沖縄戦証言 慶良間諸島 (3) 渡嘉敷島

 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/n/neverforget1945/20230507/20230507050037.png

 

コンコーダンス用の書きおこしです。誤字などがありますので、必ず原典 (PDF) をお確かめください。《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

 

渡嘉敷島の集団自決

渡嘉敷村字渡嘉敷

渡嘉敷郵便局長徳平秀雄

甲種合格全国一の渡嘉敷村

私は昭和三年徴兵検査をうけました。県立師範を卒業して、郷里で教職についたばかりでありました。検査場の小禄村の学校には、地元の小禄村の他豊見城渡嘉敷村から若者たちが集められていました。

 

渡嘉敷は私も入れて、十八名、人数はいちばん少ないのですが、一目瞭然、私の村はぬきん出た屈強な若者ぞろいで、他村を圧倒的に押えて、十八名中ただ一人が第一乙でその他は甲種合格。しかもその年度の合格率全国第一になり、朝日新聞社から、賞状をもらいました。それ以来、連続五回全国第一位の地位を保っていました。渡嘉村は水が豊かで米はよく採れ、元来が鰹業が生業ですから、主食と良質の蛋白質に恵まれ、人間の発育に影響したのです。それだけに国家の教育は徹底的に、すみずみまで行き渡っていました。この戦争ではそれを見のがしてはならないと思います。

秘匿基地の島 - 日本軍によって封鎖された島

秘匿基地の構築と同時に、物理的にも封鎖され、情報も遮断される。住民の証言を読む際に、軍によって、こうして住民が物理的・心理的に遮断された状態に落とし込まれていたという、日本軍に支配された島の状況を踏まえておくことが大切。

上陸まえ

私は十・十空襲あと、迫り来る戦争に、どうにか家族を疎開させようと、軍隊に掛け合ったのですが、許してもらえませんでした。というのは、慶良間列島は、基地隊の陣地構築と同時に、海上封鎖し、村民は一歩も島を出られないし、他所からここへ来ることも出来ませんでした。糸満の漁師が封鎖一日まえに来て、そのまま帰れず、戦争に巻きこまれたのも数人いました。

 

私たちは、この島には、秘密兵器の基地が構築されているとは知ってはいましたが、誰も口には出しませんでした。私たちの背後には、いつも、監視の目が光っていたのです。

 

私の郵便局は、建物はもちろん電話、ストップオッチまで軍に接収され、私の仕事はもう何もなくなっていました。医介補の伊野波先生がいた診療所は本部の医務室に替り、小学校は兵舎に、学校は海岸端に仮小屋を造って授業する仕末、渡嘉敷の全てがこのような戦争一色に塗りつぶされ、緊張の中で、いよいよ戦争を迎えることになりました。

 

村民の中にはいろいろ問題はあったようですが、私自身は、自分を国家に捧げたものとして教育を受けていますから、こんなことは当然の成り行きと思っていました。

 

この村では、適齢の男性は、ほとんど防衛隊にとられ、村長と私とが最後まで召集をうけてはいません。鈴木隊が引き揚げ、かわって特攻隊の赤松隊が、戦闘の配備につく頃、村長も私も、仕事と云えば、軍の要求を民間におろすことで実質的には、私たちは赤松隊長の下で、動いていたに過ぎません。

 

3月23日、早朝、私は、その前の日に渡嘉敷を訪問していた鈴木基地隊長の宿舎に挨拶にいっていました。温厚な鈴木隊長は、渡嘉敷で陣地構築中、私の家にしばらく滞在していました。その時の謝礼にと、黒砂糖と煙草をわざわざ届けて下さったので、御礼を申し上げようと訪ねた所でした。突然聞き覚えのある爆音です。グラマンに決まっています。私は、鈴木隊長殿、御元気で、私は帰りますと、挙手の礼をして、一直線自宅にもどりました。

 

軒に吊したザルの中には、昨夜の彼岸祭りの、のこり物が入れてあります。私は、家に入りしな、ザルに手をやり、ワシ摑みに、豆腐やら、モチやら、ほおばりながら、貴重品を皮靴の中に収め役場の壕に行きました。そこには、作業中の兵隊や役場の職員がつまっていて、寸分の隙間もありません。

 

私は、壕の外のついたてに、せいいっぱい身を寄せていました。機銃掃射は砂煙をたてて、地上を這い廻っていました。

 

その頃妻子らは、自持の山の避難小屋で寝泊りしていましたが、空襲の朝は、ちょうど山から下りて、学校の仮校舎に差しかかった所で、壕を求めて、遁走している私とばったり会いました。私は有無を云わさず、子供の手をとって、再び山の塚へつっ走りました。田のアゼ道を二町にも足りない距離を走って、一里もの道程のようでした。

 

空襲は今までにない激しいものでした。渡嘉敷はあちこちから火の手があがり、今に村全体を包まんばかりのいきおいで燃えていました。


私の家は、残っていました。しかし向い会っている役場といい、私の家といい形が変っているようでした。入口の福木の大木が二本、なぎ倒され、裏に廻ると、牛小屋は潰れ、それに仔牛が死んで膨れていました。家の中に入ると、一番座敷に小型爆弾が投下され、屋根に直経二メートルばかりの穴を開け、一直線に、ちゃぶ台の真中を通り、床につき抜けていました。一面に飛び散っているのは、先祖の位牌、書籍類、古い道具類、もうそこは手のつけようもありませんでした。

 

福木のすぐ下には、米、味噌、鰹節など、壕を掘って保存してありましたが、影も形もありませんでした。二十三日は、しかしこれでおしまいではありませんでした。夜になると、山といわず、村といわず、焼夷弾を投下して、焼き払っていました。

 

初めて米兵を見る

二十三日から始まった空襲はそのまま、二十四、二十五日と激しさを増すばかりで、いっこうに、おとろえる気配はありませんでした。とうとう艦砲射撃を見舞わされるまでになっていました。

27日の夜 - 恩納川原へ

何も遮蔽するものがない平地に集められ、激しい砲撃にさらされる住民。日本軍は壕の中にいる。防衛隊が住民に手榴弾を配る。地形に注目。

27日昼、壕を出て小用を足していました。ひょいとなんとなく前方の山の頂を見ていました。まさかと思った米兵が立って、こちらを双眼鏡でのぞいているのです。自分の眼を疑いました。沖縄にまで米軍が上って来るなんて信じられませんでした。
とたんに私は身がふるえ出し、言葉も出ません。小屋の中で家族の者にどう伝達したか記憶にはありませんが、「アメリカーが、アメリカーが....・・」と言葉はこれ以上出ません。手まねで納得させたのでしょう。


ことは危ぶない、と私たちは、かねて準備してあった西山陣地の後方、恩納川原の避難小屋めざして出発した。誰の命令だったか知りません。その時村民も、私たち同様、恩納川原に向かってぞろぞ歩いていました。

 

那覇に嫁いでいた私の姉は、中学生の長男を残して、十・十空襲で焼け出されたために、私の所に同居していました。私の家族は妻と子供二人。私は末っ子をおんぶし、姉とその小さい子供たち四名をひきつれて、泥んこの中を歩いていきました。村はずれまで来ると、私の恩師の真喜屋先生御夫妻に会いました。真喜屋先生は、首里の人で、渡嘉敷小学校の校長を最後に永い教員生活を辞められた方で、渡嘉敷を第二の故郷ときめ、そのまま島を去らずにおられた方でした。

 

先生は、初めは私の誘いも断っていましたが、私は半ば強引に、西山へ皆な行くし、あそこなら万一のことがあっても、私がご一緒していますから、面倒を見ることも出来ますと、いうと、そうですかと、ひとことおっしゃって、しぶしぶ私について来られました。私にはこの次に何が起きるのか、見通しがつきませんでした。


私たちは真暗闇の中を、手さぐりで進んで行きますと、しのつく雨はいよいよ強く、私たちの行く手をさえぎっていました。末っ子をおぶって、その上にすっぽり被っていた綿入りの丹前は水を吸い込んで、重い荷物になっていました。

 

恩納川原に着くと、そこは、阿波連の人、渡嘉敷の人でいっぱいでした。そこをねらって、艦砲、迫撃砲が撃ちこまれました。上空には飛行機が空を覆うていました。そこへ防衛隊が現われ、わいわい騒ぎが起きました。砲撃はいよいよ、そこに当っていました。そこでどうするか、村の有力者たちが協議していました。村長、前村長、真喜屋先生に、現校長、防衛隊の何名か、それに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと、主張した人もいました。特に防衛隊は、闘うために、妻子を片づけようではないかと、いっていました。

 

防衛隊とは云っても、支那事変の経験者ですから、進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は、持って来た手榴弾を、配り始めていました。

 

思い思いにグループをつくって、背中合せに集団をなしていまし自決ときまると、女の子の中には、川に下りて顔を洗ったり、身体を洗っている者もいました。

 

そういう状態でしたので、私には、誰かがどこかで操作して、村民をそういう心理状態に持っていったとは考えられませんでした。私のグループは、私は四歳の長男を膝の上に置き、二歳の長女は妻が抱いて、私の向いには、私の妻の兄の村長一家が陣どっていました。

 

何とか村長はいっていました。私は目をつぶって今、自分が死ぬのを待っていました。私は、何も考えませんでした。つとめて、正常ではなかったかと思います。村長はパカパカ叩いては自分のふところに入れ、それをくり返えしていました。


発火しない手榴弾に私はいら立ち、村長から奪いとって、思いきり、樫の木の根っこに叩きつけるのですが、やっぱり発火しません。周囲は、どかんどかん爆発音を発していました。その時、米軍の迫撃砲がいちだんと激しくなり、ばたばた倒れる者が居りました。この時の迫撃砲で死んだのも少なくはありません。

 

どかんどかん撃ち込まれる迫撃砲をのがれて、私たちは死にそこねていました。たぶんそうだったでしょう。その時私は悪夢からはっきり覚めたようでした。村長をせかせて、私たちは、そこを離れました。

 

姉の長男と長女が手をつないで立っていました。そばには姉と赤児の死体がころがっていました。私たちは西山の日本軍陣地に向っていました。日本軍に何かしてもらわなくてはならないと自然に足がそこに向いたのは、当然です。

 

西陣地には着剣した兵隊が立ちふさがり、陣地内に一歩も入れてくれないのです。ワイワイわめきながら侵入しようとした村民に、日本軍は発砲していました。迫撃砲も更に激しく、陣地を追われて逃げまどう村民をおっかけて来るようでした。終始、私の後についていた妻が、「うん」とうなって、しゃがみ込みました。妻は苦しそうに腹を押えているのですが、指の間から腹わたがとび出ていました。子供だけは必ず助かるよう、私に早く皆と一緒に逃げるよう哀願していました。私は水を置いて、そこを離れ、恩納川原下流めざして下りて行きました。

 

食糧に窮す

二日間どうしていたか、記憶にありません。私は再び自決場に戻っていきました。もしや妻が生きているのではと、しかし妻はどこにも見当りません。妻がどの辺に倒れていたのか方向を知りませんでした。私はその時どうせ生きられまいと思うことと、死んでたまるかという生への執着心が交錯しているようでした。この地獄の如き様相をまのあたりにしていると、はっきり自分というものがわかって来たようでした。

 

私は死んだ人たちの持ち物から、米を探して生米を噛み、唾液と一緒に二歳の娘の口に流し込んでいました。私は、山を降り茶山を通って、自持の壕にもどって来ました。自決の日から三日目の三月三十一日でした。

 

さて、私たち親子は生き伸びていました。幼児二人面倒を見ている私は、生産をしなければなりませんでした。私の壕の上方には、第三中隊の分所があって、たえず二、三〇名くらいの兵隊がいました。

 

この兵隊たちは、自活班といって、本隊からの支給を一切断たれて、いろいろなものを漁って、自給自足を営んでおりました。隊長田所少尉は、時々私の壕に下りて来て、よもやま話をしていましたが、食糧に窮していることは誰も同じだ、私たちは夜間一緒に稲刈りすることになりました。

 

米軍の陣地をくぐり抜けて、面に入り、這う姿勢のまま穂先だけを切りとり、カマスに入れて、持ち帰ってきました。三〇名の兵隊ですからいくらつみ採っても足りません。とうとう米軍陣地に近づき、地雷に触れて死んだのもおりました。

8月8日に投降する

米軍に投降する

日本軍は、もつぱら食糧あさりにあけくれている仕末でした。ところが、この日本兵たちは、私たちを監視しているのです。私たちも、米軍は住民に危害を加えないことは、とっくに知っていました。渡嘉敷村内には伊江島の人たち約千名が、米軍の保護を受けていましたし、私たちが、米軍に投降することを恐れたに違いありません。私の一挙手一投足には、背後から日本軍の目が光っていたのです。

 

8月8日朝、私は投降しました。二人の幼児は弱り果てていました。私はそのまま米軍の幕舎に入りました。天気のせいですか、すがすがしい気持でした。米軍は私を尋問しました。そして日本軍の所在を知らしてくれというのです。日本軍は闘おうにも、出て来てくれないので、徹底的に野砲を撃ち込むのだというのです。

 

私は途方にくれました。まさか知らすわけにも行かないので、中に歩いて来たので一体どこになっているのか知らないと、答えると、アメリカ軍は、それ以上つっ込んだことは聞こうともしませんでした。

 

私を砲台につれて行き、それから迫撃砲を撃つから、当って白い煙が出るはずだからだいたいそとだと思った所から煙が出たら、ストップをかけてくれといってどんどん撃ち始めました。

 

口をもぐもぐさせながら、楽しそうに、撃っているこの迫撃砲私たちをどん底に落したり、私の妻も入れて何人もの人がこれに殺されたのだろうか、感無量であった。かたわらの双眼鏡をのぞくと、なるほど白い煙が出ている。私はいいかげんにストップをかけておきました。

 

百年まえペルリが来たこと

そして一枚の地図を広げて、今、弾の当った所はどこか地図で指摘してくれと、いうのです。私は地図を見てびっくりしました。山の名、谷の名、小川名まで逐一記入され、しかも俗名で、トゥトンジャーラとか、ヒランチーだとかローマ字で書かれてあるのです。私が小学生の頃、まで生きていた、私の祖母の話を思い出しました。私の祖母は、那覇に上陸するまえ、渡嘉敷にペルリが来て、海と陸地を測量していたというのです。この地図はその時に出来たものかも知りません。アメリカの物量だけじゃなく、科学の水準の高さに今更ながら舌を巻いてしまいました。

使者4人のうち少年2人を殺害 - 一方で赤松隊は安全に投降する

日本軍に軍使を出す

私は収容所では配給カード作りを命ぜられていました。ある日、収容所長格の大尉が私の幕舎にやって来て、軍使を出してくれというのです。前にも軍使が殺されているし、私には人選することは出来ませんと断わりましたが、日本軍陣地へ最後の手紙なので是非というのです。私は中国で戦争の経験のある者がよいだろうと、二人の若者を選定しましたら、米軍について来た少年二人も、行くというのです。この少年たちは、日本軍には顔なじみで、いかなる事態が起きようとも、自分たちは大丈夫だといって出て行きました。帰って来たのは、経験者二人で、少年たちはとうとう帰って来ませんでした。少年たちの持って行った手紙が届いていたことは、その翌日早朝、知念少尉らが、降伏に応ずると、山から降りて来たこととでもわかります。

 

言い足りないこと

どうしても云い足りない感じがします。集団自決は、私のことのみふれましたが、私は痛み入ることばかりです。それは真喜屋先生御夫妻の遺体が無惨な姿のまま、ころがっていたからです。私は面倒を見るどころではなかったわけです。

 

生真面目で通っていた先生は、自決しようと主張したといいます。そして、真先に果ててしまいました。このようなことは一体誰の責任でしょうか。あの時、特攻舟艇を自沈させ、うつろなまま上を迎えて途方に暮れ、統率力を失っていた赤松隊長の責任か、また、村民の責任なのか、私はこれから更に、この問題を考え続けて生きて行かなければならないだろうか。

 

渡嘉敷村長の証言

激しい砲撃のなか、赤松隊長の命令で、何の遮蔽物もない盆地に住民が集められる。その目的は。

渡嘉敷村長米田惟好

赤松隊長の命令で、遮蔽物のない陣地裏の盆地に

集団自決

私たちは、米軍が上陸すると恩納川原に向っていた。恩納川原には恰好な隠れ場所があった。また一つ山越せば頼みとする日本軍が陣どっていた。恩納川の下流は細く二手に分れていて、左右は絶壁である。

 

ここからは、米軍は上っては来れまい。この谷間は全体が完全に死角になっていて、そこには十・十空襲後、村では、唯一の隠れ場所として小屋も二、三棟建ててあった。

 

安里喜順巡査が恩納川原に来て、今着いたばかりの人たちに、赤松の命令で、村民は全員、直ちに、陣地の裏側の盆地に集合するようにと、いうことであった。盆地はかん木に覆われてはいたが、身を隠す所ではないはずだと思ったが、命令とあらばと、私は村民をせかせて、盆地へ行った。

 

まさに、米軍は、西山陣地千メートルまで迫っていた。赤松の命令は、村民を救う何か得策かも知らないと、私は心の底ではそう思っていた。

 

上流へのぼって行くと、私たちは、そこで陣地から飛び出して来た防衛隊員と合流した。その時米軍はA高地を占領し、そこから機関銃を乱射して、私たちの行く手を拒んでいるようであった。

 

上流へのぼると、渡嘉敷は全体が火の海となって見えた。それでも艦砲や迫撃砲は執拗に撃ち込まれていた。盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。

 

集団自決はその時始まった。防衛隊員の持って来た手榴弾があちこちで爆発していた。

 

安里喜順巡査は私たちから離れて、三〇メールくらいの所のくぼみから、私たちをじーっと見ていた。「貴方も一緒に・・・・・・この際、生きられる見込みはなくなった」と私は誘った。「いや、私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決は出来ません」といっていた。私の意識は、はっきりしていた。


私は防衛隊員から貰った手榴弾を持って、妻子、親戚を集め、信管を抜いた。私の手榴弾はいっこうに発火しなかった。村長という立場の手まえ、立派に死んでみせようと、パカッと叩いては、ふところに入れるのですが、無駄にそれをくり返すだけで死にきれない。


周囲では、発火して、そり返っている者や、わんわん泣ている者やら、ひょいと頭を上げて見ると、村民一人びとりがいたずらでもしているように、死を急いでいた。そして私は第三者のように、ヒステリックに、パカパカ手榴弾を発火させるために、叩いていた。その時、迫撃砲は私たちを狙っていた。私は死にきれない。親戚の者が盛んに私をせかしていた。私は全身に血と涙をあびていた。すぐうしろには、数個の死体がころがっていた。


私は起き上って、一応このことを赤松に報告しようと陣地に向った。私について、死にきれない村民が、陣地になだれ込んでいた。それを、抜刀した将校が阻止していた。着剣した小銃の先っぽは騒いでいる村民に向けられ、発砲の音も聞こえた。白刃の将校は、作戦のじゃまだから陣地に来るな、と刀を振り上げていた。

 

陣地を追っぱらわれた私たちは、恩納川原にひきかえした。一部は志保島に対面する、この島の北の端に移動していたようだった。その時自決用の手榴弾の爆発音と、生き残って途方を失った村民の阿鼻叫喚に、追撃砲が誘われたように撃ちこまれていた。

 

私は恩納川原への道すがら、盆地にひきかえしていた。救助に来ていた防衛隊員が、あなたの妹さんは死んでいました、といっていた。しかし私が着いた時、妹は虫の息で、まだ生きていた。

 

妹は私と一緒なので自決ではないはず、米軍の撃ち込んだ迫撃砲なのか、あるいは誰かに殴られたのか、とにかく土の中から、這い上って来た、といっていた。しかしこの妹はそこで二人の子供を失った。

 

私自身、自殺出来ないことが大変苦痛であった。死ぬことが唯一の希望でもあったが、私は村長の職責をやっぱり意識していた。今に、日本軍が救いに来るから、それまで、頑張ろうと生き残った人たちを前に演説していた。

 

生き残った中から看護婦の心得のある者を探し出し、防衛隊が救い出して、陣地に運んだという十数名の村民の看病に当てられた。たしか、今、糸満市で教師をしている仲村茂子さんと、小禄に住んでいる北村春子さんではなかったか........。

 

「集団自決」と赤松隊をつなぐ謎

なぜ赤松隊の防衛隊員が陣地を離れ、いっせいに赤松隊の命令によって住民が集められた盆地にきていたのか、なぜ彼らは住民に手榴弾を手渡していったのか。

私には、問題が残る。2-30名の防衛隊員がどうして一度に持場を離れて、盆地に村民と合流したか。集団脱走なのか。防衛隊員の持って来た手榴弾が、直接自決にむすびついているだけに、問題が残る。私自身手榴弾を、防衛隊員の手から渡されていた。
この問題を残したから、死に場を失って、赤松隊と自決しそこなった村民とが、この島で、苦しい永い生活を続けることになった。

 

赤松と私

集団自決以後、赤松が私に対する態度はいよいよ露骨に、ヒステリー症状を表わしていた。私を呼びつけ、命令ということを云い、おもむろに腰から軍刀をはずし、テーブルの上に、右手で差し出すように立って、「我が国の軍隊は......」と軍人勅論をひとくさり唱えて、今日只今から村民は牛馬豚の屠殺を禁止する、もし違反する者は、処刑すると云い放っていた。

 

副官の証言 (知念朝睦)

朝鮮人軍族の虐殺、女性住民虐殺にも直接手を下した赤松隊の自称「副官」の1970年代の、つまり「裁判」前の証言。

海上挺進第三戦隊副官

元陸軍少尉知念朝睦

1991年に完成した映画『アリランのうた−オキナワからの証言』で朝鮮人軍属二人を虐殺したことを告白する渡嘉敷島守備隊長の故・知念朝睦(2011年逝去)

クラウドファンディング - MotionGallery (モーションギャラリー)

渡嘉敷島

私は昭和十八年召集をうけて、鹿児島第四連隊に入隊しました。その後幹部候補生に合格して見習士官となり、昭和十九年七月、当時編成して間もない、水上特攻隊(マルレ)の搭乗員として、四国に居た赤松隊に配属されました。

 

約一か月、厳しい訓練ののち宇品港を出て、門司、天草、鹿児島と点々として、南方に向ったのは九月も中葉すぎていました。九月末に、着いた所は、南洋ではなく沖縄でした。船はそのまま私の郷里の首里を向いにして、渡嘉敷に入りました。

沖縄人として - 差別と同化

赤松隊では、県出身は私ひとりでした。方言が通ずるので、(註・自分にとってはそのことで) いろいろ問題がありました。それだけに、私はつとめて、村民との交渉を必要以外はさけていなければなりませんでした。

 

戦争ですから兵隊優先は止むを得ないことです。民家に分宿している兵隊たちは母屋を占領していました。小さい島ですから、いやおうなしに軍、民接触せざるを得ません。
いろいろなしわ寄せが村民にかかり、たちどころに行きづまっていました。はじめは、そうでもなかったのですが、私は聞かぬふりしていたのですが、「この兵隊どもがここに来なければ......」と方言で愚痴をこぼしていました。それが日がたつにしたがって、兵隊に対する不満は大きくなり、広がって行きました。

 

そういう状態でしたから私は方言も使わない (ように) し、村民と用事以外は殆んど口をききませんでした。村民の生活が、まともに出来なくなるのですから愚痴も仕方のないことでした。


このようなことは、沖縄の縮図のようなもので、兵隊が来て数か月で沖縄全体が、そういう雰囲気になっていました。

 

私は隊長のお供で那覇に出ることがありました。首里は私の生地ですし、私の家族は熊本に疎開して首里にはいませんでしたが、出覇の度ごとに親戚の者を訪問して、安否を気づかっていました。とある一日、私はその親戚の家族とくつろいでいました。そこへ陣地構築にかり出されて、モッコやツルハシを背負っている男女がぞろぞろと、私のすぐそばを通り、ちらっと私を見て、「此奴らのために難儀するよ」と過ぎていきました。


沖縄県人の心の中には本土人に対し特別の異和感があったことは素直に認めなければならないと思います。どうにも他府県の連中のために自分の生活が毎日破壊されて行く状態には、我慢がならないと、いうことでした。

 

私は県立工業学校を卒業して、大蔵省に入り、大分と東京から採用された同年の二人と一緒でしたが、その時、私には東京は全く別世界でした。私は寮で毎日出てくる「おかず」の名さえ知らなかったのです。琉球」とさげすまれ苦しいことばかりで、なじむまでに永い時間がかかったように思います。

 

そういう私は、いつの間にか、他府県人には負けないぞ、という生き方にかわって行っていました。これは大なり小なり、他府県で生活した沖縄県人が体験することです。

 

このように他府県人に対する異和感と、他府県人が持っている差別意識とが、まぜあわされて、この戦争でさまざまな形になって現われたと思います。

那覇で十・十空襲

はじめての敵

十・十空襲は那覇でぶっつかりました。当日は第三十二軍の兵棋演習の行われる予定でそれに参加する赤松隊長のお供で私は波之上にあった旅館に寝泊りしていました。

 

兵棋演習は参謀本部が招集し、第三十二軍の総合的作戦計画ということで、水上特別攻撃隊の部署についても、討議されることになっていました。

 

当日、爆撃と同時に私たちは近くの高射砲陣地に避難しました。何十機と群がっている敵機に、高射砲隊はひるまず応戦するのですが、弾は米機にあたりませんでした。

 

私たちはその場を出て、今の山形屋うらにあった船舶司令部に行きましたが、大町司令官はどこに避難したのかわかりません。司令部の近くの壕に避難していると、那覇の街は燃えていました。はじめての敵は、あまりにも強烈でした。

「敵艦百隻撃沈」海上挺進隊マルレ作戦のてんまつ

日本軍の「秘密兵器」だというべニア板でできた小舟「マルレ」のために封鎖された慶良間の三つの島。

米国海軍: The Japs' ”secret weapon” ”suicide” boats, 20 ft. vessels attaining a speed of 32 knots, designed to carry a heavy demolition charge, piloted by one man and intended for ramming American ships, were captured during the invasion of the Kerama Islands off Okinawa's southwest coast. All of the boats captured were not forthwith destroyed, but many were saved for examination by intelligence officers. This one's demolition charge was removed, and American officers prepare to try it out.
【和訳】 米軍艦への突撃に使われる予定だった、日本軍の「秘密兵器」の特攻艇。大量の爆破薬を搭載して、時速32ノットで進むことができる、全長20フィートの1人乗り艇。沖縄本島南西沖の慶良間列島を侵攻する際、接収された。同艇のすべてが即刻破壊されたのではなく、多くは情報将校により調査された。写真は、米軍将校が、爆薬除去後、試乗準備をしているところ。撮影地:慶良間列島

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

沖縄の「震洋」~ ベニヤ板の特攻「震洋特別特攻隊」 - Battle of Okinawa

海上挺進隊マルレ
海上特攻隊は、慶良間には三つありました。梅沢少佐のひきいる座間味の第一戦隊は、単頭中隊で、司令官大町大佐はときどき、そとへ、作戦計画で現われているようでした。

 

マルレは米軍上陸まえ一回だけ実弾で合同演習を行ったことがありました。マルレは当時公表してはいけない秘密兵器でしたので、演習は当然村民を村内から出さず、峠には衛兵を立てて、厳しい監視の中で行われていました。

 

渡嘉敷、座間味、阿嘉で丸く囲んだ内海で全舟艇は二百五十キロの爆雷を抱えて、内海の中心に向って全速力で三方から押し寄せ、敵艦に三〇度の角度で接近し、舟艇の先きが、敵艦に接触したと見るや、爆雷を投棄して、六〇度方向転回をして、即ち三〇度の角度を保ちながら遁走します。その後、四秒で爆発するので搭乗員は助かる算段は、充分にあるわけです。

 

赤松隊は百隻の舟艇を持ち、三つの中隊に分かれて、おのおの渡嘉志久、阿波連に配備していました。

 

私は本部付の警戒小隊長で、出撃の時は私の舟艇が先頭を切ります。私の次に赤松隊長艇、そのあとに三中隊が横に広がって続き、突撃の態勢にうつると、ぱーっと散兵して、目標に向うことになっていました。

 

当初は、舟艇は搭乗員もろとも「体当り」することになっていたのですが、むざむざ、搭乗員を殺すべきではないと、改められていました。一説には、演習風景を撮った映画を天皇陛下がご覧になって、若い者を殺すな、といわれて、改められたと聞きました。(軍内で語られた天皇美談・検証の価値あり)

 

さて私たちは、ただ一日きりの演習で、敵艦を待っていました。

 

自沈したマルレ

3月23日、早朝から始まった空襲は二十四日、二十五日と続いて、激しさを増すばかりでした。二十五日駆逐艦を先頭にして、巡洋艦、潜水艦と二十隻ばかりの米艦が慶良間列島の内海に侵入して来ました。

 

その時、基地隊は「出撃準備せよ!」と各中隊に連絡していました。搭乗員は、爆雷を点検したり、給油をしたりして、最後の調整に余念がありません。

 

夜に入って、泛水作業が、軍民一体となって行われました。水盃をかわし、基地隊は、重機を構えて、背後から援護射撃にそなえていました。

 

泛水も無事終わって、先頭を切る私は、機関銃を抱えて、今か今かと、出撃命令を待っていました。

 

しかるに、その時、内海に居ったのは、哨戒艇一隻、他には何も見あたりません。このことは、隊長に私が報告しました。止むなく司令部へ敵艦の所在について、指示をあおいでいました。返って来たものは、「赤松隊は、本島に合流せよ」という命令でした。気の早い連中はモーターを回転させて今にも飛び出して行かんばかりです。行く者も、見送る者にも緊張の瞬間でした。

 

折から慶良間列島視察中、阿嘉から渡嘉敷に来ていた大町司令官は、泛水を中止し、すみやかに揚水するよう、命令しました。

 

勇躍出撃しようとしていた隊員たちは、気をそがれて唖然としていました。二五〇キロ爆雷のついた舟艇を海面から引きあげ、レールにのせるだけで隊員たちは精根つきていました。

 

とうとうグラマンの飛びかう中に、その秘密兵器の姿をさらけ出してしまったのです。どうにか一部は壕の奥に隠し、揚水出来ない大多数は、破壊してしまわなければなりません。隊員たちは命令どおり、ピッケル状のもので船底に穴を開け、海底に沈めてしまいました。

 

私の部下の結城伍長は、出撃するといって聞きません。隊長の命令でも聞けないと、まさに飛び出さんとしていました。私は結城の舟に穴を開けました。彼は舟もろともごぼごぼ沈んでしまいました。海底で梶を握っている彼をひき上げたのは、やはり私の部下でした。

 

これで、我が隊の当面の目標「敵艦百隻撃沈」は遂げられぬままに、むなしく終ってしまいました。目標を失った若者たちは、酒を飲む他仕方がありませんでした。

 

二〇歳にも満たない若者たちは、よっぽど腹のすわった連中でした。二十三日の空襲は渡嘉敷を徹底的にたたいていました。ちょうど部下を引きつれて、阿波連に状況視察に出ていた私ははいつくばって一歩も動けません。

 

私の軍刀と傍に居た部下の拳銃が、かちかち合って鳴っているのです。不思議に敵機の爆撃の中でよく聞えました。私の体がふるえてとまらないのです。その部下が隊長殿、寒いのですか、「ばかたれ、何が、・」と私は気ばってみせていました。


米軍は上陸していました。私たちは、あらかじめ設営していた西山陣地にひきあげました。

赤松隊副官がみる集団自決

集団自決のこと

西山陣地では電話も通ぜす各隊との連絡は容易ではありません。かろうじて各隊が集結していた頃、西山陣地の後方では、村民の自決が行われていました。

 

十歳くらいの女の子と、兄弟らしい男の子が陣地に私を訪ねて来て、お母さんが自決したというのです。はじめて自決のことを聞きました。

 

この子らは阿波連から恩納川に行き、西山陣地近くで、この子が手榴弾を発火させ、母親に投げたところ、赤児と母親の間におち、死んでしまったということでした。その自決場所には、妻子を殺したという男が半狂乱に、私に、自分はどうしても死ねないので斬ってくれと、わめいていました。この男も、姉弟も元気に居ります。どうして、こういうことがおきたのか。その動機は、おそらく、数日まえ阿嘉が全滅し、村民は自決したときいて、いずれ自分たちもあのようになるんだと、きめていたに違いありません。

 

そこへ、米軍の迫撃砲です。山の中をさまよい、わいわい騒いでいるところへ、どかんと飛んで来たのがそれです。


もう生きられる望みを断たれたと、思っていたのです。それが自決をさせたと思います。しかし私が問題にするのは、十歳の少女がどうして手榴弾を手に入れたか、ということです。

 

それにしても私が見た自決者の遺体は六、七体でした。記録に残三二九体というのは見てもいないし知りません。三二九体なら、それは、恩納川上流に累積していなければならないはずですが、そんなのは知りません。

 

赤松隊長は、村民に自決者があったという報告を受けて、早まったことをしてくれた、と大変悲しんでいました。

 

私は赤松の側近の一人ですから、赤松隊長から私を素どおりしてはいかなる下令も行なわれないはずです 。集団自決の命令なんて私は聞いたことも、見たこともありません。

(註・さて、沖縄人で沖縄語を語ることのできる知念氏は必ずすべての命令を知る立場にあったかは疑問の余地がある。知念氏が伊江島の女性を逃がしたと疑い、踏み絵を踏ませるようにあえて女性の処刑を命じていることからも、こうした沖縄人としての彼への根深い差別心と疑念は払しょくできていなかったと考えられる。)

 

もっとも、今現存しているA氏が機関銃を借りに来ていました。村民を殺すためだというので赤松に追い返えされていました。

少年2人の虐殺

上記の郵便局長の証言では、軍経験者の二人の若者と、日本軍とかおなじみの少年二人の四人が米軍の伝令を携えてていったというが、少年二人は拷問され、殺されている。この二人は、「集団自決」の際に負傷し、米軍の治療をうけて回復した少年であったという。赤松隊長は自ら「年が年で」何も知らない少年を虐待し、死に至らしめる。

軍隊と村民との間

小さいこの島ですから、軍は軍、民は民というわけにはいきません。集団自決や米軍の攻撃で深い傷を負った人たちが、米軍に救われ、回復して戻って来ると、とたんに村民は、米軍に対する考へ方が変って来たようでした。


村長や助役や郵便局長が、山から降りて、米軍に投降し、こんどは、村民を山から降ろすために、いろいろ宣撫工作をしていることにまでなっていました。

 

軍隊にとっては許しがたいことで、スパイ行為です。夜陰にまぎれて村民がぞろぞろ山を降りる情景が見られました。

 

そのような中で、米軍の捕虜になって逃げ帰えった二人の少年が歩哨線で日本軍に捕えられ、本部につれられて来ていました。少年たちは赤松隊長に、皇民として、捕虜になった君たちは、どのようにして、その汚名をつぐなうかと、折かんされ、死にますと答えて、立木に首をつって死んでしまいました。


少年たちは年が年ですから戦争の恐ろしさも、軍規の厳しさも何も知らなかったのでしょう。軍隊では当然利敵行為は許しません。村民が捕虜になって、陣地や兵力に関する情報が敵に通じないという保証は出来ません。そういうことで私も人を斬りました。

同化者の踏み絵 - 伊江島の女性を処刑する

米軍はまた、伊江島から移送された若い男女4人に投稿勧告文を持たせて送り込ませる。そうして全員が処刑される。唯一の沖縄出身者である知念は、お前が逃がしたのだろうと疑われ、彼に処刑させる。知念は進んで処刑者となる。

彼女は、日本軍が伊江島住民が収容されている渡嘉敷の民間人収容所に米軍から彼らを匿い、食糧などを提供してくれた女性だった。彼は、処刑は「命令に従った」ものだという。

彼は赤松隊で唯一の沖縄人将兵であった。被抑圧者は、時に抑圧者と同化 (抑圧者を内面化) することで自己実現を指向することがある。彼は自分をかばってくれた伊江島の女性を逃がしたのではないかと疑われ「非常にしゃく」と苛立ちを覚える。踏み絵のように彼女を殺すことを命じられたが、彼は「私は沖縄県人といっても赤松隊の一兵士です」と語る。

伊江島の女性を処刑する

伊江島の女性を私が処刑しました。伊江島の男女四人が、投降勧告文書を持って、陣地に近づき、捕えられ処刑されました。ところが、その中の女性一人が生き還って逃げてしまったのです。基地隊の西村大尉は私を呼びつけ、おまえが逃がしたのだろうというので、私は非常にしゃくでした

 

今度は捕えたので来てくれというので、行ってみると、女性は首を斬られて、頭がぐきりぐきりと小きざみにふるえていました。破傷風に罹っているのです。破傷風で死んだ高鳥少尉と同じ症状でした。

 

この女性はすっかり観念し、刀じゃなく銃でやってくれといっていました。銃は敵に向けるべきものなのですが、私は自分の短銃で殺しました。

 

私はこの女性は以前から顔見知りでした伊江島の人たち一千名が強制収容させられた四月下旬、私は決死隊として、収容所内に潜り込み、「知念少尉だ」と名乗り出たことがあります。その時の村民の狼狽の色は並たいていではありませんでした。

 

村民は私をかくまい食事一切の世話をしてくれました。昼は床下に、夜になると這い出して、情報の収集をしていました。私を世話した中にその女性がいたのです。顔をよく覚えています。

 

私がやったことは軍隊でやったことで、命令に従ってやったまでのことです。私には何もやましいものはないと信じています。渡嘉敷の戦争に関する何冊かの本の中には、私に同情的に書かれているものがありますが、「やられたのは沖縄人、やったのは日本軍」という考え方には賛成しません。


私は沖縄県人といっても赤松隊の一兵士です。

3人の朝鮮人軍夫の処刑

「村民の生命が大事」、といい処刑する。盗難や強姦があったといい、「無かった」という。「命令に従っただけ」、といい命令はなかった、という。逃れた朝鮮人軍夫を捕らえ、「言葉は通じなかった」のに「喜んで死んだ」という。恣意的な理屈で武器を振りまわし力を振るうことが常習化した腐敗した軍のあり方がみえる。

朝鮮人について

知念 軍隊は作戦を遂行しただけです。やましいことは何もありません。むしろ沖縄県人の内部に問いかけてみるべきではないでしょうか。私も云いたくないことはあります。云うと現存している人たちに迷惑がかかるかも知りません。

 

筆者 では地元に迷惑のかからない朝鮮人について。

知念 朝鮮人は陣中日記にもあるように、いち早く逃げ出し、米軍に投降しました。しかし中には、逃げ出したが、米軍に投降しない者がいて、その連中は村民からは盗んで喰うし、強姦はするし非常に危険な存在になっていました。

 

筆者 食糧を盗んだり、強姦事件もありましたか。
知念 村民からそのような報告を受けていました。赤松隊長の命令で私は討伐隊を編成して捜索をしていました。村民の通報で海岸にひそんでいる三人の朝鮮人を捕え、私は「おまえたちの名誉にかかわることは一切公表しない。靖国神社にも祀るから.........」と説得して斬りました。よろこんで死にました。

 

筆者 村民の要請は村会か常会かの決定によるものですか。
知念 いちいち村会か常会にかける間なんてありません。個人的なものでした。おそらく強盗も強姦もしなかったでしょう

 

筆者 村民が殺してくれと要請したのですか。
知念 殺してくれとは云いません。しかし報告のとおりだと、軍規にふれますから殺さなければなりません

 

筆者 殺された理由は何ですか。
知念 逃げた連中が畑を荒らしたことは事実です。私たちは何といっても村民の生命が大事ですし...............。

 

朝鮮人は軍夫およそ240~50名、慰安婦6名が私たちが上陸まえからいました。鈴木大隊が引きあげたあと、軍夫は赤松隊が引きとり、各中隊に50~60名ずつ配置して使役していました。朝鮮人は米軍上陸あと自活隊を編成して食糧の自給自足をさせていましたが、投降してしまいました。

 

慰安所は今の小学校のすぐ向いにありました。雇主も朝鮮人でした。慰安婦の中には女学校を出たという、教養と品位の高い者が居りました。一回の遊びが一円五〇銭でした。一人は空襲で焼死しましたが、残り五名は、軍夫と同じ行動をとったに違いありません。


日本軍は実際は朝鮮人までいちいちかまっていられなかったのです。しかし捕虜になって本島に渡る時、処刑した3人も焼死した7名も遺骨を持ち帰って、阿嘉収容所で、朝鮮人に引き渡しました。

 

阿嘉収容所で朝鮮人グループが私を私刑にかけたことがありましたが、本部に居たという軍夫にかばわれ難を逃れました。私たちは、朝鮮人については、その姓名も知りません。ことばは通じなかったし、立場は違うし、あまり関心もありませんでした。

まだまだ続く住民虐殺 - 大城訓導の処刑

大城訓導の処刑

当時、渡嘉敷小学校の校長は戦後立法院議員になった宇久真成氏で、私の同郷の先輩です。びっこのために軍隊にとられなかった崎田訓導は、私とは付属小学校のクラスメートでした。そういう関係で大城訓導とは多少面識がありました。

 

昭和十九年十月頃、三十二軍の方針によって赤松隊も現地から防衛隊を召集することになりました。「大城訓導も入隊すべし」とい村民の強い意向で、やむなく入隊したようで、兵隊になるにはちょっと年をとりすぎているようでした。

 

大城訓導は同じく教師である夫人と女の子一人をつれて那覇から赴任したばかりで間借生活をし、まだここの生活にもなじんでいなかったといいます。身重の夫人と幼子をおいて、入隊することは不本意だったといいます。

 

戦争状態になると、土地も食糧の蓄えもない母子に、村の人たちが分け与えた生活をしていたといいます。それが続くはずはありません。妻子の窮状を聞いた訓導は、逃げて妻子のもとへ帰りました。三回逃亡しては捕えられ、とうとう処刑されてしまいました。

8月17日、男性2人の処刑

8月17日、米軍の投降勧告文書をもってきた2人の男性を処刑し、その翌日から投降交渉を始める。実に卑劣で臆病すぎるほどに卑怯なやりかたである。知念氏は沖縄人であるため投降交渉に有利とみなされたのか、知念氏が軍使となる。ここでも沖縄人将校である彼は狡猾に赤松に利用されている。8月27日、交渉後、赤松隊は安全に投降する。

山を下りる

8月17日、米軍の投降勧告文書を持って陣地にやって来た二人の男が処刑されました。この投降勧告文書について早速将校会議を開いて、私が軍使となって、投降の交渉をすることになりました。私たちは二日まえ、ラジオで日本が無条件降伏したことは知っていました

戦後、赤松嘉次の弟らが原告となって、『沖縄ノート』(大江健三郎) 『太平洋戦争』(家永三郎) が名誉を毀損しているとして名誉棄損の訴訟をおこした (大江健三郎岩波書店沖縄戦裁判) 際、知念は赤松側の証人として出廷 (証人H)、軍令はなかったと証言するが、赤松隊への複雑な同化願望が強すぎたためか、その証言に一貫性がなく、信用できないとされた。事実的に彼は「副官」でもなく、本部付の連絡将校であった。

本当の副官は、辻政弘中尉であるが、終生沈黙を守った。

 

集団自決とそのあと

渡嘉敷村阿波連金城ナへ

集団自決

阿波連は、一日目の艦砲射撃で、焼け野原になっていました。アメリカ軍は、阿波連から上陸するので、早く渡嘉敷の山へ逃げるようにと、私は小さい息子二人をせかして、追いかけられるようにして、渡嘉敷に向っていました。

 

大粒の雨が、私たちの行く手をさえぎっていましたが、今、目の前に浮いている、山のような黒い軍艦から鬼畜の如き米兵が、とび出して来て、男は殺し、女は辱しめると思うと、私は気も狂わんばかりに、渡嘉敷山へ、かけ登っていきました。

 

私たちが着いた時は、すでに渡嘉敷の人もいて、雑木林の中は、人いきれで、異様な雰囲気でした。上空には飛行機が飛び交い、こんな大勢の人なので、それと察知したのか、迫撃砲が、次第次第に、こちらに近づいてくるように、こだまする爆発音が、大きくなってきていました。

 

村長の音どで天皇陛下万才を唱和し、最後に別れの歌だといって「君が代」をみんなで歌いました。自決はこの時始まったのです。防衛隊の配った手榴弾を、私は、見様見まねで、発火させました。しかし、いくら、うったりたたいたりしてもいっこうに発火しない。渡嘉敷の人のグループでは、盛んにどかどかんやっていました。

 

迫撃砲は、すぐそこで爆発した。自決しようとしている人たちを殺していた。若い者が、私の手から手榴弾を奪いとって、パカパカくり返すのですが、私のときと同じです。

 

とうとう、この若者は、手榴弾を分解して粉をとり出し、皆に分けてパクパク食べてしまいました。私も火薬は大勢の人を殺すか猛毒に違いないと思って食べたのですが、それでもだめでした。私のそばで、若い娘が「渡嘉敷の人はみな死んだし、阿波連だけ生き残るのかー、誰か殺してー」とわめいていました。

 

その時、私には「殺してー」という声には何か、そうだ、そうだと、早く私も殺してくれと呼びたくなるように共感の気持でした。意地のある男のいる世帯は早く死んだようでした。私はこの時になって、はじめて、出征していった夫の顔を思い出しました。夫が居たら、ひと思いに私は死ねたのにと、誰か殺してくれる人は居ないものかと左右に目をやった時です。

 

私の頭部に一撃、クワのような大きな刃物を打ち込み、続けざまに、顔といわず頭といわず......。目を開いて、私は私を殺す人を見ていたのですが、誰だったか、わかりません。そのあと死んでいった私の義兄だったかも知りません。私は、殺されて私の側に寝ている二人の息子に、雨がっぱをかぶせました。

 

土の臭いをかぐように、うつぶせていた私は生きていました。あれからどれくらい時間がたっていたでしょうか。土の臭いをかいで生きかえったのです。しかし体は動きません。うつぶせのまま、手を動かしてみたり足を上げてみたりしていると、どうやら、首から上が自由はきかないのです。頭と身体とは別のもののようでした。雨は、大降りではないがまだ降り続いていました。ちょろちょろ流れ落ちて来る水を左手で受けとめ、口に持っていったのですが、口が開きません。

 

またしばらく、じーっとしていると、戦争は終ったのでしょう。弾の音は一つも聞こえません。側に居た二人の息子は、そこにはいません。しかし、私は死んだ人たちの中に、ひとりでいましたが、恐いとも何とも思っていませんでした。

 

私はこの島には私ひとりが生き残って、他はみな死んだものと思っていました。私は早くシマに帰ろうと、残っているだけの力をふりしぼって身を起してみました。側に居た息子はいません。点々と死体の上に目をやるのですがそれらしいのは見当りませんでした。私の帯がほどかれて、ふところのものは、全部なくなっていました。こんな時に泥棒するものもいるものだ。私は下へ下へと降りて行くと、ジーシップに面した海岸に出ていました。そこは渡嘉敷のちょうど反対側なので、私は、シマと逆の方向に向っていたわけで山全体が、雑木を少し残しているだけで、はげ山となっていました。私の目の前をアメリカの船が行ったり来たりしています、その度ごとに私は、エビのように小さくなって、身を隠していました。そこへ五、六名の日本兵がやって来て、口もきかずに、小さいにぎり飯一と置いて、今来た道をすたすた去ってしまいました。未だ生きている人たちがいたのだと、私は不思議なほど安心感がみなぎってきました。しかしおにぎりは、一粒でも、口に入れることは出来ませんでした。

 

私はまた眠り続けました。一昼夜寝ていたかも知りません。目を覚ました時、おにぎりはまだ左手ににぎられていました。私はふるい起って、歩きはじめました。一つ山を越えては、そこで眠り目を覚ましてはまた歩くと、何回かくり返しているうちに、とうとう阿波連の自分の縦に来ていました。

 

そこには親戚の者たちが居て、私を見て大変びっくりしていましたが、集団自決のことは知っていたのでしょう。子供たちはどうしたのだと聞いていました。「死んだ」と答えると、子供を死なせて、なぜ生きているのかといい、私の傷の手当どころか、壕にも入れてくれないのです。

 

私の首は腐って、悪臭を発していましたので、親戚の人は私を壊の中に入れてくれなかったのです。しかし私は食べ物も何もほしくありませんでした。そのようにして時間がたつに従って、二人の子供のことや、いろいろなことが、頭によみがえって来て、くやしさや、悲しさやで止めどもなく涙が流れてきました。

座間味島の米軍病院で治療を受ける

蘇生した私

阿波連の老人たちの中には、自決の日、雨の中を山道は歩けないので、部落に残っている人たちがいました。この老人たちは、米軍に保護され、部落に帰って生活していました。ひょっとすると、自決の日、私たちとはぐれて姑も居るかも知らないと、部落に下りて来ると、老人だけの中に、姉はいました。

 

そのまま、私は阿波連に居付いていると、米兵が来て、私を舟にのせて、座間味へつれて行きそこの病院に入院させました。

 

そこには、私の他に、やはり自決未遂の患者が十四、五名いました。時々映画に撮られたり、記者らしい者もやって来て、珍らしそうに、私たちを見ていました。「カミカゼ」とか私の知っている言葉もいくつか出ていました。私の傷口は、彼らの興味の対象でしたので写真は何回撮られたでしょうか。

 

入院した時、米兵は、ちっともきたなさそうにもせず、私の体を熱湯で洗ったり、髪を刈って丸坊主にしていました。私の傷は、背中と首と頭は、三ツ又鍬でやられ、顔は丸太ん棒でやったようだと米軍は云っていました。

座間味の病院から渡嘉敷島に戻る - 日本軍の恐怖

口は、初めは、一粒ずつ米粒を入れていましたが、毎日ヘラで上下運動していると、開くようになっていましたが、歯という歯が一本もありません。口じゅう丸坊主になっていました。このようにして二か月、私たちは、再び阿波連に戻って来ました。阿波連は、戦争の生活の続きでした。病院でのぜいたくな食事は夢を見ているようでした。

 

私の体は回復したとはいっても、そもそも私は未だ口が開けないし、足はよちよち歩きのままでした。それでも食糧を運んでくれる人はいないし、自給を考へなければなりませんでした。

 

食糧を求めて

この島は、戦争状態は終っていましたが、米軍の保護を受けて来た私たちに、日本兵の冷たい目が光っていましたので、白昼堂々と百姓をするわけにはいきませんでした。

 

実際、私は途方にくれました。不自由な体で夜、手さぐりするように海に出て、拾いものするのです。軍艦から捨てたのでしょうか、玉ねぎやリンゴが珍らしく手に入ることがありました。しかしこのようなことはまれなことでした。ソテツを切りたおして食糧にするなんて、私の体力では及ぶところじゃありません。しかし、そのソテツさえ、見あたらなくなっていました。他所の掘った芋畑をまた掘ってひげ芋を拾ってみたりして、食卓に出るものは、雑炊です。中味は、海草、芋かずら、ヒゲ芋、ありとあらゆるものを、ごったまぜにして、申し分けに米粒を落としてあるものでした。

小嶺武則と金城幸次郎の虐殺

日本兵が怖い

雑炊をフーフー食べていると、日本兵がどーどーと入って来て、鍋ごと、はしごと、そっくり奪いとり、私たちの目の前で、フーフー吹きながら食べてしまいました。

 

私たちはいったん米軍に収容されたというので、負目に立たされていました。日本兵は、そういう私たちを山の上から常に監視していたほどでした。私たちは、ちょっとしたものでも、盗られるといけませんから、隠していなければなりませんでした。

 

あれほど厳しい中から、生きのびて来た私たちでしたが、どこの家は海からリンゴを拾って来た、毛布をひろって来た、何々があったと、お互い取り合いをし、それを日本兵に通報している者がおりました。

 

負傷して寝ている私の姪のかぶっていた毛布をかっさらったのは山の上からいつもこちらをのぞいている日本兵でした。その日本兵の中には、私の家族とは懇意にし、物のない時でしたが豆”なんか造って食べさせたことのある者もおりました。

 

そのような中ですから、スパイだ、何だといって村民を殺すことになりました。「辰の人」の小嶺武則と、「巳の人」の金城幸次郎は、座間味 (の病院) から帰って、阿波連に居ましたが、ある日、阿波連から出てきた人に、山の上の日本兵に捕まり、米軍の捕虜になった者はスパイ行為をしたと、斬り殺されてしまいました。

 

渡嘉敷島で起ったこと (大城良平)

前述の知念副官の証言と共通点の多い証言。渡嘉敷村阿波連出身、第三戦隊第一中隊。

朝鮮人軍夫と同様な扱いだった防衛隊員から異例に将兵に「昇格」したと認識する。集団自決で、妻と子供が負傷。赤松隊長らの慰霊祭への参加に賛同し、裁判では赤松命令説を否定する証人となる。(甲B70 III)

渡嘉敷村阿波連

元第三戦隊第一中隊付防衛隊 大城良平

 

中国で4年の防衛隊員

はじめに

渡嘉敷島の戦争について、書かれたものと実際に体験した人の証言に多少くい違いがあって真実がいろいろ変えられているような感じがします。私も日本兵のはしくれとして、一生懸命やりました。それが記録には日本軍の悪口ばかり残っており、大変残念に思っております。

 

公務員も命令によっては、並をはずれる事もあるし、ましてや軍隊はいかなることでも命令に従わなければなりません。戦争ですから勝たねばなりません。いろいろな条件を有利に好き勝利します。その反対の場合もまたしかりです。作戦は上官がやります。その作戦どおり戦争をやらなければなりません。

 

上官の命令は、そのいかんを問わず、天皇の命令も同じことですから、服従しなくてはなりません沖縄戦についての本の中に、渡嘉敷で集団自決があったとか、虐殺があったとか、書かれていますが、それは間違いです。軍隊には、法というものがあります。それを犯すと前しなくてはなりません。罰して殺す場合もありません。私は支那で四年も戦争して来ましたからよく知っています。

 

敵に捕虜になることも、今いう法に触れることになります。前線では、夜間、誰何して、三回呼んでも返事がない場合殺してもよいことになっています。これも法です。渡嘉敷では、勝てば官軍で敗ければ賊軍のとおり、日本軍は、何をやっても賊軍の扱いです。実際は法を施行したにすぎません。

 

赤松隊に入隊

私は昭和十八年中国の戦地から復員しました。昭和十九年来、防衛隊に召集され、渡嘉敷小学校に宿営し、兵隊同様の生活をしていました。上陸直前、私の配属された第一中隊は、私たち防衛隊を解散し、直ちに現役兵として召集し、正式の兵隊になりました。しかしこのことは、赤松氏に会った時、はてな、と首をかしげていました。防衛隊を現役兵にする命令は出なかったというのです。

 

しかし私はそれまでの朝鮮人軍夫と同様の坑木伐採などの任務から第一中隊の炊事班長変っていました。第一中隊は兵員三〇名ばかり、私の部下には朝鮮人六名がおりました。

 

もともと渡嘉敷には、鈴木少佐のひきいる一千名の基地設営隊がおりましたが、武部隊が沖縄本島から台湾へ転進したために、その穴埋めとして、鈴木大隊は一個中隊を残して引きあげてしまいました。装備一切を持って引きあげたので、残留部隊の西村中隊は、死ねといわんばっかりに貧弱で防術も何もなかったといいます。

 

ちょうど私たちが現役兵編入された時、船舶隊長大町大佐と三宅少佐が本島から視察に来ているので、私たちは本部へ集合し、各兵隊は服装もきちんとして、大町大佐の四兵を受けることになっていました。

マルレの自沈

しかし翌日はもう戦争です。慶良間は敵艦隊に包囲されていました。私たちは、舟艇を出して、今か今かと命令を持っていました。いっこうに命令は出ません。私は中隊長にききました。なぜ艇を出さないのですかとききますと、「命令が出ない。電話線が焼けて、迅絡がとれない」といっていました。

 

しかし命令を出さなかった理由は、そのようにもたもたしているうちに、夜が明けて、攻撃の機会を逸し、米側にこの秘密兵器が暴露するのを恐れて、出さなかったといいます。とにかく、本部と各中隊は艦砲と空襲で電話がとぎれたことは確かです。

 

赤松隊長は、作戦遂行を主張したといいますが、大町大佐は、我々がやりそこねると、本島の二八戦隊全体の作戦がおじゃんになると出撃中止をしたといいます。

 

そして舟艇を自沈させたのです。その後大町大佐三宅少佐は、本島へ渡ったのですが、大佐の舟は行方不明、少佐の舟は何回か失敗をくりかえしながら、糸満にたどり着いたそうです。大町大佐がここに来ていたことに、誤解がはじまったのです。出撃させなかったのは大町大佐です。私は上官からそう聞きました。

 

その次の日、アメリカ軍は上陸しました。第一中隊は一応西山陣地に集結し、編成替えをして、私たちは阿波連にもどりました。そこでの私たちの任務は、警備と敵の阻止と食糧の徴収でした。

 

私たちは、敵がたやすく入れない所に陣地を設営していました。その壕は今もちゃんと残っていますが、山の中腹にありますから米軍もちょっと攻めにくかったのでしょう。私たちの防備は大変貧弱なものでしたが、敵が攻めて来たら、つっ込むつもりでいました。しかし敵は、山の髄まで来て、すぐひきかえして行きました。何回かそういうことがありました。

 

私たちから攻撃することはしませんでした。やる気は充分ありましたが、弾一発でも大事にしなければならないし、鉄砲も皆が持っている分けではありません。とうとう終戦で山から降りて来いという命令でした。全く仕方がありませんでした。

スパイとして住民を取り調べ

地元住民でもあるため、通訳のようにして住民の取り調べに関与。また集団自決の真実においてはどうやら「真実」よりも「とうのこうのと書く」ことが「後世の影響に悪い」と考えている。

住民と兵隊との板ばさみ

我々が軍の法に従って行動すると、自分の故郷ですから、つらいこともありました。住民をいじめなければならない立場は、人間として矛盾があります。住民は戦争はしませんから、作戦に関係ないと思っておりました。こちらには住民にやっていけない事が少なくありません。捕虜になられると、こちらの陣地や兵力が敵側にばれてしまう。軍隊にとっては、大変迷惑な話です。

 

敵につれ去られていって、四、五日してから帰って来る。こういう事は明らかにスパイ行為をやっていると断定します。私は土地の只ものですから、事情に詳しいので、上官は私を側において取調べをやる。罰するのは下の私です。私がやらなければ、又私自身も変な目でみられる。これが大変つらかったです。

 

渡嘉敷はあまりにも内部の問題が多すぎました。戦史の中では、いろいろな記事が出たり、中には間遮ったものもあると思います。私は板ばさみのつらい立場から、その内部問題にふれてみます。

 

集団自決

集団自決は私の家内と子供も半殺しにあって、今家内の傷あとをて見ると、よくも生きられたものだと、人間の生命力に感心しています。

 

家内の体験はむごいものです。手榴弾が発火しないので、お互い殺し合いが始まり、家内は確かに何人かを棒で殴ったし、自分もさんざんクワのようなもので頭といわず胴といわず殴られ、米軍に救われた時は自決の日から三日たっていたといいます。あの日は米軍の攻撃も激しく、何が何やら全然わからなかったそうです。この辺の真実はどう文章で表現するかが問題です。遺族は運命だとあきらめています。

 

赤松隊長が自決を命令したという説がありますが、私はそうではないと思います。なにしろ、赤松は自分の部下さえ指揮できない状態に来ていたのです。

 

私は自分の家内が自決したということを聞いて、中隊長になぜ自決させたのかと迫ったことがありました。中隊長は、そんなことは知らなかったと、いっていました。

 

ではなぜ自決したか。それは当時の教育がそこにあてはまったからだと思います。くだけて云えば、敵の捕虜になるより、いさぎよく死ぬべきということです。自発的にやったんだと思います。

 

それに「はずみ」というものがあります。あの時、村の有志が「もう良い時分ではないか」といって、万才を三唱させていたといいますから、それが「はずみ」になったのではないでしょうか。みんな喜んで手榴弾の信管を抜いていたといいます。

 

その時、村の指海者の一人が、住民を殺すからと、機関銃を借りに来たといいます。そんなことは出来ないと、赤松隊長は追いやったと、彼自身から聞きました。結局自決は住民みんなの自発的なものだということになります。

 

自決の日から二日目、私は中隊長の命令で、東側の儀志保近くに住民がまだたくさん居るので、状況を見に行きました。本部の近くに居りました。

 

そこが第二玉砕場です。ここでも自決したのかどうかわかりませんが、自決場から逃げてここまで来ると、アメリカの迫撃砲が雨のように降って来て、死傷者が出たということでした。

 

生き残りには阿波連の人が多いようでした。その中に、弟と親がいましたが、家内と娘はどこにも見あたりませんでした。私は持参のタバコと水をおいて、戦争はどうであろうと仕方がないが、生命はぜったいに粗末にするなと、励まして帰って来ました。

 

前にもちょっとふれましたが家内と娘は、自決場で手榴弾が発火しないので、したたかにクワのようなもので殴られ、三日間仮死状態ののち、アメリカ軍に助けられたとのことです。娘は三七歳、今那覇に嫁いでおります。

大城徳安訓導の処刑

私の家内は自決を体験し、また人のするのも見ているので、真実を知っております。しかし真実の表現がむつかしいのです。集団自決と部隊とは何も関係ありません。軍隊は勝つために一生懸命でした。集団自決をとりあげて、部隊がどうのこうのと書く、それが後世に悪い影響として残ります。大城徳安氏の場合も軍には何も悪いことはありません。

 

大城徳安教頭のこと

伊江島の人たちは早目に米軍に手を上げて、渡嘉敷に約一千名くらい来ていました。その中の一部が米軍の投降勧告文書を持って、日本軍陣地に来た所、捕えられて斬られたことは聞いて知っていましたが、大城先生については私もかかわっていましたので、知りすぎるくらい知っています。大城先生は、具合が悪かったのです。何度逃げたか知りません。防衛隊と云えども軍隊の一員であるという自覚の全然ない人でした。逃げては捕えられて、前せられるのですがききめはありませんでした。

 

上陸まえ防衛隊に召集され、第二中隊の指揮班に配属されていましたが、壕掘作業中、班長の軍曹に、分隊長どの補充兵にも鉄砲持たせて戦争させるのですかと、しつこく聞いていました。

住民の監視役であり、同時に軍に監視される防衛隊員

住民を監視させるために利用された大城は、戦後、自分も軍に監視されていたことを知る。それでも軍に正規兵として受け入れられた (実際にはそんな命令はなかったが) ことで軍と同化した意識をもつ。

ある日、私は罰されて、重労働をさせられている大城先生の監視をしていました。その時の重労働は、飲料水を蒸溜するポンプを朝から夜までこいでいました。その時しきりに軍隊を罵り、戦争が終ったら暴露するとかいっていましたので、私が方言で「おまえはそんなことを云うけど、もう少しまじめにやったらどうだ。これ以上云うと、おまえは殺されるぞ」とたしなめたことがありました。方言でやりとりしている私たちに、他の兵隊はけげんな態度を示し、方言は使うなとどなっていました。この調子では私さえあぶないと思いました。

 

その後また逃げて捕えられ、とうとう斬られてしまいました。あの頃はしかし、何かと云えばすぐ刀を抜こうとするのが上官の権威のようなものでした。私も愛知県出身の神谷伍長に抜身で折かんされたことがありました。なぜかは忘れましたが、何でもないことだったと思います。

 

一昨年神谷伍長が来島した時、酒をくみ交しながら、あの時、私を斬るぞとあなたは云っていたが、憶えているかときいてみたらそんなことがありましたかと、笑っていました。おどろいたことに、神谷伍長は上の命令で、大城徳安氏を監視している私を、更に背後から監視していたそうです。

曾根一等兵の投降

では朝鮮人のことを話しましょう。上陸前の空襲で軍夫が焼跡から死体となって出て来た他は、私は朝鮮人の死体は見ておりません。第二中隊の炊事班に六名朝鮮人軍夫が居りました。この六名は私の部下です。可愛がりました。そして六名とも元気に帰りました。しかし私が沖縄人だからそうしたのでしょう。本土の人は朝鮮人をあんまりよくは思っていませんでしたので、軍隊ではひどい仕うちが行われていました。

 

朝鮮人も無謀なことをやっていました。逃亡してアメリカ軍に投降するのです。私は逃亡した朝鮮人をつれもどして使いました。

 

朝鮮人が斬られたことがあります。逃亡の他に物を盗んだらしいです。私の所ではそんなことはありませんでした。朝鮮人も使いよう一つです。私の所では一人だに殺しはしません。

 

戦死したり殺されたりした朝鮮人の遺体は、所在のはっきりしたものは、持ち帰ったと思います。兵隊は多少なりとも無理しても探し出して行ったはずですが、朝鮮人とはあまりつき合いもないし、言葉も通じないので、しいて探しはしなかったと思います。朝鮮人逃亡の途中で死んだ者については、誰も知りません。日本軍は無やみやたらとは朝鮮人は殺さなかったと思います。誰が考えても自分の召使いを斬ることはありますまい。

 

曾根一等兵は、本部と私のところの連絡員をしていました。普通は連絡員は上等兵以上の人がやるのですが、たっての頼みで、やっていたということでしたが、ある日、阿波連から本部の隊長の所へイモとイモの葉を持たせて行かせました。そのまま、二十数名の朝鮮人といっしょにアメリカ軍に投降してしまいました。

 

渡嘉敷島防衛隊

渡嘉敷村字渡嘉敷元海上挺進隊第三戦隊防衛隊小嶺源次

戦争まえ私は昭和十六年四月補充兵として満州に渡りました。満州は、すぐ今にも戦争が始まるんじゃないかという、何か目には見えないが、敵はすぐそこに居るような雰囲気でした。

 

昭和十六年十二月末、私の部隊は南方へ転進しましたが、私は、どうしたわけか残り、そして明けて七月には召集解除になりました。私は甲種合格でもあったので、数少ない解除者の中に私がはいったことは、不思議に思っておりました。

 

その頃日本海にはアメリカの桝水艦が出没して、下関釜山連絡船が撃沈された例が少なくありません。私の乗っていた船は厳重な解戒のなかでジグザグコースをとって下関につきました。島では、私は再び私の職業である鰹節製造業にはげんでいました。鰹節をいくら製造しても足りない時期に来ていました。島の二つの工場には電灯もつき今までになかった活気を呈していました。

 

そうした中で、県は、各村に割りあてた何名かの屈強な若者を選び出し、三池炭坑へ浴仕団として送り出すことになっていました。渡嘉敷では希望者を募ったのですが、手の空いている若者というのはいないはずです。応ずる者がいなく、とうとう村長のたっての頼みで、私が参加することになりました。

 

私としては、南方転進の際にとり残されたくやしさもあって、国家非常の際、危険に関することならばと、勇照島をはなれました。十八年七月頃でした。石炭も増産に増産で、昼夜となく機械は動いておりました。三池炭坑では奉仕というので特別な扱いは許されなかった。私たちは炭坑夫に混って同じ仕事をしていました。慣れるまでに大変つらい思いをしていました。

 

その頃、南方の戦線は、次第に雲行きがあやしくなっていました。昭和十九年七月初めでした。サンパン陥落をきき、なんとなく広げた地図をのぞいていた私ははっとしました。同じ日本といっても本土との感覚の違いに気がついたのです。サイパンはなるほど日本から遠い所にある島で、いわば他所のことです。しかし、沖縄からするとすぐそこ、直感的に、次は沖縄だと確信みたいなのがありました。そう思った瞬間から私は気が気じゃなかった。昭和十九年九月、許されて帰ってみると、島は戦争寸前でした。島の人口と同じ数の兵隊がいました。どの家も兵隊が母屋を占拠し、漁船は軍に徴発され、工場は倉庫になっていた。私は旅の疲れをいやす間もありません。早速徴用されて、陣地構築に従事していました。そこは秘密の基地であるらしく、中には常に監視の目が光り、村民が島外に出ることは厳しく規制されていました。

 

十・十空襲

その日は快晴、陣地に行くとそこから那覇の街が手にとるようにすけて見えました。その那糊が、煙につつまれていてバンバン高射砲も撃っています。こんなことは今までにないことでした。兵隊は空襲演習だと云っていました。私たちは変だなーと思いながらも作業を続けていました。十一時頃であった。突然、四機編隊の飛行機が現われてきました。日本の飛行機とは爆音が違う。機首を下げて飛行機は漁船に機銃掃射をあびせてきました。

 

部隊もようやく空襲だとわかって、おのおの配置について実戦の準備をしていました。私たちは、とるものもとりあえず、あたふたと家族の元へ帰って来ました。

 

渡嘉敷港に入港していた軍用船二炎と漁船二隻は沈没したものもあった。嘉豊丸は港の東側の近海で、盤の餌をとっていた。嘉豊丸の船長は私の義兄であるため、私は急いで岬へ行き、嘉豊丸の行方を追っていました。

 

豊丸は動いてはいたが、人形はなかった。私は引きかえして港へ行き、サバニを出して、敵機を気にしながら嘉豊丸に近づいてみると、舟は無残にたたきつぶされ、義兄はトモの方に、浴びるように血に染って概たわっておりました。残兄は機銃で腹をぶち抜かれ出血多長で息もたえだえの状態でした。

 

この舟には十名乗っていたはずだが、あとの人たちはどうしたのだろう。私は義兄をサバニに移し、阿波連部落に上陸し、誰かに診療所の伊野波先生を呼んで来てもらおうと思っても、ひとっ子一人も、兵隊さえ見あたらない。仕方なく、近くのハル小屋にワラを敷いて寝かせました。私は義兄のバンドをはずして、太腿を強くしばりましたが、もう出る血もありません。顔色が灰色にかわっていました。

 

便が出ると云っていました。私は義兄の下のものを処理していると、義兄はぼろぼろ涙を流して、昨夜の夢におまえが出て来たが、こんなことをさせるためだったのかと、どもりで普通のように会話の通じなかった義兄は、家族のことや漁業のことを「頼む、頼む」とすらすらことばが出ていました。不思議なことでした。

 

涙というものは、あんなにもたくさん落ちるものか。私は義兄を抱いてワンワン泣きました。義兄はすっかりあきらめているようでした。苦しいから股のバンドをゆるめるようにといっていました。義兄にワラをかぶせて、渡嘉敷の家族に知らせに走りました。

 

その間、爆音は聞こえなくなっておりました。が、渡嘉敷も人は居りません。思い当る所を探したがどこにも居りません。この日にかぎって自分持ちの塚には避難しなくて山に逃げているということでした。陽は落ちようとしています。那湖は燃えて全体が赤く見えまして、ようやくぞろぞろ山から降りて来る人たちの中に義兄の家の者を見つけ、急ぎ阿波連に行きました。義兄は冷たくなっておりました。

 

防衛隊十月末、私は防術隊に召集され、渡始敷小学校に宿営しました。防衛隊といっても教育もなにもありません。徴用の時と何もかわらない、材木を切り、坑木を作り、琴掘りでした。時には漁撈班を編成して、漁をして極森の供給をやっていました。そのようにして私たちはいよいよ戦争に巻き込まれて行きました。慶良間の内海に時々米軍の潜水艦が浮上して私たちをびっくりさせたこともありました。

 

3月23日早朝から始まった空襲は、今までとは違い、徹底的に部落内を焼き払いました。第二中隊は渡嘉志久に配備していました。空襲は3月25日になっても間をおかず続いていました。

 

第二中隊はかねて準備していた特攻舟艇を壊から出し、出撃の態勢にありました。なぜそうなったか知らないままに、今度は壊に舟艇をとめていました。その時、夜は白々と明けていました。舟艇を隊員の手で爆破して、沈めてしまいました。空にはグラマンが群がって飛んでいました。

 

このことについてはその後いろいろ言われていますが、私が見たのはそれだけです。

 

特攻舟艇を爆破して、第二中隊は西山陣地に配備しました。二十六日、米軍は阿波史、渡嘉志久より上陸、はやばやと西山陣地に迫るA高地を占領した。A高地は第二中隊の配備地点から四、五00メートル離れた所で、皮嘉敷部落のすぐ裏に当っている。「第二中隊へ大隊長の命令が伝達されておりました。「敵はA高地まで迫っている。もし、西山陣地へ一五〇メートル以内まで接近するならば、貴隊は、一人十殺の敢闘精神を発揮して最後の突撃を敢行せよ」というものでした。その時中隊長は無線機を壊し、酒なのか水なのかわからんが、盃を交わしていました。二十二の宮野中隊長はひじょうにうわずった声で「戦闘準備」と叫んで、しのつく雨の中をマントをかなぐりすて、抜刀して勇んでいました。私は、あわてて家族の方へ帰っていきました。「手榴弾二発ではどうにもならない」、死ぬ時は家族と一緒にというのが率直な気持でした。

女ははずかしめられ、男は男根を切られると、言いふくめられ

集団自決

恩納川の家族のところに着いた時、集団自決が始まっていました。集団自決は必然的に起ったことだと思います。その頃、アメリカ兵に捕われたら、女ははずかしめられ、男は男根を切られると、言いふくめられて、ほんとにそうされると信じていましたから。日本国民としてアメリカ兵の恥辱を受けることは末代までの恥であると考えたことはあたりまえで、今ではとても考えられないことです。

 

私は娘二人を抱えていたので、とにかくどうにかしなければならないと思っていましたが......、自決場はこの世の地獄でした。「私はそれだけしか言えません。渡嘉敷の戦争の関係者は現存していますし、ひょっとすると、私がこれ以上しゃべると、再びこの人たちが傷つくか知れません。察してもらいたいと思います。

 

渡嘉敷女子青年団

匿名座談会

K 私が女子青年団長になったのは、昭和十八年で、その時には、すでに、ルーズベルトチャーチルの人形を造って、竹槍で刺す訓練をしていたりして戦争気分は最高潮に来ていたと思います。

 

M 私はその頃、役場の兵事係をしていましたので、直接戦争と関係のあることばかりやらされていました。渡嘉敷は、徴兵検査は抜群に成績がよく、それだけに、竹槍訓練なども、身に入ったと思います。

 

N 標準語励行なども、徹底していました。私はちょうどその年に女子師範を卒業して、赴任したばかりでしたが、私が見た那覇のどの学校より標準語が上手でした。

 

M 基地隊が来て、はじめて、大量の日本兵だったので、島中が大変だった。私たちは、あの基地隊上陸の日から、ずっと終戦まで、日本軍に奉仕していたわけです。

 

K 初めは奉仕のつもりが、とうとう職業になって月給をもらっていた。私は前の年の十一月から二月まで、二O円の月給をもらっていました。三月は下旬に戦争が始まったために、三月分はもらっていません。

 

K 私たちは主として、炊事の手伝いではなかったか。私は第二中隊の炊事班に居りました。

 

H 私は特攻舟艇の滑走路作りや、またそれをカムフラージュする草刈りなどやっていました。朝、その作業現場に行く時は、いったん港まで来て、積まれている弾薬をかついで、山に持っていって、それから作業は始めるという日課でした。K洗濯場ははなやかでした。川は洗濯班の娘たちでいっぱいでした。

 

K 十・十空襲は、作業中、変だとは思っていましたが、いくら空襲でもこんな小さい島まで来るはずはないと思っていたのです。そうしてたら港に爆弾が落ちた。それで、はじめて兵隊もあれは本物だと壕の中に入っていきました。

その時やられた船には私の父が乗っていて、機銃掃射で死にました。渡嘉敷に爆弾が落ちたのは、十一時頃でした。それまで、兵隊は演習だといって、のん気に那覇の方を眺めていました。すきとおるように、那覇がよく見える日でした。

 

N 学校も爆弾がおちてから、生徒達を家にかえしました。

 

K 三月二十三日まで、とにかく女子青年団という組織じゃなかったが、団員八十五名、全面的に軍に協力しました。

 

M 私はむしろその後からが、軍と一緒にやった時期です。それまでは、役場で仕事がありますから団員と一緒ということはありませんでした。

 

K 基地隊が本島に帰って、赤松隊が来たわけですね。基地隊は武器は全部持って行きましたが、食糧はそのまま置いてありました。カツオ節工場二棟は食糧がはいっていました。基地隊の送別会の席上で、鈴木隊長は、赤松隊と村民も仲よく分けあって食べて下さいとおっしゃっていました。しかし、その食概は二十三日の空襲でまる焼け、米だけはどうやら食べられたようでした。

 

M 食糧といえば、渡嘉敷の人で栄養失調で死んだ人は居ないでしょう。日本軍には居たようですけれど。

 

N 渡嘉敷はもともと、米も刈りとると、物のまま保管し、使う人のだけしか精米はしませんので、どの家でも一年分の食糧はいつでもあります。何しろ台風で昔は餓死もしたという経験もありますから。

 

M 食糧は、あまり島外に出しません。島外に出るのは、小豚ぐらいでしょう。カツオ節は特産品ですので戦争中でもどの家でも二、三0斤くらいは持っていたと思います。

 

K 三月二十三日は、第二中隊で作業中でした。夕方いったん空襲は終っていましたので、とっぷり日はくれていましたが、渡嘉敷は赤々と燃えていました。私たち団員ひとりびとり高橋伍長が送ってくれました。私の家の壕に帰ってみると、どこへ行ったのか誰もいませんので、私はそのまま陣地にもどって、そこで夜を明しました。翌日早朝、第二中隊の陣地に防衛隊がかけ込んで、今、山から見ていると、アメリカの艦隊が、本島の喜屋武岬を廻って、ここに向っていると報告してきました。

私はたちどころに家族のもとへ帰りました。この防衛隊は誰だったかは忘れましたが、住民は早く恩納川原に避難せよと、ふれ歩いていました。

 

H 二十三日は身うごきもできませんでした。でも私たちは、特攻舟艇の出撃を感じていましたから、準備だけは、兵隊の命令で一生懸命やっていました。空襲がいちじ止んで夕方家族の所に帰ってきました。

一部の女性たちには

一部の女性たちは、自決現場となる恩納川原をはなれて、本部に避難せよと伝えられていた。

K 二十七日でした。再び防衛隊がやってきて、米軍が上陸したので、恩納川原をはなれて、本部の方に避難しなさいと命令してきました。しかし、私たちの家族四名は、私が、母を背負っているものですから、難儀しないよう、イズン川筋にあった、ナガスジに壕を掘ってあったのでそこに行きました。ウチマシ(屋号)の塚とは隣同士でした。

 

G 私たちもそういうことで本部に行ったのですが、そこには、四百名くらいの人がいました。

 

K 命令は、私たちの場合は聞きませんでした。人々が、特に私たちの近くを阿波連の人たちがぞろぞろ行くものですから、私たちもそうしただけでした。

 

N 私は映画みたようでした。死にに行くってよー、あなたたちは行かないのー、といっているのを夢みたいに聞いていました。

 

H うしろに米兵がいて、それが、追っかけて来るような錯覚におち入っていました。

 

G 私たちが本部に着いた時は、とっぷり日は楽れていましたが、みんな死ぬ準備していました。

 

N その時、榴弾を防衛隊が配っていた。万才をしたり、君が代を歌ったりしていました。その中で防衛隊が手榴弾の発火のさせ方をみんなに教えていました。

 

K 私たちの心の中には、敵に殺られるより、自分で死んだ方がよいという考えがありました。女はさんざんいたずらし、男は男根を切る、といいふくめられていましたね。私は部隊が私たちを解散させた二十三日の晩、手榴弾を二個もらってかくし持っていました。一発は米兵に、二発目は自分にと、それほどまでに決意は固められていました。私たちはナガスジを出て、やっぱり、本部に行きました。出発前に、ウチマンのお父さんは、塚の側の立木に首をつって死んでしまいました。

 

H 私たちも、ヨシ門(屋号)のおじいさんを中心にして、十二、三名でしたが、円を作っていました。そうしていると、私の弟が、自分は死なんぞと、手榴弾を捨てて逃げてしまいました。手榴弾はあちこちで爆発していました。私たちは、なんとなく、ただ皆が死ぬのを、見ていました。死にきれない人が、殺してくれと、叫んでました。そこで私は、オノで頭を割っている光景を見ました。私はその時は無神経のようでしたよ。

 

N 手榴弾がどかんどかんやっている所へA高地から迫撃砲飛んできました。死のうとしている人も、死にきれない人も、それで死んだのも少なくありません。

 

K 自決に失敗して、本部に助けを求めに行く途中、迫撃砲の直撃弾が仲門のお父さんに当って、その破片が、西銘のお父さんまで即死させました。すぐそばに私はいましたが、かすり傷一つもありません。

 

H 押しあいへしあいで本部になだれ込んでいた。

 

K 私は、西山陣地の下の方で重機を構えていた高橋軍曹の所へ行って、この重機で私をうって下さいと哀願しましたら、生きられるだけがんばりなさいと励まされて引きかえしました。本部へ行ってみると、西村大尉が軍刀を抜いて身がまえして、任民はここへ寄るなきかないかー、斬るぞーと叫んでいた。その時も迫撃砲は間断なく撃ち込まれていました。どうしたわけか、松川の兄さんの手榴弾が爆発して、その破片が、白刃の西村大尉に当って倒れていました。

 

N 本部を追っばらわれた人たちは、今、言われている第二玉砕場に集まっていました。そこでも自決は行われていましたが、多くは米軍の迫撃砲でやられたのではないかと思います。

 

T 私は二十七日、恩納川原に居ました。防衛隊がやって来て、米軍がこの山の上であかりをつけて壕を掘っているというものですから、敵はもうここに来ているのかと、恩納川原をたって本部に行きました。その日は大粒の雨でしたね。持物が非常に重くなっていました。私たちが着いた所は本部ではなく、玉砕場でした。

 

S 私のグループは比嘉利輝さんが、手榴弾の信管を抜いて、自分の靴の底にパカパカたたきつけていましたが発火しないので、すぐそばの樫の木にパカパカやったところ、爆発して、比嘉さんの右手がふっ飛び、私たちは無傷でした。みんなが、死んで行く様を見ていると、こわくなって、私たちは、そのまま、本部に行きました。そしたら、「こっちへ来たら殺すぞー」と将校が叫んでいました。

本部で日本軍に迫っぱらわれてから、みな乱れていましたね。その瞬間気ちがいになった人もいました。私もどこでどうしたか、本部のあとのことは憶えていません。

 

K 人情も何もあったものじゃありませんでした。恩納川原を出て玉砕場へ向っている時です。Mのお祖父さんは寒さのあまり、気絶しているのを家族は死んだものと早合点して、捨てて先に行ってしまいましたが、この人が生きがえってちょうどそこを歩いていた私にとりすがってつれていってくれというのです。私は母をおんぶしているし、どうにもならないので、本部に行ったら、あなたの家族に知らせますと、別れてさっそく家族を探して、ことの次第を話したのですが、死んだ人が生きかえるはずはないとか、行くまでにまた死んでいるよ、とかいってうけあってくれませんでした。いたる所でこのようなことが起きていました。

 

H 本部を追っぱらわれて、第二玉砂場の反対の方向のジーシップに面する谷間に五〇名ほどの人たちと隠れていました。全く皮肉なことに、松本の姉さんは、男児を出産しました。そのあと私は食糧を求めて、ジーシップの上の方に登ってみると、谷川の水はぶくぶく泡を立てていました。血が腐って悪臭をはなっていました。そのままずーっと進んで行くと、玉砕場に出ていました。谷川に落ちた死体もあります。食糧はないものかと死体の間を歩いていますと、私を呼ぶのです。よく見ると仲村初子さんでした。今しがたアメリカ兵が来て、見込みのある者は注射してタンカで運び、私は見込がないと、そのまま、ほったらかされたというのです。私が発見した生き残りは四名でした。山を下りると避難小屋へ急ぎ、四人の人を救出しましたが、二人はまもなく死んでしまいました。Tさんに一家殺されたという人がいました。しかしTさんも、一家自決して果ててしまっていました。

私の従弟のMは、I先生に殺して下さいと頼んで殺されました。この先生一家もまた全滅しました。玉砂場で死んだのは、二、三百名ではないかと思います。K私は本部を追っぱらわれたあと、ジーシップの方に下りて行って、そこで頭から毛布をすっぽりかぶって夜を明かしました。ちょうど、そこを通りかかった村長に中村茂子さんといっしょに、医務室の手伝をするよう命令されました。

気持も落ちつかないし、いやだったのですが、自決場から運ばれた思者の治療だというものですから、仕方なくやりました。そこにはいろいろな人が集まっていました。

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■