃サレ切断サル

五月十七日十五時頃機銃掃射ニ依リ二七六地仲宗根浦(七十三才)即死五月二十四日○曜日晴天十五時三十分頃東方ョリ七機編隊ニテ襲来爆弾四発投下第一、ハ四二○番地花城隆盛ノ家宅ノ直グ後第二発、三三七番地石概市門前第三発ハ同人/庭前へ第四発ハ同番地)前泊秋太郎ノ台所ニ宜撃ヲ喰ハシテ脱去セリ被害ハ花城隆盛宅、瓦許一棟、警防団詰所、比嘉伍助ノ馬小屋瓦葺二階建(半倒壊)池田長政ノ本宅一棟、仲間弘雅ノ本宅、各々軽微ナル被害ト前泊秋太郎本宅一棟(半倒壊)を蒙ムツタノwニテ人畜ノ被害ナシ五月二十七日十六時○分頃主トシテ部落ノ北部一帯ヲ西上空ョリ(四機)機銃

掃射ヲナシ仲間御嶽ノ森二繋ギアル馬、四五〇番地仲間次郎所有ノ小馬ニ貫通銃創ヲ負ハシメタリ

六月四日十五時○分頃敵キ○機米シ爆弾(二五〇正)一発ヲ三〇番地前泊金箱本宅庭前ニ投下シ同家屋一棟ヲ抑潰シ掴同破片に依ル損害ヲ蒙レル家屋若干アリ。大田浦、仲間男勝、高良恵正、友利芳雄、赤概長太郎、各本家ハ使用不能料クハ相当被害アリ

六月九日●幅(天十六時三十分頃敵三十六キ米慶一部(三キ)北支部長崎計助宅附近及仲間与之助ノ歴二機銃抑射ヲセルモ被害全クナシ六月二十五日○曜日晴天二十三時三〇分頃敵上陸ノ恐レアリトナシ防術隊ノ集結ヲナス(三月廿九日以来第三回目ナリ)

五月二十二日火mmH防衛隊訓練日二付本部(山上隊)二山遮更二病人欠席者ヲ調査ス督励ヲナス尚現金回収督励ヲナス

五月二十三日水曜日雨天現金回収督励ヲナス

五月二十四日木曜日晴特命令状交付ノ為西原ニ出張ス五月二十五日金儲日大雨天

大浦、西原最寄ニ特命令状交附ノ為出張西原現金回収(第一次)ヲナス約六万円也

五月廿六日土曜日雨曇天臨時防衛隊出場〇〇水際隊作業援助五月二十七日日曜日雨天海軍記念日、防衛隊出場日(臨時)役場ニ出頭中、十数キノ敵キ襲来ニニフ(ソノリ案附近)五月二十八日月曜日晴天雑記怪蜻蛉天ニあまがけりて地は砕け硝煙は天に沖して万つぼむ遠近にこだます人穴に入り神機の至るを待つ皇土の南端宮古島

切躍腕幾星霜吾れに百戦必勝を誇る斗魂の士ここにありかっては日露の戦ひに五勇士を産み更に殊勲勲える勇士限りなし鳴呼武の国宮古島、弘雅

八月七日時限爆弾ニ依リ海軍飛行場北側ノ高地俗称○○附近道路上二於テ馬車ニテ運搬途中十三時頃大音響ト共ニ爆発シ仲間武夫、本村恵規、楚南加那志(鬼虎)三人爆死ス

八月十日10時頃漁労中マル附近ニ於テヲカシヲスイジリ爆発シ負傷シ数日後ニ至リ死亡ス四二一番地親泊加根一生ノ幕ヲ閉ズ八月十五日

果然停戦ノ詔書換発ノ報ニ接セリ

九月一日兵事課書類始末ヲナス

九月三日野原越二所用ノ為行ク仔馬ヲ買入レタ

九月七日幹部会ノ予定ナリシモ十日ニ延期セリ

九月十日松川英一宅ニ行ク、下地、宮川、四人シテ久振リニテ一杯ャツタ米国人が始メテ宮古二足ヲ入ルトノ報アリ(十八名)居所測候所ナ

・九月十二日役場ニ行キ町長初メ吏員一同ニ挨拶ヲナス九月十八日増産ノ為美里原ニ芋植ェ準備地全部約一段植付完了ス九月十九日部落全地区ニ農作物及盗難事件頻発ニ伴ヒ監視ヲ交代ニテナス

九月二十一日監視中君、福永隊)兵隊ヲ東支部ト北支部ノ両支部ニョリ其レゾレ引捕ヘテツキ出ス九月二十日西支部兵隊盗き手捕ヘテ玉木隊長ニ突キ出ス不思ギニ民ガ引カカラズ兵バカリ引カカルノハ不思議中ノ一ッ九月二十一日

阿部隊ノ矢端利夫ト一兵芋ノ葉、小豆盗w中南支部ニ捕ヘラレテ隊長ニ付キ出サル盗難事件ハ頻繁ニ出没シ不安ナリ甘藷ハ無ク米一斤三五円トハ実「社会問題ノーッ

九月二十二日土晴北支部ノ十九日監視番全員福永隊長ノ命トシテ小松少尉外下士官二名呼出・来リタリツテ部落会長以下数名福永隊ニ出頭セリ種々隊長福永少佐怒語ニ依ル話ヲ耳痛ク間キモシ道郵モ非道理モ交交ダト思ッター概略的ニ言ヘバ少佐殿ニハ筋道ガアリ隊長トシテモダト感と初対面ノ時モ第三者ノ立場カラ臨キ斯ル隊長ノ意志が兵ニ徹セズシテ汁ル事ヲ覚エタ話終テ営倉カラ出テ来タト云フ件ノ兵隊ノ二人ヲ皆ニ詫ビセシメテ帰ス後部落会長ト二人シテ種々ノ面ニ渉ツテ部落民ノ意志及被害ノ状況ト監視ノ意味を申上ゲ懇談シテ引トル十五夜ダト云フノニ炎泥問迎デ斯クノ如キカト思フノニ之ハ又意外青年等漁労中二名爆死三名負傷者ヲ出シ人々を燃カシタ青年団ニ於テハ(男女)十五夜を利用娘英演芸会開梱シタ

十月七日疎開者引揚ゲノ為台湾ニ出発セリ

 

こき使われいろんな物をみた役場吏員

平良町下里砂川〇〇(二八歳)

V8の運転手として

昭和二十年に入ってからのことでしたか、そのときはもう、警防団も消防隊も一つになっていましたよ。私は、当時宮古にあったただ一台の消防自動車V型八汽筒のフォード(略称V8)の運転士をしていました。

 

朝鮮船員の乗っている油相船が漲水の港(平良港)でもえだしたというので、出動しました。七一四(第二、五飛行場大隊は、球七一四部隊と称していた)の舟艇に消防車をつみこんで消火に当たりました。そうしているうちに、池間島の方からグラマンがつっこんできました。船員の大部分は上陸していましたが、油槽船の方は逃げ出して、一番高屋といわれた第一桟橋と第1桟橋の中間にあたる岸にくっつけました。私たちも上陸しました。そこで、池間の沖で大きな船が水柱を高くあげて沈没するのをみました。あれが豊坂丸でしたでしょうか。第一桟橋の処につながれていた海軍の警備艇の方は、佐良浜めがけて逃げ出しました。飛行機が追っていって沈めてしまいました。

 

私たちが消火に当った船は、無事鎮火はしたが、もう使いものになりませんでしたよ。ところが、そのままにしておくと、空襲の度毎にこの船がねらわれるというので、良から離れた大浦湾の方にもっていきましたね。戦後も、赤勢びた船体をぶざまに海面にさらしていた船ですよ。大建丸ですかね、あれが。何回も何回も銃撃をくらったはずですよ。

 

消防隊は、それはもう決死の作業でしたね。四月になってからのことですか、平良市街の北部に当る荷川取や西仲宗根が焼けた日のことが想い起こされます。

 

畝岡という鉄工場の付近がもえだしたので、石田警防団長を先頭に出動しましたね。ものすごい焼夷弾攻撃です。夕方から始められましたね。真玉御獄というお宮のある海岸に戦車のキャタピラが秘まれてあったのがねらわれたんですかね。かけつけたときは、あたりは一面火の海です。

 

うね岡鉄工所の東側に近く、消防用水の水タンクがあったので、その水で消火に当たっていましたね。すると、また空襲です。今度は機銃掃射です。バラバラやりだすと、みんな逃げだしました。

 

私も、消防車の下に身をかくしていました。車の下におって、アクセルを引っぱり、エンジンをいっぱいふかしていました。筒先をもった人は、一人で頑張っていました。しかし小さな水タンクです。水もすくなくなり、もう誰もいなくなりました。はげしい空襲のさ中、兵隊たちが、たんかをもって、南の方へ、何人もの人を迎んでいくのを見ました。あたりは一面、煙がまいくるっていました。

 

危険が刻々せまるのを感じましたから、ホースをはずしましたね。一人ではまくことも出来ませんからね。車だけを運転して、そこから二百メートルとは離れていない外間お獄の木のしげみの中に移動しました。そして、警察署にあった本部に帰って報告しました。そうです、ホースはあとでひろってきましたが、それが消防車出動の最後となりましたね。

 

野村さんのやっていた新世界という映画館の正面に爆弾がおちたときは、仲村警部補と警察のやぐらの上にいました。物すごい黒煙があがり出したので、さては、うめてあるというフィルムがもえだしたな、とわかったので、かけていってみました。ひとのたけよりも深い大穴ができており、建物はくずれていました。そのとき、ひとのうめき声をききました。木のきれなどをとりのけて声の方をみると、頭の皮をはがれた瀕死の状態の派河さんです。隣の店の主人ですが、大きな建物が安命だと、そこに避難したのでしようか、柱の下にはさまれていました。これは大変だと、四、五十メートル先の大見謝支店にいって、前に話した油槽船の乗組員だった朝鮮の人たちをよんできて一緒に救出しました。しかし源河さんは亡くなったんですね。朝鮮の方たちの応援で爆撃跡は一応整理しました。

 

防衛召集野村酒屋など街の中心部(西里大通り)が焼かれたときは、当間隊(郷土部隊の特設警備第一〇九中隊)に召集されていましたが、街がやかれたので、逃げてきてみましたね。私の外にも多勢いきました。そこらはすっかり焼けていました。もろみおきの西側に、呼村の婆さんがうずくまって生きのびていました。そこに中飛行場の郷土部隊(特設工兵第五〇五大隊)にいっている野村安正さんもきていたが、酒をのんで、気狂いのまねをしていましたね。「〇〇、ごらん。何もかも終りだよ。君も酒をのめ」、と涙声でわめいていましたね。

 

当間隊には永らくはいませんでしたがね、毎日が壕掘りでしたね。訓練なんてものはありません。徴兵検査で第二乙でした私は、昭和十五年から十六年にかけて、北支の飯田部隊で軸重隊の一等兵になっていました。私服の国民服に二つ星の階級章をつけていました。作業ばかりで横穴ほりをさせられましたから、鉄砲など支給されませんでした。

 

防衛隊にも何回か召集されました。当間隊などとちがって、これは一日かぎりの訓練ですね。盛加の南の概のすその広場に、何日に出てこいという令状でやってくるわけです。

 

隊長は少尉で村山とかいう人でしたね。ここでは竹槍訓練がおもでした。それに個人塚 (たこつぼ) も掘らされました。個人壕に入っての訓練もありました。

 

個人壕に入っての訓練は奇妙なものでした。敵の戦車がすぐそばにきたとき、身をのり出してハンマーで爆雷をたたいて爆発させ、さっと、壕の中にひっこむというものです。爆雷の実物ではもちろんなく、もけいのような代用品を使ったわけです。爆雷式日光砲というもんだときいたんですがね。

 

その形もないものを、ハンマーもないんですから、ハンマーをにぎっているかっこうをつくって、たたくまねをしたというわけですね。

 

実際にはどうなったか知りませんがね、たたいて、すばやく壕にもぐれば、戦車はこわれ、自分の生命の方は助かるものと信じていましたよ。

 

式日光砲というのはすごいものだったんでしょうね。貯蓄奨励に担当の細竹部落に行く途中、空襲があってね、街の東のはずれ、東川根の洞穴に身をひそめたのですが、ものすごい音が飛行場の力向でしたので、その方をみると、煙がどっと上がっていましたね。

 

そのあと、海軍飛行場と中飛行場の間にある地盛の方に行きましたが、飛行機のかけらがいっぱいちらかっていましたね。二機か三機を一度にふっとばしたようですね。そのとき、日光砲だという話をききましたよ。

 

空襲下の貯蓄奨励

私は、消防の外に、役場の戸籍係も跳ねていました。空襲がはげしくなると、役場は東川根の友利玄繁さんの所に移っていました。

 

家族はみな台湾にそ開させてありましたので、よく役場でねとまりしました。郷土部隊に行っているときを除いたら、ずっとそこでした。

 

私の主な仕事は、召集令状を町の北部方面に配達することと、貯苦奨励に出かけることでした。

 

仮役場も安全ではなかったんですね。爆弾二発が落ちてきましたよ。玄関先と、少しはなれた処でした。私たちは、庭の防空壕の中にかくれていましたが、その中にも土の雨が降りました。危ない、ということで、戸籍や兵事課の書類は、添道部落の壕の中に移しました。

 

軍の経理部から、貯蓄奨励に行ってこいというてきました。空襲の中を、しょっちゅう行け行けと、督促するものだから、ブーブー不満です。その日も亦、空襲でした。仮役場の裏の畑で芋植えしている親娘がいましたので、みんなで壕にはいれとすすめました。ところがきき入れてもらえません。宮古神社の神主の本永さんです。「私は神の人だから弾丸はこないよ」といってとりあいません。仕方がないので、自分らは壕の中にかくれました。空襲はボンボン始まりました。突然、女の子の悲鳴がきこえました。出ていってみると、本永さんは頭蓋がまくれていました。友軍の高射砲の破片でやられたようで、即死でした。

 

空襲下でも、貯蓄奨励を強制するのは、わけがあったんですね。兵隊に月給をはらうためには、現金が必要だったんですね。補給は断たれているのですから、島内にある金をまわさないとならなかったわけです。私の担当は細竹の部落でした。行っても、それはなかなか人に会えるものではなかったんですね。

 

これは戦後の話なんですが、平良の街の東のニャーツの近くにいた海軍の吉丸隊では、下士官が何名も、兵隊たちにしげみの中でなぐられていることをニャーツの義妹からききましたよ。兵隊の不満は、いつでも爆発するおそれがあったんですね。だから、月給やらんといかん、そのために貯蓄奨励をやらされたわけですね。

 

話はもとに戻りますが、貯蓄奨励して細竹から帰るとき、二越の手前にさしかかったとき、至近弾をあびたが、奇跡的に助かりましたね。丁度五本松のある処で、そのかげで破片をさけることができました。

 

いのちびろいして、ニャーツ部落にくると、吉丸隊の兵舎では、馬肉のごちそうをしていました。空襲でやられた民の馬をくっているということでしたね。凹地にあった軍属の兵舎が機銃掃射をあび、人も死んだということでしたがね。

 

平良の街についたのは夜の八時頃にはなっていたでしようか、またも空襲です。私がかくれていた近くの基地に直撃があり、伊舎堂さん夫婦がやられましたね。貯蓄奨励もいのちがけでした。

 

七一四部隊

軍が何かをたのみに、役場にやってくるときは、いつも少尉あたりを長としてやってきましたよ。

 

私が七一四部隊に連れていかれた日も、いつものように朝の十時頃に空襲がありました。空襲がすんだので、少尉の車にのせられて、七一四部隊の本部に向いました。私の技術を見込んでのお供ですので、得意の絶頂でしたね。

 

七一四部隊の本部は、派軍飛行場と中飛行場の中間ほどのところにある山中部落のマクズクという処に当時はありました。そこに、戦利品でしょうか、フォードのV型の自動車が二台ありました。町の消防車と同じ型なので、私に修理を頼んだという次第だったのです。

 

そのときは、ひどい奴らだと思いましたね。その頃は、私たちは、モグサの葉などをほした紙にまいたタバコの代用品を吸っているのです。私には修理をさせながら、自分らはほんもののタバコをスパスパやっているのです。一本さえ吸わそうとしないのです。

 

それだけではありません。四時頃に、修理を終えて帰る段になったわけですが、お礼はただ一つ、「ごくろう」という言葉だけでした。車も出してくれません。歩いて、独りで帰りました。

 

出来るだけ近道を通ろうというので、飛行場のすぐそばを通りました。敵をあざむくために作った木製の偽装飛行機の側にきたとき、そのかげに者婦人のうずくまった死体がありました。空襲がきたので、藁をもつかむ気持で、そこに難をさけたつもりだったのでしょう。重箱にもちをいっぱいつめたのを胸にだいたまま冷たくなっていました。

 

知り合いの山内の婆さんでした。朝の空襲でやられて、誰にも知られず、死んでいったのでしょう。さっそく、留守宅に報らせました。

 

平良の街で直撃をうけて死んだ兼島家の女の人を、実家のある地盛の墓に葬ったのだが、その人の初七日にあたるというので、もちをそなえに行く途中に、不幸にあったのでした。七一四部隊というのは、宮古に一番はやくやってきた飛行場部隊(第二〇五飛行場大隊で、通称、球七一四部隊)ですが、そこの隊長はヒゲ部隊長といわれていた吉岡軍一郎ですね。この人は、私のうちの南隣りの上地倖吉さんの処で、ときどき酒をのんでいましたよ。

 

終戦も近づいた頃でしたかね。私のうちの付近は戦禍をまぬかれていました。その日は私はうちに帰っていましたがね、ヒゲの隊長と、吉さん、それに医者の高原恵典さんの三人が酒をのんでいましたね。そうした処へ、防衛隊の村山とかいう少尉がやってきましてね、私のうちの西隣りを間借している下地淳一さんの処で、高原さんとこの運転手をしている仲宗根さんの行方をたずねていたんですね。仲宗根さんが防衛召集に応じない、つまり、にきていないので、探しにきたというわけなんです。それを伝えきいたんですね、高原さんは。おこって、自分の医院の車庫の処で、口論になりました。酔っていた高原さんは、少尉の耳にかみつきました。少尉がスゴスゴとかえっていく姿を私は見ました。

 

その晩、私は、台湾に疎開でいっている家族のところへ、島をぬけて行く決心をしました。七一四部隊は、大発という舟艇をもっていましてね、これが空襲下でも八宝山と往来しており、台湾までも行っていたんです。私の北隣りの人は、台湾からその船でかえってきたんですが、ゴールデンバットというタバコを大量にもってきて大もうけしていたんですね。その大発が、翌朝台湾むけ出発するというのです。そう酒座で話しているのを耳にしたんですよ。私も使乗を頼みこんだんです。

 

翌朝は、未明に起きました。早速吉さんの処へ行きますと、なんともぬけのからなのです。その晩のうちに、大発は出発してしまったんですね。吉さんはその船にのっていったんです。人間、何が幸か不幸かわからないものですね。戦後、栄丸遭難の際、吉さんは不帰の客となってしまったんですから。

 

憲兵伍長

こんな話をしてもいいんでしょうかね。那覇無尽というのがありましたが、その西隣の与儀さんのうちは、爆弾でふっとびましたね。一家全滅でしたよ。すぐ隣の比嘉商店のコンクリートの壁は、血でそまっていました。

 

そういうことがあって、那覇無尽にいた憲兵隊は、私のうちから西へ五〇メートルとは離れていない平良さんの処へ移っていました。憲兵たちは分散して住んでいたようでしたが、そのうちの一人である伍長が、私のうちに住んでいました。

 

七月の初め頃でしたでしょうか。うちにかえってきた私に、今夜はねむれそうにないから、酒を買ってこいというのですね。仕方がないので、当間隊にいる頃知り合った増原部落の人のうちまで買いに夜道をいきました。キビ汁で作った密造酒を買ってきてのみましたがね。その憲兵は、中飛行場で不発弾処理をさせていた米軍の飛行兵の捕りょをピストルで撃ってきたという話をしていました。

 

捕りょといえば、久松の部落の中にも、アメリカの飛行兵が降りたんですね。それをある臀部補がやろうとして、みんなにとめられたということもあったそうですね。

 

朝鮮人慰安婦の遭難

平良町西里池村〇〇(三一歳)

昭和十八年、平良市西里で歯科医院を開業していました。当時は篠原、西村、高砂、それに私の四か所がありましたが、戦争が次第に悪化の一途をたどる中で他府県から来て開業していた篠原、西村氏は各々郷里へ引き揚げて行きました。十九年、いよいよ、宮古も戦争にまきこまれると云う事で私も家内を島根県疎開させました。身重の体で、子供二人をつれ、家族別れをして、妻は旅立ち母と私と妹三人で宮古に残る事になりました。家族別れの生活は不本意だし私も一緒に行きたかったのですが、軍部はそれを認めませんでした。

 

十九年末ごろ、町の大半が空襲で焼失しましたが、西里東部にあった私の診療所が焼け残りました。「そこを軍医部が集会所として接収したのです。軍医部の脇田大佐と知り合い、その情実で、召集からはまぬがれました。「本来なら君も行くべきだが、それを発するから、台湾に行って来い」と云うのです。鏡原小学校にある陸軍病院マラリア思者があふれ、その思者達を移動させるに担架が必要だが足りない。医薬品も欠乏している。台北帝大の医学部の分室まで行きその不足している物資をとって来るように云われました。

 

暁部隊と呼んでいた船舶隊の川辺中佐にかけ合い小型の機帆船が用意されました。当時、町会員をしていた高原重夫が、疎開している町民の視察と云う名目で同乗する事を申し込んで来ました。船が出る事を知って織物組合長をしていた座間味朝幸氏がたずねて来ました。宮古には生活物質が払底しているし、ついでに何か買って来た方が良いと云うのです。織物組合の金を使って呉れないかと当時の金で五万円、戦耳に水です。好きな様に従って、タバコ、紙類を買って来て呉れと云うのです。どんな世の中に変るかも知れんから二万円だけあずかろう、そうでないとあなたの身のあかしが立たん。但し、ひんぴんと船が沈没させられているし、二万円あずかっても、それだけの品物をあなたにとどけると云う確実な約束は出来かねる。ここはいちかばちか、あなたは二万円出す。私は命がけで行く。事の成功、不成功は問わぬと云う一札を入れろと云いました。それはその通りだと云う事でしたが、言葉だけでなく必ず一札入れろと入れさせました。私と高原氏の二人だけを乗船させ、三日後、無事台北に着きました。台北駅前にあった医学部分室で話をつけ、台南の陸軍病院から担架と薬品類がとどけられました。

 

キールン港から暁部隊が別の船を仕立てる事になり、私はその間に宮古から来ている疎開者のいる所をたずねたり、物資の買入れをしました。宮古への船がある事を知り、当時の伊良部村長の友利カツ、城辺村長の友利正春、下地村長の下地蔵知氏が乗船し、朝鮮人慰安婦五十三名を乗船させ、キールン港を出港しました。軍人二人が、その慰安婦たちについて来ました。キールン港を出て、午前の四時頃シャリョウ町の桟橋の沖合一海里くらいにさしかかった時、同乗した村長三人が船長室のキャビンに集まり、昨夜の夢見が悪い、船がぼんぼんやられる夢を見た。そこの桟橋に船をつけておろして呉れる様、交渉してくれと云うのです。船長にその旨告げると、軍命令で動かしている船を、予定にない勝手な場所につけるわけには行かん、強いておりるならそこからおりて泳げと云うのです。桟橋から百メートルくらい沖を通り始めました。伊良部の村長をのぞけば五十歳すぎの人たちがとびこんで泳いで行きました。結局、民間人は私と慰安婦たちが残りました。

 

翌日の夜明け前に与那国に着きました。そこには船をつける岸壁がないから、霧が晴れてから入港しようと、港外に船を止めました。

 

夜が明けそめる頃、北の方から飛行機が一機来ました。アメリカの飛行機なら編隊を組んで来るし、こんな小さな機帆船でも日本軍は守ってくれるんだ、ありがたいものだと、甲板に出て、朝の空気を良い気持で吸っていました。慰安婦たちはハンカチを振って飛行機を見ていました。北西の方向に来ると、日本の飛行機ではない!急降下してくるのです。くもの子を散らす様に甲板に散って船底にもぐったのです。いつでも日本軍が守ると云う事だったしそれを過信していました。最初の銃撃で十数名慰安婦たちがたおれました。甲板の上には逃げおくれた女の人たちがなきわめいているのです。第一波の攻撃がすんだかと思うとくりかえしおそいかかって来るのです。どうしたら命が助かるかと水タンクに腰をおしつけてふるえている私の右側に二人、左側には一人、明鮮の女性がふるえて見動きできないでいるのです。三回目の銃撃の時、ロケット発射と同時に破片らしきものが私の上衣のボタンを砕き左手にいた女性の胸部を貫くのです。ふりむく間もないあっと云う間の出来事で、ほとんど即死です。発射されたロケット弾が、機関部に命中したらしく、黒煙が上りました。それでも飛行機は去りません。このまま船上にいては、船もろとも沈められてしまうと、甲板をかけ出しました。慰安婦たちについて来たシモワキと云う曹長が血まみれになり甲板にころがっていました。肩からかけていた革袋のカバンを頼むと云うのです。それをうけとるなり、海へとびこみました。船はアンカーをおろしていたのでそのロープの方へたどりつき、それにすがりながら飛行機の来る方向から体をかくしました。だれかが先にイカダを海へ落していたらしくそれにすがりつく慰安婦たちが片方だけにすがりついたため、いかだが転覆し、アイゴー、アイゴーと叫びながらおぼれていくのです。六回襲いかかったのち攻撃が遠のいたと思います。すきをねらって帰の方へ泳ぎ出しましたが、だんだん疲れて来るので寝泳ぎに変えました。何かが足にふれました。足に力を入れて見たら砂地です。体を反転させると足が地につく。ひざくらいの所を必死に泳いでいたのです。助かったと思うと、涙がボロボロこぼれて来ました。

 

クブラの警防団の人たちが沖の修羅場を見ていた様ですが執拗に攻撃している飛行機を見て、手がつけられないまま、見ているだけだったと云うのです。ふらふらしながら、たどりついた私を見て、まだ生きている者がいると云う事で、救助作業が始まりました。くり舟を出して死んだ人たちを運んで来ました。生き残った朝鮮の女性は七名だけでした。この人たちは好き好んでイアンピーになったわけではない。日本の強権でつれてこられた人たちだったのです。

 

湾になった港のつけ根の所に小高い砂地の丘があった。五十体程、アダンの枝を集めて火葬し、その丘に骨を埋葬しました。生き残った女性たちから名前をきき三文字の姓名を記し簡単な基標を立てました。宮里さんと云う漁業組合長が警防団長も兼ねていて、その人が世話役になっていました。

 

宮崎武之と云う師団長の所へ、曹長から託された革のカバンをとどけました。何が入っているかは見ませんでした。師団長は民家の良いかまえの家に住んでいて、しばらく静養して行けと云っていました。生き残った七名の慰安婦をつれて伊良部島着きました。伊良部青年学校には与那覇春吉氏が校長をしていて、台湾から着いたと云う事を聞いて疎開させていた妻子の消息を聞きに来ていた。アンペラ一枚が、一世帯のスペース。冬の寒さにこたえていた旨、冷えと栄養失調で宮古へつれて帰ってくれと泣いてすがる苦労の様子を若かったせいもあってありのまま話したら、春吉先生はシワブリ(心配のあまり意気消沈)している。奥さんの眼が悪化したのも、あの時の栄菱失調が原因していると思う。

生き残った慰安婦を陸軍の師団管理部へ連れて行く

遭難から生き残った7名の朝鮮人慰安婦を送り届けた先は、野原越、陸軍「野原飛行場」のある師団管理部。現在、周辺には空自宮古島分屯基地があり、また南側では陸自のミサイル基地建設も強行されています。

伊良部島を経て、着のみ着のまま宮古島に着き、七名の慰安婦を野原越の師団管理部へ連れて行きました。慰安所が今の沖縄食糧会社の西隣、西里、野原越にありました。野原越の管理部は垣花恵栄宅にありました。兵隊の性欲と云うのはそんなに強いものだろうか連日、列をなして順番を待っていました。担架と薬品をとりに行って、それははたさず、二万円の物資は無一物となり、朝鮮の女性七名をつれて帰ったわけです。

 

二十年五月、もう、町の中は無人化し、城辺村の字友利に疎開しました。農家の馬小屋を借りてそこを診療所にしました。地方に行く程、物資があるのです。白米、継ずめ漁が。将校たちも治療に来るのですが、治療は二の次で、昼間から持参した日本酒を、私の借家で飲んでいました。軍紀は乱れていたのです。

 

五月四日、友利そこばりから、東の海に、黒と灰色の軍艦がズラリと海を圧する様に浮んでいる。艦上の人の動きがわかる。いよいよ、最後だと、青酸カリを前もって用意していたから、上陸して来たら、これを飲んだら、「きれいになる」(楽に死ねる)からと老母と、妹に一包みずつ渡たし、壕に入れた。いっせいに砲門を開き、頭の上を、すずめが群がる様な音をたてて砲弾が飛んで行く。三十分くらい間断なくその音が続いて、前方の軍艦が、北に動く。平安名崎の方に向いている。そこから、上陸して来るのだと心配していたら、そのまま北上して行った。

 

二、郷土防衛の名で軍隊に組み込まれる

特設工兵第505部隊長は何をしたか

平良町下里下地〇〇(三十歳)

宮古には、第二十八師団が進駐してくる昭和十九年の夏以前には、特設警備隊というものが作られており、在郷軍人を召集して訓練しながら作業等をやらされていました。

 

昭和十八年の九月からは、平良市在の海軍飛行場の設営が始まり、十九年の五月からは下地町に陸軍飛行場の建設が始められていました。

 

下地〇〇が臨時召集を受けたのは、昭和十九年の九月一日でした。第二十八師団司令部が、県立宮古高等女学校の校舎を使用して、師団主力の展開を指揮したのは同年の七月なかばからでありますから、それから一か月を過ぎた処で、下地に臨時召集をかけたことになります。参謀部の動員課につめさせられました。

 

下地は中国大陸で長年戦火の下を歩いてきた陸軍中尉です。軍は、この男に、島の男たちを指揮させようと考えたのでしょう。

 

宮古には、壮丁として現役の兵隊にくみこまれる普通の徴兵の他に、それ以外の者についての召集がありました。

 

臨時召集というのがその一つであります。これが所謂召集でありまして、主に将校や下士官がこれを受け、常時軍に籍をおくようになりました。

 

これに対し、警備召集がありました。警備召集は、必要に応じて短期間、兵役に服するというものであります。

 

郷土部隊は、既にできていた二つの特設警備中隊であります。第二〇九中隊と第二一〇中隊です。一つは平良町に駐屯し、他は下地村に駐屯するものでありました。

 

軍が駐留することになった頃は、雲は急を告げるようになっていました。十・十空成もありました。しかし、島における戦闘態勢はまだ充分ではありません。陸軍飛行場は完成をみていません。

 

つるはしとしょべるでの飛行場づくりです。この完成と整備の急が、下地の召集となり、下地らを中心とする特務部隊の編成でありました。

 

十一月三日に、総勢八百人に対し、警備召集が行なわれ、下地村野原付近に作られていた陸軍中飛行場の掘立小舎に集結させられました。これが、第五〇五特設工兵大隊とよばれたものであります。

 

第五〇五大隊は、四つの中隊に編成されました。第一、第二中隊は平良町出身、第三中隊が下地村出身、第四中隊が城辺村出身で充てられました。

 

この部隊は、大部分が補充兵です。支那事変がえりの老兵と、補充兵、それに兵役免除になっていたものまでも寄せ集めたものでした。銃を全くつかまえたこともない人々が大部分であり、戦争末期に余剰の鋭が配布されるまで、実際銃も支給されませんでした。

 

大隊の任務は、陸軍飛行場(中飛行場)の完成と、その機能維持でありましたから、しょべるが主要武器であったわけであります。

 

第五〇五大隊は、玉木少佐を隊長とする飛行場設定隊に編入されました。師団直轄で、本来の飛行場大隊と、軸重隊一個中隊、それに第五〇五部隊の三つが、設定隊でありました。それで、この第五○五大隊という郷土部隊は、この設定隊の重要な戦力でありましたし、師団からは参謀が飛行場に常駐するようになり、いろいろと干渉も行なわれました。

 

最初の仕事は、形は、大体できていた飛行場を完成することでした。滑走路ができあがりますと、こんどは、誘導路、掩体づくりが行われました。そうしているうちに、昭和二十年の年があけ、空襲がはげしくなってまいりました。

 

空襲は大体昼ありました。爆撃で穴があきます。滑走路の両側にある松林などにねむったりして待機していて、夕方になると、その穴うめにかかりました。

 

飛行機を押すという作業もありました。誘海路はでこぼこ道ですから、人間が飛行機をおします。夜の作業が早く終れば早くねむれるわけですが、中々の作業でした。

 

四個中隊でできた大隊の中で、大隊長下地のもとに常時あったのは二個中隊だけとなりました。一つの中隊は、野戦飛行場設定隊の渡辺大尉の指揮下に入れられましたし、もう一つの中隊は、飛行場南の宮国海岸に派遣されました。宮国海岸に行った中隊は、敵の上陸を妨害するための障害物敷設作業に当たっていました。製糖会社のトロッコの通る鉄のレールを切って作った棒を組み合わせたものを海岸線に並べて、敵の上陸を妨げようというものでした。

 

下地のもとには四百人(二個中隊)が残されたかんじょうになります。しかし、マラリア等の病人がでましたし、稼動員はどうしてもすくなくなります。それに老兵がまじっています。召集され、初めてもらった一つ星の兵隊は、兵であっても、普通の軍隊の新兵とはちがいます。家族の安否を気づかって、ぬけだしてうちへ帰るもの、食概を補給しに自分のうちへこっそりいくもの等々。夜の点呼のあとに、こっそりとでていきます。

 

これが目立つようになりますと、夜の作業人員がへり、当然のことながら、未明までにはどうしてもやりとげなければならない作業がはかどりません。

 

下地隊が担当させられていたのは、逆八字型の二つの滑走路のうちの東の一本でした。その整備は至上命令となっていました。作業が進まず、夜明けまでのびると、空襲の危険も待っていました。「戦争の日常の仕事として、この島では、飛行場整備しかないわけですね。それで、参謀たちがしょっちゅうやってきます。作業人数がすくないではないかと、隊長はきびしく注意されます。

 

兵舎の付近の洞穴が営合に当てられました。脱走したものはこの中に入れられました。このきびしさの故に、部隊本来の姿を維持出来たと思って居ります。

 

戦争中、戦闘の実際に直面していたのは飛行場関係だけでしたから、乙号戦備といって、敵の上陸必至ということでする非常事態がしかれ、一般に緊迫感がでてきたときがあっても、大隊は、海岸線を警備する部隊とは違って、特別な緊張感をもち得ませんでした。

逆八字型の二本の滑走路の接合する所に、設定隊の本部がありました。その日の昼も、下地は電話で呼び出されました。参謀肩章をつけた少佐が、作業人員のすくないことを難詰しました。そのかえり、滑走路を横切って帰る途中、空襲にあいました。島の中央にある野原岳の丘のかげから、低空でやってきたグラマンが、いきなりバラバラと機銃をうってきました。

 

そのとき、下地は最期のときがきたと思いました。それでも必死にかけだしました。滑走路を横切った処で、ころがるようにちょっとしたかげにとびこみました。銃弾はあたりにつきささりました。ちょっとした岩かげが、下地の生命をすくいました。

 

夜の作業だけではまにあわなくなったということでした。参謀は、下地に決死隊の編成を命令しました。隊長下地以下五〇名ばかりで決死隊がつくられました。

 

決死隊は、滑走路のすぐそばの洞穴の中にひそませておきます。隊長は視界のきく個人用のたこつぼの中に一人入って、機を伺います。敵機の空襲が終った瞬間をねらって、作業開始を命じます。作業中、敵機の来襲は、指名された対空監視哨の合図でわかり、その合図で、サツと退散する。そういう作業でした。

 

この決死隊作業は、一日だけで、終りました。他の隊で、犠牲者がでたためでした。

 

下地隊は終戦までに十七人の戦死者を出しました。十人がマラリアによる病死者でした。マラリアの軽いものは家族のもとにかえしました。何しろ、くすりも食物もないという状態であったからです。

 

一度にどっと犠牲者を出したのは、添道分遣隊でおこりました。食糧が足りないので、下士官を長とする白活班を平良の街の北東にある添道部落に派遣して、漁労と大野越の畑作りをさせていました。宿舎にしていた青年会場で炊事をしているとき、この火めがけて落とされた直撃弾で即死者を出してしまいました。

 

七月に入ると、空襲は散発的となりました。もうこちらには飛行機はありません。時々連絡機が台湾からくるだけです。それでもがあれば穴うめ作業は続きました。

 

戦争が終りました。飛行場付近で墜落して死んだ米兵をうめた処に、十字架が立てられました。一週間ほどして、参謀の訓示があり、部隊を解散しました。臨時召集の常設展とよばれた将校下士官はしばらく残務整理のため残されました。飛行場関係は戦犯のおそれがあるということで、命令によって書類一切は焼却させられました。

 

思うに、昭和十九年十一月隊編成以来解散に至るまで第五〇五特設工兵大隊には、一日の休みもありませんでした。

 

現地入隊者

平良町松原砂川〇〇(十九歳)

兵とたべもの

海軍飛行場の建設段階では、私は作業にいきました。ティマーブイ(賃金かせぎ)に通いました。

 

その後、入隊までの一年ほどは、福嶺医院で受付や薬剤調合などをしておりました。

 

昭和二〇年の三月に、豊五六二〇部隊(歩兵第三連隊)に現役兵として入隊しました。第一期検閲までの三か月間は、地盤というところで初年兵教育を受けました。

 

大隊に初年兵が九人いました。その中に一人病弱な者がいましたね。兵舎番をさせられていましたが、腹ごしらえにうちへかえったんです。いないということで捜索しましたらとことこ帰ってきましたね。

 

同年兵の家族が、面会にきて、馬肉をくれました。班長に報告したら、翌朝たべなさいということでしたが、、不寝番のとき、つまみぐいをしてしまいました。そうすると、さあたいへんです。一週間も食前食後に軍人勅諭を冷読させられることになりました。

 

それだけではありません。棒で頭を一回ずつたたくのです。こぶができました。夜ねるとき、枕もできないほどでした。

 

食べ物のことではたいへんこまりました。食器洗いのとき、残りかすの、粒々のかたまりをとってくったこともあります。訓練ははげしいし、食事不足でしたから。

 

屍と兵隊

夜間作業で飛行場に行ったこともあります。そのとき夜間空襲にも遭いました。古年兵が二人死んだのは、昼の飛行場作業のときでした。

 

 小隊に配属されない前でしたが、いくべき小隊の方が病死したというので、屍を受領しに鏡原小学校にあった病院に行きました。ところが、先に受領した部隊の人たちが、屍体をとりちがえてもっていって私たちの受領すべきものがありませんでした。そのときは、監視の任にあった伍長も、将校もさかんにわびていましたね。

 

夜、一期上の長崎松雄さんの留守宅にいってどちそうになり、めあての屍を受領したのは、夜の十一時頃でした。受領してかえるとき、照明弾がぼんぼんあがり、空襲がありました。さっそく、屍を積んだ荷車の下に身をひそめました。

 

翌朝、火葬する準備をしました。衣類が不足しているというので、靴も衣袴もすっかりとり、屍はむしろにのせて、夕方火葬をしました。火葬をはじめるまでの間、番をさせられましたが、上空をカラスがとびかい、それはほんとにいやなものでした。

 

服は洗濯して、係にあずけました。屍の主は、荷物を調べてわかったことですが、松原一等兵という東京の方でした。

 

水と兵隊

艦砲射撃のとき、部隊には被害はありませんでしたが、ひそうな気持ちでした。私をも含めて、同年兵は、「たえられそうにない。ひとりで死ぬのはいやだ。皆が集まっている処に、直撃でもおちてくれたらいいのに。」と話し合ったものです。みんなと一緒なら、死ぬのもこわくない、と思っていました。逃亡兵が、松の木につるされているのをみました。足は地面につかないようにぶらさげられていましたが、上官や隊長などをのろうことばを発していました。どうせ死ぬのだ、と思っているようでした。

 

同じ中隊の大学出の一等兵でしたね。ひねくれたような人で、しゃばにでたら(除隊したら)巾隊長ぐらいなんでもない、と中隊長の眼の前で、ふだんからいっていましたがね。中隊長は彼にこごとはなかったですよ。

 

逃げて、留守宅に帰った一期上が重営倉に入れられましたね。

 

私の場合、六か月の間に、結局二回しかうちにはかえりませんでした。一回は公用外出でしたが、もう一匹は、にげて(無断で)三時間位、うちへ行きました。うちにいって、めしを腹いっぱい、いそいで、たべました。制裁をうけるのがこわいので、いそいでもどりました。

 

初年兵教育を終ったあと、そうですね、終戦の一か月前頃になりますか、発熱しました。マラリアの始まりでした。「熱発して、作業は休みました。兵舎にいましたが、ものすごく水がほしくなりました。こっそり水のあるところにいき、ひしゃくでのもうとする処を、他の分隊分隊長にみつかってしまいました。ひしゃくに水を入れ、それをもって立たされてしまいました。幸いなことに、十分程したら、自分の分隊長がやってきて、私の顔に水をぶっかけ、帰してもらいました。

 

あとで、立つことを命じた隣の分隊長がやってきて、誰の命で帰ったかと、とがめだてはされましたがね。マラリアのために、終戦の頃には、髪の毛は、すっかりぬけました。終戦でうちへかえったらこわれていましたがね。栄養がいいものですから、ときどき熱発する程度になりましたよ。

 

初年兵教育を終っていった処は、川満部落の北東にあった、旅順港山とよばれていた処でした。そこへ行く前の第一期検閲は、たこつぼ戦でした。爆薬を戦車にほうりこむ動作ですね。

 

兵舎のそばに種まつ倉庫がありましたね。不寝番のとき、その内部に砂糖(ざらめ)のあることを教えてくれた古年兵と一しょにしのびこみ、それをたべ、水をのみましたね。翌日はすごい下痢です。それをいえない苦しみ、というのもありましたね。終戦になっても、演習はありましたよ。

 

九月一日に除隊になり、一週間ほどして、小隊を見舞いに行きました。魚をもっていきましたら、よろこんでくれました。

 

一期上の人たちは漁労班をつくり、また、自給のための農耕をして、いもをうえたり、キュウリを作ったりしていました。

 

シラミ、衣シラミがひどかったですね。ズボンからタオルをとりだして汗をかくと、眉にシラミがついていましたし、巻ききゃはんの中で、シラミがはいまわっていました。水不足でしたからね。一週一度の風呂がわかされたときのことですが、中隊長がはいったあとで、私がはいったら、軍曹がきました。それで、すぐあがりました。ちょいとつかっただけのその風呂が、六か月間のただ一回の入浴でしたね。

 

マラリアで熱発して、室にいるときには、頭をひやしてもらいましたよ。

 

現地召集兵の証言

平良町大浦砂川〇〇(二十歳)

昭和十九年二月に青年学校を卒業した。入隊をひかえて、部落で待期命令が出た。五月になって、下地の西飛行場作業に父が徴用され連日の作業で、過労のすえ体の調子を悪くしてしまった。父の代りに作業に出る事になった。西飛行場作業現場まで徒歩で行く。時間に間に合って行くのに午前の三時には起きねばならない。ホラ貝を吹きならして、二回鳴ると男子、三回は女子、互交に両方鳴ると男女青年という、きまりがあった。暗い中を起こされて、三時間以上も歩いて行き、夕方六時まで作業をした。家につく頃は十時近くなっていた。炎天下の人力だけの土運び作業は、すごく喉が渇く。水汲み当番の役で飛行場工事場の深いつるべ井戸に水汲みに行った。これは、割りと楽な作業だと思っていたら、そこは順番を待つ民間人と兵隊で、ごったがえしている。立ったまま並んで、二時間から三時間は待たねばならない。ようやく順番が来て、汲み上げた水をかついで行くと、こんなにごった水が飲めるかと兵隊はいう。お前は遊んで来たのだと難ぐせをつける。立って順番を待つのは良いが、座ってはいけないと兵隊にいわれ、棒立ちになって、やっとの思いで汲んで来た水に文句をつける。いっその事、その水をこぼしてしまおうかと思ったが、反抗したとなぐられるにきまっているからだまってしかられる。当時、日当はあったが、債券、貯金にまわすといわれ、手にとった事はない。自分の家の家畜類を売ってさえ、強制貯金をさせていた時代だった。

 

飛行場工事作業のめどがほぼついた頃だった。十月十日の空襲が来た。見なれない飛行機だなと見ていたら、バラバラ音がして、楽莢が落ちて来る。日本軍がもっていたものより大きく、ピカピカ光っている。それを見て、友軍ではないと、とっさに感じ、整地作業の現場から、逃げ出した。十月十五日、マスパリの郷土防術隊に入隊。大浦部落の青年十三名のうち八名が町役場で徴兵検査をうけた。内検査、中検査、大検査と三回に分けて行ない、その結果は第一乙種合検といわれ、正式にアズキ御飯でお祝をされ、4天皇陸下に忠義をつくして死ねと訓辞を受けた。

 

松木を四角に切って、十キロの重さにした模擬爆雷で、戦車攻撃の演習をさせられた。本物の日本軍中型戦車が突進して来る。号令がかかるが、真正面に来る日は土煙りで前は見えず個人壕から出られない。投げるのが少しおくれると、それこそ、さんざんな目に合いなぐられた。

 

防毒マスクをかぶり、膝行演習をやらされた時だった。五百メートルも行かないうちに息苦しくなり、たおれそうになった。マスクの顎の所に指をつっこんで息をしようとしたとたん頭部を重い何かで打たれ鋭い痛みが走る。手をやると血が吹き出し、そこの部分は引っこんでいる。目まいを起こして倒れる所を軍医の所へ連れて行かれた。銃先端の照星頂の所でうしろにいた兵隊になぐられていた。「天皇からあずかった」兵器でなぐってはいけない事になっていた。班長と教育係兵隊が軍医には銃でなぐったとはいうなと、「演習中、ころんで、木のとげにつっこんだといえ」という。軍医が不思議がっている。いっその事真相を話そうかと思ったが、うしろに班長と教育係の助手が立っている。これをいうと、班に帰ってから死なされる。と思うと命が惜いからいえなかった。縫合して、くぱんだ三角形の傷あとが今でも頭左側部に残っている。あの時は十日間の休養を命ぜられた。

 

軍隊内のリンチ

銃でなぐりつけないまでも、手でなぐる時、並ばせて二十人までは連続ビンタをはるのだが、あとは腕がつかれるのか、革の帯かくでなぐりつける。それが反対側の方向に巻きつき、それを引くと転倒させられる。なぐった方は忘れても、なぐられっぱなしになった者達は今でもその手きびしいリンチは忘れん。大浦部落南のフジ新あたりも皆日本軍の陣地になっていた。そこに鈴木という中尉がいた。体は大きく顔の小さい男だった。

 

部下の衛生兵が隣の島尻部落に転向していた部隊にマラリアにかかった兵隊に投薬しに行った。ものすごい雷雨の夜、苦しがる兵に投薬してこの雨にぬれたら自分も病気になると思ってたのか、そこで一泊して帰隊したという。連絡がなかったという理由で部隊逃亡の罪を着せて、その中尉は、半殺しになるまでなぐりつけた上、個人壕に入れて、水も飲まさず、食も与えず、上からカンカン箱をかぶせて、生きうめ状態で殺してしまった。泣きわめく声が部落にまで聞えていたが、だんだんその声が弱くなり、あとは聞えなくなってしまった。

 

マスパリの部隊に入隊していた頃、満州(中華人民共和国東北地方)義勇軍から召集されて来たという若い、名前は分らないが上等兵がいた。衛生兵だった。体が丈夫でなく、暑さにやられて、くたくたになっていた。なまけているといわれ、食もろくに与えず、それでも休養器舎には入れてあった。鏡原にあった野戦病院は傷病兵でいっぱいだったから各中隊に災台が作られていた。

 

その中で検温に来た衛生兵の渡した体温計をとり落してそのツノ(体温計水銀溜の部分)を切ってしまった。補給のない島で、体温計をこわした理由で、五年兵の兵長だったその衛生兵は、めちゃくちゃにその病人をなぐりつけた。その夜、なぐられていた若い兵が姿を消した。一週間後に探し出され、引っぱられて来た。宮古も戦地扱いになっていて三日間、行方が不明だと死罪になるといわれていた。中隊長がまるで豚を屠殺するかの様に棍棒でなぐっている。隊長器舎の方から、ガーパガーパと棒のにぶい音が手にとる様に聞えてくる。次の日も、又次の日の夜も。湯のみの半分くらいの握り飯を一コ、塩で味をつけて与えられ、三日後には、眼は全然見えず、顔中着くはれあがり、此の世の人とは思えない形相のふらふらの人に、兵舎の前の岩盤の所を、チッタ(石のみ)で掘れという。目が見えなくなっているから金槌で手を打ち、血だらけになった手で、自由のきかなくなった体で掘り続けていた。軍隊のおそろしさを目のあたりに見せつけられ、映画、テレビで戦争ものが出たら、今でも見る気がしない。戦時下を体験しない子供たちは見たがるが。

 

西原の伊志嶺酒屋の前に、当時西原部落一帯に駐屯していた部隊の衛兵所があった。初年兵教育期間を終えて、待ちに待った休暇の日が来た。公用腕章を渡され岳とび勇んで家に帰った。家に行ったら、何か喰べるものを持ってこいと、上級の兵隊にいわれて。そこの衛兵所の前まで来た時、呼び止められる。そこは道路に面してはいたが、十メートルも離れていた奥の方だったから、それに雨がどしや降りで外とうに頭布がついて、側方は良く見えるわけがない。衛兵が立っているかどうかも分らない。呼び止められ、君たちは家に帰るのかと聞く。公用腕章を見せると、衛兵所の前を通る時は、必ず歩調をとり、敬礼してから通るんだと、さんざん難ぐせをつけて、しかられ、敬礼すると、今度は頭布の上から敬礼とは何事かとしかられる。その後、昭和二十年の六月には伊良部島から、移動して来た通称、碧部隊といわれていた西原に兵隊がいたが、別名、ハダシ部隊といわれていた。下士官以上の階級しか軍靴もはけず、下級兵ははだしで歩いていた。こちらは初年兵ながら靴が支給されていたから、それも、米軍が上陸して来たら、島出身の若いわれわれが、最前線に立たされる事になっているためであろうとは思ったが、上等とはいえないまでも、軍靴だけははいていた。前にさんざんしぼられた場所だけに、そこの術兵所に気をくばりながら、敬礼しようとすると、一瞬向うの術兵たちがいっせいに立ち上って敬礼するではないか。びっくりして背すじに寒気を覚えながら、うしろから又呼びとめられるのではないかと背中をぞくぞくさせながら、その路を通りすぎた。「路を歩く」と云う事が敵機空襲の危険だけでなく、最隊のいる島では緊張しなければならなかった。

 

大浦部落の南海岸に、軍需物資の輸送船が、空襲で被弾し、沈没をまぬかれるため、そのまま砂浜に乗り入れて来て、摑坐した。炎上してしまって何も残っていないのに船の形だけは残っている。空襲に来る飛行機がそれをめがけて、必ず銃撃を加え、集中爆撃を加える。岩にのりあげているから、沈みようがないのに。その流れ弾が部落にとんで来る。低空機銃掃射を加え、去りながら、うしろの砲からも撃って来る。下地カメヒコ氏、仲間マツさんは被弾して即死した。部落東方の通称パナタガーの日本軍砲台から豊式砲を撃った。米軍機が落された。それの搭乗員を救いに水上機が飛んで来た。そしてそのお返しに大浦一帯を部落ごと攻撃する。全焼した家屋は十二軒もあり、家を焼かれた人や、空襲をさけて壕生活を強いられた人々が、穴ぐら生活をしていた。大浦の西方、通称トンビヤン(竜舌蘭)壕には、戦争が終っても、家を作る事が出来ずそこに住んでいた家族がいたが、食糧もなく、栄養失調で、とうとう餓死してしまった。台湾出身の人でその人の妻が大浦の人だった。

 

マラリアで死ぬ人が続出し、ある家では、一家全員が、高熱におかされ、ヤドーリ(家倒れ一家根絶)しそうになった。来る日も、来る日も、人が死ぬので、棺桶を作る板もなくなり戸板にのせて運んでいた。

 

私の家も部落はずれの畑のそばで仮小屋を作って住んでいた。父はそこで悪性マラリアにかかり、他界した。母は、召集されてニューギニアに行かされた長男の帰りを待っていたが、戦死の知らせと共に遺骨がとどき、それから間もなく、母は死んだ。とどいた遺骨箱の中に、遺骨はなく、小さな位牌だけが入っていた。兄の婚約者が、六年もその帰りを待っていたが、その後他家の人と結婚したが間もなく離婚し、ブラジルに移民して行った。大事にしておいたらしい兄の写真をその時、返して来た。今、仏壇にある写真が唯一の兄のおもかげです。両親と兄をなくし、妹二人をかかえて家をたてる資材を得る事もできないまま、大浦海岸のそばにある畑の番小屋ずまいの生活が、戦後三年間も続いた。

 

女子報皇隊員

平良町西原山里〇〇(二十二歳)

昭和十九年五月、下地に陸軍の飛行場作りの作業が始まった頃です。町役場から徴用令状が来ました。

 

区長の所からとどけて来た令書には五月十五日、午前八時、西飛行場へ集合、ツルハシ、スコップ、毛布、針、糸、弁当、その他身のまわり品等持参する事と書いてありました。

 

戦時下だし、女子が作業に行く事も致し方ないとしても、毛布も持って来いという事は何を意味しているのだろう、夜は慰安婦の役をさせるのだと泣いていました。部落の女子青年団員、十二名の令状をめぐり、顔色を変えて区長の所へどなりこんだ母親たちで、部落中が大さわぎになりました。「徴用に応じなければ、沖縄本島に強制徴用してつれて行く事になる」といわれ、同じ死ぬなら沖細本島に行くよりは、島に居たい。ただし、住み込みではなく通勤を認めてもらうという事で、話がようやくまとまりました。

 

早婚をすすめる時代でしたが二歳の時に両親に死別していましたし、姉と二人暮しで生活も楽ではなく、それに部落の男子青年で十八歳以上の者はすでに徴用されて、飛行場や陣地作りの作業にとられていたのです。二十歳もすぎて、独身でいるから、そうなったと、ミーダッバッ(女性独身者への罰)だというのです。「生めよふやせよ」の時代でした。十二名も子供を作った人たちがいて、それだけでの軍国の母々としての名誉であったのです。

 

五月十五日、集合場所は西飛行場作業現場から町役場の広場に変更され、役場の人や兵隊の訓辞がありました。「これは、お国の為であり、進んで、いくさのサキバイ(先立ち)になりなさい。この隊は女子皇隊と名づける。当面の任務は兵隊さんのために飛行場方面の兵舎作りをする。そのために、各部落に供出させた資材の運搬作業である。」

 

長い剣を下げた軍人を要近かに見るのも初めてだし、それにも増して、沖縄本に、この戦さのさ中につれて行かれるのはおそろしかった。「いう通りにするか」と気合いをかけられ、私のほか西辺、島尻、成川部落の女子青年十二名、長間ョシ(現在赤嶺姓)永田ハル、上里千代、赤概ハル、池間静子、下地光子、仲間ハル、仲間ハッ、楚南タダシ、仲宗根初子、長田ハルはその日からこれも各部落から徴用して来た馬車班の人たちの荷車にのせられて、大野山林に行きました。当初のうちは、速い飛行場まで歩いて通うより、部落の近くだし、いつも新ひろいに行っている場所での作業だし、割りと楽だと思っていました。兵舎作りの材料といっても、せいぜいその屋根をふく幸運びだろうと思っていましたが、松木の丸太運びです。馬車の通れる路まで、松木丸太を運び出し、積み上げておくのです。林の中は路らしい路もなく、起伏がはげしく、一歩あやまればかついでいる丸太の下敷きになりかねないのです。原始林の様な森の中は、アダンや、サルカ(袋かきみかん)の刺のある木が密生して、人の高さよりも高い。真昼でもうす暗く、それに五月のむんむんする暑さの中での作業は、それは男の人にでも、きつい仕事です。

 

一日八十銭の給料をもらい兵隊用と飛行場作業へ徴用された島の人々の住居作りが終った頃、今度は、飛行機をかくすエンタイ壕のための細くて長い丸太を切り出し、運ぶ事になりました。今までの大野山林と違い、西辺部落よりも遠い野田山林や大浦、南静園あたりを運ぶため午前の四時に集合しなければなりません。その時間に野田まで行って集まるには、午前の二時に起き、朝食を支度しなければなりません。夜が明けきらぬうちに作業現場にたどりつき、トラック十六台の積荷を終えたあと、今度は馬車が来るのです、馬車積の運搬作業のあと夜七、八時頃家にたどりつく頃は、立つ事も出来ない程、つかれはててしまいました。今思うと病気にならなかったのが不思議なくらいです。下地の西飛行場用の兵舎作りが完成しないうちに、飛行場をもう一つ作る事になりました。そのための資材搬出で、大野山林は大かたバッ採され、道路近くには木がなくなりました、山の奥にはまだ木があります、そこから材木を運ぶため、道路作りをする事になりました。現在の亜熱帯植物園の東側五百メートルのくぼ地の所です。兵隊六人と女の子十二名だけで、人力だけで岩をけずり、土砂運びをしました。たいへんな難工事ですが、それが出来上がる頃は、丸太運搬用だけでなく、その道を通って、軍用の自動車や、大砲などが、大野山林に入って来ました。兵隊も真黒に陽焼けしていた。初めて先頭を通る隊列の将校が、「道をあけろ! お前達オキナワか」ととなり乍ら通って行く。こんなに国のためといって協力させられているのにほんとに腹が立ってしまいました。一人前の兵隊あつかいにされてない兵隊と日本人でないかの様にいわれた私たち女子報皇隊の者はくやしい思いでした。

 

十月十日になって空襲が始まり、そのさなかを野原の師団本部まで茅を満載したトラックに乗って行きました。せまい曲りくねった畑道にさしかかった時、いきなり低空で飛んで来て機銃掃射のねらいうちをうけそれをさけようと東がスピードを出しました。スピードを出しすぎて車が畑の中へおちこみ横だおしになり、あやうく下敷きになる所でした。あんまりおどろいて、一魂を逃がして々しまった。みんな若い顔をして、お互いの無事をたしかめ合って、各人で道ばたの小石を怖い。私の魂よ、一緒に来いと小石をふところにいれ、命のあるのをたしかめたものです。

 

昭和二十年六月平良港に入港する船団が運んで来る軍用物資の陸揚げ作業につれて行かれました。材木や、米俵の外、針、石ケン、衣類、毛布、蚊帳などの梱包をはしけで運んで来るのですがまだ半分も荷揚げしないうちに空襲が来るのです。特に港はねらい撃ちされました。コンクリートの突姫の蛇に身を伏せて、もう死ぬんだと覚悟しました。体をかすめて、機銃弾がはじけて行く。沖では船がボンボン燃えて行く。西辺から通う道路もおそろしかったが、ここでは身をかくす壕もない。ほんとに泣いておった。その合い間を見て、荷揚げ作業をするのですが、朝鮮の人たちは特に、いじめられてなぐられておった。食事時間も三十分くらいしか与えない。休憩時間も能率が下がるといって休ませない。荷揚をしながら自分の国の歌だといって、アリランの歌や、その他、五つくらい歌を教えてくれたのを覚えている。米俵に機銃弾があたって、こぼれている。ピーキた(穴のあいた)所から米が流れている。米は大切だがもったいないと思いながらも、それをもって帰ったら、兵隊の食糧が不足すると思うとひろって帰る事もしなかった。

 

二十年の六月の空襲以来、船も人港しなくなり、宮古島の兵隊は自給自足をしなければならなくなりました。そのための補給班として、塩たきをやらされました。西辺部落の海岸のそばで、ドラム練を縦に切り、海水を汲んで来て煮つめるのです。そのための潮汲み作業が続いて、今度は敵が上陸して来たら、火を燃す事が出来ないからと、木炭作りが始まりました。飛行場用兵舎に使った松木の枝葉集めをして、火を燃す所から出る煙が、釜の所から遠い所で出る様工夫されていました。紙も不足しているからとツノマタをドラム-で煮て、上質ではないが紙らしいのが出来ました。その他にいいつけられるまま、石灰焼きや、炭俵や、細や、ゴザ作り等をやらされました。今でも特に想い出すのは、アツママお水の東側にあった製材所で、奉公隊に徴用された二か月目に、製材作業を女の子だけでやらされた事です。一歩あやまれば、回転のこで体ごと切られかねない全く危険な作業でした。

 

海上補給がたたれ、食糧と水がなくなる

食糧は初めのうちは一日一合を報皇隊員には特配していましたが、軍人なみに飯盒の支給もあったものの、家族の者と一緒に食べられるからと家にもって帰っていた。海上補給がたたれるとそれもなくなり、加えて、山林の乱伐がたたったのか、保水力がなくなって、島民と兵隊が汲み出す井戸の水が少なくなった上に、干ばつが続いたりして食概事情は益々恐くなりました。ヘビやとかげを、あげくのはては蝉の半焼にしたものまで食べ、アダン葉の白い若芽を抜いておつゆの実にして食べたりしました。極度の疲労と栄養失調、それに加えて、悪性のマラリアにかかり、班長をしていた、長山ハル、仲間ハツは戦争が終って間もなく二十歳くらいの若さで、死亡しました。

 

私は体は大丈夫の力ではあったが、毎日の作業の疲労で、家にたどりつくと、くずれる様に床につき、夜間空襲が来ても、壕にも入らず、いつかは死ぬべきものと覚悟していて一人で家の中で寝ていた。結局、家族と一緒にいる事がなかった。夜も、昼も。

 

戦後、間もなく姉も死亡し、姉の残した小さい子供四人を育てる事で、私の青春は終ってしまった。義兄が後妻を迎える事になり、子供たちも大きくなり、私は家を出て、自活する事になった。三十六歳の時です、過労のたたりは病気がちになり、独身のまま、今でも医者通いをしています。足かけ三年間、こき使われ、あの当時の話は想い出したくもない。

 

生活をかかえた防衛隊員

町仲佐久田〇〇(三六歳)

農業で生活をたてていました。昭和十九年十二月一日三十六歳で特命召集者としてウナトゥ部落にて二か月間の軍事訓練を受けました。夜具や服装の支給もなくバーラック建ての兵舎はカヤをしいただけの土間で床もなくむしろさえもありませんでした。食器も持参せよとの事でしたが、弁当箱だけもって行き、汁器には縮づめの空罐をお腕代りに使用しました。塩をとかしただけのおつゆに、にぎり飯一コの食事で、体がもちません。そこで家から味噌をもって来て、それをとかして味噌汁を作るのですが、手足を洗う水どころか、食器のカンカラを洗う水さえないのです。服装も一着しかないし、雨にぬれると、それを火のそばで乾かして又、着るのです。しらみだらけになりました。

 

二か月間の訓練の後で、中隊編成され、下地御獄の西方に兵舎を作り与那覇部落で自活班として、耕作作業や、甘諾植え作業をしました。

 

那覇部落での耕作業が一か月間続きましたが、飛行場のそばは危険だといって、山中部落に移動しました。所が、山中部落の真上が空襲に来る飛行機の通路になっているのです。ちょうど、昼飯をたべようとしている時でした。バラック兵舎めがけて、機銃掃射をうけ、一緒に座っていた、東川根小禄氏がみんなが見ている所で即死し、負傷者が出ました。目の前で人が死ぬのを見るのは初めてです。ほんとにおどろきました。山中部落内では、六名の家族の家が、外で遊んでいた子供は空襲が来たのでカヤの下にかくれ、家族は防空壕にかくれたが、その壕に直撃弾が落ち、全滅し、かやの中にかくれた子供だけは助かるという事が起きました。こうなると、生きるも死ぬも、運にまかすほかはないと、何としてでも生きようと、決心しました。家にはまだ小さい子供が三人もいて老母をかかえた身重の妻だけではどうしようもなく、働き手の私が何とかしなければ生活して行けない状態でした。昼間の空襲で飛行場の滑走路にできた大きな爆弾の穴を埋める作業が夜間行なわれるのです。そのうち夜間も空襲が始まり、一日で二十か所も大きな深い穴をあけてあった。飛行機が飛べる様に石垣をこわして来てたりない分は、ドラム罐を運んできて、その弾跡の穴うめ作業をするのです。徹夜の作業をするため、夜寝る時間はほとんどなかったのですが、昼は隊を抜け出し、家族のための食梱さがしをしました。空襲下の食極探しはそれこそ命がけです。

 

機銃弾で死んだ馬肉を焼いてい、それを夜間作業の終ったあと、明け方になって平良の家まで歩いてもって帰るのです。平良まで、たどりつくのに来襲する飛行機から身をかくすのに路ばたの滑に身を横たえては又走り出すのです。わずかばかりの手持ちの金で、多良間島から久松部落にヤミタバコの葉が来ている事を聞き、それを仕入れて来ました。民間人の吸うタバコは全くなかったし一斤で八百円でした。それをきざんで、美濃半紙で巻き、一本二円で売りました。丁度、もとでの二倍になりました。そのもうけで、部落の家々で、ひそかに作っていたヤミ酒を二升三升と買いそれに水を割って、三升の酒を四升にするのです。その酒を部隊の兵隊に売り、海軍の部隊にも売りました。ヤミ酒一升百二十円でした。昭和十八年頃まで一人あたり二合の配給制だった米はとっくになくなっていたが、部隊の倉庫係の兵隊が横流している事を知り、ある民家には、それが流れて来て、金さえ出せば、米を売って呉れる所がある事を知りました。妊娠三か月の妻や小さい子供達のためにそれを買いに行きました。その米もなくなり、食う物がなくなると甘藷を探しに行きました。空襲のさなかいもをぬすみに行った事もあります。うえて来ると人間は恥も外聞もない。私の植えた富のいもたぬすまれるが、お互に生きねばならんからと、それはもう仕方ない事と怒る気にもなれない。とられる人がそん。とる人は得。そんな時代でした。

 

もと会社員だったという渡辺という隊長が、おとなしい人だったせいもあり、ほとんど壕の中にばかりいた人だったが、私たちの家の事情をも知っていて、作業時間に会って帰隊する様に注意して、隊を脱け出す事も、大目に見てくれた。

 

働き手のない家族の生活費をかせぐのに、カーラバリに知人のいた専を店い出しキビの汁で作った酒の買い出しに行った時だった。私を含めて三人の特命召集者で、隊を脱け出し、一人で二升ずっのャミ消を知人のつてでようやく手に入れたのですが、その知人宅で一休みしている時でした。来間沖に、ずらりと船が並んでいるというのです。あれは日本の船ではない、いよいよ上陸して来るのだと部落中が大さわぎになりました。もう死ぬのだと思いながらも、一升ビン二本を下げて、帰隊すべく急ぎました。ヤーバリあたりまで来ると、物すごい音で艦砲を撃ち始めるのです。道ばたに伏せたのですが、ふと見ると、北向になった路地があり、その入口が真新しいしっくいでかためてあるのが目についた。棒切れで、そのしっくいをかき落し、二段に積んであるその入口の大きな石を三人でのけいつでも入れる様にしておいた。まだ新らし棺桶が白く見える。目の前で人が死ぬのを見た事もあるのに、陸の暗い穴の中の白い棺桶は、薄気味悪い。だが、次第に地響と炸裂音が激しくなるにつれて、そんな事にかまっておれなくなり、棺桶を抑しのけて中に入った。墓の隅の方にすさまじい金属的な炸裂音と共に島全体がゆさぶられる様な感動が器の中にまで伝わって来る。目の前の棺桶が地郷と共に動いているのが、良くわかる。中の死人がうめき声を上げて来る様な錯覚におそわれながら、そこの穴の中にひそんでいた。実際には三十分間くらいだったと思うが、例民と共に過す時間は三時間くらいに思える長い長い時間だった。

 

艦砲が止むのをたしかめて、紫の庭においてあった二本の酒ビンも無事である事を確めて、4許して下さいとこの仏さん》と革のフタ石をもとにもどし、隊まで帰りついた。酒ビンは隊近の畑の中にかくして、若し上陸して来るなら、こんな小さいでは死はまぬがれないし、同じ死ぬなら、家族と共に死のうと、三人で隊を脱逃する事を申し合わせていた。町の中や、特に飛行場北部周辺は部厚いギザギザのするどい刃物の様な砲弾破片がいたる所に落下し、地下水が湧いて来るのではないかと思われる様な深い穴が道路を寸断していた。それをまともにうけて死者が出ているという話が伝わりました。露天にさらされていた家畜類は大部被害を受けたとのことでした。そこら中の畑が赤土に到るまで掘り返されて、人の二人や三人では動かす事の出来ない大きな岩石が巨人の手で手づかみにしてそこら中ばらまいた様な状態で白っぽい石の原っぱに変えられていた。

 

いよいよ戦争は負けると、吾々もわかって来たし、つとめて隊を脱け出す事にしていた。わずかばかり植えつけてあった大豆がニャーツの西側の畑にあった。それを刈りとっている時空襲を受けました。ニヤーツの丘の上にあった海軍兵舎の大きな水タンクをめがけたものか、飛行機が急降下して来るのです。逃げるひまもなく畑のそばのサルカキヤナギの中に頭だけつっこんで、身を伏せたのですが、耳をつんざく様な爆発音と共に、体全体に土砂が降って来てう。ずたかく積もるのが分かるのです。「おうていた目と耳をあけて見ると、私の四方八十メートルの距離に爆弾が落され、大きな穴があいている。穴の大きさと深さから二百五十キロ爆弾とわかりましたが、せっかく刈りとった大豆はあとかたもなく爆風でふきとばされてしまいました。人一人でやっと動かせる石が畑のそばに落ちていて、それをまともに受けていたらべしゃんこにおしつぶされ即死している所です。今でもその弾跡と岩石が草むらにおおわれて残っています。

 

二十年三月頃、町の中を空襲し始める頃束仲の住居が焼かれてしまいました。あの日は山中の部隊内にいて町が燃えているのを見ました。三日間の休暇を願い出て、家にたどりついて見ると家は金焼してあとかたもない。かねてから万一の時はニヤーツの畑に逃げる様、家族には指示しておいたが、八十余歳の老母を初め子供たち三人をかかえて妻はお腹の大きな体で畑のそばで着のみ着のまま逃げて来て途方にくれている。三日間で、この家族のために小屋を建てなければならないのです。すぐ近くにそのり山の町有林があり、そこには町役所の番人がいる事を知っていました。尋常な手段では、そこの木は切れないし、昼間から酒を飲み、その勢いで松木を切りたおし始めました。案の定、管理人がとんで来てとがめだてるのです。「君勝手に木を切るのか」というのです。「私勝手ではない、だがこの子供たちを雨にうたしておけるか、町有林はみんなのものだ」と口論しているうち、町長の許可をとって来い。さもないと、知らないぞ」とおどすのです。こちらはそのために酒をのんで勢をつけているし、「君こそそこにつっ立ているとひどい目に会うぞ」と、わざとその男の方へ松木を倒してやりました。あきらめたのかその場を去りました。そのすきに丸太を運んで来て、支柱の材料をそろえましたが、綱もない。カヤ束もない。徹夜でなまのカヤで縄をないました。カヤを刈りとっていたのでは、三日間では小屋は建たない。夜陰に乗じて、近くの兵舎の壁のカヤをはがして来ました。屋根と壁らしいのが、出来ましたが、床がないのです。妊婦にとって冷える事が悪い事を知っていました。五寸ばかり土から離れて床をつくれば冷えこまない事を知っていました。町の東方に民家を壊して兵舎を建てるべく集術してある事を思い出し、夜、床板を見張りの兵隊の目をかすめて込んで来ました。生きるためには家族を守るためにはと思いそれこそ必死でした。飛行機から機関銃でねらいうちされた事もあります。畑に出て、子供も二人そばにいていもの植えつけをしていた時です。爆音と共に飛行機の近づくのが見え、あわてて近くのお獄のでいごの木の下に子供をかかえて逃げこみました。パシリと音がしてデイゴの枝が落ちるのを見上げる間もなく、足もとの石に機銃弾がバリバリとは「じけ散るのです。二人の子供を両手にかかえこみ、うずくまってしまいました。

 

飛行機が遠のくのを確かめ、近くの壕に上の子は走らせ、小さい方を小脇にかかえ逃げこみ、あやうい所を助かりました。

 

少年兵の体験

上野村字宮国宮国〇〇(十六)

昭和十九年、宮国部落の十六歳から十九歳までの男子は少年兵として正規の軍隊に組み入られていた。兵隊が足りんからといって、その年令を一年くり下げ、満十五歳の私も、宮国部落に駐屯していた長谷川大隊の西村小隊に編入させられた。

 

陣地の壊掘り、小銃、機関銃の操作法の訓練を受け、今、博愛ビーチといっている海岸の東部のバー(がけの事)で実弾射撃を何回かやらされた。

 

十キロ入りの模擬爆薬一個と、手榴弾十個を渡され、深さ一メートルのたこつぼ壕にひそみ、戦車が来るから、それに向けて投げろといわれていた。所が、十キロの重さの模擬爆薬は精一ぱい投げても十五歳の少年には二メートルしか投げられない。自爆せよといっているに等しかった

 

自分達の島を君たち自身が守るのだといわれ、兵隊のやる事は何んでもやらされるが、喰いざかりの少年には空腹がこたえてしまった。ふらふらして目まいを起して来る。それを見かねてか、五十歳くらいの年とった兵隊が、伝書鳩の価用の豆を小さな石油ランプで炒って喰わしてくれた。鳩が喰った事にするから班長にはいうなといって自分も一緒に喰っていた。カエルや蛇を喰べつくしたあとは、ソノリ(海草の一種、部段は食用にはしない)や、バッタ、カタツムリ等を喰っていた。昭和十九年十月十日米軍機による初めての空機があった日、中飛行場作業に行っていた。日本の飛行機が演習しに来ているのだと思っていたが、飛行機のマークがおかしい。日本ではない。宮古まで敵が来たら戦争は負けだといわれていたから、敵の飛行機とは思わない。第一滑走路のそばで、土選びの作業を続けていた。

 

急降下しながらバリバリと機関銃の音を聞いて、初めて空襲だとわかった。あわてふためき、作業隊は蜘蛛の子を散らす様に勝手な方向へ逃げて行った。逃げおくれた私は、すぐ近くに日本の戦闘機が一機降りていたから、飛行機は金属だからその下は安全だろうと思ってその下へとびこんだ。そしたら兵隊がとんで来て、お前らは命が惜しくないか、それを目がけて(ねらって)いるのだぞ、逃げろとわめく。その翼の下から一目散に逃げ出して何分間か走り続けた。爆発音にふり返るとついさっきまでその下にいた飛行機に直撃弾が命中して燃え上っていた。一分間おくれたら死ぬ所だった。

 

昭和二十年五月四日

陣地の穴掘り作業をして昼休みの前だった。東の海に軍艦がずらりと並んだ。十三災ばかりいた。頭の上を目に見えて砲弾がとんで行く。ぴかりと閃光がしたかと思うとものすごい艦砲音と共に飛行場方面がやられている様子で即戦備下令になったという。昼食が出たが、兵隊は憶病でごはんも喰べきらん。ぶるぶるふるえてげーとるも巻ききらない。いよいよ上陸だと重機関銃軽機関銃等渡されて陣地に配置されたがペタンと壕の中にすわりこんで穴から出きらん。普段お前たちの島を守りに来たと強がりばかりいっていた兵隊が、こんなものかと思うと心細い思いであとはばからしくなって来た。三十分ばかり物すごい地響きと炸裂音が続いて、軍艦の群れが北へ移動して行った。

 

二十年六月一夜、

月が十時頃出て来た。旧歴の十九日頃だったと思う。現地召集で宮国の駐屯部隊にいた垣花三郎伯父と陣地の不疫番に立つ事になった。線香に火をつけて、その一本が燃えつきる時間が、不夜番交代の時間区切りになっていた。伯父がお前は子供だから、もうおそいし少し寝なさいという。伯父だけ長く立たせては悪いし、線香を半分に折ってみじかくして寝た。最後に立つ人はその分だけ長く不寝番に立つ事になる。昼間の穴掘り作業で、つかれきっていたし、小屋の中でうとうとしかけた頃、人の声で目を覚ます。

 

「どうして寝ているか」と尋問している。野村という一等兵が陣地を抜け出して時間すぎに帰って来た所だ。しまったと思ったが、こわくて何もいえない。伯父が「まだ少年だから寝かせておいた。その代り自分が起きている」と答えている。野村が「兵隊とはそんなもんじゃない」としたたか頬をなぐりつけた。

 

月明りの中で小柄な伯父がよろめくのが見えた。あたりは誰もいない陣地の入り口。普段はおとなしい、人に大きな声を出した事もない人のいい伯父が「二人一緒に寝ていたのではない」と起き上るなりトーンギー(いばら科の植物)の密生している林の中へその兵隊をおし倒した。野村が倒れる所をけったり、ついたりもう無我夢片にたたいている。野村はぐったりしてしまった。「これは困った事になった。明日になったら大変な事になる。もう止めたが良い」とふるえながらいったが、「やりかけたら気のすむまでやる」と、「どうせ明日は二人とも重営合だから、覚悟の上だからやる。あんたは今ごろ帰って来たんだから、どうせ部落で恐い事をして来たにきまっているから、あんたがいいつけるなら、君が何時に帰って来たかを僕らも班長に報告する」とその野村をつきはなした。翌日その兵隊は上官に沈黙を守ったのか、何事も起らずにすんだ。

 

自分たちの事はさておいて、理不尽な人あつかいに不満があったし本気でやれば島の人が強いんだという事を初めて知った。

 

壕掘りの合い間に、小銃の手入れをさせられた。分解してみがき、スピンドル油を塗って組み立てる。焼けつく様な日中で、暑いから、銃を足の間にはさんで帽子をかぶり直そうとしたら、小銃が地面に倒れてしまった。誰も見ていないと思っていたら、遠くから伍長が見ていたらしく、「そんな兵隊があるか」ととんで来て顔をしたたかなぐりつけた。くらくらと目まいがする程なぐられ、一度はとり上げた銃を地面にたたきつけてやった。伍長はかんかんに怒って、「もうお前は重営倉行きだ」という。止むを得ん、もともとわざとやったわけではないのにと思いながらも、垂営倉行きを覚悟していた。伍長におどされながら班長の所へ連れて行かれたが長い訓話だけですんだ。重営倉がどこにあったか覚えていないが、何かあると「垂営倉」といって兵隊をおどしていた。

 

空腹をかかえて民家へ行った兵隊が、わずかばかり残っていた砂糖きびをしぼって、それを煮ている所へ来て、いっぱいくれというのでくれてやった。固まる前の黒砂糖だからかなり熱い。それでいて湯気は出ない。部落の人はまさかそれを飲むとは思わない。上官の見ないうちにと思ったのかそれをぐっと飲んだ。兵隊はやけどして死んだという。マラリアと栄養失調で、民間人も兵隊もやせこけていた。

 

現役兵

上野村砂川〇〇(十九)

陸稲のこと

飛行場建設ためのの土地の強制接収

戦争のときの想い出といえば、先ず、陸稲のことですね。その年(昭和十九年)の陸稲はとくに出来がよかったのです。それが、あと四、五日で収穫というときでした。

「あと四、五日まってくれ」と頼みこみました。だが、強引にきりはらわれてしまいました。畑の主たちは涙を流していましたよ。それを眼のあたりにみた私は、あまりに残酷な仕打ちに、人間として許せることか、といかりがこみあげてきましたよ。

私のうちは、第一滑走路の北西方の北の端で、滑走路内ですので、引越しです。畑の八十パーセントは、運悪く滑走路の中心部にありました。うちの人は、なやみぬきました。もったいない。あと四、五日で収かくできるよくできた陸稲をみすみすてるのかと。それで、郡農会の伊志嶺栄さんを通して設営隊長に折衝してもらいました。吉岡隊長は、すごいけんまくで拒否したといいますね。

 

滑走路からだいぶはずれた処について、そこだけは何とか待ってくれと頼みこみましたが、それさえくききいれてもらえませんでした。仕方がないというので、青刈りして、馬のえさに使ったりしていました。

 

土地代は形の上ではもらいました。だが、強制的に凍結貯金ですね。未だ、実質的支払いというのはうけていません。戦後は、境界線もはっきりしないまま、大体の検討で、開こんし、小作料を払って耕作しているんですがね。

 

土地をとりあげられた後は、本家にすがりました。幸い本家は財産が多かったので、その畑のいもをわけてもらってくらしてまいりました。

 

この飛行場は、陸軍の中飛行場で、全部で三十四万五千坪といわれています。二本の長さ一、五〇〇米はば五十メートルの滑走路がっくられました。第一滑走路がほぼ南北に、第二滑走路がほぼ東西に走り、南の方で接合される予定だったようですが、接合点の方にくぼ地があり、そとの処は難工事で、最後まで接合されていませんね。たくさんの住民が動員され、小学生まで作業にかり出されましたが、私は、この飛行場処設には、一回も参加しませんでした。

 

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宮古島地区防禦配備図 宮古島の3つの飛行場

 

当時私は、中学五年生でした。二期になると、私たちの県立宮古中学校の校舎も部隊(海軍警備隊)が使うようになり、学校近くの民家で授業をすることになりました。私たちの教室は学校の東にある無電塔の東の民家でした。

 

卒業式は学校の広場でというので、うちを出たのですが、空襲がありまして、登校の途中からひっかえしました。あとで配られた卒業証習は、B5の用紙ほどの大きさのものでした。

 

卒業したら徴兵検査でした。第一乙種合格です。みんなをかり出す意図での検査です。友人の夜盲症の人も合格です。入学して、非常な困難にあったということですがね。

 

逃亡未遂

中学卒業して、一時、五六二〇部隊(歩兵第三連隊)の経理部に通いましたが、採用は断わられましたよ。そして四月には、入営です。野原に本部のある五六二〇部隊です。その十二中隊に入りました。中飛行場の南の端にあたるソバンミ(側強)の兵舎(バラック)で三か月の訓練をうけました。

 

入営すると、軍服の分配がありました。新しいのから古いものまでがまざったものをポンポン配っていきます。他の人は、長い待(ズボン)が当たりましたが、私のは半袴でした。

 

半襟は運の悪い当りでした。不寝番でひどい目にあいました。時計の針をまわして、どんどん下番の方にまわしていきますね。最後の方は、何時間も立たされてしまいますね。中には寝る場所をとりかえてねる人がいるのです。ここの方が私の次だと、時間がきたというので起すと、別人なのです。どやされます。ところが、私の場合、それができません。何しろ半袴です。半袴のままねるし、逃げかくれができませんでした。六か月の軍隊の期間、それ一着だけですごしました。

 

入営の日には、軍靴も配られました。これの方はいいので、とてもよろこんだのですが、その晩のうちにぬすまれてしまいました。習朝、不時呼集がありました。いくら探してもありません。仕方なくはだしのままでました。当然のことながら、どうして軍靴をはいてないのかと、しかられました。事情をいうと、とられたのがわるい、というのです。それでも、もってきてくれました。その靴は、片方が十一文で、もう一つは十文半です。片方は足がはいりませんというのですが、きき入れてもらえません。くつに足を合わすんだと、とりあってくれません。

 

軍靴はその後、はくことはありませんでした。アダン葉草履が配られそれをはきました。それも一回限りでしたから、すぐすり切れましたから、あとは、はだしで過すことになりました。訓練で、外を歩くことはそれは大へん難儀なことでした。

 

きたきり雀の裸足の兵隊です。シラミもわきました。シラミのかゆみがすくないときは、それはさびしい気さえ起る生活でした。・ソバンミの訓練期間の三か月は、空の連続でした。飛行場の戦指揮所のすぐ南の松林の中に兵台が作られ、そこに住んでいたのですが、すぐそばに、三門か四門の高射機関銃をとりつけてあったが、そこがねらわれたのですね。空襲があると、所持品をもって防空壕に入るのです。はけない軍靴も肩からぶらさげてですね。

 

壕の中に入っていると、ロケットをくらいました。入口の処で、豊原出身の山口さんと本土からきた兵隊がやられました。おどろいて逃げだし、もっと安全な壕へとうつります。そうですね。訓練といっても、それより避難のための防空壕づくりが主だったというのが本当でしょう。これは昼夜交替でやりましたね。

 

銃はありましたが、実弾射撃の訓練を受けたこともありません。歩兵部隊ですけれども軽機関銃もみたことはありません。

 

この頃の隊長は、今日流でいえば、民主的な人だったとおぼえています。隊長の処で、不時着した米軍機からの没収品というのを見せてもらいましたが、その中の地図ですね。これにはおどろきました。タコつぼに至るまで、鮮明にさつえいしてあるんですね。直撃された処には×印がつけられて、手にとるようにわかります。あい手はうまくやっていたんですね。

 

野原に大佐がいましたが、この人は、初め野原公民館にいたようです。処が、そこがやられたんですね。そこで砂川という人のうちに引越しました。そこも直撃をうけましたね。そこで地下壕の方にうつったんですね。そこも見事に直撃をうけているんですね。堅固にできているので、どうということはなかったようですが、スパイではっきりしているのではないかと思いましたよ。その頃、私は、一応幹部候補生ということでした。しかし、幹部候補というものが考えられなくなることが起ってしまいました。

 

月の晩でした。野原出身の初年兵と二人で兵舎をぬけだして、わが家へ帰りました。うちではよろこんでもらい、砂糖をもってかえってきました。運がわるかったんですね。みんなが不時呼んで警戒に当たっているんですね。あとでわかったことなんですが、二人の営倉破りがあったんです。それを探していたわけなんですね。営倉破りとまちがえられて、私たちはつかまえられてしまいました。取調べを受けたのですが、はずかしいことですが、軍隊は要領だというので、うそをつきましたね。その前日に、ものすごい空襲があって、野原方面は全滅だという話でした。だから、家族の安否だけでもと、実はうちへかえったわけなんですが、そこでついたうそというのは、そういうわけでかえろうと思ったが、そして、一応小隊をはずれて出たが、思いなおして、行かないで、もどったということにしたのです。逃亡未遂ということで説教されました。

 

うそも方便というのでしょうか、上官づきで、その翌々日は、うちまで連れていってもらいました。それで、幹部候補どころじゃなくなってしまいましたがね。一緒だった野原のひとの方は、うちは破壊されていましたが、家族は避難して無事だったし、私の方は、全域まではしていませんでしたよ。

 

営倉破りの方は、翌日みつかりました。一人は宮古の人でしたが、これは普通ではなかったんですね。つかまったのが野原付近だったようですが、隊長(大尉)の服をぬすんで、それをつけていたというんですからね。営石は民家にあるような防空壕の出入り口に丸太を組み合わせたとびらをとりつけただけのものでした。

 

腹のわるい隊長

ソバンミの頃は、隊長には心まれていると思いましたが、中には目をつけて、初年兵いじめをする占年兵もいました。・カザンミに移されたのですが、そこは独立した処です。それで小隊(そう呼んでいた)は、小隊分の食紙、米や砂糖、かんづめ類を掩蓋のある壕の中にもっていました。あることはわかっているのですが出してはくれません。

 

その頃、一番まいったのは、小隊長(中尉)のことですね。慢性の腹の病気の持主だったのですね。そのために睡眠が普通にとれなかったんですね。そんなに年とった人にはみえなかったんですが、不寝番の仕事の大半は隊長の肩もみをやらされるのです。それが一番立ちからずっと一晩中やらされるのです。もんでいると、気持よさそうにいびきをかくのです。いびきをかいてねたと思って、もみ手をとめると、すぐにおきて、どうしてやらんかとどなるのです。それで、連続してもまされてしまいました。

 

カザンミにきてからのいい点は、南からきて、飛行場への降下する地点になるので、空襲の心配が殆んどなかったことでした。ここでの主な仕事はタコつぼつくりです。製糖会社がトロッコのレールに使っていた鉄を錆なおして作ったハンマーとノミを使って、黙々とタコつぼを掘っていました。そして、タコつぼからはい出して、戦車を爆雷で破壊するという訓練をさせられました。雨の記憶はあんまりありませんね。想い出すのは、沖糖の近くに演習に出たとき、下地神社近くでのできごとですね。そのとき、小雨がふったときですね。そうです。爆音がしましたが、飛行機の姿は見えません。そのうちに、爆弾が眼にみえて落ちてきました。岩のかげにかくれると、近くに落ちたんです。イモ畑におちて、当りがまっくらになりました。大きな穴があきました。それで、かけていきますと、そこらにイモも散乱しています。くえたものではないんです。ほんとうは、においがするんですね。それでも、そのくさい生いもをかじりました。それだけうえていたんですね。

 

カザンミで一番こまったのは、何といっても水でした。どこでもそうだったでしょうが、なま水をのまさなかったんです。島ではなま水をのむんでなれているからといっても許されません。演習でへとへとになってかえってきても、水がのめないんです。こんなに苦しいことってないんですよ。

 

お湯をわかしてのむんですね。隊長からしだいにのんでいきます。ところが、初年兵の分までは、残らないんです。親類すじの一つ年上の兄さんがいましたがね。先に軍隊に入ったというだけで、古年兵ぶっていましたね。古年兵というのはいじわるなものですがね、うちから何かもってきて、あげるときだけは、何かとほめたたえてくれるんですが、そのときだけで、あとはいじめ通しですね。

 

このカザンミにきてからは、うちに立ち寄る機会がありました。それだけがたのしみでした。小隊で自活園をもっていた。それを耕作するのには馬とすきが必要です。それがあるというので、それを借りにうちへ帰るのです。そして、またそれをかえしにいく。つまり一回の農耕で、二回うちへかえれたわけです。馬耕をやったあとも、水をのませてもらえません。それで、泥水をのみましたよ。おいしかったですね。自活作業のあと、馬をかえす前に、馬を洗いに沼(方言でカーズクという)に入ります。そこで友人と二人で、こっそり馬を洗った水をのみました。病気にかかったってかまうもんかという気持ちですね。病気にはなりませんでしたよ。

 

カザンミでは、飛行場への空襲をよく見ました。ある日、グラマンより大きい飛行機が三機やってきました。そして降下の姿勢で収初の一機がつっこんでいきますと、バット火が上がり、飛行機が飛び散りました。次の一機もその通り、三機目は、逃げていってしまいました。あれが、日光砲とかいわれたものでしょうね。

 

戦後の病気

終戦までは、病気らしい病気をしたことはなかったんですが、除隊してからマラリアにさいなまれました。かえってすぐから、半年ほどもです。髪の毛がパラパラと落ちるまでです。高熱で、生死の境をいったりきたりしました。

 

生命びろいしたのは慰安所の女たちのくれた薬だったんですね。終戦後二、三か月は、うちの隣のバラック慰安所に朝鮮出身の女たちがいましたが、その女たちが、うちの母と親しく交わっていたんですね。うちにあるのを何かあげたりしていた関係ですね。私がマラリアにかかっているというので、薬をくれたんですね。それで、何とか、いのちびろいしたんです。ありがたかったですね。

 

話はちがいますが、あとで、神経痛もわずらいました。人々は、怪談めいた話をしますが、そんなことではないかも知れませんよ。

 

新里の小学校(今の上野小学校)は、戦前鉄筋コンクリートで、赤瓦の屋根の校舎でした。そこが戦争中は陸軍病院にされたんですね。その今も残っている西の棟の一番北の教室が敬遠されています。何かのたたりだというのですね。この教室を使った鏡原出身の国仲消勇先生も伊良部出身の久貝彰先生も病気になって亡くなったし、私も神経痛になったのですから、無理もありません。おはらいもやってあるんですね。

 

《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》 

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