沖縄戦証言 慶良間諸島 (3) 渡嘉敷島

コンコーダンス用の書きおこしです。誤字などがありますので、必ず原典をお確かめください。《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

 

人はいないし、自給を考へなければなりませんでした。

食糧を求めて

この島は、戦争状態は終っていましたが、米軍の保護を受けて来た私たちに、日本兵の冷たい目が光っていましたので、白昼堂々と百姓をするわけにはいきませんでした。

 

実際、私は途方にくれました。不自由な体で夜、手さぐりするように海に出て、拾いものするのです。軍艦から捨てたのでしょうか、玉ねぎやリンゴが珍らしく手に入ることがありました。しかしこのようなことはまれなことでした。ソテツを切りたおして食糧にするなんて、私の体力では及ぶところじゃありません。しかし、そのソテツさえ、見あたらなくなっていました。他所の掘った芋畑をまた掘ってひげ芋を拾ってみたりして、食卓に出るものは、雑炊です。中味は、海草、芋かずら、ヒゲ芋、ありとあらゆるものを、ごったまぜにして、申し分けに米粒を落としてあるものでした。

 

日本兵が怖い

雑炊をフーフー食べていると、日本兵がどーどーと入って来て、鍋ごと、はしごと、そっくり奪いとり、私たちの目の前で、フーフー吹きながら食べてしまいました。

私たちはいったん米軍に収容されたというので、負目に立たされていました。日本兵は、そういう私たちを山の上から常に監視していたほどでした。私たちは、ちょっとしたものでも、盗られるといけませんから、隠していなければなりませんでした。

 

あれほど厳しい中から、生きのびて来た私たちでしたが、どこの家は海からリンゴを拾って来た、毛布をひろって来た、何々があったと、お互い取り合いをし、それを日本兵に通報している者がおりました。

 

負傷して寝ている私の姪のかぶっていた毛布をかっさらったのは山の上からいつもこちらをのぞいている日本兵でした。その日本兵の中には、私の家族とは懇意にし、物のない時でしたが豆”なんか造って食べさせたことのある者もおりました。

そのような中ですから、スパイだ、何だといって村民を殺すことになりました。「辰の人」の小磁武則と、「巳の人」の金城幸次郎は、座間味から帰って、阿波連に居ましたが、ある日、阿波連から出てきた人に、山の上の日本兵に捕まり、米軍の捕虜になった者はスパイ行為をしたと、斬り殺されてしまいました。

 

渡嘉敷島で起ったこと

渡嘉敷村阿波連元第三戦隊第一中隊付防衛隊大城良平

はじめに

渡嘉敷島の戦争について、書かれたものと実際に体験した人の証言に多少くい違いがあって真実がいろいろ変えられているような感じがします。私も日本兵のはしくれとして、一生懸命やりました。それが記録には日本軍の趣口ばかり残っており、大変残念に思っております。

 

公務員も命令によっては、並をはずれる事もあるし、ましてや軍隊はいかなることでも命令に従わなければなりません。戦争ですから勝たねばなりません。いろいろな条件を有利に好き勝利します。その反対の場合もまたしかりです。作戦は上官がやります。その作戦どおり戦争をやらなければなりません。

 

上官の命令は、そのいかんを問わず、天皇の命令も同じことですから、服従しなくてはなりません沖縄戦についての本の中に、渡嘉敷で集団自決があったとか、虐殺があったとか、書かれていますが、それは間違いです。軍隊には、法というものがあります。それを犯すと前しなくてはなりません。罰して殺す場合もありません。私は支那で四年も戦争して来ましたからよく知っています。

 

敵に捕虜になることも、今いう法に触れることになります。前線では、夜間、誰何して、三回呼んでも返事がない場合殺してもよいことになっています。これも法です。渡嘉敷では、勝てば官軍で敗ければ賊軍のとおり、日本軍は、何をやっても賊軍の扱いです。実際は法を施行したにすぎません。

 

赤松隊に入隊

私は昭和十八年中国の戦地から復員しました。昭和十九年来、防衛隊に召集され、渡嘉敷小学校に宿営し、兵隊同様の生活をしていました。上陸直前、私の配属された第一中隊は、私たち防衛隊を解散し、直ちに現役兵として召集し、正式の兵隊になりました。しかしこのことは、赤松氏に会った時、はてな、と首をかしげていました。防衛隊を現役兵にする命令は出なかったというのです。

 

しかし私はそれまでの朝鮮人軍夫と同様の坑木伐採などの任務から第一中隊の炊事班長に変っていました。第一中隊は兵員三〇名ばかり、私の部下には朝鮮人六名がおりました。

 

もともと渡嘉敷には、鈴木少佐のひきいる一千名の基地設営隊がおりましたが、武部隊が沖縄本島から台湾へ転進したために、その穴埋めとして、鈴木大隊は一個中隊を残して引きあげてしまいました。装備一切を持って引きあげたので、残留部隊の西村中隊は、死ねといわんばっかりに貧弱で防術も何もなかったといいます。

 

ちょうど私たちが現役兵編入された時、船舶隊長大町大佐と三宅少佐が本島から視察に来ているので、私たちは本部へ集合し、各兵隊は服装もきちんとして、大町大佐の四兵を受けることになっていました。

 

しかし翌日はもう戦争です。慶良間は敵艦隊に包囲されていました。私たちは、舟艇を出して、今か今かと命令を持っていました。いっこうに命令は出ません。私は中隊長にききました。なぜ艇を出さないのですかとききます

 

「命令が出ない。電話線が焼けて、迅絡がとれない」といっていました。

 

しかし命令を出さなかった理由は、そのようにもたもたしているうちに、夜が明けて、攻蝶の機会を逸し、米側にこの秘密兵器が暴露するのを恐れて、出さなかったといいます。とにかく、本部と各中隊は艦砲と空襲で電話がとぎれたことは確かです。

 

赤松隊長は、作戦遂行を主張したといいますが、大町大佐は、我々がやりそこねると、本島の二八戦隊全体の作戦がおじゃんになると出撃中止をしたといいます。

 

そして舟艇を自沈させたのです。その後大町大佐と三宅少佐は、本島へ渡ったのですが、大佐の舟は行方不明、少佐の舟は何回か失敗をくりかえしながら、糸満にたどり着いたそうです。大町大佐がここに来ていたことに、誤解がはじまったのです。出撃させなかったのは大町大佐です。私は上官からそう聞きました。

 

その次の日、アメリカ軍は上陸しました。第一中隊は一応西山陣地に集結し、編成替えをして、私たちは阿波連にもどりました。そこでの私たちの任務は、警備と敵の阻止と食糧の徴収でした。

 

私たちは、敵がたやすく入れない所に陣地を設営していました。その壕は今もちゃんと残っていますが、山の中腹にありますから米軍もちょっと攻めにくかったのでしょう。私たちの防備は大変貧弱なものでしたが、敵が攻めて来たら、つっ込むつもりでいました。しかし敵は、山の髄まで来て、すぐひきかえして行きました。何回かそういうことがありました。

 

私たちから攻撃することはしませんでした。やる気は充分ありましたが、弾一発でも大事にしなければならないし、鉄砲も皆が持っている分けではありません。とうとう終戦で山から降りて来いという命令でした。全く仕方がありませんでした。

 

住民と兵隊との板ばさみ

我々が軍の法に従って行動すると、自分の故郷ですから、つらいこともありました。住民をいじめなければならない立場は、人間として矛盾があります。住民は戦争はしませんから、作戦に関係ないと思っておりました。こちらには住民にやっていけない事が少なくありません。捕虜になられると、こちらの陣地や兵力が敵側にばれてしまう。軍隊にとっては、大変迷惑な話です。

 

敵につれ去られていって、四、五日してから帰って来る。こういう事は明らかにスパイ行為をやっていると断定します。私は土地の只ものですから、事情に詳しいので、上官は私を側において取調べをやる。罰するのは下の私です。私がやらなければ、又私自身も変な目でみられる。これが大変つらかったです。

 

渡嘉敷はあまりにも内部の問題が多すぎました。戦史の中では、いろいろな記事が出たり、中には間遮ったものもあると思います。私は板ばさみのつらい立場から、その内部問題にふれてみます。

 

集団自決

集団自決は私の家内と子供も半殺しにあって、今家内の傷あとをて見ると、よくも生きられたものだと、人間の生命力に感心しています。

 

家内の体験はむごいものです。手榴弾が発火しないので、お互い殺し合いが始まり、家内は確かに何人かを棒で殴ったし、自分もさんざんクワのようなもので頭といわず胴といわず殴られ、米軍に救われた時は自決の日から三日たっていたといいます。あの日は米軍の攻撃も激しく、何が何やら全然わからなかったそうです。この辺の真実はどう文章で表現するかが問題です。遺族は運命だとあきらめています。

 

赤松隊長が自決を命令したという説がありますが、私はそうではないと思います。なにしろ、赤松は自分の部下さえ指揮できない状態に来ていたのです。

 

私は自分の家内が自決したということを聞いて、中隊長になぜ自決させたのかと迫ったことがありました。中隊長は、そんなことは知らなかったと、いっていました。

ではなぜ自決したか。それは当時の教育がそこにあてはまったからだと思います。くだけて云えば、敵の捕虜になるより、いさぎよく死ぬべきということです。自発的にやったんだと思います。

 

それに「はずみ」というものがあります。あの時、村の有志が「もう良い時分ではないか」といって、万才を三唱させていたといいますから、それが「はずみ」になったのではないでしょうか。みんな喜んで手榴弾の信管を抜いていたといいます。

 

その時、村の指海者の一人が、住民を殺すからと、機関銃を借りに来たといいます。そんなことは出来ないと、赤松隊長は追いやったと、彼自身から聞きました。結局自決は住民みんなの自発的なものだということになります。

 

自決の日から二日目、私は中隊長の命令で、東側の儀志保近くに住民がまだたくさん居るので、状況を見に行きました。本部の近くに居りました。

 

そこが第二玉砂場です。ここでも自決したのかどうかわかりませんが、自決場から逃げてここまで来ると、アメリカの迫撃砲が雨のように降って来て、死傷者が出たということでした。

生き残りには阿波連の人が多いようでした。その中に、弟と親がいましたが、家内と娘はどこにも見あたりませんでした。私は持参のタバコと水をおいて、戦争はどうであろうと仕方がないが、生命はぜったいに粗末にするなと、励まして帰って来ました。

 

前にもちょっとふれましたが家内と娘は、自決場で手榴弾が発火しないので、したたかにクワのようなもので殴られ、三日間仮死状態ののち、アメリカ軍に助けられたとのことです。娘は三七歳、今那覇に嫁いでおります。

 

私の家内は自決を体験し、また人のするのも見ているので、真実を知っております。しかし真実の表現がむつかしいのです。集団自決と部隊とは何も関係ありません。軍隊は勝つために一生懸命でした。集団自決をとりあげて、部隊がどうのこうのと書く、それが後世に悪い形響として残ります。大城微安氏の場合も軍には何も悪いことはありません。

 

大城徳安教頭のこと一

伊江島の人たちは早目に米軍に手を上げて、渡嘉敷に約一千名くらい来ていました。その中の一部が米軍の投降勧告文書を持って、日本軍陣地に来た所、捕えられて斬られたことは聞いて知っていましたが、大城先生については私もかかわっていましたので、知りすぎるくらい知っています。大城先生は、具合が悪かったのです。何度逃げたか知りません。防衛隊と云えども軍隊の一員であるという自覚の全然ない人でした。逃げては捕えられて、前せられるのですがききめはありませんでした。

 

上陸まえ防衛隊に召集され、第二中隊の指揮班に配属されていましたが、壕掘作業中、班長の軍曹に、分隊長どの補充兵にも鉄砲持たせて戦争させるのですかと、しつこく聞いていました。

 

ある日、私は罰されて、重労働をさせられている大城先生の監視をしていました。その時の重労働は、飲料水を蒸溜するポンプを朝から夜までこいでいました。その時しきりに軍隊を罵り、戦争が終ったら暴露するとかいっていましたので、私が方言で「おまえはそんなことを云うけど、もう少しまじめにやったらどうだ。これ以上云うと、おまえは殺されるぞ」とたしなめたことがありました。方言でやりとりしている私たちに、他の兵隊はけげんな態度を示し、方言は使うなとどなっていました。この調子では私さえあぶないと思いました。

 

その後また逃げて捕えられ、とうとう斬られてしまいました。あの頃はしかし、何かと云えばすぐ刀を抜こうとするのが上官の権威のようなものでした。私も愛知県出身の神谷伍長に抜身で折かんされたことがありました。なぜかは忘れましたが、何でもないことだったと思います。

 

一昨年神谷伍長が来島した時、酒をくみ交しながら、あの時、私を斬るぞとあなたは云っていたが、憶えているかときいてみたらそんなことがありましたかと、笑っていました。おどろいたことに、神谷伍長は上の命令で、大城徳安氏を監視している私を、更に背後から監視していたそうです。

 

では朝鮮人のことを話しましょう。上陸前の空襲で軍夫が焼跡から死体となって出て来た他は、私は朝鮮人の死体は見ておりません。第二中隊の炊事班に六名朝鮮人軍夫が居りました。この六名は私の部下です。可愛がりました。そして六名とも元気に帰りました。しかし私が沖縄人だからそうしたのでしょう。本土の人は朝鮮人をあんまりよくは思っていませんでしたので、軍隊ではひどい仕うちが行われていました。

 

朝鮮人も無謀なことをやっていました。逃亡してアメリカ軍に投降するのです。私は逃亡した朝鮮人をつれもどして使いました。

 

朝鮮人が斬られたことがあります。逃亡の他に物を盗んだらしいです。私の所ではそんなことはありませんでした。朝鮮人も使いよう一つです。私の所では一人だに殺しはしません。

 

戦死したり殺されたりした朝鮮人の遺体は、所在のはっきりしたものは、持ち帰ったと思います。兵隊は多少なりとも無理しても探し出して行ったはずですが、朝鮮人とはあまりつき合いもないし、言葉も通じないので、しいて探しはしなかったと思います。朝鮮人逃亡の途中で死んだ者については、誰も知りません。日本軍は無やみやたらとは朝鮮人は殺さなかったと思います。誰が考えても自分の召使いを斬ることはありますまい。

 

曾根一等兵は、本部と私のところの連絡員をしていました。普通は連絡員は上等兵以上の人がやるのですが、たっての頼みで、やっていたということでしたが、ある日、阿波連から本部の隊長の所へイモとイモの葉を持たせて行かせました。そのまま、二十数名の朝鮮人といっしょにアメリカ軍に投降してしまいました。

 

渡嘉敷島防衛隊

渡嘉敷村字渡嘉敷元海上挺進隊第三戦隊防衛隊小嶺源次

戦争まえ私は昭和十六年四月補充兵として満州に渡りました。満州は、すぐ今にも戦争が始まるんじゃないかという、何か目には見えないが、敵はすぐそこに居るような雰囲気でした。

 

昭和十六年十二月末、私の部隊は南方へ転進しましたが、私は、どうしたわけか残り、そして明けて七月には召集解除になりました。私は甲種合格でもあったので、数少ない解除者の中に私がはいったことは、不思議に思っておりました。

 

その頃日本海にはアメリカの桝水艦が出没して、下関釜山連絡船が撃沈された例が少なくありません。私の乗っていた船は厳重な解戒のなかでジグザグコースをとって下関につきました。島では、私は再び私の職業である鰹節製造業にはげんでいました。鰹節をいくら製造しても足りない時期に来ていました。島の二つの工場には電灯もつき今までになかった活気を呈していました。

 

そうした中で、県は、各村に割りあてた何名かの屈強な若者を選び出し、三池炭坑へ浴仕団として送り出すことになっていました。渡嘉敷では希望者を募ったのですが、手の空いている若者というのはいないはずです。応ずる者がいなく、とうとう村長のたっての頼みで、私が参加することになりました。

 

私としては、南方転進の際にとり残されたくやしさもあって、国家非常の際、危険に関することならばと、勇照島をはなれました。十八年七月頃でした。石炭も増産に増産で、昼夜となく機械は動いておりました。三池炭坑では奉仕というので特別な扱いは許されなかった。私たちは炭坑夫に混って同じ仕事をしていました。慣れるまでに大変つらい思いをしていました。

 

その頃、南方の戦線は、次第に雲行きがあやしくなっていました。昭和十九年七月初めでした。サンパン陥落をきき、なんとなく広げた地図をのぞいていた私ははっとしました。同じ日本といっても本土との感覚の違いに気がついたのです。サイパンはなるほど日本から遠い所にある島で、いわば他所のことです。しかし、沖縄からするとすぐそこ、直感的に、次は沖縄だと確信みたいなのがありました。そう思った瞬間から私は気が気じゃなかった。昭和十九年九月、許されて帰ってみると、島は戦争寸前でした。島の人口と同じ数の兵隊がいました。どの家も兵隊が母屋を占拠し、漁船は軍に徴発され、工場は倉庫になっていた。私は旅の疲れをいやす間もありません。早速徴用されて、陣地構築に従事していました。そこは秘密の基地であるらしく、中には常に監視の目が光り、村民が島外に出ることは厳しく規制されていました。

 

十・十空襲

その日は快晴、陣地に行くとそこから那覇の街が手にとるようにすけて見えました。その那糊が、煙につつまれていてバンバン高射砲も撃っています。こんなことは今までにないことでした。兵隊は空襲演習だと云っていました。私たちは変だなーと思いながらも作業を続けていました。十一時頃であった。突然、四機編隊の飛行機が現われてきました。日本の飛行機とは爆音が違う。機首を下げて飛行機は漁船に機銃掃射をあびせてきました。

 

部隊もようやく空襲だとわかって、おのおの配置について実戦の準備をしていました。私たちは、とるものもとりあえず、あたふたと家族の元へ帰って来ました。

 

渡嘉敷港に入港していた軍用船二炎と漁船二隻は沈没したものもあった。嘉豊丸は港の東側の近海で、盤の餌をとっていた。嘉豊丸の船長は私の義兄であるため、私は急いで岬へ行き、嘉豊丸の行方を追っていました。

 

豊丸は動いてはいたが、人形はなかった。私は引きかえして港へ行き、サバニを出して、敵機を気にしながら嘉豊丸に近づいてみると、舟は無残にたたきつぶされ、義兄はトモの方に、浴びるように血に染って概たわっておりました。残兄は機銃で腹をぶち抜かれ出血多長で息もたえだえの状態でした。

 

この舟には十名乗っていたはずだが、あとの人たちはどうしたのだろう。私は義兄をサバニに移し、阿波連部落に上陸し、誰かに診療所の伊野波先生を呼んで来てもらおうと思っても、ひとっ子一人も、兵隊さえ見あたらない。仕方なく、近くのハル小屋にワラを敷いて寝かせました。私は義兄のバンドをはずして、太腿を強くしばりましたが、もう出る血もありません。顔色が灰色にかわっていました。

 

便が出ると云っていました。私は義兄の下のものを処理していると、義兄はぼろぼろ涙を流して、昨夜の夢におまえが出て来たが、こんなことをさせるためだったのかと、どもりで普通のように会話の通じなかった義兄は、家族のことや漁業のことを「頼む、頼む」とすらすらことばが出ていました。不思議なことでした。

 

涙というものは、あんなにもたくさん落ちるものか。私は義兄を抱いてワンワン泣きました。義兄はすっかりあきらめているようでした。苦しいから股のバンドをゆるめるようにといっていました。義兄にワラをかぶせて、渡嘉敷の家族に知らせに走りました。

 

その間、爆音は聞こえなくなっておりました。が、渡嘉敷も人は居りません。思い当る所を探したがどこにも居りません。この日にかぎって自分持ちの塚には避難しなくて山に逃げているということでした。陽は落ちようとしています。那湖は燃えて全体が赤く見えまして、ようやくぞろぞろ山から降りて来る人たちの中に義兄の家の者を見つけ、急ぎ阿波連に行きました。義兄は冷たくなっておりました。

 

防衛隊十月末、私は防術隊に召集され、渡始敷小学校に宿営しました。防衛隊といっても教育もなにもありません。徴用の時と何もかわらない、材木を切り、坑木を作り、琴掘りでした。時には漁撈班を編成して、漁をして極森の供給をやっていました。そのようにして私たちはいよいよ戦争に巻き込まれて行きました。慶良間の内海に時々米軍の潜水艦が浮上して私たちをびっくりさせたこともありました。

 

3月23日早朝から始まった空襲は、今までとは違い、徹底的に部落内を焼き払いました。第二中隊は渡嘉志久に配備していました。空襲は3月25日になっても間をおかず続いていました。

 

第二中隊はかねて準備していた特攻舟艇を壊から出し、出撃の態勢にありました。なぜそうなったか知らないままに、今度は壊に舟艇をとめていました。その時、夜は白々と明けていました。舟艇を隊員の手で爆破して、沈めてしまいました。空にはグラマンが群がって飛んでいました。

 

このことについてはその後いろいろ言われていますが、私が見たのはそれだけです。

 

特攻舟艇を爆破して、第二中隊は西山陣地に配備しました。二十六日、米軍は阿波史、渡嘉志久より上陸、はやばやと西山陣地に迫るA高地を占領した。A高地は第二中隊の配備地点から四、五00メートル離れた所で、皮嘉敷部落のすぐ裏に当っている。「第二中隊へ大隊長の命令が伝達されておりました。「敵はA高地まで迫っている。もし、西山陣地へ一五〇メートル以内まで接近するならば、貴隊は、一人十殺の敢闘精神を発揮して最後の突撃を敢行せよ」というものでした。その時中隊長は無線機を壊し、酒なのか水なのかわからんが、盃を交わしていました。二十二の宮野中隊長はひじょうにうわずった声で「戦闘準備」と叫んで、しのつく雨の中をマントをかなぐりすて、抜刀して勇んでいました。私は、あわてて家族の方へ帰っていきました。「手榴弾二発ではどうにもならない」、死ぬ時は家族と一緒にというのが率直な気持でした。

 

集団自決

恩納川の家族のところに着いた時、集団自決が始まっていました。集団自決は必然的に起ったことだと思います。その頃、アメリカ兵に捕われたら、女ははずかしめられ、男は男根を切られると、言いふくめられて、ほんとにそうされると信じていましたから。日本国民としてアメリカ兵の恥辱を受けることは末代までの恥であると考えたことはあたりまえで、今ではとても考えられないことです。

 

私は娘二人を抱えていたので、とにかくどうにかしなければならないと思っていましたが......、自決場はこの世の地獄でした。「私はそれだけしか言えません。渡嘉敷の戦争の関係者は現存していますし、ひょっとすると、私がこれ以上しゃべると、再びこの人たちが傷つくか知れません。察してもらいたいと思います。

 

渡嘉敷女子青年団

匿名座談会

K 私が女子青年団長になったのは、昭和十八年で、その時には、すでに、ルーズベルトチャーチルの人形を造って、竹槍で刺す訓練をしていたりして戦争気分は最高潮に来ていたと思います。

M 私はその頃、役場の兵事係をしていましたので、直接戦争と関係のあることばかりやらされていました。渡嘉敷は、徴兵検査は抜群に成績がよく、それだけに、竹槍訓練なども、身に入ったと思います。

N 標準語励行なども、徹底していました。私はちょうどその年に女子師範を卒業して、赴任したばかりでしたが、私が見た那覇のどの学校より標準語が上手でした。

M 基地隊が来て、はじめて、大量の日本兵だったので、島中が大変だった。私たちは、あの基地隊上陸の日から、ずっと終戦まで、日本軍に奉仕していたわけです。

K 初めは奉仕のつもりが、とうとう職業になって月給をもらっていた。私は前の年の十一月から二月まで、二O円の月給をもらっていました。三月は下旬に戦争が始まったために、三月分はもらっていません。

K 私たちは主として、炊事の手伝いではなかったか。私は第二中隊の炊事班に居りました。

H 私は特攻舟艇の滑走路作りや、またそれをカムフラージュする草刈りなどやっていました。朝、その作業現場に行く時は、いったん港まで来て、積まれている弾薬をかついで、山に持っていって、それから作業は始めるという日課でした。K洗濯場ははなやかでした。川は洗濯班の娘たちでいっぱいでした。

K 十・十空襲は、作業中、変だとは思っていましたが、いくら空襲でもこんな小さい島まで来るはずはないと思っていたのです。そうしてたら港に爆弾が落ちた。それで、はじめて兵隊もあれは本物だと壕の中に入っていきました。

その時やられた船には私の父が乗っていて、機銃掃射で死にました。渡嘉敷に爆弾が落ちたのは、十一時頃でした。それまで、兵隊は演習だといって、のん気に那覇の方を眺めていました。すきとおるように、那覇がよく見える日でした。

N 学校も爆弾がおちてから、生徒達を家にかえしました。

K 三月二十三日まで、とにかく女子青年団という組織じゃなかったが、団員八十五名、全面的に軍に協力しました。

M 私はむしろその後からが、軍と一緒にやった時期です。それまでは、役場で仕事がありますから団員と一緒ということはありませんでした。

K 基地隊が本島に帰って、赤松隊が来たわけですね。基地隊は武器は全部持って行きましたが、食糧はそのまま置いてありました。カツオ節工場二棟は食糧がはいっていました。基地隊の送別会の席上で、鈴木隊長は、赤松隊と村民も仲よく分けあって食べて下さいとおっしゃっていました。しかし、その食概は二十三日の空襲でまる焼け、米だけはどうやら食べられたようでした。

M 食糧といえば、渡嘉敷の人で栄養失調で死んだ人は居ないでしょう。日本軍には居たようですけれど。

N 渡嘉敷はもともと、米も刈りとると、物のまま保管し、使う人のだけしか精米はしませんので、どの家でも一年分の食糧はいつでもあります。何しろ台風で昔は餓死もしたという経験もありますから。

M 食糧は、あまり島外に出しません。島外に出るのは、小豚ぐらいでしょう。カツオ節は特産品ですので戦争中でもどの家でも二、三0斤くらいは持っていたと思います。

K 三月二十三日は、第二中隊で作業中でした。夕方いったん空襲は終っていましたので、とっぷり日はくれていましたが、渡嘉敷は赤々と燃えていました。私たち団員ひとりびとり高橋伍長が送ってくれました。私の家の壕に帰ってみると、どこへ行ったのか誰もいませんので、私はそのまま陣地にもどって、そこで夜を明しました。翌日早朝、第二中隊の陣地に防衛隊がかけ込んで、今、山から見ていると、アメリカの艦隊が、本島の喜屋武岬を廻って、ここに向っていると報告してきました。

私はたちどころに家族のもとへ帰りました。この防衛隊は誰だったかは忘れましたが、住民は早く恩納川原に避難せよと、ふれ歩いていました。

H 二十三日は身うごきもできませんでした。でも私たちは、特攻舟艇の出撃を感じていましたから、準備だけは、兵隊の命令で一生懸命やっていました。空襲がいちじ止んで夕方家族の所に帰ってきました。

K 二十七日でした。再び防衛隊がやってきて、米軍が上陸したので、恩納川原をはなれて、本部の方に避難しなさいと命令してきました。しかし、私たちの家族四名は、私が、母を背負っているものですから、難儀しないよう、イズン川筋にあった、ナガスジに壕を掘ってあったのでそこに行きました。ウチマシ(屋号)の塚とは隣同士でした。

G 私たちもそういうことで本部に行ったのですが、そこには、四百名くらいの人がいました。

K 命令は、私たちの場合は叫きませんでした。人々が、特に私たちの近くを阿波連の人たちがぞろぞろ行くものですから、私たちもそうしただけでした。

N 私は映画みたようでした。死にに行くってよー、あなたたちは行かないのー、といっているのを夢みたいに聞いていました。

H うしろに米兵がいて、それが、追っかけて来るような錯覚におち入っていました。G 私たちが本部に着いた時は、とっぷり日は楽れていましたが、みんな死ぬ準備していました。

N その時、榴弾を防衛隊が配っていた。万才をしたり、君が代を歌ったりしていました。その中で防衛隊が手榴弾の発火のさせ方をみんなに教えていました。

K 私たちの心の中には、敵に殺られるより、自分で死んだ方がよいという考えがありました。女はさんざんいたずらし、男は男根を切る、といいふくめられていましたね。私は部隊が私たちを解散させた二十三日の晩、手榴弾を二個もらってかくし持っていました。一発は米兵に、二発目は自分にと、それほどまでに決意は固められていました。

私たちはナガスジを出て、やっぱり、本部に行きました。出発前に、ウチマンのお父さんは、塚の側の立木に首をつって死んでしまいました。

H 私たちも、ヨシ門(屋号)のおじいさんを中心にして、十二、三名でしたが、円を作っていました。そうしていると、私の弟が、自分は死なんぞと、手榴弾を捨てて逃げてしまいました。手榴弾はあちこちで爆発していました。私たちは、なんとなく、ただ皆が死ぬのを、見ていました。死にきれない人が、殺してくれと、叫んでました。そこで私は、オノで頭を割っている光景を見ました。私はその時は無神経のようでしたよ。

N 手榴弾がどかんどかんやっている所へA高地から迫撃砲が飛んできました。死のうとしている人も、死にきれない人も、それで死んだのも少なくありません。

K 自決に失敗して、本部に助けを求めに行く途中、迫撃砲の直撃弾が仲門のお父さんに当って、その破片が、西銘のお父さんまで即死させました。すぐそばに私はいましたが、かすり傷一つもありません。

H 押しあいへしあいで本部になだれ込んでいた。

K 私は、西山陣地の下の方で重機を構えていた高橋軍曹の所へ行って、この重機で私をうって下さいと哀願しましたら、生きられるだけがんばりなさいと励まされて引きかえしました。

本部へ行ってみると、西村大尉が軍刀を抜いて身がまえして、任民はここへ寄るなきかないかー、斬るぞーと叫んでいた。その時も迫撃砲は間断なく撃ち込まれていました。どうしたわけか、松川の兄さんの手榴弾が爆発して、その破片が、白刃の西村大尉に当って倒れていました。

N 本部を追っばらわれた人たちは、今、言われている第二玉砕場に集まっていました。そこでも自決は行われていましたが、多くは米軍の迫撃砲でやられたのではないかと思います。

T 私は二十七日、恩納川原に居ました。防衛隊がやって来て、米耳がこの山の上であかりをつけて壕を掘っているというものですから、敵はもうここに来ているのかと、恩納川原をたって本部に行きました。その日は大粒の雨でしたね。持物が非常に重くなっていました。私たちが着いた所は本部ではなく、玉砕場でした。

s 私のグループは比嘉利輝さんが、手榴弾の信管を抜いて、自分の靴の底にパカパカたたきつけていましたが発火しないので、すぐそばの樫の木にパカパカやったところ、爆発して、比嘉さんの右手がふっ飛び、私たちは無傷でした。みんなが、死んで行く様を見ていると、こわくなって、私たちは、そのまま、本部に行きました。そしたら、「こっちへ来たら殺すぞー」と将校が叫んでいました。

本部で日本軍に迫っぱらわれてから、みな乱れていましたね。その瞬間気ちがいになった人もいました。私もどこでどうしたか、本部のあとのことは憶えていません。

K 人情も何もあったものじゃありませんでした。恩納川原を出て玉砕場へ向っている時です。Mのお祖父さんは寒さのあまり、気絶しているのを家族は死んだものと早合点して、捨てて先に行ってしまいましたが、この人が生きがえってちょうどそこを歩いていた私にとりすがってつれていってくれというのです。私は母をおんぶしているし、どうにもならないので、本部に行ったら、あなたの家族に知らせますと、別れてさっそく家族を探して、ことの次第を話したのですが、死んだ人が生きかえるはずはないとか、行くまでにまた死んでいるよ、とかいってうけあってくれませんでした。いたる所でこのようなことが起きていました。

H 本部を迫っぱらわれて、第二玉砂場の反対の方向のジーシップに面する谷間に五〇名ほどの人たちと隠れていました。全く皮肉なことに、松本の姉さんは、男児を出産しました。そのあと私は食糧を求めて、ジーシップの上の方に登ってみると、谷川の水はぶくぶく泡を立てていました。血が腐って悪臭をはなっていました。そのままずーっと進んで行くと、玉砂場に出ていました。谷川に落ちた死体もあります。食糧はないものかと死体の間を歩いていますと、私を呼ぶのです。よく見ると仲村初子さんでした。今しがたアメリカ兵が来て、見込みのある者は注射してタンカで運び、私は見込がないと、そのまま、ほったらかされたというのです。私が発見した生き残りは四名でした。山を下りると避難小屋へ急ぎ、四人の人を救出しましたが、二人はまもなく死んでしまいました。Tさんに一家殺されたという人がいました。しかしTさんも、一家自決して果ててしまっていました。

私の従弟のMは、I先生に殺して下さいと頼んで殺されました。この先生一家もまた全滅しました。玉砂場で死んだのは、二、三百名ではないかと思います。K私は本部を追っぱらわれたあと、ジーシップの方に下りて行って、そこで頭から毛布をすっぽりかぶって夜を明かしました。ちょうど、そこを通りかかった村長に中村茂子さんといっしょに、医務室の手伝をするよう命令されました。

気持も落ちつかないし、いやだったのですが、自決場から運ばれた思者の治療だというものですから、仕方なくやりました。そこにはいろいろな人が集まっていました。

 

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