名護市仲尾次の老人用収容所「養老院」 ~ 「家族」を奪われた老人と「顔」を奪われた女たち

戦場でとりのこされる老人

身寄りがないため養老院に送られる女性。手にハジチ (青い入れ墨) をみることができる。

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《AIによるカラー処理》米海兵隊: an old lady squatting beside the road waiting to be taken to Old Ladies Home by the military government.
軍政府によって老人用収容所へ移送されるのを道路脇にしゃがみこんで待つ老女 (1945年4月15日)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

沖縄戦当時、米軍は日本軍との戦闘を続けながら次々と基地を建設し、基地建設に障害となる住民を収容所に収容した。

 

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沖縄の収容所 - Wikipedia

 

特に北部に置かれた収容所の情況は劣悪であり、やっとのおもいで沖縄戦を生き延びた住民も収容所内で多く命を奪われることも多かった。

 

… 捕虜になって後は食料に窮し悲惨きわまるものがあったという。 羽地、 瀬嵩、 大浦崎の収容所では、 一日一回のおにぎりが配られる程度であった。 住民は桑の葉の若芽、 竹の新芽、海草、 田草などを食し辛うじて命をつないだという。 羽地村仲尾次に収容された者などは、 今帰仁村の謝名、 玉城、 平敷、 渡喜仁、 仲宗根などの民家からイモや味噌などを物色したようだ。 しかし、 日本軍の敗残兵に没収されることもあったという。

 

北部へ避難し、 食料に逼迫した収容所生活の中で追い討ちをかけたのが伝染病のマラリアであった。 厳しい戦火をくぐり抜けて生き延びたのも束の間、 マラリアの高熱や食料不足からくる栄養失調で命を落としたものが多かったのである。

 

一方、 地元宜野湾の野嵩収容所では米軍キャンプに近いこともあって配給物資が豊富であった。 その上、 当時 「戦果」 と称して米軍キャンプから食料などを物色するものが多かった。 戦果とは戦時用語で戦争や戦闘の成果という意味であるが 「米軍キャンプから物資を拝借してくること」 を意味して戦後まもなくからしばらくの間続いた。

米軍統治下の時代∼ (1945年∼1971年) - 宜野湾市

 

砲弾と餓死が吹き荒れた戦場で、高齢者はどのような状況に置かれていたのか。

 

名護市仲尾次には、沖縄戦当時、米軍が身寄りのない老人ばかりを収容した施設があった。そこでも多くの犠牲者があった。弱りきって生きたまま埋葬された人もいたという。

 

国海軍政府は、 1945年4月から本島での戦闘の開始によって発生した要保護者(孤児・孤老など)への応急対策として、各地の避難地域に仮収容所を設置し、そのなかに孤児院や養老院を開設していった。本土とちがって戦前の沖縄に孤児院、養老院は存在しなかったのであるから、戦後の疲弊した時期に住民の意識のなかにこれらの施設が記憶にないこともいたし方ない。 1945年6月には各難民収容所に孤児院及び養老院を設置(収容児童1000人、老人400人)されている。

浅井春夫『沖縄戦と孤児院─戦後史のなかの児童福祉の空白を埋める 』立教大学コミュニティ福祉学部紀要第15号(2013)

 

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*羽地村田井等の難民収容所

収容されたのは地元の名護町・羽地村・今帰仁村本部町・東村の住民と沖縄戦の直前に中南部から来た避難民であった。約五万七〇〇〇人。のちに、収容所の範囲は伊差川から仲尾次、真喜屋、稲嶺まで拡大された。

読谷村史 「戦時記録」上巻 第一章 太平洋戦争

 

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Rice being round by a method years old by and old woman in the Old Ladies Home for women who haven't anyone to take care of them.
身寄りのない年老いた女性用の収容所で、何年も変わらぬ方法で米を臼で引く女性 (1945年4月20日)

 

病弱者を生き埋め!? 生命感覚マヒした仲尾次の養老院での証言

琉球新報『戦禍を掘る 出会いの十字路 34』(1983年)

1983年の証言。

名護・仲尾次での埋葬 病弱者を生き埋め 米軍命令、生命感覚マヒ

琉球新報『戦禍を掘る 出会いの十字路 34』(1983年)

 羽地内海を臨む名護市仲尾次沖縄戦当時、この集落に避難民の中でも特に、弱り切った年寄りを収容していた養老院のようなものがあった。そこでは、毎日のように息を引き取る年寄りが見られたという。遺体は、仲尾次橋を越えて海岸沿いに仲尾次方面へ約1キロほど行った、くぼ地に埋められた。そこは、ちょうど森と森の間で、やや開けた原っぱになっていた。

 

 昭和20年、夏の真っ盛り。梅雨が明けてから連日、焼け付くような日差しが照りつけていた。穴掘り作業に駆り立てられた人たちは、暑さと空腹で半ば意識がもうろうとしていた。中でも、16歳の少女には朝8時から夕方まで続く作業はつらかった。

 

 お昼少し前のこと。深く掘られた穴に、その日も栄養失調で息絶えた老女の遺体が運ばれてきた。いつものように2人の男にタンカで担ぎ込まれてきた遺体は、穴の縁近くに降ろされた。その遺体を穴に放り込もうとして少女は思わず目をそむけてしまった。死んだものとばかり思っていた老女が、突然目をむき、少女をにらんだのである。死体の扱いには慣れてきていたはずの少女も、さすがに背すじがゾクッとした。

 

 立ちすくむ少女を見かねて、男の人が老女に着物をかけ顔を覆った。そして、そのまま穴に投げ落とされ、上からスコップで土が放り込まれた。

 

 あれから38年。久場秀子さん(54)はその時のことがいまだに頭から離れない。「あまりにも気の毒だった。あのおばあちゃんはどこの人だったかねえ。たぶん家族が来ていなかったから、身寄りがなかったと思うよ。70くらい。いや、やつれていたからそう見えたんで、実際は50代だったような気もする。助かる見込みのない者は早く埋めろ、というアメリカの命令だったらしいね」。

 

 もう、こんな怖かったことは話したくないと言っていた久場さんは「でも、生き埋めにされたまま、まだ発掘されずに墓標も立てていないんだったらかわいそうだし」と、重い口を開き、話を続けてくれた。

 

 「その時はおばあちゃんににらまれた気がしたけど、きっとひどい衰弱で口が利けないもんだから、まだ生きてるよォーと、目で哀願していたんだろうねえ。息を引き取らないうちに埋められた年寄りは、覚えているだけでも3人はいたさー」と記憶をたどる。

 

 生命の大切さに対する感覚がマヒしていた時代だった。作業をする久場さんの周りにはいつも死体が転がっていた。収容所にする掘っ立て小屋を造るための丸太を山から運び出す途中、川の水を飲もうとしたまま、うつ伏せになって死んでいる人を見た。また、イモのカズラが異常に伸びているので、喜んで葉に手をかけたら傍らに腐乱した死体があった。「栄養分になって、あんなにカズラが伸びたんかねえ」と、久場さんは目頭を熱くしてつぶやいた。

 

 埋められた遺体はどうなったのだろうか。終戦直後、仲尾次区長をしていた宮里福栄さんに聞いてみた。「確か、戦争が終わって数年後にあの場所は開墾され、その時に地元の青年会が中心になって遺骨は全部掘り起こされたと記憶している。羽地中近くの忠魂碑に無縁仏としてまつったはずだ」と、久場さんが胸をなで下ろす答えが返ってきた。

 

 しかし、戦後の混乱の中で何とか発掘された遺骨は、当時、合同葬が持たれたきりで引き取り手は全くない。身元を確かめる手がかりは永久に途絶えてしまったのだろうか。「そうですか。あそこはキビ畑になってしまったんですか。忠魂碑には必ず手を合わせに行きます」と久場さんは言葉少なに語った。

琉球新報「戦禍を掘る」取材班)1983年10月4日掲載

 

「家族」を奪われた老人と「表情」を奪われた女たち

孤児院に関する資料と同様、身寄りのない高齢者を収容した老人収容所の資料は驚くほど少ない。杜撰な管理の下で、軍政府内に一貫した管理記録がなされていなかったというだけではなく、まだまだ米国内に非公開の資料があるのではないかとも思われる。

 

田井等孤児院、コザ孤児院の従事者の証言でも相当数の子どもたちが衰弱死をしている。この現実はいわば “ネグレクトによる死亡” であり、施策の怠慢による緩慢な殺人という側面を持っている。アメリカ占領軍が子どもの生命保持を占領政策の柱に位置づけていれば、大量の子どもたちのネグレクト死は免れていたと思われる。そうした点からみても米軍の占領支配は一貫して支配者の視線であり、福祉的な観点での子ども施策は脆弱であったといえよう。子どもの福祉を保障し、行政運営の基本を規定する児童福祉法などの法的整備は放置され、結局、沖縄児童福祉法が制定されるのは、(米軍政府のもと) 本土に遅れること5年の1953年10月であったという特殊な事情もある。 孤児院での子どもたちの衰弱死に関する統計はな。これも米軍管理のもとで正確な統計が存在しないこと自体が施策の怠慢を物語っている。統計資料や記録を米軍が廃棄したのか、もともと記録などはないのか、現在もアメリカのどこかの図書館・史料室に眠っているのかは不明である。

浅井 春夫「沖縄戦と孤児院─戦後史のなかの児童福祉の空白を埋める─」立教大学コミュニティ福祉学部紀要第15号(2013)

 

こうした養老院と孤児院は、下記の海軍によるキャプションにあるように、軍政府によって「管理」され、元慰安婦が看護に「従事」していた。

  

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《AIによるカラー処理》【原文】米海軍キャプション: Life in Shimobaru, one of civilian camps established on Okinawa in Ryukyus by U.S. Military Government. Old ladies' home and orphanage. Maintained by Military Government and manned by ex-geisha girls.

沖縄県公文書館の和訳】 下原での生活の様子。この地には、軍政府によって設置された沖縄本島の民間人収容所の一つ。軍政府運営の老婦人用住居兼児童養護施設。ここでは、元「芸者ガールズ」(若い女性) が労役に従事していた。

撮影地: 下原 1945年 5月 10-20日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

注意したいのは、米軍が記録する "ex-geisha girls" あるいは "geisha girls" という言葉は「若い女性」を表しているのではない。米軍が記録する geisha girls は「慰安婦」とよばれた女性たちのことであり、それは朝鮮半島から連れてこられた若い女性たちや、日本軍によって慰安婦にさせられた「辻」の女性たちのことである。

 

日本軍は、上陸戦に先立ち、軍令を出して、こうした「慰安婦」に看護助手としての訓練を受けさせ、従軍させた。

 

彼女たちが戦場を生き抜き捕虜となった後は、米軍から、各種の収容所内の医療施設や、孤児院や老人施設で働くことを要請されたとおもわれる。

 

孤児院や老人施設が、"Maintained by Military Government and manned by ex-geisha girls " (軍政府によって管理され、元芸者ガールズに任された) と記されているこの写真のキャプションは、そのことを表す。

 

撮影場所は不詳だが、海軍撮影の「養老院」の写真に写る2人の女性が、むけられたカメラから顔を覆い、あるいはうつむいているのは、どれだけ彼女たちが搾取されてきたのか、押しつけられたスティグマがどれだけ深く彼女たちを傷つけてきたのかを表している。

 

沖縄戦と戦後は、身寄りのない孤児、老人、そして女性たちに何をもたらしたのか。米軍は実際には所有しているはずの軍政下における孤児院と養老院に関する資料をまだ公開していないのではないか。

 

これからもまだまだ問われ続けていかなければならないだろう。

 

 

 

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米国海兵隊 Entrance to compound at Taira.
田井等収容所入口 名護市 1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館