島内の疎開では米軍の収容所の壁に阻まれ郷里に戻ることはできなかった。基地建設の都合で、人々は収容所から収容所へと転々とした生活を強いられた。

三男・繁さんが疎開先に送った唯一の手紙も残っている。10・10空襲で変わり果てた那覇をこう話している。「灰燼那覇!!文字通りの灰燼廃虚と化したわが故郷の土を踏んで感慨無量でありました。思い出のあの町、あの家、あの路も今は思い出すよすがもありません。先日若狭町の家に行きましたが懐かしいわが家も塀を残しては見る影もなくうずたかいガレキの中に中学時代の剣道の面や見おぼえのあるお椀の破片等を見出して■(注・米?)鬼への噴逆の血が逆流するのを禁じ得ませんでした」その繁さんも米軍上陸のあとは南部まで追い詰められ、20年6月、具志頭村仲座東方の台上の壕で自決した。周囲を米軍の戦車隊に包囲され、自らも足をやられて歩ける状態になかったため、ピストルによる死を選んだという。
 戦後、戦死公報とともに小さい木ぎれの入った白木の箱が厚生省から送られた時、母・エミさんは怒った。「なんで沖縄で死んだのがヤマトゥから送られて来るんだビルマで死んだ巌さんの遺骨収集はかなわずとも、沖縄で死んだ繁さんの遺骨は「なんとしても…」という母親の執念は十数年も南部の激戦地へと通わせている。四男・昭さんは「17、8年ぐらい毎日のように遺骨捜しが続いたと思う。カマス一杯になった遺骨をどれほど魂魄之塔にまつったことか」と言う。
 証言者捜しも難しく、わずかな手掛かりを少しずつたどっていくことは容易でない。一度は間違いないと碑まで建てたが違っていた。やっと当時壕の中で炊事をやっている女性が見つかり、収骨することができた。「お袋は壕の中の遺骨を一つずつ手に取って、その中の一つを指して『これに間違いない。歯並びが繁だ』と自信を持って言っていた」と昭さんは母親の戦後の区切りとなった当時を話していた。 

沖縄戦ではまた父親の哲雄さんも真壁村真壁の壕内で自決の道を選んだ。致死量をはるかに超えるというヘロイン5グラムを服毒したが、米軍に発見されたのが早く一命を取り留めた。長女の※※民子さんはこう言う。「父は典型的な軍国主義だったのだが、米軍に助けられて戦後はだいぶ変わった」南部で避難の途中、哲雄さんは日本軍の横暴を見て考えを大きく変えさせられている。壕の中に避難している時に、日本兵らが入って来た。「民間人は出て行け。ここは軍が使う」。怒った哲雄さんは「民間人を守るのが務めではないか」と言い、聞く耳を持たぬ日本兵たちに「私の息子は陸軍中尉と少尉だぞ!」と続けた。だが、返って来た言葉は「何言っているんだクソじじい」だった。「父はそのことをいつも持ち出して『あれでは戦争に負ける。人間がなってない』と言っていた。軍人を尊敬していた父にとってはよほどショックだったのでしょう」と民子さん。軍医の2人に加えて、四男・昭さんが陸軍航空整備学校、五男・宏さんが海軍飛行予科練習生へと進んでおり、※※家は“軍国一家”だった。疎開地から送られて来た手紙で一つだけ残ったものがある。哲雄さんらが親代わりとして育てたおいの※※成健一さん(当時11歳)の手紙だった。
「(略)あのにくい米英のやつらが沖縄を空襲したためたべ物がないと聞いて『よし沖縄の仇はかならず僕らがやると心できめました』。お父ちゃんも安心してください。宏兄さんも入隊しましたので家がからっぽになりました。いまでは、わが『特別攻撃隊』がめざましい働きをしています。僕たちもそのいきで沖縄の仇をうつつもりです。お父さんもおからだを御だいじに。」
民子さんが「小さい時から飛行機が好きで、整備学校に決まった時は“操縦士でない”とこぼしていた」という昭さんは「兄2人が医者になっていたので、父からは小さいころから何やってもいいと言われていた。当時は軍人となるのが一番の奉公。志願して入った」と言う。「だが、新聞に米軍の慶良間上陸が報じられた時、何にもやる気がなくなった。上官の命令も聞かない。すべてをテーゲー(いいかげん)に―。家族も何も私らに守るべきものはなくなったのだから…」と話す。

《「疎開地からの手紙」 (1984年) 琉球新報「戦果を掘る」》