御真影奉護隊とオーシッタイの御真影奉護壕

 

御真影奉護隊」とは !?

 

日本は戦前、国民全員が天皇のために命を捨てるという軍国国家をつくりあげた。御真影は、そのための重要な『装置』だった。(川満彰)

 

f:id:neverforget1945:20200603014538p:plain


名護市源河地区の「大湿帯」と呼ばれる地域に、ひとつの壕があります。沖縄戦で、この壕には、「御真影」と呼ばれた歴代天皇の写真が集められ、「御真影奉護壕」と呼ばれました。

 

戦前、天皇は現人神とされ、歴代天皇の写真や御真影天皇と同一視され、全国の学校で、もっとも神聖なものとして扱われました。

 

のべ1000機のアメリカ軍機が沖縄本島を攻撃した十・十空襲をきっかけに、戦火から御真影を守る先生たちの部隊、「御真影奉護隊」が結成されました。アメリカ軍の攻撃が激しさを増すと、学校ごとに保管していた御真影は、この壕のなかに集められました。


アメリカ軍の上陸が始まり、御真影奉護壕の周辺にもアメリカ兵の姿が現れるようになりました。奉護隊は、神聖な御真影アメリカの手に渡すまいと、昭和天皇以外の御真影を壕のなかで燃やしました。さらに御真影の台紙や入れ物の柄の箱を近くの神社の境内に埋めました。


最後まで守り続けた昭和天皇御真影も、日本軍の組織的戦闘が終わった直後、壕の近くにある河原で燃やされました。そして6月30日、御真影奉護隊は解散しました。

御真影奉護壕(名護市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

オーシッタイの御真影奉護壕

オーシッタイ (大湿帯) のただなかに御真影奉護壕を。そのため三中の学徒や国民学校の子供たちを動員して道の拡張や物資 (あるいは勅語など) の運搬をさせている。

 

この三叉路に (朽ちた) 標識あり。ただ、車でオーシッタイに迷い込むだけでも迫力に圧倒されるのに、車を降りて藪の中を踏み分け壕を探すのはかなり大変。ハブ要注意。

 

校長らが後生大事に紙切れを守っているあいだに、 学徒たちは戦場で命を奪われていた。

 


 

 

名護市源河地区の「大湿帯」と呼ばれる地域に、ひとつの壕があります。沖縄戦で、この壕には、「御真影」と呼ばれた歴代天皇の写真が集められ、「御真影奉護壕」と呼ばれました。


戦前、天皇は現人神とされ、歴代天皇の写真や御真影天皇と同一視され、全国の学校で、もっとも神聖なものとして扱われました。

 

のべ1000機のアメリカ軍機が沖縄本島を攻撃した十・十空襲をきっかけに、戦火から御真影を守る先生たちの部隊、御真影奉護隊」が結成されました。アメリカ軍の攻撃が激しさを増すと、学校ごとに保管していた御真影は、この壕のなかに集められました。アメリカ軍の上陸が始まり、御真影奉護壕の周辺にもアメリカ兵の姿が現れるようになりました。

 

奉護隊は、神聖な御真影アメリカの手に渡すまいと、奉護隊は、神聖な御真影アメリカの手に渡すまいと、昭和天皇以外の御真影を壕のなかで燃やしました。さらに御真影の台紙や入れ物の柄の箱を近くの神社の境内に埋めました。最後まで守り続けた昭和天皇御真影も、日本軍の組織的戦闘が終わった直後、壕の近くにある河原で燃やされました。そして6月30日、御真影奉護隊は解散しました。

沖縄県名護市 御真影奉護壕【放送日 2008.10.15】|戦跡と証言|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

 

「子の命より天皇陛下の分身」沖縄戦下、80日間守った [私たちの沖縄考]

朝日新聞デジタル

2019/6/23 5:30

f:id:neverforget1945:20200612002241p:plain

山あいにある「御真影奉護壕(ごう)」。壕は落盤の危険があり、市の天然記念物のオキナワコキクガシラコウモリが生息していることから、入り口には鉄柵が設けられている=2019年6月17日、

f:id:neverforget1945:20200612002428p:plain

沖縄県名護市源河、角詠之撮影 御真影奉護隊の補助員だった屋比久浩さん。戦後は米国の大学に留学した。「戦前の教育が解けていくような感覚だった」=2019年6月7日角詠之撮影

 

太平洋戦争末期の沖縄戦で、天皇を筆頭にした皇族の写真「御真影(ごしんえい)」を戦火から守るための部隊があった。「御真影奉護隊」。山中には今も御真影を隠した壕(ごう)が残り、子どもたちの命より「天皇の分身」を優先した時代を伝えている。

 

23日、沖縄は令和最初の「慰霊の日」を迎える。 沖縄はいま  沖縄本島北部の名護市中心部から車で40分ほどの山あい。道路から草をかきわけて5分ほど進んだ山の斜面に、高さ1メートル強の壕の入り口が現れた。周囲は亜熱帯の植物が生い茂り、昼間でも薄暗い。落盤の危険があるため、鉄柵でふさがれている。  

 

「その壕に、沖縄本島各地の学校から集められた御真影を『奉護』しました。壕の前に小屋を建て、交代で先生たちと寝ずに番をしていました」。沖縄県北中城村(きたなかぐすくそん)の屋比久(やびく)浩さん(88)は証言する。  

 

御真影は戦前、文部省から教育勅語とともに全国ほとんどの学校に配された。「奉安殿」と呼ばれる建物に収められ、児童たちは前を通るだけでも深々と敬礼しなければならなかった。「御真影を直視したことがない。最敬礼中にちらっと見ただけで、同級生がものすごく怒られていたので」と屋比久さんは振り返る。

 

「決して地面に下ろすな」

同省が1943年に通達した「学校防空指針」では、空襲の際に教師がとるべき行動は、第一に「御真影勅語謄本、詔書謄本ノ奉護」、第二が「学生生徒及児童ノ保護」とされた。44年10月に大規模な空襲を受け、沖縄県は本島の学校の御真影を集めて守る方針を決定。校長や教師ら9人による「奉護隊」をつくり、補助員として県立第三中学校(現・名護高校)の生徒だった屋比久さんら10人余りも加えられた。  

 

御真影は45年1月ごろから集められた。屋比久さんたちは百数十校分を壕に運んだ。長方形の台紙に貼られ、桐の箱に収められた御真影を白い布で覆って背負う。教育勅語なども入れられ、重さは1箱20キロほどになるが、「決して地面に下ろすな」と命じられた。御真影には屋比久さんたち補助員は触れられなかった。「御真影天皇陛下の『分身』。すごく特殊な重い任務だなと思いました」  

 

米軍は4月1日に沖縄本島中部に上陸。ほどなく北部へ迫ってきた。奉護隊は壕を放棄し、教育勅語は近くの神社に埋め、昭和天皇らの御真影だけを背囊(はいのう)に入れて山中へ逃げた。食糧は尽き、ハイビスカスの新芽などで食いつなぐ日々。だが毎朝、御真影に最敬礼することは欠かさなかった。

 

「時代を俯瞰できる目を」  

山中での生活は約80日間に及んだ。日本軍守備隊の司令部が本島南部で壊滅したとの情報が伝わると、奉護隊は6月末に、御真影を敵には渡すまいと、山を下りる前に「奉焼」した。教師たちは泣きながら君が代を歌っていたという。7月に投降し、屋比久さんはその後、米国の大学への留学を経て、県内の大学教授などを務めた。  

 

奉護壕は現在、山中に埋もれ、希少種のコウモリの生息地となっている。時代は昭和から平成へと移り変わり、5月に「令和」に。「平和な時代になったね」と屋比久さんは言う。「命より写真の方が大事と、僕らは本気で信じ込んでいた。そういう時代があったことを絶対に忘れてはいけない」  

 

名護市教委文化課市史編さん係の川満彰さん(59)は、御真影奉護隊についての証言を集めるなど長年研究を続けてきた。「日本は戦前、国民全員が天皇のために命を捨てるという軍国国家をつくりあげた。御真影は、そのための重要な『装置』だった」  

 

川満さんは御真影奉護隊の歴史を伝える活動にも取り組む。戦争への道は徐々につくられるとの思いから、今月9日には高校生約70人を前に語った。「時代を俯瞰(ふかん)できる目を持ってほしいのです」(角詠之)  

    

◇  〈御真影〉 天皇や皇后、皇族の肖像写真。全国の学校に配され、教育勅語発布翌年の1891年、文部省は紀元節(2月11日)や天長節天皇誕生日)などの祭日に御真影を掲げて最敬礼し、教育勅語を「奉読」する儀式を学校で行うよう定めた。ほとんどが敗戦時に処分されたが、山形県立博物館に残る大正天皇御真影は、縦28・1センチ、横19・5センチの大きさ。いずれも台紙に貼られるなどしていたという。

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■