琉球新報『戦禍を掘る』不発弾

 

1974年3月2日 - 聖マタイ幼稚園 不発弾爆発

米軍に多くの土地を奪われ、密集した土地に住むことを余儀なくされた小禄で、不発弾が幼稚園を襲った。

 

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沖縄戦後史」P154(1974)

事件・事故/不発弾爆発 聖マタイ学園 爆発で飛ばされた残骸で穴があいた屋根 : 那覇市歴史博物館

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那覇市歴史資料室収集写真(1974)

事件・事故/不発弾爆発 聖マタイ学園 爆発で飛ばされた残骸で穴があいた壁 : 那覇市歴史博物館

 

 事故直後から、遺族や被害を受けた約50人が「事故は戦争を起こした国の責任」と、被害補償を求め何度も国に要請した。しかし国には不発弾爆発事故を扱う窓口がなく、対応さえされなかった。事故から9カ月後に国が出した回答は、責任の所在があいまいな「見舞金」の支給だった。

 「事故から40年たつが、状況は変わらない」と鬼本さんは強調する。2009年、糸満市小波蔵の工事現場で不発弾が爆発。重機を運転していた男性が重傷を負った。県内では今も不発弾の発見が相次いでいる。

 「不発弾は戦争の負の遺産。それを日本の一部の沖縄の人が背負わなきゃいけない構図は、今も続いている。大多数の民意が無視されて、辺野古に新しい基地建設が強行されようとしているでしょう」

不発弾の恐怖今も 幼稚園で爆発から40年 | アーカイブ記事 | 沖縄タイムス

 

琉球新報『戦禍を掘る』不発弾 

薄れてゆく警戒心 ~ 9年前に惨事 一つ間違うと爆発

 「地獄でした。地中に埋まった不発弾は戦争そのものよりも恐ろしい。不発弾を侮ると大変なことになる。あんな事はもう二度と起こってほしくない」

 

 9年前、那覇市小禄の聖マタイ幼稚園前不発弾爆発事故で巻き添えをくった同市小禄、上原ヨシさん(72)は忌まわしい記憶をよみがえらせながら、恐ろしい体験を語ってくれた。上原さんは爆発で左腕をけがした。

 

 昭和49年3月2日。小禄の聖マタイ幼稚園前では朝から雨水管敷設工事のパイル打ち込み作業が行われていた。そしてすぐそばの聖マタイ幼稚園では、ちょうどひな祭りのお遊戯会で、父母や子供たち約400人が集まっていた。園児たちはパイル打ち込みの音を気にしながら「ひなまつり」の歌をうたっていた。その終わりの一節をうたっている時だった。突然、「ズドン」という大音響とともに激しい爆発が起こった。

 

 砂があたり一面に飛び散り、工事に使っていた長さ約7メートル、幅40センチの鉄パイルがおよそ100メートルも吹き飛ばされた。クレーン車もメチャメチャに破壊され、パイル打ち込み作業をしていた重機の運転手と助手ら3人が即死、幼稚園の砂場で遊んでいた3つになる女の子が爆風で飛び散った土砂に埋もれるなど合計4人の死者と32人の負傷者が出た。まれにみる大惨事だった。「戦争はまだ終わっていない」―だれもがそう思い、悲しみとやり場のない怒りに震えた。

 

 豊見城村伊良波に住む大城ミツさん(52)は二女の洋子さん(11)とともに事故に遭った。大城さんは「あまり思い出したくないんですが…」と言いつつも当時の模様を語ってくれた。大城さんの長女が聖マタイ幼稚園に通っていたため、その日、長女を迎えに行き、洋子ちゃんにせがまれて一緒にブランコに乗ったところ、突然、ドドーンという地鳴りのような大音響とともに、一瞬のうちにミツさんは土砂に埋まった。洋子ちゃんは爆風で10メートル以上も吹き飛ばされた。大城さんは付近にいた人たちにすぐに救助されて九死に一生を得、洋子ちゃんも軽いけがで済んだ。「今でもパイル打ちの音を聞くと気分が悪くなる」と大城さん。現場にはあれ以来一度も近寄ったことがないという。

 

 今年6月、あの時の事故から9年の歳月を経た現場では、十分な磁気探査を行った後、雨水管敷設工事が再開された。聖マタイ幼稚園も、破壊されたブランコ、すべり台が新しく設置され、子供たちが無邪気に遊んでいた。それを見ていると9年前に忌まわしい爆発事故があったとは想像し難い。年月がたつにつれて人々の心から不発弾に対する“警戒心”が薄れていくような気がする。確かに素人目にはあの赤さびた“古い鉄のかたまり”が爆発するとは考えられない。しかし、ここで再び小禄の爆発事故を振り返って、不発弾の“恐ろしさ”を再認識する必要がある。

 

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 今度、那覇市牧志の繁華街で発見された不発弾も9年前の聖マタイ幼稚園で爆発した不発弾と同じ規模のものだ。その撤去作業が16日に行われようとしている。

(「戦禍を掘る」取材班)

1983年11月15日掲載

 

まだ地中に3千トン ~ 全部処理するのに60年

 不可視の地中に眠る不発弾。戦争の危険な置きみやげは、戦後38年たった今でも県民の生命を脅かす。16日、那覇市牧志で行われる不発弾の撤去作業で国際通りは一時交通がストップする。

 

 県の消防防災課のまとめた不発弾の資料によると、沖縄戦で使用された砲弾などは、約20万トンとみられ、このうち5%にあたる1万トンが不発弾と推定されている。そのうち、復帰までに住民などによって約3000トン、米軍によって約2500トンが処理された。復帰後は自衛隊によって昭和56年までに約600トンが処理された。永久不明弾を見込んだとしても、なお3000トン以上の不発弾が埋没している勘定だ。陸上自衛隊不発弾処理隊の話によると単純に計算してこれらの不発弾を全部処理するのに60年かかるという。気の遠くなる話だ。

 

 これらの不発弾は、警察を通じて陸上自衛隊特別不発弾処理隊が回収、処理して一時保管庫に搬入した後、爆破処理や海上自衛隊による海中投棄処分が行われる。

 

 不発弾の処理については事前探査・発掘・除去対策などを協議するため、昭和49年5月に「沖縄不発弾等対策協議会」が設置されている。これは、昭和49年3月、那覇市御黒で下水道工事中に三十数人の死傷者を出す不発弾爆発事故が発生したが、二度とこのような惨事を繰り返さないよう対策を協議するため設置された。住民からの情報に基づいて、毎年、探査発掘計画を作成し、埋没不発弾の処理作業を行っている。昭和49年度から56年度までに354件が撤去された。

 

 埋没不発弾の市町村別処理状況をみると、昭和49年度から57年10月31日までの間に、多い順に那覇市50、糸満市43、上野村36、平良市23、石垣市21、中城村20、豊見城村18、東風平町13、浦添市12、西原町10、具志頭村10となっている。明らかに不発弾が南部に集中しているのが分かる。

 

 不発弾の処理量の推移(陸上自衛隊分)を見ると、昭和47年6トン、48年54トン、49年78・3トン、50年48・9トン、51年51・4トン、52年63・6トン、53年52・5トン、54年58・3トン、55年50・4トン、56年81・5トンとなっている。

 

 大型爆弾の処理状況(陸上自衛隊分)を見ると、1トン爆弾が昭和49年に東風平町東風平で1個処理されている。この時は住民2500人が避難した。また、500キロ爆弾が昭和52年、53年、56年にそれぞれ1個ずつ。350キロ爆弾が49年に2個、50年3個と合わせて8個処理されている。圧倒的に多いのが250キロ爆弾で49年から56年までに100個処理されている。次いで50キロ爆弾が155個処理されている。その他では艦砲16インチが17個、艦砲14インチが7個、500キロ魚雷が1個、1トン機雷が1個、250キロ機雷が3個などとなっている。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年11月16日掲載

 

県下全域に埋まる ~ 工事前の探査が事故防ぐ

 昭和49年3月2日、那覇市小禄の聖マタイ幼稚園傍らで悪夢のような不発弾爆発事故があってすぐ、5月13日には沖縄不発弾等対策協議会が発足した。この協議会では工事に入る前に不発弾が埋まっていないかどうか事前の探査に力を入れるよう強調している。以後、兼愛では不発弾を探査する磁気探査業社が次々設立された。現在、県内の業社は大小合わせて11業社がある。

 

 聖マタイ幼稚園傍らの爆発事故も、事前の探査があれば惨事を招かずに済んだ。探査をせずにいきなり本工事に入ったため、重機が不発弾に触れたのである。今度発見、16日に撤去された那覇市牧志の不発弾も探査なしの本工事の途中に重機が不発弾に触れて発見されたものだった。

 

 磁気探査は宅地や下水道などの公共工事現場に、不発弾が埋まっていないかどうか探査するもので、水平探査と延垂探査がある。現在の水平探査機能は250キロ級の大型爆弾なら2メートルまで、それ以下の小型爆弾なら1メートルまで探査可能だ。それ以上に深く掘る工事ならば拠点をボーリングして延垂探査する。第2次大戦で砲弾が撃ち込まれた地域は要注意だ。実際、探査の結果、1個も不発弾が発見されない場合もあり得る。しかし、それは「たまたまその場所に不発弾がなかった」というに過ぎない。沖縄全域が戦場になったのだ。

 

 聖マタイ幼稚園傍らの事故以来、県民の不発弾に対する関心も高まってきた。磁気探査業界でも探査機器の整備で需要に応じている。最近の例では浦添市伊祖の大公園2万5000平方メートルの探査を請け負った業者が手りゅう弾や5インチ艦砲弾など20発を探しあてた。また、嘉手納町の新設高校予定地約4万1000平方メートルでは対戦車用の徹甲弾100発、手りゅう弾や艦砲弾など19発が発見されている。

 

 発見される不発弾は米軍のものばかりではない。日本軍の陣地や弾薬庫のあった場所では日本製の迫撃砲弾や地雷がよく発見される。日本軍のものはだいたい小型、米軍のは大型がよく発見される。

 

 旧日本軍の弾薬庫があった糸満高校グラウンドは昭和53年に発掘されたが、そこからは5インチ艦砲弾や81ミリ迫撃砲、手りゅう弾など48発がみつかった。この時の発掘作業は大戦中に弾薬庫として使用されていた壕を付近の人が見ており、その情報に基づいて行われたもので、奥行き40~60メートルの地下壕だった。糸満高校ではそれまで生徒のキャンプファイアーを禁止していた。

 

 糸満高校の例のように、不発弾が明かに埋まっていることが分かっている場合はともかく、戦後38年たった現在では、戦時中あるいは敗戦直後に不発弾を投棄した場所を覚えている人は少なくなった。ましてや、今度、那覇市牧志で発見された不発弾のように何度もビルが建て替えられているような地域でも大型の不発弾が発見されることがあるのだ。「沖縄全域に不発弾が埋没していると考えてよい」と磁気探査業者は強調する。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年11月17日掲載

 

相次ぐ避難騒ぎ ~ 豊見城村 月平均3回の割で発見

 不発弾は沖縄本島の場合やはり中南部に集中している。那覇市糸満、中城、豊見城、東風平、大里村などが不発弾の多いところだ。特に豊見城村では10月28日現在で31件の不発弾処理作業が行われている。対策本部を設置して住民を避難させた大がかりなものも今年はこれまで3回あった。4月11日、豊見城豊見城で500キロの大型爆弾が発見された時は半径800メートル、3287戸、1万1551人が避難対象となった。また、7月30日には名嘉地で改造地雷が発見され、処理日には半径500メートル、384戸、1677人が避難。8月21日には嘉数で50キロ爆弾が発見され、半径600メートル、444戸、1981人が避難した。根差部では3月、4月、5月と同じ地域からロケット砲弾が58個も発見されている。月平均3回は不発弾の処理がある勘定だ。

 

 発見個所は村の全域にわたっている。発見された不発弾の種類も砲弾、ロケット弾、大型爆弾、小銃弾、機関銃弾、迫撃砲、改造地雷、手りゅう弾とさまざま。

 

 大型不発弾が発見された場合、村の消防がマイクで処理日などを広報する。住民の反応は「あれ、また出たの」という具合でもうすっかり慣れっこになってしまっている様子だ。

 

 「豊見城村は、海軍壕、海軍病院など陣地が幾つもあった。今の豊見城団地、村役所の後ろにも陣地があった。米軍が陣地を追っかけて地雷を埋めたり、攻撃をしかけてきたため、不発弾が多く残った。特に海軍壕の周辺は不発弾が多い」と金城利一村長は説明する。

 

 豊見城村は村の約3分の2が畑地。ユンボで畑を耕している時に発見されるケースが多い。昔はくわやスコップで畑を掘っていたが、最近はユンボで深く土を掘り起こすようになって不発弾が発見されるケースが多くなった。

 

 畑地で不発弾が発見された時、周囲に土のうを築き安全を保つのも村職員の仕事。不発弾が発見されるたびにその作業に駆り出される。

 

 「足場の悪いところに土のうを築いたりするのは一苦労ですよ」と村の防災担当職員の話。

 

 同村では大型不発弾が発見された際、事前に警察、学校、区長らが集まって対策協議会を開き処理日の日程などを決める。処理当日は、村の職員、警察、消防員などが道路の封鎖や村民の誘導にあたる。

 

 「手間ひまはかかるが人命を守ることが何はさておいても優先」と金城村長。終戦当時は12歳。糸満で捕虜になるまで南部各地を逃げまどったという。

 

 「米軍は戦争の後始末をせずに行ってしまった。不発弾の撤去作業は、これからも村の重大な仕事」と金城村長は語った。

(「戦禍を掘る」取材班)

1983年11月18日掲載

 

発見の93%は工事で ~「偶然」が「危険」を暗示

 復帰後、不発弾の撤去作業は順調に進められている。撤去される不発弾の93・5%は工事などで偶然に見つかる弾だ。残り6・5%が、一般の情報によって発見された埋没弾。わずか6・5%の埋没弾だが、情報は未然に事故を防ぐ。49年5月13日に発足した沖縄不発弾等対策協議会(会長は総合事務局の開発建設部担当次長)では1個でも早く撤去する方針で、一般からの重砲収集に力を入れている。

 大戦時や戦争直後の状況を覚えている人の情報で埋没弾が撤去されることも多い。昭和52年、那覇市安里の住宅密集地で、1カ所から661発の不発弾が発見されたことがある。情報提供者は同市安里の山城正憑さん(80)だった。

 山城さんは自宅近くの住宅建設地が大戦当時、日本軍の高射砲陣地で陣地攻撃のためアメリカ軍機に爆弾が投下されたことを覚えていた。この爆弾のため直径10メートルほどのすり鉢状の池ができ、戦争直後、そこが不発弾の投棄場所になっていた。が、いつの間にか池は埋められ広場になった。家を建てる時点で不発弾のことを覚えていた山城さんは、その時のことを思い出し事前に警察に情報提供した。

 今でこそ、不発弾の恐ろしさが周知徹底されるようになっているが、復帰前は、不発弾の盗難事件もよくあった。不発弾を切って爆薬を抜き取り密漁に使っているといううわさが絶えなかった。

 県内で発見される不発弾は、米軍用、日本軍のほとんどの型が発見される。その種類は、弾薬別ではりゅう弾、発煙弾、黄燐発煙弾、照明弾、徹甲弾、対戦車りゅう弾、焼夷弾など。また、発射、投てき別では陸上砲弾、艦砲弾、迫撃砲弾、ロケット弾、爆弾、手りゅう弾、小銃てき弾、地雷などがある。手りゅう弾などは信管の構造が単純で発火しやすい。

 これらの不発弾は一般の情報や磁気探査による発見で警察に届け出た後、警察、県が自衛隊に処理を要請し、自衛隊は特別処理隊を編成して撤去作業にあたる。撤去された不発弾は最終的に自衛隊によって処理されるが、一時的に保管される施設が今年5月、米軍嘉手納弾薬庫内に完成した。それまでは糸満市内にある伊保島の民間の火薬庫に保管を委託していた。

 さる16日、那覇市内の中心街、牧志2丁目で建設工事の際、偶然に発見された250キロ爆弾も無事に撤去されことなきを得たが、さまざまな種類の不発弾が県内いたる所に埋まっていることを思えば、本工事に入る前の磁気探査はもっと重要視されていいのではないか。磁気探査業社が沖縄だけでも11社もあるということが、不発弾に対する恐怖を物語っているといえるだろう。「偶然に発見された」ではあまりにも危険が大きい。銃器が不発弾に触れて爆発しなかったことこそ「偶然」といえる。

(「戦禍を掘る」取材班)

1983年11月21日掲載