かつて「護郷隊」とよばれた少年兵がいた - 帰ってきた少年に日本兵は「なぜ死ななかったのか」と

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16歳のゲリラ兵 第二護郷隊 瑞慶山良光さんの沖縄戦

 

日本軍は、前線で最も危険な任務に少年兵を使い、切り込み隊やゲリラ部隊として死ぬことを命じた。軍は子供であることすら利用した。

 

「なぜ死ななかったのか」

 

これが、伝令にだされ米軍に遭遇しながらも生きて帰ってきた16歳の沖縄の少年に、日本軍が放ったひと言だった。。

 

軍は言葉を変え、法をねじ伏せ、14歳から17歳の沖縄の子どもたちを名護国民学校に集め、スパイや謀略家を養成する陸軍中野学校出身者の指揮の下、少年兵のゲリラ部隊を編成した。

 

志願でないものを志願と呼び、17歳以下の少年を法をねじふせてまで狩り集めた。

 

16歳の瑞慶山さんは、日本軍の上官から、爪と髪とを切って小さな白い箱に入れるよう命じられた。「その髪と爪の入った白木の箱はこの風呂敷に包んでおきなさい、あんたがたが斬り込み終わった後はおうちに送らんといかんから」。

 

沖縄本島北部を征圧しつつあった米軍は、やんばるに点在する集落に陣地を置いた。護郷隊は、そんな米軍を奇襲攻撃するよう命じられたのだ。

 

故郷を護るという意味を持つ護郷隊だが、実際には、護郷隊は、少年たちの心と故郷をずたずたに引き裂いた。

 

 

瑞慶山 良光さん証言

NHK 戦争証言アーカイブス

【沖縄 少年たちが見た戦場】

1945年(昭和20年)4月、米軍は沖縄本島に上陸し、3か月に及ぶ地上戦が始まった。日本軍は、米軍を沖縄の島に引き込んで消耗させ、本土決戦までの時間稼ぎを図ろうとしていた。

 戦場には、沖縄の10代半ばの少年たちも送りこまれた。少年ゲリラ部隊「護郷隊」。

 16歳だった瑞慶山さんは護郷隊に召集され、10キロの火薬を抱えて戦車に体当たりする“斬り込み”を命じられた。

 

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1929年

    沖縄県国頭郡大宜味村に生まれる

    大宜味村青年学校で学ぶ

1945年

    3月1日、第2護郷隊に配属される

    7月16日、第2護郷隊は東村有銘で解散

    終戦を故郷の大宜味村上原で迎える

 

「護郷隊」へ

Q:昭和20年3月に護郷隊に召集されるわけですか?

そう、3月1日ですね。

 

Q:何か通知が来たんですか?

それは青年学校生徒のほうに。ちゃんと3月1日にはぜんぶ集まり、これは国がこういう緊迫したというニュースは何もないですけどね。ただ「集まれ」という、「集合しなさい」というから集合してみると、「これからあんたがたは国のために出発するから」「では、どこに出発する先はどこですか」ったら、「これ教えてはいけない」と言うんで。家族の人たちもみんな集まって、家族の人もみんな集まったんですけどね。家族の人も心配して「どこに連れていくんですか」「いや、これ言えない」「言われない」「教えられない」。教えなかったです。これから乗るものはない、行軍で歩いて。3月1日に出発して、10時頃出発して。名護に向かってずーっと歩きっぱなし、でもこれからどこに行くか分からんけん。ずっと歩きっぱなしで。

 

Q:ご自身はどう思っていたんですか?

僕の場合は、あの当時は軍人になって階級上がるのがとっても自分たちのいちばん大きな希望だったですからね。だから、ひょっとすると、ここで訓練したら、陸軍志願したり、また下士官志願したり、またこういう学校に行って階級上がるかもしらんなって、そう喜んでいたんですよ。

 

Q:実際に護郷隊だということを知らされたのはいつの段階ですか?

それは行った時期からですね、3月1日から、「あんたがた第2護郷隊だよ」と。

 

Q:護郷隊ということを知らされた時はどう思いました?

これも名誉だと思って、ああ、これはよかったね、青年学校行ってよかったんじゃない。ほかの人は海軍志願したりいろいろやっていましたが、私たちは直接護郷隊つうから。そこで沖縄で訓練受けて、また上官の人たちが親戚の上官たちが「護郷隊にいる間に下士官候補生の志願受けて合格すればすぐ伍長になるよ」って。だいぶ励ましよったんですけど。こういう……大きな喜びを持っていたんですよ。それが喜びどころか、あと死刑宣告と同じく。爆薬……戦線飛び込みなさいと言いますからね。大きな希望が死刑宣告になってしまったわけ、1か月で。死刑宣告受けたのが3月28日頃ですが、死刑とは言わないけども、斬り込み隊要員だから。ちゃんと遺骨…に、小さな白い箱に、爪と髪の毛と切って、そこで箱に収めさせて。うちから持ってきた自分の私服はきれいに洗濯してちゃんと畳んでふろしきに包んで。「その髪と爪の入った白木の箱はこの風呂敷に包んでおきなさい、あんたがたが斬り込み終わった後はおうちに送らんといかんから」そういう命令まで受けています。

 

Q:斬り込みというのはどんなことをするんですか?

斬り込みの訓練は、第1の訓練はほふく前進ですね。立って歩かないですから。横に、眠っていて歩くんですからね、こうして。こっちにマメができるほど歩かせますよ。

 

そのほかには爆薬作ったりですね。黄色い硫黄……があるんです。直径2センチぐらいあるかな。工事場用の黄色(火)薬ですよ、バンと石割るのがあるじゃないですか工事用の。あれを10キロを箱に、板作りの箱に詰めるんですよ。20個くらい、10キロ詰めるんですよ。それに導火線を付けて。導火線に火をつけたら、導火線に1センチ1秒ですかな、ピンピンピンピン燃えていく。これに距離決めておいて火つけて吹っ飛ぶ。いわば戦車と一緒に人間まで吹っ飛ぶわけです。自分がもう爆雷になっている、弾になっていますよ。まったく特攻隊ですよ。

 

あの当時、部隊から60名選ばれて、3名1組ですから、20組、爆薬の箱20箱……。これに60名の人が、3名ずつで1個ずつ。1人は背負う役目。1人は銃を持って警戒する役目。1人は後ろから火つける役目、導火線。3名一緒で吹っ飛ぶわけ。(爆弾)三勇士ですね、昔の。ちょうど三勇士とおんなじ。これが4月2日に命令されて、『海ゆかば』も歌って。それから部隊の陣地の前で『海ゆかば』歌って、それから恩賜のタバコ吸わされて。みんなタバコ吸わないけどみんな必ず「吸いなさい」って言って。でまた水杯って、杯で水飲まされて。

 

敵の戦車が30台ぐらい集まったという情報があったもんだから、そこに斬り込み隊私たちも行ったんですけどね。

 

あのときは、怖いとかそういうものは感じないわけですね。ただ、日本は勝つから、勝ち戦するから、といって、死ぬとは思わないんでないかな。

弾当たって、苦しんで死ぬわけではないからとは思っていた。いっぺんに吹っ飛ぶから、あっという間に分かんないうちに亡くなるから。別に苦しむわけではないから。ただ生まれなかったと思ったらこれでいいんじゃないかと。しかしながら、うちのお父さんお母さんが悲しむだろうなとはいつも思いよったですね。行く前にはね。

 

「なぜ死ななかったのか」

これ、斥候に出た時の。これ描いている。

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こっちから25メートルぐらいですね、距離にしてね。手りゅう弾すぐ軽く投げたら届きます。こっちの水たまりに僕が入っているんですよね。これ黒人兵ですよね。これ4月4日ですからね、4月4日の3時頃ね、上陸して4日目。この山が、こっちから東海岸は伊芸ですよ。伊芸。屋嘉の次ですね。

 

これたちは移動して行くところ。ぼくはそこに斥候で、これたちはこれが、守っていますからね、飛行機。これで怖くないです。だから安心しすぎて僕を見失ったわけですよ。彼らも安心感やってるから、ぼんやりやっているわけですよ。だから僕は見えない。

 

平良上等兵と真栄田一等兵と僕と3名で斥候によこされましたもんでね。そこまでは3名この道を通ってですね、この谷間を通ってですね、こっちに。こっちまで3名一緒に来たんですよ。この上の正規の兵隊の、大人の兵隊の2人は防空壕(ごう)の中に隠れたんです、防空壕の中に入って。僕は入れないから、防空壕が小さくて。外に立っていたら、「よし、瑞慶山二等兵は伝令行ってこい。本陣まで陣地まで行って、『敵兵はまだ前兼久の部落に来ていません』と報告してこい」言うから。私は、「僕は道分かりませんよ」ったら、「貴様、軍隊にも戦にも道があるかこの野郎!」ってビンタ打たれてですね、「行ってこい!」って。

 

「はい」って、こっちから、小さな川がありまして、せせらぎの川、川伝いに行って、こっちまでこの川のそこまで。この人たちはまたこっちから来たでしょ、この人たちと別れて15分ぐらい行って、だいたい400メートルぐらい歩いたなと思ったら。声が聞こえたんですよね。こっちから25メートルくらいしか離れていないですからね。ありゃあこれは沖縄の人の声じゃない、不思議な声だがな、こりゃ大変なことになったと思って。……立っていたら震え気味になってしまって。銃が、鉄砲が手から離れて落ちたもんだから、ありゃ、下見たら、水たまりに落っこちたんですよ。あれ、こっち水たまりがあるぞって。よし、こっちに入ろうって、水たまりにうずくまったんです。うずくまったらこう丸くなったら全体がうずくまるから。うずくまっていたら、こっちからだんだんだんだん登ってきて、こっちに下りようとするところへ、眺めたてみたら10名、14~15名までは頭で数えたんですけど、あとから来るのがもう意識がなくなって分かんないんですよね。そこで自殺用の手りゅう弾を持たされるんですよ。斥候兵には。捕虜に捕まった時はすぐに自分で手りゅう弾で自殺しなさいって。だからもう僕はやろうかなって思って、手りゅう弾のひもは、信管のひもは抜いて、地面に当てようと思ってやっていたんですけど、ようやくこれは我慢して、やっていたら、あれたち黒人が下りて行ったから、これはこのまま、水の中に放り落として、手りゅう弾捨てて、水からはい上がってですね。

 

歩兵部隊の日本軍のところに行ったら「陣地はあっちにあるよ」って教えられて。またそこに行ったら部隊は列を作って並んでいたんですよ。もう陣地は捨てて。また斬り込みはやめたっていうことで、斬り込みはもう行かない。恩納岳の本陣の陣地に帰るって、並んでるんだからね。で、僕は部隊長のほうに報告しに行ったんですよ。「瑞慶山二等兵、伝令の報告します」って。「お前は戦死という報告来てる、どうして生きたのか?」と言う。「水に隠れて生きてきました」

 

「なぜ帰ってきたか」と言われましたよ。「手りゅう弾持って行ったんじゃないの」って言ったんですよ。アメリカ、「米軍と、30名ぐらいと遭遇しました」と言ったら、「なぜ死ななかった、なぜ帰ってきたのか」、「死ななかったか」と言うのと同じじゃないですか。アメリカにまた投げたらよかったんじゃないかとか。軍人としての勇気のある技をしなかったのかと。軍人はそういうふうにしているわけでしょ。手りゅう弾持ってしているから。どっちかといったら、これでアメリカに(手りゅう弾)投げて自分は…、まあ一緒に爆発しなさいという意味です。アメリカのところに走って行って、手りゅう弾爆発させて一緒に死になさいという意味。「なぜ死ななかったか」言う、「なぜ帰ってきたか」言うから。僕は「水に隠れて帰ってきました」。こういうのは普通喜ぶんですよ。喜ばないわけです、部隊長は。「貴様」と言ったわけ。こんなバカな話があるか、なぜお前死なないのと言わんばかり。

 

負傷

最初、恩納岳の陣地出てですね、4月12日の、夜中ですね。恩納岳陣地出発して、金武の小学校にアメリカの司令部があるということで、本部があるということで、そこへ攻撃する目的というのはその辺に置かれている戦車とか装甲車とかそういうものを爆破する。そういう目的と言っていましたがね。

 

あんまり言葉が出せないものだから、敵に包囲されていますからね。そうすると、後の方に、ひも、バンドに帯革に、バンドひっかけ、それをつかまえて前に歩きよったんですよ。日本の将校たちが…あの人たちは将校だ、僕のうしろに付いてるの、引っ張るものですからね、また僕も山城伍長という人の、後ろの、自然に引っ張られているわけよ、連動でね。山城(伍長)が「貴様!なぜ引っ張るか」って顔ぶん殴られたんですよ。右のほっぺたバンバン。だったら中隊長が、また少し前に行ってから、松崎少尉が「待て」、待たされて。そして中隊長は前に行きよったんですよ。前に行ったら、すぐ、何かイノシシか分からんけど、グウグウグウグウして、音立てていたんですよね。あれ、これがいるとまた照明弾が上がるぞと中隊長は思ったと言いましたがね。そこへ行ったらすぐ中隊長が日本刀を、言い分はこう言ってましたよ、振り上げた同時に木の枝に引っかかって、まっすぐ落としたもんだから、サーっと落ちてですね、この眠っていたイノシシか動物の上に落ちたもんだから、この動物はびっくりして、バーッと風を切って、竹やぶの中をまっしぐらに逃げていったんですよ。照明弾がババババーと上がった。そうすると……回ってるんですがね、もう動けないんですよ。そのいる場所にそのまま伏せてしまったら、すぐ手りゅう弾が僕たちの3名並んでる列のすぐ前、5メートルぐらい前で落下して爆発して、バーン、その爆風と破片で、僕はこっちやられて。僕の前に並んでいた人もモモを破片で擦られて。僕と2人も、伍長と僕と2人負傷したんですよ。松崎隊長は負傷してないけどね。2人負傷したもんだから斬り込みは中止、もうやめ、ストップ、やめさせたんですよ。そういうふうな状態で。僕は帰りました、ヨシヤマ軍曹に連れられて。いちばん最初の負傷者が僕だったんですよ。陸軍隊の軍医がちゃんと見て、治療して、「こっちも唾液腺が切られているから、戦争が落ち着いたら、福岡の陸軍病院でつなぐようにできるから心配はあまりしないで養生しなさい。そのかわり、出陣免除という証明書を陸軍大尉が書いてあげる、これを大事にして持っておきなさい、命令が来てこれ見せたらね、行かなくてもいいから」そういうことで、あれから戦闘に出なくて済んだわけです。

 

これですよ。ここから…こうして破片が当たるとき、口が開いたんじゃないですか? だからもしこれがこの下顎か上顎だったらもう生きていなかったと思いますよ。骨ではなくて、皮膚だけ破ったわけ。皮膚だけ破って、歯で食いしめて、歯が食い止めたから外には出なかったわけ。外に出ていたら大きく口が破れよったんですよ。貫通したら。歯で食い止めた。歯が4本折れていますよね。でも、ケガ受けた時は最初はあんまり痛くなかったけれども、夕方から熱が40度ぐらい熱上がったよ。あまりに痛くてね。麻酔も打ってないですからね。麻酔打たなかったと思いますね。

 

包囲された恩納岳

これ恩納岳です。山です。ずっともう密林です。(部隊本部や病院は)ジャングルの中に掘立小屋みたいの作っているんですよ。

 

Q:山のどのあたりですか?

中腹よりは少し奥でしょうね、中腹より下かな、真ん中より少し下かもしらんね。山は深かったですから。上なんかは10尺、12尺くらい、……4メートルぐらい、枝伸ばしていますからね、空のほうに。だからこっち焼こうとしても焼かれないわけです、この山は。それで部隊長はよく考えていたと思いますよ。こうしたら弾が飛んでくるでしょ、ピシュピシュピシュ、木に当たるんですよ。たら、あっちに、こっちから来たらこっちに隠れる、こっちから来たらこっちに…すると、これで鬼ごっこみたいにして、弾が来たら…、穴に入らないんです。みんな横のほうから。どうしてもアメリカは300メートルぐらいからしか、自動短銃ですからね、15発出る。……だから接近ではなかったです。これ軍用犬ですよね。いつも病院のところからうろつくんですよね。

そこでまた私、手伝いやったんですよね。

 

運搬したりいろいろやったですよ。僕たちはみんな手伝いですよ。女の看護婦は1人もいませんでしたから。みんな少年兵、僕ら護郷隊たちだけ。内地の兵隊なんかあんまりもうやろうとする気がないんですよね、元気がないんですよ。

 

Q:軍医はいたんですか?

軍医はいたですよ、ピストル持って。軍医の立ち会いのもとでみんな。軍医が指揮やってるんです。軍医の指図のもとで、運んだり、埋めたり。「これ埋めなさい」「これはまだよ、看病しなさい」軍医が指示するんです。3~4名いたんです。1人だけ絵に描いたんです。描くのが面倒だから。

 

Q:恩納岳ではそうとうケガ人が出たんですか?

もうすごいですよ、あちこちからの敗残兵がみんな恩納岳にかたまってきましたからね。病気で死ぬ人もおるし、弾に当たって死ぬ人も、あちこちから負傷兵みんな恩納岳に集まっています。これだけ山が深いからね、隠れる場所がいいと。情報聞いてるでしょ。

 

Q:負傷兵は何人ぐらい見ました?

多い時にはもう14~15名ぐらいずっと並んでいるんじゃないですか。水、水、水、水叫んでいますからね。水を飲ませろったって軍医がそばに立って見ているから、だれも飲まさんわけ。飲ませるとすぐ死ぬよ、まあ出血多量でね、すぐ死ぬから。

 

Q:ここで瑞慶山さんはどこにいますか?

僕はこっちに置かれている時はですね、僕は運搬の班には入っていない。僕は埋葬するための穴掘りです。スコップで穴を掘っていた、埋葬のため、準備。2尺、60センチぐらい掘らんと埋められないんですよ。掘る暇がないんですよ。すぐ弾が飛んで爆発しますから、そばで。また破片に当たりますから。たくさん掘らんでも、頭ぐらい隠れるのですぐ埋めて、また明日来て埋めたり。ほんなして完全に埋めたんですけど。

 

Q:死体を埋めている時はどんな気持ちなんですか?

いやもうこれは、自分たちも、自分もそうなるんだけどな、これはまた戦友がやってくれるからね、お互いだからねと思える。自分たちも……、ハエにウジに食われるよりは穴に埋めたほうが楽でないかなと思うんです。

戦争だから、いま考えたらかわいそうとも思うんです。あのときはもう分からんです、意識がないんだもんね。怖いという意識がないんですよ。

 

Q:埋葬した護郷隊の少年たちは何人ぐらい覚えていますか?

そこの場所ですか。あれ、14~15名以上だな、20名ぐらいいた…名前おぼえているだけでもだいぶいますからね。僕の知っている人でも4~5名ぐらいはおるんですから。名前覚えている者だけでも。僕が1人で知っている…ほかにもたくさんいるけど、僕なんかは2小隊ですから、小隊ごとに30名ずつですからね。だから結局は、2小隊からでも5~6名ぐらい、この3日間で死んでいるわけですから。ほとんど赤痢とかいう病気にかかっている人たちが出ていくんですからね。言われて出るんですよ。ほとんどもう死にに行くのと同じじゃないですか。

 

埋葬する時、また迫撃砲がドンドン飛んできてですね。バラバラバラバラ、体全部埋めないで、半分埋めて逃げていきよったんですよね。こんな状態で。ものすごく弾が破裂しましたよ、この場所も。この野戦病院の前も、破裂しました。迫撃砲でね。それだけの激戦地でもあった。日本軍としてはこっちで戦いたくないけども、弾が飛んでくるんですよね。

 

歩けない負傷兵の運命と撤退中の襲撃

僕たちはことに負傷兵でしたから病院におりましたからね。こういう情報をよく聞きよったんですよ。いま拳銃の音、あれみんな、負傷兵、歩けない負傷兵を (日本軍が) 撃ってるよって。負傷している人たちが情報教えるんですよ。こういう軍のおきてだから軍医でもしょうがないだろうな。何十名何百名もこんな人いたんじゃないのかな。歩けなくとも苦しみながらやるよりはね。看病する介護する人一人いないですからね。みんな逃げて行きますから、撤退するわけですから。いないから、軍医が、後始末をする、友軍を、同じかわいそうな兵隊を苦しめてはいけないという情けというものがあったかもしれないですね。私、今になったら思いますよ。

 

担架に載せて4名で担いで行きながら、田んぼの中に喜瀬武原でそういうことありましたがね。田んぼの中に入ったとたんにアメリカ兵がバラバラバラって小銃で撃ってきたら、もう足取られて田んぼの中で動けないから、もうこの担がれた人も1人、担いだ4名もみな撃たれて、5名みんな撃たれてみんな死んでしまった。人に人情を尽くすがために。自分までみんな死んでしまうわけ。こういう人たちも多いです。

 

Q:そのとき亡くなった5人の中には少年もいたんですか?

そりゃ少年たちもいますよね。喜瀬武原では7~8名ぐらいこの人たち亡くなっている。6月1日に喜瀬武原の田んぼの中に入ったときに撃たれてですね。もう、負傷兵もろとも。5名だからひと組やられてる。5名でしょ、みんな撃たれてやられています。

 

海を渡って

Q:これは何をしているのですか?

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こっちからこっちまでの距離がですね、こっちにはですね。アメリカの軍隊が陣地作ってるんです。アメリカの兵舎です。こっちから橋が架かっていますけどね、こっちから渡られないんですよ、兵舎がありますから。こっちも兵舎があるんですよ、この北側のほうに。東、西。あっちも……やられて。あの橋ですね。あっちから渡られないから。この距離の短いところ、これに乗って渡って行こうとするところです。みんなここから渡りましたけども。私の考えではですね、こっちから渡ったらみんなが渡っているところだから、アメリカに目をつけられているから、私はこっちの塩屋湾と言いますけどね、湾ですけどね、入口のほうに流れていって、大海原に出ようと思ったんですよ。大海原に行って、自由になるから。潮の満ち干に、海岸に押し流されて行ったほうが無難だと私思った。

 

もう泳げないから、手が動かないもんだから。こっちの筋肉が手が動かなんですよ、足も。歩くこともようやくですからね。四つんばいになって歩くぐらいだから。だからもう、溺れてしまうから。この竹にぶら下がってつかまえて。できれば潮が押すんだったら、こっちの入り口に出て、大海原に出るはずねえと僕の勘だった。だが南風になってしまってですね、この風がね、この竹がね、あんがい長くて僕の体重が少ないもんですから、軽くのせて、波に押されてった。波に押されてこっちからこっちまで150メートルぐらいですね。押されて押されてこっちの先に着いたんですよ。それがだから僕も、これは神風が吹いた、沖縄戦で神風が吹くってこのことかなと思ったんです。だからこっちに神風に押されたと書いたんです。神様の風が吹いて、誰しも僕もそうは思わないけどね、自然とあっちまでもっていかれたというのは、とても不思議に僕、思ったんですよ。

 

心の傷

戦争終わって2~3年ぐらいだったですかね。戦のことみんな思い起こしてしまってですね。戦争恐怖症みたいな精神異常者になって、独房にぶち込まれました、あんまり暴れすぎるちゅうことで。戦争ですから暴れるわけですよ。アメリカ兵に追われたとか、どうやるとか、みんな戦争のしぐさしますからね。そうすると、みんな相当悪い精神病になっているから。

 

戦争ちゅうのは悪いことですからね。僕自体は悪いことやってないけど、悪いことやってるのを見たらこうなるというわけ。だから悪いこと見るな、見ないほうがいい。

 

理解する人は、いないですよ。こういうことを話してもね。夢話しているんじゃないかぐらいに人は聞いてるんじゃないかぐらいに思いますよ。実際そういうことやったんですけどね。

 

 

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