沖縄戦証言『玉城村史』玉城村 (2004年)

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沖縄戦証言『玉城村史』玉城村 (2004年) 》

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私の戦時体験記(国頭疎開)

字仲村渠一区大城清子(当時十六歳)

はじめに

1983年7月1日の沖縄タイムスに「野戦病院から遺骨ぞくぞく、宜野座村体育館の建設現場」という見出しで三十八年ぶりに戦病死者の遺骨が発掘されたという記事を見て、我が目を疑いました。それはまがいもなく私達が米軍の野戦病院で看病をし空しく死んでいった人たちの遺骨だったからです。その人たちは島尻から捕虜になって収容されてきた防衛隊、学徒隊、一般避難民の負傷者たちでした。病院で死んでいった人たちは私たちの手で担架に乗せて死体置場まで運んでいき、後で地面に穴を掘って葬られた人たちの墓場なのです。

 

思えば三十八年前沖縄全島を吹き荒れた鉄の暴風に巻き込まれ、傷つき苦しみやっと収容された野戦病院での治療のかいもなく死んでいった人たちの情景がよみがえり、まだ遺骨も放置されたままの状態にいきどおりを覚えました。

 

勤労動員

昭和十九年七月頃私は当時国民学校を卒業したばかりで、字の女子青年団の副会長をしていました。六月頃から青年団には役場を通じて勤労奉仕隊の動員令がくだされて、小禄や読谷の飛行場づくりに動員されました。飛行場づくり、陣地構築、炊事班などの作業に明けくれていたところ、十月十日の空襲を受け敵の威力を知りましたが、何くそ負けてたまるか、日本は侵すことのできない神国なのだ、皇国の乙女として祖国を守るのだと決意も新たに泥だらけで働きました。咲きほこるべき青春時代も激しい労働の明け暮れでしたが、少しも苦にならず休憩時間は兵隊も一緒に軍歌を唱い、「勝利の日まで」を合言葉に必勝を誓いました。その後、当時私と行動を共にしていた女子青年団は、南部戦線に出て戦闘に巻き込まれました。

 

国頭疎開

明けて昭和二〇年の二月、一週間泊まり込みで南風原陸軍病院の壕掘りの徴用から帰ってきた私に父は「四日後に山原に疎開するので準備するように」と言いました。突然の父の言葉に私は行かないと言った。敵が上陸してきたら郷土を守るため少しでも役に立たねばいけない、そのため救護班の指導や竹槍訓練も受けている、疎開するなんて卑怯だと反発しました。父は「軍命で老人、子供は早急に北部に疎開せよ」となっている。家には年老いた祖母がいる、それに隣に住む親類の知念家は出征家族で幼い子が三人いる。その子供たちと祖母を守って疎開しなさい、出征家族を守るのも国の為ではないか。こうして私の運命を変えた北部行きが決まりました。

 

二月二十六日出発の日、伯母が泣きながら私の額に水をつけてくれました。これが最後の別れになるのではと悲しみがこみあげて泣いた。

 

母や弟妹は八月に熊本に疎開していましたので、役場勤めをしている父一人を残して住みなれた我が家を後にしました。私の家には兵隊が駐屯していましたので後はよろしくと頼みました。

 

我が仲村渠一区から十一世帯の女子供が字中の人に見送られ山原目指して旅立ちました。私は知念家の次男を背負い祖母の手を取って与那原まで歩きました。そこから軍のトラックに乗せられ美里村東恩納で降ろされました。そこの学校でお握りをいただき一泊し、翌日は目的地の金武村字漢那まで歩いていきました。老人と婦女子だけの集団である。石川、屋嘉、金武とはじめての山原路を足を引きずって、やっと目的地の金武村字漢那に辿り着きました。

 

漢那では警防団、国防婦人会の方々が歓迎して下さいました。歓迎式でねぎらいのお言葉をいただき、お茶の接待を受け感謝しました。

 

割り当てられた家に案内して下さり私と祖母は、知念家と一緒に門口さんの世話になりました。こうして玉城村から約五百人が惣慶、漢那で戦世をくぐり抜けたのでした。はじめて見る山原の、のどかな風景を見聞きするゆとりもなく空襲が激しくなりました。その空襲の間をぬって玉城村から村長安次富信雄氏他数人の方が漢那を訪れ疎開者の状況を視察され、一軒一軒廻って疎開者を激励して下さいました。

 

三月になると壕に待避する日が多くなりました。その壕は県道のすぐ側にある大きな自然洞窟でした。波状的に攻撃してくる敵機が樹木すれすれに低空して壕の入口まで機銃を撃ちこみ怪我人もでました。部落の家も次々焼かれ日を追って被害は増大しました。

 

四月一日、敵が上陸したとの情報と共に中頭からの避難民が押し寄せてきました。その頃すでに海は見渡す限り敵の軍艦で埋まり、砲弾の炸裂する音が遠くで聞こえます。四月五日には敵は金武まで攻めてきたとの情報で大勢の避難民が北部目指して通り過ぎました。中には竹槍を担いだ兵隊の集団も幾組もありました。兵隊は戦いもせず逃げるのだろうか、照明弾もポンポンあがり銃声も聞こえてくる。私たちは一体どうすればよいだろうか。恐怖におののいている時、私たちの壕に四、五人の避難民が入ってきました。一人は妊婦で陣痛を起こして今にも産まれそうだという、真っ暗い壕の中でウンウンうなっている。母と姑らしき人が産婆役をしているようである。外の様子を見に行っていた男の人が「まだ産まれないのか敵は近くまできている大変な事になった」と、大声でおののいている。しばらくして産声が聞こえた。女の赤ちゃんという。私たちもホッとした。それから半時間後程経って一行は赤ちゃんを抱いて北を目指して出ていきました。戦世の女の身の哀しさ、敵に追われながらも生まれてくる時間は待ってはくれないのか、その母親と赤ちゃんは無事だっただろうか、今でも思い出す一コマである。四月五日頃「敵は今夜中に漢那を通過する。二、三日分の食糧だけ持って山奥に避難するように」村から派遣されてきた連絡員(役場職員)の指示で身仕度を整え壕を出た。照明弾が真昼のように明るい。長い壕生活で栄養失調になりふらつきながらも敵が間近に迫った恐怖で、老人も子供も追い立てられるように四キロの道のりを急ぎ山小屋に辿り着きました。この山小屋は地元の方が玉城村からの疎開者の避難所として建てて下さったものでした。一息ついた時親類の金城一家が壕に取り残されていると聞く。この一家は祖母と孫四人で疎開していて長女が身体障害者で歩けないのである。私と三人で急ぎ山を下り迎えに行きました。壕の近くまできた時トラックに乗った米兵が奇声をあげ県道を通り過ぎて行った。私は十三歳になる障害児を背負い壕を出ました。その重いこと背中に重みと痛みが食い込んで何度もよろけながら歩んだ。殆どの人が避難して人影も見えない。あえぎあえぎ登る私たちの一団だけである。突然爆発音がして振り返ると今出てきたばかりの壕に弾が打ち込まれたところでした。危機一髪で私たちは助かったのでした。

 

翌日からすぐ各部落ごとに捕虜収容所ができて避難民の収容をはじめましたが、私たちは捕虜になるのを拒み山小屋生活を続けました。毎日銃を構えた米兵が数人山小屋のすみずみまで調べた。その恐ろしい事、両手を上げ震えて彼等が引き揚げていくまで心の中で祈りました。そんな時若い女が拉致されることもありました。近くの避難小屋からも私と同年の娘が連れ去られました。一番困ったのは食糧でした。金城家の世話もしなければならず、十一人分の食糧をさがさねばなりませんでした。惣慶、漢那はすでに収容所ができ食糧はさがせません。そこで惣慶岳を越え西海岸の名護町喜瀬、幸喜まで諸掘りに行きました。惣慶岳の頂上付近に五体の銃殺死体がころがっていました。私たち玉城村出身の男の人で山奥に隠れている所を米軍に発見され、逃げようとして銃殺されたとのことである。私たちは手を合わせ遺体をまたぎ通り過ぎた。目的地にたどり着くと僅かに残っている諸を掘り集めるのですが度々ジープに乗った米兵の見廻りもあり又米兵に拉致された者もあり命がけの食糧集めでした。

 

小屋には度々日本兵が訪ねてきました。彼等は戦況を伝え「日本は必ず勝つ決して捕虜にはなるな、我々はこれから斬り込みに行く。」と言った。私達はその言葉を信じ、「兵隊さん必ず勝って下さい。」と乏しい食糧を分け与えました。

 

ある日隣に住む親戚を頼って一人の少年が来ました。この少年は知念村の出身で父親はペルー帰りで外語が話せるというので漢那の収容所の班長を命ぜられ避難民の配給や住居の世話をしていた。それを知った日本兵が山の麓に呼び出しスパイだといって日本刀で斬ったということでした。それからは日本兵が恐くなり彼等の行動を信じなくなりました。

 

山小屋の生活は惨めでした。栄養失調と不潔で、ノミ・シラミがたかり、はしかや赤痢が流行り次々死人がでました。私と一緒の金城の祖母も赤痢にかかり、幼い四人の孫の心配をしながら死んでいきました。

 

そんな不安な生活の中にも村役場から派遣されてきた二人の職員が山小屋を廻り疎開者を激励して下さり、私たちは大変勇気づけられました。

 

六月十一日、私たちの避難小屋にビラがまかれ、敗残兵を掃討するため山を焼き払うので、避難民は全員収容所におりていくようにとの伝達がありました。それを裏付けるように久志岳に砲弾がうちこまれ、だんだん惣慶岳の方に迫ってきました。それで避難民は意を決して山を降りることになりました。その頃知念家の三人の子供がはしかにかかっていましたが、山を降りることになったその朝、次男が危篤状態になりました。他の人たちは荷物をまとめて収容所におりていきましたが、私たちだけ山に残りました。危篤になっているこの子は玉城を発ったその日から私が背負い避難を共にした子なのです。戦世の避難小屋で手当のすべなく息を引き取りました。その子供の母と二人で穴を掘り土をかぶせ放心状態になっていた時、銃を構えた米兵が数人きて私にビラを渡しました。「この小屋は焼き払うのですぐここを出て上の道に集まりなさい。」という意味のビラでした。私ははしかで発熱している知念家の五歳になる長男を背負い、二ヶ月余り住んだ小屋を出ました。道路には山の中から集められた三〇人位の避難民がいました。六月十二日私は米軍の捕虜になりました。

 

米軍野戦病院

私たちは一足先に山を下りて字惣慶の仲間さんの馬小屋に収容されている同郷の人たちを頼り、そこで雑居生活をしました。その日から食糧の配給を受け食糧飢餓からやっと解放されアメリカ世の生活が始まったのでした。

 

数日たったある日、班長さんから「明日島尻から大勢の負傷者が運ばれてくるので、若い娘たちは看護のため病院に行くように」との伝達を受けました。島尻からと聞き、もしや父もその中にいるのではと、たかぶる気持ちを抑えて米軍の野戦病院に急ぎました。

 

病院とは名ばかりで、畑の上に長いテントが張られ野戦用ベットが並べてあるだけです。その長いテントが10棟程あったと思います。間もなく負傷者を乗せたトラックが次々到着しました。トラックから降ろされベットに移された患者のあまりのむごたらしさに怖さを感じました。衣服も包帯も血にまみれ傷の痛さに呻いています。手や足を失い或は体中傷だらけで蛆が沸いている者、全身火傷の者、家屋の下敷きになった者、三歳位の子供から国民学校の子供、学徒隊、防衛隊一般避難民とほとんどの人が家族と離れ一人で収容されていました。私は第五テントに配置され患者の食事の世話や便の世話をしました。収容された人に知った人はいないか、何よりも我が村や父の消息が知りたくて捜しまわりました。

 

やっと村出身の当山ハルさんに会いました。ハルさんは全身傷だらけで甥は片足を切断されていました。ハルさんの子供や父母、姉二人とその子供計十三人で南部戦線を逃げまどっている時、砲弾の直撃を受け十一人が即死、ハルさんと甥の二人だけ重傷を負いながらも奇跡的に助かったのでした。六月二十三日伊原で米軍の捕虜となり豊見城で一泊しトラックに乗せられてこの野戦病院に運ばれてきたとの事です。南部の凄しい戦闘の模様を聞くにつれ父の安否が気づかれるのでした。

 

傷の治療は米軍の衛生兵が担当していましたが、時には私達も手伝いました。ガーゼを替え消毒し白い粉薬をふるだけの簡単な治療でした。手術室は他にあって腐った手足の切断や破片の摘出をしているようでした。私たちは夜間も交代で患者の世話にあたりましたが、毎日のように死亡者がでました。朝になるとベットの上やテントの外に出て死んでいるしかばねが見つかります。制服を着て髪を三つ編みにした女学生が破傷風にかかり引きつけを起こして死んでいきました。

 

死体を担架に乗せ死体置場まで運ぶのも私たちの仕事でした。死体置場には沢山の死体が並べられていました。祖国の勝利を信じ祖国防衛のため戦闘に参加し傷を負い屍となって並べられている姿に無念の涙を禁ずることができませんでした。

 

私たちのテントから少し離れた病棟で異様な光景を見ました。若い女性が全裸になり大声でわめきながら土の上を転げまわっています。その側に一歳位の男の子が座っています。衛生兵や看護婦が見守っているようでした。そんな状態が二、三日続いた頃、看護婦がその女の体をきれいに洗っていました。しばらくして、その場所を通りかかった時には病院着を着せられ静かになっていました。注射を打たれたのだろうとの話でした。若い美しい母親の死顔でした。

 

野戦病院構内の一棟のテントに朝鮮から連れてこられた慰安婦が収容されていました。その数は4-50位いたと思います。彼女らは米軍の特別待遇を受け仕事もしないでベットの上で寝そべっているように私たちの目には映りました。朝鮮から徴用で沖縄に送られ日本兵相手の慰安婦にされていたそうです。そして悲惨な沖縄戦に遭遇した彼女らは米兵に保護され一ヶ所に集められていてひたすら故郷へ帰る日を待っているのであろうか。同じ女性として彼女らの境遇を気の毒に思いました。

 

私たち疎開者にとっていつの日自分の村に帰れるのだろうか。一日千秋の思いで待っていました。

 

十月三十一日、疎開者に対する村の受け入れ態勢も整い恩深き惣慶、漢那を後にして、なつかしい我が村の船越区収容所に帰ってきました。父が私の帰りを迎えてくれました。遺骨となって無言の帰郷をした人もいますが、大多数の村民が戦世をくぐり抜け、無事郷里の土を踏めたのも村当局の戦時態勢下の村民保護に力を注いで下さったお陰だと感謝しています。

 

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久志市東喜、現在の名護市二見

 

私の戦時体験

字垣花二区儀武息喜(当時十六歳)

儀武小壕の発見

昭和二〇年当時、私の同期生の多くは青年学校生として飛行場建設等に駆り出されていたが、私は背が低かったせいか余り参加しなかった。家族は祖父、父、母、そして私を頭に妹七人の一人家族だった。父は当時サトウキビ作りを中心に農業をしていたが、農閑期には屋大工や石エもこなすという大変器用な面も持ち合わせていた。キビの収穫、製糖期には製造(砂糖製造時の釜の責任者)も努めていた。

 

私が沖縄戦を強く意識したのは十・十空襲以後である。十・十空襲時には字内への爆撃はなかったが、那覇市は大空襲にあい多くの家々や街が焼滅したし、馬天港も襲撃された事を知った。その後、多くの字民は本格的に自家防空壕掘りや自然壕探しをした。

 

幸い、私達は叔父の家(東儀武小)の庭下に大きな鐘乳洞(儀武小壕)を発見した。その発見は当時の石平照屋にあった井戸の横穴がきっかけだった。この井戸は溜まり水が主で、余り湧水はなく途中に横穴が開いていた。当時、自家防空壕掘りや自然壕探しの事で頭を悩ましていた父がある日、その横穴に入り奥に広がる鐘乳洞を発見した。

 

其処は水の流れも豊富で、又、適当な段差で盛り上がっている広場もあり、避難壕としては最適な場所だった。思いがけない発見をした父は思わず小躍りしたと聞いた。しかも、この鐘乳洞は叔父の屋敷庭下まで広がっている事がわかった。父はその庭から壕への入口を開け、梯子を掛けて自由に出入りが出来るようにして避難壕に造り上げた。

 

酒造班として

その後、私の家族は度ある空襲時には何時も此の鐘乳洞に避難した。此の壕に入っている限り、少々の爆撃や艦砲射撃でも大丈夫だと思い安心していた。ところが昭和二〇年三月二十四日、沖縄本島に艦砲射撃が始まり、アシジャ壕に日本兵が入り込んだ頃から、私と父は毎日のように防衛隊、義勇隊の酒造班として駆り出された。どういう理由か当時、私の父は酒を造る酒造器具を持っていた。

 

ある日、父が自分の家で密かに造った酒をアシジャ壕の日本兵、西尾隊長?に差し出した。此の差し出しに喜んだ西尾隊長?はこの酒を日本兵のために造れと命令してきた。当時、酒の原料となるサトウキビは収穫されないまま畑に放置されていたのでいくらでもあった。命令を受けた父は一人で引き受ける事は出来ず、私達(私と屋比久孟栄、伊敷元次等五人)も義勇隊として父と共に、毎日酒造りに参加する事になった。私達は原料になるキビを刈り取り、それをサーター屋(現在の公民館敷地)に運び込み、車庭で馬に引かせて絞った。それを釜に入れ諸味として発酵させ、酒造器にかけて醸造した。

 

出来上がった酒は一升瓶に詰め毎回アシジャ壕に運んだ。アシジャ壕には兵隊と住民が一緒に避難しており、中には医務室のような所もあった。運び込まれた酒は、兵隊の単なる飲酒用だけでなく敵陣へ出撃する朝など、別れの杯用としても振る舞われた様である。

 

儀武小壕で捕虜に

私は避難壕も家族と一緒に最後まで儀武小壕で、何処にも動かなかった。最初私達の家族を中心に親戚だけで入っていた此の壕も、米軍の進攻が近づき日本兵が南部に下った頃からは、いつの間にか字民にも知れ渡り、約七世帯四〇人内外の住民が避難していた。

 

壕の中には水の流れもあり、食糧も近くの家から割にたやすく確保出来たので全員安心していた。しかも壕の入口も外からは分からないように木の枝等で覆ってあった。ところが、此の壕の存在を知った字民が、時に、米軍の襲撃に遭い、逃げ場を失って駆け込んで来ることもあった。ある日、字内に食糧確保に来た二人の女性と一人の男性が、米軍と遭遇し命からがら逃げ込んで来たが、男性は入口近くで射殺された。この男性は運悪く日本兵用の鉄兜をかぶっていた。

 

私達は此の二人の女性が逃げ込んで来た二、三日後の夕方、思いがけなく捕虜になった。簡単には分からない壕の入口に突然ハワイニ世がやって来て、上から、「中に居る皆さん出てきなさい」「出てきなさい」と大声で叫び続けた。既に捕虜になった字民の一人が私達を救出するため案内して来たのだ。壕内は一瞬、恐怖の中、全員緊張して静まりかえっていたが、何回も繰り返される呼び掛けに意を決した祖父が立ち上がり、壕入口に進み出た。その様子を見ていた壕内の全員も怖々その後に続いた。

 

山原への移動命令

捕虜になった私達は全員字内の東側、セイサナ井戸(現在の大川)の上に集められ、焼けずに残っていた近くの民家に一泊し、翌朝直ぐ百名に連行された。百名から今度は知念の山里に移り、其処で一週間位暮らしていたが、その後、親慶原に入れるとのことで自分の家に舞い戻った。幸い、家は焼けずに残っていた。ところがやっと落ち着いた生活を取り戻せると思った矢先、親慶原住民に山原への移動命令が出され、村屋敷地(現在の公民館駐車場)に集められた。字民は食糧と生活用品を思い思いに担いで集まったが、検査官によっては、点検が厳しく持ち運びを断られた物品もあった。私の家族も山原での食糧が心配で米二俵持ち込んだが断られ、合鑑も付けたまま村屋近くの空屋に放置したまま佐敷に下った。山原へは当添の海岸からLSTで出発し辺野古の浜へ到着した。

 

辺野古から、今度は二見の東喜まで歩いての移動となった。重い荷物を担いでの移動である。私は途中、担いでいる荷物を放り投げようかと思ったが、放り投げてはいけないと諌(いさ)められ思いとどまった。あの時のきつさは今でも覚えている。

 

山原東喜での生活と帰村

東喜に着くと、狭い地域の中それぞれの村ごとに玉城村、知念村と同村出身が集まって暮らしていた。狭い地域に鮨詰め状態に押し込められた大人数、当然のように食糧難に、みな苦しんだ。私達の関心事はどうやって毎日の食糧を確保するかという事だけだった。

 

私は何人かの若者と一緒に二見から名護まで幾つも山を越えて食糧確保にと出かけた。名護の海岸近くには米軍の食糧物資が山のように積み上げられ、テントで覆われてある場所があった。其処に戦果をあげにと、何度か出かけた。そんなある日、私の家族のもとに思い掛けなく米二俵が届けられた。親慶原を出発する時、検査にひっかかって持って来られず、村屋近くの空き家に合鑑を付けたまま放置した米二俵である。顔馴染みの検査官には持ち出し禁止にされた米が、米兵によって届けられた。その時の有り難さは何とも言えなかった。

 

東喜では食糧難以上にマラリアにも苦しめられた。マラリアは米軍の砲弾よりも怖かった。砲弾は当たらない様に避難壕にも入れたが、マラリアはどう防いで良いのか分からず殆どの人が罹り、体力のない人が毎日のように死んでいった。あの「儀武小壕」で先頭に立って行動し、皆を助けた祖父もマラリアにやられた。私も一時マラリアと下痢でやせ衰え、立てない程に衰弱していた。

しかし、やがて玉城村への帰村が認められたが、直接親慶原への帰還は出来ず、最初は字富里(現在の公民館近くの家)に帰った。其処で暫く暮らしていたが、間もなく富名腰区への立入禁止が解かれると、祖母(祖母は愛地出身だった)の親戚を頼りに富名腰に移り仮小屋生活をした。

親慶原での戦後生活は翌、昭和二十一年の五月頃からで自分の屋敷にも帰れずテント生活からだった。

 

武部隊1564部隊に配属された青年の証言

玉城村 石嶺真福 (22歳) 

武部隊とは

家族の面会は月二回ほどありました。面会の日には、妻や両親、妹が食物を持ってきますので、いつも楽しみにしていました。現地入隊でなかった古参兵には家族の面会の経験がないところから、私達の面会を嫉妬し、羨ましがり、よく、「初年兵のくせに贅沢だ。」と、言われました。私達は古参兵に黒砂糖をあげて機嫌を取ったものです。

 

台湾への移動は十二月の終わり頃でしたが、その日の前日は最後の面会の日でありました。上官の大橋准尉は私達の家族に対し、「近いうちに沖縄から戦地へ出て行くが、二度と沖縄に戻るとは考えるな。」と行く先を告げずに言っていました。

 

私達は夜遅く那覇港を出発し、大晦日の日に台湾のキールン(基隆)港へ着きました。その日の晩飯は、無事に着いたことと大晦日を祝って、特別にミカン二個つけてありました。キールンからは新竹に移動し、終戦までいました。

 

新竹では工兵隊による陣地構築や橋梁工事に使う材木の運搬をしていましたが、工兵隊には玉城村から出征した仲村義秀(字船越)さん、喜名盛勇(字仲村渠)さん、比嘉正明(字仲村渠)さんなどがいました。彼らはフンドシひとつで川に入り、橋をかける仕事をしていました。台湾でも空襲はありましたが、攻撃されるのは決まって台北などの街の方で、私達のいる山の方には空襲はありませんでした。たまに、BRが偵察飛行する事はありましたが、私達は馬の体を木の葉で覆って偽装して材木を運搬していました。今考えると、自分達の軍隊生活は疎開で台湾に来たようなものでした。台湾に来て、二、三ヶ月すると、台湾人の初年兵が入隊し、私達は一等兵に進みました。そのため、古参兵からのいじめは少なくなりました。

 

夏頃になると、沖縄は米軍の上陸で全滅したとの噂が流れ、また、しばらくすると、日本が戦争に負けたとの噂が何処からともなく流れてきました。

 

ある日のこと、日本が負けたことを隊長から正式に知らされ、私達は武装解除を受けました。武装解除後、台湾出身の兵隊は自分の故郷に帰りましたが、私日本兵はしばらくの間、台湾にいました。日本兵が街を歩いていると、いじめられたことのある台湾出身の兵隊に仕返しを受けることも度々あったようです。本土出身の兵隊は除隊後、早めに帰国できましたが*1、沖縄出身の私達はしばらく残されました*2 ウミンチュー(漁民)の中にはサバニを調達して先に沖縄に帰った者もいました。知念村出身の吉田安則さんもその一人ですが、私達が元気で台湾にいることは彼によって家族に知らされていたそうです。

私達は大分経ってから帰国することが出来ました。最初、熊本に行くつもりで浦賀港に着いたが、船内に伝染病が発生し、上陸せずに引っ返し、宮古平良港に着きました。宮古に一週間滞在後、ポンポン船に乗せられて、ホワイトビーチに着き、インタミヤードゥイ (現沖縄市高原南西の丘) に収容されました。ポンポン船には知念清助(字糸数)さんと当山与昌(字糸数)さんも一緒でした。

  

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インヌミヤードゥイに収容されていた時、私は自分の生まれ故郷である玉城一区(玉城城址近くの現ゴルフ場内)の状況を確認するため、歩いてシマに行ったところ、そこには民家がなく、米軍部隊の基地 (注・キャンプ知念 = 知念補給地区) になっていました。びっくりした私が周囲の状況を詳しく知るために近くの道を歩いていたところ、偶然にも、芝木川のお爺さん(金城繁正さんの祖父)に会うことができ、私の家族がシムダ(下田)に収容されていることを知りました。
私は急いでシムダに行って家族と感激の再会をし、一泊してインヌミヤードゥイに戻りました。

 

私は、その後家族に会いに三回ほどシムダまで歩いていきましたが、二、三ヶ月ほどするとインヌミヤードゥイ収容所から出て行く事を許可され、家族の待つシムダに帰ることが出来ました。

 

自分達のシマは軍用地に接収されていたために戻ることが出来ませんでした。そのために、私達家族は十年間もシムダにいました。十年後、幸いにして現玉城区内に土地を求めることが出来、シムダから現在地に移った次第であります。

 

 玉城村内で日本軍が設置した慰安所に関する詳しい記述あり。

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慰安券: 『独立歩兵第15大隊本部陣中日誌』防衛研究所図書館所蔵 

 

 

 

 

 

*1:「帰国が決まったのは昭和21年 (1946年) 1月1日だった。正月の無言の万歳だった」「幸運の武兵団第九師団(沖縄、台湾)」石川県 蕪城直勝 

*2:沖縄への帰島は米軍によって封鎖されていたため帰還することができない状態が続く。正式に帰還者のためのインヌミ収容所が開設されたのは1946年7月1日になってからである。