宜野湾・川崎中隊陣地壕

 

琉球新報

宜野湾・川崎中隊陣地壕

迫撃砲の前に全滅 ~ 基地内になお12柱眠る

 今はフェンスに囲まれ、関係者以外オフ・リミットの米軍基地。その基地内にもまだ収骨されていない12柱が眠っている。北谷町と境界を接する宜野湾市後下原と呼ばれる場所がその現場。現在、普天間海兵隊基地となり、ハウスが建ち並んでいる近くの小高い丘で、石部隊川崎中隊は4月1日全滅した。

 

 「あっという間の戦闘。15分ほどで終わった。川崎中尉率いる中隊は機関銃隊で、重機関銃で装備していたが、迫撃砲を持ち出してきた米軍の前にはひとたまりもなかった」と、川崎中隊の最期を見届けた稲嶺盛弘さん(56)=宜野湾市字野嵩=は語る。

 

 稲嶺さんは当時18歳。中隊陣地から500メートルほど離れた所に住んでいた。「昭和19年に駐屯してきた中隊は隊長以下25人。県人の新兵も6人交じっていました。兄も徴兵されていたばかりだったので、彼らの事情もよく分かっていた。砂糖やイモなどを差し入れて、兄弟のように付き合っていた」という。

 

 いよいよ、沖縄戦だ―と思われた20年2月、中隊はトーチカを構築。稲嶺さんも協力した。造った機関銃座は6個。2坪ほどの穴を掘り、枠組み。上は松の木で偽装した。

 

 米軍が“エイプリルフール”と呼んだ4月1日の無血上陸のその日、米軍は川崎中隊が陣取る地点まで急進。上空にはグラマン機が飛び交う中、普天間川を挟んでの戦闘が始まった。その時、稲嶺さんも「3月31日、いよいよ始まるから、弾運びを手伝ってくれ」と言われて中隊とともにいた。川崎中尉は31日の艦砲の直撃を受けて既に戦死。残る24人が六つの壕に4人ずつ分かれて待ち構えた。県出身6人の新兵も1壕に1人ずつ配置されていた。

 

 戦闘中、壕内で弾の受け渡しをしていた稲嶺さんは「盛弘、もう危ないから外に出ろ」と言われて出た。とたん、陣地は直撃を浴びて吹っ飛んだ。「後は無我夢中、20メートルもある崖っぷちをどう降りたのかも分からない。夕方、現場の様子を見に戻ったが、惨たんたるありさまだった」。稲嶺さんは翌2日、5歳と3歳のいとこを連れて普天間権現にひそんでいるところを米軍に見つかり、捕虜になった。

 

 約20年前、基地内のビル建築の際、三つの壕からは遺骨が出た。稲嶺さんが親しくつき合っていた渡名喜雇正さんの遺骨も出て、宜野湾市野嵩の沖縄戦没殉難者墓(現、野嵩霊園)に納められた。しかし、名護出身の岸本さん、糸満出身の上原さん、もう1人、佐敷町出身で屋号を“アガリ知念”と言っていた新兵の県出身者を含め、12人が米軍フェンスに“ガード”されて眠ったままだ。

 

 「この中隊は支那帰りで古参兵らは、ここが死に場所とよく言っていた。俺たちが死んでも、兵隊でないお前は生き抜いて骨を拾ってくれよ―とも。それを思うと、ぜひとも掘り出してやりたい。10年前、厚生省へも陳情に行ったが、それっきり。自由に掘っていいのなら、個人ででもやりたい」としんみりした口調で話す稲嶺さんだった。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年9月22日掲載