琉球新報 戦禍を掘る 浦添市城間 石第3595 柴田隊

 

琉球新報 戦禍を掘る 石第3595 柴田隊

 

壕で散った炊事兵 ~ 婚約者の写真、肌身離さず

 沖縄には1万余柱というおびただしい遺骨が今も放置されたまま土中で眠っていると同時に、それ以上の遺骨が収骨されても身元が分からないため、共同墓地に弔われている。身内や友人、戦友が、いつ、どこで、どのように死んでいったかを知らない人は多い。また、逆に、そのもようを見聞きして知っている者が、遺族に、関係者にそれを報告したい―、そう思っている人も少なくない。

 

 「三重県桑名の人と聞いています。170センチぐらいで色白の好青年でした。年は25~6歳だったと思います」と中村権太郎軍曹を語る西原浩さん(60)=浦添市城間。

 

 昭和19年夏。城間に陣地を構えた石第3595柴田隊。西原さんの自宅も同隊に使用されていた。そのため、中隊炊事班として同隊に入隊してきた中村軍曹とは年が近いこともあって仲がよく、毎日のようにいろんなことを話し合った。

 

 西原さんはその思い出話を楽しそうに、しかし、寂しそうに語る。「こちらに来た時は伍長でしたが、すぐに軍曹になったので、みんなでお祝いしたのを覚えています」「いつもニコニコしていて、とてもやさしい人でした」。

 

 翌20年に入ると柴田隊は浦添市字西原にある自然壕に移った。壕は奥行きが10メートル足らずの小さなもので三つの壕が並んでおり、真ん中の壕を炊事班が使った。壕には日本兵や防衛隊のほか、地元の女性もおり、炊事の手伝いをしていた。西原さんの寸類にあたる照屋(旧姓宮城)安子さん(53)=浦添市上港川=もその一人だった。運命の日、壕には10人ほどいた―と言う。

 

 「4月16日だったと覚えてます。私は壕の奥で昼寝をしていましたが、『ドカン』という大音響とともに辺りが真っ暗になり、何がなんだか分からぬままに手さぐりで出口を探しました。わずか5センチほどの穴から光がもれていて、そこを無我夢中でかきわけました」と語る照屋さんは爆発でただ一人助かった。「中村軍曹、同じ三重県出身の土根(とね)兵長、岩手出身と思いますが岩瀬上等兵、城間出身の宮城カメ子さん、私の姉・宮城澄姉さん、みんなダメでした」。

 爆音は壕口に落ちた不発弾を処理しようとした時に米軍の艦砲射撃を受け、爆発したものだった。処理にあたっていた3人はむろんふっとび、壕の中にいた日本兵や女子炊事係ら10人ほどが一瞬のうちに散り、壕が埋まった。

 西原さんは言う。「許嫁と思いますが、中村さんは着物の似合う女性の写真を大事そうに持ってました。きれいな人でした。それをうれしそうにもったいぶって見せるんですよ」。そんな中村軍曹の死が無念で、西原さんは、せめて遺族に最期のもようを告げたい、と思い戦後、三重県庁と政府に遺族照会をお願いしたが、なしのつぶてだった。

 遺骨は戦後、地元の人の手により収骨され、浦添城跡内にある「浦和之塔」に納骨されているという。この塔は軍人、軍属、民間人ら5000余柱をまつっている。西原さんたちも何度か、そこに訪れ、手を合わせた。そして合わせる度に、遺族に告げたい―という思いを強くする。

1983年10月19日掲載