『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 慶良間諸島 (1) 阿嘉島・慶留間島
- 阿嘉島と野田隊
- 中村仁勇 (15歳)「青年義勇隊」
- 野田隊の「炊事班」
- 「戦場で出産」
- 「防衛隊の戦闘参加」
- 座間味「自決を思いとどまって」
- 「阿嘉島の戦闘経過」
- 「食糧問題」
- 慶留間島
- 「慶留間の集団自決」
- 「自決から捕虜へ」
- 「集団自決」
《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》
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阿嘉島と野田隊
中村仁勇 (15歳)「青年義勇隊」
座間味村字阿嘉中村仁勇(十五歳)
阿嘉島の野田隊
野田隊
私の手もとに野田隊の戦死者名簿がのこっています。野田少佐の署名と印がついたもので、これは部隊が山を降りるときに私の伯父にあずけたものだそうです。そのほかにも、私は勤務中隊の中村という将校から陣中日誌を見せてもらったりして、あのときの部隊の動きとか戦闘の模様は、自分の体験だけでなく、だいたいわかるわけです。
阿嘉と慶留間には水上特攻隊の第二戦隊が配置されていたわけですが、古賀さんのひきいる基地大隊が、たしか二月十七日(昭和二十年)だったと思いますが、沖縄本島に転進して、その一部の勤務隊と整備中隊がこの島に残ったわけです。それに従の乗組員10円名ですね。以上が正規の部隊で、後で、朝鮮人軍夫の水勤隊(特設水上勤務隊)が約300名ぐらいやってきています。
いろいろな記録には水勤隊は三五〇名となっていますが、私の記憶ではこの島にはそんなに来てないんじゃないかと思います。この水動隊には各班に下士官がついていて、布沢少尉とか永田少尉とか、二一名ぐらいいたと思います。
そのほかに地元で防衛隊と義勇隊が編成されています。防衛隊は、阿嘉・慶留間から四四、五名、また屋嘉比島からも四四、五名つれてこられています。屋嘉比島にはラサ鉱業の銅山があって、昼も夜も電燈がついてにぎやかなところでした。家族もふくめて2000名ぐらいいたんじゃないかと思います。国民学校までありましたから。そこからも防衛隊がとられたわけです。全部で阿嘉の防衛隊は九〇名ぐらいです。
これを全部あわせると、この島に七〇〇名ぐらいの部隊がいたことになります。しかし、もともとの地上戦闘部隊ではないわけですから武器というのはたいしたものは持っていません。挺身隊は特攻艇一〇〇隻のほかは爆雷と拳銃くらいしか言っていないわけですから。これが、実際の戦闘がはじまると、艇は最初の爆撃でほとんどやられてしまって、部隊は山にはいるわけです。このとき、各隊は戦隊長の野田少佐の指揮にはいり、それで野田隊と呼ぶわけです。勤務隊と整備中隊が機関銃とかてき弾筒とか無線機をもっていて、これが主力ということですが、整備中隊の隊長は鈴木大尉で、この人は斬込みの先頭に立って戦死しています。・部隊は、最初は部落のはずれにカヤ葺きの大きな兵舎を建てて駐屯していたわけですが、戦脚がはじまって山にはいると兵隊も住民もみんないりまじって、バラバラの状態になったんです。
私も、いつの間にか義勇隊ということで部隊と一緒に行動しました。山にはいってからでも、防衛隊にとられた人が何名かいます。国民学校の教頭先生なんか、学校はもうないわけですから、防衛隊にとられて通信小隊にいれられています。
中学生、本島から帰省し義勇隊へ
義勇隊
私は、県立一中の二年生で、十・十空襲は那覇で経験したんですが、十九年の十二月に、十日ばかり冬休みがあるので、そのとき島に帰ってきたわけです。阿嘉にはセイコウ丸という連絡船があったんですが、これは十・十空襲で那覇で沈められてしまって、二〇〇トンぐらいの木造船の、軍用船が一隻通っているだけでした。この船で帰省したわけですが、これはもともと民間人は乗せない船ですから、それでもう那覇には帰れなくなってしまったわけです。私と一緒に中学生が五、六名島に帰ってきています。いま名護病院長をしている金城幸善君も二中の一年生でこのとき一緒でした。
そこで、昭和二十年を迎えて、われわれ中学生も青年団にはいって、そこで訓練を受けたわけです。青年団といっても、昭和五年生の私らが最年少で、上に四年生と三年生がいて、全部で三〇名ぐらいだったと思います。昭和五年生が七名、四年生が十名、これに沖縄から帰ってきた四、五名、これが後に義勇隊とよばれるようになるわけです。いちばん上の昭和三年生は後で防衛隊にとられています。
青年団の訓練がはじまったのは二月末ごろだったと思います。柴田少尉とか布沢中尉とか、若い将校連中が各班の指揮をとって、匐前進とか、散開とか、突撃の訓練などをやりました。九九式の小銃をもたされて、部落の前の砂浜でやったんです。やっていたことは学校の教練なんかと同じことで、特殊な斬込み訓練というわけではありません。弾も少なかったせいか、実弾演習まではやらせませんでした。
義勇隊という名称も、誰がつけたのか知りませんが、三月二十五日の晩に赤土の埃に全員集結したときに、青年団も一緒に行って、照明弾がポンポンあがる下で、野田隊長の訓示があったわけですが、「いよいよ明日は上陸だ」と言って、翌朝にそなえて野田山に退って、そこに陣地構築をはじめるようにという命令です。防衛隊も覧勇隊も野田隊長の指揮にはいって戦うことになっていました。私は友達と三名で赤土壌にかけつけたんですが、私らには銃はくれませんでした。手榴弾二個とカツオ節一本と乾メン包二袋ずつ渡されて、合言葉を教えられました。「一人」と呼ぶと「十殺」とこたえるわけです。この合言葉は部落民にも徹底して教えられました。
このときから、私らの青年団は義勇隊と呼ばれるようになったわけですが、実際やることと言えば、弾薬運びとか、塚掘りとか、水汲みとか、それぐらいのものでした。義勇隊のなかから戦死者が一名でていますが、これも直接斬込みとか戦闘に参加して死んだわけではありません。防衛隊の人たちは、斬込みのときに道案内などやっていますが、義勇隊はこれにも参加していません。
26日夜の斬込みに国民学校の少年義勇隊も加わって全員戦死したという話が伝わって、いろいろな本にも書かれているようですが、そんなことはありませんでした。最年少の私らが国民学校高等科生に間違えられたんではないかと思いますが、でも、私なんか、服装は普通の学生服でしたし、帽子は一中の一本線のはいった学生帽をかぶって参加しているのですから、どうして間違えられたかわかりません。
ただあのころは、女でも子どもでも、竹槍をもって戦うんだと言っていましたし、敵につかまるよりは玉砂をするんだと言っていましたから、そういう雰囲気から想像したのではないかと思います。
二十六日の斬込みの晩に、篠崎伍長が慶留間に泳いで伝令に行っています。この人は私らが赤土の壕に集結しているのを見ていたわけですから、後で斬込みが始ったときに、みんな斬込んで玉砕しただろうと伝えたと思います。また、二十五日夜、隊長の訓示があった後、柴田通信小隊長が赤土の壕から無線機で最後の打電をして、例の「阿嘉島守備隊最後の一兵にいたるまで勇戦奮闘して悠久の大義に生く」と伝えて、それから無電機をこわしたものですから、この電報が大きく伝えられたのかもしれません。とにかく、斬込みには義勇隊も参加していませんし、もちろん国民学校の生徒もはいっていませんでした。
米軍上陸 - たった四隻の特攻艇
米軍上陸
三月二十三日から空襲がはじまっています。二十四日も激しい空襲が続いて、二十五日から艦砲が加わってきました。「私は家族と一緒にいたんですが、部落の後の赤土の壕に、家族も親戚も一緒に避難したんです。赤土の壕というのは、その辺の土が赤いので軍がそういう名まえをつけたわけですが、部落の人たちはもともとマカーガーラ(川)と呼んでいたところです。そこにが掘ってあったので、住民も兵隊もみんなそこへ避難してきたんですが、いよいよ艦砲がはじまって、次は上陸だということがわかったので、住民は野田山の後のシギャマ(杉山)に避難するように、また、部隊は野田山にのぼって陣地構築をやるようにと命令がでたんです。そのときに、私らは義勇隊として部隊と一緒に行動することになり、また、青年団のなかの昭和三年生は防衛隊に編入されたわけです。
野田山というのは部隊が便宜的につけた名称ですが、南にとなり合った慶留間島に向っていて、高さが一六五メートルばかり、古い松などが生えている山です。そこからは阿嘉部落と慶留間の間の海映がまっすぐに見おろせるところです。
二十五日の夜、照明弾がどんどんあがっているなかで、山の頂上から中腹にかけての斜面に陣地を知りました。陣地とはいっても、木の根っこのいりくんだ地面を小さなショベルで掘るだけですから、夜明けまでに、小さなタコツボを掘るのがせいいっぱいでした。このほかに陣地らしいものはなかったんです。
二十六日の上陸の日は、朝から艦砲がはじまったんですが、島の南西側につきだしている佐久原と慶留間の間の海峡に砲弾がどんどん落ちてきて、真白い水柱が慶留間の山の高さまであがって、私らは、何だろうあれは、とびっくりしたもんです。機雷をつぶすつもりだったんでしょうね。そのうち、艦砲はだんだん角度をあげてきて、海岸から部落へ落ちだしたんです。部落の家はちょうど一冊おきに吹きとばされています。弾の間隔でそうなるんですね。
だんだん艦砲は山の方へあがってきて、山の斜面の木が次々と吹きとばされていきました。それが私らのところに近づいてきて、すぐ近くに至近弾が破裂して、大きな松の木が吹きとばされて、タコツボの上からどさっと土がかぶさってきました。私は、軽機関銃の石田分隊についていたんですが、州が近くに落ちはじめたもんだから、石田分隊長は「義勇隊は後方に退れ」と命令をだして、私は、山の農側にまわって、そこに小さな壕が掘ってあったので、そこに艦砲は山の頂上までたたきつくすと、そこでピタリと止んでしまいました。いよいよ上陸だなと思いました。鈴木中隊長が軍刀を振りながら「全員配置につけ!」と号令をかけて歩きまわっていました。私は機関銃の壕にもどっていきました。
正面の海を見おろすと、艦砲が終ったとたんに上陸用舟艇がいっせいに岸に向ってくるのがみえました。見たこともない舟艇で、名のすごい数の戦車や舟艇が、真白い線をひいてこちらに向ってくるんです。水陸両用戦車というのをはじめて見ました。
部落の前の泊浜に舟艇がのしあがると、舟艇の前部がパクッと開いて、何だろうと思っているうちに、中から兵隊がとびだしてきたんです。午前八時ごろだったと思いますが、これが沖縄へ米軍が上陸した第一歩だったわけです。
彼らは、浜に上陸すると、すぐにこちらめがけて迫撃砲を撃ちだしてきました。迫撃砲というのはものすごい音がするし、真上からどんどん落ちてくるもんですから、すぐ近くでバンバン破裂して、その日一日耳がツンボになるぐらいまでひっきりなしにやられました。
こちらは、てき弾筒と機関銃で一斉射撃に出ました。私は九九式軽機関銃についていて、九九式小銃の弾倉から機関銃の弾倉に弾を詰めかえる作業でした。この弾の詰めかえがなかなかめんどうで、手間どってしまいました。
こちらの陣地から上陸地点まではおよそ一キロはあったと思います。機関銃は弾が見えないからどこへあたったかわからないんですが、てき弾筒の州があちこちで復するのが見えるんです。それでも敵はどんどんあがってきて、とうとう、野田山の中腹にコブみたいにもりあがっているグスク山のところまで登ってきていました。このとき、友軍は総攻撃に出て、手榴弾なんかも投げて、ものすごい撃ち合いになりました。とうとう私らは、「後へ退れ」ということになって、山の変側にまわったわけですが、この総攻撃で、一応敵は撃退したそうです。
特攻隊の艇は、最初の砲爆撃でほとんどたたきつぶされてしまって、残っているのは、慶留間の北海岸にいる第一中隊だけでした。ここは敵の攻撃は反対側の南側からやってきていますから、島かげになっていて無事だったわけです。そこで、二十六日の斬込みの晩に、篠崎伍長が慶留間に泳いでいって、出撃命令を伝えて、二十七日の未明に四艇が出撃したそうです。これによって、米軍の駆逐艦とか輸送船にいくらかの損害を与えたようですが、そのことはそのときすでに米軍の捕虜になっていた染谷中尉から聞かされたわけです。染谷中尉がアメリカの舟艇からスピーカーで投降勧告をやるときに、その話のなかで、全慶良間から出撃したのはわずか四艇であると、損害もこれこれの程度であると、山の中の日本軍に向ってわざと知らせてきたわけです。抵抗が無駄であることを言いたかったわけでしょうね。
野田隊、切り込み隊を送りこむ
ところで、山の上の友軍陣地の足もとまで這いのぼってきた米軍も、総攻撃にあっていったん姫の部落まで後退し、部落内に陣地を構えていました。与那俄さんの屋水のコンクリート塀の中に野営して、あちこちのカジマヤー(四辻)に機関銃を据えて、畑のなかにも、四方に盛を積み重ねて銃座をこしらえてありました。そこへその夜のうちに友軍は斬込みをやることになりました。斬込み隊は三隊に分かれて、そのなかには防衛隊の一部も含まれています。出発まえに、飯盒のふたで盃をあげて、それから鈴木隊長を先頭に山をおりていきました。
斬込隊は部落の西側からはいっていったそうです。途中、道に迷って、三隊が一つに合流してしまい、そこで何やら声をかけているときに、その声をキャッチされたのではないかと言われています。また、山道のいたるところに電線が張りめぐらせてありましたからそれにひっかかって察知されたとも言われています。いずれにしても、米軍は斬込み隊が接近しているのを知っていて、彼らが部落の中へはいろうとするときに、いきなり機関銃の集中射撃を浴びせてきたわけです。斬込隊はすぐ部落の中にとびこんでいって白兵戦になったわけですが、ほとんどは銃弾でばたばたと倒れていったそうです。鈴木隊長も銃弾で頭を射ぬかれて戦死したそうです。
鈴木隊長の部下の小森中尉が陣地に帰ってきました。隊長の左手を手袋のところから切断して、それをかかえてきました。それと、隊長の軍刀と戦闘帽を遺品として持ちかえっていました。軍刀はひどく刃こぼれがして、血がついていました。小森中尉の話では、隊長はその刀で四、五名斬り倒して、そのときに頭に銃弾を受けたそうです。もうだめだから殺してくれと言うので、小森中尉がピストルで撃ったそうです。どういうわけか、遺品の戦闘冊を私があずかることになったんですが、帽子の左側に弾の穴があいていました。
こうして、斬込みは失敗して、野田隊は山の裏側に新たに掘った壕のなかにたてこもるだけになったのですが、米軍もそれきり山に登ってこようとはしないで、そのうち、どこかへ撤退していきました。その後は、座間味島の方から砲艦がきて島の周囲をぐるぐるまわってパトロールしたり、スピーカーで投降を呼びかけるだけでした。慶留間と阿嘉の海は水上機の基地になっていましたが、もちろん友軍はこれを攻撃する力もありませんでした。こうして、阿嘉島は8月23日までずっとほったらかしにされていたわけです。
染谷少尉、朝鮮人軍夫をひきつれ投降
兵隊には変り者がいろいろいました。戦隊は別として、基地隊とか整備隊の兵隊は召集兵がほとんどですから、あまり戦闘意欲はなかっただろうと思います。
私の知っている少尉で、染谷さんという人がいて、私の母が婦人会に関係していましたから、ちょいちょい家にやってきたんですが「阿嘉の人は、いったい日本は勝つと思っているのかなあ」と言ったりしたもんです。当時の私たちには、日本が敗けるなどとは考えてもみなかったのですから、日本の将校ともあろうものが、よくもそんなことが言えるものだとびっくりしたのを覚えています。この少尉はふだんの態度からして軍人らしくなくて、部落の中を下駄をはいて歩いたり、隊長室で膝まずきさせられているのを見たこともあります。
二十五日の晩も、染谷さんは私の家にやってきて、タンスの中から衣類をだしたり、荷づくりをしたりして、避難の手伝いをしてくれたんですが、この人は艦砲がはじまっても酒をのんでいて、集結命令がきても、「あ~、俺はもう行かん」といって動かないんですよ。その翌日、米軍が上陸してくると、彼は朝鮮人軍夫二〇名ぐらいをひきつれて、白い旗をかかげてまっさきに投降していったんです。
この少尉が後で米軍の舟艇に乗って、スピーカーで投降を呼びかけてくるわけです。舟艇のスピーカーから「糸林軍医どの。ぼくもおかげで碁が選者になりました。今度やってみませんか」などと話しかけてくるんです。さきに話した、特攻艇が四受出撃したという情報も、こうしてこの捕虜になった少尉が知らせてきたわけです。
小森中尉の投降
斬り込みから生還した鈴木隊の小森中尉も投降。部下が野田隊長の命令でなぶり殺し、虐殺されたことが原因の一つと考えられている。
鈴木隊の中隊長をしていた小森中尉も白昼堂々と米軍の捕虜になっていった人です。私が漁撈駅にはいったころで、阿嘉の浜で魚をとっていたところ、座間味の方からまっすぐこちらへ舟艇が向ってくるんです。私らは岩陰にかくれて様子をうかがっていたところ、山から小森中尉が雑のうを肩にかついで、ゆうゆうと下りてくるわけです。舟艇が浜に着くと中尉はそれに乗って去っていったもんです。この中尉は終戦のときはハロー帽(米兵帽)をかぶり、ピストルをさげて米軍に協力していました。
これにはいろいろないきさつがあって、小森中尉は野田隊長にうらみをもって敵前逃亡をやったんだろう、という評判でした。そのいきさつというのは部下のA班長の処刑の一件のことです。「この兵長は最初の戦闘で背中に迫撃砲で穴をあけられて、医務室で治療を受けていました。私は、そのときは医務室勤務にまわされていましたから、よく知っているわけです。
この兵長はちょいちょい他人の飯を盗むんです。私らも何度も盗まれました。初めのうちは誰の仕業かわからんかったんですが、あるとき防衛隊の人たちが、彼らの飯盒を盗んでいく兵長をみつけたんですね。これが二ノ木主計中尉に知られて、本部にひっぱっていかれたんです。したたか殴りころしたうえで銃殺にしたそうです。
処刑の日に、小森中尉が泣きながらA兵長と話しているのを私はそばで聞いていました。将校運用のなかでもA兵長の処刑に反対した者が多かったそうです。野田隊長の命令でそうなったんですね。
兵長には、最後の食事だと言って、ギン飯に青竹の箸を立てたのを出してあったんですが、ぜんぜん手をつけませんでした。その前で小森中尉が泣きながらA兵長を慰めているわけです。「君はただ少し先になるだけだ。ぼくらもすぐ死ぬんだから」と言っていました。後で、野田隊長は、A兵長は敵前逃亡の罪で処刑したのだと言っていましたが、私はそうとは知りませんでした。
そういうわけで、悠々と投降していった小森中尉は前まえから野田隊長にすごく反感をもっているようでした。あれは腹いせで投降したんだろうと思います。
日本兵は「玉砕」などしていなかった
阿嘉島では、野田隊は「玉砕」にうごかず、それを知った住民も「集団自決」しなかった。集団自決がなかった阿嘉島では、逆に島民、朝鮮人軍夫、日本兵へのリンチが続いた。
住民
野田隊長は、住民を殴ったり、処刑したりして、みんなからは反感をもたれていましたが、ただ一つ、住民に対する措置という点では立派だったと思います。二十六日の斬込みの晩、防衛隊の人たちが戦隊長のところへ行って、「部落民をどうしますか、みんな殺してしまいますか」ときいたわけです。野田隊長は、「早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ」と指示したそうです。
(ブログ註: 善意の伝聞であり、実際には防衛隊員が戦隊長の意向を確認するため伝令として派遣された。戦隊長の回答は「米軍が後退したので、少し待て」であった。ところが「米軍は撤退したから自決中止」と伝えられた、また機関銃が住民に向けられていたとの証言もある)。) 伊藤秀美「沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令」参照。ただ、住民を次々虐殺した座間味や渡嘉敷の部隊よりマシであったということは言えるかもしれない。
杉山というのは、杉に似た木が何本か生えているところで、そこは三方に高い山があって谷間になっています。どこから弾がとんできてもあたらない安全地帯です。そこに、三八〇名ほどの島の住民が一か所にかたまって避難していました。避難というより、部落民はそこで一緒に死ぬつもりで集まっていたわけです。私もその夜は杉山へ行って家族と一緒にいました。
翌日、山の上をみると、そこに谷間に向けて機関銃を据えて兵隊が三名ついているのが見えました。後で聞いたんですが、糸林軍医が二名の兵隊をひきいて銃座についていたということです。その友軍の機関銃を見て、住民は、いざとなったら自分たちを一思いに殺してくれるんだと、安心していました。みんな一緒に玉砕できるんだということで、かえって混乱がしずまったんです。当時の私たちは、とにかくアメリカにつかまったら、マタ裂きにされて、大変になるんだと、そればっかりがこわかったわけですから、敵が上陸してきたら玉砕するんだとみんなが思っていたわけです。私の家族と親戚も最初はみんなと一緒にいたんですが、「生きられる間は生きようじゃないか」と誰かが言いだして、一族のリーダー格だった伯父(垣花福正)が、「みんながそう言うなら、逃げられるだけは逃げてみよう」と言って、私の家と伯父の家と、もう一か所の親戚の家族、三世帯だけは、その晩のうちに部落民から離れて独自行動をとることになりました。
次の日、一日じゅう北側の山の中を逃げまわったんですが、その夕方には銃声もあんまり聞こえなくなって、島じゅうが静かになっているんです。何となく、みんな玉神してしまったんだろうと思って、もうどうにもならないから一緒に死のうということになったんです。だが、手榴弾は私がもっている二個しかないわけです。それも、一個は急造のヤツで、導火線にマッチで火をつけて発火させるャツなんです。たった二個で二十何名も死ねるはずがない、というのは昨日の戦闘で証明済みです。手榴弾でだめなら、みんな一緒に崖から飛びおりて死のうじゃないか、ということになって、島の西側にヌヌ(布)のタキ(座)という昔から有名な絶壁があるんですが、そこまで行ったわけです。
うちの母は店をやっていて、練乳の罐詰を四、五個持っていましたから、その場でそれを開けてみんなでめて、それから、水を腹いっぱい飲んでからにしよう、ということで、下の谷川の方へ降りていったんです。すると、そこで思いがけなく日本の兵隊にぶつかったんです。朝鮮人軍夫なんかも一緒にいるんです。声をかけようとしたら、朝鮮人軍夫が口に指をあてて声をだすなと合図するわけです。「おや、まだみんな生きているじゃないか」ということになって、兵隊が生きているぐらいだからまだ死ぬことはないじゃないか、と思いなおして、それからまた杉山にひっかえしていったわけです。
それからは、ずっと杉山にかくれていたんですが、食糧がなくなって、これが大変でした。部隊も食糧不足で、防衛隊は漁撈班にまわされて、パトロールの砲艦のスキをぬすんで魚とりをやっているありさまでした。私も漁撈既にまわされました。海岸に行くと、たいてい漂流物の食べ物がみつかったんですが、これも部隊の統制になっていました。
6月22日 - 住民の投降を許可
野田隊が住民の投降を許可したのは、終末的な阿嘉島の食糧難にあった。
六月の末ごろだったんですが、中岳というところに部落民みんなを集めて、「住民は逃げたければ逃げてもいい。ただし兵隊の逃亡は容赦はしない」という命令がありました。それからは住民はどんどん島を抜けだして、最後まで残っていたのは、私の家族とか郵便局長の家族とか、ほんのわずかの人数でした。島の周辺にはひっきりなしにパトロールの舟艇がやってきますから、浜へ降りて合図をやるとすぐ迎えにきて座間味の方へつれていくんです。それから慶留間に収容所ができましたから、そこへつれていかれるわけです。
住民虐待
ところで、部落民がはじめて島を脱けだすのは、命令があったときよりもずっと前からで、実はその第一号は私の伯父にあたる中村正吉という人です。これはいろいろ問題がありました。
伯父は屋嘉比の錦山の船の船長をやっておりました。十・十空襲で大きい船はやられてしまって、宮島丸という十五屯ぐらいの船をもっていたんですが、三月二十五日、艦砲がはじまった日ですよ、この船が那覇から敵中を突破して阿嘉に来ているわけです。阿盛の阿酸という海岸にのしあげていたんですが、これが部隊にみつかってしまって、船に食糧を積んできただろうといって詰問されたんです。伯父は「そんなものはない」と否定したんですが、本部につれていかれて、野田隊長からさんざん殴られたんです。それだけではなく、隊長はわざわざ杉山まで降りてきて、伯父の妻まで大きなムチでバンバンたたいたんです。私らは近くでそれを見ていたんですが、すごい見幕で叩いているもんですから近寄ることもできませんでした。それがもとで、伯母は後々まで体が弱ってしまいました。その夜のうちに、伯父は「こんなところにいてはどうせ殺されるんだから今のうちに逃げよう」と言って、伯父夫婦と、ナカさんという家族と、船で逃げていったんです。もちろん米軍の方に投降していったわけです。
野田隊、住民を処刑する - 後藤マツ老夫婦の虐殺
米軍の記録した当時のフィルムに米軍捕虜となったときの後藤夫婦の映像が残されていた。
捕虜の第一号の処刑
私の母方の親戚に後藤マツという六十歳になる爺さんと、その妻の六四、五歳になる婆さんがいました。爺さんの実の姉で、七四、五歳になる婆さんも一緒にしていました。
マツ爺さんは大阪に出稼ぎに行ってそこで次さんの家に婿炎子になっていたんですが十九年に阿嘉に帰ってきました。阿嘉にきてからは、兵舎づくりに専念してずい分軍には協力した人です。
戦争がはじまっても、姉婆さんが足が悪くてとても山には登れない、それで部落内にある壊に名だけ隠れていたわけです。そこへ米軍が上陸してきて、「出てこい、出てこい」と言われたわけですが出ていこうとしないので銃を撃ちこまれたそうです。それで姉婆さんは即死して、二人はひっぱりだされて捕虜になったわけです。これが沖縄での捕虜第一号で、アメリカの雑誌に写真がのっていたそうです。
この二人をほかの島に移しておけばよかったんですが、そうはしないで部落内にほったらかしていたらしい。ときどき宣撫班がやってきて、二人に投降勧告の手伝いをやらしていたらしいのです。防術隊の人が、「どうもあの声はマツさんの声に似ていた」と言っているのを聞きました。私たちも、マツさんが捕虜になったのか死んでしまったのかさっぱりわからなくて心配しているところでした。
事件が起ったのはそれからずっと後になってからで、たぶん六月にはいっていたと思います。山の中の食糧は底をついているもんですから、私らは部落の海岸に食湿をひろいに行きました。親戚の英次、良信、武一と私の四人組でした。海岸には、アメリカの船が特攻機に沈められたりして、さまざまな漂流物がうちあげられていました。海岸に行けばかならず何か食い物があったものです。
私らは、確詰とかバターとかクラッカーなどをいっぱいひろってきて、それを箱に詰めて、昼間はみつかるといけないから、晩にまたとようと、空家にそれを隠しておきました。それから部落の中を通って山にひっかえそうとしたわけです。
すると、部落の途中まできたとき、いきなり声をかけられたんです。斥候にでもみつかったら大変だから、私はびっくりして辺りをみまわしたら、誰もいないんです。すると、今度は「おい、仁勇、仁勇」と名前を呼ぶもんだからよく見ると、すぐ側の、石垣で囲われた山羊小屋から手がのびて、手まねきしているんです。これが行方不明のマツ爺さんだったんです。
私らはサッと山羊小屋にとびこんでいきましたら、中は盛も扱いてあって、お婆さんも元気でいるわけです。爺さんは韓をぼうぼうのばして、なつかしそうに親戚の誰かれの消息をきいていました。小屋のなかには、煙草とか罐詰とかクラッカーなんかアメリカ製品が山積みにしてあるんです。それを持って行けというもんだから、四人はポケットやるところにいっぱい詰めて急いで山に登ってきたんです。
野田山の途中にグスク山というのがあるんですが、そこまで登ってきたときこわるく歩哨にみつかってしまったんです。宮永という一等兵で、家にもよく遊びに来た兵隊なんですが、これが、「きさまら、どこからきたか!」と詰問してきたんです。爺さんに迷ってきたとは言えないから、「部落の中でひろってきた」と答えると、兵隊は四人をさんざん殴りつけて、良信と英次は顔がすごく眠れていました。「きさまらは銃殺だ」と言って防衛隊が詰めている監視所につれていかれたんです。「持っているものは全部捨てろ」と言われて、品物はぜんぶ捨てさせられました。兵隊たちは煙草をみるとブルブルふるえていましたよ。
私らはそれだけで、銃殺にもならずに杉山に帰されたんですが、その翌日ですよ、爺さんと婆さんがひっぱってこられたのは。婆さんは耳が遠いので、小屋の中から大きな声が聞こえてきたらしい。そこへ友軍の斥候が通りかかって発見されたらしいのです。一晩だけは部落の人たちがいる山に帰されたんです。そのときに、これまでの二人の体験をいろいろ叩かされたんです。ところが、次の日、二人はまた本部に呼びだされて、そのまま帰ってきませんでした。その晩のうちに二人の遺体がみつかりました。道のすぐ側に首だけ土に埋められて、体は外にでていたからすぐみつかったわけです。爺さんは軍刀で首を斬られていました。婆さんは銃剣で刺し殺されていました。断った兵隊の名前もわかっています。
朝鮮人軍夫の虐待と虐殺
朝鮮人軍夫
水勤隊の数は阿嘉では200名から100名の間ではないでしょうか。彼らは、ツルハシとショベルと雑のうだけしかもっていませんでした。船から上陸するときは雑のうだけです。軍服と戦闘帽をつけていましたが階級章はありませんでした。この水勤隊には、布沢少尉とか永田少尉とか、二一名の将校、下士官がついていて各班の指揮をとっていました。宿舎は別になっていて、戦闘前には住民との接触はあまりなかったです。
私が今でもひじょうに印象にのこっているのは、彼らが上陸してくると、各家々の庭から赤いトウガラシを摘んで、これをおいしそうに食べていることでした。あんな辛いのがよく食べられるなあ、と感心して見ていました。山にのぼってからは、総攻撃のとき手榴弾が渡されたんですが、彼らは何の訓練も受けていませんから、使い方もわからなくておろおろしていました。それから後は、壕の中に、一か所に閉じこめられて監禁されていたようです。成績優秀な者は部隊の使役などやっていましたが、大部分は壕の中に隔離されていたようです。
私が医務室にいるとき、よく朝鮮人の死体が運ばれてきました。検死をするわけですが、見なくてもわかりましたよ。みんな骨と皮だけになってしまって、明らかに餓死です。壊の中ではろくに食糧もやらなかったようです。
これらの朝鮮人のなかから、米を盗んで食ったとかで、十数名が銃殺になったと聞いています。
6月の投降交渉
降伏終戦を知ったのは、私が漁撈班にいたときですから、六月の末か七月の初めごろだったと思います。アメリカの舟艇から、日本軍は敗れた、降伏するようにと、スピーカーで呼びかけてきたんです。また、軍使をよこせとも言ってきたんです。座間味の梅澤少佐も捕虜になった、梅澤少佐と逢わしてやると言ってきたんです。
会見したのは座間味島に面している小さな砂浜でした。私らは山の上からそれを見ていました。向うから舟艇がやってきて、船から担架がおろされるんです。梅沢隊長は負傷しておったんですね。
こちらからは、国旗を掲げて副官が先淵に立って、その後から隊長がついていきました。山の山版では、浜をとりまいて機関銃隊が戦闘配置についているんです。何ごとも起らなくて、野田隊長と梅沢隊長が会見して、一緒に上陸してきた二世の通訳と米軍将校は、山の上の本部まで案内されてきました。どんな話があったかはわかりませんが、その時は、野田隊長は降伏をことわったそうです。
その後も何度か交渉があったらしい。そして、野田隊は、とうとう8月23日に降伏しています。
野田隊の「炊事班」
食糧支配といびつな食糧格差
野田隊の炊事班にいた女性の証言。餓死する朝鮮人軍夫、住民の食料を全支配し、部下さえ処刑するほど切り詰めた食糧であるが、野田隊の炊事班の女性の証言では「全然困っていなかった」という。いびつな食糧格差が野田隊「炊事班」の証言からも浮き彫りになる。
座間味村字阿嘉宮平ウメ子
当時、私は軍に徴用されて炊事班にいたため、三月二十三日の空奥からは常に軍と一緒に行動させられていました。二、三日は夜を待って部落に帰り、兵隊の食事を準備していたが、四日目頃からは爆撃がはげしく壕に入りびたりで、家族の元へ帰るのは許されなかった。万一逃げようとする者があれば殺されると思いこんで口に出すことすらおびえていたが、その日には、「お前たちが一緒だと足手まといで、自分たちまで危険だからきょうから家族のもとへ行け」と命令されたため、私達は大喜びで、待ってました、とばかりにみんなが集まっている所へ家族の名を呼びながら走って行きました。
その頃からは、上陸した米兵があっちこちに見受けられるため、その日の夕方から杉山の方へ家族と共に逃げていった。
一か月を過ぎた四月二十九日まではこわくて山を出ることができず杉山の方で生活していたが、その日の晩、軍から炊事班は集まるよう命令を受けたため、家族の反対をおしきって山を出ていった。軍にそむけば、それこそ大変な目にあわされるのでしかたなく出ていったのです。「行ってみると隊長を中心にして二、三人が集まって話しをしていたが、私達を見るなり乾パンを持ってきて配りながら、「この戦争は何日続くかわからない。とにかく何が何でも生きのびないといけないので、明日から山のふもとにある民間塚で食事のしたくをしてくれ」と言われた。やはりさからうことができないので、部落の防衛隊二、三人にも手伝ってもらって飯盒に棒を通して炊いた。
一日二日はそのようにしていたが、後からは考え直して乾パンの入っていたブリキの箱に米を洗い、雑炊を炊いて兵隊に食べさせていた。ところがかまどの上は、煙が外に出ないよう木を切ってきて屋根をつけていたが、四、五日使った頃からはそれが乾そうしてしまい、ある晩、ついにバリバリッと燃えてしまいました。その時までは戦争が静まり、米兵は全部部落の方にいるのを知らないのでまだ周囲にいると思い、あわてて火を消しとめた。そのため、かまどもみんなこわれてしまったので最初からやりなおさなければならず、今度は知恵を出して部落からテントを取ってきた。そしてあたりを切り開いてかまどをつくり、その上を草の屋根で覆い、さらにテントを上にかぶせた。テントはぶ厚いので燃える心配がなかったから。
食糧は、最初五十坪程の倉庫にぎっしりつまっていたが空襲で全部焼けてしまい、何一つ使いものにならないため最終手段として農耕班と漁撈班というふうに部落民でグループを組ませ、各々で確保したものを軍に供出したり、兵隊が部落に行って逃げまわっている豚や山羊をつかまえては持ってきたりで、ようやく間に合わせていた。
農耕班は年寄りから子供まで含み、部落民が山に逃げる前に植えつけたものを、夜になってから取りに行く仕事で、漁撈班は海に行って貝や魚を取ってくる仕事であった。
部落民は自分たちの食糧は、さがしてきて兵隊に渡した分から分けてもらうようになっていました。しかしそれではあまりにも少ないので、後にはどろぼうまでする人がでてきたり、どうにもならない人たちは、周囲にはえている草の葉や茎を食べたり、夜になるのを待って海辺に行き、流れてくる果物や乾パンを拾って食べなければいけなかった。
万が一、自分の畑だからと芋一つ取ろうものならものすごい罰が加えられました。これは軍民問わずなされたもので、見つかった場合、死刑にまでされました。
私達の場合は炊事班であったため食糧には不足せず、残りものをもらって家族や親せきに持っていってやった。しかし部落民から不平が出てからは長続きしなかった。でも、時々乾パンの配給があったし、自分たちで炊事をするので食事に困ることは全然なかった。
部落民は畑からではないにしても桑の葉一枚とることも禁じられ兵隊でも階級の低いのは勝手に食べることはできなかった。
そして食糧難もヤマ場にきた時、三分の二近くの部落民がアメリカーのもとに逃亡して行った。その中には何人かの日本兵もまざっていました。
A兵長の処刑と小森中尉
ある兵長の部下が食糧をだまって食べたという理由で、大ケガをしてやっと退院できたこの兵長が死刑された例があります。
いよいよ兵長が死刑になる日が来た時、彼の上司の中尉が、「別の隊長の部下からは死刑しないで自分の部下を死刑にするということは、日本魂を持っているはずの兵隊が自分個人にうらみを持っていることだ」と怒ってアメリカ兵のもとへ逃亡してしまった。
染谷少尉の脱出
それ以前に、米兵が上陸して攻撃を続けていた頃、ある少尉が朝鮮人20人程連れ、白い旗をあげて降さんしたことがあった。私はその頃、彼がスパイではないかと思った。というのは、時々、若い女の人たちとおしゃべりをしていると、彼は「もしこの島に敵が上陸してきたら、兵隊は国のために死んではいけないよ。いや、むしろ兵隊たちでも命は大切にしなければいけないがね。命があってこそ国は守れるんだ。だから私は絶対死なない。敵が上陸したらすぐ逃げるんだ」と口ぐせのように言うので、みんな反感をおぼえていました。
私達は戦争が負けていることは知っていたが、ずっと山の中でがんばっていました。
ある日、昼食後に一人の子供と軍曹が散歩に出かけた時、米兵に見つかってしまいみんなに取り囲まれている所を友軍がみつけ、それを知らせに来たので山の上は大さわぎになってしまいました。
しばらくすると捕虜になったはずの二人が黄色の袋を持って上がってきた。どうしたのかを聞くと「日本はもう負けてしまったから山に頑張る必要はない。出て行こう、彼らはぜひ隊長と対談したいと言っている」と営っていました。黄色い袋にはパンやチョコレートなどいろいろなものがはいっていた。
隊長は直接自分では行かず代理のものを使って対談させたため、その時戦争が負けていることがはっきりわかった。山にいた部落民はその頃になってやっと山をおりる決心をして約半年ぶりにおりてきました。
私達がおりてきた時には、先に逃げた少尉と中尉が立っているため、みんなは腹をたてていました。
彼らは、さかんに日本が負けたと言いはっているので兵隊を怒らせた所、うそだと思うなら、座間味の部隊長がここにやってくるので彼の話を聞くように言っている。
梅澤隊長の交渉
いよいよその部隊長 (註・梅澤) がタンカにのせられ、各将校たちが会いに来た時、彼は涙を流しながら日本が負けたことを語っていました。
先に逃亡していった中尉は、私達を見るなり、「やあ、すいじの娘さん達、元気だったか」と声をかけられた時、殺してやりたいくらいにくらしくてたまらなかった。
山から下りてきてからは、家にいても何かしらこわくて、なかなか寝ることができなかった。山奥には一人寝てもこわくないのに、部落の方はだれかが家にはいってくるようでしばらく神経質になっていました。
今から考えてみると、当時は死ぬというのが当然に思えていて、先に死んだ人が道に横たわっていると「早く死なれてよかったね。私達はもうすぐで死ぬからね」とか、どうしても上をとびこえないといけないときは、「ごめんなさいね。ちょっと失礼」ととびこえたこともあったが、あの時のうらやましい気持ちが、今となっては、あの人達だけが犠牲になったようで申し分けない気持ちです。
「南洋引揚者」
座間味村字阿嘉金城初子
私は十五歳頃から看護婦と産婆の勉強をしていたので、十八歳には南洋の方が人不足で手伝いに行っていました。
いよいよ南洋にも空襲が始まり、沖縄も戦争にまきこまれるということを聞いてからは不安になり、親元へ帰ることにしました。
その時の船は私達のいるヤルートから沖縄に直接出るのがなく、一応パラオにわたってそこから横浜まで行きました。横浜からは直接沖縄行きの船があって私はその切符を買ったが一緒に南洋から帰ってきた大宜味村出身の夫婦がいて奥さんがもうじき赤ちゃんが生まれるということでどうしても鹿児島まわりで一緒についてきてくれという。おまけに勝手に私の切符をキャンセルして汽車の切符を買ってしまったんです。私はもう船はあきていたので、かえってその方がいいと思い、その夫婦と児島回りで帰ることにしました。今から考えてみるとそのおかげで私の命は現在まであることになります。
鹿児島に来てから一週間程船を待っていました。その頃からは沖縄と鹿児島の間の海は潜水艦がウョウョで戦争ムードも一そう濃くなっているため、船もそう簡単に出たりはしない。従って家族には南洋から手紙を出したきり、いつ、どの船で帰るということは本人たちですら知らないので連絡しようがなく、母は毎日朝から晩まで那覇港で待っていたそうです。
母が毎日港を通っている時、別のおばあさんが自分の娘も内地から帰ってくるということで毎日港に来ていたらしい。ところがその娘さんは私が切符をキャンセルした船に乗っていたため、途中敵の潜水艦にやられて沈没してしまい死んでしまったそうです。それも後になってから聞いた話です。
座間味に帰ってきたのが昭和十八年で十九年まではそんなに戦争という気配はなかったです。
私はしばらく家で農薬の手伝いをしていたが、当時座間味村の屋嘉比という島に鉱山があり、大部分の男の人たちがそこで働いていた。そこではケガ人が多い割に看護婦が足りないということで私の知人からぜひ来てくれと知らせが届いた。宿泊場所はあるし、別に一人看護婦がいるというので、私はせっかく身につけた技をむだにするよりは働いた方がいいと思い快く承知しました。
昭和十九年いっぱいはそこで働いたが、二十年二月に弟が生まれたという連絡があったので、三月には弟を見に阿嘉に帰っていったんです。帰ってみると父は南洋に行ってまだ帰ってこないし、妹は公務員で勤めに出、母は産後のために働けず、弟たちがきりきり舞いしていました。それを見てだまっておくわけにはいかない。弟たちも私が屋嘉比に引き返すことを心配して、「食べ物は配給をもらうから、姉さんの分は僕たちのものから分けてあげる」と言って懸命に頼みこむので私はむこうの許可ももらわずに阿嘉に残ることにしました。その後、責任者から再三帰ってくるよう連絡があったが、もう少しもう少しと日を延ばしているうちに空襲になってしまい、そのまま家族と共に山に逃げるはめになってしまいました。
弟はまだ生後二十日くらいなので私がおぶり、急いで炊いたなま煮えのごはんをふろしきに包み山にもっていきました。ところがなま煮えなのですぐくさってしまい四日ほど全員何も口にするものがなかったです。
それから家族だけであっちこち歩き回ったが、隊長命令で杉山に集まるよう言われたのでそこに避難することにしました。そこでは家族ごとに小屋をつくり避難していました。
食べ物はソテツを切ってきて食べたり、海岸から漂流してきたものをひろってきたりしました。ところが海岸からひろってきたものはほとんどがバターやラード、イースト菌などで腹ごしらえになるのはほとんどなかった。後になってよもぎやつはぶきを取ってきて食べたが軍にみつかると首がなくなるのでいつも戦々恐々でした。母などは産後の疲れが重なってマラリアになり、栄養失調も手伝って目もとがはげて熱を出してしまいました。私はマラリアとは知らずただブルブルふるえているのをみて湿しっぷしたためさらに悪化していきました。その時から空がはげしく危険な状態になったため、母は、「この小さい子をすてて逃げる力はないから私は子供と二人ここで死ぬよ」という。私達は元気のない母を見て不安になりどうしていいものか迷っていました。
その頃、ちょうど父が防衛隊にいたため、軍医をお願いし母の病気をなおしてもらいました。
しかし、最初母だけがマラリアだったのがあとで弟たちにまでうつってしまい、その時からは病気をほったらかしたまま逃げまわったため終戦後まで思らっていました。
日本軍の処刑におびえる
途中、食糧難が深刻になってからは軍も民もアメリカ兵のもとに逃げてしまいわずかだけが残されました。米やつはぶきなどは全部軍に没収され、私達は精米後のぬかをこっそりとってきてはわずかの配給の水に一晩つけてから海で拾ってきたラードでいためて食べたりしました。
その頃、食糧をとったという理由で一人の兵長や朝鮮軍夫が銃殺されたため、私達は恐ろしくて軍に反抗できませんでした。したがってこれまでアメリカ兵が敵であったものが、遂に日本兵が敵のように思え、一緒にいて毎日びくびくの状態でした。
終戦の知らせは飛行機でビラをまく方法がとられていたわけですが、ビラがおちてくるのを部落民が拾いに行こうとすると日本兵が「あれは話がぬられた紙だから絶対にとってはいけないぞ、あれをさわると死んでしまうから。」とおどかしていたが、私達はそんなことにかまわず拾ってみた。すると、戦争は終わり、日本は負けてしまったから降伏するように、というような内容の文章が書いてありました。しかし日本兵は「アメリカ兵はうそつきだから絶対信用するな」というので、私達はその後何日か山にいたが、ある日、全員おりてくるようにと大声で呼びかけがありまた。それでも山に頑張っているとさかんに砲弾がとんでくるためびっくりして下りて行くことにしました。
日本兵が去る
私が下りてきた時に、終戦の何やら式典が行なわれている所でした。ちょっとのぞいてみると、米兵と日本兵が並んで立っているが国旗はアメリカのものがあがり、国歌もアメリカのものを歌っている。しばらくすると日本兵は腰にさしている銃や日本刀をぬいて全部一か所に集めアメリカ兵のもとに持っていくのを見てなさけない気持ですごく腹が立ちました。その翌日、日本兵はアメリカ兵の船に乗せられ、どこへやら出ていってしまいました。
「戦場で出産」
座間味村字阿嘉中島フミ
当時、私は一度に子供三人を亡くしている上、お腹には八か月の赤ちゃんがいたため元気がなく、あまり遠くに逃げて行けなかったです。それに南洋にいた頃、空襲を何度も味わっていて二十年三月二十三日の空襲があっても、そんなにこわくはなかった。その日には近くの塚まで行き、夕方になると家に帰っていった。ところが二、三日すると、音がおかしいことに気がついたのでウナン崎という所に逃げて行った。しかしやっとウナン崎についてホッとしていると、何と下の方には敵の軍艦がギッシリつまっているのです。それが確かに敵の軍艦だとわかったので今度は山の方に上がっていったがそこにはだれも居ず、不安になったため、みんなをさがしながらさらに山の中へはいっていくと大ぜいの部落民があつまっている。ところが私達が着くなり、ここが危険だということでみんな杉山に逃げていった。私はこれ以上歩きまわるのは無理な気がして妹と一緒にそのまま休んでいることにしました。
しかし、あたりは焼け野原になっているため長くいることはできず通信隊の壕を頼っていった。そこは人口が二つあってむしろのカーテンでおおわれ中には食糧品がはいっていた。そこに来てしばらくしてから他の子供たちがあまりにも大声で泣き出すので危険を感じ八歳の長男をつれて山の上に登っていった。すると突然機関銃の弾が私達の目の前をとんで来たのでそれ以上進むことはできずまた引き返してきた。その時からは夕方になり弾はとんでこないので30人くらいまとまって部落民が集まっている場所に移動していった。ところが着いてみるとだれ一人残っている人はなく焼け残りの金だけがころがっていた。そこで腹ごしらえをしようと持っていた米でごはんを炊いて食べました。
朝早く起きてみるとアメリカ兵が周囲を歩きまわっているというので、みんな静かに身づくろいし移ろの準備をした。私は今さら生きる必要もないと思っていたのでそんなに乗気ではなかったが、あまりにもみんながすすめるので後をついて行くことにしました。
その頃からは大雨で道を歩くのもやっとのため、近くの軍の壕にはいっていった。そこには軍曹が一人いるので許可をもらい一晩とめてもらった。私達は部落民は全部死んでしまったと思いこみ、生きるのぞみもないためその軍曹に殺してくれとお願いした。するとその人は「お前たちは心の底から死にたいとは思ってないから殺さない」というわけです。しかし私達が熱心にお願いするとそれでは、という事で五人に一コの割合で手りゅう弾をわたしていった。
自決を覚悟の若い女性を追いかける軍曹
私達は死ぬ前に、各自で持っているソテツのでんぷんを足でふんづけて死んだ後米兵に食べられないようにした。そして計画は夕方決行することにした。しかし手りゅう弾でやるにしても全員が完全に死ねるかどうかわからないので、軍曹に地雷をとりつけてもらい爆発後生き残ったものは部落の二人の男の人が日本刀で殺すということで二人は残ることにした。ところが決行を待っている最中、その軍曹が部落の一人の若い女の人に目をつけ、つかまえようとおいかけている時、彼女のお父さんがみんなを迎えにやってきたのです。その人が来たおかげで部落民が生きているということを知り、死ぬのをやめて部落民の避難先に向かった。みんなそろって目的の場所に行くとそこでは全員米兵が上陸してきたといってさわいでいる。私達は危険だと思いすぐ別の場所へ移っていった。着いてすぐ子供が生まれどこにも動けなくなったため、しばらくはそこで身をおちつけることにした。その後、ほとんどの人たちが食糧不足で困っていたが、私は妹が男まさりのおかげであっちこち一人でかけずり回り、日本兵に発見されないよう食糧を適当に持ってきてくれた。それで母乳が不足することもなく、親せきの赤ちゃんにまで与える余裕があった。ところが部落民全員が私達と同様であったとは言えず最悪の事態には半ば命令でアメリカ兵のもとへの逃亡がよびかけられた。私達も親せきや友人からさそわれたが、子供たちをこの島でなくしている上、あくまでも日本人だから、という希望もあり、死ぬとしたらこの島以外の場所は考えられなかった。わずかの人たちと一緒に八月中旬頃まで生活をともにしていました。
八月のある日、飛行機からビラがまかれ、終戦と同時に日本が負けたことが知らされたため、私達は山をおりていかなければいけなかった。その時のくやしい気持ちは何とも表現できない。私の家に宿泊していた将校の一人は涙を流しながら、「おばさん、十年後には再び戦争をして必ず勝ってみせるからね」と私達をはげましてくれ、当時の私達はそれに期待もかけていました。
しかし、もう二度と戦争のときの食糧難のにがい経験は味わいたいとは思いません。
「防衛隊の戦闘参加」
座間味村字阿嘉与那嶺康永
私は当時、防衛隊長で敵の上陸以前から日本兵と共に軍の仕事を手伝っていた。防衛隊の仕事は主に夜を待って敵の情報さぐりをする事であった。いよいよ敵が上陸してきた。最初は部落に上がってきただけであったけど、翌日から山の上に百人程が上がってきた。それを知ると部隊から全部に戦闘命令が出された。私たちも戦いに参加しなければならず、日本兵を囲み込むようにして配備された。
防衛隊は山のふもとに三人ずつで組織して見張り、敵が上陸してくると撃ち殺すか、もしくは日本兵に連絡するかの役目であった。
当時、防衛隊の食事は一日おにぎりニコの配給だけで敵が上陸した二十六日に一晩かかって自分の入るたこつぼをほったため、翌日敵が山に上がって来た時からは、疲れと腹が減ってるのが一緒になってしまい軍から見張りを厳重にしろと命令されても眠けには勝てず、一番前で見張りをしながら居眠りをしてしまった。
しばらくすると左にいる人が殺されたため、その銃声で私は目がさめてしまった。彼は私が、敵がここまで来ているから擬装をしなさいと注意したが、どうせ、どんなにカムフラージュしたってだめだからと配給にもらった煙草を左右に二本くわえて吸い、たこつぼに入ったまま身のまわりを隠そうとはしなかった。
案の定、敵はやって来て彼を殺してしまったのです。敵は私と彼の間に入ってきたが、私は周囲を草でかくしていたため発見されることはなかった。それで敵が道の方に歩いていった時、いつ何時発見されるのかびくびくなので、安全装置をはずしていつでも撃てる準備をしていた。すぐにでも撃ってはずれてしまうとそれこそ危険なので、相手に発見されるのを待っていた。彼らはしばらくして上の方に歩いていき、日本兵の所までいくと一人を撃ち殺し、更に発砲しながら私達の方へ後ずさりをしてきた。その時、弾がなくなってしまい弾を入れかえ今度はまっすぐ私の方に歩いてくる。私はびっくりしてしまい緊張したままチャンスをねらっていた。米兵は二人で、一人は火焔放射器を持っている。しばらくすると私の見ている方から三〇メートル程離れた所で丁度二人が重なった恰好になったため、思いっきり引き金を引いてみた。すると後の方が先に死んでしまい前の方は弾が貫通しただけで、おきだして大声で泣きだしてしまった。
それを聞いてか米兵の一人がいそいで駈けつけてきたが仲間が大怪我しているのをみてビックリしてしまい逃げてしまった。その後、私はとどめをさす意味で苦しんでいる米兵に二発目を発砲するとその時に死んだ。死んだ米兵をのぞいてみると最初に死んだ人は二世なのか日本人そっくりのため一時は友軍を殺したのではないかとドキッとしたが、よく見ると星の入った軍服をきているのをみて安心した。
その頃からは、頂上の方から激戦がはじまったとでも思ったのか私たちのいる方にボンボン手榴弾が投げこまれてきた。私は逃げていった米兵が仲間をよびにいったと思ったのと、友軍からの手榴弾が危ないのとで大急ぎで隊長のいる頂上の方に逃げだしていった。
途中、伍長に会い、話しをしていると突然手榴弾が落ちてきたため、急いで隠れながら伍長に上が安全だからいこうとさそうと、どうせ向こうにいっても殺されるんだからということでとうとう私一人で隊長の方へいった。私が入ってくるなり隊長は軍からはどういう命令であったか、ときくので私は、はい、死守せよ、という命令でしたが友軍の手榴弾が激しいので同じ犬死をするんだからと引き揚げてきました。というと、バカヤローという返事がかえってきた。彼はそれで敵状はどうだったかというので私は先程の米軍の状態を聞かせてやると二人を殺したという私の営葉をきいて、そうか、やったのかと、りっぱなひげにつばをつけながら目を細めた。私は部隊長の前にすわらされ、しばらくは日本兵と共にいたが、やがて木の間から百人程の頭がとび出し徐々にこちらにやってくるのを見つけた。その時、遠くの方で敵だ、敵だという声が聞こえたため隊長はすぐ突撃命令をだし、自分が先頭に立って「つっこめー、ワーッ」という大声でつっこんでいった。敵は百人程、味方は三〇人程度であったが、その大声に敵はどぎもをぬかれ逃げていってしまった。その声をきいて下の方に歩哨兵として立っていた兵隊はもう最後だということで、私達の方にやってきた。来る途中で二人の米兵が死んでいるのをみつけ、火焔放射器と自動小銃をうばってきていた。
隊長は彼に、米兵が機密書類をもってないかどうかをきくと、知らないという事なので、隊長と私と今きた兵隊の三人ですぐ進体の方へいったがわずかの時間にもう運ばれてしまって何もなかった。敵はきっと近くにかくれていたのだろう。でも敵はそれ以上、山の上に登ってくることはなく、私たちは一日ごしに歩哨兵として警戒に立っていた。その後は食糧運びをする朝鮮人で組織した水勤隊の監視をしたり、降伏していこうとする日本兵を見張っていた。そのような人には注意をして、それでも云うことを聞かなければ撃ち殺してもよかった。しかし後には食糧難のため降伏を許したが、その時には菊のど紋の入った銃はかならずおいていくように注意しそして万が一歩哨兵にとらえられたら、うち殺すかも知れないよと言っていた。知れないよというのは隊長の任務を考慮した上で言ったのだろう。私たちも自分の隊長が逃げたのでにげる方が勝ちだと思い降伏していった。民間人は直接、慶留間部落の方につれて行かれたが、兵隊や防衛隊は一たん、座間味に述れていかれ、それから慶留間の方で調べを受け、最後はハワイに逃れていかれた。
隊長 (註・野田) には、座間味の少佐 (註・梅澤) も降伏しているから阿嘉も降伏していくのがいいじゃないかというと、捕虜になった者は少佐ではないといって受けつけず、とうとう八月下旬までがんばったらしい。
座間味「自決を思いとどまって」
座間味村字阿嘉仲地和子
私達は南洋で大東亜戦争にあったため、追いかけられるように座間味に帰ってきました。というのは、戦争が始まる直前に次男が生まれたので、ここにいると子供たちがあぶないと思い、夫を残して長男と次男をつれ、安全と思った阿点に帰ってきたわけです。
それから三年後夫が帰ってきたが、すぐ兵隊にとられてしまい、私は子供たちをひきつれてにげまわっていました。ちょうど三月二十三日の空襲が始まった頃、四月生まれる予定の子供がお腹にいたため、歩くのもやっとでありました。そして逃げる時には自分の洋服は持たずおしめを十枚程持って、非常用にわずかのこげごはんを乾燥させたものを持っていました。これは炊事班にいた姪からもらったもので、私はいつも姉の家族にくっついて歩いていました。
3月26日の米兵上陸の頃からは、部落の人たちは山奥に逃げ出したため、私はとうていおいつくことができず、ほったらかされてしまいました。そして二、三か所の家族が私達と一緒になり、まる三日、弾の中をくぐりぬけながら走りまわっていました。
逃げまわって三日目の夜明け方、こうして逃げまわってもどうせ死ぬもんだから、思いきって自分たちだけで死のう、と話がまとまり、兄が手りゅう弾を一個を持っていたのでそれを使うことにしました。その時一人の男の子が、自分は死にたくない、と大声で泣き出したため、少し思い留まり、それではどうせこの弾一コでは全員死ぬことはできないから各自思い思いに死ぬことにしようと話しは決まりました。すると親せきのおばあさんが、自分たちは近くに絶べきがあるのでそこからとびおりるから一緒に行こうと言ったが、私はあまりにものどがかわいていたため、少し水を飲まなければまだまだ死ねないと思い、下の方に水を飲みに下りていきました。そこにちょうど朝鮮人軍夫がいるので、部落民はどうしているか聞いてみると、全員生きているという。私達はそれから希望をもちだし、死ぬのがバカバカしくなってきたので、その後、部落民のいる杉山の方に移動して行きました。私達が行くと、みんなびっくりして「あそこから来るよ。生きていたんだね。」と話しをしていました。私達はしばらくそこに落ちつくことにしました。
ここでは食種が簡単に確保できないので、夜、軍の監視をぬって畑に行き芋と野菜を取ってきて命をつないでいました。しかし私の場合、子供はそろそろ生まれそうになっているため腹がすごく大きくて、人と同じように食糧をさがしに行くことができませんでした。そこでどうにかして流産できないものかと思い、木の上に登っていってはとびおりたりしたがそう個単に流産できるものではない。しかたがないので子供たちには食べ物をがまんしてもらっていました。
野田隊の後藤さん夫婦「処刑」
食糧さがしには行けなくても、お産用のふとんはどうにかして家からとってこなくてはいけないと思い、こっそり出かけて取ってくると兵隊に見られてしまいさんざんにしかられてしまいました。その時、兵隊たちと一緒に私のおじ夫婦が縄でしばられて立っているのでどうしたのかと聞いてみると、これから二人は死刑になるという。私は当時何が何だかさっぱりわからなかったが後で聞いてみると、叔母は足が悪くて山の上まで登れず部落の近くの壕に叔父と共にかくれていると米兵に見つかってしまい、二、三か月米兵の世話になっていたそうです。それを日本兵に見つかってしまい、スパィだ、といってっかまえられ死刑にされたといいます。特におばは本土出身で、フィリピンにいたという事もあってその疑いがかけられたと思います。
野田隊の暴力におびえる日々
私がふとんを頭にのせて立っているのを見て叔母は、「あなたがお産したら上げようと思ってたくさんのコンビーフや牛肉をとっておいていたのに全部本部にとられてしまった」と大きな声でいっていました。そして私が帰っていく時にはさかんに名前をよびつづけていたが、軍がみはりを続けているためどうしようもなかったです。
四月に生れる予定の子供が、やっと五月になってから生まれてくれた。どうせ生まれても捨てるつもりであったため、そのままほったらかしていた。すると一緒にいたおばさんが暗がりをマッチをつけて子供の顔をのぞきこむので、私はみたら気がかわると思い、見ないようにと言ったが、そのおばさんは、「とってもかわいい子だのに捨てるのはかわいそうよ」と言うし、親せきのおじさんは、おばあさんの生まれかわりかも知れないから育てなさい、と言うのでしかたなしに育てることにしました。
子供が生まれて十五日めには待ってましたとばかりにさっそくお芋を盗みに行きました。私の他に二人一緒だったので大きな袋のいっぱいとって頭にかついできました。ところが途中、軍の監視にみつかってしまい、さんざんしかられる結果になってしまいました。私は、子供が生まれたばかりで今まで何も食べてないから、と無理にお願いしてやっと許してもらいました。ところがもう一人の人は、前にも確かに盗んで行ったということで、さんざんになぐられてしまった。実はこの人は初めてだが、以前にこの人にそっくりのおばさんが何度かつかまっていたので同じ人だと思ってやったのです。部落の人たちはみんなそのような目にあい、なぐる、けるの暴行をうけた人が多かった。しかし、軍はみんな同じように暴行を加えたかというとそうではないです。部落民にはいつも軍は平等だ、と言っているくせに、実は知っている人たちはいつも見逃していました。食糧だけではない、川の水も勝手に飲んだり、せんたくしてはいけないという事で、いつも監視の目がきびしくて私たちなどとうてい入れてもらえなかったです。ところが軍の知り合いの人たちは自由に水を使用していました。彼らは私たちには、お産のうぶ湯にする水さえくれなかったくらいであるのに。その頃から私たちは軍に不信を抱き、アメリカ兵よりもこわくなっていました。
「阿嘉島の戦闘経過」
座間味村字阿嘉垣花武一(十八歳)
この体験記は、垣花武栄さん(当時区長代理、四六歳)の書かれた体験記に基づいて、垣花武一さん(当時、義勇隊、十八歳)、宮平彬子さん(当時、炊事班、二二)、その他二、三人の方に阿嘉島の戦闘概略として話してもらった。
(字座間味宮城晴美記)
「勝手にとると死刑に処す」
昭和十九年、九月十一日(十二曰?)、阿嘉島には古賀隊長の率いる球一六七七八部隊六〇四人からなる兵隊さんたちが来て、主に基地の設営隊として毎日、突貫隊と舟艇のための塚掘りを続けていました。
阿嘉島へのアメリカ軍の初の空襲は、昭和十九年、十月十日で、被害は軍一人、島民二人の負傷に終わりました。
さらに空襲後、十一月にはいってから、野田少佐の率いる海上挺進隊(船舶突貫隊)、球一六七七八の100余名が来島し、彼らはトラックのエンジンをつけ両側に二コの爆雷を備えつけた全長五メートルのベニヤを、敵艦への体当り艇として百隻ほど持ってきていました。そして、一、二、三中隊編隊からなり、一、二中隊は阿嘉島、三中隊は慶留間島に駐屯することになりました。ところが、せっかく島を守りに来て下さったのに、食糧不足から赤痢が発生してしまい、一時は部落内が不潔そのものの状態にまで陥った事もあります。
翌二十年の二月十八日、本島から兵隊が少ないという報がはいったため、古賀部隊は全員那覇に引き上げて行き、その代わりに水上勤務隊として朝鮮人四〇〇人が駐屯することになりました。また同日、島内の十五歳から十八歳までの男子が義勇隊として召集され、水くみや斬り込みの訓練が行なわれるようになり、事態は急速に変わっていく様子でした。
さらに三月八日には、屋嘉比島(現在無人島)、阿嘉島、慶留間島にいる二一歳から四六歳までの男の人たちが防術隊として、八八人召集されて軍に編入され、毎日のようにきびしい訓練が行なわれていました。
三月二十三日からは空襲がはじまり、二十四日には敵艦が島の周囲にいるということで、「敵艦見ゆ」の連絡を受け、それからは部落民全員が山に逃げることになりました。
二十六日の午前八時頃、艦砲射撃と共にアメリカ軍が上陸してきたため、私達はそれを知りながらも何の抵抗もできないままに、敵を迎えるより他に手はありませんでした。我が軍は戦闘を開始しましたが武器は少ないし、大した戦果はあがりません。
通信隊の柴田少尉は、この調子では部落民も兵もだめだということで、どうせ死ぬものならと、「阿嘉島守備隊、最後の一兵に至るまで勇戦静岡、悠久の大義に生く」の電報を打つと、受信機だけを残して発信機をたたきこわしました。私達は、アメリカ兵の上陸と共に、さらに山奥の方へ逃げていきました。しかし、山奥まで逃げのびられるのは足が丈夫な人たちだけで、誰かにおぶってもらえない年寄りは、近くの壊でびくびくしているより他はありませんでした。
山奥に逃げた軍と部落民は、共に生活しようということでごはんや水を平等に配給し、「先に至るまで食概はすべて天皇陛下のものだから、勝手にとると死刑に処す」と強い命令を下していました。
処刑された老夫婦
アメリカ軍は、上陸すると同時に施設や壊をくまなく捜索して歩きました。そして見つかったのが私のおじである後藤松夫(当時六一歳)、妻のタキェ(当時六一歳)、おばの金城クマッ(当時七三歳)の三人です。アメリカ兵がさかんに「出てこい」と言うので、叔父夫婦は先に出て行きましたが、叔母は耳が遠いため、言っているのがわからなかったのか出るのが遅く、嫁内で射殺されてしまいました。しっかまった叔父夫婦は捕虜となり、部落の焼け残った家に保護され、米軍から食想や衣料を提供してもらって生活していました。私はたまに二人に会いに行ったりしましたが、叔父夫婦は、「アメリカさんはいつも、『山にいるかわいそうな人たちをあなた方でおろしてきなさい』と言っている」ということを私に話していました。
しばらく二人はのんびりとした生活を送っていましたが、四月の半ば、突然、歩哨兵に見つかってしまい、捕虜となっている事がすぐ隊長の耳にはいってしまいました。隊長は、叔父の妻がフィリピン帰りであるからという口実の下に、スパイ容疑として、部下に死刑するよう命令しました。部下は命令をうけると、さっそく二人を山の方に連れて行き、日本刀で刺し殺してしまいました。私は現場を直接見たわけではないですが、それを目撃した人の話によると、叔父夫婦は日本刀では完全に死ななかったため、兵隊が石を使って頭をメッタ打ちにして殺したそうです。
末期的な食糧不足と日本軍の拷問
その頃から食糧事情はますます深刻化し、周囲に生えている野草まで食べるようになりましたが、それにも限度があるため、日本軍は部落民の動きに警戒するようになってきました。つまり、畑から部落民に食糧を取られるのが気になったのでしょう。ところが部落民は「背に腹は代えられない」と軍の非常線を突破し、自分の植えつけた野菜や芋を、暗がりの中をさがしに行く人も出てきました。しかしそれが見っかってしまうと全部軍に没収され、おまけにたいへんな拷問が加えられました。同じ部落民が拷問を受けるくやしさは何にも例えられません。
その後の食糧は、軍の焼け残りの米、乾パン、罐詰類など、防衛隊が徹夜で運んできたものでした。しかしそれも長持ちしません。日がたつにつれて軍、民共に食糧難でいよいよ食福戦争が始まり、兵隊同士の争いなど本格的になってきました。
銃殺された兵士、朝鮮人軍夫12人の処刑
飯盒を盗んだという理由で銃殺された兵隊、逃亡しようとして失敗した朝鮮人十二人の銃殺、など、ほんとにこの世の人間のなせるわざとは思えない事が簡単にやってのけられました。特に朝鮮人の場合、まず銃殺場所に連れていく前に、炊事班が炊いた白いごんをおわんに山盛りにして入れ、離入りのパインをニコずつ食べさせていましたが、これまでの飢えをしのぐためか、あるいは自分の最期の食べ納めのためか夢中でかけこんでいました。部落民の話しによると、彼らは殺される前に体長ほどの穴を掘らされ、その前に立たされて撃たれると穴にころがる方法になっていたようです。兵隊が上から砂をかぶせた後、まだ十分には死んでないせいか砂がムズムズ動いている人は、日本刀で何度か刺して殺していたということです。
その他に部落民の場合は、前にも述べたように銃殺までには至りませんでしたが、二、三人の人が半死状態になるまでの拷問をうけました。
食糧をさがしに行って見つかれば以上のような苦しい目にあわされ、そうかといってさがしに行かなければ30人程の人を餓死させてしまう始末です。その頃から、部落民はアメリカ軍よりも、次第に、味方であるはずの日本兵に恐れを抱くようになり、逃亡する人が目立ってでてきました。逃亡する手段として、日本兵に見つからないようにこっそり浜辺に出て手をふれば、島の周囲をとりまいている米艦からゴムボートが出され、迎えに来てくれました。ふだん日本兵から、捕虜になった時のアメリカ兵の態度がどういったものか何度も聞かされていましたが、その時点ではもう、お腹を満たしてさえくれるのなら、という気持ちが強く、うわさなどは問題にしませんでした。もしうわさが事実だとしてどうせどこにいても死ぬものだからという気持ちがあったため、いさぎよく海に飛びこんで死ぬつもりでいました。しかし、アメリカさんたちは、おかしやチョコレートをお腹いっぱい食べさせてから逃亡民を慶留間の方に連れていって下ろし、自分たちはまた船に戻っていきました。
逃亡した部落民は、日本兵に見つからなかったおかげで成功したかといえばそうではありません。日本兵は住民が逃げていくのを黙認していたのです。つまり、それだけ食糧事情が悪化していたわけです。逃亡者の中には部落民だけでなく、日本兵も加わっていました。
その後、公然と逃亡許可がおり、6月22日、野田隊長は、「降伏したいものは山をおりてよし」という命令を出したため、三分の二近くの人が小さい子供たちを連れて米軍の方に行きました。
八月になって、米軍が島の周囲から、スピーカーとビラで終戦を知らせてきました。しかし、だれも出て行こうとはしませんでした。
何日か同じことが繰り返されていたある日一人の日本兵が浜辺の方でアメリカ兵に見つかってしまいました。彼は殺されると思って逃げようとした際、何と慶留間の方に逃亡していた日本兵の一人の中尉が、アメリ兵のそばに立って、一生懸命彼の名を呼んでいるらしいのです。中尉は、通訳するかっこうで、隊長に会いたいと言ってきました。彼は何か米兵と親しそうに話をしているため、近くまで来て見ていた私達は、彼がにくらしくてたまりません。走っていって彼をつかまえ、たたきのめしたくさえなりました。しかし、大ぜいの米兵が一緒なので、そう簡単にはいきません。
いつの間にか彼らの申し入れが隊長の方に届いたらしく、隊長は「米兵が信用できないという理由で副隊長をかわりによこしてきました。副隊長は、米兵から終戦になったことを聞いてもなかなか信じようとはしません。もちろん、私達も信じていません。私達は友人二、三人集まって、「たとえみんなが山をおりても、私達はずっと山をはなれないことにしよう」と決心すらしました。ところが米兵は、しようがないということで、ひざをやられて那覇で治療を受けていた座間味島駐屯の梅澤部隊長と会見するよう約束させ、翌朝、8月23日、私達はタンカに準せて連れて来られた梅沢部隊長から終戦の事実を知らされ、悔しさをこらえながら、部落民全員、ちょうど半年ぶりに山をおりてきました。
「食糧問題」
証言者は当時18歳で防衛隊員だった照喜名定盛。野田戦隊長の宿舎は照喜名家が提供しており、最も野田隊に近く野田隊は少年には憧れの的だったことだろう。戦後、合同慰霊祭で日本からやってきた将校達に再会し、「当時の将校の話」が加わり、歴史修正主義の動きが始まる時期であるのが証言からもわかる。しかし、軍側の口実を擁護しながらも、それでも野田隊がやってきた所業を詳しく述べていることで、逆に野田隊の非道さを浮き彫りとする証言となっている。
座間味村字阿嘉 照喜名定盛
これまでに阿嘉部落の人たちが話してきた戦争体験というのは、もっぱら主観的な立場で訴えてきたため、前後の理屈があわないものがあった。ところが去年、合同慰霊祭に参加した当時の将校達の話では、それらの事が誤解であったという事で、最近やっと明るくなってきた。従ってこれまでの証言のしかたと今後のしかたではある程度異なってきているのではないかと思う。
特に食糧問題にふれてみると、なぜ食糧についてきびしく取り上げてきたかというと、ふくろのねずみで包囲されているため、現にここにある食糧を確保しないとゲルマや座間味のように食糧の面で自決につながっていくということ (ブログ註 - 生きのびた将校たちが語っている、村民を自決から守るために厳しい食糧調節をした、食糧不足が原因で慶留間や座間味で集団自決が起こったという理由付けは、時系列的に完全に誤りである。)、さらに何か年続くかわからないので、軍に抵抗したってむだであることなどもあって、あくまでも生きのびるためには個人行動はつっしまなければならなかった。従ってそれをきびしくしたのが阿嘉島の実情であった。
いよいよこのままの状態ではどうしても食物が確保できないという事態が迫ってくると漁撈班、農耕運というグループをつくり、夜になるのを待って食糧集めに出かけた。ところがそれでも限界があったため、しまいには部隊解散ということになってしまった。人々が減ればそれだけ助かるというわけである。それで多くの部落民が手を上げて米軍のもとへ行ってしまったが、その時点において、米兵は、自分たちのもとに逃げてくるのには危害を加えることはしない、ということを知っていたので、半ば強制の形で部落民を逃がしていた。
つまり食糧争いや、銃殺などのみじめな事をするより、むしろ降伏した方がいいのではないかと考えていたのである。残った人々は二か月程山で頑張っていたが米軍との条件のやりとりで降伏していくはめになってしまった。
今から、食糧問題について当時をふり返って検討してみると、畑から食物をとっていく人を監視したり、畑へ連なっている道々に立ってはそこを歩く人を調べ、万一お芋一つ持っていようものなら、さんざん、なぐるけるの暴行を加えた上、それを奪いとる、というような事は軍命令としてなされた恰好になっていたが、実情を聞いてみると、一般の兵隊が口実として軍命令だと偽わり、民間人をいじめていたこと (ブログ註・隊長命令ではなく一般の兵士がやったという説にきりかえ) が明かるみに出てきた。
しかし、米や木の葉一枚取ってもいけないというのは、隊長の命令であり、それにそむくものは、銃殺されることさえあった。
私も当時防衛隊として徴用されていたが、食糧というのは今では昧ですら口にしない木の葉の雑炊を食べさせられていた。それで体の骨がでっぱり、すわる時には、骨盤が直接皮にぶつかって痛いので、概に休んだりした。また道を歩く時には自力では無理なので、杖を二本使って歩き、休むときは必ず木のそばに行って休んだ。なぜなら、一人ではすわることも立つこともできないので木を頼らなければならなかったからである。
私達は一応食べるものには熱を返したから良かったものの、朝鮮人軍夫は、つはぶきの姿を生のまま食べていたが、その草は何しろあくが強いため、食べては吐きだし、食べては吐き出しのくり返しで、まともに食べる様子はなかった。
食糧は山ばかりではなしに、流から流れてくるものをさがしに出かけて拾い集めたりした。米軍が流したものばかりで牛肉やビスケットの罐詰などが流れてきたが、中にはコールタールでまっ黒に包まれた肉などもあった。しかし、そういったものを拾っているということがばれたら、半殺しになぐりつけた。
とにかくこうまで食糧難に見舞われたのは阿嘉島以外にはないのではないかと思う。
慶留間島
「慶留間の集団自決」
座間味村字慶留間 中村米子
昭和十九年頃から小さな空襲が何度となく続いていたため、私達はすでに空襲には慣れていた。
二十年の三月二十三日にやや大きめの空襲が始まっても、いつもの脅かし程度のものだろうとそんなに深刻に考えず、例のごとく近くの壕に年寄りを避難させるだけであった。それが二十四日にも同様で、その日の午後から艦砲射撃が始まったため、みんなはいつもと様子が違うことに騒然としだした。私達も午後三時頃になって父を先頭にウンジャ河原という所にあるへ逃げていった。
当時慶留間には一中隊といわれる部隊が配備されていたため、部落民は万一の場合は一中隊に集まり、そこから第二、第三中隊のい阿嘉島へ渡って行こうということだった。しかしいざとなった時には敵艦が島のまわりを取りかこんでいるので島から出るどころではなかった。
私達はウンジャ河原のを出てみんなと行動を共にするのに遅れないよう、年寄りを下の撃に残して行くことにした。その時父が、「もうこの機会にみんなとは生き別れになるはずだが、いつか戦争がおわって会えるんだったらまたいつか会おう」と泣きながら言ったため、みんなも胸がつまって何も言えなかった。そして私の祖母も涙ながらに「あなた方も元気に行きなさいね。私達は年寄りだしもう何もできないから」と言い、私達は別れを告げて上の方に登っていった。しかし途中まで行くとアダンの木が前方にふさがっている上に、ものすごい艦砲射撃とその破片がとび交うため前に進むととができなくなってしまった。アダンのすぐ向こうは部落民の自決場でみんないるに違いなく、自分たちだけが取り残されはしないか気が気でない。そこで父は「今出ていったらそれこそ大変だから絶対出ていってはいけないよ」と言いながら舌の根もかわかぬうちに自分からとびだしてしまった。一人がとびだすと蜂の巣をつついたようにみんな一斉にとび出していった。そしてみんなは親せきの壕に逃げて行き、私達も近くにおじのがあったのではいっていくと、「今は戦争なんだよ。お前たちまではいってくるとここにいるみんながやられてしまうんではないか。そうなったらどうするんだ」と、とにかく「出て行け」と言わんばかりにぐちをこぼし出した。母や妹たちはぐちを言われながらも出ていける状態でなくただすわったままでいる。
しかし私はそう言われては中にはいる気もせず、入口に立っていると、私のおばがぐちを言う人たちに「こんな状態になって今さらどうして命が欲しいの。親せきは命を共にしようと集まってきているんじゃないの。」と言ったので私はその言葉に少しすなおな気持ちになり入口にすわっていたが、やはりいい気持ちはしない。あたりの状況を見てすぐさま年寄りのいる部落の近くの壕にひき返していった。
ところが、年寄りは、若い人は命を大切にしなければいけない、というのでしかたなくまたもどっていった。一晩はみんなと一緒に泊まり、翌日持てるだけの荷物をもって部落民が集まっているウンジャ河原へと歩きだした。しかし、途中で引き返してくる人たちに出会ったので、どうしたのか聞いてみると、ウンジャ河原は全部焼かれてしまってそこには安心してかくれることはできないと言うのである。それでも私達は自分の目で見ないと安心はできないのでそのまま歩いていった。
ところが着いてみるとやはりさっき言われたように焼け野原でかくれる場所もない。しかたなく近くにある自分の域にはいることにした。しかしに行ってみるとその頃からは四方八方から避難してきた部落民でいっぱいになり、はいる余地がまったくない。それでも私は自分たちのだから、と無理につめこんですわることにした。その時からは両親や妹たちとは別れていた。
二十五日の明け方、父が帽子におにぎりを入れて私をむかえにやってきた。おにぎりをもってきてくれたと言ってもこれだけの人数ではわずかしか口にはいらない。
父は私をむかえに来たはずなのに帰る時には何も言わず一人で帰ってしまった。その時父に声をかけられていたら、私はこの世の人ではなかったのである。
恐怖の根源 - 日本兵がシナでおこなったこと
二十六日、近くにいる年寄りの事が気になり、壕の上の方にかくれてちょっとのぞいてみると、大ぜいの米兵が船を下りて上陸してくるのである。その時、日本兵がシナで行なった残ぎゃく行為が米兵によってそのままなされるという話が頭をかすめたため、これは大変な事になったと思い壕の中にいる人たちに急いで知らせてすぐ逃げるよう大声で叫んだ。すると一人の主婦が、「私達は子供をつれてはどこまでも逃げることはできない」と言うとみんなも不安そうに「こんなにたくさんでは一度につかまってしまう。」と言うので私はある案を思いついた。つまり二手に分かれて逃げようという事である。みんなはそれに賛成してくれ、私の言うままに二手にわかれて逃げ出した。
しかし、歩ける人だけがそうしたのであって年寄りは逃げようにも歩けない。一人のおばあさんは孫を私の方に連れてきて、自分は逃げることはできないから孫を一緒につれていってくれるよう頼んできた。七十歳あまりの私の祖父母はどうしても一緒に逃げる、という事で私達についてきた。逃げられない人たちはおいていくより他は考えられなかった。
みんなは私達が二十四日に逃げまわった道を歩いていった。途巾たんぼの中に人が死んでいるのを見て親せきのおじいさんとも知らず、「かわいそうに、どこの兵隊だろう」と口にしながらその人の上をとびこえていった。しばらく行きずりの壕の中に身をひそめていると、何かしら聞いたことのない言葉が聞こえるので、アメリカーがきたのではないか、とみんな心配していた。それでも長居は危なのでできるだけ山奥の方へと歩いていった。
どれだけ歩いただろうか、やや安全と思われる場所に来た頃、二人のおばさんがすわっていて一人は水のはいった一升びんを持っている。私は顔を見るなりみんなはどうしたのか聞いてみると、みんな死んでしまって残ったのは自分たち二人だけであるという。水をもったおばさんは一人の娘を首を組でくくって殺したため頭がおかしくなり、「もう少しで娘が帰ってくるからはやくこの水を飲ませてやりたい。」と大切に腕にかかえてはなそうとしない。私達と一緒にいた子供が水が欲しいからちょうだい、というけど、もうすぐ娘が帰ってくるの一点ばりでだれにも分け与えようとはしなかった。
私達はみんなが死んでしまったというのを聞き、これだけ十人くらい残ったってしようがないから一緒に死んでしまおうという事になった。すると二、三人子供を連れたおばさんが、「私はこの子たちに手をかけることはできない。首をしめて死ぬよりは焼け野原にすわっていて米兵に殺されるのを待っていよう」というのである。私はびっくりして、米兵につかまったりでもしたら大変だ、というと、それでは生きられるだけは生きてみようという事になった。そのためには一中隊の方に行った方がいいという。ところが先程からいるおばさんの話では、みんな兵隊がいないのを知って一中隊からもどってきて死んだというのである。私達はそれを聞くと急に気がぬけての中にすわりこんでしまった。死ななければいけないとあせっていながらもどうしても死ねない。しかたなくそのまま壕にかくれている事にした。
三日目に晩の大雨になり壕の中まで水びたしになってしまった。それでも出て行けず、じっとしているより他はなかった。
しばらくすると、足音が聞こえてきたのでみんなは米兵が来たと思い声を殺していた。ところが子供の泣き声らしいものが聞こえるので、もしかすると私の叔母かも知れないと思い呼んでみた。すると返事があるので急いで壕の中に入れてやった。おばは中にはいるなり、自分の弟だということを知らず「向こうに日本兵が死んでいた」と話している。しかし子供の方は自分の叔父が死んでいたのだといいはっている。
その頃からは全員何日も食事してないのがこたえて動く元気もない。子供たちはおぶされているが首すらもたげることもできず、いつもうしろの方に頭をたれていた。叔母の話では、一中隊の方にいたがお腹がすいているせいか子供がなきだしたため、兵隊たちが、この子のためにみんなが見つかると迷惑だから、と壕を追いだしたので、しかたなく私達のいる方へブラブラしてやってきたという事だった。
その後、二、三日月ごろには一人集まり二人集まりしてたくさんの人たちが私達のいる方へやってきた。中には子供を殺してしまったとぐったりとなってはいってくる人もいた。
何日かたつとスピーカーで戦争が終わったことを告げている。その声が部落の人の声なのでほとんどの人が日本が勝ったといって喜んだものだった。しかし出ていってみると、勝ったのがアメリカだと知った時はくやしくてたまらなかった。
「自決から捕虜へ」
座間味村字慶留間大城昌子
座間味村の離島の部落で最も小さい慶留間は、戦争当時、一〇〇人程の人口で、部落民全員が家族のようにお互い助け合いながら平和な生活を送っていました。
座間味部落や阿嘉部落にはたくさんの兵隊が駐屯しているということはほとんどの人が耳にしていましたが、慶留間部落の場合は、部落の裏海岸に阿嘉島とんの突貫隊の一部がわずかばかりいるということだけで、実際に兵隊さんたちと会うこともありませんでした。おまけに供出も必要なかったため、食糧には全く不自由することはありません。
そのような状況だったせいか、戦争だといっても実感がわかなかったわけです。しいていえば、掘りだけが戦争の色を見せているにすぎませんでした。とかく何の不安も抱くことなく実に平和そのものでした。
十九年の十月十日の空襲の時は山が焼けただけで部落には何の被害もなかったため、ほとんどの人が、戦争とは、ただ山が攻撃されるだけの事だと考えていました。
ところが、二十年の三月二十三日、朝早くから飛行機の爆音が続けざまに聞こえてくるため、部落民は異常を知り、山に逃げることにしました。その日から壕内の生活が始まったわけです。
空襲では山のほとんどが焼かれ、部落は二、三世帯と豚舎などがこわされた程度で、これといった被害がなかったため、部落民は二十六日の大惨事が起こるまで、戦争の恐ろしさを知るよしもなかったのでした。
三日間の空襲が続き二十六日の早朝になって部落民の一人が米軍の上陸を知らせてきました。それからというもの全員騒然となり、できるだけ山奥へ、家族をつれて逃げられるだけ逃げようと赤ん坊をおぶり、幼児の手をひき、山をはいずりながら、みんな懸命に走り出しました。ところが、部落といえばちっぽけな孤島であり、海には米艦が十重二十重になって島を囲んでいるためどうしようもありません。米軍にたちむかうにしても部落に武器といえば竹やりしかなく、友軍の応援を頼むにしてもわずかばかりが裏海岸に駐屯しているだけで、あの大多数の米軍にたちむかっていったって勝てるはずがありません。部落民が最終手段として考えついた事は玉砕でした。
前々から、阿嘉島駐屯の野田隊長から、いざとなった時には玉砕するよう命令があったと聞いていましたが、その頃の部落民にそのような事は関係ありません。ただ、家族が顔を見合わせて早く死ななければ、とあせりの色を見せるだけで、考えることといえば、天皇陛下の事と死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです。
米軍の上陸後二時間程経った午後十時頃、追いつめられ一か所に集まった部落民は、家族単位で玉砕が決行されました。数時間前までだれ一人として想像もできなかった事が、わずかの時間でやってのけられたのです。
当時、五十七歳で農業を営んでいた中村慶次さんは、妻子を連れて逃げられるだけ逃げようと思ったようですが、もう行く所もないということでにひきかえし、持っていた細で最初に五十四歳の奥さんの首をしめ、次に二十八歳の娘さんの首を強くしめました。そしてそれぞれの死を確認したあと、自分の首を無我夢中でしめている所を米兵に見つかり、未すいに終わって捕虜となりました。その時のくやしさは何といっていいかわからないと言っています。
私は父(兼城三良)と一緒にお互いの首をしめあっている時に米軍に見つかり、中村さんと同様、捕虜となってしまいました。これまではどんなつらい事があっても、自分のすべてが天皇陛下のものであるという心の支えが、自決未すいのため、さらには捕虜になったため一度にくずれてしまい、天皇陛下への申し分けなさでどうすればいいのか全くわからず、最後の「忠誠」である「死」までうばってしまった米軍がにくらしくて、力があるのなら、そして武器があるのならその場で殺してやりたい気持ちでいっぱいでした。米軍にひきいられながら、道々、木にぶらさがって死んでいる人を見ると非常にうらやましく、英雄以上の神々しさを覚えました。それに対して、敵につれていかれる我が身を考えると情なくて、りっぱに死んでいった人々の姿を見る度に自責にかられるため、しまいには、死人にしっとすら感じるようになり、見るのもいやになっていました。
当時十九歳であった中村信子さんは、南洋のパラオ島から妹と二人帰ってきた直後空襲にあい、慶留間島にとじこめられる状態になりました。玉砕の際、他の人たちは家族で首をしめて殺しあっているのに、妹と二人だけなので、首をしめるにも女の力では失敗するではないかという気持があったため、ちょうど米軍機から爆弾が落とされ、近くの山が燃えていたので、その火の中にとびこんでいきました。ところがどういうわけかやけどを負っただけで「死」にまでは至りませんでした。一度失敗してしまうとその後二度と死ぬ気にはなれず、そのまま捕虜になってしまいました。
以上のような手段で部落民全員が「死」に挑んだわけですが、半数以上ともいわれる部落民が目的を達成し未すいの人たちにいわゆる神々しさを見せつけたわけです。
木麻黄には多くの人々が顔を黒くしてぶら下がり、中には生後十八日目の赤ん坊が母親の下がった隣の枝にぶらさがっている様子や、また、木の下では、首に縄が巻きつけられたままの赤ん坊がすでに死んでしまった母親のお乳をさかんに吸っている様子などは、何とも表現のしようのない痛ましい光景でした。
敵であるはずの米軍は自決者を助けようと奔走していました。親だけが死んでしまってとり残された子供が泣きつかれて眠っているのを見ると、服を見つけてきて静かにかぶせてやったり、死にまねをしている人たちや息絶えだえになっている人たちにも手をかけ、親切に介抱していました。また捕虜となった部落民にもとても親切で、どこへ行くにもついてきてくれました。
慶留間島に上陸した米軍は約五日間山に陣どって、渡嘉敷島や座間味島、それに阿嘉島に向けさかんに大砲をうち続けていました。慶留間の部落民がすべて捕虜となり山からおりてきた後、米軍は伊江島の人々約四〇〇人を連れてきていたため、一か年近く各家庭に分宿し、部落民と生活を共にすることになりました。その頃からは作物は十分あるし、米軍からの配給物資もあったため、多数の伊江島の人たちがやってきても何不自由することもありませんでした。さらに海から貝をひろってくると米軍はそれを買ってくれたり、菓子などと交換もしてくれました。
やっと二十三日の空襲以前のように再び自由になることができ、伊江島、阿嘉島の人々を交じえた部落民の家族同様の生活が始まりましたが、数日前まで行動を共にした家族や友達と二度と語り合うことができないという事を考えると、そして天皇陛下に対して忠誠を全うできなかったという事を考えると、こうして生きていることが苦痛に感じられるのも、一人、二人ではありませんでした。
「集団自決」
座間味村字慶留間
兼城三良(父)
大城昌子(娘)
昭和二十年三月二十三日から空襲が始まったため、いつもの空襲とかわらないだろうと思い、近くの壕に逃げたが、二十四日頃からあまりにもはげしく、ただ事ではないと思い、島の裏側に逃げていきました。ところが、海の方を見ると、数えられないくらいまっ黒な航空母艦が、ずらっとならんでいる。さらには弾も頭の上を飛んでくるため危険を感じ、ウンジャ河原の方に逃げていきました。その時から家族は離ればなれになってしまい、父と子供三人はそのままウンジャ河原に行ったが、娘は別の道を行ってしまいました。ウンジャ河原には部落民が大勢集まっていました。二、三日は艦砲射撃もはげしく不安ではあったが、部落民と一緒だ、という強みがありました。
ところが、二十六日の早朝、見はりをしていた中学生がアメリカーが上陸してきた事を知らせてきました。その時、私達は前もって上陸の場合は、全員竹やりを持って戦え、という事を教えられていたため、そうするつもりでいました。しかし上陸してきた米兵を見た時、立ちむかうというより、すぐ死ぬ事を考えました。一緒にいた部落民は、父親が妻や子の首をしめたり、夢中になって木にぶら下がるもの、ねこいらずをうばいあって、なめて苦しむ者、表現できないほど残虐な事がやってのけられていました。
私達も死ぬ方法を考えた結果、首をくくるに限ると思い網をさがしている所へ米兵がやってきてつかまってしまいました。
山をおりて行きながら道々に死人が横たわっていたり、顔をまっ黒にして舌を出し木にぶら下がっている人を見ると、私達より先に死んだという、しっとの気持でうらめしくすら思いました。しかし今から考えると申し分けない気持ちでいっぱいである。
山をおりてからは部落民全員一か所に集められ、米軍が食糧をはこんでいたが、一か月余もすると、伊江島の人たちも一緒に部落に帰され、従来通りの生活にもどりました。
あの頃、伊江島の人たちがいなければ、私達は毎日、びくびくしていたに違いないと思う。集団自決で過半数の部落民が死んでしまって残されたわずかの人々だけで何ができただろうか。
《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》
OCR による文字を試みています。誤字脱字があるので原典は必ず上のリンクから確認してください。
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