Battle of Okinawa

Produced by Osprey Fuan Club

ハワイに送られた11歳の「捕虜」 ~ 米軍が「捕虜」として記録した沖縄の少年兵

 

米軍が「捕虜」として記録した沖縄の少年兵

愛国教育のなれの果て、学校は兵舎となり、学徒は軍に召集された。こんな小さな子どもまで、日本軍は兵士にした。米軍も、子どもが「日本兵兵」であれば容赦なく大人の捕虜と同様に捕虜収容所に収容し、収容所が飽和状態になるとハワイやアメリカの収容所に移送された。

 

f:id:neverforget1945:20200306095409p:plain

A small Okinawan conscripted by the Japs is given P. of W. gear after capture by M.P. Pfc. Paul F. Jeter, 24, (974645) whose wife Erlene, lives at 1804 1/2 Lyons Ave., Houston, Texas. 憲兵であるジェター一等兵に捕らえられた少年に捕虜用衣類が与えられた。この少年は日本軍に徴用されていた。(1945年4月7日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍は、日本兵捕虜の中の多くの少年兵の姿を記録しているが、「少年」とは記載せず、「捕虜」として記録し、容赦なく「捕虜」として扱った。米軍は、通訳兵とともに捕虜ひとりひとりを訊問しているので、これらの小さな兵士が日本軍に徴用された「学徒」であることを完全に把握しているはずだが、それについての写真の記載は、上の一枚の写真を除き、ほとんど見られない。

ゆえに、こちらも学徒兵らしく見える「捕虜」の写真を以下にあげてみる。

Many clad only in military ”g-strings” these are part of the record bag of 306 Japs taken prisoner by troops of 6th Marine Division during last hours of Okinawa battle. Imperial soldiers, sailors and Okinawan home guardsmen were among those who were incarcerated behind barbed wire.【訳】 多くの捕虜が軍の「ふんどし」だけを身につけている。写真は、沖縄戦の終盤に第6海兵師団に捕らえられた306人という記録的な数の日本兵捕虜の一部。有刺鉄線の囲いの中に拘束されているのは日本陸軍、海軍および沖縄防衛隊の兵士ら。 撮影日: 1945年 6月

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20190904020626p:plain

Jap prisoners caught stealing food.【訳】 食糧を盗もうとして捕まった日本兵捕虜。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍は、日本軍が中学校から召集した学徒兵や、陸軍中野学校の将校らが沖縄の地元の少年を集め構成した護郷隊などの存在を早くから認識していた。

尋問を受ける少年。語学兵は少年らが日本兵に徴兵 conscripted され労役させられていたことを記す。少年の歳は記録していない。

f:id:neverforget1945:20190808084931p:plain

Jap prisoners of war being questioned at Okinawa in Ryukyus. Jap marine interviewed by Marine Intelligence interpreter.【訳】 尋問される日本人捕虜。沖縄にて。海兵隊諜報担当の通訳に質問される日本海軍陸戦隊の兵士。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20200725040353p:plain

An Okinawan from the City of Naha being questioned by Marine interpreter 1st Lt. Roger F. Hackett, 22, (02442) whose Mother Anna Hackett lives at 120 Wayne Pl. S.E., Washington, D.C. His father Harold Hackett is a Navy Lt. The Okinawan had been conscripted as a laborer by the Japs. 那覇出身者にインタビューする通訳のハケット中尉。この男性 (ブログ註=沖縄人) は日本軍に (ブログ註=徴用され) 労役を課せられた。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

なぜ、米軍は明らかに「子ども」にしかみえない少年兵を「捕虜」とだけ記載し、彼らの年齢を記していないのだろうか。

一つの仮説として、日本軍は少年兵を斥候や自爆攻撃を含む「斬り込み」攻撃、さらにゲリラ戦(遊撃戦) の兵士として利用していたので、少年兵を民間人として扱うことはできず、証言にもあるように、米軍 CIC は、捕らえた少年兵に対し、兵か民間人かをかなり厳しく追及し訊問した。学徒兵であった場合は、遊撃を回避するため捕虜として日本兵と同様に隔離する必要があった。

しかし、そこには倫理的な問題がある。なにせ13歳14歳~の少年を捕虜として隔離し労役させるのである。沖縄の少年を兵士として召集した日本の国と戦争をするということは、米国も、日本の少年を殺したり捕虜にすることを意味した。そこで、明らかに少年であることが明白であっても、一貫して日本兵として年齢を記すことなく写真記録に残した。ということだろう。

 

遺体の処理をさせられている少年兵。

Captured enemy are put to some good use burying their dead comrades. Marine guard stands by just in case.【訳】死んだ仲間を埋める捕虜。海兵隊護衛兵が万一に備えて監視する。沖縄。撮影日: 1945年

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

ハワイやアメリカ本土の収容所に送られた少年兵

米軍は沖縄島の捕虜収容所が飽和状態になると、沖縄の住民や学徒の捕虜を優先的に、数回にわたってハワイやさらにはアメリカ本土にある捕虜収容所に移送した。

炎天下のなか、トラックに乗せられている捕虜。沖縄の学徒兵の姿が多く見られる。

米国陸軍通信隊: Prisoners of war in truck at ISCOM POW stockage waiting to be taken to ships for evacuation to Hawaii.【訳】ハワイへ移送する船に連れて行かれるため、トラックで待機する島司令部捕虜収容所の捕虜たち。1945年6月27日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

米軍は、17日後の7月13日、ハワイに到着した少年兵の姿を記録している。その少年兵の中には11歳の小さな子どももいた。大勢の住民の命が失われる中、更に家族とすら引き離され長期収容されたのは、彼らが日本軍の兵として徴用されたためであった。

 

米軍はハワイに到着した11歳の小さな「日本兵」捕虜を写真記録している。

米陸軍: SGT Eugene M Cox, of Sweet Home, Oregon, pictured with an eleven year old Japanese prisoner of war.【訳】11才の日本人捕虜と一緒に写るユージーン・M・コックス軍曹。オアフ島 1945年7月13日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

米陸軍: A group of enemy soldiers on way to collection point ask direction from U.S. soldiers. 【訳】米兵に指示を仰ぎながら集合場所に向かう日本兵たち。オアフ島    1945年7月13日 

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

 

battle-of-okinawa.hatenablog.com

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■