うみんちゅの沖縄戦 - 兵隊は漁師を探しにきた

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第3章 沖縄戦デジタルアーカイブ - 沖縄戦デジタルアーカイブ「戦世からぬ伝言」 | 沖縄タイムス+プラス

サバニで参謀を与論へ

 

天妃小学校を卒業するまでは母と那覇にいた。卒業後に糸満で漁師修行をした。2年で叔母さんの元に移って、追い込み漁などをしていた。それから、兵隊に西原村へ連れて行かれて、漁をして捕った魚を兵隊に与えていた。米軍が上陸する直前だったと思う。命令で読谷村都屋に移った。「漁師はできることがないから故郷に帰れ」と言われて、歩いて糸満を目指した。道中で知人に会った時、母が嘉数の壕にいると聞いて、再会することができた。

 

壕で何日か過ごすと、当時18歳だった私は、防衛隊として友軍 (日本軍) のいる照屋グスクの壕に連れて行かれた。防衛隊といっても、武器は一つも無かった。炊事係を命じられたが、食糧や弾薬の運搬、道路補正などもした。米を運ぶ時に一俵を持つ体力がなくて、列の後ろに隠れて、泣きながら半分捨てた。

 

■ 漁師を“召集”

 

ある時、別の部隊から「漁師を探している」と兵隊が来た。私はすぐに逃げて、アダンの葉に隠れた。「自分も漁師だ」という人が来て、一緒に身を潜めてやり過ごした。

 

部隊は東風平村(現・八重瀬町)世名城に移動したが、そこにも兵隊が漁師を探しに来た。私は「何かある」と怖くて黙っていたけど、兵隊が「素性がわかる名簿を持ってくるぞ」と言ったものだから、観念して自分からウミンチュだと名乗り出た。

 

糸満の名城に連れて行かれると、そこには数人の漁師がいた。私より年下の者は帰らされて、6人が残った。私たちは第32軍の神直道航空参謀に紹介されて「喜屋武岬沖の軍艦を、爆弾を積んで沈めてくれんか」と言われた。嫌だったけど、逆らえなくて「できます」と言った。

 

■ 秘密文書運ぶ

 

サバニ、かいなど必要な道具をそろえて名城の浜に戻ると、神参謀に「実は軍の秘密文書を届けるために、与論まで連れて行ってほしい」と言われた。今思えば、心試しされていたんだろう。

 

5月の終わりごろだったと思う。2、3日、南風が来るのを待ったが風は変わらなかった。神参謀が「中部にいる米軍がそのうち南に下りてくる。早く船を出してくれ」というので、その夜に船を出した。知念岬と久高島の間を通っている時に、照明弾が上がって、米軍艦が近寄ってきた。慌てて浅瀬の方に逃げると、軍艦は引き返していった。サバニだったから怪しまれなかったのだろう。

 

津堅、宜野座村松田、名護市安部、国頭村安田で、それぞれで1泊して与論を目指した。神参謀は文書をずっと自分で持って、何かあったときにすぐに海に捨てられるようにひもで石にくくりつけていた。

 

与論は小さく、山もないから、星を見てサバニをこいだ。夜が明けないうちに着いた。与論からは日本軍の舟艇で沖永良部を経由して、徳之島に行った。神参謀は徳之島から潜水艦で本土に向かった。

 

私たちは徳之島の部隊に編成されて、そのまま終戦を迎えた。漁師として5年くらいはいただろうか。このまま住もうと考えていたころ、人づてに母が生きていることを知った。母を1人にはできないと思って、またサバニで糸満まで帰った。

 

今は民主主義というけれど、戦争が起こるとそうはいかない。前線に立った人は、本当に惨めな死に方をしている。戦争などしなくても、話し合えばきっといい方向に向かう。

(2014年11月9日沖縄タイムス連載「語れども、語れども」から)

 

 

 

1945年 5月10日 『沖縄島からの脱出』

(じん)航空参謀の沖縄脱出 ①

大本営が航空機の増援をしぶっていたのに業を煮やした守備軍首脳は、5月10日、積極攻勢派の神航空参謀を連絡のために東京に派遣した。もはや現地軍だけでは深刻化しつつあった戦況を挽回することはどうにもならないので大本営傘下航空軍の総力をあげて沖縄周辺の敵艦船にたいし、一大航空作戦を展開させ、それによって米軍の沖縄攻略の企図を断念せしめるほかないと意見具申させるためであった。』(129頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 129頁より》

 『1945年4月のある日、糸満の海岸近くの壕にかくれていた、…3人の、60歳近い老漁夫たちが、いきなり壕から捜し出されて、ある任務を与えられた。神参謀脱出につき、協力せよ、とのことだった。』(82頁)
《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 82頁より》

 

1945年 5月26日 『大移動の意味』

神(じん)航空参謀の沖縄脱出 ②

沖縄への「一大航空攻撃」を大本営に具申するため東京へ派遣されることになった神直道航空参謀だが、5月10日以降、若い漁夫の漕ぎ手を探していた。

『わが空軍の画期的な沖縄援助を求めんとして、首里軍司令部を去った神参謀は、十数日を経た今日、まだ摩文仁付近に滞留したままであった。本土帰還のため、まず水上機に頼ろうとした彼は、ここで毎日のように、飛行機の来着をまっていたのである。特攻機でさえ、夜間を利用しても沖縄上空に到達するのが至難の状況である。況や水上機では、なおさらのことである。敵情、気象、相互の打ち合わせ等の関係で、容易に望む飛行機はやってこない。ようやくきたかと思うと、海上波が高くて着水ができぬ。犠牲になった飛行機もあるという噂が飛ぶ。

神参謀の本土連絡に当初協力したという三宅参謀が、とうとう私に、取りやめさせるべきだと意見を具申した。軍の運命は旦夕に迫った。今さら空軍の積極的援助を依頼するなど笑止である。しかも神自身敵の重囲を突破する術も望みも失っているというのである。成り行きに委すほかはないと思い、私は彼の意見を聞くのみで、なんら処置するところはなかった。』(343-344頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 343-344頁より》

その頃、東風平村の富盛のある防衛隊員の壕では、海に経験のあるもの6人出ろ、と、隊長から命令された、雨を浴び乍ら夜通し、勝手のわからぬ泥濘の山道や、畑の中を、案内されて、摩文仁の小渡浜に着いた。神参謀たちがかくれている場所である。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 83頁より》

ある時、別の部隊から「漁師を探している」と兵隊が来た。私はすぐに逃げて、アダンの葉に隠れた。「自分も漁師だ」という人が来て、一緒に身を潜めてやり過ごした。

部隊は東風平村(現・八重瀬町)世名城に移動したが、そこにも兵隊が漁師を探しに来た。私は「何かある」と怖くて黙っていたけど、兵隊が「素性がわかる名簿を持ってくるぞ」と言ったものだから、観念して自分からウミンチュだと名乗り出た。

糸満の名城に連れて行かれると、そこには数人の漁師がいた。私より年下の者は帰らされて、6人が残った。私たちは第32軍の神直道航空参謀に紹介されて「喜屋武岬沖の軍艦を、爆弾を積んで沈めてくれんか」と言われた。嫌だったけど、逆らえなくて「できます」と言った。

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1945年 5月30日 『死の行進』

(じん)航空参謀の沖縄脱出 ➂

『神参謀は一度は失敗したあげく、5月30日、航空班の藤田忠雄曹長を伴い、防衛召集された糸満の漁師、…6名の漕ぐ刳舟に乗り糸満の名城海岸から再度の決死の脱出を決行した。』(129頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 129頁より》

糸満の若い漁夫上りの防衛隊員達が櫂を取る一葉の刳舟は摩文仁をまわって、島の東海岸一路北上沖縄本島最北端の辺戸岬のあたりへ出て、与論、永良部、徳之島へと、黒潮の波濤を乗り切り、夜の海上を、或いは順風に帆をはり、或いは精根のつづくかぎり力漕したその冒険と努力は、想像に絶するものがあった。かくして神参謀は戦線を離脱し日本本土へ脱走した。』(83頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 83頁より》

 

1945年 6月9日 『米軍、粟国島に上陸』

(じん)航空参謀の沖縄脱出 ④

『神少佐は、沖縄脱出にかれこれ努力をしていたが、なかなかその方策がたたず、荏苒日を過ごしていた。今から本土に帰還しても意味をなさぬというので、三宅参謀の起案した中止命令が軍司令官の決裁を得たのは、軍司令部が摩文仁に後退する直前であった。この中止命令といき違いに神は刳舟に帆をかけて名城を出発していた。そして幸運にも、日々北方への脱出に成功し続けた。与論島から徳之島へ、そしてここから飛行機で東京に飛んだ。神が徳之島に到着した旨の電報を入手したのは6月9日のこと記憶する。この電報を入手した瞬間、参謀部洞窟にいる将兵は、皆しーんとなった。参謀長は電報を手にしたまま大声で、「神を呼び戻せ!」と叫んだ。誰も応答するものはなかった。参謀長の残留将兵に対するジェスチュアに過ぎなかったのである。』(381-382頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 381-382頁より》

 

1945年 6月15日 『戦利品への執着』

(じん)航空参謀の沖縄脱出 ➄

6月15日見事に大本営にいたり沖縄の戦況を報告するが、そこで初めて大本営が沖縄作戦を「本土決戦」にきりかえたのを知り愕然とした。

2日後、神参謀は、長参謀長から「追腹を切る覚悟を以って航空出撃を強調すべし」という親展電報を受け取った。そして約2時間ものあいだ大本営航空軍の出撃を懇願したが、彼がえたのは「この期に及んで出撃強請とは何事か」という冷たい答えだけであった。』(129頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 129頁より》

 

結局、本土に戻ったことにより、

神航空参謀は摩文仁で最期を迎えることはなかった。

 

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