うみんちゅの沖縄戦
凄すぎる糸満海人。
沖縄タイムス、一人の糸満の男性の戦争証言をさらっと記録しているが、じつはこれ、ものすごい話で、これだけで一冊の本が書けるくらいの内容である。「沖縄タイムス」「琉球新報」ともに、継続的に県民の戦争経験を地道に記録し続ける、こうした記事が読めるのも二紙のすごさである。ぜひ県外からも購読をお勧めしたい。
上原寛助さんは、当時19歳、沖縄守備隊第32軍の航空参謀 神直道が沖縄を脱出する際に召集された6人の糸満の海人のひとりであった。
並里仙徳(当時41)、大城亀太郎(当時19)、上原寛助(当時19)、上原牛助(不明)、大城善一郎(当時29)、仲本蒲戸(当時31)の六人の糸満うみんちゅ*1。彼らは海上封鎖されていた5月末、摩文仁から神直道をクリ船に乗せ脱出を成功させた。
沖縄タイムス「サバニで参謀を与論へ」
第3章 沖縄戦デジタルアーカイブ - 沖縄戦デジタルアーカイブ「戦世からぬ伝言」 | 沖縄タイムス上原寛助さん、サバニで参謀を与論へ
2024年4月28日
天妃小学校を卒業するまでは母と那覇にいた。卒業後に糸満で漁師修行をした。2年で叔母さんの元に移って、追い込み漁などをしていた。それから、兵隊に西原村へ連れて行かれて、漁をして捕った魚を兵隊に与えていた。米軍が上陸する直前だったと思う。命令で読谷村都屋に移った。「漁師はできることがないから故郷に帰れ」と言われて、歩いて糸満を目指した。道中で知人に会った時、母が嘉数の壕にいると聞いて、再会することができた。
壕で何日か過ごすと、当時18歳だった私は、防衛隊として友軍 (日本軍) のいる照屋グスクの壕に連れて行かれた。防衛隊といっても、武器は一つも無かった。炊事係を命じられたが、食糧や弾薬の運搬、道路補正などもした。米を運ぶ時に一俵を持つ体力がなくて、列の後ろに隠れて、泣きながら半分捨てた。
■ 漁師を“召集”
ある時、別の部隊から「漁師を探している」と兵隊が来た。私はすぐに逃げて、アダンの葉に隠れた。「自分も漁師だ」という人が来て、一緒に身を潜めてやり過ごした。
部隊は東風平村(現・八重瀬町)世名城に移動したが、そこにも兵隊が漁師を探しに来た。私は「何かある」と怖くて黙っていたけど、兵隊が「素性がわかる名簿を持ってくるぞ」と言ったものだから、観念して自分からウミンチュだと名乗り出た。
糸満の名城に連れて行かれると、そこには数人の漁師がいた。私より年下の者は帰らされて、6人が残った。私たちは第32軍の神直道航空参謀に紹介されて「喜屋武岬沖の軍艦を、爆弾を積んで沈めてくれんか」と言われた。嫌だったけど、逆らえなくて「できます」と言った。
■ 秘密文書運ぶ
サバニ、かいなど必要な道具をそろえて名城の浜に戻ると、神参謀に「実は軍の秘密文書を届けるために、与論まで連れて行ってほしい」と言われた。今思えば、心試しされていたんだろう。
5月の終わりごろだったと思う。2、3日、南風が来るのを待ったが風は変わらなかった。神参謀が「中部にいる米軍がそのうち南に下りてくる。早く船を出してくれ」というので、その夜に船を出した。知念岬と久高島の間を通っている時に、照明弾が上がって、米軍艦が近寄ってきた。慌てて浅瀬の方に逃げると、軍艦は引き返していった。サバニだったから怪しまれなかったのだろう。
津堅、宜野座村松田、名護市安部、国頭村安田で、それぞれで1泊して与論を目指した。神参謀は文書をずっと自分で持って、何かあったときにすぐに海に捨てられるようにひもで石にくくりつけていた。
与論は小さく、山もないから、星を見てサバニをこいだ。夜が明けないうちに着いた。与論からは日本軍の舟艇で沖永良部を経由して、徳之島に行った。神参謀は徳之島から潜水艦で本土に向かった。
私たちは徳之島の部隊に編成されて、そのまま終戦を迎えた。漁師として5年くらいはいただろうか。このまま住もうと考えていたころ、人づてに母が生きていることを知った。母を1人にはできないと思って、またサバニで糸満まで帰った。
今は民主主義というけれど、戦争が起こるとそうはいかない。前線に立った人は、本当に惨めな死に方をしている。戦争などしなくても、話し合えばきっといい方向に向かう。
(2014年11月9日沖縄タイムス連載「語れども、語れども」から)
その報告書には「沖縄人はスパイで信用できない、役に立たない」など、散々の沖縄人への差別中傷を連ねながらも、自分の生存には用心深い神直道は、摩文仁までわざに呼び寄せた軍の水上飛行機は、二度もやり過ごし、結局、糸満漁夫のクリ船を自らの脱出手段として選んだ。そして、その選択は間違いではなかった。糸満漁夫の凄さよ。
夜間、名城から慎重に北上し、津堅-松田-安部-安田と一泊づつ、そして安田から星だけを頼りに与論島に、そして徳之島まで神参謀を送り届ける。しかし、神参謀が何を報告するつもりだったのかを知れば、6人のうみんちゅは神参謀を暗い海に投げ出したくなったことだろう。
神参謀の「秘密文章」の中身とは・・・
神参謀 沖縄脱出計画
ここで神参謀の脱出計画を簡単にまとめておきたい。
1945年5月10日 - 神参謀 沖縄脱出計画
1945年5月10日、大本営へ、航空支援を要請するための派遣計画。
大本営が航空機の増援をしぶっていたのに業を煮やした守備軍首脳は、5月10日、積極攻勢派の神航空参謀を連絡のために東京に派遣した。もはや現地軍だけでは深刻化しつつあった戦況を挽回することはどうにもならないので大本営傘下航空軍の総力をあげて沖縄周辺の敵艦船にたいし、一大航空作戦を展開させ、それによって米軍の沖縄攻略の企図を断念せしめるほかないと意見具申させるためであった。
1945年4月のある日、糸満の海岸近くの壕にかくれていた、… 3人の、60歳近い老漁夫たちが、いきなり壕から捜し出されて、ある任務を与えられた。神参謀脱出につき、協力せよ、とのことだった。
1945年5月26日 - 水上機をやり過ごす
1945年5月26日 - しかしまだ神参謀は慎重に摩文仁にとどまっていた。水上機が着水しても乗り込もうとせず、犠牲になった水上機もあると首里の司令部壕まで噂がまわる。
わが空軍の画期的な沖縄援助を求めんとして、首里軍司令部を去った神参謀は、十数日を経た今日、まだ摩文仁付近に滞留したままであった。本土帰還のため、まず水上機に頼ろうとした彼は、ここで毎日のように、飛行機の来着をまっていたのである。特攻機でさえ、夜間を利用しても沖縄上空に到達するのが至難の状況である。況や水上機では、なおさらのことである。敵情、気象、相互の打ち合わせ等の関係で、容易に望む飛行機はやってこない。ようやくきたかと思うと、海上波が高くて着水ができぬ。犠牲になった飛行機もあるという噂が飛ぶ。
神参謀の本土連絡に当初協力したという三宅参謀が、とうとう私に、取りやめさせるべきだと意見を具申した。軍の運命は旦夕に迫った。今さら空軍の積極的援助を依頼するなど笑止である。しかも神自身敵の重囲を突破する術も望みも失っているというのである。成り行きに委すほかはないと思い、私は彼の意見を聞くのみで、なんら処置するところはなかった。
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 343-344頁》
沖縄への「一大航空攻撃」を大本営に具申するため東京へ派遣されることになった神直道航空参謀だが、5月10日以降、老漁夫ではなく、若い漁夫の漕ぎ手を探していた。
1945年5月30日 - クリ船で名城海岸を出発
神参謀は一度は失敗したあげく、5月30日、航空班の藤田忠雄曹長を伴い、防衛召集された糸満の漁師、…6名 の漕ぐ刳舟に乗り、糸満の名城海岸から再度の決死の脱出を決行した。
糸満の若い漁夫上りの防衛隊員達が櫂を取る一葉の刳舟は摩文仁岬をまわって、島の東海岸を一路北上、沖縄本島最北端の辺戸岬のあたりへ出て、与論、永良部、徳之島へと、黒潮の波濤を乗り切り、夜の海上を、或いは順風に帆をはり、或いは精根のつづくかぎり力漕した。その冒険と努力は、想像に絶するものがあった。かくして神参謀は戦線を離脱し日本本土へ脱走した。
1945年6月9日 - 徳之島に到着
いよいよ首里司令部壕が危機的な状態にあるころ、神参謀の徳之島到着の知らせが届く。
神少佐は、沖縄脱出にかれこれ努力をしていたが、なかなかその方策がたたず、荏苒日を過ごしていた。今から本土に帰還しても意味をなさぬというので、三宅参謀の起案した中止命令が軍司令官の決裁を得たのは、軍司令部が摩文仁に後退する直前であった。この中止命令といき違いに神は刳舟に帆をかけて名城を出発していた。そして幸運にも、日々北方への脱出に成功し続けた。与論島から徳之島へ、そしてここから飛行機で東京に飛んだ。神が徳之島に到着した旨の電報を入手したのは6月9日のこと記憶する。この電報を入手した瞬間、参謀部洞窟にいる将兵は、皆しーんとなった。参謀長は電報を手にしたまま大声で、「神を呼び戻せ!」と叫んだ。誰も応答するものはなかった。参謀長の残留将兵に対するジェスチュアに過ぎなかったのである。
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 381-382頁より》
1945年6月15日 - 大本営での戦況報告
派遣の命令から1か月以上かかって、東京に到着。待っていたのは、この期に及んで、という冷たい答えだけだった。
6月15日、見事に大本営にいたり沖縄の戦況を報告するが、そこで初めて大本営が沖縄作戦を「本土決戦」にきりかえたのを知り愕然とした。
2日後、神参謀は、長参謀長から「追腹を切る覚悟を以って航空出撃を強調すべし」という親展電報を受け取った。そして約2時間ものあいだ大本営に航空軍の出撃を懇願したが、彼がえたのは「この期に及んで出撃強請とは何事か」という冷たい答えだけであった。
5月10日の首里司令部壕から、6月15日の大本営報告まで、1か月と5日間。屈強な糸満漁夫の力で米軍に包囲された海を5日間で乗り切るが、神参謀の歩みは遅かった。彼の支援要請に耳を貸す航空基地はなく、また大本営の対応は冷たかった。
軍隊は敵のせん滅が役目。住民を守ることは作戦に入っていなかった。住民は大事だが作戦にとっては足かせになる。純粋に軍事的な立場からは住民を守るゆとりはない。
神直道
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