「現地妻が告白する『沖縄の怨』」『サンデー毎日』(1972年6月4日) を再読する

 

鹿山はどこからやってきたのか

16歳の彼女は「現地妻」ではなく、被害者だ

1945年の沖縄戦当時、久米島には海軍の電波基地が建設され、鹿山正隊長 (兵曹長) と30人ほどの鹿山隊がいた。米軍の上陸作戦から外れ、本来であれば戦闘からほど遠い場所にありながら、この島で鹿山隊は乳幼児を含む20人もの住民を虐殺している。しかも事件のどれもが、6月23日の沖縄戦組織的戦闘の終結、そして8月15日の玉音放送終戦」後に連続しておこっているのである。

 

それから27年後、日本の週刊誌が「沖縄のソンミ事件」としてセンセーショナルに鹿山事件をとりあげる。

NHK ドキュメンタリー「沖縄 久米島の戦争」

 

子どもまで一人残らず皆殺しにし、家に火をつけて焼く。気に入った女を見つけ出してきて暴行する。その「様式」は、鹿山が大陸で、つまり満州事変と支那事変とを経て大陸でつちかってきた経験であり、それが彼が「日本軍人として当然のことをやった」という実態であった。

 

一点だけ注意する点がある。この記事では、当時16歳で鹿山隊長に暴力を受け、山中に連れ込まれたSさんを「現地妻」として語るが、これは実際大きな間違いである。

 

陸軍中野学校出身の離島残置工作員の場合は教員として身分を偽り、地元の有力者の娘と結婚して島に足場を築くことまで指令された。久米島の離島残置工作員上原敏夫(本名:竹川実)も、村長の娘と「結婚」。むろん、作戦上の偽装結婚であり、女性はそのために騙され利用された。しかし、それは少なくとも「結婚」という形をとっており、相手の女性はその意味で「現地妻」といえるかもしれない。

 

が、鹿山の場合は違う。未成年の16歳の少女を「徴発」し、暴行して山中に連れ込み、壕に幽閉し、そして挙句に切り捨てたのである。法律上は少なくとも「未成年者略取と強姦罪といえるもので、少女はその犠牲者であったにもかかわらず、「虐殺者」の「現地妻」として烙印を押され、戦後は母子ともに平穏に生活する場所すら奪われた。

 

サンデー毎日』スクープ第三弾の記事は、しかしながら80年もたった今となっては、じっさいにそのとき何が起こったのか、記者が日付を確認しながら追っている点で、しっかりとした記録になっている。鹿山の暴力性がどんな心理で動き、何をしたのかを明らかにする、実に貴重な記録である。

 

「現地妻が告白する『沖縄の怨』」『サンデー毎日』(1972年6月4日) 

どのように少女は軍に「徴発」されたのか

16歳の少女は、鹿山の目につき、「指揮官付で働いてもらう」と鹿山の部下三人が少女を連れにやってくる。行かなかったら再度呼びにくる。しかし、暴行され、「虐殺者」の子を産むことになるとは、親も想像だにできなかったに違いない。軍隊は、皇軍とよばれていたのだ。

 鹿山隊長の"現地妻"は生きていた。

 沖縄本島から西へ約百キロの久米島で、終戦をはさんで演じられた虐殺の指揮をとった鹿山正・元兵曹長に"徴発"された少女は、いま四十三歳になり、那覇市の近くのバー街で、小さい料理店のおかみさんになっていた。  

 虐殺事件から本土復帰までの長い歳月、S子さんの身の上には、なにか、虐殺の呪いのようなものさえ感じられた。

 

おびえが走った

 アゲハチョウが、店先に舞っていた。

 

 那覇市に近いバー街である。S子さんが営む小料理店は、そのはずれにあった。琉球カワラでふいた小さい家。しもたやにしか見えないその店を、ようやくたずねあてることができたのは、まだ宵の口だった。

 

 バー街は閑散としていた。ネオンにも灯がはいっていない。そこらじゅうに張られた新「沖縄県」の県議選ポスターだけが、やたらに目についた。

 

 小料理店の勝手口からはいると、青いワンピース姿のおかみさんが出てきた。それが鹿山の現地妻だったS子さんであった。髪を短くして、シャキッとした顔立ち。小柄な美人であった。

 

 来訪者がジャーナリストと知って、S子さんの目におびえが走った。

 

 彼女にとって「戦後」とは、消そうとしても消えない過去を背負って、転々と居を変えた生活である。しかも久米島での虐殺事件が明るみに出てからというもの「鹿山許すまじ」の声が、沖縄でははげしく、盛上がっている。そんなとき鹿山との関係を知られたら……彼女がたつきにしている小料理店は、まして客相手の商売だ。しかし……。

 

「でも……、でもよ。私にも、言いたいことはあるわけさあ」

 やがてSさんは、住所と実名を明らかにしないことを条件にして、過去を語ることに同意した。

 

 16歳の島乙女

久米島の具志川にある女学校を出てから、看護婦になろうと思って、那覇の日赤病院で見習いしていたさ。それが昭和十九年十月十日の大空襲にあって、久米島に帰ったわけさ」

 

 米軍の上陸が迫っていた。女学生は看護婦として軍を助けるよう要請されたし、また、そういわれなくても看護婦を志した当時の彼女たちだった。

 

「私の家は、具志川村鳥島から山に上る道のそばにあってさ、山にいた日本兵が村に上り下りするときに、私という"島の娘"を見つけたんじやないかね。二十年の四月か五月ごろでしたよ。

 

 鹿山の部下が三人連れでやって来て、『指揮官付で働いてもらうから山に上れ』というわけさ。当時は家で手伝いしているだけだったけど、なんかしら山に上るのはいやだったね。行かないでいたら、数日してまた呼びに来たさね。どうにも仕方なくて、行くほかなかったわけさ。なんにも知らずによ」

 

 このとき、S子さんは十六歳だった。

 

 兵隊がよく通る道のそばに、たまたま住んでいたのだ。"徴発"された理由はそれだけである。あえてつけ加えるなら、幸か不幸か人目をひく少女だったということ。

 

 もし彼女が那覇空襲後に久米島に帰らなかったら、どうなっていただろうか? 沖縄本島に残った看護婦見習いの同級生たちは、ほとんどが沖縄戦に巻込まれて戦死した。去るも地獄、残るも地獄だったわけである。どっちにしてもS子さんの未来は閉ざされていた。なかば強制的に久米島の山中に連れ込まれたとき、彼女の青春もまた破滅への旅立ちをしたのである。

 

6月26日、久米島上陸と鹿山の暴走

電波探信隊の鹿山隊は、小禄の海軍司令部も摩文仁の第32軍司令部壕に関しても、ほぼ戦況を理解できる立場にあったと考えられる。

時系列を見ていくと、6月26日の米軍上陸の夜に少女を暴行。翌27日郵便局員の安里正次郎を惨殺。28日には米軍と戦うことなく山に撤退。29日には区長や警防班長および宮城一家と比嘉一家、九人の虐殺を行っている。これを、臆病な鹿山が米軍上陸で混乱し暴走したとみる見方もあるかもしれないが、そうではないだろう。米軍の上陸で、それまで一応は内地であった沖縄が、米軍上陸によって外地となり、倫理的に制御していたものが一気にたがが外れた。針金で縛り、日本刀で切り刻み、一家皆殺しして火をつけ、火葬してやったと平然と語る。「植民地」での「民を掌握する」やりかたが一気に舞いもどってきたということだろう。これが日本の軍がやってきたことだった。

米軍上陸の夜

「山で、初めて鹿山に会ったわけさ。はじめは話をかわすこともなく、身のまわりの世話だけだったた。洗濯をしたり、足を洗わせられたり。しばらくして月給くれたさ。

 

三円だったかね、札を三枚もらったの覚えているさあ。報酬もらっのは、あとにも先にもこれだけよ。

 

  米軍が上陸する前は、鹿山は、私になんも悪いことしなかったさ。村の料亭に遊びに行ったり、料亭から玄人の女を連れて釆たりしていたようよ。

 

 悪いことされたのは、米軍が久米島に上陸した晩だったね。隣に、玄人の女性がいたことも覚えているさあ。

 

 日本軍がそれまでいた小屋にガソリンかけて、山のずっと奥に逃げたのは、米軍上陸から三日ぐらいたってからだったかね。逃げるとき、男ばかりの中で女は私一人だったさあ。こわくなかったかって? 自分の耳をかすめて米軍の弾がビュウビュウ飛んでいて、もう、夢中だったさ。こわいというより、玉砕してお国のためになるならと、いまにして思えば、きれいな気持だったね。着のみ着のままで、しょっちゅう、起きていたみたいよ」

 

子供ができた

 米軍の久米島上陸は6月26日である。沖縄本島を守っていた日本軍の司令官、牛島中将が、摩文仁丘で自決(6月23日)し、本島では組織的な戦闘が終わったあとだった。仲里村銭田海岸へ、米兵千人は無血上陸をした。四十人ほどの鹿山隊はなんの抵抗もできなかった。


 翌27日、第一号の犠牲者が島民のなかから出た。久米島郵便局員の安里正次郎さんだ。加害者は、米軍ではない。鹿山隊長みずから、スパイの容疑があるといって安里さんを射殺したのだ。S子さんが現地妻にさせられた翌日のことである。

 

「三回ぐらい家に帰されたことあったね。でも、すぐに呼戻しに来たさ。いまぐらいなものの考え方だったら、私も抵抗しただろうけど、年も年だったしね。なんもわからんさあ。

 

 島で起きたこと(鹿山兵曹長の指揮による連続虐殺)は、まるで知らされなかったさ。日本軍より一足先に私は山を降りたけど、日本軍が降伏し、全員が"アメリカ ー"に連れて行かれるまで、母も心配して私になんもいわなかったさあ、あとで事件を知らされて、私は自分自身を責め始めたわけよ」

 

 鹿山隊の降伏は、昭和20年9月1日だった。それまでに、終戦というのに、8月18日には、久米島を米軍の艦砲射撃から救ったといわれる仲村渠(なかんだかり)明勇さん一家三人を、一日おいて8月20日には朝鮮人谷川昇さん一家七一人を虐殺するなど、鹿山隊は直接虐殺だけで二十人の島民を死に追いやっていた。

 

「(兵隊が)みんな引揚げてから、子供ができたこと、気がついたわけさあ。そりゃあね、相手は私を行きずりの女としてみたにすぎなかったんでしょう。だけどね、本当にものを知る人間であれぱね、安否を問う手紙くらいあってもいいでしょ。

 

 子供できたの相手は知ってんのかねえ、知らないのかねえと思いながら、私のほうは自分を責めていたんさあ。

 

 よその人に姿見られるの恥ずかしくて、外にも出なかった。台所で炊事していたときに、よその人が来たりすると、すっと奥に隠れて、一人で泣いていたさ。両親は、私が自殺しやしないか心配して、家族みんな暗い気持でいたさあ。私自身はすっかり孤独になって……」

 

苦しみぬいた戦後

二重三重の苦しみ。わずか十六歳の少女で、被害者である彼女が、住む土地すらを奪われ、どれだけ母子が貧困と心なき疎外に苦しみぬいたか。

結婚にも破れ

 21年3月、女児を生んだ。S子さんは17歳の母親になった。家は貧しい島の農家である。人目を避けながら、なれない育児にせいいっぱいの毎日だった。

 

 22年、親のすすめで結婚した。夫は長兄の戦友で、同じ久米島の人だった。もちろん、鹿山とのことは知ってのうえのことである。この夫とのあいだには二男一女が生まれた。

 

 昭和31年、だが、夫は急性肺炎で死んだ。鹿山隊長との私生児一人を含めて四人の子供を抱えたS子さんに、再び生活苦が襲った。それは同時に偏見の中で孤独とたたかう日々でもあった。

 

 久米島の人々は、彼女とあの鹿山隊長との仲を知っている。ふるさとは針のムシロだった。

 

「鹿山とのことで自分がイヤになって、ほんとうは結婚する気なんて全然なかったのよ。結婚してからも、相手に悪いと思ったさ。過去が過去なのでシュウトメともうまくいかなかったし、私もいいヨメではなかったんじゃないかね。鹿山との子が小学校にあがるようになってから、また自分を責めたさ。

 

 本島の糸満に姉さんをたよって行って、スクラップ業をやったこともあったさ。そのうち、夫も死んでしまって……実家は貧乏していたし、だれにもたよれず、那覇のある人の二号さんになったわけさあ」

 

 糸満から久米島に引揚げたS子さんは、仲里村で小さな旅館を開業する。長女はいつのまにか鹿山隊長の子であることを、近所の人から知らされていたらしい。

 

「さいわい、ひねくれもせず育ってくれてね。気の強いいい娘になったさ。それが旅館によくくる人と結婚するといい出したわけよ。心配だったけど、本人同士みんな知合ってのことだと思ったさ。してからに結婚して、予供もできたさ。けど、やっぱり鹿山のことで、うまくいかなかったわけよ。

 

 こんなことあったさね。娘と私の前で、ムコが孫をはたいたさ。私が注意したら、そいつがいったよ。自分の過去をタナに上げて文句いえるガラかって。結局、娘も離婚してしまったさあ。私たち母娘は、人並みの結婚は、やはりできなかったわけよ」

 

故郷に住めず

 一家は過去に追われるように仲里村を捨て、那覇市に移り住んだ。離婚した娘は、借金してサロンを開いた。S子さんは再び小さな旅館業。まもなくS子さんは末の娘だけを連れて現在地に移った。旅館はやめて、こんどは小料理店にした。

 

「一度、偶然に久米島の人が客できて、おおぜいの客がいる前で『あんた、鹿山のあんときの女じゃなかったかね』って聞かれたさ。びっくりして『いや、私みたいな顔の人、たくさんいるさあ。ひと違いじゃないかね』って急場をしのいだわけさ。胸の中じゃ、なんて心ないことをいう人だと煮えくりかえる思いだったけど、無理して笑っていたさ。恥かかされながら顔で笑ってさ」

 

1972年、久米島事件の注目の中で

女性の側は過去に追われ苦しみぬく一方で、鹿山は、復員し、地元の農協幹部になっていた。そして過去になんの罪意識もなかった。

 三月末いらい「久米島事件」に向けて爆発した沖縄の世論。事件を思い出したくなかったS子さんも考え込んでしまったという。連続虐殺の事実を突きつけられても、鹿山兵曹長「良心の呵責はない。日本軍人としての誇りを持っている」という。S子さん、この開き直りには人一倍ショックを受けた。

 

「あんな大げさなことよく言えるねと思ってさ。私たちばかりやるせない気持で、生きることに懸命になってるのに

 

 自分がみじめに思えて、私は毎日泣いていたさ。それを末の娘が見て心配して、ねえねえに電話したらしいさ。末の娘は、長女のこと、ねえねえって呼んでいたわけさ。私も覚悟を決めたさ。末の娘と二人きりのとき、思い切っていったのさ。『新聞に出ている鹿山は、ねえねえの父さんよ』。せつなかったさあ。けれど末の娘は、逆に私を励ましてくれたさ。過去は過去じゃないのって」

 

 末の娘はいま十八歳になる。事故で半身不随だということである。その上の兄弟二人は、すでに独立した。弟のほうは、集団就職で東京へ行っている。

 

 S子さんは、長いあいだ自分の子供たちにも、自分とねえねえの過去を明かすことができないでいたのだ。

 

「ねえねえはねえねえで、自分の子供、私にとって孫にあたる子の心配をしているわけさ。鹿山の孫だっでいうんで、私たち母子みたいにさびしい思いするんじゃないかねって。私の苦しみはねへ私から娘、娘から孫へと代々続いていくわけさあ」

 

日本人は勝手さ - 戦争時代のことは無かったことにする日本

戦争のことはなかったことにしてしまう日本。しかし、なかったことにはならない。無かったことにして基地配備を進めることはできないはずだ。

日本人は勝手さ

 S子さんの店は、いま二百万円近い借金をかかえている。ねえねえも、その日の生活に追われる苦しい暮らしである。

 

「鹿山が反省してもしなくても、私たちの苦労は変わらないさ。そう思って、いまこそ鹿山から慰謝料取ろうと、徳島県の住所に一筆書いたさ。ねえねえも、末の娘も、おおいにやんなさいっていうしね。女学校時代の恩師も手紙書いてくれたけど、その先生のところにも、私のところにも、返事ひとつないわけよ」

 

 久米島で鹿山隊に虐殺された人たちの遺族は、いま遺族会をつくって、政府への慰謝料要求と新日本軍(自衛隊)の沖縄入り反対の運動を始めている。しかし、このような遺族会の声に、責任ある回答はまだなにもない

 

沖縄で勝手なことしといて、いまになって、あれは、戦争中のことだといわれたって、私たちには通じないさ。沖縄人と日本人は、やっぱり人間が違うんじゃないかね日本人も日本政府も、ウソがうまいと思うさあ。そんなところへ沖縄がなんで復帰するのかねと考えるさ」

 

 五月十五日。沖縄復帰。S子さんやねえねえ、久米島事件の遺族たちの痛みをよそに、盛大な祝典では高らかな万歳が三唱されていた。

「現地妻が告白する『沖縄の怨』」『サンデー毎日』(1972年6月4日) 

 

鹿山隊基地の現在

鹿山は、その後女性に賠償金を払い、何事もなかったように農協に提出した辞表を撤回した。本土のメディアには殊勝な態度で「謝罪した」というが、一方、沖縄のメディアには「謝罪などしない」憮然とした態度ダブスタだ。

 

お国の為とか、日本軍に誇りを持つといいつつ、外で非道の限りを尽くし、内地に帰ればすべてをなかったことにして、妻や子どもを持ち、仕事でそこそこの地位を築き、謝罪もしない。そんな「鹿山」は日本には大勢いただろうし、戦後の日本はまたそんな大勢の「鹿山」の犯罪に真摯に向きあおうともしてこなかった。

 

国会で沖縄の議員が議題に取り上げようとも、公的調査は行われず、日本という国は戦争責任にまたしても背を向けた。軍の性犯罪に関しては特に核心を避けられ、被害者である女性の側が中傷や非難の対象となったことは、従軍慰安婦問題でも同じである。この時期、まだ沖縄の施政権が移行されてもいない時期から、沖繩を甘やかすな、沖繩は過保護、沖縄を肥満児にするな、といった基地押しつけの本土の醜いエゴが飛びかう。

 

彼女の言葉は、復帰から50年たった今も響き続ける。

日本人も日本政府も、ウソがうまいと思うさあ。そんなところへ沖縄がなんで復帰するのかね

 

1972年の施政権移行後、米軍基地「返還」という名のもとに、B表だけではなくA表やC表からも多くの米軍基地がそのまま自衛隊の駐屯地に移管された。

米軍オスプレイが久米島初飛来へ 海兵隊、自衛隊分屯基地で訓練 - 琉球新報

現在、字江城城跡近くの鹿山隊の兵舎があった場所には自衛隊久米島分屯基地のレーダー基地が立つ。また久米島には米軍基地も久米島射撃場」鳥島射撃場」があり、「ちゅらさん」オープニング映像で有名な「出砂島射爆撃場」(入砂島射撃場とも) もまた久米島射撃場に隣接している。

 

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