琉球新報『戦禍を掘る』 疎開地への手紙
16通が戦争を証言 沖縄から異郷の家族憂う
戦時の状況を物語るものは多い。当時、交信された手紙もその一つだ。検閲下にあるとはいえ、その文章は多くのことを証言する。係に浜松昭さん(56)から寄せられた、父親から疎開地の家族にあてた16通の手紙も貴重な証言をしている。時代に流されていった一家をこの手紙を中心に紹介したい。
◇ ◇
浜松家にとって、家族が全員そろったのは昭和17年4月だ。昭和医専を卒業、陸軍病院軍医候補生として進む二男の巌さん、昭和医専在学中の三男・繁さんも帰省、久しぶりに一家がそろった。だが、その年が最後だった。翌18年からは四男の昭さんは所沢陸軍航空整備学校へ入校、母親のエミさんや長女・久田民子さんらの母子も熊本県水俣に疎開、沖縄には病院を開業する父親の哲雄さんだけが残った。厳しさを増す戦局の中、疎開地の家族への手紙は19年9月から交わされる。
19年9月2日記
「オチツイタ ヒロシノコセキショウホンオクレ」と電報が来たのみでその後何等の詳しい便りがないので案じている。丁度あの電報の来たその暁、西部九州が空襲されたとの発表があったのでマサカとは思いつつも心配している。(略)那覇は年齢的に疎開不許可の方針に変わって相当な病人でない限り男女とも疎開は許さぬ方針に変わったらしい。それに二十一日にたった学童疎開船団のうち未着のものがあるとかで騒ぎ出して学校当局を困らしている。(略)
9月23日受信◇ ◇
9月7日記
「落ち着いた戸籍抄本送れ」との電報一本来ただけで全然音沙汰なし。あまりのことに四日前「子供らの転校出来たか」と打電し何とかようすを探ろうとしても何等の返事なく、西部九州の空襲があったのでまさかと思えど心配で仕方なし。手紙を出すことのむつかしければ何とか電報にて他事にかこつけても無事なることを知らす方法あるべきにあまりの不音に心配にたえず。誰か病気でもしていぬか、二十一日発の満州からのハガキでさえ三十日に着いてるのに不思議と考えるほかなし。
当地の騒ぎも一段落となって今は平静になっているようである。しかし疎開者は続々出て行くようだ。初めあまりおどし過ぎたるため冬の仕度もせず体一本で飛び出したあわて者もいたと見え、今ごろ町内会から古足袋や座布団の献納運動をしている。それでフトンでも作って送るつもりだろう。いかに政府が世話するというてもあまりののんきさには腹が立つ。こんな人たちが他府県で沖縄人の恥をさらすかと思うと情けなくなる。(略)今一やすみしたが寝られぬまま起き出して書いている。
9月22日受信
◇ ◇
父・哲雄さんは若いころシベリアで開業、革命の混乱の中、市街戦も幾度か経験している。「それだから戦争に対する恐怖心はほとんどなかったみたいだ。ただ離れて暮らす家族が心配で、通信事情の悪さにイライラしていたようだ」(昭さん)。父親はその後も1通(9月11日記、9月15日受信)同じ内容の手紙を、あるツテを頼って送っている。
昭和19年9月ごろの浜松家の状況(年齢は当時の年齢)
父・哲雄(52歳) 那覇市上之蔵で浜松病院経営、県医師会那覇支部長
長女・民子(27歳) 母とともに疎開中
婿・久田友順(30歳) 軍医として中支方面出征中
二男・巌(23歳) 軍医としてビルマに従軍、マラリアにかかり、後退中の19年9月、爆撃により戦死
三男・繁(21歳) 東京第三陸軍病院医候補生採用予定者として教育中(その後、沖縄に配属され20年6月拳銃で自決)
四男・昭(17歳) 19年8月、所沢陸軍航空整備学校入校中
三女・翠(13歳) 疎開中
六男・健(12歳) 疎開中
孫・久田由美子(4歳) 疎開中
孫・久田怜子(3歳) 疎開中
孫・久田英樹(1歳) 疎開中(19年暮れ病死)
おい・可成健一(11歳) 疎開中
おば・比嘉ツル(76歳) 父・哲雄さんと在沖(20年4月、老衰死)
(長男、二女は幼児期に死亡)
(「戦禍を掘る」取材班)1984年1月18日掲載
食糧は軍人が優先 着のみ着のまま熊本へ
昭和18年8月、兄2人に次いで四男・昭さんも陸軍特別幹部候補生第3期生として所沢陸軍航空整備学校に入校する。那覇を7月13日に出港、「その前日ものすごい部隊が入って来た。若狭の大通りの街路樹には軍用の通信のため黄色い電線が何本も巻きつけられて続いていた。また荷馬車という荷馬車は徴用されて軍需物資を積んで行き交い、今の平和通りのようなけん騒だった。出港の時も那覇港は軍用船がいっぱいで、私たちは開城丸まで艀(はしけ)で行った」と昭さんは当時のもようを話す。
1男2女を釣れて、母・エミさんらと疎開した久田民子さん(66)も「当時の那覇は軍人だらけ。満州から来た部隊でいっぱい。緊迫した雰囲気だった」と言う。部隊の移動の際は、ヒザ小僧を抱いてギッシリ座らされていた―ということを民子さんは自宅に泊まっていた兵隊たちから聞かされた。
この大部隊の移駐は住民の生活にすぐ影響した。ただでさえ悪化している食糧も軍隊が優先、那覇市からは野菜の一束さえも見えなくなった。「ところが、うちに宿泊している将校たちは、ぜいたくざんまいで、毎日が会席料理。酒も好みの酒がないと軍用機を仕立てて調達に行く。ゴボウなんか積んでいて腐らせている。一度は『民はモノがなくて困っているというのに…』と隊長さんに文句言ったこともあります」と民子さんは言う。
家族が疎開を決めたのはそんなころだ。父親も近所にいた当時の市長、當間重剛さんも「こんな食糧事情だから―」と勧める。しかし、まだ楽観していた。「2、3カ月もすれば良くなるから戻ってくればいい」と言う。母のエミさんは子どもたちを送り届けたら、哲雄さんと残るつもりだった。19年8月中旬に出発した。
荷物はあとで送るつもりだったから、ほとんど何も持たない。「私はモンペを3枚だけ。当時、沖縄ではモンペを着てないと巡査に注意されたが、鹿児島に着いて驚いた。ちょうど月遅れの盆のころだったが、紋付きで墓参り。同じ船に乗っている人たちもテーブルや石ウスまで持っている人もいたが、私たちはほどんど何もないまま」(民子さん)
19年9月11日記
出発以来まる一カ月、昨日、牟田様(注・母親の知人の紹介で懇意となった開城丸1等機関士)がヒョッコリ訪ねて来られ皆大喜びで万万歳を叫んだような始末であった。大丈夫とは心に思いながら八月二十日の空襲があったのでもしや万一と思う心の不安さは口にこそ出さなかったが全くやりきれなかった。何しろ当地は急速に孤島化し船便も月一回あるやなしやというありさまで全く孤立してしまっているので、色々のデマが飛び全くやり切れない。(略)荷物は…差し当たり入用の冬物だけえり分けて牟田様に託送するつもりである。行李二個ぐらいは商運組預けにせず大丈夫との御親切なお言葉であったから開城丸の出港をよく聞いてお願いし…。(略)私の疎開は全然望みなし、また救護関係からも私が県外に転出なんてことは無責任になるのでできない話である。しかし、ここに残ったからと言うても決して危険はないと思うから心配するな。形勢はだんだん落ち着いてお前たちの疎開のころからするとかえって好転して安心のできるような状態である。(略)9月15日受信
◇ ◇
母・エミさんは帰るにも船の都合がつかず、そのまま残らざるを得なかった。夏物の衣料だけしかない家族に荷物が送られたが、鹿児島の倉庫が空襲に遭い、届くことはなかった。
(「戦禍を掘る」取材班)1984年1月19日掲載
“見聞を広くせよ” ~ 生命の安否が気懸かり
母親の身寄りがいたとはいえ、女性と子どもだけの家族が疎開地で生活するのは楽でない。「海岸に打ち寄せた木を拾いマキにする。畑を借りて初めて農業もやった。山から杉の木を切り倒して3里の道を荷車でひいてきた。あの時、生木の重さをつくづく知った」と長女の久田民子さんは言う。
母・エミさんの生家が農家だったが、「村境には巡査が立っていて持って来れない。とにかくひもじい思いばかりだった」。エミさんは近所の人から食べ物を勧められても断った。子どもらが食べ物をもうらうことも嫌った。民子さんは「生まれ故郷だからプライドがあったと思う。おかげで毎日ひもじい思い。こっちは近所の子が食べ残した物まで拾って食べたくらいだったのに…」と話す。
そんな家族の生活のことを父・哲雄さんは知らない。現金をある程度持たせていたから、子どもらにあてた手紙には「温泉や海山に遊び見聞を広くせよ」「買い食いをしないように」との言葉も見られ、気がかりはもっぱら生命の安否だけだった。
「とても温泉どころではない。イモ掘りの毎日。物のない統制の時代に金は何の役にも立たなかった。空襲警報の時には、子どもらが非常食を隠れて食べるので困ったほど飢えていた」。疎開先で民子さんは長男(1つ)を失う。「寒かったし、肺炎にかかって1日でなくなった」
所沢陸軍航空整備学校に入校した四男・昭さんもつらい毎日だった。入校すると私物は取り上げられ、着る物は支給された軍服だけ。「1年間同じ服。家族が面会に来られる人たちは肌着を着込めたが、私らは夏も冬も同じ服で過ごした」。すでに石炭もない時代で兵舎のストーブも火が入らないまま。零下4度の部屋で、丸刈りの頭は皮が切れるほど痛く感じ、寝る時はほおかぶりして布団にちぢこまった。
栄養失調で倒れる者も少なくなかった。「20歳前後の私たちが、どんぶりめし1杯で、駆け足ばかりさせられていてはもたない。近くの農家から種いもや大根を盗んで飢えをしのいでいた」と昭さんは振り返る。
10・10空襲を昭さんが分かったのは翌11日だ。他の班の班長から知らされた。台湾との往復が多かったその班長は、県出身者を集め、「那覇は全滅だ。丸山号しか残っていない」と伝えた。「そのあと中隊の20人ぐらいの出身者で中隊長に沖縄に配属するよう直訴しましたよ。結局、『ここで技術を身につけるのが務め』と諭されたが…」
民子さんは「家に帰ったら弟が神棚に祈っている。父が無事であるように―と。その時、那覇が灰じんに帰したのを知ったが、なぜか“仕方がない”という気持ちだった」と言う。
10・10空襲を知らせる父親の便りは10月21日記(受信月日不明)が一報だ。はがきに毛筆で書いてある。
◇ ◇
十月空襲を受けたるため従業員、患者一同無事その晩十二時ごろ、真和志村字繁多川(識名宮所在地)に安着、安里より糧食などを取り寄せ心配なき生活している。『最早こちらから品物は送られぬ。そちらで工面せよ』十四日命により当地に臨時救護所を開設して診療に従事している。デマを信ぜず安心せよ。おばあさんも元気で毎日めしたきに奔走している。両方とも火災保険契約完了せるため心配なし。
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空襲から11日が過ぎてから書いたはがき。文面は落ち着いているが、その後の手紙を見ると哲雄さんはかなりのショックを受けている。「いつも父は米英は憶病だから遠いところからしか爆撃しないから当たらないと言っていた。それが目の前で大空襲をやったんだから驚いたのもムリはない」と昭さんは話す。父親は戦場となる日が直前まで来ていることを感じとっていた。
(「戦禍を掘る」取材班)1984年1月21日掲載
記録的な沖縄空襲 ~ 文中勇ましい言葉消える
10・10空襲について簡単なはがきのあと、知人に託した手紙が疎開先に届けられた。鉛筆書きのそれには「十日午前七時より空襲があり、あまりに敵機の数が多いので残念ながら那覇市中は駄目になった」「詳しくは書けないが一同無事であるから心配するな。いずれ落ち着きしだい復興策を講ずるつもり」と伝えている。文中から勇ましい言葉は消え、落胆を感じさせる。そのあと10月30日に記された長文の手紙が送られて来る。少し長くなるが10・10空襲後当時を知るうえで参考となるので引用してみる。
◇ ◇
(略)こちらのことについては詳しく書く自由がないが、(略)病院も住宅も全焼、全く体だけで避難した。(略)真夜中の二時に当地の識名宮について露営をして翌日区長の世話で今はお宮の隣の神応寺という所へ仮の救護所を開設して、診療の真似をしている。
私以外の医者は皆遠く国頭まで逃げて当日から引き続き救護に当たっているのは私一人である。それで私が爆死したの、壕の中で焼死したのとのデマが飛んだが、これは私の病院に空襲の初期に負傷者が多数運び込まれたのでその診療に忙殺せられて逃げ場を失ったのだとの想像から出たものらしい。
衛生課でも私の活動は大いに感謝しているようである。新聞発表によれば死傷者七百人、焼失家屋一万戸以上とのことだが那覇は全滅である。しかし、この沖縄の犠牲において台湾沖、比島沖海空戦が大戦果を挙げたのを知って県民皆誇りとしている。
(略)在支米空軍の九州各地襲撃を聞いて反対にこちらで心配しているが被害はなかったか、留守中よく子供らの面倒を見てくれ。開城丸から砂糖その他の荷物送るつもりだったがもう駄目である。
(略)沖縄の空襲はとにかく記録的なものでお前たちの想像外だと思えばよい。しかし県民は少しもへこたれておらぬ。かえって今か今かビクビクしたものが来たのでサッパリしてセイセイしたと言うのが負け惜しみでもなしに皆の心境であろう。私も(略)慢性疲労がこれで回復するのでかえって清々した気持ちでいる。
(受信日不明)
続いて送られて来たのが11月18日記(12月20日受信)のものだ。
◇ ◇
(略)再度の空襲はあるものと覚悟しているので落ちついて復興計画も立てられない。新聞発表によれば差し当たり焼跡は農園にして増産に努め本式の建築は許可せぬ方針らしい。何日までも遊んでおれないから那覇近郊か牧志町(このあたりが市の中心になるらしい)辺へ再起したいと考えている。(略)
当地は今年は相当暖かいが漸次寒くなって来るので防寒材料のないのには皆大困りである。(略)
これからは在支米空軍が相当ひどいしゅん動をするはずであるし、それに水俣には○○工場があるから防空壕は完全なものを金を入れて作ってくれ。そして家屋が倒壊しても逃げ出す出入り口を是非用意しておくことだ。十月十日の空襲で死んだ人々の多くは大抵自分の家の防空壕を信用し過ぎて家屋の倒壊によって圧死されたのが大多数である。(略)那覇以外の大被害は本部町渡久地全滅、その他県下の各港、離島はほとんど被害あらざるはなし。しかし県民は雄々しく立ち上がり再興に努力しているから心配はいらぬ。
医師会の活動が思わしくないとの悪評があって人々の思わざるも甚しと憤慨した。(略)これからはあまり体を虐死せず適当な治療方針で余生を送った方が得策であると考える。二人は軍医、二人は陸海軍将校に仕上げたのだ。(略)これからは気長に四人の子の凱旋を待って心を楽に暮らすようにしよう。
気落ちしながらも気をふるいたたせて書いたに違いない。また、この手紙で戦後、ヤミ市から無計画に発展した牧志が、そのころ、中心部と計画されていたことは注目される。
(「戦禍を掘る」取材班)1984年1月23日掲載
便りを欲しがる父 ~ 死を意味する沖縄赴任へ
所沢の陸軍航空整備学校の昭さんを三男・繁さんが訪ねて来たのは、昭和19年12月18日の日曜日だった。面会所から連絡で行って見ると、そこには将校服を着た繁さんが待っていた。「びっくりしました。あんまり立派なので…。それまで2、3回面会に来たが、普通の兵隊の姿に長い刀をさげていた」と昭さんは話す。「星一つの差でも大きい軍隊内、たとえ兄弟でも上官は上官。敬礼をして入っていった」。
しかし、すぐに兄弟の会話が始まった。繁さんは得意気に話を切り出した。「オレは沖縄に配属されるぞ」。昭さんは「うらやましくて仕方がなかった。兄は『おやじのそばにいるから沖縄のことは心配せんでもいい』と言うが、帰りたかった。あとは方言で話し、兵隊ヤー(軍隊)の悪口ばかり言っていた」と、最後の対面となった当時を話す。
◇ ◇
父・哲雄さんが12月2日に送った手紙が疎開先に届いたのは年が明けてかなりたった1月25日になってからだ。
二カ月余も手紙が来ないので心配している。お母さんも朝鮮から帰ったか。宏も無事入隊したのかサッパリ分からないのでいらぬ心配をしている。しかもB29の本土空襲もひんぴんあるようだし、ここは既に最大限の試練を受けたので、これ以上のことがあったも命だけは取り止めるつもりだから心配はいらぬ。たびたびこちらからは便りを出しているのにナシのつぶてで音さたなしで実際怒りたくなる。たとえいかなることがあっても戦時下だから驚かないから便りだけは出してくれ。(略)他の先生方はまだ一定の住所もなく田舎住まいしている人が多い。しかしまた自分の転職を忘れてただ一身上の安全を築いて他県に逃げていった人たちもいる。近ごろ逃走した人たちは○○、○○、○○君(注・実名を伏せた)たちである。老人を残してよくも自分一人の安全を図られたものだと残った人たちは笑っている。
◇ ◇
水俣に疎開している家族のところに沖縄赴任の途中の繁さんが姿を見せた。姉の久田民子さんは「あの時は沖縄に行くというので、貴重だった砂糖を全部出して甘いものを作ってやった。あれが最後の姿でした」と話す。昭さんらは沖縄が日に日に厳しい状況に向かっていることは知っており、そこに赴任することが死に近づくことを意味することも分かっていた。だが、沖縄にいた父親は、飛び上がらんばかりに驚き、喜んだ。
19年12月31日記
二十七日午後八時ごろ玄関で玉城君がとん狂な声で「繁さんがおいでになりました」とのことに、初めはどこのシゲルさんやら分からずに、ただそうかと言うてるうちに、突然もしやと思い、玄関に飛び出して行ったら、大男が軍装いかめしく立って「繁です」とのことに全くびっくりした。全然予期せぬ事でもなし、あるいは沖縄勤務ではないかと考えていたのだが、余りの突然さに全く度を失った。
おばあさんは「へー」と言うなり腰が抜けて立てない始末であった。立派な軍人さんになって全くうれしかった。顔見れば紅顔の美少年が陸軍少尉の軍服いかめしく、つっ立った姿はわが子ながら見上げるばかり。(略)話はそれからそれと切れず午前二時まで床の上で話した。色々心配したが別に心配するほどの事もなし、安心したが、英樹坊の訃を聞いた時には泣くにも涙が出なかった。ただ胸が痛かった。しかしこの戦時下だ。大人も小児も何日何時どんな事で死ぬかもしれないし、せめて母の手に抱かれていった英樹にあきらめずばなるまいとわが心を安じている。繁の部署はまだ決まらぬので当分軍司令部の軍医部でお偉方と一緒に少ない飯を食うほかないようで、本人は悲観しているが幸いその日は赤嶺の家から正月豚がたくさんきていたので、たらふく食わした。私もお相伴したために昨日一日腹下しして寝る始末である。
20年2月7日受信
(「戦禍を掘る」取材班)1984年1月24日掲載
今は腹満たすだけ ~「勝つまで辛抱」と激励
沖縄が急速に孤立化していゆくことを疎開先の家族は郵便事情からも察しがついた。最初のころは早ければ4日で受け取った手紙も、年が明けると2カ月近くもかかるようになっている。三男・繁さん来訪の喜びを伝えた手紙には、10・10空襲後、冬を迎えるもようがこう書かれている。
「避難者のうちには冬物なしでブルブルふるえている人々が多い。今の首里、那覇の街道は全く百鬼夜行の図でちょうど東京の大震災と全く同様である。着物など冬物の上から夏物も重ね巻脚半、ワラジか地下足袋、大抵の紳士が野菜をさげて少しも恥としない。華々しい着物を着たりお化粧でもしていると、かえって変な目で見られ恥ずかしいくらいである。今はもうただ腹を満たすこと、寒さをしのぐこと、それだけである。よい着物や甘い食物なんてとても願ってもかなわぬので皆あきらめている。しかしこれが戦争だ。勝つまで辛抱しようと皆頑張っている」
繁さんが沖縄に帰って来た喜びは大きかったはずだが、文面から悲観的な言葉が消えない。気を奮い立たせようとするが、既に沖縄が日に日に追い詰められていくのは容易に推測できたはずだ。その後の手紙は預貯金の残高や不動産の売買など財産についての報告が入って来る。
◇ ◇
昭和20年1月6日記
(略)
こちらは既に第一線である。いかなる事があるかもしれないが自分の郷土でもし死んだら本懐である。沖縄県民四十万サイパンやフィリピンとは違う。皇土に敵を上陸させるような事は万々あるまいが最悪の場合を考えて色々の施設もしておられるようである。こちらにおればまず犬死をするようなヘマはやるまいと考えるがただ心配は水俣の事である。(略・金額の大きい預貯金の記録番号、残高なども記されている)
エミも民子も神経を大きく持って暮らせ。クヨクヨするな。これが戦争だ。一家離散なんて陰気臭い考えをせずに戦争中温泉に湯治に来ているという気持でおれ。いらぬ心配するのは馬鹿だ。
1月13日受信
◇ ◇
同様の内容の手紙が1月10日にも書かれ、議会出席のために飛行機で出発した当間重民さんに預けられて家族のもとに届いた。さらに1月15日記(3月10日受信)のあとに1月17日記のものが送られてきた。
◇ ◇
一月三日付きの速達が珍しく早く十五日に着いた。待ちに待った便りがこれで三回目である。疎開後カゴシマ上りのもの、大城君への託送のもの、繁が持って来たもの、それだけである。こちらから出したのもそちらから出したのも皆途中で消え失せたらしい。戦時下であればやむを得ない。
(略)
しかし今後絶対に妻子に会われんなんてことはない。決してこのまま生き別れなんて悲観的な考えをするものではない。私らばかりではなし何万人の人が皆家族や学童と別れているのだから、あまり深く物事を考えぬようにして朗らかに温泉でも入ってくれ。なる程結婚して以来色々の苦しい目ばかり会わして後に何のものも残らず、帰るに家なしと考えたら悲しくなるだろうが、私も老後をこんな島しょに送ろうとは思わぬ。いずれ水俣あたり(家を買って)ユックリ釣りでもして暮らしたいと思っている。
(略)
沖縄が万一敵の手に入るようなれば日本の国運も既に窮まり、たとえ日本内地の片隅に逃げおわせても日本人として何らの生き甲斐なし。軍の作戦の都合で強制疎開の命あればともかく、さもなくば自ら逃げて生き恥さらすなと口には言わねど四十万県民皆その気持ちである。だから戦争の心配など皆吹き飛ばして増産に懸命である。
(略)
3月10日受信
◇ ◇
疎開先から父・哲雄さんが受け取った手紙はわずかに3通。家族のようすが分からず、いら立つ感情をぶつけてきた手紙も、終わりへ近づこうとしている。
(「戦禍を掘る」取材班)1984年1月25日掲載
マラリアにり患 ~ ビルマで英空軍が攻撃
1月31日記
(略)
空襲なんて慣れたら平気なものだ。ソラ定期便が来たぐらいでサッサと非常袋をさげて待避壕へ行くだけだ。私の壕は二百円近い金をかけて二、三日でも平気で寝起きできるよう造らしてある。
非常食糧も壕のある屋敷の人に頼んで置いてもらってあるし、大きなアルコールランプも用意してあるので壕内で飯やくず湯を作るくらいはできるようにしてある。また近ごろは敵も相当考えていると見えて街は余り爆撃しないようで、主として陣地をやるらしいので市中の人々はユックリ避難する事ができるし、兵隊さんだちも壕の中に入って金持息子みたいに弾を浪費するアメリカ共のやる事を悠々と見物している次第であるから必ず心配せぬように。
3月15日受信
◇ ◇
二男・巌さんに最後に会った家族は母親のエミさんだ。18年10月ごろ、甲府にいた巌さんが移動する前に面会に行った。その時、「ビルマに行く」らしいことは知った。慌ただしく母子は再会、その後、戦地から1通の手紙が届いただけで家族の前に姿を見せることはなかった。
「東京にいたおじ夫婦から『NHKのラジオが巌のことを放送していた』との連絡はあった。ビルマ便りという番組で現地の子らに『浜松軍医少尉が日本語を教えている』との内容。きっと兄に違いないと思う」と四男の昭さんは言う。
公報が届いたのは戦後だが、戦死したのは19年9月22日。親せきが死ぬ少し前に会っている。マラリアにり患し、担架に乗っていた姿だったという。戦死したのは後退中、ビルマのカローで英空軍の攻撃を受け、爆撃によるものだ。
昭さんは「あのころは軍医が死ぬということは考えられなかった。いつも後方にいるはずだから…。部隊の移動が秘密だったのか手紙もなく、母がずっと気にしていた」と言う。
◇ ◇
2月12日記
二月十一日は紀元節でもあるし建国祭でもあるし、それに浜松病院の開院記念日にも当たるし旧の正月元旦にもあたるが、生まれた五十四年初めて避難先でこれを迎えるのであまり良い気持ちはせず、寒い部屋でつくねんとしていたら、二人から巌健在の便りが来て、便りがないのは元気な印として気休めはしていたものの一年も便りがないので気落ちしていたのにこんなうれしい事はない。早速繁の許へもあの手紙を封入して送った。繁は近い所へ来ているのでこの前は薬品購入のため二泊して帰って行った。
由美坊はレ子坊の片こと水俣弁を読んで恋しさ懐しさ気もそぞろになる。戦争下とあればこんな苦しみも耐え忍ばねばならないとは思いつつあまりの有為転変に少し悲しい気持ちもするし、これが勝つための苦しさだと思えば笑って忍ばねばならないとも考えるが、そぞろ昔の事が恋しくなってくる。
(略)
あるいはこの手紙が最後になるかもしれない。戦局の落ち着きがない間は輸送(民間)は駄目だと思う。たとえいかようになろうともいたしかたない。これが戦争だから。(略)こちらからの送りものは全然不可能だ。お前だちが居った時と今とは天地の差でとても想像もできない状況である。空襲前のように考えたら当てがはずれてしまう。今はただ食うて生きるという考え以外は何もできない。この手紙も無事お前だちの手に入るかどうか神様に祈る以外しようない。みどりの縫製材料なんて全くお話にならない。ここは各中小学校全部授業なしだ。水俣で学校に行っていると聞いて外国の話を聞くような気持ちである。(略)
3月10日受信
◇ ◇
悪化している郵便事情が既に戦死した巌さんの無事を知らせることになり、その生存を喜ばせている。手紙で指摘したようにこれが最後の手紙となった。そして、そのまま米軍上陸に巻き込まれていった。父・哲雄さんはモルヒネによる自決未遂、三男・繁さんはピストル自決で、それぞれの沖縄戦を終わらせた。
(「戦禍を掘る」取材班)1984年1月26日掲載
壕の中で自決図る ~ 遺骨収集に母親の執念
三男・繁さんが疎開先に送った唯一の手紙も残っている。10・10空襲で変わり果てた那覇をこう話している。
「灰燼那覇!!文字通りの灰燼廃虚と化したわが故郷の土を踏んで感慨無量でありました。思い出のあの町、あの家、あの路も今は思い出すよすがもありません。先日若狭町の家に行きましたが懐かしいわが家も塀を残しては見る影もなくうずたかいガレキの中に中学時代の剣道の面や見おぼえのあるお椀の破片等を見出して■(注・米)鬼への噴逆の血が逆流するのを禁じ得ませんでした」
■は、けものへんに「米」
その繁さんも米軍上陸のあとは南部まで追い詰められ、20年6月、具志頭村仲座東方の台上の壕で自決した。周囲を米軍の戦車隊に包囲され、自らも足をやられて歩ける状態になかったため、ピストルによる死を選んだという。
戦後、戦死公報とともに小さい木ぎれの入った白木の箱が厚生省から送られた時、母・エミさんは怒った。「なんで沖縄で死んだのがヤマトゥから送られて来るんだ」
ビルマで死んだ巌さんの遺骨収集はかなわずとも、沖縄で死んだ繁さんの遺骨は「なんとしても…」という母親の執念は十数年も南部の激戦地へと通わせている。四男・昭さんは「17、8年ぐらい毎日のように遺骨捜しが続いたと思う。カマス一杯になった遺骨をどれほど魂魄之塔にまつったことか」と言う。
証言者捜しも難しく、わずかな手掛かりを少しずつたどっていくことは容易でない。一度は間違いないと碑まで建てたが違っていた。やっと当時壕の中で炊事をやっている女性が見つかり、収骨することができた。「お袋は壕の中の遺骨を一つずつ手に取って、その中の一つを指して『これに間違いない。歯並びが繁だ』と自信を持って言っていた」と昭さんは母親の戦後の区切りとなった当時を話していた。
沖縄戦ではまた父親の哲雄さんも真壁村真壁の壕内で自決の道を選んだ。致死量をはるかに超えるというヘロイン5グラムを服毒したが、米軍に発見されたのが早く一命を取り留めた。
長女の久田民子さんはこう言う。「父は典型的な軍国主義者だったのだが、米軍に助けられて戦後はだいぶ変わった」
南部で避難の途中、哲雄さんは日本軍の横暴を見て考えを大きく変えさせられている。壕の中に避難している時に、日本兵らが入って来た。「民間人は出て行け。ここは軍が使う」。怒った哲雄さんは「民間人を守るのが務めではないか」と言い、聞く耳を持たぬ日本兵たちに「私の息子は陸軍中尉と少尉だぞ!」と続けた。だが、返って来た言葉は「何言っているんだクソじじい」だった。
「父はそのことをいつも持ち出して『あれでは戦争に負ける。人間がなってない』と言っていた。軍人を尊敬していた父にとってはよほどショックだったのでしょう」と民子さん。
軍医の2人に加えて、四男・昭さんが陸軍航空整備学校、五男・宏さんが海軍飛行予科練習生へと進んでおり、浜松家は“軍国一家”だった。疎開地から送られて来た手紙で一つだけ残ったものがある。哲雄さんらが親代わりとして育てたおいの可成健一さん(当時11歳)の手紙だった。
「(略)あのにくい米英のやつらが沖縄を空襲したためたべ物がないと聞いて『よし沖縄の仇はかならず僕らがやると心できめました』。お父ちゃんも安心してください。宏兄さんも入隊しましたので家がからっぽになりました。いまでは、わが『特別攻撃隊』がめざましい働きをしています。僕たちもそのいきで沖縄の仇をうつつもりです。お父さんもおからだを御だいじに。」
民子さんが「小さい時から飛行機が好きで、整備学校に決まった時は“操縦士でない”とこぼしていた」という昭さんは「兄2人が医者になっていたので、父からは小さいころから何やってもいいと言われていた。当時は軍人となるのが一番の奉公。志願して入った」と言う。
「だが、新聞に米軍の慶良間上陸が報じられた時、何にもやる気がなくなった。上官の命令も聞かない。すべてをテーゲー(いいかげん)に―。家族も何も私らに守るべきものはなくなったのだから…」と話す。
(「戦禍を掘る」取材班)1984年1月27日掲載
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