名護・共同墓地 ~ 大浦崎収容所

 

名護・共同墓地

マラリアがまん延 ~栄養失調で住民多数死ぬ

 「二見情話」に代表される名護市の大浦湾一帯は歌と自然の素晴らしい景勝地。特に夏はいい。めまいがしそうな暑さは潮の香りの心地よさを一層感じさせ、川づたいの木陰でサワサワと小ガニが涼しそうにたわむれている。

 

 38年前の夏。昭和20年7月のことだ。その年の2月ごろから山中に避難していた地元の住民が下山を始めた。食糧はつき、戦況は暗く、近くで英語の話し声さえも聞かれるなかで消沈の下山だった。下山するやいなや米兵に捕らわれ、各区に収容されたが、本島中・南部から収容されて来た住民も加わり、日増しに人口が膨れ上がっていった。

 

 やがて、瀬嵩と大浦崎に米軍が駐屯した。瀬嵩地区では、久志国民学校に米国旗が掲げられ米軍が駐屯。下山後、住民には軍命による統治が行われ、東喜、大川、大浦、二見、瀬嵩、汀間、三原、安部、嘉陽の各区に市制が敷かれ、市長が置かれた。人口は同年8月現在で約3万人を数えた。市長の下に警察、教育、衛生、産業、労務、配給の各部を設置、業務に充てた。久志地区も同様に市制が敷かれ、ここには今帰仁、本部、伊江の3村の住民が収容されていた。

 

 同年11月、瀬嵩地区の糸満、兼城の両住民が原住地へ初めて集団帰還。その後次々、異住民が帰還し始め、両地区の人口も減少したため、21年1月には久志、瀬嵩の両市を統合し、久志村と改称した。下山からその間の収容所生活が特にひどかったと地元の人はいう。言葉に絶したと語る。

 

 戦時、戦後の体験記を収めた「沖縄の慟哭」で仲田栄松さん(56)は大浦崎の生活状況を次のように語っている。(抜粋)

 

 「草木の一本も生えてない地に大型テントが三、四世帯に一つの割合で設置された。炎天下のテント内はむし風呂のようで、泉や湧水は一つもなかった。食料飢饉は深刻で、海に出て海藻を食べ、山へ行って食えそうな木の葉や草の葉を手あたり次第につみ取って食べた。木の若葉を食べ、一家全滅になった痛々しい事故も起きた」

 

 こういった悲惨な状況は何も大浦崎だけのことではない。高熱を伴うマラリア病が広域に広がり、かからぬ人はいない、といわれるまでになった。その中で栄養失調で体の弱った子供や老人が次々と死んでいった。身内にみとられ亡くなった者は名簿に記され、墓標がたてられ埋葬されたが、名前さえ告げずに死んでいった者も少なくなかった。

 

 それはおびただしい数となった。現在、人口100人前後の大川区での収容者は当時、4000人を超え、そのうち「1000人」以上が死に、瀬嵩区では墓地台帳に書かれているだけでも613人が死んでいった。やがて、墓標も朽ち、身内のいる遺骨は引き取られたが、今なお、身元不明の遺骨が数多く眠っている。県援護課の資料によると大川区では「百から二百柱」、瀬嵩区では「数百」と記されている。

 

 炎天下、その地を歩いた。静かな大浦湾が一望できる傾斜地で、「あなたが立っているその足下に埋まっていると思いますよ」と瀬嵩区の西平万喜区長に言われた。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1983年9月15日掲載

 

マラリア 老人、子供を直撃 ~ 9カ所に613人も仮埋葬

 マラリアは“時熱”と呼ばれた。毎日決まった時間に症状が表れる。「体にブルッと寒気が走ったかと思うと、しだいに熱が出てきて、やがて高熱とともに本格的に体がガタガタふるえだすんです」。米兵からもらう黄色の錠剤を飲むと30分ほどで熱はひいたが、体中黄だんになり「目まで黄色っぽくなった」と言う。

 

 マラリアは大浦湾一帯で猛威をふるい、そこに避難していた人を容赦なく襲った。老若男女、だれもが一度はかかったという。そして体の弱い年寄り、栄養のゆきとどかない子供らが次々死んでいった。

 

 瀬嵩区の西平万喜区長(62)から昭和20年11月に作成された「墓地台帳」を見せてもらった。これは当時瀬嵩市に収容されていた者(同年月現在で人口6669人)のうち、マラリアや栄養失調などで亡くなった人の名簿である。それには、第1区A、B、第2区A、B、Cと墓地ごとに区分けされた5区9カ所に仮埋葬された613人の名前、住所などが実に整然と詳細に書かれている。やはり60歳以上と10歳以下が多い。「真和志村」「読谷山村」「西原村」「那覇市―と出身地は中、南部の人がほとんどだった。

 

 台帳と墓標を照合すれば収骨はたやすく、そのため戦後落ち着きを取り戻し始めると収骨にくる遺族がたえなかったという。しかし、なかには行き倒れなどで名前さえも告げず死んでいった者も少なくない。そして何もなされぬまま38年が過ぎた。台帳にある地図を片手に西平区長の案内で歩いた。道と川の区別がつかない地図と変化した地形とで迷いながら現場の確認をした。

 

 県援護課の資料には推定柱数として瀬嵩鍋護原が「数百」、東原が「不明」とある。鍋護原を歩いた。木と草で日陰になった川ずたいの道を行くと、5センチほどのカニが数十匹、ガサガサと音をたて動いている。「食べられるものは草や海藻、なんでも食べた。小ガニはごちそうでした」と西平区長。「一面に墓標がたっていた」鍋護原は現在、ある所は原野と山、ある所は畑になっていた。

 

 一方の東原は、ほかの墓地とは離れて、大浦湾を眼下に望む場所。地図に「5」と記された所で、墓がたちわき水がそばを流れる。「向こうの墓地がいっぱいになったのでここが墓地になった」と言う。雑木がおい茂る傾斜地なため、発掘は容易ではないと思われる。しかも何柱眠っているのか推定できない所もある。

 

 今度は区内を案内してもらった。当時はいたる所にあったというフクギは少なかった。赤がわらの立派な伊江があった。屋号が仲地と呼ばれるこの屋敷は建てられて100年以上もなるという。もちろん戦禍をくぐりぬけてきた。こういう家は即、収容所に使われ、何世帯もの家族が住み込んだ。そして、それがいっぱいになると、「トリ小屋」よりひどい掘っ立て小屋があちらこちらに並び始めた。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1983年9月16日掲載

 

1日で20人も死ぬ ~ 一つの屋敷に数世帯同居

 「一つの屋敷にいっぱい人がいましたよ。5~6世帯は入っていたんじゃないかな」と、当時、瀬嵩にいた数少ない地元出身者の男性の一人、西平正蔵さん(62)は言う。6000人余の避難民がいた。掘っ立て小屋が並びはじめ、海岸線近くまで小屋が建てられた。「あのころは雨、風がしのげればよかったから」と至る所に“トリ小屋”がつくられた。「夜になるとフクギに頭を向け、足は道に出したまま寝ている人がたくさんいて、足がじゃまになり道を歩けないほどだった」。

 

 西平さんはそのころ農業会の拠出係として食料の配給に携わっていた。「道端で有力者たちが配給の準備はどうするか、などと大声で“アジ”っていた」。やがて、米兵がトラックで運んでくる食料の配給が本格的に始まった。米、コンミール、コンビーフ、ピーチ、アスパラガスといろいろな食料が運ばれてきた。

 

 「あのころは順序と公平がない時でした」と西平さんはしみじみと語る。1度の配給で2回受け取る者。ひどいのになると米兵をまるめこみ、隣の市にもっていく食料をダンプ1杯分を横取りしたりする者もいた、と言う。

 

 ミルクハウスと呼ばれる仮小屋もできた。女性の配給係を5人充て、1日3回ミルクを市民に配給した。その5人のうちの1人が、西平さんの奥さん、メリ子さんだった。「大きな入れ物につくり、並んでいる人、一人ひとりにそそいでいくんです。もちろんだれにでもあげました。人気がありましたよ」と言う。

 

 食料もあり、ミルクもあるのにどうして600人もの人が死んでいったのだろうか。西平さんは、こう説明してくれた。「ひとつは、ぜんぜん食料がない7月ごろ、亡くなった人が多かったこと。もう一つは食べ物が目の前にあっても病気で体が衰弱していて食べられなかった人も多いと思う。また、ほしくても体が受け付けなかった人もいる。それほどマラリアと栄養失調が激しかった。近くには米軍の病院もありました。病院というより、病人の収容所といった感じでしたが、おもい患者は宜野座に運ばれました」。

 

 「1日20人ほど死んだって聞きましたよ」と話すのは瀬嵩で商店を経営している池宮秀得さん(82)。池宮さんも当時、地元にいた一人。「いっぱい人がいたよ。えーと、ねー。那覇からは1100人、大里から700人、読谷から700人来たって覚えている。死んだのはみんなで600人というのも聞いた」と語った。

 

 避難民が住まいにした小屋は「これぐらいだった」と、池宮さんはスッと立ち上がり、自分の店の半分ほどを両手で囲むようなしぐさをした。8畳ほどだろうか。それに台所が付いていた、と言う。また、フクギに小さな木をさし、その上に板を置き、柱を付けただけのものもあった。これでは雨、風さえもしのげないだろうに。

 

 「それが当たり前。みんなそんな風だから。藻を食べ、畑の草を食べ、カエルとカニが“全滅”した」と池宮さんは付け加えた。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1983年9月19日掲載

 

山に1,000人の墓標 ~ 大川区 100-200 柱未収骨のまま

 大浦から横断道路を2~3キロ行くと大川区に着く。山あいに開けた人口100人前後の小さな区だ。当時、4000人余がここに避難して来た。そして「1000人」ぐらいが死んでいったという。比嘉堅憲区長(64)に協力してもらい、そのころ地元にいて、その模様に詳しい人を区の公民館に呼んでもらった。集まったのは銘苅清仁さん(72)、平良栄徳さん(66)、崎浜秀一さん(55)、それに比嘉区長の4人。口火を切ったのは崎浜さんだった。

 

 「ここで死んだのは1017人と聞いている。そのほとんどが、私の土地に埋められたが、あたり一面墓標だった。私の土地は3000坪ある。それから考えても1000人以上が亡くなったのは本当と思う」。墓標が立っていたというから、恐らく瀬嵩のように「墓地台帳」があったに違いないが、現在、紛失してない。その墓標にまつわる話を平良さんが語ってくれた。

 

 「あれは終戦後2~3年だったと思います。大雨が降る日、地元のおばあちゃんが、まき代わりに山から墓標をひっこぬいてきたんです」。大川区の未収骨数は県の資料によると「百から二百」。身寄りのない人が多かったという。未収骨が多く残ったのは、そのためかもしれない。続けて平良さんは「マラリアにかかって死ぬ人も多かったですね。死ぬと毛布にくるんで身内や部落の人が担いで山に運びました」と話す。

 

 それに銘苅さんが付け加えた。「衛生班というのがあって、その人夫が、埋める穴を掘っていた。避難民はほとんど南部の人で、だいたいが馬天から船で大浦崎まできて、そこからここに運ばれた」。ほとんどの人が初めから体が弱っており、そのために亡くなる人が多かった。

 

 崎浜さんが言う。「今でもユタと一緒にスコップ持って遺族の人が来ますよ。ハワイやブラジルからも来たことがあります。でもほとんどが分からずじまいで、石を形身に持って帰ります。3、4年前にも国に調査をお願いした。自分の土地が思い通りに利用できない。何とかしてほしいと」

 

 崎浜さんは、今その土地をミカン畑などに利用している。公民館での話が終わると、その場所に案内してもらった。「ここを見て下さい」と崎浜さんが指さした所は50センチほどのだ円のくぼみだった。いくつかある。「ここに埋められていると思う」と言った。ミカンは植えた時は苗木だったため、まだ良かったが、「思い切った畑の利用ができない」と訴える。

 

 大川区には、未収骨地に関係して大きな問題がある。来年夏に実施予定の土地改良が、この地にかかるのだ。比嘉区長は「ここの土地を削るつもりですが、遺骨が埋まっている可能性が大なんです。遺族の方が取りにくる可能性も捨てるわけにはいきませんし」という。

 

 長年にわたり十分な土地利用ができなかった地主への補償と区の発展につながる土地改良との絡み。広範囲な大川の未収骨地は発掘以上の難しい問題をはらんでいる。

 名護の大浦湾一帯の未収骨地域は、これまで報告してきた瀬嵩、大川だけではもちろんない。大浦の比嘉潤区長は「大浦湾沿いの道路そばに数柱あると思われる」と説明しているし、嘉陽にも埋まっているのでは、という読者の声もある。本当に大浦湾が静かな顔を見せるのはいつになるのだろうか。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1983年9月20日掲載

 

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