「戦利品」の運命 ~ 帰ってきた遺骨 (Stars and Stripes 2003年6月17日より)
第二次世界大戦の「記念品」
"souvenir" (土産品) か "loot" (略奪品) か
今回、情報士官だったカール・スタンフェルト海軍中佐が大量に持ち帰ったとされる文化財のうち22点が返還された。
米軍の写真記録を見ていて今も違和感があることの一つは、戦利品を英語で souvenir (土産品・記念品) と記述していることである。
日本軍と異なり、米軍は機密保持のため兵士に日記をつけることを禁じたため*1、兵士たちは頻繁に故郷に手紙を送り、また souvenir 戦利品を送ることに熱中した。
米海兵隊: Two Sixth Division Marines walk the streets of Naha loaded down with souvenirs. Note the large China doll toted by the Leatherneck at the left.【和】戦利品を担いで、那覇の通りを行く第6海兵師団所属の海兵隊員2名。左側の海兵隊員が担いでいる大きな磁器人形に注目。1945年 6月 4日
米兵の余暇の楽しみとしての souvenir hunting は、広く公然とおこなわれ、地元が大切にしてきた獅子頭から、個人宅の高価な宝物や工芸品、日本兵の軍刀や歯などが、一兵士の「土産」として木箱などにつめられ大量に故郷に送られた。
米海兵隊: As soon as time permits the boys start boxing up souvenirs. Here is Private First Class Russell I. Wahl, Cornell, Illinois, boxing up his Jap rifle to send home.【訳】兵士達は時間ができるとすぐに戦利品の箱詰め作業に取り掛かる。故郷に送るため、日本軍のライフル銃を箱に詰めているイリノイ州出身のワール一等兵。1945年 6月15日
こうした行為を、souvenir hunting 「お土産捜し」という名で米軍が許容してきた結果として、沖縄戦では多くの文物が大量に米国に持ち帰られたのであるが、それは明確に、戦場での looting「略奪行為」として定義されているものである。
大英博物館(British Museum)は、米軍のイラク侵攻を受けた混乱の中で略奪されたとみられるくさび形文字が刻まれた粘土板156枚をイラク政府に返還した。同博物館が先月30日、明らかにした。
守られなかった沖縄の文化財
沖縄戦では、前線の兵士から後方の工兵隊にいたるまで、souvenir hunting は、熱狂的に行われた。戦火を逃れそのままで残されていた多くの民家においても、住民は収容所に強制収容されており、また基地建設や資材のサルベージのために破壊されるばかりであるとして、公然と兵士による戦利品あさりが行われた。
さらには、上級将校が検閲をごまかし、あるいは税関検閲官自身が、琉球の文物を略奪し持ち帰った。日本軍 (第32軍) もそうであったように、米軍もまた貴重な沖縄の文物への保護策を積極的にとらなかったため、語学将校としてハーバード大学から来ていた海軍の将校などが懸命に個人で集めなければならなかった事情はあるとしても、その後それらが沖縄に返還されなければ、それは「保護」ではなく「略奪」である。
「戦利品」は、一時的な憎悪や熱狂のために激しく競うようにして狩られるが、一旦、帰国して平時に戻れば、熱は冷め、屋根裏や車庫の箱の中にしまい込まれ、あげくに一抹の罪意識からこっそりと捨てられることもあった。価値がわからず破棄されることもあっただろう。
文物だけではない「戦利品」
2003年の「星条旗新聞」が伝えている「戦利品」も、スーツケースの中にしまい込まれていた戦利品は、孫によって池に投げ捨てられる。
その「戦利品」は、その特性から、おそらくは事件性があるとして警察に通報され、やがてそれが、太平洋戦争で戦地から持ち帰られたものであることが判明する。
その「戦利品」は沖縄に送られ、なんとか祖国に帰される努力がなされるが、G8 サミットの戦利品返還のリストから外され行き場を失う。国務省かホワイトハウスの判断だったという。おそらくそれが「頭蓋骨」であったためだ。その判断もおそらく政治的なものだ。
2000年に沖縄で開催されたG8サミットのため、クリントン大統領が来沖することになった。在沖縄米国総領事館は在日米国大使館と米国国務省 に、中城御殿から持ち出され、いまだ行方が分からない文物の1点でもいいから見つけ出して、沖縄に返還してくれたら大変喜ばれると提案した。残念ながら見つけだすことはできなかったが…
その「戦利品」は沖縄のキャンプ瑞慶覧に留め置かれ、無責任にも、3年たてば「医療廃棄物」として捨てられる運命にあったが、戦利品に関する文献を調査していた琉米歴史研究会の喜舎場理事長の目に留まり、やっとのことで運命から救済される。
さて、この頭蓋骨は、どこで亡くなった兵士のものだろうか。沖縄戦の頃には、既に頭蓋骨を戦利品とすることはジュネーヴ条約に反するものとして禁止されていたので、おそらくはガダルカナル島かどこかではないかと思われる。
犠牲者の体の一部を切断し「トロフィー」となすことは、アメリカにおける根強い人種差別とも関連付けられており、例えば、南部でのアフリカ系アメリカ人の「リンチ (lynching) 」では、切除 (mulilation) された体の一部をトロフィーとして保持、またリンチの現場を写した写真などが密かに白人至上主義団体を通して流通した*2。こうした事実を考えると、体の一部を戦利品とみなすことが戦場の異常行動というだけではない人種差別的背景も確かに考えられる。
The mutilation of Japanese service personnel included the taking of body parts as “war souvenirs” and “war trophies”. Teeth and skulls were the most commonly taken “trophies”, although other body parts were also collected.
American pilots resting with a Japanese skull, 1944 - Rare Historical Photos
祖国に帰った「戦利品」
2003 年 6 月 17 日
WWII "souvenir" turned over to Okinawa officials | Stars and Stripes
Okinawa Prefectural officials receive the wrapped box containing a skull believed to that of a Japanese soldier from Navy Capt. Patricia Buss, executive officer of the U.S. Naval Hospital on Okinawa. The skull was returned during a brief, but formal, ceremony. (Mark Oliva / S&S)
Source - Stars and Stripes
【訳】
倒れた兵士が帰ってきた。 木曜日、米国海軍病院で短く静かで厳粛な式典が行われ、病院関係者らは第二次世界大戦中の日本兵のものとされる頭蓋骨を沖縄県当局に引き渡した。 それは、戦争、恐怖、尊敬の奇妙で歪んだ物語に終止符を打つことになった。
米国海軍病院の幹部であるパトリシア・バス海軍大佐は、白いリネン、ボウルに入ったフルーツ、2本の白いキャンドル、そして白いリネンで包まれた木箱で覆われたテーブルに足を踏み入れた。箱の中には、ほぼ3年間病院に保管されていた頭蓋骨が入っていた。彼女は箱を持ち上げて沖縄県職員に差し出し、静かにこう述べた。「私たちは待ちに待った帰省のほんの一部になれることを誇りに思います。」
役人は箱を受け取り — そして無名戦士の旅は終わった。
失われた頭蓋骨の物語は、2000年2月9日、現在64歳のアーノルド・ジリンスキーがイリノイ州スプリングフィールドのスプリングフィールド湖の周りを散歩していたときに始まった。湖の水位はその前の6か月間で着実に低下していた。今では日光にさらされている何もない海岸線は、何も新しいことではありませんでした。しかし、人間の頭蓋骨の形をみつけ、ジリンシさんは警察に通報した。
この発見は地元のテレビニュース局の注目を集め、さらに当時18歳のジェレミー・ラップさんの目に留まり、警察に通報した。湖にそれを投げ込んだのは自分だが、それは単に「頭蓋骨を見るのに飽きたから」だと彼は言った。
第二次世界大戦後、祖父が持ち帰った。 退役海兵隊砲術軍曹のロバート・ラップ氏は、父親は戦争中に海軍軍人で、ガダルカナル島やおそらく沖縄戦を含むいくつかの有名な戦いに参加したと語った。
彼の父親は、その頭蓋骨を一種の陰惨な戦利品として拾い、米国に持ち帰った。さらに恐ろしい展開として、彼は退役後高校の理科教師として生活する際に、それを生物学の教材として使用した。
しかし、海軍軍人は息子がまだ12歳のときに亡くなった。頭蓋骨やその他の所持品はトランクに詰め込まれ、屋根裏部屋に保管され、忘れ去られた。 ある日、ジェレミーがその頭蓋骨に出会うまでは。
孫は警察に対し、トランクから持ち出したと認めた。若者の残忍ないたずらとして、彼はそれを金色にスプレー塗装し、バンダナを巻いて自分の部屋に飾った。 しかし、ジェレミーは後にその頭蓋骨を恐れるようになり、それをスプリングフィールド湖に投げ込むことに決めた。
彼と面談した警察官はこう書いた。 イリノイ州の病理学者はコンピュータースキャンと詳細な検査を用いて、頭蓋骨はおそらく左こめかみに致命傷となる可能性のある頭に傷を負った30代前半か40代の男性のものであると判断した。彼らは、その頭蓋骨が日系人のものであると65〜70パーセントの確率でしか判断できなかった。病理学者らは米国海軍病院の協力を得て、本国送還のため頭蓋骨を沖縄に送った。
しかし、そこで問題が発生した。当初の計画では、2000年の沖縄でのG8国際経済サミットの際に頭蓋骨が沖縄県当局に引き渡される予定だった。 しかし、「国務省か大統領スタッフの誰かが、その頭蓋骨が日本兵のものであると判断するのに十分な証拠がないと判断した」という。当時軍の検死官だったジミー・グリーン海軍大佐は昨年のインタビューでこう語った。 その後、G8は終了し、関心は薄れた。
頭蓋骨はほぼ3年間、行方不明のままだった。琉米歴史研究会会長のアレックス・キシャバ氏(註・喜舎場静夫理事長) は、それが日本兵のものであるという十分な証拠がなければ、沖縄県当局はそれを受け入ることはできないかもしれないと語った。グリーン氏は、病院の方針は頭蓋骨を3年間保管することだと述べた。判断がつかない場合は医療廃棄物として処分される。
喜舎場氏が他の文書を探し、頭蓋骨に関する書類を見つけたとき、頭蓋骨の滞在は最終章に来た。彼は頭蓋骨が本国に送還されたかどうかを尋ねるために電話したが、それ以上の進展はなかったとだけ聞いた。 そのとき、彼は沖縄県当局に対し、頭蓋骨を受け取り、安置場所に収めるよう動き始めた。今日、その目標にまた一歩近づいています。彼は海軍の式典について「これらの敬意を持った手続きがさなれ、とてもうれしい」と語った。喜舎場氏は、頭蓋骨の送還に細心の注意を払ってくれた病院の司令官スティーブン・ロビンソン海軍大佐とバス氏の両者に感謝した。 バス氏は、「これらの遺体が最終的にあるべき場所に行くことを知るには、心の平安が重要である」と述べた。これはこれらの遺骨の帰還であり、私たちはこれらの手続きに少しでも参加できることを嬉しく思います。
喜舎場氏は、頭蓋骨がガダルカナル島で発見されたのか沖縄で発見されたのかを決定するために、沖縄当局が独自の調査を行うと述べた。沖縄の場合、頭蓋骨は他の遺骨とともに、沖縄戦で亡くなった人々を追悼する大きな記念碑である糸満市の平和祈念公園に埋葬される。頭蓋骨がガダルカナル島で発見されたと判明した場合、その頭蓋骨は東京の国立墓地にて「永久管理」のもとに埋葬されることになる。「敬意を持って扱われます」と喜舎場氏は言った。 「私は、これらの埋葬がその魂を慰めたと確信しています。」
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こうして遺骨は祖国に帰還した。
30代前半か40代の男性とみられるその遺骨は、「戦利品」となってアメリカに送られ、生物学の教室で見本としてさらされ、ペンキがぬられ、やがて飽きられて池に捨てられた。干ばつで水位が下がった池で発見され、返還のために沖縄に送られるも、「医療廃棄物」として処分の危機に瀕して、琉米歴史研究会によって救われる。その遺骨が、その後どうなったのか。その後の記事など見つけられた方があれば、ご連絡いただければと思う。
遺骨は帰郷を望んでいる。
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