タカイシブリの墓標

 

タカイシブリの墓標 ~ 妹はまだそこに

上里さん 30年余通い霊慰める 糸満市

 

 沖縄本島南部。与座岳のふもとにある糸満市新垣付近は、沖縄戦当時、那覇あたりから避難してきた住民らの犠牲者が多く出た激戦地のひとつ。すぐ隣の真栄平では敗走中の日本兵による住民殺害も起きている。

 

 新垣区の北西、集落はずれの道路際に、高さ4~5メートル、周囲数メートルもの桂状のサンゴ石灰岩が建っている。「タカイシブリ」と地元の人が呼ぶこの大岩の根元は、生い茂ったハエキビ群落の緑が鮮やか。この地下に、肉親2人を含む数人がまだ埋まっている、と戦後ずっと通い続けているのが上里紗智子さん(54)=那覇市松川=だ。

 

 昭和20年6月。上里さんの家族8人は、那覇市識名から知念、玉城と戦火に追われて南下。数十人の避難民とともにさらに南を目指したが、行く手を横一列の人影がさえぎった。注意深く進んだが、前方の集団の顔が見えるまでに接近した際、だれかの声が引き金となり、住民らはバラバラときびすを返して走りだした。

 

 背後で一斉に射撃音。耳元をヒュー、ヒューと銃弾が音をたてて追い抜き、前後左右で悲鳴にならない声を残して人々が倒れて行った。命からがら家族がたどり着いたのが新垣の集落だった。父親(当時49歳)は腰に銃弾を浴びて負傷していたが、ともかく家族を壊れかかったカヤぶきの民家の陰に避難させた。が全員無事を確認して座った父親のすぐ後ろで砲弾がさく裂。

 

 「父は即死でした。近くにいた住民も死に、周囲は兵隊や住民の遺体がいっぱい。砲撃は依然として激しく、気がついた時、姉と私、妹2人の4人が、すぐ前の壕にころがり込んでいました」。

 

 「暗い壕で、奥行きは5~6メートル。負傷した日本兵と住民合わせて7人か8人くらいが避難していました。1晩いましたでしょうか」。翌日、首に負傷していた姉が水をくみに出てそのまま。しばらくして上里さんも水を求めて壕を出る。

 

 それが妹2人との最後だった。壕から180メートル離れた「ソージガー」という泉のほとりで、姉はこと切れていた。砲弾の中を軍用トラックがゆっくり近づき、虚脱に近い上里さんを収容した。

 

 知念の米軍捕虜収容所に移された上里さんは、新垣の壕に残した9歳とその下の妹2人を案じ、知念から玉城村字百名へ毎日通った。「母と妹2人は墓に隠れていて収容されていたが、一緒だった妹たちは、百名に運ばれて来る南部の捕虜の中にはついに見つからなかった」。

 

 戦火がやみ、新垣の壕へ知人を頼んで一緒に行ってもらった。黒人兵が一帯を警戒していたが、妹たちの壕は大きく落盤、すぐ隣の壕も破壊されていた。父や姉の遺体はすでに片づけられ、発見は不可能だった。

 

 新垣一帯では日本兵や住民約1万柱が戦後収容され、集落の西側にある浄魂之塔にまつられている。だが、「タカイシブリの壕は、私も最近まで知らなかったんです。一時チリ捨て場にもなっていたし、年寄りに聞いてもそこの壕から遺骨が出た話はないし…」と新垣区長の大城秀雄さん(48)。

 

 「妹たちは、きっとまだ壕の中で2人一緒です。自分が生きているのも不思議なのに、ああすればよかった、こうすれば…と戦後ずっと後悔ばかり。いやですね、戦争…」。やさしく笑う上里さんの目尻を何かがこぼれ落ちた。タカイシブリは、いとしい妹たちの墓標として上里さんの脳裏に焼き付いている。

 

(「戦禍を掘る」取材班)

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1983年9月12日掲載