久米島住民虐殺 ~ 鹿山正「私は悪くない」 (1972年琉球新報インタビュー記事) を再読する

 

 

1972年3月25日「わたしは悪くない・当然の処罰と思う」

琉球新報1972年3月25日

平然と当時を語る鹿山元隊長

徳島にいた「久米島の虐殺」の指揮者

【大阪】沖縄戦終了から日本敗戦後にかけての久米島で日本軍による県民の集団虐殺が次々に行なわれたことが七〇年八月十五日付け琉球新報で全国に報道された。その関係者によって指揮者を捜す“追跡行“が進められていたが、このほど所在が突きとめられた。しかし、当の隊長は「ワシは悪いことしたとは考ていないから良心のかしゃくもない。ワシは日本軍人としての誇りを持っている」と胸を張り、あれから二十七年たったいまも罪の意識を感じていない。

 

沖縄版アイヒマン”を捜していたのは沖縄戦からのがれて久米島に漂着した元陸軍一等兵大阪市に住むカメラマンのAさんと東京在住のサンデー毎日記者の栗田さん。所在をつきとめられたのは元日本海軍沖縄根拠地付きの電波探信隊、鹿山正兵曹長久米島守備隊長五十九歳で、現在は徳島市○○○○番地に住み、南井上農協参事、管理部長として勤めている。

 

鹿山元兵士は米軍が久米島に上陸した翌日の昭和二十年六月二十七日、日本軍陣地で久米島郵便局保守係の安里正次郎さんを殺したのを手はじめに二日後の二十九日には具志川村北原の宮城栄明さん宅で小橋川友晃区長、糸数盛保区警棒団長、比嘉カメさんの家族四人、それに城栄さんの家族三人の計九人を惨殺したうえ、家ぐるみ焼き打ちにした。

 

また村役所前で日本敗戦の放送が流された三日後の八月十八日、仲村イーフ浜で仲村渠明勇さん夫婦が二歳の幼児とともに殺され、さらに二日後の二十日、具志川村上江州と鳥島で朝鮮・釜山出身の谷川昇さん夫婦と乳児を含む五人の子供が虐殺され、いずれも家に放火された。殺害の理由はいずれも「スパイした」というものだった。

 

沖縄版アイヒマン追跡行でサンデー毎日の栗田登氏に所在を突きとめられた元兵曹長徳島市の農協事務所で久米島住民の集団虐殺について「弁明をしたいとは思いません。私は日本軍人として最高指揮官として、当時の処罰に間違いがあったとは全然思っていないからです。それが現在になって法的に、人道的に悪いといわれても、それは時代の流れとして仕方がない」と語りこのインタビューのもようは全部テープレコーダーに録音された。

 

「日本軍人として当然のことをやった」

鹿山は大陸での戦場を経て沖縄にやってきた。戦後から27年、日本軍人が戦場で「日本軍人として当然やってきたこと」とは何だったのか、この国はしっかり向きあってこなかったから、こういう発言が平然と出る。

さらに「なにしろ、ワシの部下は三十四人、島民は一万人もおりましたからね。民が向こう側(米軍側)にいってしまってはひとたまりもない。だから、島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするためにも断固たる処置が必要だった。民を掌握するためにワシはやったのです」と説明する。

 

部隊の常とう手段だった「みな殺しにして放火」したことについて「あれは家と一緒に火葬にしてやった。あとかたずけするように村長に命令した。安里電信保守係の処刑は私自身が短銃で一発撃って、一発では苦しむから両側から銃剣で突かせた」と少しも悪びれた様子はなく虐殺のもようを平気で語る。

 

このように、久米島での集団虐殺について平然と犯行を全面的に認めた鹿山元兵曹長は「いまは戦争を罪悪視する平和な時代だからあれも犯罪と思われるかも知らんが、ワシは悪いことしたとは考えていないから、良心のかしゃくもない日本軍人として当然のことをやったのであり軍人としての誇りを持っていますよ」と胸を張り、取材した栗田記者もあきれていた。また大阪に住むカメラマンのAさんは「私は殺された仲村渠さん安里さんら久米島の人たちに助けられ、命の恩人と思っている。鹿山の行方をさがしていたのは彼の口から、ただの一ことでもいいから久米島の人たちに対し謝罪のことばを聞きたかったのだが・・・」と全く罪の意識のない鹿山元兵曹の態度にふんがいしている。

 

久米島は離島で一植民地である」

鹿山は、久米島には「食糧はかなりあった」と発言している。島では壕堀などに夜通しさんざん住民を徴発しながらも、軍刀に手をかけて住民や地元の農業協同組合を脅迫し、飯米、野菜、牛豚鶏肉鶏卵に至るまで供出させた。住民は避難壕で餓死者まで出ているというのにである。農協を軍刀で脅した鹿山が、戦後、地元徳山市の農協の参事をやっていたというのも因果な話である。

鹿山元兵曹長は昭和二十年五月、少尉に昇進しているが、久米島の印象について「島は小さかったが、食糧はかなりあった。ことばは琉球語であるが、日本の教育を受けているので不自由しなかった。那覇は知らんが久米島は離島で一植民地である」と語っている。

 

最後に「沖縄に行きたいか」との間に「とんでもない。二度と沖縄へは行かない。いい思い出はないからだ」とハキ捨てるようにいったという。

 

「ワシはいまも良心のかしゃくをおぼえない」と語る鹿山元兵曹長

 

1972年5月28日「ワシは日本軍人としての誇りがある」

「日本の国土防衛の為」というエゴ

1972年5月28日、琉球新報

鹿山は、「日本の国土防衛の為」といって、第32軍の司令部消滅の後に10人を虐殺、「玉音放送」の後にすら10人を虐殺し、その後も住民虐殺の名簿を作っていた。国土亡命も何も、戦争は終わっているのに、ただただ自分の保身のため、「住民を掌握するため」に、住民を惨殺し続けたのだ。

まずこの記事を読むにあたって、一か月前の本土メディア記事「第二弾 鹿山正『私の信念はお国の為であった』( サンデー毎日 1972年4月23日)」と比較しながら読んでみてもらいたい。いかに鹿山が本土メディアと沖縄メディアで180度態度を変えているか、本土メディアでの殊勝な態度と沖縄メディアへの不遜な態度を比較しながら再読していただきたいと思う。

問い 久米島住民虐殺のあなたの言動について沖縄現地、とくに久米島の人たちが憤慨しているが。

答え どういう点を怒っているかということが問題ですね。

 

問い 二○日発売の『サンデー毎日』(四月二日号)を見たか。

答え 私とのインタビュー記事についてはその通りいったし、問題はない。

 

問い 反省していないのか。

答え 戦争中に取った行動に対しては当時の最高指揮官※ として、その時点において最善を払った。弁明は一切しないし、全部責任を持つ。

※ 最高指揮官ではなく、兵曹長である。

問い 住民を殺害した後、家に放火したことについてあなたは "火葬" したといっているが説明してほしい。

答え ああ、家ごと火をつけたことですが。まあ、それは、それは火葬ということでしょうな。正式には火葬という意味ではないでしょうがね。戦争中に家ごと焼き払ったということでしょうね。

問い 殺害したあとは、ほとんど家に火をつけているが。

答え 火をつけたのは北原だけだ。二七年前のことなので正確には記憶がない。

 

問い 良心の責め苦もないのか。

答え 良心の責め苦といってもね。いまの時代に考えればいろいろあるでしょうが当時の指揮官としての立場から最善を尽くしたこと、それに対していま時代が変わって、あれこれといわれても言を左右するということは日本の軍人としてはとらない。ワシは日本軍人としての誇りがある。(引用者注:太字部分は原文傍点)

 

問い スパイ容疑での処刑はどのような証拠に基づいて実行したか。

答え その時の状況は各部落とか村とか警防団からの情報を総合して処刑した。また、日本の国土防衛の点から考えてやった。

 

問い スパイと見たら、すぐ処刑したのか。

答え それまでには相当な日時があるし、島の人からあれはこうだ、これはああだという情報の注進があり、その情報が主になっている。ワシが勝手に独断的にやったものではない。

問い 処刑には軍法会議などの手続きが必要ではないか。容疑者のいい分は聞かなかったのか。

答え われわれの部隊は少人数で大部隊のように軍法会議を開いてそういう細ごまとした配慮をするヒマはなかった。

 

「地元に感謝されていた」という修正主義の言説

日本の戦争責任は、「地元に感謝されていた」、戦争で沖縄が「日本のために犠牲となったことが繁栄の下積み」になっている、などという、戦後日本の戦友会などを中心として広まった歴史修正主義が鹿山の言説にもみられる。戦争責任を追及することは、日本のために戦い死んだ「英雄」を冒涜する行為だという理屈で、戦争に向き合ってこなかった日本。

問い あなたは当時、久米島の人たちから大変恐れられたというが。

答え 部隊の中には久米島出身の下士官や兵がいたが島に残っておれば、その人たちにもインタービューをしたらよくわかると思う。われわれは部落の田植えなどを手伝い感謝されたこともある。ワシの判断ではアメリカの軍政下というか、アメリカの勢力範囲にある現在の沖縄では日本に協力した人たちが下積みになっていることが問題だと思う。

住民に慕われていた兵は、鹿山に斬り込みを命じられ、あげくに鹿山隊によって惨殺されている。

問い スパイ容疑と家に放火したことについて、もう少し説明してほしい。

答え それはスパイの巣くつというか、根拠地ということですね。その家でスパイ行為の謀議が行われたということで、その家を焼き払ってしまえということですね。

 

問い もう一度聞くが良心の責め苦はないのか。

答え いまさら良心の責め苦といってもワシはいいたくない。

問い 殺害された人たちに謝罪する気持ちはないのか。

答え 日本の軍人として取った行動であって、それが謝罪して元にかえるものでもない。あやまったからどうなんだというような立場は取らない。極端にいえば広島、長崎に原爆を落としたアメリカの最高指揮官または大統領がすまなかったとあやまればそれでことが済むかということと同じだ。日本国民として対米戦争に参加して命をマトに、もちろん生きて帰る予定でなくて、こういうことが起こったことにあやまるということは日本の極東防衛のために散った人たちに対して、ひとつの冒とくになると思う。

 

本土のメディアと沖縄のメディアで異なる対応

さて、上の点について、参照してほしいのは、一か月前の本土のサンデー毎日第二弾 (1972年4月23日) 「謝罪文」手記では「私が本当に心からあやまっていることが伝わってゐない」「深くおわびを申上げます」「云ひあらわせない心の痛みの中に生きつづけております」と謝罪文を書いている *1。全国放送でのテレビ対決でも、鹿山は終始、何の反論もせず、しおらしくしていたという。

 

しかし、一か月後、肝心の沖縄のメディアに対して謝罪は一切なく、相変わらず傲慢にも「ワシは日本軍人としての誇りがある」と言い放つ。

 

本土のメディアと沖縄のメディアで対応を分け沖縄のメディアと沖縄人に対しては謝罪もない傲慢な態度を取り続けている。ここに鹿山の本質がある。

 

問い 沖縄現地の自衛隊反対についてどう思うか。

答え 日本、日本人が虐殺をやったり、いろいろやったりしたからそれで反対だということでしょうね。それに米軍がおっても同じことですし、米軍自体が沖縄で戦争をして日本をやっつけた。沖縄の人たちも痛めつけられておりますね。米軍がおってあまり反対しないのに日本が行って特別な反対があるというのは少しおかしな話ですね。

 

本土メディアの鹿山「謝罪文」手記との文体の違いに留意してほしい。

琉球新報に対しての発言に至っては、鹿山がまったく米軍占領下の沖縄のことに関心もなく、知りもしないことに驚かされる。このように、鹿山は、自分以外の事象にはほとんど興味がなく、ゆえに沖縄の怒りの背景がまったく理解できない。こうした人間が、逆にサンデー毎日スクープ第二弾のような巧妙で政治的配慮の行き届いた「謝罪文」手記を書くことができるだろうか。鹿山の「謝罪文」を書かせた/書いた圧力とはどのようなものだったのか。

 

この時期、日本でスキャンダル的に注目された久米島の鹿山事件は、戦争責任に向き合うことがないままの、沖縄抜きの日米間の「沖縄返還協定」、米軍基地が返還されるどころか「返還」という名のもとで詐欺的に自衛隊に移管されるだけの「自衛隊移駐問題」にリンクした問題であり、国会でも何度か議題となっているほどであった。

 

日本の植民地主義に向きあうことができない日本の姿。

お国の為にやった、ワシは日本軍としての誇りがある、日本軍人として当然のことをやった、と豪語する鹿山が、どのように女性や子供や老人を容赦なく惨殺し、16歳の少女を襲って囲いこみ連れまわして妊娠させたか、翌月1972年6月のサンデー毎日スクープ第三弾も併せ、ご覧ください。

 

 

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*1:サンデー毎日第二弾記事の「手記」には、沖縄返還協定と自衛隊移駐問題への鹿山事件の悪影響をおそれた側の、なんらかの「制作」や「校正」が入っている可能性もある。