【開南中学校】開南中学通信隊 ~ たった4人だけの生還 ~

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県の資料ではいまだに学徒動員も戦死者も「不明」とされている、県内唯一の私立中学。開南中学。

 

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開南中学から中学全体で71人が動員された。開南中学から62師団に行った学生は62人。戦死者は50人。同中学全体では71人が動員され、この記録にあるように、通信隊で生き残ったのはわずかに4人だけ。

 

開南中学徒隊の生存者は、いまも実態解明を待ち望んでいる。

 

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開南中学校校門

1936年(昭和11)、樋川の高台に、私立開南中学校 (志喜屋孝信(しきやこうしん)校長) が開校した。校名は、1911年(明治44)に白瀬(しらせ)隊長率いる日本初の南極(なんきょく)探検隊が乗り込んだ「開南丸(かいなんまる)」に因(ちな)み、「日本の南を開く」との意図のもとで命名された。
1945年(昭和20)の沖縄戦により、開南中学校は廃校となったが、開南中学校跡地に、1947年(昭和22)6月に開南初等学校が創設され、再び「開南」の校名が付けられた。

開南(カイナン) : 那覇市歴史博物館

 

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開南鉄血勤皇隊・開南通信隊(開南中学校)

 

開南中学校は、戦前の沖縄県で唯一の旧制私立中学校で一1936年(昭和11年)に創設されましたが、沖縄戦によりわずか9年という短い歳月で廃校になりました。

1945年(昭和20年)3月25日前後、教頭から「空襲下で学校としてまとまって入隊するのは難しいので、各自で入隊するように」との指示を受け、各自で部隊に向かうことになりました。

開南鉄血勤皇隊の入隊先の第六十二師団独立歩兵第二十三大隊は、激戦地となった宜野湾-浦添戦線に配置され多くの犠牲者を出した部隊で、入隊した開南中学生が全員戦死しました。

3月9日、通信隊要員の生徒は、高嶺村の大城森(現糸満市)に駐屯していた第二十四師団司令部へ配属されました。

生徒らは、同地で訓練を受けた後、5月中旬、部隊とともに首里に移動しましたが、前田(現浦添市)方面の劣勢がはっきりした5月下旬頃、高嶺村の大城森に撤退することになりました。その後、真栄里集落西側に布陣していた大隊へ配置替えになり、それから国吉集落西側に布陣していた大隊へ配置替えになりました。国吉へ配置替えになって間もなく、米軍野営陣地へ斬り込みましたが、多くの犠牲者を出しました。8月29日に生徒らは米軍に収容されました。

平成28年3月沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課

 

【学徒動員】開南中学通信隊 ~ たった四人だけの生還 ~

 

(1)モールス符号を特訓 進んで師団本部へ

 

 戦前、真和志村樋川原(現那覇市樋川)に、県内唯一の私立中学があった。開南中学―今から50年ほど前の昭和11年4月に開校したこの学校は終戦とともに、学校の歴史もまた幕を閉じた。

 

 全国最下位の中学進学率という教育実情などから、志喜屋孝信氏らを中心に設立された学校だった。しかし、時代は教育者が理想に向かってまい進できる状態にはなかった。“暗い時代”は駆け足で進む。開南中学もまた時代に引きずられ、不幸な歴史を歩んだ。わずか4期の卒業生を送り出しただけ学校は消えてしまった。

 

 今、一帯が「開南」と呼ばれることで、わずかに学校の名残があるだけだ。戦後に後輩が生まれることもない同校の不幸な歴史が語られることは少ない。沖縄戦では開南中学学徒は71人が動員され、67人が死亡した(1959年編「沖縄戦における学徒従軍記」による)。当時2年生の金城一雄さん(55)=糸満市糸満=は数少ない生存者の一人だ。

 

   ◇   ◇

 いつごろから通信隊の訓練が始まったのか、はっきりした記憶は金城さんにはない。「とにかく2、3年生に適性検査があって無線、有線、暗号の3班に分けられた。私は無線班だったが一教室で訓練していたから3、40人ぐらい」。適性検査の前、「御国のため本校でも防衛通信隊を組織する」と言われたことはおぼえている。

 

 山部隊から松田伍長、今井上等兵が教官として派遣された。ガリ版刷りの教材には、無線機の簡単な構造や取り扱い方法、そしてモールス符号などが書き込まれていた。「モールス符号はイならイトー(伊藤)、ロはロジョーホコー(路上歩行?)、ハはハーモニカとアクセントをつけながら15日ぐらいではおぼえた」

 

 1分間に120字を打電するのが目標。兵隊並みにそれだけを打電できる生徒もいたし、最低でも70字以上は打っていた。「各中学対抗の競技会もあって、開南中学代表が1位になったとの話だったが、私たちの士気高揚のためのウソだったのでしょうな」

 

 金城さんは糸満から1時間ほど自転車通学。すでにゴムが手に入らない時代だったので、知人の自転車屋からもらってきたチューブをつなぎ合わせて、“ぜいたく”な自転車通学をすることができた。

 

 空襲も激しくなる。「校舎が大きな建物で目標になるからと訓練も識名に移動して行われた。松の木に囲まれ、那覇の街が見渡せる広場だった」。金城さんは訓練を受ける生徒の数が、日を追うにつれ少なくなっていくように感じていた。

 

 20年3月23日、いつものように訓練に向かったが、その日の空襲は激しく続いた。やむ様子がない。仕方なく引き返したが、翌日もその翌日も続いた。

 

 「当時、親せきの家にやっかいになっていたが、4、5日したころ、憲兵が若い人を駆り出していると聞いて、それなら自分の習っているのを生かせる部隊がいいと思って師団本部に向かった」

 

 開南中学は山部隊に入隊するとの話があったので、与座岳にある24師団の本部に向かった。そこで3人の開南中学生と合流、配属先は歩兵32連隊(山3475)と聞かされる。夕方、訓練の教官だった今井上等兵に連れられて大城森にある連隊本部壕に向かった。

 

 連隊長の前で直立不動の姿勢で報告した時、何かしら一人前になったような気がした。軍服が支給され、装備が手渡された。銃弾は支給されたが銃はなかった。代わりに槍(やり)が支給された。棒の先にとがった鉄がついた槍は、160センチの金城さんより10センチほど長かった。「これで戦ができるのかな」と感じたが、戦死者が出れば銃は手にできるとも思った。その日から槍の先に油をつけて磨くのが、金城少年の楽しみの一つにもなった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1985年2月13日掲載

  

(2)進んで「飯上げ」 "戦死者から銃いただく"

 

 大城森北側の丘に金城一雄さんら無線中隊の壕があった。東側に向いた3本の壕口は奥で連結したE字型の壕。前の広場は杉の木が生い茂って上空からは分からないようになっていた。

 

 そこで約1カ月を暮らしたが、無線訓練は毎日続いた。配属された時、小隊長は「君らは学生でありながら国の防衛に動員されたのであり、兵隊ではない。飯上げなど(危険な仕事)はやらなくていい」と訓示があった。しかし、学生の方から進んで飯上げを買って出た。

 

 前田付近の戦闘が激しくなってきたころ、金城さんらにも、首里への移動命令が出た。

 

 武器と言えば手りゅう弾とヤリだけ。ただ無線機や発電機なども担がされたので、歩を重ねるにつれ重みが体に食い込んでくるようだった。途中、道端にはたくさんの戦死者が倒れていた。とっさに、「隊長どの戦死者の銃をいただいてよろしいでしょうか」と口から出て、了解は得たのだが、持ってみると重く、行軍をさらに困難にした。

 

 その日、南風原十字路から首里向けに少し行った壕で宿泊。金城さんは往復5キロほどの炊事場まで飯上げを命じられた。

 

 「そのころからは銃弾がビュンビュン飛んでいた。その中を両手に八つの飯ごうを持って走って行った」。中身の入った飯ごうを持って帰る道はもっと大変だった。だが、「きょうは汁は入っていない」の炊事班の言葉があったから思い切り駆け出せた。

 

 飯ごうを開けてみると中に入っているのはボタモチ。戦場でこれほどのごちそうはない。2口でなくなるほどの大きさのものが4、5個ずつ配られた。もち米よりも、まわりにベットリついたあんに思わずつばがたまった。

 

 その時だ。小隊長が「金城、お前はきょうから分隊配置になった」と告げ、乾めんを手渡した。そして次の言葉に金城さんの全身の力が抜けていく。「そのボタモチは返せ」。

 

 配置されたのは無線小隊の第1分隊首里の久場川、石嶺付近を1週間ほど転々として命令待ちだった。石嶺の壕の近くでは大きなガジュマルがあり、そこに牛、馬がつながれていた。砲弾でよくやられたが、翌日、跡形もなくなっているのは牛。「馬は軍馬ということでなのか、だれも手をつけなかった」。

 

 金城さんは砲弾の破片が飛んでいるのを見た。ヒューンという長い音が、近くの田んぼにジューと突き刺さり消えた。行って見るとカミソリの刃のように鋭くとがっている。背筋に冷たいものが走った。

 

 金城さんらの分隊は近くの大隊に派遣される。そこから戦闘状況を連隊本部に送信するのが任務だったが、大隊長は送受信をさせない。無線連絡すると米軍が電波探知機で捕らえ攻撃して来ると言う。確かにその通りだった。無線連絡後は必ず壕に向かって5、6発の砲撃があった。

 

 「分隊長の丹野兵長が、『大隊長は憶病、肝心の連絡はさせないで―』と泣いて悔しがっていた」。

 

 しかし、通信はすぐにできるようになった。事情を連隊本部に報告に行くと、「そういう訳にはいかない。通信は定期的にやるものだ」と一喝されたからだ。通信は観測機の“トンボ”のいないのを見計らって行ったが、やはり米軍の砲撃は必ずやって来た。

 

 前線に配置された金城さんだったが、無線班にいた開南中学生から“戦死者第一号”が出たのは、後方の連隊本部詰めの学生からだった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1985年2月14日掲載

  

(3)ついに戦死者が… 体に破片食い込む 学友5人で弔う

 

 無線小隊には、金城一雄さんを含めて6人の開南中学生がいた。その中から最初の戦死者が出た時、金城さんはたまたま前線から連隊本部へ報告のため来ていた。

 

 「壕の近くにいてものすごい爆発音があった。しばらくして“大城君がやられた”と同僚が言ったので分かった」。壕から5、60メートルほど離れたところで砲弾を受けていた。「みんなと急いで駆けつけると爆風で体がつぶされ、破片も体に食い込んでいた」。薄暗い中で、ボロボロになった衣服にどす黒い血が付着しているのが見えた。

 

 埋葬は5人の開南中学生でやった。少し離れたところにこんもりとした場所を見つけたが、石が多く掘ることはできなかった。石を積み重ねただけだったが、墓のようなかっこうにはなっていた。「大城君は津嘉山駅近くの時計屋の息子だった」と言う。

 

 有線小隊の負傷した上等兵のことも金城さんは忘れられない。足を負傷していた。

 

 「傷口にはウジがわいてなかったが、体にはガスがたまって、回復の見込みはなかった」。首里近くの野戦病院で、ウジのわいている患者と、そうでない患者とで看護婦の対応が違うことを金城さんは見ていた。看護婦はウジのわいていない患者には見向きもしない。「そうした患者は体にガスがたまって、やがて夢心地で一人ごとをつぶやいていた。だいたい家族のことを話していた」。

 

 その上等兵を金城さんらは近くの墓場まで移すように命じられた。負傷兵は普通4人で運んだが、その時は2人。しかも体格が大きく砲弾の中を運ぶから容易ではなかった。引きずるように運んだから患者の体は幾度も石にぶつかる。そのたびに「痛いよ―、痛いよ―」と子どものように泣きじゃくっていた。

 

 墓の中で乾パン2袋と水筒を置くと、その上等兵は「見捨てるつもりだな」と言った。墓の中で一人、黙って死を待つ上等兵があわれではあったが、どうすることもできなかった。

 

 金城さんらの分隊は、首里の大名、石嶺付近や、前田などを1カ月間、転々と移動する。周囲の地形は毎日変わっていった。一夜のうちに道がなくなり土手が消えた。畑もいつしか沼地のようになっている。

 

 移動、移動の連続に金城さんは、すっかり疲れていた。「弾に当たって死ねば楽になれる」と思った。そう思うと砲弾の音に伏せるのが面倒くさくなり、そのまま歩いた。その時、分隊長が「貴様っ、そんなに死にたいんだったら、おれが殺してやる」と怒鳴り、慌てて泥の中に身を沈めた。

 

 前田付近を移動中、米軍の狙撃兵と会った。散兵壕に潜んでいると、古参兵が狙撃兵のいる場所を教え、鉄かぶとを上げてみろと言う。銃の先に鉄かぶとを乗せて恐る恐る上げてみた。壕から出たか出ないかのうちに、ピューンと銃弾が飛び、キーンという音で鉄かぶとがはねた。手にはズシンと銃弾の感触が残った。

 

 連隊本部近くの民家の屋根が、ある日、吹き飛ばされていた。金城さんが何気なく行ってみるとカメがたくさんある。フタを開けてみると酒だ。「酒か」。すぐにフタをしたが、近くを通った兵隊は、そのにおいを見逃すはずはない。

 

 その夜、連隊本部はみんな水筒に泡盛を一杯詰め、パーティーだった。酔っ払った兵隊の中に、上官に反抗する者が出て来た。「内地に帰れば、おれが年上でお前より上ではないか」。星一つで大変な違いの軍隊内で許されるはずはない。たちまちバケツ2杯の水が浴びせられ、兵隊はシュンとなった。どんな罰が課せられたか金城さんは知らない。ただじわりじわり押し寄せる米軍の前に、将兵の心もすさみはじめていた。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1985年2月15日掲載

 

(4)ぬかるみの撤退 敵を見ても撃つ砲弾無し 

 歩兵32連隊も、前田方面の劣勢がはっきりしたころ、石嶺から前にした大城森へと撤退する。前線にいた金城一雄さんらの分隊にも撤退命令が伝えられた。「連隊本部壕に戻ると、ほとんどは引き揚げたあと。中に運搬できない缶詰が放置されていたのでパイン缶を2缶、むしゃぶりつくように食べた」

 

 本部壕で1泊して翌朝出発した。雨が時折降ってきたが、どういうわけか砲弾の音はやんでいた。「初めて日中の移動だった」

 

 梅雨が畑を田んぼのように変えている。足を入れるとヒザまでめり込んでいった。道に迷った金城さんの分隊4人は、そんな中を進まなければならないはめになっていた。

 

 16歳の少年にはきつい。おまけに真空管など通信に必要な部品などまで背負わされている。昼前、南風原十字路付近まで来たころには限界だった。もうはっても進めないほどに、疲れきっている。分隊長はしかり飛ばすが体が動かない。

 

 あきらめた3人は真空管などの部品だけを取って、金城さんを残したまま去っていった。

 

 取り残された金城さんはしばらくして歩き始める。「もうやけくそだったから銃だけ持って他の装備は全部捨てた。2、3歩歩いたか歩かないかうちに4、5個のイモが目の前にある。泥をぬぐって食べたら、たちまち元気が回復した」と言う。

 

 少し歩くと、南風原十字路付近から両足のない兵隊が、はって歩いているのが見える。「階級が上の人で手助けしろと言われたら困る」―とっさにそう思ったから南風原十字路から行くのをやめて、一日橋に向かって歩いた。「かわいそうではあったが、その時は仕方なかった。負傷者はごろごろしているし、自分の身を守るのが精いっぱいだった」。一日橋から東風平を経て大城森に戻った。

 

 それが近道だったのか、銃だけの身軽な装備だったからか、大城森に着いたのは金城さんが早かった。3人がやって来たのは金城さんが泥だらけの体を近くの川で洗い流していた時だ。3人は金城さんを認めるや、いっせいに声を発した。「あれっ、金城生きていたのか」

 

 連隊が大城森を留守にしている時、知事や警察部長らが、その壕に避難していたという。「糸満署長をしていた伊野波さんもいて、拳(けん)銃を持っていた。『どうしたんですか』と聞いたら『知事を守るための拳銃』と言っていた。部隊が帰って来たため、知事たちも南に向かって出て行った」

 

 通信中隊も30人ほどになっていた。無線小隊にいた開南中学生は1人が戦死しただけで5人が残った。だが、砲弾の中を、切断された線をつなぐため走った有線小隊の学生らが、どれぐらい残っていたかは金城さんは知らない。

 

 無線小隊の開南中学生同士で話をする時、話題はもっぱら食べ物の話だった。たまに戦況の話もしたが、もう好転を期待する者などいなかった。

 

 大城森も長くいることはできなかっった。すぐに南に向けて再び撤退する。通信中隊は国吉の壕(現・白梅之塔のそば)、連隊本部は真栄里の壕(現・山形之塔)、各大隊は周辺で戦闘配置についた。

 

 金城さんらの分隊が中隊の壕にいたのは2、3日。すぐに真栄里集落西側に布陣している大隊に配置された。

 

 米軍は目前まで来ていた。監視哨からは敵の斥(せっ)候の顔まで見える。有線でつながっている砲兵隊に砲撃を要請しても、返って来る言葉は「砲弾がない」だった。将兵の大半を失い、戦うべき武器もない軍隊。そんな軍隊がなだれ込んで来た時、すでに避難していた住民たちの不幸も各地で起こっている。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1985年2月19日掲載

 

(5)壕の中に黄リン弾 息苦しく外に出る 一瞬で直撃まぬがれる

 

 日本軍の戦闘能力がなくなっていることは、金城一雄さんの目にもはっきり分かった。米軍の斥候も近くまで出没する。「だが、撃てないんです。小銃だけしかないから届かない」。

 

 観測機の“トンボ”も頻繁に飛ぶ。「上空でトンボが旋回、そして海上に戻っていく。しばらく艦船の上を回って、再びわれわれの上空に来る。その時は前より高度を高くとっていた。そして必ず艦砲がこちらに激しく撃ち込まれた。きっと、トンボが指示していたと思うが、どうしようもなかった」。米軍は、そのころには余裕を持って戦っていた。

 

 ある日、米軍機から落下傘が、ゆっくりと舞い降りていくのを金城さんらは見た。「色のついた落下傘で米兵への補給物資だった。田んぼの中に落ちていくのが見えた。それを取るため何人かで田んぼに走ったが、田んぼの中で米兵らとバッタリ。両方とも銃を持っていなかったから、出くわすと同時に双方あわてて引き返した。やがて米兵が機銃を持って来て、補給物資をゆっくりと持ち去った。今考えると笑いたくなる光景もあった」

 

 ある日、壕内に聞き覚えのある声が響いた。「金城中尉ただいま帰りました」。声の主は同じ糸満出身で、那覇商業で教官をやっていた金城中尉だ。首里で負傷、南風原陸軍病院に送られていたが、病院の解散で原隊までたどり着いたのだった。

 

 「顔を見ることはできなかったが、大隊長に報告している声は、活発で大きな声の金城中尉に間違いなかった。ケガをしていながら一人で戻って来たのを知り、勇気づけられた」と金城さんは言う。

 

 連隊本部への連絡の途中、師団本部の通信に配属されていた上級生と会ったことがある。「大城現成さんという体ががっちりした人。学校でも有名だった」。先輩は後輩に「元気でよかったな。お互いがんばろう」と声をかけただけだった。戦場では、それで十分な会話だった。しかし、その後再び会うことがない先輩だった。

 

 真栄里にいる大隊に配置されて2週間ほどたって金城さんは負傷する。南側に向いた壕だったが、北方の糸満方面からの黄リン弾が壕を襲った。

 

 「無線連絡を終えて仮眠中だった。運悪く壕の前にあった岩に黄リン弾が当たって、壕入り口にころがって来た」。壕内に煙が入って来る。呼吸が苦しくなり、金城さんは目がさめた。もう壕内には煙が充満していた。

 

 あわてて防毒マスクを着装したが、せきは止まらない。隣からせきの止まらない金城さんに「防毒面のかけ方がまずいのだ」と言う。丹野班長だった。しかし、マスクを直しても止まらなかった。すでに、体内に吸い込みすぎていた。

 

 その時、炊事班長だった人が1人死んだが、金城さんも良くならない。呼吸をするのが苦しかった。「心臓が小さくなったような息の仕方だった」。とうとう見かねた丹野班長が「お前、外に出ていい空気を吸って来い」と許可してくれた。

 

 その日は、日が暮れるまで壕の前の岩陰に、じっと倒れたままだった。

 

 夕方、「中に入れ」と呼びに来たが、まだ息は苦しい。「いやだったが、命令なので仕方なく壕に戻った」。それから10分か、20分ぐらい後、壕内を轟音と震動が襲った。ランプも消えてしまうほどの砲撃だった。しかし、戦死者はいないようすだった。

 

 その晩はじっとしていたが、翌日、気分が悪いからと外に出ることを許可してもらった。「あっ」壕入り口に立った時、金城さんは思わず声をもらした。前日休んでいたあの岩場が跡形もない。「もう少しいたら…」―ぞっとするとともに、あらためて人の生死が時の運任せであることを痛感した。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1985年2月20日掲載

 

(6)弾雨の中で電線修理 壕口に爆風よけの負傷兵

 

 金城一雄さんは無線小隊だったが、真栄里の大隊にいる時、有線の手伝いをしたことがある。

 

 「外に出ればだれか知っている人に会うかもしれないと思い希望したのだが、だれにも会えなかった」。その時、つくづく有線班の仕事が危険であることを知った。「2人1組、砲弾で切断された電線を修理しに行くのだが、1人が修理し、もう1人は遠く離れた所からそれを見ている。もし修理している人がやられたら報告するために―。当然、そこは砲撃の激しいところだから、死ぬ確率は高いところだった」と言う。その危険な任務を担ったのは、多くは中学生だった。

 

 黄リン弾攻撃を受けてから、しばらくして金城さんらの分隊は、国吉集落西側にいた大隊に配置される。

 

 米軍はもう間近だった。いや、すでに潜伏している壕の付近をわがもの顔で歩くようになっていた。「いつ殺されるのか」―そんな強迫観念が、その日、大隊長の判断を狂わせてしまったのかもしれない。

 

 突然、大隊長は「鉄砲のある者は外に出て戦車を撃て」と叫び出した。息をひそめている壕内に、上の方から不気味に戦車の音が響いた時のことだ。その時、攻撃があったのかどうかは金城さんは知らない。

 

 だが、戦車の方が気づいたことははっきりしている。壕に向かって火炎放射器を放ちはじめたからだ。その時は壕の付近を覆っていた草木だけを焼いて引き揚げた。壕は外からまる見えとなった。

 

 その晩、大隊長は全員の斬(き)り込みを命じる。重機関銃を先頭にした夜襲計画だった。金城さんらが無線機を、手りゅう弾で壊して斬り込みに備えた。だが、その夜の斬り込みは何の戦果もなく失敗だった。

 

 「暗闇の中でかすかに声らしきものが聞こえるが、敵か味方か分からない状態。おまけに先頭を行くはずの重機が行方不明で、仕方なく撤退した」

 

 翌日には火炎放射器の攻撃が待ち受けていた。「私たちの壕はL字型で分隊の3人とも助かった。だけど大隊本部の壕はI字型だったから…」。昼間は壕の中でじっとしていたが、夜になると、大隊本部の壕からうめき声が聞こえてきた。

 

 行って見ると、大隊長と当番兵が大やけどを負い、うなっている。10人前後いたはずだったが、ほかの人は黒こげになっていた。2人はようやく歩けるほどだったが、その晩のうちに連隊本部まで引き揚げることにした。

 

 だが、金城さんは列の前にいた1等兵とともにはぐれてしまった。10メートル間隔でほふく前進していたのだが、1等兵が前の人を見失ってしまったのだ。そのうちに夜が明ける。

 

 「朝になってびっくりした。一晩中歩いたはずなのに壕から3、400メートルしか離れていない。しかも、壕の前に米兵らが弾薬、食糧などを野積みしている。裸になって歌を歌い、口笛を吹いての作業は、とても戦をやっているようには見えなかった」―。昼中、あぜに潜んで身動き一つできなかった。

 

 連隊本部の壕に着いたのは次の日の昼過ぎだ。入り口には負傷兵が寝かされていた。いつか金城さんは「彼らは爆風よけだよ」と兵隊が言っているのを聞いたことがある。奥の方にも負傷者がいた。缶詰箱をベッドにしている。将校たちだった。

 

 金城さんは壕で丹野分隊長を探していた。入ってから数分しかたってなかったように思う。ドッカーン。ものすごい音がした。壕口が崩れ、爆風でランプも消え真っ暗だ。入り口付近では崩れた岩の下敷きとなっているのか、ものすごい悲鳴も聞こえた。壕内には声を発する者はいない。次の予想される事態に緊張して無言だ。ただ負傷者の弱々しいうめき声だけが漂っていた。しかし、その日の攻撃はそれ1回きりだった。

 

(「戦禍を掘る」取材班91985年2月21日掲載

 

(7)息絶えぬ間に埋葬「盛り土が"呼吸"していた」

 

 金城一雄さんが丹野班長を見つけたのは壕の真上付近だ。岩と岩の間にあお向けになっている。鉄かぶとが吹っ飛び、頭の半分がなくなっている。脳は露出していたが、不思議なことにまだ生きていた。

 

 呼吸はしていたが、呼び掛けても返事はない。「これは助からない」と言ったのは軍医准尉だった。黙って丹野班長の腕を取って注射をうった。1本目、同じような調子で呼吸している。そして2本目がうたれたが死ぬ気配などなかった。

 

 「もう見込みがないんだからそのまま埋めろ」。殺すことをあきらめた軍医は金城さんら無線中隊の数人に命じた。

 

 崖下の畑のそばに埋めた。大きな体格の人だったから長くは掘ったが、土が固かったから深く掘ることはできなかった。金城さんは連隊本部に引き揚げる途中、「わかもと」のビンに、ぎっしり詰まったたばこを拾ったので、たばこ好きの丹野班長への線香代わりとした。1本火をつけ供えると、盛り上がった土が呼吸に合わせて上下するように感じた。

 

 岩を目印に埋葬したが、戦後、金城さんが遺骨を収集に行った時、すでに開墾されていた。近くの人に聞くと収骨して部落の慰霊塔に葬ったと聞いた。早めに納骨されたことに安心もしたが、遺族の手に渡すことができなかったことに悔いも残る。

 

 連隊本部の壕は爆雷攻撃により入り口が閉じられ、さらに2、3日、もう1カ所の壕も閉鎖された。米軍がブルドーザーで土を運び壕口を埋めてしまった。

 

 壕口を開けようと思えば容易なことだったが、連隊本部は“生き埋め”の状態で数日を過ごす。食糧、水も壕内にあった。「きっと敵の警戒を解くため死んだふりをしていたと思う」と金城さん。

 

 壕口を開けたのは「1週間後あるいはそれ以上」たってからだ。人1人が通れるぐらいの穴。そこからの最初の訪問者は避難民だった。手には米軍の缶詰を持っている。「どうしたのか」と聞くと、「どこにでも落ちている」と言う。

 

 確かに豊富にあった。米軍がキャンプしたような場所を探して、土を払いのけると必ずといっていい程ある。多くは焼けて膨張していたが、乾パンが中心の“食生活”には、ぜいたくなものだった。最初の晩、壕内の全員が下痢をしたが、徐々に慣れていった。

 

 金城さんら無線中隊や軍属の女性ら十数人は、その後、“食糧難”から真栄里に移される。“終戦”を迎えたのは8月29日だ。米軍との降伏調印もするなど、まだ連隊としての組織は残っていた。

 

   ◇   ◇

 無線小隊には金城さんを含めた6人の開南中学生がいたが、金城さんは分隊配置だったため、中隊本部にいた5人の行動を詳しくは知らない。戦死のもようを知っているのも“第一号”の宮城(15日付の大城は誤り)という先輩だけだ。

 

 「他の4人は神里という先輩と同級生の神田、稲嶺清二郎。どうしてももう1人は思い出せない。1期先輩だったと思うが…」。

 

 4人との最期は真栄里の大隊から国吉の大隊に向かう時だった。1人は頭がおかしくなっていた。「家族が来ている」「友だちが来ている」と昼間から壕を出ようとしていたから副官の准尉が付きっきりだった。他の3人は元気だった。

 

 次に中隊本部壕に行ったのは連隊本部が降伏する前だった。中隊本部の壕は、岩が真っ黒くなっている。火炎放射器を浴びたのは一目りょう然だ。声をかけても返事がないから壕内に入ることもなかった。通信中隊から生き残りがないことは捕虜収容所で聞かされた。

 

 開南中学から62師団に行った学生は62人。戦死者は50人だ。同中学全体では71人が参加、生き残ったのはわずかに4人だけ。不幸な歴史を残して学校は戦後消えた。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1985年2月22日掲載


開南学徒 友の死たどる 同窓生、解明へ検証

 

開南学徒 友の死たどる 同窓生、解明へ検証

女性自身

2018/06/18 14:04

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名嘉山廣貞さん

 

沖縄戦鉄血勤皇隊や通信隊、学徒隊として生徒が動員された県内21の旧制中学や師範学校、実業学校のうち私立開南中学校の戦場動員の実態がほとんど分かっていない。慰霊碑建立に向けた名簿作成など検証作業を踏まえ、沖縄戦に動員され、犠牲となった在学生は190人と同窓会は主張する。しかし、これまでの学徒に関する研究では、犠牲者数など開南中学徒の事実関係の多くを「不明」と扱ってきた。沖縄戦から73年。高齢となった開南中の同窓生らは、亡き学友の無念を思い、開南中学徒隊の実態解明を待ち望んでいる。

 

同窓会長の大田朝成さん(90)=那覇市=は「『不明』という表現は絶対に受け入れられない。県が責任を持って調べてほしい」と訴えている。

 

私立開南中は1936年那覇市樋川に県内初の私立中学校として創設された。初代校長は戦後初の沖縄側の行政機関・沖縄諮詢会の委員長で琉球大学の初代学長を務めた志喜屋孝信氏だった。米軍上陸前の45年3月、開南中の4・5年生は開南鉄血勤皇隊2・3年生以下は開南通信隊として組織され、62師団や24師団に配属された。それ以外に「開南中生に告ぐ」という張り紙を見て自宅近くの部隊に入隊した人もいたとされる。大半が命を落としたとされている。

 

糸満市にある開南中の慰霊塔「開南健児之塔」には、教師、卒業生を含め279人の犠牲者の名前が刻まれいる。同窓会はこのうち沖縄戦当時、開南中に在籍していた1年生から5年生で犠牲となった190人を「学徒」として扱ってほしいと求めてきた。沖縄戦研究では、実際に沖縄戦に何人が動員されたのか裏付ける資料はないとして、動員数、犠牲者数共に「不明」としている。

 

慰霊塔の建立に尽くした同窓生の名嘉山廣貞さん(88)=那覇市=が1970年ごろ、沖縄遺族連合会で働いていた同窓生の故安森徹夫さんに依頼し、名簿を作成した。13歳の生徒も犠牲となっている。しかし、同窓会側の検証作業は沖縄戦の公的記録には反映されていない。

 

開南中の配属将校が10・10空襲後に不在となったことや、校長が後を託した教頭が各生徒に個別に入隊を指示し、まとまった動員でなかったことなど、他校と異なる事情などが、開南中学徒の実態把握を難しくしている。

 

沖縄戦に詳しい、沖縄国際大学元教授の吉浜忍氏は「実態として開南中の学徒は他の学徒と同じだった。それを学徒とするのかしないのか、議論すべき余地がある。なぜ特殊な事情が発生したのか、個別の学校の事情を検証することは学徒研究を進める上でいいことだ」と話している。 (中村万里子)

 

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開南健児之塔

 

沖縄戦から74年、今まで「不明」とされていた「開南中学校学徒隊」の資料が国立公文書館から「発見」される 

battle-of-okinawa.hatenablog.com

 

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  1. 開南鉄血勤皇隊・開南通信隊 状況1 陣地構築作業、荷役作業、飛行場整備作業