1984年 琉球新報「戦果を掘る」~ 伊江島の防衛隊 / 伊江島の女子救護隊

 

「東洋一」を誇った伊江島飛行場

 

軍は伊江島を守ったのか。

 

 

 

 

琉球新報「戦果を掘る」伊江島の防衛隊

手投げ弾頼りに夜襲 島に閉じ込められた800人

 沖縄戦の初期、昭和20年4月16日から21日まで、「六日戦争」と呼ばれる日米の激しい戦闘が伊江島で繰り広げられた。日本軍約2000人、村民約1500人がこの6日間で戦死したが、現地召集の防衛隊員の多くも運命をともにした。

 

 伊江島の防衛隊員は昭和19年の10月に500人、11月に200人、沖縄戦直前の3月に100人増強されて計800人が名護町(当時)屋部出身の宜保豊猛中尉に率いられて3個中隊に分かれ、島の中央部にあった飛行場から西側の守備に当たっていた。主な任務は飛行場の整備、保守だったから装備も十分でなく、各中隊に小銃約10丁、てき弾筒各1、それに大隊全部で軽機関銃が2丁だけ。あとは手投げ弾と竹ヤリが武器のすべてだったという。

 

 同部隊には、米軍上陸が迫る3月、飛行場破壊命令が出され、終了後は本島に引き揚げるよう軍命があったというが、本島へ渡ろうにも船はなく、そのまま島の防衛につくしかなかった。

 

 「米軍は上陸後、飛行場を中心に島を占領。島は東西に分断されてしまって、東側を守備していた日本軍主力との連絡も途絶え、何も分からないまま戦闘を続けていた」。同防衛隊は恩納村以北の各部落かた召集された人らで編成されていたが、島から召集され、今なお島で農業に従事している玉城徳元さん(72)=伊江村西江前=は当時を振り返る。

 

 米軍は沖縄到着後、ただちに伊江島への空爆を始めた。3月25日には島の沖に敵艦が姿を現した。本部半島との間は多くの艦艇でいっぱいだったという。そのうち、島への上陸2日前の4月14日から間断なく艦砲射撃が加えられた。島は焼け野原に形を変える。16日未明、ブルース少将率いる米軍約6000の先発隊が上陸を始め、島は激戦に覆われた。

 

 玉城さんら防衛隊が守る島の西側でもまら死闘が続いた。「上陸したその日のうちに、戦車を先頭に押し寄せてくる米軍にじゅうりんされ、部隊はほとんどが壊滅した。それ以後は山のりょう線に沿って掘られたたこ壷に身を潜め、夜になってからはい出し、各自に2個ずつ配られていた手投げ弾だけを頼りに夜襲が行われた」。4日ほど続いたという。

 

 4回目の夜襲、19日の攻撃後、斬り込み隊をまとめ、飛行場の南端に来た時、宜保隊長と下士官との間で議論が起こった。「どうせ死ぬ身じゃないか。いっそのこと、白昼戦闘に持ち込もう」と主張する下士官と、夜襲を重んじる宜保中尉の対立だった。結局、下士官らが折れて、昼間の戦闘は行われなかったが、宜保中尉は「これ以上の部隊行動は無理」と判断。「数人ずつグループに別れ敵中突破。本隊・井川部隊に合流せよ」と命令を下した。

 

 玉城さんはいう。「その当時は死ぬことだけが国のためになると思っていた。誇りでさえあった。だから、生きのびようとはだれ一人、考えてなく、下士官の主張にも当然だと思った。大隊本部の重要書類をはじめ、紙幣まで燃やして出陣したのは、その表れだったのだから」と。

 

 しかし、「数人ずつに別れて本隊に合流せよ」との命令、すなわち実質的には“部隊解散”命令が出た時から玉城さんは戦闘意欲を失った。張りつめていた気持ちが一遍に消えた。「今の今まで死ぬことだけを考えていたのが、ウソのようだった。拍子抜けするとはあのことを言うのだろうか」と当時の心境を話す玉城さん。200人ほどに減っていた防衛隊員は小人数ずつになって別れたが、玉城さんの場合、それからの行動は「生」を求めてのものに変わった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年2月21日掲載

 

800人中600人が戦死 まだ人知れず眠る遺骨

 3、4人の仲間と行動をともにした玉城さん。伊江島タッチューのふもと、いまの、伊江中学校の建つ「学校台地」の争奪をめぐって死闘を繰り広げる井川部隊への合流は思いもしなかった。島の北西部・真謝地区へ逃げ、北海岸の絶壁にあった自然壕で2日ほど過ごした22日、タッチューに翻る星条旗を見た。

 

 「中国での戦争に参加した経験から、やがて掃討戦が始まる」とみた玉城さんは島の西端の灯台付近へ仲間と一緒に移動。捕らえられるまで島を逃げまどった。

 

 当時、玉城さんは32歳。両親のほかに妻子がいた。兄・徳行さんは伊江島での戦闘で亡くなったが、両親と妻、2人の子供は3月上旬、今帰仁へと疎開していた。既に応召していた玉城さんは2人の子供の手を取り、臨月に近いお腹をした妻の見送りにも行けず、大隊本部で急造爆雷の製造に励んでいたという。

 

 そのうち、伊江島での戦闘に先立って、4月12日、日米両軍は本部半島で戦火を交えた。本部半島に駐屯していた宇土部隊と米軍が激突したのだ。玉城さんはそのニュースに接し、また陣地から眺める対岸が赤々と燃えるのを見て「親も子も、家族みんなが殺された」と思い込んだ。以後は家族のことは努めて忘れようとしたと話す。

 

 一方、玉城さんの思い込みとは逆に、家族は家族で、米軍の捕虜となり、久志の収容所に捕らわれの身になりながらも玉城さんの安否を気遣っていた。伊江島での激戦を耳にして、玉城さんのことはあきらめていたという。

 

 戦争による悲しい“すれ違い”をみる思いのする話だが、あの当時、実際に戦場に身を置いた人々からすれば当然だったのかもしれない。

 

 伊江島で捕らわれた玉城さんは、5月に入り、生存者2100人とともに慶良間の収容所へ。座間味村慶良間島に約400人、渡嘉敷村に約1700人と分かれたが、玉城さんは渡嘉敷へ収容された。21年4月、慶良間にとどめられていた村民が沖縄本島に帰されるまでの1年間を玉城さんは「天涯孤独」と思い込み、悶々(もんもん)として暮らした。

 

 やがて、本島久志村(当時)に戻った玉城さんは劇的ともいえる家族との「再会」を果たす。双方ともに相手は、「もうこの世にはいない」と信じ切っていただけに言葉にもならなかった。感激の対面。初めて見る三男坊。「あのようなことは、本人でなければ分かるものではないし、言い表すことはできない」とドラマチックな思い出を語る玉城さん。「家族があんな風に別れ別れになる時代は二度と嫌だ」と言葉を継ぐ。

 

 「結局、あの当時は自分も含め、人の心も世の中もすべて狂っているとしか言いようがなく、だからこそあんな悲惨な戦争ができた」と述懐する玉城さん。伊江島での戦のことを家族にも話したことは無いそうだ。自己の体験を語りたがらない玉城さんに、かえって戦争のむごさが読み取れるようだった。

 

 飛行場整備―爆雷の製造―相次ぐ夜襲―生への逃避行―捕虜―収容所生活―家族との感激の再会―と続いた玉城さんの戦争はこうして終わった。が、玉城さんの調べた限りでは約800人の防衛隊員中、生きながらえたのは180人余。600人余が戦死した。伊江島にはまだかなりの数の遺骨が人知れず土の中で眠っている。厚生省は昨年、38年ぶりに同島での収骨作業を開始、13の壕から195柱を収骨し、「芳魂之塔」に祭ったが、玉城さんと苦労をともにした防衛隊員も交じっていたかもしれない。「芳魂之塔」は昨年の収骨作業を前に納骨堂は広げられ、全戦没者が収骨されるのを待っている。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年2月22日掲載

 

米上陸になすすべも 城山の星条旗見て「敗れた」

 降り続ける雨の中、14日から始まった今年の厚生省の収骨作業を見守る1人の年寄りがいた―。場所は伊江村西江前のシキミズ池東軍隊壕で、壕は海岸から数百メートル離れた小高い丘。伊江島タッチューが東北に望める位置で、年寄りはこの壕の生存者の1人、下門秀栄さん(69)=伊江村字川平。翌15日になると、もう1人の生存者、下門竜源さん(63)=同=も加わり、2人で39年前、悪夢の日を過ごした壕に見入った。

 

 防衛隊員として昭和19年10月、応召した秀栄さんと竜源さんの2人が、宜保猛豊隊長の命令を受けて、田村中隊の守備区である同壕にやって来たのは、米軍上陸を10日後に控えたころだった。それから陣地構築が始められ、昼夜を問わず隆起石灰岩を掘り続け、4、5日かけて完成。高さ、幅とも1メートルちょっとの抜け道約40メートルが通じた。

 

 米軍を迎え撃つ、海岸を向いた正面を墓を利用しての構造。高さが50センチほどしかなく、トーチカの銃眼のよう。竜源さんが持ってきた軽機関銃が据えられ、上陸を待ち受けたものの、激しい米軍の攻撃の前には何の役にも立たなかった。「1発撃つと、何千発ものお返しが飛んできた」からで、竜源さんは「戦争どころの話ではなかった。ただじっとしているだけのモグラ暮らし。人として生まれて来て、ここで死ぬだけかと思うと情けなく、ただ身を縮めているだけだった」という。

 

 米軍は上陸の翌日、17日には同壕への攻撃を開始。正面からも、丘の上に通ずる抜け道からも攻めて来た。当時、壕内には、14、5人の日本兵が潜んでいたが、米軍の侵入を防ぐため、正面入り口付近に置いてあったダイナマイトを爆破してふさいだ。全員が爆風で服はボロボロ。鼻からは血が噴き出し、惨々な状態となったが、これ以上はなす術を知らない。「首をすくめた亀の子と同じ」で、どうにもできなかったという秀栄さん。

 

 その後、正面入り口が爆破されたことから、米軍は裏に回って“馬のり攻撃”。ガソリンを注ぎ、火炎放射器で攻め寄せた。

 

 その日の攻撃を壕内で、顔を土に押しつけるようにして、やっとの思いで生き延びた秀栄さんは、米軍が引き揚げた夜になって、脱出を提案したが従う者はだれもいなかった。秀栄さんは1人で壕を出た。逃げる途中、自動小銃の攻撃を受けたものの、脱出に成功。くり舟で本部本島にたどり着いた。

 

 一方、現役兵ら14、5人と壕内にとどまった竜源さんは翌日、米軍が再攻撃を仕掛けてきた際、ひざをついて壕を飛び出した。「無我夢中だった。何人かがついてきたようだが、出た所や壕入り口付近で殺されたりしたようだ」と当時を語る竜源さん。必死の思いで城山(タッチュー)にたて込もる本隊と合流して、数度切り込み隊に加わったが、最後の夜襲でも生き残った。「最後の時は女子も含め100人ぐらいいたが、それも全滅。1人になり、海岸を歩いている時、城山に星条旗を見た」。ただ「もう敗れたんだ」との思いがするだけだった―と淡々とした口調で話す。

 

 捕らわれの身となった竜源さんらが、伊江島に帰ったのは昭和22年3月2カ年の村民不在の伊江島で、米軍は米兵の遺体を収容し飛行場を改修、主要道路の建設を行っていた。しかし、日本兵や村民の遺体は野ざらしのまま遺骨の収容が竜源さんら村民の“復興”への最初の仕事となった。多くの遺骨を拾い丁重に弔ったが、壕の側を通る度に「壕内にはまだ遺骨が眠っているはずだ」と心を痛めてきた竜源さん。短い付き合いで、他府県出身や本島出身の戦死者のことはあまり知らないが、「あの人ではなかろうか、この人だったのかな」と長いこと思い続けてきた。2柱の遺骨が収骨された時、竜源さんは「よかった」とつぶやき、目頭を押さえ鼻をすすった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年2月23日掲載

 

伊江島女子救護隊 17~24歳女子で編成  兵隊とともに切り込みも

 沖縄戦で悲劇の部隊と呼ばれて、あまりにも有名なのが「ひめゆり部隊」。年端もいかない女学生が無残にも戦火に巻き込まれ、短い生涯を閉じた。こうした少女、婦人は県内いたる所にいた。女子救護隊もその一つだ。伊江島でも昭和20年1月に、17歳から24歳までの未婚の女子青年を集めて救護隊が編成された。

 

 「昭和18年ごろから、週数回の青年学校が開かれて島に駐屯していた軍医を中心に応急処置の講習を受けていたが、戦局も押し迫った昭和20年1月には、救護隊が編成されて、疎開も金糸されました」―。兵隊とともに切り込みにも参加ながら「六日戦争」を生きのびた大城シゲさん(56)=伊江村字川平=は証言する。

 

 大城さんの記憶によると、女子救護隊はおよそ100人。各中隊、小隊、分隊に2人ずつ配置された。軍の炊事、雑役に当たっていた25歳以上の婦人・婦人協力隊とともに米軍の上陸を迎えた。

 

 大城さんが配置されたのは諸江晴美大尉の指揮する独立速射砲隊の1分隊。3月ごろに配備され伊江島タッチューのふもとにある壕内にたてこもった。救護班とはいいながら、配られたのはヨーチン、ガーゼ、包帯だけで、負傷兵に対する治療にはならない。仕事は砲弾の運搬と、切り込みでキズを負った兵隊を壕内に運び込むことだった―と大城さんは述懐する。

 

 「米軍上陸後、すぐに始まった激しい戦闘の中、歩兵隊に配属された人らの多くは兵隊なみに切り込みの主力となって戦死したが、速射砲隊にいた私たちの仕事は弾運びが主」と話す。人の運の不思議さを思わざるを得ない言葉だった。

 

 上陸3日目、18日になって、大城さんらの隊も初めて学校台地争奪の切り込みを行った。もちろん大城さんもついて行った。やがて、「負傷兵を護送せよ」と命令を受けて壕に帰ったが、大城さんの切り込みはその日の1度きり。21日最後の攻撃の時「生きている者は全員参加」の命令にも外された。ほかに足を負傷し、歩けなくなった福岡県出身の佐藤上等兵と、避難してきていた住民30人ほどが壕にとどまった。

 

 大城さんは言う。「みんな出て行ったきり帰ってこなかった。片足に弾を受けていながらケンケンして出て行った兵隊のことは今でも忘れない」と。

 

 大城さんらと壕内に残った佐藤上等兵は諸江隊長から「最後は自決せよ」と命ぜられ、砲弾を積み上げた箱に陣どっていた。「夜、眠る時、明日の朝にはいないのだから」と言って妹や友人の手を取り合って休んだ大城さんら地元住民だが、佐藤上等兵は「兵隊でない君たちは死ぬ義務はない」と自決せず、おかげで命をながらえた。同上等兵は壕内にいた多くの住民の“恩人”とも思える人だが、「戦後、郷里に復員して、炭坑で亡くなったと聞いている」と寂しそうに話す。また、「あの戦では本当に立派な人が死に過ぎた」とも。

 

 「兵隊はみな優しくてね。若い私たちをよくかわいがってくれました。そんな人たちが負傷してきているのに、傷口にヨーチンを塗るだけなのが心苦しかった」と忌まわしい思い出にふれる大城さん。「早く長い眠りにつきたいよ」と話していた20代半ばの兵隊の言葉は、本当に悲しかった。遺言を残したがっていたようだが、「どうせ、みんあ死ぬ身。聞く耳さえ持たなかった」と振り返る。口数も少なくなった。

 

 伊江村史によると、救護隊に編入された女子青年は160人。そのほとんどが戦死し、生き残ったのは大城さんを含め9人にすぎない。「青春時代は戦争に追われ、何一ついいことはなかった」とつぶやく大城さんに戦中、戦後の苦労がしのばれた。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年2月24日掲載

 

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