沖縄戦の20年前の普天間「宜野湾並松」の写真

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基地に奪われた生まれ島。今回発見された宜野湾の写真一枚を AI でカラー化。

 

沖縄戦 (1945年) の20年前の写真である。20年後、四人に一人の県民が命を奪われ、この土地はいまだに米軍の基地として返還されないまま。

 

住民の顔もはっきり 1925年の普天間の写真発見 戦争で消えた松並木も鮮明に
2020年3月18日 06:30

 

 

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1925年ごろに普天間の「宜野湾並松」で撮影したとみられる写真。ミルク面や獅子舞、旗頭、衣装などから当時の地域の民俗芸能についても知ることができる(野々村孝男さん提供)

 

 1925年ごろに撮影され、当時は国の天然記念物に指定されていた宜野湾市普天間からつながる松並木「宜野湾並松(じのーんなんまち)」で、地域住民が民俗芸能をする日に撮影されたとみられる写真など、戦前の貴重な写真88枚がこのほど見つかった。宜野湾市立博物館によると、普天間の松並木の風景の写真はこれまでも見つかっているが、地元住民の顔もはっきり見え、民俗芸能の衣装も身に着けた写真が確認されたのは初めて。戦前の民俗芸能を知る上でも価値の高い写真だとしている。

 

 確認された写真88枚は、16年から45年の沖縄戦直前まで約29年間、沖縄に滞在した鹿児島県出身の農業技師・松永高元さん(1892―1965)が撮影した。勤務先だった名護や普天間小禄(現・那覇市)の写真がアルバムに残っていた。松永さんの次女・多恵子さん=宮崎県=から那覇市の歴史研究家・野々村孝男さんが入手した。

 

 松並木の写真については、戦前から普天間で暮らす元普天間区長の宮城正道さん(86)も確認し、戦前の普天間の松並木だろうと証言した。

 

 宜野湾市博物館学芸員の平敷兼哉さんは「ミルク面など、民俗芸能についての戦前の写真は初めて」と指摘する。戦前の普天間で4~5年に1回程度の頻度で行われた地域行事普天間のマールアシビ」は、25年にも行われた。その際に組踊「久志の若按司」も演じられた記録があり、衣装を着て写真に写る人々が出演した可能性があるという。

 

 平敷さんは「ミルク面や旗頭の形、子どもたちの衣装なども写り、貴重だ。地域の祭りを守っていく意気込みを感じる」と話す。

 

 写真を入手した野々村さんは「それぞれの地域史の資料として、地域の人たちに役立つようにできればと思う」と話し、写真に写る名護や普天間小禄の地域で有効に活用してほしいと強調した。
 (古堅一樹)

 

弥勒 (ミルク) 面とは・・・

 

沖縄県西原町|棚原の弥勒(ミルク)

弥勒は仏教で説く弥勒菩薩のことで、いつのころからか沖縄では、古来のニライカナイの信仰と合体して、海の彼方の楽土から豊年を運んでくる五穀の神と考えられ、豊年のことを弥勒世(ミルクユー)とか弥勒世果報(ミルクユガフー)と称するようになった。弥勒神は沖縄全域にわたって伝承されている来訪神で、布袋(ほてい)の仮面を被ることで知られる。布袋は、中国に普遍的である弥勒仏の変身した姿とされる。

沖縄での弥勒信仰の発祥地は首里で、「赤田首里殿内 黄金灯籠さげて あれがあかがれば 弥勒世果報」と歌われている。棚原の弥勒首里赤田から伝わったという。棚原ノロ殿内の祭壇には弥勒が祀られている。

旧8月15日には弥勒の仮面を頭から被り、神衣装を着け、世果報を祈願する弥勒踊を行う。また、旧12月20日にはウマリトィタティと称して、この年に生まれた赤子らの誕生を弥勒神に報告し健康を祈願する。

 

普天間のマールアシビとは

 

マールアシビは村遊びのこと。地域によって何年ごとに開かれるか異なっている。五穀豊穣(ほうじょう)と無病息災を祈る豊年祭。普天間のアシビの獅子がしっかりと写真に写っている。

 

普天間のマールアシビは、4年に一度開催されています。当時の集落のほとんどが米軍によって接収されてしまいましたが、普天間郷友会が中心となって現在も行っています。普天間のアシビには、獅子舞も登場します。

秋の企画展「宜野湾のムラアシビ」をご案内

 

 

 

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Q:にぎわっていたんですか?

にぎわってましたね、ちょうど宜野湾、市の宜野湾が、ここに、あの、中心地でしたから。役所があり、学校があり、郵便局があり、駐車場があり、なんでもあったんですね、ここに、宜野湾に。いちばん中心でした、ちょうどど真ん中であの建物のあるところが中心地でしょうね。

 

Q:今は全く面影ないですね。

面影ない、面影ない、全然ない。あの、真栄原からこう、入ってくるでしょ、あれのまっすぐ普天間に向かって並松があったんですね、こう並松が。ずっと続いてました、ずっと、ど真ん中から。

 

Q:どんな様子だったんですか?

これはね、本当に、大きな並松が、僕らが子どもの時分ですから4、5人で抱えるくらいの松がありましたね。ちょうど、ど真ん中通ってます。

 

Q:みなさんのふるさとというとそのイメージなんですか?

そうですね、宜野湾の並松ってほんとね、有名ですよ。すぐ、馬場がありまして、馬場がありましてですね。学校がありまして、役所がありまして、郵便局がありましたしね、あらゆる、雑貨店とお風呂屋もありましたしね。

 

Q:お風呂屋

風呂屋。昔はお風呂屋って珍しいですよね、僕らは年に一度しか外で風呂とか、時分ですから、ええ、お風呂があるなんてって、これも1週間に1回。

 

Q:今この様子を見ていると、こう、どういうお気持ちですか?

いや、本当によくも、いくさ負けたとは言え、無残だと思いますね。これ、いろんなものがあったわけですから。あの、先祖のお墓とかいろんなものがあったわけで、それが全部、払われたわけですから。戦争とはいえ、負けたとはいえ、本当に言い尽くせないほどの思いがありますね。

玉那覇 清仁さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス 戦後日本のあゆみ

 

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