琉球新報「戦禍を掘る」糸満市真栄里の壕 (1983年)

 

 

琉球新報「戦禍を掘る」糸満市真栄里の壕 

壕内に死者葬る ~ いたる所に散る軍靴

 糸満市真栄里の「山形の塔」。山形歩兵第32連隊(山3475)最期の地に建てられたこの碑は、沖縄での戦没者ら4万余柱をまつっている。各県の慰霊碑が並ぶ摩文仁から離れているため、訪れる人は少ない。その碑の下、「中核台」と呼ばれた連隊本部陣地壕跡には、今なお収骨されぬ遺骨が眠っている。

 「壕の奥に大きな岩の割れ目があり、数メートルの深い穴があいている。そこに亡くなった人を次々投げ込んでいました。記憶しているだけで10人ぐらい。私は途中、壕を出たので、はっきりとは知らないが、2~30人は」と語る沖縄キリスト教短期大学の松田定雄教授(59)。

 松田さんは昭和19年10月、山部隊に入隊。翌20年4月、同連隊で糧秣(りょうまつ)を担当、6月には真栄里にあった連隊経理部壕に移った。7月2日、命令で壕を出て国頭に向かうが、その間、本部壕にあふれる重傷兵が息絶え死んでいくのを何人も見ている。

 20年6月4日夜、前にこの欄で書いた「大城森」の陣地壕を後に連隊本部は「真栄里」の壕に移動した。が、戦火が激しさを増すとともに壕の中は多くの傷病兵で埋まった。最初、死者は入り口近くに埋葬した。しかし、銃を構えた米軍が本部壕を取り囲み“馬乗り攻撃”をするにいたり、壕の外に出すこともできず、深い縦穴に葬った。当時のもようを「霞城聯隊の最後」(高島勇之助著)にはこう記されている。

 「入り口をふさがれた壕内は終日真っ暗闇で換気もなく、百数人の人いきれと、むし暑さで、重傷者は次々と死んだ」「排便尿を壕外に運び出せず、腐ったふん尿と戦友の死体の悪臭は壕内に充満した」「何千、何万ともしれぬはえが発生した」「重傷者の中から発狂者が続出した。近くに敵兵がいるのに突然大声をあげ、暴れ回る」

 松田さんとともに壕に入った。すぐに20坪ほどの“大広間”に出る。暗やみを電灯で照らすと、いたる所に軍靴が散っていた。大きな割れがめもあった。右側の通路を行く。天井は低く、足元には大小の岩がころがり、歩きにくい。よほど注意しなければ、天井から飛び出た岩に頭をぶつけそうになる。音もなくしずくが落ちる。炊事をした所は、黒くすす跡が残っていた。大広間の奥、松田さんの言う割れ目があった。底を照らす。土砂がつもっていた。

 松田さんは復帰後、県援護課の職員とともに、この場所を確認している。硬い岩肌と深い縦穴に、職員は「機械でないと無理ですね」と語った。それ以後、収骨の報は聞かない。

 当時、連隊の旗手をしていた斉藤中二郎さん=山形県山形市=は語る。「あの穴にとむらっているのは、そんなに多くないですよ。10人ぐらいでは。仕方なかったんです。壕の外には敵軍がおり、そのままにしておくわけにもいきませんから。投げ捨てたんではありません」。外に出られず激臭とウジとハエの中で、死者を穴に葬ることは当然なことだと思う。「仕方がなかった」「投げ捨てたんではない」と繰り返す斉藤さんの言葉が耳に残った。

(「戦禍を掘る」取材班)

1983年11月24日掲載

 

腐乱した臭い漂う 山部隊に追い出される

 「真栄里」の壕は自然洞穴に手を加えただけの壕。土地の人も部隊も「自分たちが造った」という。

 台32連隊を書いた「霞城聯隊の最後」には、「大城森」から連隊本部の先発隊が「真栄里」にやってきた時のもようをこう記している。「空巣を狙って既に第二十四師団の今井隊と婦人、部落避難民らが占拠していた。連隊の入壕を告げると今井大尉が拒んだため『この壕はわが連隊第三大隊が造ったもの。片隅の使用を許す。その外は全部開け渡せッ』と叱咤した」

 一方、地元の人は「山部隊に追い出された」と言う。戦前から真栄里に住む国吉マサ子さん(64)もそう語った。「あの壕はもともと集落の人が見つけ、整えた民間壕です。ふだんはあまり使ってなかったが、戦火が激しくなった5月ごろから入った。それが、突然大城森からやってきた山部隊に追い出されました」。

 壕を出た字民のほとんどが山原などに疎開するなか、国吉さん一家は、喜屋武に向かった。というより、「人が歩く流れに従って歩いていたら喜屋武に着いていた」。そこで2週間ほど過ごした。食べるものもなく、当時26歳のマサ子さんは10カ月になる長男を抱き、4歳の長女の手をひき、弾の中を逃げまどった。おじいさんはそこで砲撃を受け亡くなった。

 「もう死ぬものと決めてました。だから、どうせね、死ぬんだったら、生まれ育った所がいい。そう決めて真栄里に戻りました」

 集落に帰っても、家は既になく、2、3日は畑のすみで隠れるように過ごした。「こんな所にいたら弾に当たって死んでしまうよ」と通りすがりの兵に言われ、「真栄里」の壕に入れてくれるよう、頼みに行った。

 「おばあさんと主人が行ったんですが、その日がちょうど“馬乗り”していた敵軍が引き払って数日しかたってなかったこともあり、最初は『スパイ』呼ばわりされました。運良く、兵の中に以前から知っている人がいたため、疑いははれ、入壕を許されました」とマサ子さん。夜になると食料さがしで外に出て、米軍の缶詰や畑の芋を取ってくる毎日だった、壕生活は2カ月近く続いた。

 壕の中は、“大広間”には死体が放置され、それが腐れ、腐乱したにおいが漂っていた。

 現在、国吉さんの家は「真栄里」の壕とは目と鼻の先。しかし、マサ子さんは、それ以来、壕に入ったこともなければ、あの場所に行ったこともない、という。「まだ、あのにおいが残っているようで、恐ろしい」

 「二度と、もう二度と戦はごめんです。もう思い出したくもない。私は子供がいたから、生き抜いてきたんです。この子のために、そう思って頑張りました。この子がいなければ、さっさと死んだ方がどれだけ楽か。生きていることが悲しい時代でした」

(「戦禍を掘る」取材班)

1983年11月25日掲載

 

1等兵が狙撃した 見たバックナー中将の死

 真栄里での戦争秘話として松田定雄さんはバックナー中将戦死の話をした。

 沖縄戦における米軍最高指揮官、サイモン・B・バックナー中将は昭和20年6月18日午後1時15分、高嶺村(現在の糸満市)真栄里の高地で戦死した。

 それをUP電(現在のUPI通信)は次のように報じた。「バックナー中将は丘の岩に腰を下ろし、米第8海兵連隊の作戦を見ていた。突然日本軍の砲弾二つが飛んできて、その第1弾がバックナーの近くに落ち、弾片が彼の胸を貫通した。10分後、死亡した」

 「昼食を済ませた後だったので、時間も場所もピッタリ。彼は私のいた経理壕の監視兵に撃たれたのです。間違いありません」と松田さんは語り始めた。

 その日、壕内で食事をとった後、松田さんは「新鮮な空気を吸いたく」外に出た。監視兵の小野1等兵が「静かに」と人指し指を口にあて、黙ったまま、前方百数十メートル先の小高い丘を指した。見ると、ジープが止まり3人の米軍将校が立っている。「撃ちましょうか」と軽く言う小野1等兵の言葉に「上官の命令がない限りだめだ」と松田さんは止めた。

 3人の将校のうち、一番年のいった1人が、帽子を取り、ハンカチで汗をふいた。「あの、偉そうな奴をやっちゃいましょう」と言った瞬間、砲口が火を噴いた。倒れる将校にかけ寄る2人の将校。「やった」と小野1等兵。倒れた将校を乗せたジープが慌てて立ち去った。

 撃たれた将校がバックナー中将だと、松田さんが知ったのは、終戦から7年経った27年3月だった。「妹夫婦らと南部戦跡めぐりの途中、『バックナーの丘』に立ち寄った。当時はそこに銅板の説明書きがあって、それを読むと日付が記されている。ピッタリなんです。あの時小野1等兵が撃った時間と場所が。驚きました」

 小野1等兵は東京都出身で翌19日には戦死した、という。厚生省にその人物を問い合わせた。出身地、階級等で該当する人物は見当たらない、との回答だった。

   ○   ○   ○

 戦争の話をすると体験者はだれも目をうるます。そして出来ることなら忘れたいという。松田さんもそうだった。マサ子さんもそうだった。

 松田さんは30年前、奥さんの其枝さん(旧姓田場)と戦争の話をした。「妻はひめゆり部隊の生き残り。同じころ、同じ場所で、同じような体験をしている。そんな人と戦争の話をすると、戦争がよみがえってくるんです。目の前に、あの異常な世界が迫ってくるんです」。夜眠れない日が続き、とうとう通院しなければならぬほどになった。それ以後、二度と夫婦では戦争の話はしないと決めた。

 マサ子さんは最初、話をしてくれなかった。「忘れたいのに、どうして聞くの」と言われた。沖縄戦で祖父ら3人が死んだ、という。

(「戦禍を掘る」取材班)

1983年11月29日掲載

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■